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 竹中大翔はいわゆる平々凡々な男子高校生だった。頭は別段悪くないし、スポーツもそこそこできた。容姿も悪くはない。ただ、それらは所詮悪くはないという程度に悪くないというレベルのものに過ぎなかった。  つまり彼はそういう男だった。  だが、そんな彼にもただ一点、人並み以上のものがあった。持ち前の根拠のない自信である。性、狷介ながら何故か自ら恃むところすこぶる厚かった大翔クンは、凡庸な高校生活に甘んずるを潔しとしなかった。何を勘違いしたか、クールキャラを推して自ら人と交わりを断ち、周囲に全く伝わらないニヒルをキメ込んだ。  モテたかったのである。  とはいえ、それでなくとも平々凡々な男子高校生なのだから当然のこと、女子生徒からの注目度は庸として揚がらず、彼のクラスにおけるポジションは次第に苦しくなる。ついにはそのまま卒業と相成った。彼は予備校生となった。  受験にも失敗したのである。  それは来ぬべき結末だった。センター試験差し迫る十二月ころから、すでにその相好も峭刻となり、成績落ちエラ骨ばかり秀で、眼光などいたずらに剣呑として、かつてハーレムルートな高校生活を夢見たころの清い少年の面差しなぞはどこへいったやも知れない。  最近では、心の貧窮に堪えず、専らただ一人マトモに会話を交わしてくれる女子であるところの実妹とのコミュニケーションに節を屈して、心を和ませている。和ませたところでそんな自分を意識してしまい、再び凹むという無限ループである。  かつての儕輩たちは各々が大学へと進学し、彼が昔「喪男」として歯牙にもかけなかったあの連中さえ、今ごろは爛れた学生生活を送っているかもしれない……などと勝手に妄想しては悶々とする日々が、往年の自信家・大翔クンのぴゅあぴゅあハートを如何に傷つけたことだったか。まあ、その辺りのことはぶっちゃけどうでもいいので、わざわざ詳述せずとも可かろう。  大翔クンは怏々として楽しまず、狂悖の性はいよいよ抑え難くなった。  やがて四月に入り、予備校に通って一週間が経ったころ。ついに発狂した。  ある夜半、夕食の席での父の一言。あれを真に受けた大翔クンは俄に顔色を変え立ち上がると、何だかわけの分からぬことを喚きつつ、そのまま二階の自室へと駆け込んだ。そうして電気も点けない闇の中で、愚図々々と一晩を泣き明かした。彼は三日もの間、父のいるダイニングへは二度と戻ってこなかったという。  その後、彼がどうなったか。真相は誰も知らない。そんな大翔クンのことだから、どうせ誰も知ったこっちゃなかったのである。 *  十二月某日。アルバイトの遠藤さんのシフトは朝六時からだった。  彼女は早朝、まだ暗いうちにバイト先のコンビニに到着した。それからすぐに夜勤明けの後輩(《王|ワン》さん)と立ち替わり仕事を始めようとしたところ、彼が中国語の気息混じりに報告するに、さきほどトイレに入る姿を見とめた男性客がすでに三十分以上経つというのに出てこない。もしこのまま引き篭もられでもしたらトイレ清掃をする時機を失してしまうから、店長に今少し早めに出てきてもらって、対応を仰ぐがよろしいでしょう、と。  しかし遠藤さんは「いやそんな何時間もトイレに篭もる人間なんていないっしょーw」という楽観的観測を恃み、生真面目な後輩くんの言葉を一蹴してレジに立った。 「………。」  三十分経った。果たして、トイレの主は一向に姿を現さない。いよいよ事件性を禁じ得なくなった遠藤さんは、おもむろに床掃除のモップで武装すると、件の使用中の扉と相対した。  とりあえずノックしてみる。 「あのー。大丈夫ですかぁ……」  扉の向こうからは、しばしの間、返辞がなかった。かまわず「もしもーし」とノックし続けていると、ややあって素っ気ない声が応えた。「入ってます」(←知っとるわい!)と心中で景気よくツッコんでみてから、遠藤さんは「はてな?」と思った。聞き覚えのある声だったからだ。