フォントをダウンロード中
ページの左右でマウスを左クリックします。
または、 キーボードの左右の矢印キーを入力します。
ページ上で指先を左右になぞると、 前/次ページへ移動します。
メニューはページをタッチすると現れます。
× ヘルプを閉じる
ー1ー 「さてと……説明してもらおーか、母さん」 件の少女をリビングへと招き入れ、母さんを問い詰める為の家族会議の開廷。 「説明? 何の?」 「この子のことだよ」 頭を傾け不思議そうに返事をする母さん。これは、惚けているのか、はたまた本気で分かっていないのか…。いや、今はそんな事はどっちだっていい。こっちはいきなりあんなにも心臓に悪い事を言われたのだ。事情を聞かなければ納得がいかない。 「そういえば、シンちゃんには言ってなかったわね。今日からうちで預かることになっているのよ」 「いや、それもなんだけど、そうじゃなくて。 あと、シンちゃんはやめてくれって言ってるだろ」 シンちゃんと呼ばれると某中学生が頭を過ってしまう。別に、その中学生が嫌いって訳じゃないし、残酷な天使の歌は僕も好きな方だ。でも、何となく抵抗がある。きっと、心の壁だ。 それに、今年から高校生だ。未だに、母親からのちゃん呼びは厳しいものを感じる。 「えぇー、シンちゃんはシンちゃんなのに」 「あぁー、もう! そっちはまた今度話すから。 今は、この子の話が先だよ!」 この一言でようやく理解してくれたのか。母さんは、わざとらしく両手を打ち合わせて鳴らした。 「その子は、私の親友の愛娘の白間都ちゃんよ。 小さい頃に一度会ってるんだけど、覚えてない?」 「だから……あれ? そう言われてみれば」 確か、8歳の時に母さんの親友のところへ旅行に行って…それで、母さんの親友の家に行って。娘の……を……探して、公園で……。 ダメだ。靄がかかったみたいに、よく思い出せない。 「忘れちゃったなんてシンちゃんひどーい」 「しょうがないだろ。 もう何年も前の事なんだから……って、ちっがーーう!! 今は、そんな事より、どうして!俺の!妹にしてください!なんて言うのか聞いてるんだよっ!!」 ついテーブルから身を乗り出して、大声で怒鳴ってしまう。こんな朝早くから大声を出すのは近所迷惑もいいところだけど、今はそんな些細な事には構ってられない。 「え、何の話?」 きょとんとして目を丸くする母さん。そんな、まさか本当に知らない……!? こんなおかしな事を言わせたのは、てっきり母さんだと思っていたのに。じゃあ、一体誰が……。 母さんの反応に困惑していると隣からTシャツの裾を掴まれた。 「ご、ごめん、なさい……っえぐ」 そして、目一杯瞳を潤ませた都ちゃんに、今にも消えてしまいそうな程か細い声で謝られた。 「あー、いーけないんだ いけないんだー。 シンちゃんが泣ーかしたー。 いきなり怒って怒鳴るから泣ーかしちゃったー」 「う、うるさいなっ! 別に、怒ってないし……泣かせるつもりなんかなかったし」 いや、今は言い訳よりも、どうしていきなり泣き出してしまったのか聞くのが先だ。怒鳴ったのが関係ないといいんだけど。 「その都ちゃん、どうして泣いてるのかな?」 「えっぐ。 私が……づい…へ、んな…こと、言っぢゃった……から。 お兄さんが、う、ゔぅ……大きな、声で……。 お、こらせて……あ゛、う……」 やっぱり、関係していた……。 一旦状況を整理する為にさっきの出来事を思い出す。 あのガチガチの様子からすると、いざ知らない家に来ると緊張してしまって、あんな語弊がある挨拶をしてしまった。うん、そうに違いない。 僕だって緊張したら頭で思っている事と口に出している事が違うのを経験した事がある。それと同じ。つまり、ただの悲しい事故だ。 なのに、声を荒げて……こんな小さな子を泣かせてしまった。あぁ、最悪だ。 「急に、大声出してごめんね。 別に、怒ったとかじゃなくてね。 母さんが都ちゃんに無理矢理言わせてるんじゃないかって疑ってただけなんだよ」 「えぇー、いきなり疑うなんてひどーい」 「母さん。 日頃の行いだよ」 日頃から母さんは無茶苦茶な事をしている。今はそれどころじゃないから、その話は割愛するけど。 「だから、都ちゃん。 もう泣かないで」 「…うっぐ…はい…」 泣きじゃくる都ちゃんの涙をティッシュで拭ってあげるとすぐに泣き止んでくれた。とりあえず、一安心。 さて、都ちゃんの事で、母さんに聞きたい事はまだまだあるけど……。 ぐぅ〜ぎゅるるっとお腹の虫が我慢できないと雄叫びを上げる。隣からも。 「あらあら、2人とも。 そうよね、朝ごはんにしましょうか」 これにて家族会議は閉廷した。 「はふぅ、ごちそうさまです。とてもおいしかったです」 お茶わんいっぱいのご飯を2杯に、目玉焼きとウィンナーとサラダ、昨日の残りの肉じゃが、味噌汁をペロリと平らげた都ちゃんが満足気に呟く。 「ふふっ、お粗末様でした」 とても良い食べっぷりを見た母さんはご機嫌になり、今にも歌い出しそうだった。 さて、十分に腹ごしらえは済んだので、どうして都ちゃんをうちで預かることになったのかを聞かないと。 「で、母さん。 どうしてうちで都ちゃんを預かることになったの?」 「それはね」 「私に説明させてください」 理由を話そうとする母さんを制止し、都ちゃんが立ち上がる。 「改めまして、白間都です。 今日からお世話になります。 これから、よろしくお願いします」 「……あ。 黒川真一です。 こちらこそ、よろしくお願いします」 自己紹介後、ぺこりとお辞儀をされた。あまりにも丁寧な対応だったので、ついこちらも同じように返してしまう。 「まず、さっきは変な事を……言ってごめんなさい。 しん……あ、その…あ、の」 またも丁寧に深々と頭を下げ、謝罪をされた。 ここまで律儀だと申し訳ない気持ちになる。さっきのは悲しい事故だったし……ん? 視線をこちらへと向け、困惑したような様子の都ちゃん。それは、まるで何かを尋ねたいけど、聞くに聞けず遠慮しているみたいな。 一体、どうしたんだろう?こっちを見て……。あ、そういうことか。 「名前なら好きに呼んでくれていいよ。 こっちはもう都ちゃんって呼んでるし」 そういえば、さっきも僕か確認するだけなのに緊張。もとい名前を呼べなかった。 これは、僕にも覚えがある。小さい頃、年上の人や異性の名前を呼ぶのに、恥ずかしいというか、申し訳ないというか……遠慮のような妙な抵抗感があった。だから、『真一』と呼べないんだろう。 たかが名前の呼び方。されど名前の呼び方だ。この気持ちはシャイ経験者もしくは現ホルダーにしか分からない。 とはいえ、都ちゃんには名前を好きに呼んでもらいたい。だから、僕からは指定をしない。……無いとは思うけど、シンちゃんだけは絶対に止めてほしい。 「は、はい。 それじゃあ、とりあえず……お兄さん……で」 「かはっ」 上目遣いをしながら、呼び方を決めた都ちゃんに一瞬で思考がフリーズする。そして、追い打ちをかけるようにボディブローをくらったような衝撃が頭の中に走る。 確かに、好きに呼んでくれていいって言った。言ったけども。 「あのダメでしょうか?」 「あ、いや、いい! 全然いいよ! ……ちょっとびっくりしただけだから」 その響きは、犯罪的すぎるっ……!だって、都ちゃんとは血が繋がっていないどころか義理の関係もない。 なのに、お兄さんって。それじゃあ、まるでさっきのお願いが本当になったみたいじゃないか。待て、待て……。 ここは、冷静に、クールに、ロジカルシンキングに考えるんだ。相手は子ども。お兄さん呼びに深い意味はない。 仮にあったとしても近所の仲の良い男性をお兄さん呼びするのと変わらない。それにキャッチのメイドさんだって平気でお兄さんって呼ぶ。つまり、お兄さん呼びは世間一般では普通なのだ。そう、普通。 だから、何も悪い事なんてないし、やましい気持ちなんて抱かない。よし、大丈夫。僕は正常だ。 「あのどうしたんですか?」 「うぇ、なっ何でもないよ! ほんと何でもないから! あ、さっきの事はほっんとうに気にしなくていいからね。 都ちゃんは何も悪くないから」 もし、悪い人がいるとしたら1人だけだ。 都ちゃんから母さんへと視線を移す。当の本人は何故視線を向けられたのか分かっていない様子だった。 そもそも、母さんが予め都ちゃんの事を教えてくれていれば、こんな事態には──いや、そんなもしもの話をしてもどうにもならないか。 「ところで、都ちゃんはどうしてうちに?」 「母の仕事の都合で外国で暮らさないといけなくなったんです。 でも、どうしても日本を離れたくなくて……。 それを母に言ったら、親友の紗枝さんに相談して大丈夫なら日本に居てもいいと」 「成る程、それで母さんが了承したと」 「だって、親友の可愛い娘のお願いなんだもの断る理由がないわ」 母さんらしいとしかいいようがない。本当にお人好しなんだから。 「それに、急に娘が出来たみたいで嬉しいじゃない」 即座に前言を撤回する。全く、母さんはどうしてこんなにも考えが軽いんだ。 「そういえば、何で日本を離れたくなかったの?」 「それは……」 悲しげな表情で都ちゃんが俯く。 しまった。つい気になって聞いてしまったが、この歳で親元を離れてまで日本を離れたくなかったのだ。それは、繊細かつ複雑な理由があって気軽に聞いてはいけないに違いない。自分の無神経さを呪う。 「あ、その、ごめんね。 嫌だったら無理に話さなくていいから」 もう手遅れかもしれないけど、少しでも無神経な自分のしでかした罪を贖う為に、申し訳なさ程度の気を遣う。 けど、都ちゃんも覚悟を決めたのか。拳を握りしめ、勢いよく顔を上げ、日本を離れたくなかった理由を話してくれた。 「その……お米が好きだからですっ!!」 「オコメ?」 「はい、お米です!」 少し間をあけてから、良い顔でそう宣言する都ちゃん。図らずも、うちに来て初めての満点大笑顔だった。その眩しい笑顔は、まさに炊きたての白ご飯。瞳がすごくキラキラしていて、ほかほかした雰囲気は見ているこちらも暖かい気持ちにさせてくれる。