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「永遠なんてない」  窓枠に肘をつき、晩夏の入道雲を眺めながらアンニュイにそう呟いた私を、後輩は気味悪そうに見て、言った。 「…………えっ、どうしたんですか。暑さに頭がやられたんですか? あっ元からか」 「違わいっ」  今日も今日とて二人だけの部室。後輩は変わらず文章を書かず、私も変わらず執筆は捗らない。  ただ、最近では耳を劈くような蝉時雨も鳴りを潜め、開けっ放しの窓からは時折ひんやりとした風が吹き込むようになった。心なしか空も高くなったような気がする――もう晩夏というわけか。  空調設備のない我らが部室もだいぶ過ごしやすくなり、書く気がしないのは暑さ故という言い訳の通じなくなった私は、日々後輩からの執筆しろ攻撃に遭っているのである。……君には言われたくないよ。 「いやさ、私の頭がおかしい訳ではなくてね、後輩くん。小説書いてる時ってその主人公みたいな行動とかしちゃわない? これって割と物書きあるあるだと思うんだけど」 「俺に同意を求められたって、知りませんよそんなの。俺文章書かないし」 「そうだったな!」 「それにほら、傍から見たら変人って事実はどう足掻いても変わらないんで」 「き、貴様ぁ! 先輩にそんなことを言っていいと思ってるのか!」 「そうやって年功序列を振りかざす人は大抵無能って、相場が決まってるじゃないですか。先輩、期末の順位いくつでしたっけ? 確か下から――」 「やめろぉぉぉぉぉっ!!」  私の必死の抵抗を後輩は気に留めた様子もなく、涼しい顔で文庫本を開く。だが、半年もこいつの先輩をしていれば、後輩が私の反応を楽しんでやがることくらい容易に感じて取れた。全く以て嫌な奴だ。  ふと外を見遣ると、空は薄橙に染まっていた。ヒグラシがカナカナと何かを哀訴し、東の空には白くて細い月が浮かんでいる。夏の夕暮れは、太陽の真っ赤に燃え盛るわざとらしい時間帯よりも、今くらいの方が好きだ。空の色が、晩夏の郷愁が秋の望郷に変わろうとしていることを教えてくれる。  ――この月が次に満ちる時には、普段夜空など見上げぬ現代人が年に一度だけ零れ落ちんばかりの銀の雫に想いを馳せ、望月の狂気に浮かされるのだ。 「ねぇ、後輩くん」  ――ふとあることを思い立って、私は後輩に声を投げかけた。 「何ですか。唐突なのは今に始まったことじゃありませんが」 「君が日一日と辛辣になってる気がするのは気の所為? ……まぁいいや。あのさ、もし君が『晩夏の情景』を描写するとしたら、どんなふうに描く?」 「えっ……俺ですか?」 「他に誰がいるのよ」  珍しく後輩の驚いた顔を拝めて私は満足だ。 「えっと……この間、話しましたよね? 俺、文章は書かないって」 「うん、聞いたね」 「じゃ、なんでです。晩夏なんて、一番無理そうなテーマじゃないですか。そういうのは先輩の得意分野でしょう」  怪訝そうに訊ねる後輩だが、そう深く訊かれたって困る。何せ、私だって特段何か考えがあって言ったことでもなく、ただ単なる暇つぶしとして思いついただけなのだ。 「いやね、悪いけど私の得意分野は初夏と初秋なんだ。得意そうって言われるけど晩夏と晩秋はそんなに得意じゃないの。あ、ちなみに一番苦手なのは冬ね」 「聞いてませんけど」 「あぁ、春もそんなに得意じゃないなぁ。卒業式とかも泣かなかったし、別れの描写ができるほど悲しい別れがなかったからね」 「だから聞いてませんって」 「とにかくね、後輩くん。そう難しく考えることはないんだよ。ただ晩夏って聞いて思い浮かぶ季節感のある単語を並べてくれればいいんだ。感情なんて後からついてくるって」  後輩を無視し、言いたいことだけ言い切る私。後輩はちらりと窓の外を見遣ってから、呆れたように言った。 「……分かりましたよ。付き合ってあげます、どうせ暇なので」 「やったぜ」  右手で小さくガッツポーズを作る。