確信はもてないながら、彼女は咄嗟に思い当たった人物の名を訊ねた。 「え。ていうか、竹中くん? だよね? あ、あたし、遠藤だけど――」  何を隠そう、遠藤さんは大翔クンの代の文芸部の部長であり、高校時代そもそも友人の少なかった大翔クンにとっては、奇跡的に普通に会話を交わすことのできた女子の一人だった。遠藤さんの文芸部員らしからぬ快活な性格が、大翔クンの鼻持ちならぬキャラをも遠ざけなかったお陰であろう。  厠中からは、またしばしの間、返辞がなかった。ただ時折、嗚咽とも取れるグロテスクな声が漏れ聞こえてくるばかりである。 「あ、の。ねえ、ホント……大丈夫ですか? てか、本気で具合悪いなら、救急車とか、呼びます?」とガチで恐懼する遠藤さんに、トイレの中の男子はようやっと応じた。如何にも。自分は竹中大翔である、とかなんとか。  これを聞くと、遠藤さんはようやく「はあぁ。」と安堵の息を吐いた。吐きながら何気なく自分が携えていたモップに視線を落とすと、なんだか決まりが悪いときにするように、右耳の上らへんの髪を掻きあげた。そして気持ちはにかんでみてから、やはり懐かしくも思われてきて、大翔クンと爽やかく久闊を叙した。幾分落ち着きを取り戻したらしい大翔クンの声も応えて言う。  いや、本当に懐かしい。たかだか数ヶ月振りのことだのに、本当に。……恥ずかしい話だが、俺は高校を出てよりこの数ヶ月、妹を除けば、ついぞ同年代の人間と言葉を交わすことなく暮らしてきた。それがこんなことを言ったところで到底信じてはもらえないかもしれないけれど、俺は実に、君にでも、いつか久方ぶりにメールを送ってみようかと思ったことがあったのだ。が、その文面をだに思いつけぬまま今日に至ってしまった。しかし今こうしてゆくりなく知遇に、しかも女の子に逢うことを得て、忌憚の念をも忘れるほどに、ていうかもう普通に嬉しくてたまらない! だから、厚かましいお願いだがどうか! どうか、現在の俺の醜態を厭わず、かつて君のクラスメートであったこの自分と話を交わしてはくれないでしょうか。云々。  後になって振り返ってみれば都合の良かったことに、その時分にはたまたまパッタリと客足が途絶えてしまっていて、雑誌コーナーに一人だけ、常連の老夫がジャンプを立ち読みしているばかりであった。彼のレジはさっき済ませたはずだ。  心優しい遠藤さんは、まあ別に忙しくもないしと思い、こともなげにトイレのドアにもたれかかると、見えざる声と雑談を始めた。  お互いの近況報告。  共通の知り合いの消息やら噂。  大翔クンの、妹が最近つれないという心底どうでもいい悩み。  と、それに対する遠藤さんのお世辞。 「えと。竹中くん、ほんと妹思いだよね……」  昔そこそこに付き合いがあった者同士、そこそこに当たり障りのない口調でそれらの話題が躱されたあと、遠藤さんはついに意を決して「ていうか竹中くん、トイレ長くない?」と迂遠に核心を突く質問を発した。  するとドアの向こうの声は思わせぶりに息を潜めた。何か嘲るようにぶつくさと吃り、はっきりとした答えを得ない。待つことしばし。大翔クンは如何にも勿体ぶるような雰囲気を存分に醸しながら、次のように語り出した。 「俺は、トイレに在す妖精となったのだ」 *  今から五ヶ月ほど前、俺が予備校からの帰途を急いでいた夕刻のこと。駅ビルの中へ入り、眼をやると、向こうに見覚えのある顔が見える。「君も知っているだろう、部の後輩の彼女だよ――」ちょうどビジネスホテルのフロント・ロビーの前だった。学校帰りなのだろう、制服を纏った黒髪ロングの傍らには同じ高校の男子生徒が立っている。ふとした瞬間、俺と彼女の目が遭った。  二人はそのまま自動ドアをくぐると、ロビーの中へ姿を消した。  覚えず、俺は弾かれたように途を離れた。人の気配を避け、無念無想で非常階段を駆け上がるうちに、いつしか階は七階に至り、しかも知らぬ間に自分は左手で下腹部を抑えて歩んでいた。何か股間からきゅるきゅるとひしゃげていくような気分で、耐えかねるようにトイレを覓めた。