まさに、天使の微笑み……じゃなくて。 お米。英名はrice。稲の果実である籾から外皮を取り除いた粒状の穀物。日本食といえばお米が必須と皆口を揃えて言うであろう。正に日本食界の大御所。トップスタァだ。 そのお米が好きだから日本を離れたくない。つまり、答えは一つしかない。 「もしかして、毎日お米を食べたいから日本を離れたくなかったの?」 「えへへ。 私、三度のご飯よりもお米が好きなんです!」 その表現は明らかにおかしい日本語なんだけど、お米が凄く好きなのは伝わってくるから流すとして。お米を毎日食べる為に親と離れて暮らす……か。 まぁ、食は何よりも大事にすべきって昔の偉い人も言っていた気がするし大切なんだろう。肩の力は一気に抜けたけど。 「そういえば、都ちゃん。 残りの荷物はいつ届くのかしら?」 「今日のお昼頃に届くそうです」 「なら、今日は荷解きと空き部屋の掃除をしないといけないから大変そうだね。 手伝うよ」 「荷物と言っても段ボール3つだけなので大丈夫ですよ」 「あ、そうなんだ。 意外と少ないんだね」 「ふっふっふ、それは私が家具・その他諸々はうちで用意するから大丈夫と伝えておいたからよ! あと、空き部屋のお掃除も済んでいるわ!」 本当にノリノリだったんだね、母さん。 「じゃあ、特にすることはないみたいだし部屋に戻るよ」 「何言ってるのよ、シンちゃん。 わざわざ都ちゃんが来る時間にアラームをセットして起こしてあげたんだから」 あれ母さんの仕業だったのか。成る程、通りで身に覚えがないはずだ。というか、母さんがアラームをセットだって!? 「スマホには、ロックがかかってたはずなんだけど、どうやって開いたの……」 「ふふふ、都ちゃんに町を案内してあげなさい♪」 「……はい」 世の中には知ってはいけないものが3つある。まず、母さんの秘密。次に、エクソシストの画像。最後は、恋愛マンガの続編だ。特に、最後のは! 理由は、結ばれたヒロイン以外の女の子(主に推し)が甘酸っぱい初恋から一転、恋に敗れ、絶望的な人生を送っている後日談を知ることになるからだ。それを見るのは余りにも辛い。 マンガの神様……貴方は彼女に何処まで無慈悲なのですか。 彼女は読者に希望を与え、報われないストーリーを駆け抜けたのですよ……自分らしく。だから、救いがあっても良いではないですか。 もし彼女が救われるのなら、僕は神殺しだって厭わない。 まぁ、初恋すらしたことがない人間が言うことじゃないけど。あと、マンガの神様は絶対に関与していないし。 少し話が脱線してしまったが、母さんの秘密は身近な人ゆえに詮索しようとしてしまう。だが、それはやめておいた方がいい。イット、それを知ったら終わりなのだから……くわばら、くわばら。 スマホの件は、我が身の安全の為に聞かなかったことにするとして。都ちゃんに町を案内するのは賛成だ。新しい環境に早く慣れてもらう為に、これから住む町を知っておいた方が良いだろう。 「じゃあ、行こっか」 「はい、よろしくお願いします」 早速、都ちゃんに町を案内するべくリビングを後にした。 ……後で、スマホのパスコードは絶対に変えておく。もう恋愛マンガの推しキャラの生年月日は使わない。 さて、町を案内すると言ってもこんな小さな田舎町で案内するような場所はあっただろうか。駅前の商店街は来る時に見ているだろうし、そうなるとこの子が知っておくといいのは……。 コンビニくらいか。この辺で、緊急事態に頼れるところといえばあそこしかないと言われているぐらいだし。いや、そもそも緊急事態になることなんかないか。 となると学校……でも、学校は嫌でも明日行く事になるし。いや、先に知っておいた方が何かと都合がいいかな。でも、前日から学校を見に行くってどんだけ楽しみなんだよってなるかもしれない。 この年頃はそういうの気にするって前に聞いたことがあるし……うーん、困ったな。 考えあぐねいていると都ちゃんの方から 「あの、良ければお兄さんのお気に入りの……場所へ連れていってもらえませんか?」 と提案された。 特に断る理由もないどころか、このままでは家の前から一歩も動けず途方に暮れるところだったのでありがたい申し出だった。なので、二言返事で了承し、目的地へ向け歩き出した。 「そういえば、都ちゃん。 歳はいくつ?」 「今、10歳で。 今年、11歳になります」 という事は小学5年生なのか。見た目から、てっきりもう少し歳下だと思っていた。 いや、さっきの丁寧な振る舞いと言葉遣いを考えると高学年でも不思議じゃないか。寧ろ、高学年じゃない方が変だ。 我ながら情けないが、小学生の事を全く理解出来ていない。これから、思春期の多感な時期に突入するというのに、この体たらくでは不安でしかない。ひとつ屋根の下で寝食を共にする者として、少しでも小学生を理解できるように精進せねば。 「お兄さんは今年から高校1年生ですよね?」 「そうだけど、よく分かったね」 「お兄さんのこと。 よく覚えてましたから」 「ゔっ」 多分、都ちゃんにとっては何気ない一言なんだろうけど痛いところを突かれてしまった。 分かってはいたけど、都ちゃんは僕のことをしっかり覚えている。なのに、僕ときたら名前どころか会っていた事すら覚えていなかった。 どうして覚えていないんだろう……幼稚園の頃の事も小学校の入学式のことも鮮明に思い出せるのに、都ちゃんの事は思い出せない。なんだかすごく大切な事だった気がするのに。 ──あれ……それって、あの公園の。夕陽。キラキラしてて、最高の……。 「お兄さんっ!」 「へ、うわっ、わぁっ!?」 都ちゃんが大声で呼びかけてくれたおかげで現実に戻る。 危なかった。考え事をしながら歩いていたせいで、危うく十字路を飛び出し車に轢かれるところだった。 「あ、ありがとう都ちゃん。 助かったよ」 「いえ、急にぼーっとしてどうしたんですか?」 「ちょっと考え事をね、あははぁ……。 そうそう、ここって事故の多い場所だから気をつけてね。 ついさっき轢かれかけた僕が言えることじゃないんだけど」 「そんなことは……。 あ、逆にお兄さんのおかげでよく分かりました」 「それは、よかったよ」 都ちゃんの気遣いに苦笑してしまう。これは無邪気な優しさなのだから、気を悪くせず真摯に受け止めようと思う。 「ともかく、もう考え事をしながら歩くのはやめるよ。 それじゃ、気をとりなおして行こうか」 「はい」 さっき何かを思い出しそうになったけど、今はそんな事を考えている場合じゃない。今は、都ちゃんに町を案内している最中。つまり、エスコートしている身だ。なら、目の前の彼女の事だけを考えるべきだ。そう、今は目の前の彼女から目を背けてはいけないんだ。 住宅街を歩くこと十数分。ようやく目的の場所へと到着した。 「ここが、お兄さんのお気に入りの場所」 来たのは住宅街の端にある小さな公園だ。この辺りは台地になっており、その端に公園がある。つまり、崖のすぐ側だ。なので、ここはボール遊び禁止。最初は遊具もあったけど、こんな場所で遊ぶのは危ないと撤去され、残っているのはベンチと古びた照明灯が立っているだけの寂しい所だ。あと、誰にも手入れされてない花壇は雑草がいきいきしている。 もちろん、こんなところへは滅多に人は来ず、最早何の為にあるのかも分からない──けど。 「どう、ここからの眺めは?」 「すごいです。 町全体が見えます」 町を見渡せるこの眺めだけは良い。 「ここ小さい時から来ているんですよね?」 「うん。 気分転換をしたい時とかに来てるよ」 昔の自分はそんな事までも話していたのか。親にも話していないこの公園の事を話していただなんて。余程、仲が良かったんだな。 「確かに……素敵な……ですね。 お兄さん」 「ん、都ちゃん?」 「……」 小さな声で何かを呟き、何処か悲しげな表情で町を眺める都ちゃん。その様子は、何かを憂い見えない涙を流しているようだった。 「あのお兄さん。 少しお聞きしたいことがあるんですがいいですか?」 「うん、いいよ。 何かな?」 「お兄さんは、今”楽しい”ですか?」 それは、突拍子もない突然な問いだったせいか。はたまた、あまりにもタイムリーな問いだったせいか。心にもない言葉をつかって別の自分を繕うように”楽しい”と答えた。 ✳︎ あの後、都ちゃんに町の案内(商店街と駅前付近)を無事に終え、帰宅。 そして、いつもより賑やかな夕食をし、今は自室へと戻ったところだ。 「楽しい……か」 公園での一件。どうして都ちゃんはいきなりあんな事を聞いてきたのか、皆目見当もつかなかった。 確かに、今の僕には”楽しい”と思える事はない。だからといって病んでるみたいに何もかもをつまらないと感じている訳じゃないし、それを態度に出したりもしていない。至って普通のはずなのに。 「昔、会った時に何か言っていたのかな」 すっぽり抜け落ちたように覚えていない都ちゃんと初めて会った時の自分。そのせいか本当は都ちゃんと会っていたのは自分じゃないのかもしれない。まるで、もう一人の僕がいたみたいだと思ってしまう。 いや、そんな思春期の拗らせた妄想みたいな事を考えるのはやめよう。この科学とインターネットが発達した現代で、中二病は流行らない。それこそ意識してなりきらないと無理だ。 何か別の事を考えよう。気晴らしにスマホを開くと好きなマンガ家の新作が発表さていた。そのタイトルは──。 『貴方の妹にしてください』 何の悪戯か、気持ちを切り替えようとしたのに、都ちゃんの発言が頭を過る結果に。 はぁ、とため息が出る。これも、問題と言えば問題だ。 今朝は緊張から言ってしまったと納得したけど、公園での様子を考えると昔の僕が関係しているかもしれない。何となくそう思ってしまう……流石に、考え過ぎかな。 でも、あの時の悲しげな顔が頭から離れない。 「あーもう、なんかモヤモヤしてきたな。 こうなったら」 やり場のないこの気持ちをどうにかする為に、いつものアレをやろうと思う。 まず、今夜の主役となるものを探す。出来ればスタイルの良いものがいい。よし、この間手に入れたこれにしよう。 