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 それは、春先の出来事だった。  高校生になってすぐの春の日。  青春の一ページ目となる入学式の日。  僕は恋をした。    学校見学と入試、それから合格発表。  今まで3往復しか使っていない道を、僕は学校に行くために歩いていた。  傍に桜の木が並ぶ川沿いの小道。  人なんて殆ど通っておらず、民家の陰に隠れて日も当たらない。  そんな、美しさと寂しさを兼ね備えた道を歩いていると、僕の正面から一人の女性が歩いてきた。  腰まであるかないかの綺麗な黒髪が自然と僕の目を惹く。  その女性は灰色のレディーススーツをぴっちりと着こなしており、その顔には緊張の色が浮かんでいた。  多分、彼女は新卒社会人だ。  彼女は僕とすれ違う際、僕の顔を見て一瞬だけ驚いた顔をした後、微笑んだ。  僕が彼女に恋をしたのは、その時に見た顔が本当に美しく、見惚れたからだ。  恋の動機にしては乏しいのかもしれない。ありふれた動機なのかもしれない。  それでも、僕は確かにその女性に恋をした。    それから毎朝、僕は学校に向かう途中で彼女とすれ違った。  桜が散った後も。暑い季節も。寒い季節も。再び桜が咲いた後も。  僕はその道を通る時、必ず彼女とすれ違った。  その度に僕は彼女に惹かれていき、想いは膨らんでいった。  次第に想いは抑えることができなくなり、初めて彼女と出会った時から3度目の冬が来た頃、僕は彼女に声をかけた。 「おはようございます」  そんな単純な挨拶だった。  普通、よくすれ違うだけの人間にいきなり声をかけられたら、少なからず恐怖を感じるのだろうが、彼女はそんな様子は少しも見せず、僕に挨拶を返してくれた。 「おはようございます」  彼女が放った言葉は、僕と全く同じものだった。  当たり前か。ただ挨拶をしただけなのだから。  僕はこの時、初めて彼女の声を聞いた。  とても、綺麗な声だった。  女性らしく高い声。それでいて、しっかりと芯の通った声。  端的に言うのであれば、“凛”という言葉がぴったりと当てはまる声だった。  この日から、毎朝挨拶を交わすのが日課となった。 「おはようございます」 「はい。おはようございます」  はじめはこの程度だった二人の会話は、何度も繰り返す中でほんの僅かにだが変化していった。  夏の日の朝は「今日も暑いですね」と僕が言い、「そうですね」と彼女が返してくれる。  冬の日の朝は「今日も寒いですね」と僕が言い、「そうですね」と彼女が返してくれる。  僕と彼女の距離は縮まっていった。  このままいけば、僕は彼女と親密な関係になれるのだろうと思った。    彼女と初めて出会った春を含め、4回目の春が来た。  高校を出た僕は就職をした。  彼女との関係を続けるため、同じ道を通っていける場所に務めることにした。  初出勤の日、それまでと同じように桜が静かに咲く小道を僕は歩いた。  いつも通り彼女と挨拶をして、今日も1日頑張ろうと考えていた。  珍しく、この道で彼女とすれ違うことがなかった。  この日を境に、彼女とすれ違う頻度は少なくなっていった。  夏になる頃は2日に一度。秋になる頃には4日に一度。  冬になる頃には彼女とすれ違うのは1週間に一度だけになった。  そして再び春が来た。  僕の元にも彼女の元にも、平等に分け隔てなく春が来た。  この春から彼女を見かけることはなくなった。    僕はそれからも毎日毎日、川沿いにあるその小道を通り続けた。  いつか再び彼女に出会えると信じて、僕はその道を通り続けた。  雨の日も晴れの日も。春も夏も秋も冬も。  僕は小道を通り続けた。    彼女を見なくなり、1年が経過した。僕は二十歳になっていた。  まだ僕は桜の咲く川沿いの小道を歩き続けている。  毎日毎日飽きることなく。最近では仕事の無い日も歩くようになった。  彼女に会えない日が続くほど、彼女に対する僕の恋心は増幅していく。  すると、次第に彼女との恋人生活を妄想するようになっていく。  彼女と恋人関係になったら、二人で映画館に行って一つのポップコーンを分け、流行りの恋愛映画を見たい。  休みの日には家で仲良くゲームでもやりながら1日を消費したい。  仕事のある日には互いに上司の愚痴を言いながら晩酌をしたい。  あれもしたい。これもしたい。  もう僕の恋心は抑えられなくなっていた。  どうしても彼女に会いたい。  会えたのなら想いを伝えたい。  彼女を自分のものにしたい。  彼女は僕のものだ。僕のものだ。僕のものだ。僕のものだ。  そんなことを考えるようになってすぐ、彼女は僕の目の前に現れた。  いつも通り桜の咲く川沿いの小道を歩いていると、目の前から夫婦が歩いてきた。  男性の方は背が高く、短髪で、すごく…その、イケメンだった。  