便意でか視界が真っ白となり、抗しがたい痛みにかられて腕を捩ってみると、背筋から熱い《澱|おり》のようなものを生じているらしい。稍鎮まってから、携帯で自撮りして見てみると、なんか、ファンシーな翅が生えていた。  自分は初め眼を疑った。それから、これは夢に違いないと考えた。夢の中でなければ、これは夢じゃなきゃありえないと分かってるような夢ばかりに、自分はよく捕らわれてしまう癖があったから。が、どうあっても夢じゃないと信じねばならなくなったとき、俺は困憊した。そうして酷く恐れた。全く、どんなことも起こりうるのだと悟って、酷く恐れた――だが、どうして? どうしてこんなことになりえただろう。解らぬ。全く何事も、我々には解らぬ。理由も解らぬまま囲われて、理由も解らぬまま追いやられてあるのが、我々「にんげん」の《運命|さだめ》だ。自分はいよいよ死を想った。しかしそのとき、トイレの外からJKのグループと思しき割れんばかりの嬌声が響いてきた途端に、自分のなかの人間は忽ち息の根を止めた。再び自分の中の人間が息を吹き返したとき、辺りには溶け落ちた翅の残滓が白く飛び散り、きらきらと横溢する鱗粉がマリンスノーのように注いでいた。 *  これが妖精となり初めての法悦だった。  それ以来、これまでに俺がどんなアーバン・ファンタジーを生き抜いてきたことだったか。それは到底語るに尽くせない。  ただ一日のうちでも数時間はスーパー賢者タイムが還ってくる。  そうしてメンタルと時の部屋に引き篭もり、世界と隔たっているうちには、かつての日と同じように綿密な恋愛計画をも立案しうるし、柔和な優しい眼差しで以って《乙女|ひと》の心の機微を察することもできる。こんなふうな閉ざされた異世界で、己の矮小な姿を見つめうる瞬間が、もっとも不甲斐なく、物恐ろしい。  しかるに、これでは駄目だと外へ這い出せたにしても、人並みでいられる時間は暮れやらぬ秋の日のごとく短くなっていく。以前の俺だったらば、どうしてこうなったと悩んでいただろうに、こないだふと気づいてみたら、そもそも以前なら人並みであったということさえも、俺の知らぬ間に捏造した幻惑に過ぎなかったではないかと考えていた。もうどうしようもないのだ。今少し経てば、俺の中の夢や憧憬といった蛍火は妖精にしかるべきメルヘンなリアリズムの裡に潰えてしまうだろう。ちょうど無人の蚊帳の中へ惑い込んだ一匹の蚊トンボが、何者にも触れられで息絶えてしまうように。そうなれば俺は、誰からも逃れていたい慾動を離れて、初めて一疋の妖精の死骸として野に斃れ、今日のように君が傍らに歩み寄っても目の色一つ変えず、とうとうどんな感情も感じないだろう。  一体、大人でも妖精でも、もとは何か別な何かに憧れたはずだったのだよな。  初めこそ、そのズレを感じていれたはずなのに。次第々々に慣れ腐ってしまい、初めから、そこが自分の望んだ果てだったと、済し崩しにされているのではないか?  いや。そんなことはどうだっていいんだ。俺なんか夢も憧憬もこのままに死んでしまえれば、いっそそのほうが、俺はきっとずっとシアワセになれるだろう。だのに俺はそのことで、却って身動き一つとれずにおるんだ。ああ、全く、どんなに情けなく、冷たく、狂おしく思っているだろう! 「そら、腹が痛い……!」  だが、この痛みは誰にも分からない。 「ただそれぎりのことさ。それぎりのことだけで、人はこんなにも無力になる」  だが、誰にも分からない。  たとい、俺と同じ身の上になった者があろうとも……ところで。そうだ。一つ君に言ってみたいことがあったんだが、聞いてくれるか?  遠藤さんは、往来の大翔クンらしい、はばかりにあれども相手の気持ちなどつゆ憚らぬ話し振りに辟易しつつも、どうにか一途に首肯いた。「あ、うん。聞かせて?」わりともうヤケっぱちである。大翔クンの声は構わず続ける。  ほかでもない。自分は元来リアル学園ハーレム計画を為すつもりでいた。かねてより考え出したるルート・シナリオは数十篇。