次に、真っ白な紙を準備し、手の届く範囲へと置く。これからすることにおいて紙は必要不可欠だ。無いと始まらない。いや、始められない。 あと、手も汚れるから個人的にはウエットティッシュもあればベストかな。 それから、道具の選別をする。ここは、慎重にじっくりと考え、目的に合わせて選ぶものなんだけど、どうせ少しの時間しかしないから使い慣れたものを選ぶ。中には何時間もやるから、ギンギンに尖らせる為の専用のものを用意する人もいるとか。僕は、そこまでのこだわりはないから市販のもので済ませている。 というか、その辺はネットや雑誌で調べたりしたけど、僕は素人の延長線みたいなものだし、あまり気にしないようにしている。 道具を選び終え、これで準備完了。さっそく、始めよう。 最初は優しく撫でるように、さっと。ここで、いきなり力を入れると後々後悔する羽目になる。あくまでさーっと、さーっと、デリケートに。子猫だって優しく触れられる方が良いって前にテレビで言っていたし、これも同じだろう。……違うか。 満足のいくエンディングの為に20分間の無心で手を動かす。 そろそろ、終着点が見えてきた。手も大分あったまってきたし、少し力強く。でも、傷つけないように配慮してと。 あと、道具のチェックも入念に。丸みを帯びてきたら尖らせる。こうすると上手くいく……当たり前の事か。 また入念に手を動かす。もう充分に形は整ってきた。しかし、ここで油断してはいけない。 折角、ここまで丁寧に仕上げてきたのに、早く仕上げようと焦って台無しにしては失敗するどころか今夜の主役にも失礼だ。ここからは、より丁寧に、更に時間をかける。 十数分後。いよいよ、クライマックスだ。いくら慣れているとはいえ、この瞬間は未だに緊張する。毎度ながら、こんな時ぐらいしか使わない机ってどうかと思う。 「ふぅ。 やりきった」 無事、いつものアレを終了。今回も良い気分転換になった。さて、後は紙と今夜の主役を片付けるだけだ。 「あのう?」 「わぁ゛ーっ!?!?」 不意に背後から声をかけられ驚く。いつもならこんなに驚く事はない。けど、今回は声をかけてきた人物が人物なだけに……今にも心臓が爆発しそうだ。 恐る恐る背後に顔を向けると、案の定そこにいたのは都ちゃんだった。しかも、パジャマ姿の。 ごくりと唾を飲み込む。髪からほんのり爽やかな柑橘系の香りがして、顔が少し火照っている。きっと、お風呂上がりなんだろう。 しかし、今はそれよりも都ちゃんの髪に惹かれた。その……すごく綺麗だった。 今朝も思ったけど、都ちゃんの髪には天使の輪がくっきりと見えている。これは、髪を美しく見せるキューティクルが綺麗に整っている証拠だ。キューティクルは熱や刺激に弱く、きちんとヘアケアしていないと保てない。だから、維持するのはすごく大変な事なのだ。 だが、それを乗り越えたからこそ髪は美しく、綺麗に輝く。直接、触った事はないから確証はないけど。見るからにサラサラなその髪の触り心地はシルクのようになめらかで、手に絡め指の隙間をするりとすり抜ける感触は胸を幸せでいっぱいにしてくれるに違いない。あぁ、先端だけでも良いから触りたいなぁ……。 頭の中が欲望で支配されていく。 「ご、ごめんなさいっ。 驚かせるつもりなかったんです。 ちゃんとノックはしたんですけど、気付いてないみたいだったので……」 「え、あ、そうだったんだ。 ごめんね、気付かなくて……。 で、どうしたのかな?」 魅力的な天使の至宝を前に、つい屈してしまいそうになったが、都ちゃんの声で正気に戻る。 み、未遂っ!?いや、まだ触れてすらない!妄想だけで、まだなーんにもしていないっ!! ……いや、ほんと気をつけないとな。こんな邪な気持ちで触れたら、非紳士的行為で一発退場だ。今後の2人の関係の為にもフェアプレーポイントは大事にしないと。 「お風呂が空いたので、紗枝さんにお兄さんを呼んできてと頼まれたんです」 「そうなんだ。 うん、ありがとう。 すぐ行くよ」 「ところで、何をしていたんですか?」 思わず体がビクッとなる。 まずい……都ちゃんのいる位置からだとまだ見えていないはずだから大丈夫だと思っていたけど、ノックしても気付かない程、何かに集中していたら、そりゃ気になるよね。 困ったな。今、机の状況を都ちゃんには見られる訳にはいかない。 どうする。宿題に集中してたとかで適当に誤魔化すか。いや、変に嘘をつくと予期せぬ事態で首を絞める事になるかもしれない。それなら、何かインパクトのある事で、注意を逸らし有耶無耶にした方がいいか。 机にあるインパクトの……っ!! よし、灯台下暗し。逆転の発想。見られたくないのなら、逆に見せるっ!だ。 「あのね、都ちゃん。 驚かないでね」 「え、それどういうことですか?」 「こういう事だよっ!」 拳を握りしめ、覚悟を決める。上手くいくかわからないけど、これに賭けるしかない。一か八かだ! そのまま勢いよく、都ちゃんに今夜の主役を見せる。 「な、ななな!? ふあっ、これ、これぇ!!」 「あははぁ。 やっぱり、好きだったんだね」 「はいっ! すっごく好きです!! おすしマン!!」 今夜の主役ことおすしマンのストラップを前に大興奮する都ちゃん。その年相応な反応を見ていると、笑みが溢れる。 おすしマンとは夕方にやっている子ども向けのアニメだ。確か、キャッチフレーズは『みんなを繋ぐ握り一丁!』だったかな。 ストーリーは主人公のまぐろんが町のみんなを助けるヒーローもので、色んなキャラの主義主張が交錯するらしく、子ども向けとは思えない深いやり取りがあるとか。 因みに、見た目はそれなりに可愛いが子どもへのウケはそんなに良くない。でも、根強いファンのおかげで、今も放映されている。 「これシークレットのトロまるですよね! 初めて見ました!」 瞳を輝かせ興奮冷めやらぬな都ちゃん。これなら上手い具合に注意を引けそうだ。 「詳しいんだね。 もしかして、このキャラが1番好きだったりする?」 「はい! おすしマンには素晴らしいキャラクターがたくさんいるんですが、その中でもトロまるがダントツで好きで」 都ちゃんが熱く語り出すタイミングを見計らって、背後に手を回し、机の上の本当に隠したいものをさっと引き出しの中へとしまう。 「トロまるが初めて登場する回はDVDで何度も見てます。 トロまるはまぐろんの生き別れた弟で」 こちらの動きに全く気付かず饒舌に話している都ちゃんを見て、ほっと安堵のため息をつく。無事、作戦は成功した。一時はどうなる事かと思ったけど、喉元過ぎればなんとやら。バレなくて良かった……まぁ、別にバレても、ちょっと恥ずかしいだけなんだけど。 「お兄さん、聞いてますかっ?」 「う、うん! もちろん聞いてるよ!」 「本当ですか? あやしいです」 頬を膨らませ、ジトーッとした目つきで見てくる都ちゃん。好きなものの事になるとこんな顔をするんだ。可愛い。 あまりの可愛さに、つい笑ってしまう。 「あっ、今なんで笑ったんですか!」 「ごめん、ごめん、ついね。 そんなに好きなら、これあげるよ」 「えっ、いいんですか!? こんな高価なものを貰っても……」 ストラップを貰うだけなのに、鳩が豆鉄砲を食らったかのように驚く都ちゃん。が、しかし、それも束の間で、一気に申し訳なさそうにしゅんとする。僕からするとそれはすごく不思議な反応に見えた。 だって、これは商店街の会長が好みで入荷したものの、全然売れず、在庫を抱えて困ってるからと無理矢理買わされた代物だったからだ。とても高価な代物とは思えない。 まぁ、それは余計な情報なので黙っておく。 「全然いいよ。 ほら、トロまるも好きな人が持ってくれてる方が喜ぶだろうし」 「でも、何か良い事をした訳でもなく、誕生日でもないのに、人から物を貰うなんて……でき、ません」 白間家では意外と厳しい教育をなさっている事に少し驚いた。でも、だからこそ、ここまで律儀で優しい子に育ったのだろう。 都ちゃんは俯きながらストラップを返してきた。 そんなに名残惜しそうにストラップを返されると、尚の事プレゼントしたくなる。受け取ってもらえるような何か良い理由があればいいんだけど──そうだ。 「じゃあ、都ちゃんが家に来た記念にあげるよ」 「私が来た……記念ですか?」 「そ、今日を記念日にしようよ。 僕と都ちゃんだけの特別な日」 唐突な記念日宣言に、都ちゃんがぽかんとしている。その反応で言葉足らずな自分のミスに気付いた。 結果は、まだイエローカード。ギリギリ耐えている……はず。よくよく考えると『僕と都ちゃんだけの』は完全に蛇足だ。 ふと目に入った恋愛マンガのセリフを参考にしたんだけど、どうやら僕にはまだ早かったらしい。華麗に大人の階段をズッコケ落ちてしまった。 「そ、そのね! えーと……これから都ちゃんと一緒に暮らせるのは僕も嬉しいからね」 でも、都ちゃんがうちに来てくれたのが嬉しいのは本当の事だ。それに、言いたい事は何となく伝わっているだろうし、問題ない……はず。 「ふあっ……ありがとうございます。 大切にしますね」 ストラップを受け取り、目を細めて嬉しそうにお礼を言う都ちゃん。その笑顔は何処か懐かしい気がした。デジャヴってやつかな。 とりあえず、レッドカードじゃなくて一安心だ。 「それじゃあ、そろそろお風呂に入ってくるよ」 「あ、あのお兄さん!」 「ん、どうしたの?」 「その……また後で、ですね。 その……おすしマンのお話をしに来てもいいですか?」 「話し相手が僕でいいなら」 「ふあっ! ありがとうございます!」 ぺこりと一礼し、自分の部屋へと戻る都ちゃん。後ろ姿からも分かる上機嫌っぷりは、見ていて微笑ましい光景だった。 そっか、そんなにも好きなもので話せるのが嬉しいんだ。 まさか、写生が日課なのを隠す為に見せたトロまるのストラップがこんな形で役立つなんて。お米が好きって言ってたからおすしマンも好きじゃないかな、と何となく思っただけなんだけど。ここまで上手くいくのは予想外だった。 それに、トロまるのストラップを写生の対象にしていたのもラッキーだった。