EXILEにいても違和感が無いほどの容姿をしており、男の僕でさえ彼を見てドキッとしてしまった。  女性は男性よりも頭ひとつ分ほど背が低く、暗いブラウンに染められたセミロングの髪の毛が魅力的だった。  正面から歩いてきた美男美女の夫婦と距離が縮まるにつれ、女性が小さな赤ん坊を抱えていることに気がついた。  すごく、可愛らしい赤ん坊だ。  僕も、彼女と恋人同士になり、将来は結婚をしてこんな可愛い子供を授かりたいなと考えていた時、不意に声をかけられた。 「こんにちは」  凛とした声の主は、赤ん坊を抱えた女性だった。 「あ…こ、こんにちは」  僕が呆然としながら挨拶を返すと、彼女は僕に向けて軽く微笑み、「お久しぶりですね」と言った。  目の前にいる茶髪の女性は、僕が片思いをしていたあの女性だった。 「…結婚したんですね」 「ええ。ちょうど一年くらい前…」  それから僕は彼女と話をした。  彼女の旦那さんには少し申し訳なかったが、僕は彼女と長い時間をかけて話をした。  まるで、今までほとんど会話をしなかった分、それを埋め合わせるようにたくさんの話をした。  初めて僕が彼女とすれ違った時、彼女が僕を見て微笑んだのは、僕の顔が異常なほどに緊張していたからだと彼女は言った。  彼女は緊張する僕を見て、自分と同じだと思うと可笑しくて、思わず笑ってしまったのだそうだ。  彼女がこの道を歩かなくなったのは、結婚をして嫁に行ったためだった。  今日この道を彼女が歩いていたのは、生まれた子供を彼女の両親に見せに来たついでだったらしく、またこの場所から、この街自体からいなくなるそうだ。  結局、最後まで彼女の名前は聞かなかった。  聞いてしまったら彼女に固執してしまうと思ったからだ。  僕はもう彼女を忘れ、恋に囚われずに生きるべきなのだ。  最後の最後で、一度だけ彼女の子供を抱っこさせてもらった。  目元が彼女に似ていて、とても可愛らしかった。  後になって考えてみれば、僕が彼女とまともに話をしたのはこの時が最初で最後だった。  赤ん坊を彼女に返し、僕は彼女とその旦那さんに別れを告げた。  彼女は話をしている最中、とても幸せそうだった。 「そうか…彼女は幸せなのか…」  僕は彼女が幸せだと知ることができ、満足だった。   彼女が幸せなら、別に悪い気はしない。  むしろ、彼女が幸せなら僕はそれでいい。  僕は彼女が幸せならそれだけで十分だ、それだけで僕は幸せだ……  …………なんて僕は毛頭思わない。  そもそもだ。  僕は恋の相手が他人に奪われ、それにもかかわらず「相手が幸せなら自分も幸せだ」なんて言う奴の気持ちが理解できない。  恋の相手が他人に奪われているんだぞ?  自分の幸せが叶わない現実を見せつけられ、どうして幸せだなんて言えるんだ。  正気の沙汰じゃ無いな。  そうだ。彼女はきっと、僕が恋した女性では無いのだ。  だから彼女はあの旦那さんと結ばれたのだ。  僕が話をした彼女と、僕が恋した彼女はきっと別人なのだ。  だって、彼女は僕のものなんだ。  僕以外と結ばれていいはずが無い。  僕以外を好きになるはずが無い。  そんなことは僕が許さない。  許されるはずが無い。  どうして。彼女はあの旦那さんを選んだんだ…  どうして。  どうして。  どうして。  どうして。  どうして。  どうして。  どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。  僕は理解できなかった。どうしても理解できなかった。  彼女は僕の理想の通りであるべきなんだ。  僕のことを好きでいるべきなんだ。  だから僕は、彼女を僕の理想の形で止めておこうと思った。  そのために彼女の名前も聞かなかった。  彼女の名前を聞いてしまえば、理想の形を保っていた僕の中の彼女が、形を変えてしまうと思ったからだ。  こういった場合、普通の人なら彼女を殺して自分の元に置いておくか、彼女の四肢を切り取り、彼女の喉を割いて自分に従順な人間に仕立て上げるのだろう。  だけど、僕の選択は違う。  彼女に手を出せば、彼女が僕を嫌う過程を僕は見ることになってしまう。  僕はそれを見てしまったら、自分のことが嫌いな彼女の姿を自分の記憶に焼きつけてしまい、それに囚われて生きることになるだろう。  そんなものは耐えられない。      だったらあとはかんたんだ。  かのじょがぼくの理想の形をとどめている間に、かのじょの変化をとめてしまえばいい。    どうしたら変化がとまる?  そんなものは、変化をかんじる人間がいなければかんたんにとまるさ。    だからぼくは、  かのじょを  りそうのかたちで    とどめるために  ぼくをころした。
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