もとより、どれも世に行われてはおらぬ。当時は秀逸と思われたシチュの多くも、今やベタなものとなっていよう。そのなかで、今もって暗誦せる口説き文句が数本ある。これを君に聞き届けてもらいたいのだ! いや何も、それによって今さら君の気を惹こうというのではない。恋の駆け引きはいざ知らず、ともかくも、産を破り心を狂わしてまで焦がした恋情を一度なりとも誰かに伝えれなければ、それさえ全て嘘だったことになる気がしているのだ。「だから、頼むよ遠藤さん! 愛してゐるからっ!」  遠藤さんは「あ、はは……」と若干引いたふうな笑みを浮かべつつも、厠中の声のしたいに任せた。「あ、でも。あんまし大きい声、出すのはやめようね?」  大翔クンの声はそこで、個室の中から、《適切|ジェントル》な音量で響いた。  長短平均三十秒。余韻嫋々。鬼気迫真。どれをとっても中の人の安定感を窺わせる名演である。が、遠藤さんは、漠然と、凡そ次のようにも感じていた。なるほど。彼の決め台詞がいわゆる一つの胸きゅんボイスであろうことは疑うべくもない。しかし、たとえばこれがソレ系のゲームアプリの追加ボイスだったとして。じゃあ課金したくなりますかと訊かれれば、まあ、ね? アリかナシかで言ったら(非常に繊細な判断により)ナシかなぁ、なんて。  持てる全力を出し尽くしたらしい大翔クンの声は、しかし唐突にキーを下げ、それで素のキャラとのバランスを取ろうとするように静かに失笑した。「けど、俺は今でも――」こんな卑しい存在に成り下がってしまった今でも、俺がリアルハーレム体験を元にしたためたライトノベルが、某誌で大賞を飾る日を夢に見ることがあるのだ。ウォッシュレットの上に座り、尻を丸っと出して思い描く夢にだよ? 嗤ってくれ。人並みな一歩だに踏み出せず、トイレの亡霊と成り果てたクソ野郎の末路を。(遠藤さんは何故か、昔テレビで見た、人にちっとも懐かないくせにやたら恨めしそうにこっちを見てくる、保健所で殺処分を待つ捨て犬のうるんだ瞳をフラッシュバックしながら、哀しげな気持ちで聞いていた。彼女は時偶、突発的に並々ならぬ想像力を働かせるふしがある。)折しも、雑誌コーナーの老爺はジャンプを読了し、次なるヤングマガジンへ取り掛からんとしていた。巻頭グラビアはAKBグループ。山本彩の笑顔が眩しい。  大翔クンの声は再び続ける。 *  何故こんなことになったか分からぬと、先刻は言ったが、しかしやはりそれは拙い欺瞞に過ぎないかもしれない。俺は自分のようなイケメンを世の女子共が放っとくわけがないと、満腔の自信を持って信じていた。というか、ぶっちゃけ今でも信じている。だが俺は高校生だったころ、努めて女子との関わりを避けた。フラグとは手ずから立ててやらずとも向こうから勝手に立ちあがってくるものに違いないと信じきっていたからである。  リア充は、そんな俺をメンヘラだといって嗤うかもしれない。  もちろん、かねてより親類のオバチャンたちから「ジャニーズの後ろのほうで踊ってそうw」とモテ囃されるくらいにイケメンだったこの俺に、虚栄心がなかったとはいわない。しかしそれは全然、矮小な虚栄心とでもいうべきものであった。  俺は華やかな高校生活に期待を寄せながらも、進んで女子に話しかけたり、求めてリア充グループと交わり、仲睦まじく青春ごっこに勤しむことを潔しとしなかった。己の主人公体質にあらざることを恐れるがゆえにあえて刻苦してモテようともせず。また己の主人公体質なることを半ば信ずるがゆえに、碌々としてモブい地味キャラに伍することもできなかった。俺はそうして人目を忍び、心をからかい、懊悩と寄せては返す便意に託つけて、ますます己の矮小な虚栄心を縮こまらせる結果となったのだ。  今にして思えば、俺は俺に与えられていた須臾刹那のモテ期をさえフイにしてしまったわけだ。「やはり何かしらの点で俺の青春ラブコメは間違っている。なぜなら、俺が間違っている筈などありうべくもないからだ」などという出来合いの詭弁で己の体裁を繕いながら、内実は、凡夫であることを露呈したくないという姑息な危惧と、刻苦を放逐したい怯懦とが俺の全てであったのだ。