咄嗟に思い付けたのもそれのおかげだし。噛み合いが良いというか何というか。運命すら感じてしまう。 それにしても、おすしマン……か。そんなに良い作品なのかな。また今度見てみようかな。 ♪ 都はとあるアプリを使い、日記をつける事を日課としている。 そのアプリは音声入力で書き込む事が出来る。なので、字体は台本のセリフのように書かれる。それは、まるで感情を込めているかのように。 さらに録音もでき、その日の心情をそのまま残せる。それは都にとってとても大事なことだった。 -都の日記- 4月15日 今日、お兄さんと再会できました。ずっと会いたいと思っていたので、すごく嬉しかったです!えへへ。 ただ、お兄さんが私の事を忘れていたのは残念です……。当たり前ですが昔会った時とは少し変わっていました。良い意味でも、悪い意味……でも。 それでも、お兄さんは優しいお兄さんのままです。あの時と何も変わっていません。 だけど、あの事を思い出してくれないと……。 また後で、お話をするのでそこで思い出して……なんて物語みたいに上手くいくわけないですよね。 ✳︎ 窓から陽が差し込み、朝を告げる。顔に当たる陽の眩しさから逃げるよう為に布団をかぶる。 まだスマホは静かに待機している。つまり、まだ眠っていてもいい時間だ。少々、意識があろうとも、重たい瞼を上げる必要はない。今すべきなのは二度寝だ。この起きているのか、寝ているのか、分からないふわふわした感覚の中での二度寝は最高に心地良い。それは、水にたゆたい優しく包まれているようなイメージ。その至福を堪能する贅沢さ。本当に、学生という生き物は最高だ。 「きて…ださい……起き…ください」 その至福のひとときを脅かす声が聞こえてくる。誰かは分からないけど、この至福を奪われる訳にはいかない。なので、ささやかな抵抗をする。 「もう、少しだけ……寝かせて……」 声が止んだ。どうやら寛大な御心で二度寝を許してくださったようだ。誰かは存じませんが、感謝いたします。 さぁ、許しは得た。後は、心ゆくまでたゆたうだけ。許され……るその時まで……。 「起きて、お兄ちゃん」 「かはぁっ」 急に酸素が失くなったのかのように飛び起き、一瞬で頭が覚醒する。 今しがた自分の事をとんでもなく罪深い呼び方をされた方がおられる。そう、聞き間違いでなければ『お兄ちゃん』と呼んだ方が……。 注意深く辺りを確認する。今この場にいるのは自分と。 「おはようございます、お兄さん」 都ちゃんだけだった。 「お、おはよう都ちゃん……朝、早いんだね」 「はい、早起きは三文の徳ですから」 「あー、早起きは良い事だよね。 うん、良い事だ……」 都ちゃんの真っ直ぐな瞳の前に、視線を逸らすしかなく渇いた笑みがこぼれてしまう。 「ところで、どうしてここにいるのかな?」 「紗枝さんに、お兄さんを起こしてきてと頼まれたんです」 大体察しはついていたけど、やっぱり母さんの差し金か。都ちゃんが起こしに来たら、絶対に起きると思って頼んだな。くっ、汚い手を。 まぁ、一先ずそれは置いといて。さっきの『お兄ちゃん』は都ちゃんが自分の意思で言ったのか。もしくは、母さんが言わせたのか。はたまた寝ぼけていたから聞こえた幻聴なのか……確認したい。だけど、昨日の件がある。 またやむおえない事情からかもしれないし、何かの間違いで都ちゃんを傷つけて泣かせてしまうかもしれない。 ここは、聞かなかった事にしてスマートに済ますのが大人の対応だ。 「あのさ、都ちゃん」 でも、僕はまだ大人じゃない。このまま有耶無耶にすれば気になって今夜は眠れない。そうなったら困る。だから、仕方ない。仕方のない事なんだ。 「ちょっと、いいかな?」 「はい、なんですか?」 覚悟を決めろ……ウジウジするな。『さっき、お兄ちゃんって呼ばなかった?』って聞くぐらいじゃないか。 ギャルゲーでいうところの選択肢をひとつ選ぶだけだ。カーソルを合わせて、◯ボタンを押す。簡単な事じゃないか。 だから、出来る。出来ない訳がない! 「そ、その、さっ……き」 「ん?」 「き、今日のその服可愛いね!」 今夜はホットな牛のジュースにお世話になろうと思う。 「そうですか? 自分ではいつもと変わらないのでよく分からないんですが。 褒めてもらえて嬉しいです」 ヘタレだったせいで都ちゃんの服を褒める結果に終わってしまったけど、それはただのお世辞ではなく本当に可愛いのだ。 白のブラウスに、花の蕾みたいな形をした黒のスカート。印象的には、シンプルなゴシック調……でいいのかな? 生憎、女の子の服について調べる趣味はないので、その辺はよく分からない。 けど、何というか小学生が着るには少し大人びている服装だと思う。自分の小学生時代を振り返る限りでは、女の子の服装はTシャツに、シンプルなデザイン?のスカートが基本だった。分かりやすく言うとちびまる子ちゃんみたいな。あれは……オーバーオールって言うんだっけ? いや、それは双◯じいちゃんか?……何で女の子の服で双◯じいちゃんが出てくるんだよ。おかしいだろ。 ともかく、こんなお洒落な服を着ている同級生はいなかった。僕の印象が古過ぎるせいなのか、若干背伸びしているように見えてしまう。 でも、似合っていないなんて事はない。寧ろ、都ちゃんのお淑やかな雰囲気と相まって、何処かのお嬢様かと思ってしまう程だ。間違いなく似合っている。もう一度言うけど、似合っている。すごく可愛い。無宗教だけど神に誓ってもいい。 昨日も似たような格好はしていたけど、あれはお出かけ用のおめかしした服装だと思っていたけど、さっきの発言で普段からこういう格好をしている事が分かった。 最近の子はお洒落だって聞いた事があったけど、予想以上だ。まさか、リアルでラブとベリーな対決をしてるんじゃ……な訳ないか。 「あのう、お兄さん。早く準備しないと遅刻してしまいますよ」 「そうだね。 今すぐ……ん?」 それは、妙に引っかかる言い方だった。まるで僕が遅刻しそうな言い方なんだけど。まぁ、細かい事は気にしないでいいか。 「どうかしましたか?」 「ううん、何でもない。 すぐ準備するよ」 僕は都ちゃんに促されるまま学校へ向かう準備をした。無論、スマホのアラームはまだ鳴っていない。 「すみません。朝からご迷惑をおかけしてしまって……」 「いやいや、全然そんな事ないっ! 寧ろ、一緒に行けて嬉しいよっ!」 「でも、本当ならもっとゆっくり出来たのに」 「それは……誤差っ! 誤差みたいなものだから! いつもと変わらないよ、ははぁ」 「ごめんなさい」 「あー……」 平身低頭して謝る都ちゃん。そんな彼女を慰めようとしたけど、良い結果は得られなかった。まだ夏でもないのに、汗が止まらない。 今は2人で一緒に学校に向かっている最中だ。ただし、向かっているのは都ちゃんが通う予定の小学校だ。 事の発端は母さんのお願い──。 『あのね、シンちゃん。 お母さん、朝からちょーっと出掛けないといけなくなったの。 だから、代わりに都ちゃんを小学校に連れてって♪』 僕がわざわざ早く起こされたのはこの為だった。アラームが鳴る前に起こしにきていたので、薄々何かあるんじゃないかとは思っていたけど、随分と急な話だった。 急に用事が出来たのなら仕方ないと言えばそれでお終いなんだけど、問題は都ちゃんがそれを知らなかった事だ。 都ちゃんは僕が遅刻してしまうから起こしてきて欲しいとお願いされたと思っていた。でも、実際は自分を小学校へ連れて行く為に起こした訳で。本来なら僕は起きていない時間だった。 だから、都ちゃんは朝から僕に迷惑をかけてしまったと責任を感じ、さっきからこの調子なのだ。 「本当にすみません」 またしても謝まらせてしまう。僕としては、母さんが連れて行けない時点で他の選択肢はないので都ちゃんが謝る事なんて何一つない。 それに、このまま何度も謝らるのは、僕の紳士なメンタルによろしくない。なので、どうにかして他の話題を出して、このループを抜け出したい。 無い頭を捻って必死に話題を考えていると、都ちゃんのランドセルからぶら下げられたゆらゆらと揺れる物体が目に入った。 「それ、もう付けてくれたんだね」 付けていたのは、もちろんトロまるのストラップだった。 「常に持ち歩いていたくて……大切なものですから」 「気に入ってもらえて良かったよ」 「はい。 あと、失くしたらと思うと不安で……」 「ははは。 成る程ね」 どうやら気に入っただけじゃなくて心配性なのもあるみたいだ。 「もし失くしてしまったら、どんな状況でも、どんな事をしても、必ず探し出します」 必ず探し出すって。そこまで好きなのは少し驚いた。まぁ、好きなものに対する情熱は分からなくもないけど、ちょっと大袈裟な気がする。それに、その考えは少し危なっかしくて心配になる。 まぁ、都ちゃん程の良い子なら無茶な事はしないだろうし大丈夫だとは思うけど。 「そこまで必死になって探すって。相当好きなんだね。イメージとのギャップがすごいよ」 「……おすしマン、好きですから」 「昨日の夜もすっごく熱くなって話してたもんね」 「あ、あれは、忘れてください!」 「えぇー、すごく可愛かったのに」 「う……そんな、事は……」 「また話しに来てくれてもいいよ」 「か、え、その…あの、考えておきます」 今の反応、昔のSF映画の不測の事態に取り乱したロボットみたいで可愛いかった。きっと、こういう子が妹なら目に入れても痛くないんだろうなぁ……なんか親バカみたいだな。 それから会話は弾み、さっきまでのどんよりした空気は嘘のように消えた。 再度おすしマンの話題を出すとちょっとむくれてたけど、気にしないでおく。きっと、繊細な子ども心だ。そっちは迂闊に触れてはいけない。 それにしても、ナイスだ!トロまる! 2日連続でお前に助けられるとは思わなかった。君の事をちゃんと知って、まだ少ししか経っていないけど、すごく近くに感じるよ。正に僕にとって幸運の青い鳥だ。愛して……はいないけど、親友ぐらい大切に思ってるよ。多分。 そして、話しながら歩く事、約20分。楽しい時間はあっという間に過ぎ、小学校に到着した。 