付き合って「あげる」という後輩の上からな物言いも、今回は不問だ。だいたいこんなことを気にしていてはこの後輩とはやっていけない。 「季節感のある単語って、要するに季語みたいなものですよね?」 「そうそう。でも常識に囚われず、後輩くんが思う『晩夏といえば』でいいんだよ。何せこの企画は私の暇潰しに他ならないんだからね、適当で」 「…………まあいいことにしてあげます」  無礼な奴である。  後輩は窓の外を眺めると、ぽつりぽつりと単語を呟き始めた。 「えーっと、ヒグラシ」 「うん」 「高くなる空」 「うんうん」 「夜露の香り」 「……うん」 「空蝉」 「うん……うん?」 「線香花火」  後輩が淡々と並べる単語の羅列に共通点があることに気付き、私は顔を上げた。ため息をついて軽く後輩を睨むが、当の本人は涼しい顔をしている。  ……確信犯だな。 「ねぇ、後輩くん……それさぁ」  呆れたように言う私に、しかし後輩は開き直った様子で返す。 「元はといえば暇潰しでそんな無茶振りしてくる方が悪いんですよ。俺がそういうの出来ないって分かってる癖に」 「そうだけどさぁ……」  そう。  彼が挙げた単語は全て、私が数日前に書き上げた、晩夏がテーマの短編に登場する単語たちだったのだ。自称校閲担当の後輩にも読んでもらったものだ。  それはきっと、終わってゆく夏のように緩やかで酷く優しい――拒絶に、他ならなかった。  ――後輩の、迷子の感情探しを手伝ってやろう、なんて考えがなかった訳でもないのだが……大きなお世話、だったのだろう。 「まあねぇ、感受性と感情は似て非なるものだからねぇ……大きく影響し合ってるのは確かだけど」  私がそう呟くと、彼は苦笑しながら閉じたままの文庫本に目を落とす。 「そうですね。それでたぶん俺は、その辺りの連結が全く出来てないんだと思います」 「うん……そう、なんだろうねぇ」  私は軽く目を閉じ、少し想像してみた。生命が瑞々しく芽吹いても高揚感に包まれない春を、突き抜けるような空の蒼に活力の溢れ出ぬ夏を、豊かに稔った果実や穀物に満ち足りぬ秋を、人肌の温もりに心安らがぬ冬を――そして、薄紅にはぐらかされながら訪れる無情な別れに身を切られる思いのせぬ春を、遠い入道雲に胸の騒めかぬ夏を、銀の雫の望月を見て狂おしいほどの懐郷に襲われぬ秋を、満たされることのない心の空洞に容赦なく木枯しの吹きつける冬を。  ――――私は、ゆっくりと目を開けた。  どちらが良いとか悪いとか、幾ら物書きを気取ってみても所詮只の十七歳でしかない私にはよく分からなかった。哀しみの分だけ歓びもあると言う人も、はたまたその逆を唱える人も居るのだろうが、どちらにしたって一般論でしかない。そもそも感情や感傷の問題だ、そう一概に括ってしまえるものではないのだ。或いは物書きという私の趣味上、私の感受性の豊かさが過ぎる可能性だって十二分にある。  けれど――そう、この後輩は、全くの無感情という訳ではないのだ。まだ半年程度の付き合いだ、断ずることは出来ないが――何なら、無表情というだけで、感情が欠如しているかどうかも、よく分かってはいないわけで。  だとしたら、感受性や感傷に影響されない感情――ただその感情としてのみ純粋に存在している、感情のままの感情というものを、この後輩は持っているのかもしれない。そして、そんな後輩がいつか得る幸せはもしかしたら、最も古い人間の幸せの形に近いのかもしれない――何も無理に感情と感傷を結びつけなくとも、いいのかもしれない。  それに、物書きとして、そんな純粋な感情を見逃すわけにはいかないだろう。  だから私は先の窓枠にもう一度肘をつき、曖昧に溶けて終わってゆく夏に胸をざわめかされながら――言った。 「君は、そのままで……わからないままで、いいよ」
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