俺よりも遥かに乏しい容姿でありながら、普通に「ふつうの高校生」として振る舞ったがゆえに、カワイイ彼女との幸せスクールライフをものにした野郎はいくらでもいるのだ。  予備校生になってしまった今、俺はようやくそれに気づいた。  俺にはもはや、学園ラブコメ主人公としての日常譚は語れない。  たとえ俺が今頭の中でどんなラブコメ展開を妄想したにしたところで、それをどういう手段で実行できよう。ボッチなのに。まして、俺の頭は日毎に彼女いない歴=年齢なオッサンのそれに近づいていく。  どうすればいいのだ。俺の空費された青春は?  俺はたまらなくなる。  そんなとき俺はS公園(竹中家の近所にある史跡。江戸期の城址が残る。)の本丸にある四阿まで登り、眼下に街を見下ろしながら「死ねばいいのに……」と、誰にともなくうそぶく。この胸に突き刺した侘びしさを何処かへうっちゃりたいのだ。俺は昨夕も、そうしてS公園の階段を登った。しかし四阿には高校生カップルの先客があり、俺はただ、今登ってきた道をバックレるばかり。  誰が見てもどう見ても、一人のボッチが居場所のなさに途方に暮れているとしか考えまい。俺のティッシュの消費量が目に見えて増えたのは、夜な夜な独り、涙した所為ばかりではない。 *  ようやく外の暗さが薄らいできていた。店内に流れる有線放送から、何シーズンか前に流行ったクリスマスバラードが艶のあるビブラートを聞かせ始める。「……あ。ごめん。ちょっと待ってて。」仕事へ戻らねばならぬときが(レジのヘルプに入らねばならぬときが)訪れたから、と、遠藤さんが神妙なトーンで言った。 「お、おう。」 「ん。ごめんね」  それから付け足すように勧めることに、遠藤さんがもいちど戻るころには一旦用を足して出てきておくこと。そのときには、大翔クンと面と向かって話がしたいから。また、お腹の調子は心配でしょうが、でも大丈夫、今さっきまで元気そうに話せていたじゃんさ。 「だから、きっと大丈夫だよ……あ。ほら! ここ、ホッカイロも置いてるしさ?」  これを聞いた大翔クンは、初めて年相応の声で、僅か吹き出した。 「キミのような友人を持てたことは、俺の高校生活で唯一の僥倖だよ、遠藤さん、ありがとう。今日は、話せて嬉しかった」  言い終わって、しかし大翔クンは忽ち先刻までの痛ましい調子に戻ると――本当はこのことをこそ、まず言葉にして伝えるべきだったのだ。人として《正当|あたりき》な気持ちを蔑み、つまらない述懐ばかりナヨナヨと垂れ流したがるクズだったればこそ、こんな相応しい妖魔に身を堕とすのだ……已まず、吐ききるように言葉を継ぐに、今レジに戻ったなら、どうか男性へのお釣りの渡し方には十分配慮をしてもらいたい。接客のためではない。自分のような孤弱な若者に、この痛く淋しい過ちを、もうまたと犯させないためにである、と。  遠藤さんは「なんだそりゃw」とだけクスリと言うと、モップは置いてレジへ向かった。  しばらく経て戻ってみたが、期待した人影は見えない。遠藤さんは少しだけ唇をすぼませると、扉を二回こんこんと叩いた。返るべき声はない。「はてな?」と思い、見ると、鍵はすでにして開いていた。中を確認したが、やっぱし無人で、何故か鳴りっぱなしの音姫が、さらさらと、たださらさらと、電子的に流れているばかりである。振り返って店内を見渡したが、それらしい客はなく、例の老夫でさえすでにいなくなっていた。遠藤さんは「え、何これ。コレなんてホラー?」と思い、言いようのない後味の悪さを覚えた。それで、ひとまず仕事に戻ることにした。幸い、その日のバイトは忙しかった。まもなく店長が出勤してきた。やがて朝の通勤時間帯となり、それなりに多くの客が来店し、あたたかい飲み物が売れた。雪がたくさん降り積り、遠藤さんは店長に言われて、店の前の雪かきを手伝った。
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