3年前まで、ここに通っていたので、職員室の場所は分かる。なので、都ちゃんを職員室まで送り届けようとしたが、母さんが学校への連絡を怠っていたせいで校門の警備員の方と少々話す事になった。 幸い母さんに電話が繋がって何とかなったけど。(いつもはほぼ繋がらないので、運が良かった) そのせいで少々タイムロスをしてしまったが、無事職員室に到着し、ミッションコンプリート。これで僕の役目はお終い──と思ったけど、そうでもなかった。 さっきまで楽しく話していた姿はいずこへと聞きたくなる程、都ちゃんの表情はカチカチになり、いつの間にか僕のシャツの裾をギュッと掴んでいた。言うまでもなく緊張している。しかも、ドがつくほど。 そうだよね。ただでさえ職員室に入るのは緊張するのに、転校初日だと余計に緊張するよね。その気持ち分かるよ。と共感している場合じゃない。 さっきのタイムロスのせいで時間が押している。なので、ここで時間を食っていると僕が遅刻してしまう。 心の準備をする時間をあげれないのは申し訳ないけど、早急に済まさないといけない。せめてもの気持ちで職員室の扉は僕が開けた。 「失礼します。 5年1組の秋房先生はいらっしゃいますか?」 さっき電話で聞いた都ちゃんの担任になる先生の名前を呼ぶ。 すると『は、はいっ』と裏返った声と共に茶髪のロングヘアーで黒縁の眼鏡をかけた女性がこちらへと向かってきた。 こちらへ来る途中、何もない場所で転び、えへへと笑って誤魔化していた。つい、この人大丈夫なのかと少し心配になった。 「は、はじめまして! わわ、私が、担任の秋房紅羽ですっ!」 「都ちゃんの保護者代理で来ました。 黒川真一です」 この方も都ちゃんと負けず劣らず緊張なさっているようだった。 見たところ僕とそんなに歳が離れていないように見える。20代前半なのは間違いない。 けど、前に何処かで高学年の担任は教員生活に慣れ始めた人を選ぶと聞いたし、こう見えて実は結構勤務している方だったりするのだろうか。 「今年からっ、教員になりましたが、全力で頑張らせていただひみゃふっ」 噛んだ──じゃなくて見た目通り新任の先生だった。 僕が気にするような事じゃないけど、本当に大丈夫なんだろうか。もうすでに学級が……いやいや、流石にそれは失礼すぎる。幼い頃から習ってきただろ。人を見た目だけで判断しちゃいけないって。 それに、教壇に立ってチョークを手に持つとギラッとした目つきになって性格も変わり、敏腕イケイケ教師になるのかもしれない。……亀有のお巡りさんの見過ぎかな。 ともかく、失礼な事を考えてしまったのは悪い事だ。失礼極まりない自分を戒め、心の中で謝罪する。 「あの私の顔に何か付いてますか?」 「わっ!?」 その最中。つい秋房先生の顔を見つめていたせいで、顔を覗き込まれグッと距離が近くなる。急な出来事に驚き、慌てて後退りをする。 そのまま狼狽えていると後方から聞き覚えのある嫌な声がした。 「なーに秋房先生に見惚れてんだ、黒川」 「げっ、小田山……先生」 この体格が良く如何にも熱血漢そうな男は小田山隆二。僕が4年生だった頃の担任だ。 すごく馴れ馴れしく接してくるが、仲が良かった訳じゃない。寧ろ、嫌いな方だ。 小田山は、僕にとって忘れ難いアレを知っている。だから、やたらと僕に関わろうとする。 それは学年が変わってからも変わらず、ひたすら僕に声をかけてきた。それで、今でも僕の事を覚えていたのだろう。 まさか、まだこの学校に居ただなんて……最悪だ。 「まぁ、仕方ないか。秋房先生みたいな人は、お前のタイプだもんな」 「へっ、えぇーっ!?!?」 「──っ!」 「なっ、いきなり来て変な事を言うなっ!」 小田山の特徴のひとつ、思った事をそのまま口にする。それはあまりにも遠慮がなく場の空気を微妙にする最悪な特徴だ。その上、本人は無自覚。なんて迷惑なんだろうか。 お前がそんな事を言うから秋房先生が顔を真っ赤にして、困惑しているじゃないか。さっきから無言のままの都ちゃんだって驚いて手に力がこもっている。 確かに、秋房先生みたいな少しタレ目で優しい雰囲気のあるお姉さんは好みだ。髪も綿菓子みたいにふわっとしていて、許されるならその感触を直接触って知りたい。きっとあまりのふわふわ感に僕は悶絶し、感動の涙が止まらず、今生の未練はなくなるだろう。 なんてバカな事を考えている場合じゃない。このハチャメチャな空気どうするんだよ……。 ──キーンコーン、カーンコーン。 この緊急事態をどうしようかと悩んでいると予鈴が鳴った。 「まずいっ。 学校に遅れる」 「学校に遅れるって、ここが学校だから間に合ってるぞ?」 「はっ、ウケる」 自然と渇いた笑いが出る。 やっぱり、小田山のわざとらしいボケは腹がたつ。きっと、馴れ馴れしくなくても嫌いになっていた。間違いない。 この熱血バカに言いたい文句は山程あるが、今はそれどころじゃない。 「秋房先生、都ちゃんをよろしくお願いします。 それじゃあ、都ちゃん学校頑張ってね」 小田山には言葉ではなく睨みをプレゼントし、職員室を出る。 「ったく、黒川のやつ。 わざわざアイコンタクトなんかしやがって……おう、俺に任せろ! がっはっはー」 後方からすごく気味の悪い言葉と高らかな笑い声が聞こえたけど、精神衛生上よろしくないので聞かなかった事にする。 校門を出たところでスマホを取り出し、時間を確認する。 「ん……青二からメールか。 とりあえず、返してと……じゃなくて、時間、時間」 まだ半過ぎ。ここから高校までは歩いて20分程で着く。だから、走ればHR中には着けるだろう。それは、遅刻と変わらないけど、歩いていくよりはマシだ。 もう一刻の猶予もないので勢いよく地面を蹴り、ノンストップで高校まで駆け抜けていくつもりだったのに……。 「そんなところで何してるの?」 「別に。 何も」 走り出して数分。道端でランドセルを背負ったまま立ち尽くしているサイドテールの少女を見かけた。見たところ都ちゃんと同じぐらいの歳だ。 特に何か困っている様子には見えなかったけど、この時間にこんなところにいるのは明らかにおかしい。普通なら、もう学校にいる時間なのだから。 それで、放っておけなくて声をかけたんだけど、少女からはあっさりした返事が返ってきた。 「えーと、学校に行かなくていいの?」 「お兄さんには関係ない」 お兄さんか。やっぱり、普通の呼び方だ……じゃなくて。 再度、あっさりした返事にちょっぴり切なくなる。でも、この子の言う通りだ。 僕はこの子と知り合いでも何でもない。正直、この子が学校に行こうが、行かまいが、どうだっていい。行くように説得しても何の得にもならないし、この子にも何か事情があるのかもしれない。 それに、僕だって他人に構っているような時間はない。だから、何事も無かったのように立ち去るのが正解だ。でも。 「……放っておけないよなぁ」 世知辛い世の中で下手したら通報されるかもしれないし、お節介なのは分かっているけど、無視していくなんて冷たい事は出来ない。 僕は近くの自販機に駆け寄り缶ジュースを買った。 「はい。 これ」 「知らない人からジュースなんて貰わない」 「まぁ、そう言わずに。 今、目の前で買ったんだし変なものは入ってないよ」 「………」 「ほら。 いいから、いいから」 少女は僕が引かないので、渋々缶ジュースを受け取った。 「で、ずっとここにいるの?」 自分の分も買っていたので、それを喉に流し込み、少女に問う。 「なんなの。大声で叫んで欲しいの?」 「それをされたら困るけど、そうなったら君は学校に行く事になるね」 「……ウザっ」 心の底からそう思ったのだろう。まるで、親の仇を見るような鋭い目つきで睨まれた。それは、子どもとは思えない凄味のある目で、同い年ならビビって卒業まで話せなくなるところだった。 僕は動揺を誤魔化すように、ジュースを喉に流し込む。少女もそれに合わせるようにジュースを飲んだ。 しばらくの間、ずっと睨まれていたが、急に睨むのをやめ、観念したように話してくれた。 「あたしさ、よく遅刻するから警備のおっさんに目を付けられてるの。 んで、遅刻する度に鬱陶しいお説教をされる。 それが嫌だから、ここで時間を潰してたわけ」 説教が嫌でこんな所で時間を潰しているだなんて何とも子どもらしい理由だ。可愛い。 「なのに、今はお節介な人に絡まれて鬱陶しい思いをしてる。 素直に学校に行けばよかったよね」 前言撤回。やっぱり、可愛いくない。 「それは、ごめんね。 でも、僕がお節介を出来たのは君が遅刻してくれたおかげだからね」 「ムッ!」 少女に自分に出来る精一杯の笑顔を見せる。それに対して睨みを返してくる少女。少女との間に見えない火花がバチバチ鳴っているのが分かる。スパーキングだ。 「ほっんとウザい!」 「いやぁ、それほどでも」 「それがウザいの!」 僕の皮肉に対して、怒りを露わにする少女。こちらとしても、このまま言い合いになっても一向に構わない……と言いたいところだけど、僕は少女の問題を解決する方法を知っている。 これ以上の無駄な争いはやめよう……冷静に、大人げないし。 「ところで、もし警備員に会わずに学校に入れるとしたら、行く?」 「は?」 ──数分後。 「良かった。 まだある」 僕は少女を連れ、小学校の裏手にある小さな畑へと来ていた。ここは、学校が作った小さな畑で、元々は授業で使う予定だったけど、指導要領が変ったとかで使わなくなったらしい。それで、使い道もないまま、ずっと放置されている。 「ここの柵を越えて行くわけじゃないよね?」 「まさか。 ここじゃ監視カメラに見つかる。 カメラの位置を把握して侵入するのはスパイの基本だよ」 「……」 「冗談。 もっと楽に入れる場所があるよ」 ちょっとした冗談なのに、可哀想なものを見る冷たい目を向けられた。少しぐらい付き合ってくれたってバチは当たらないというのに。 それは、さておき。この畑には小さな林が隣接している。目的の場所はその中だ。 畑周辺を見張る監視カメラの死角を通り、林の中へ入る。 「ここだよ」 目的の場所。それは隣接した林と畑の草で柵が隠れている場所だ。 そこの柵は一見普通の柵に見えるけど、一部だけ外れて穴が開く。いや、開くように作り替えてある。 「これお兄さんがやったの?」 「僕じゃないよ。 やった張本人を知ってるだけ」 これをやったのは小学校時代からの僕の悪友だ。偶々、壊れている柵を見つけて、穴を開けて秘密の抜け穴にしておいたら、いつか使えるかもしれないと思った。という凄くしょうもない理由で改造したのだ。 やった張本人は『お城の抜け道みたいでかっこいいだろ!』とご満悦だった。因みに、在学中は一度も使う事なく秘密のまま終わった。 まさか、こんな形で役立つ日が来るとは思わなかった。 ともかく、これで少女は無事学校に行き、僕も気兼ねなく行ける。 「それじゃあ、後は適当な言い訳をして頑張って」 「うん、ありがとう。 お兄さん」 予想外の素直なお礼にぽかんとなる。もっと憎たらしく、皮肉を言ってから去ると思っていた。どうやら、根は素直で良い子なのかもしれない。 僕はそれに対して親指を立て、幸運を願い、立ち去ろうと振り向き歩き出すと 「なんて言うかっ! ヴァーカ!ヴァークァ! あたしは炭酸の方が好きなんだよ! 覚えとけっ! べぇーっ!」 と言われた。 後ろを見ていないのに、憎たらしい顔が容易に想像できた。 本当に可愛いくない。どうして僕はこんなにも可愛いげのない子の為に遅刻する道を選んだのか。不思議で仕方ない……まぁ、後悔はしてないけど。 ✳︎ 「よっ、重役出勤ご苦労」 「うっせぇ、バカ」 ニタニタと笑いながら話しかけきたのは、例の小学校時代からの悪友こと倉井青二だ。 あの後、必死に走って学校へ向かったものの、結局1限は遅刻してしまった。しかも、運の悪い事に今日の1限は遅刻には人一倍厳しい三村の授業だった。たらふく食べていいぞと言わんばかりの課題を課せられて、今にも吐きそうな気分だ。 「にしても真面目なお前が遅刻するなんて珍しいよな。 で、何があったんだ?」 「メールで言ったろ。 大した事じゃないって」 「詳しく教えてくれよ〜。 俺たち親友だろ? 隠し事はナシだぜ!」 このひょうきんな態度を見ていると『親友というより悪友じゃないか?』と議論をしたくなるけど、今は置いといて。 「はぁ、小学生を学校に行かせる為に色々あって遅刻したんだよ。 ほんと可愛げのない子でさー」 と、バカ正直に言えるか!僕はそこまで素直なやつじゃない。ありのままを話すなんて事はしない。絶対に。 「複雑な理由があるんだ。 だから、話せない」 「海外ドラマの常套句だな。 スパイでも始めたのか?」 「青二。 ここは、バーバンクじゃなくて日本なんだぞ。 そんな訳ないだろ」 「それもそうか」 まぁ、バーバンクだからスパイになるって訳じゃないけど。 「ねぇ、真一」 「おわっ!?」 急に耳元で名前を呼ばれ、驚いてしまう。急いで後ろを向き、声の主へと視線をやる。 「ゆ、紫か」 声をかけてきたのは長い黒髪を後ろでポニーテールにしている女生徒。前髪はぱっつん、横の髪は顎のラインに合わせて整えている。いわゆる、姫カットに近い髮型だと思う。 彼女の名前は石見紫。中学の頃からの知り合いだ。 「おはよう」 「あ、あぁ。 おはよう」 「それじゃ」 挨拶を終えると紫は自分の席へと戻り、本を開く。 「遅刻してもちゃんとお前に挨拶すんのな」 「みたいだな」 「相変わらずラブラブカップルだな」 「分かっててバカ言うな……ったく」 中学の頃、紫とは仲が良いどころか同じクラスになった事すらない。同じ美術部で部活の時に話す程度の仲だ。 でも、挨拶は毎日欠かさずしてきた。わざわざ別のクラスに来てまで。 その理由は僕をライバル視しているからだそうだ。正直、どうして僕がライバル認定されたのかはよく分からないけど、初めての部活の時にそう宣言された。 それ以来、ライバルには礼節を重んじるべきとかどうとかで挨拶をしてくるようになった。何というか武士っぽい?でもないか、とにかく変わったやつだ。 因みに、下の名前で呼んでいるのは、『ライバルは名字で呼ばない』と言われたからだ。決して、周りの連中が噂しているような親しい仲だからじゃない。 「ところでさ。 俺、最近ツイてないんだ」 「いきなり何だよ」 「最近、雀部達との賭けが負け続きでさ」 青二は昔から賭け事が大好きだ。大好きと言ってもパチンコや競馬などのお金を賭ける方ではなく、仲間内でトランプ等をやって負けたら罰ゲームをする程度の健全なものだ。 「このままだとパンイチで校内を一周する事になっちまう」 前言撤回。中学生の下ネタぐらい不健全だ。 「なら、やらなきゃいいだろ」 「バカ言え、 男にはやらなきゃいけねぇ時があるんだよ!」 「だったら、男らしく散れ」 「そういうなよ。 お前だって親友のパンイチ姿は見たくねぇだろ? なぁ、助けてくれよ」 それは親友じゃなくても見たくない。 このままパンイチの変質者に校内を闊歩されるのは忍びない。 それに今日は、一応こいつのおかげで助かった。だから、助けてやりたいのは山々だけども。 「イカサマなら手伝わないぞ」 「安心しろ。 それはもう失敗済みだ」 こいつ本当に切羽詰まってたんだな。呆れて苦笑いも出来ない。 「じゃあ、部屋の模様替えでもしたらどうだ」 「残念ながら風水は信じないって、ばあちゃんと約束したんだ」 「なら、お手上げだな」 「簡単に諦めないでくれよ〜。 神、オカルト、ジンクスなら頼るからさぁ」 ジンクスは何か違うだろ。ニュアンス的には分かるけども。 にしても、このまま泣きつかれるのは困るな。何か適当な事を言って──そうだ。 「都合よく良いラッキーアイテムを知ってるぞ」 「マジかっ! 流石は頼れる親友! で、何なんだ?」 「おすしマンのストラップだ」 「は? なんだそりゃ?」 インコのように首を傾げる青二。まぁ、普通の高校生は夕方の子ども向けのアニメなんて知らないよな。現に、僕もストラップを買わされるまで知らなかったし。 「僕が教えれるのはそれだけだ。 後は自分で調べてくれ」 「よくわかんねぇけど、わかったぜ! サンキューな! 早速、行ってくるわ」 こうして青二は意気揚々とおすしマンについて調べる旅へと出かけた。 『なぁ、委員長〜。 おすしマンって知ってるか?』 『……あ、あのね、倉井くん』 いきなり巻き込まれた委員長には申し訳ないけど、僕は穏やかな一日を過ごせそうだ。 ✳︎ 放課後。今日は母さんから『部活に行かずに真っ直ぐ帰ってね』と言われているので、家まで直帰コースだ。 部活に行かない日は青二と一緒に帰っている。けど、今日はおすしマンのストラップを手に入れると言い、チャイムが鳴ると同時に何処かへ行ってしまった。 ラッキーアイテムだなんてテキトーな事を言ったけど、そこまで必死になっている青二は面白いのでしばらく放っておこうと思う。 昇降口を出て、正門へと向かう。すると、正門付近で数人の生徒が群がって何やら騒いでいた。 とはいえ、そんなものには興味がないので通り過ぎようとしたが、歩みを止める。 何故なら、その騒ぎの中心にいたのが都ちゃんだったからだ。 「──っ!」 騒ぎの中心で困惑していた都ちゃんだったが、こちらの存在に気づくと急いで僕の後ろへと逃げこんだ。 「えーと……どうしてここに?」 「ひぅ」 理由は分からないけど、何かにひどく怯えた様子で、今はまともに話せないようだ。 「その子、君の知り合い?」 「はい。 そうです」 「なら、良かった。 その子ずっと正門でソワソワしてたから迷子かなって心配してたんだよ」 丁寧に状況説明をしてくれた女生徒。うちの高校は学年毎にリボン(ネクタイ)の色が違う。今年度は、1年は赤、2年は青、3年は緑になっている。この人は、青のリボンをしているので一つ上の2年生だ。 どうやら都ちゃんを心配して話しかけてくれていたみたいだ。彼女の物腰は柔らかく、都ちゃんが彼女に対して怯えているとは考えられない。 なら、何に怯えているんだろうか? 「その子、怯えさせちゃってごめんね。 私があいつらより早く来てたらこんな事にはならなかったんだけど」 「おい、浅倉! それだとまるで俺らが悪者みたいじゃねぇか!」 「そうだ、俺は遠くから匂いを嗅いだだけだ。 柑橘系の爽やかな匂いがした」 「臼井、お前は黙ってろ」 「でもよ、杵島。 ほんとに良い匂いだったぞ。 ありゃ相当良いシャンプーを使ってる」 「分かったから、今は黙ってろ」 優しい先輩から事情を聞いていると勇ましい声を上げる男子生徒と何やら危ない発言をする男子生徒が食ってかかってきた。 どうやらこの優しい先輩は浅倉さんで、浅倉先輩が指差した2人組(ネクタイからして同じ2年)の強面で背が低い方が杵島先輩、なんだかぼーっとしていて背の高い方が臼井先輩らしい。 話からして都ちゃんが怯えたのは、この2人のせいみたいだ。さっき当たり前のように危ない発言をしていたし、間違いない。 「みたいじゃなくて、そう言ってんのよ! あんた達みたいな不審者に話しかけられて怖がらない女はいないわ!」 「んだとぉ! 俺たちは優しく声をかけて紳士的に対応してたぞ! お前も何か言ってやれ!」 「でも、さっき黙ってろって」 「今はいいんだ」 「なら、俺は発展途上の女には手を出さねぇ。 紳士だからな。 あと、お前みたいな貧乳もな」 「なっ!?」 「臼井、今はそういう事を言ってほしいんじゃない。 だが、俺もお前の言い分には賛成だ。 ただ、こいつの胸に魅力がないだけで、貧乳には貧乳の良さがあるからな。 それは覚えとけ」 「くっ。 あんたら、ほんとサイテーっ!!」 強く拳を握りしめた浅倉先輩の怒号が蒸気機関車の汽笛ように鳴り響く。石炭も充分に放り込まれているので、その怒りの炎の凄まじさは想像を絶する。 どうやらこの3人は、ある程度顔見知りみたいだ。少なくともセクハラギリギリ(アウトだけど)の発言を許せるくらいには。 それからお三方の言い合いは益々ヒートアップしていき、最早都ちゃんの話は関係なくなっていた。 「第一あんたはいつもいつもっ!」 「うるせぇ! 胸がちぃせぇやつは器もちぃせぇってかぁ!」 「なぁ、杵島。 そろそろ女子陸部のストレッチの時間だ。 覗き間に合わなくなるぞ」 もう大分話もそれちゃったし、早くこの場を去りたいのが本音だ。都ちゃんだってずっと怯えてるし。 そういえば、何でこんなにも怯えているんだろうか。最初は危ない先輩に絡まれたからだと思っていた。 でも、今は先輩達からの注意は全く向いていない。まだ近くにいるとはいえ僕が壁になっているから、そこまで怯えなくていいんじゃ。 それに、都ちゃんが怯えてシャツを力強く握るのは決まって 「ほんとキモいっ!! 変態っ!!」 「俺は自分らしくピュアに生きてるだけだっ!!」 「……ひゃうんっ」 2人が怒鳴る時だ。もしかして、怖かったのは不審な先輩達じゃなくて怒鳴り声の方なのかな? もし、そうだとしたら早くこの場を去らないと。都ちゃんが可哀想だ。 「都ちゃん。 いこ」 「……ふえ……っ!?」 「あのー、僕達はそろそろ帰りますね。 それじゃっ!」 慌てて都ちゃんの手を引き、早足で正門を後にした。言い合ってる2人はこちらに全く気付いてなかったけど、臼井先輩の方はこっちに気付いて手を振っていた。少しにやけているのがかなり怖かった。 「大丈夫?」 「はい……もう大丈夫です」 か細い声で返事をする都ちゃん。渦中を脱したとはいえ、その様子はひどくしょんぼりしていて、まるで叱られた後のようだった。 「都ちゃんって怒鳴り声が苦手だったりする?」 「…すごく苦手です…」 思った通り怒鳴り声が苦手みたいだ。だから、昨日も僕が怒鳴った時に泣いていたのか。 「そっか。 じゃあ、今度から気をつけるね」 これからは、どんな理由があっても苦手な怒鳴り声で怖がらせないように気をつけないと。 拳を握り、堅く決意する。 「……ありがとうございます」 曇った表情から一変、明るい笑顔を見せてくれる都ちゃん。返事に少し間があったから心配したけど、もう気持ちの方は落ち着いたみたいだ。 「そういえば、どうして正門に居たの?」 「紗枝さんに……今日はお兄さんと一緒に帰るように言われてて、それで待っていたんです」 成る程。だから、今日は直帰するように言われてたのか。なら、それを先に言っておいて欲しいんだけど、また忘れてたんだろうな。母さんだし。 「そういえば、どうやって高校の場所を知ったの?」 「今朝、紗枝さんが地図を……渡してくれていたので」 そう言って、ポケットから母さんに渡された地図を出す都ちゃん。それを見ると凄く大まかな道程に雑な案内が書いてあった。 右、上、左、真っ直ぐ二つ目の信号を右、斜め上って……格ゲーのコマンドじゃないんだから。これなら幼稚園児に書かせた方がまだマシかもしれない。 「よくこれで分かったね」 「大体の道筋はイメージ出来ましたから……。 あとは、道を間違えてないか……尋ねるだけでバッチリ、でした」 「イメージ? 出来た?」 「う、それは」 「はは、すごいね」 「え……。 た、大したことじゃない……です」 謙遜からか顔を伏せる都ちゃん。別に謙遜するような事じゃないのに。 あんな雑な地図で道が分かるなんて頭にスーパーコンピューターでも入っていない限り無理だ。都ちゃんの理解力がすごいのは火を見るよりも明らか。 もしかすると10年に1人の天才だったりして……本日、2度目の親バカだ。 「と、ところで、お兄さん」 「どうしたの?」 「この……辺りで、お手洗いを……お借りできる場所は……ありますか?」 「んー、しばらくはないかな」 「そう、ですか」 僕の返答を聞くと急転苦悶の表情をする都ちゃん。さっきから妙にソワソワしていて、歩幅も小さいような気はしていたけど……もしかして、もしかするのだろうか。 「その結構ピンチだったりする?」 「ぅ……ん、ん……」 都ちゃんは、頰を赤らめて小さく頷いた。目も少し潤んでいる。 この際、どうしてもっと早く言ってくれなかったの!なんて野暮な事は言わないとして。 困ったな。家までまだ距離があるし、この辺にはお手洗いを借りれるような民家はない。 なら、いっそ外で──なんてデリカシーのない事を女の子に提案出来る訳がない。かと言って、このまま悩んでいてもタイムリミットが近づくだけだ。 「あとどれぐらい我慢できる?」 「10分ぐらい……なら、何とか」 まだ10分も猶予があるのは朗報だ。けど、残念ながら歩いて10分圏内にお手洗いを借りれるような場所はないだろう。だが、それは歩いてならの話だ。 「よし。 じゃあ、乗って」 都ちゃんに背を向け、膝をつく。 「あ、あのお兄さん……その」 「ほら、早く。 走ったらコンビニには間に合うよ」 「で、でも……おんぶして貰うなんて」 事は一刻を争い、走るしかない。けど、都ちゃんが自分の足で走るのは不可能だろう。ならば、それを解決する方法はこれしかない。 小学生にもなっておんぶして貰うのが恥ずかしいのは分かるけど、今はそんな事を言ってられる場合じゃない。 「グズグズしてる暇はないよ。 それともお姫様だっこの方がいい?」 「へっ!? お、おんぶで、お願い……します」 強引な提案で申し訳ないけど、都ちゃんもこれなら観念してくれたようで素直に背に乗ってくれた。 「それじゃあ、行くよ」 「ぅ、はい……。 お兄さん……ありがとうございますっ!」 あとは、ひたすら走るのみ。でも、ただがむしゃらに走る訳じゃない。都ちゃんのデリケートゾーンを刺激しないように優しくだ。 昔、運動会でスプーンに卵を乗せて走る競技をした事がある。まさに、それと同じだ。卵落とさないように気を使って、使って、使いまくる。でも、ゴールには1番に着く為には速く走らないといけない。 つまり、最も安全かつ効率の良い走り方をしなければならない。 なーに、一等賞を取った僕にとっては造作もない事だ! ──数分後。 僕は、実践に弱いのか。気を遣い過ぎて思ったより走れていなかった。 「……ふ、ぅっ」 次第に都ちゃんの肩を握る手に力が込められていく。それは、徐々にタイムリミットが迫っているのを示し、焦燥感に駆られる。 このままではまずい。もしかすると、今の速度では間に合わないかもしれない。なら、もう少し速度を上げて。 「ひっ、ぁ、んん……」 「わっ!? ご、ごめんっ!!」 「い、ぇ……だ、大丈夫……ぇす……」 焦る気持ちから、つい都ちゃんに衝撃を与えてしまった。口では大丈夫って言っているけど、その口調は明らかに大丈夫じゃない。 「本当にごめんね。 次はもっと優しくするから」 「は、はいぃっ……お願いします……」 自分を戒め、細心の注意を払い走り出す。が、しかし、すぐに新たな試練が僕を襲う。 「はぁ、はっ……んっ……はぁ……」 「………」 「ひぅっ、うぅ……はぁ……」 「──くっ」 都ちゃんの甘い吐息が境界線を越え、脳にダイレクトアタックしてくる事だ。 最初は特に気にしてなかったけど。なんというか徐々に法に触れる危うさを感じてきた。 だんだん声も艶かしくなるし、体もずっと走っているせいで熱くなり、都ちゃんの体温と混ざり合うような感覚に襲われて一つに……やばいな、これ。 都ちゃんは僕を信じて背に乗ってくれたのだ。それを裏切るような事を考えてはいけない。いくら今の彼女に心を焚きつけられるような魅力があろうとも──と頭では分かっている、分かっているけど。 必死に我慢する女の子って可愛いとか、催眠的な声に脳が溶けてしまいそうと思わざるを得ない。 それに、さっきから首筋に触れる都ちゃんの髪がサラサラで……ああ、いい。すごく、いい。手で触ったわけじゃないのに、この幸福感……思った通り都ちゃんの髪は僕好みで最高だ。今すぐにでも手で触りたい。 ほんと頭より心は素直だな。 ……いや、まずいっ! このままでは、もう戻れない領域に踏み込む事になる。それは、今後の僕達の関係においてあっちゃいけない。 何かを手を打たないと……そうだ、こういう時は心を落ち着かせ無になるんだ。 余計な事に心を乱されず、一点の曇りもない鏡、波立たない静かな水をイメージ……。 我が心、明鏡止水。されどこの脚は烈火の如く地を蹴り駆け抜ける。 見えた。水の一しず……あ、本当に柑橘系の良い匂いがする。 しばしの間、目を瞑り深呼吸をする。 「……すぅ、はぁ……。 ごめん、都ちゃん」 「え?」 「僕、ダメかもしれない」 「…お兄、さん…?」 このプランはダメだ……僕に心を無にする事は出来ない。所詮、僕もただの雄。ラノベ主人公みたいに清廉潔白で鈍感な聖人君子にはなれない。女子小学生のチャームの前では、男子中学生ぐらいピュアな心にパラライズされるしかない。一体、どうすれば……。 「あの……無理、なら……も、う降ろして、大丈夫……です、よ」 「都ちゃん」 「そもそも、私が……悪かったんです。 だから……お兄さんに、迷惑、かけてまでは……」 「でも、それじゃあ」 「わ、私なら……おそ、とだって、へ、平気…ですから」 声が震えている。それは、きっと限界が近いからだけじゃない。 思い出せ。僕は今何の為に走っているのか。 無事、都ちゃんをお手洗いに間に合わせる為──それだけ考えていればいいはずだ。 なのに、僕ときたら……都ちゃんの甘い吐息、艶かしい声、首筋に触れるサラサラの髪、髪から漂う柑橘系のシャンプーの良い匂い、ほんのり暖かい体温、柔らかい脚、シャツを強く握る手から伝わる手汗、我慢しているが故に背中に密着してくる感触とその膨らみかけの罪深いものに屈しようとしていた。 無になれない?そんなの当たり前だ。きちんと段階を踏み、己を限界まで鍛え抜いた者のみ立つ事を許される。それが明鏡止水の心。僕ごときが簡単に到達できる境地じゃない。 まずはスーパー……全然関係ない。 無理なものは無理なんだ。だから、まずそれを認める。 「泣き言、言ってごめんね」 「お兄……さん」 「あともう少しの我慢だからね。 頑張ろう(お互いに)」 「はぅ、ひゃい……」 誘惑に負ける未熟な僕も、それに抗う僕も。どちらも僕。未熟なのは僕にそういう一面があっただけの事、否定する必要なんかない。 相反する双方を認めてこそ本当の僕。そうする事で、真の力が生まれる。そう──こんなにも可愛い都ちゃんに辛い思いをさせる訳にはいかないっ! 新たな決意を胸に走り出す。すると、騒つく心は自然と凪いでいた。 心を落ち着け、更に走る事数分。ようやくゴールが目前に迫ってきた。 「はぁ、はぁ……コンビニ、着いたよ。自分で歩ける?」 「ん……んぅ……」 頑張って首を縦に振る都ちゃんだけど、どうやら限界はすぐそこで余り余裕は無いらしい。 僕も走り疲れて厳しい状態だけど、ここまで来て決壊させては男が廃る。なので、お手洗いのすぐ目の前まで連れていってあげる。 「らっしゃーませぇー」 自動ドアをくぐり店内へ入ると店員のやる気のない声が鳴り響いた。 そういえば、コンビニのお手洗いを借りるなら店員に一声かけないとだよな。よし、時間をかけないように、手短に、シンプルに、要点だけを……。 今、思うともっと言葉に気をつけるべきだった。疲れていたなんて言い訳にならない。 「はぁ、はぁ……。あの、もう我慢出来ないんです……。 この子お、手洗い……貸してくださいっ!」 「(が、我慢できないっ!? この子をっ!? トイレで……)」 「いい、ですか?」 「て、てんちょーっ! 変態っ! 子どもをトイレに連れ込もうとする変態がぁーっ!!」 「えっ、あの ちょっと」 「お兄さん……あ、あぁ……ぁぁ……」 「え、都ちゃん!? 都ちゃぁぁぁぁんっ!!」 悲痛な声とともにたらりと滴がこぼれ落ちる。僕は最後の最後にヘマをやらかしてしまった。 ✳︎ 「まぁ、そう気を落とさないでよ」 「すみません。 またお兄さんにご迷惑を……」 「そんな事ないよ。 ちょっと焦っただけだから」 さっきの事を今思い返しても冷や汗が出る。あれは、大変心臓に悪い出来事だった。 『ここまで来て……。 しかも、あんなミスで間に合わないなんて……』 『うぅっ……ひっく……私のせいでお兄さんを……変態だなんて……えっ、ぐ……』 『え、そっち? 泣いてるのってそっちなの!?』 『ふぇ? そっぢ?』 『都ちゃん。 とりあえず、先にお手洗い行こうか』 『……ぅ、あ……ひゃ、い゛っ……』 都ちゃんが泣き出した時は、僕のミスのせいで余計な刺激を与えてアウトになってしまったのかと思って本気で悔いたけど、そうじゃなくて良かった。あんなところでアウトになったら一生物のトラウマになっていたかもしれない。都ちゃんが辛い思いをしなくて本当に、本当に良かった。 「でも、私のせいで……」 「いや、あれは僕の自業自得だよ」 では、何故また都ちゃんが今朝のように責任を感じているのかというと、その後にちょっとした問題が起きたからだ。 都ちゃんを無事お手洗いへと連れていき、安心した直後だ。 『そこの君、ちょっといいかな?』 後ろを振り向くとそこにはゴリラのようにたくましい体つきの男性がいた。服装からコンビニの店員だと伺え、名札には店長と書かれていた。 鋭い剣幕でこちらを睨み、組まれた太くたくましい腕は熊を片手で倒せるんじゃないかとさえ思った。要するに、すごく怖かった。明らかにただのコンビニの店長のスペックじゃない。まるで冷酷な殺し屋だ。 僕は言葉足らずの勘違いから、この厳つい人に変質者だと思われている。だから、冷静に対応しようとした。だって、僕には後ろめたい事なんてないから。 『だ、大丈夫ですよ。 どうかしましたか?』 『うちの従業員が店内に変態が出たと騒いでていてね。 様子を見に来たんだ』 『それは大変ですね。 早く捕まえないと』 『ああ。 で、その変態の特徴が男子高校生らしいんだ。 君みたいな』 『……』 ここで、プラン変更。軽い冗談で場を和ませてから誤解を解こうとした。 『そ、それより、すっごい筋肉ですね!』 『……』 『もしかして何か格闘技やってます?』 『……』 『日本らしく空手? 柔道? さては、今熱いプロレスだ』 『……はぁ』 その溜め息は唸る猛獣みたいで、ものすごい威圧感があった。つい『やられる!?』と思ってしまう程に。 それが、更に僕を焦らせる。 『いやいや、外国のもいいですよね。 功夫とか。 意外なムエタイだったり? まさかのバーリトゥードっ!?』 『ふん、格闘技は見る専門なんだ』 『嘘、そんな勿体ない。 丸太みたいな太い腕してるのに』 『あぁ、そうかもしれない。 だが、この腕の使い道はいくらでもある。例えば、こんな風にな』 丸太のような太い腕でがしっと僕の腕を掴まれ、捻られた。無論、その腕の筋肉が飾りな訳はなく、掴まれた腕はめちゃくちゃ痛かった。正直、折れてしまうかと思った。 『いだっ! あ、あのー』 『そのお喋りな口を閉じて私についてくるか、この腕で無理矢理閉じられて連れて行かれるか。 どっちがいい?』 『……黙ってついて行きます……』 『素直でよろしい』 初めから冗談なんて言うべきじゃなかった。でも、あんなに厳つい人に敵意を向けられたら、訓練でもしていない限り冗談を言ってメンタルを保つしかない。少なくとも僕はそうだった。 そして、そのまま店の奥へ連れて行かれ、断罪の時間だ。僕の話は聞く耳を持ってもらえないので、都ちゃんの弁明を聞き届けてくれるまで、時間を稼ぐ事しか出来なかった。 粘り過ぎて危うく警察を呼ばれそうになったけど、ギリギリのところで都ちゃんが来てくれて何とかなった。 思いのほか時間がかかったのは、都ちゃんの方も店員が話を聞いてくれなくて困っていたとか。 「私がちゃんと正門でお手洗いに行きたいと言っていればこんな事にはなってなかったです……」 「いや、それはしょうがないんじゃないかな」 今にも消え入りそうに謝る都ちゃんを慰める。僕だってあの状況なら言えない。 「……迷惑をおかけしてごめんなさい……」 また深々と頭を下げて謝る都ちゃん。どうやら少し窘める必要があるみたいだ。 「ていっ」 「ひゃうっ!?」 都ちゃんの額に軽くデコピンをした。そんなに強くしていないのに額をさすりながら上目遣いでこちらを見てくる。その様子は小動物のようで何とも愛くるしかった。 「そんな畏まらなくていいよ。 都ちゃんが何をしたって迷惑だなんて絶対に思わないから」 「あぅ……」 安心させる為に、ニコっと笑顔を見せると都ちゃんが少し俯き恥ずかそうにお礼を言ってくれた。 「あ、あの……助けてくれて、ありがとうございました……お兄さん」 「どういたしまして」 だんだん小さくなる声で、心情が伺えた。 「ただいま」 「ただいまです」 帰るまでに多少のアクシデントはあったものの無事夕飯の時間までには家に着けた。 都ちゃんをおぶって走ったせいか、帰るなり玄関にへたりこみそうになったけど、何とか堪えてリビングまで来た。 「あら、2人ともお帰りなさい。 思っていたよりも長い寄り道をして来たのね。 ふふ、ちょうど良かったけど」 「寄り道って。 それより、どうしたのこれ?」 テーブルにはホームパーティーでも開くのかと思う程、たくさんの料理が用意されていた。 「勿論、都ちゃんの為よ」 「私の為?」 「そう、都ちゃんの歓迎会をするの!」 「私の歓迎会……!?」 「本当はね、昨日するつもりだったの。 けど、三浦さんに今日の方が良いお肉が入るよって言われてね。 1日ずらしたの。 他にもね」 母さんの話を聞くと、どうやら朝から都ちゃんの歓迎会の準備を頑張っていたみたいだ。成る程、それで朝は僕にお願いをしたのか。 「私の為にそこまで」 「ふふっ、当たり前よ。 だって、都ちゃんはー。 今、私の娘同然なのよ」 遠慮深そうにソワソワする都ちゃんを優しく抱き寄せる母さん。母さんも母さんなりに都ちゃんとの距離を縮めようとしているみたいだ。 「だから、ママって呼んでくれていいのよ。 いえ、寧ろママって呼んで欲しいわ。 シンちゃんが呼んでくれない分も」 それはちょっとやり過ぎな気がする。あと、さらっと僕への不満を言わないでよ。 「それは……ややこしくなるので、ちょっと」 「えぇ、ざんねーん」 まぁ、そうなるよね。……我が母ながら、本気で残念そうにされると反応に困るよ。都ちゃんも困惑してる。 「母さん、その辺にしとこうよ。 料理冷めるよ」 「それもそうね」 あっさり都ちゃんを解放する母さん。もっと抵抗するかと思ったのに。 「それじゃあ、我が家へようこそ〜。 都ちゃん」 「歓迎するよ」 「ぁ、う……あ、あの、ありがとうございますっ!」 恥ずかしそうにしながらも大きな声でお礼を言ってくれる都ちゃん。それは、我が家に来て、一番力強くて一番大きな声だった。 そして、満面の笑みだった。そんな都ちゃんを見ていると、それに応えるように自分の口角が上がっていくのが分かる。 「やっぱり、前にも」 「どうしました、お兄さん?」 「……ううん。 何でもないよ」 だけど、都ちゃんの笑顔を見ていると胸が騒つく。また、デジャヴだろうか。 いや、きっとこれからの彼女との生活が楽しみなんだろう。母さんっぽく言うと妹が出来たみたいで。 ──と、落胆的になれれば幸せだったろうに。 やっぱり、都ちゃんの事を思い出せないのが引っかかる。何かあった気はするのに、何も思い出せない。まるで、僕自身が思い出したくないみたいだ……。 ♪ -都の日記- 4月16日 今日は、お兄さんにたくさんご迷惑をおかけしてしまいました。朝早くに起こしてしまったり、緊張したせいで気を遣わせてしまったり……お手洗いの件は今思い返しても恥ずかしいです。 うぅ、お兄さんに手のかかる子って思われてたら嫌だなぁ……。 学校の方は、転校初日でお友達がたくさん出来ました。同じおすしマンが好きな里香とは、とても仲良くなれそうです。ただ、里香は見た目が派手というか、見慣れないというか。きっと、ギャルというものです。おしゃれさんです。 夜に、私の歓迎会をしてもらいました。紗枝さんの手……お母さんと同じぐらい暖かかったです。 あと、気のせいかもしれませんが、笑うお兄さんが昔と同じに見えて……少しだけ、泣いちゃいました。
1
15
シリーズ一覧
感想を送る
作品を紹介
ブックマーク
しおりを挟む
作品情報
使い方
登録が完了しました!
確認事項
戻る
実行