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ー2ー 翌日。教室へ入ると妙な視線を感じた。 それは、動物園のパンダを見るように凝視してくるクラスメイト達によるものだった。 言っておくけど、僕は他人から視線を集めれるようなイケメンじゃない。良くて中の下だ。それに、パンダみたいに誰からも愛される人気者でもない。 つまり、今向けられているのは間違いなく好奇の目だ。 この町は狭い。なので、それの心当たりぐらいはある。元凶そうな人物もちょうどクラスのど真ん中で楽しそうに話しているので直接本人に問いただしてみる。 「でも、あの写真じゃ言い切れなくない?」 「いーや、あれは間違いなく真一だね。 昔からの親友の俺には分かる」 「その話。 是非、僕にも聞かせてくれよ」 「あぁ、いーぜ。 って、真一じゃねぇか」 「よう、青二。 朝から楽しそうだな」 「まぁな」 こいつ、笑ってやがる。どういう状況か分かってて……面白い。 「とりあえず、2人だけで話せるとこに行こうぜ」 「流石、親友。 気が合うな。 俺もそうしたいと思ってたぜ」 全く動じない青二を連れ、屋上前の踊り場へと向かう。学校において屋上とは封鎖されているのが当たり前だ。うちの高校も例に漏れず封鎖されている。 故に、滅多に人が来ない。来るとすれば授業をサボる者か、他人に知られたくない事をする者くらいだろう。つまり、秘密の話をするのに最も適している。 だから、ここに青二を連れてきた。 「さぁ、おしおきの時間だ。 俺を怒らせた罪は重い!!」 「言いたくなるよな〜、それ」 「分かるか」 「当たり前だろ! 幽◯は、俺たちの青春だ! 」 「だよな」 「くぅ、今思い出してもラジオ体操の後の幽◯は……最高だったぜ」 青ニの言う通りだ。本来夏休みに早起きをするのは嫌だし、わざわざラジオ体操をするなんてどうかしてると思っていた。 だが、しかし!ラジオ体操が終わる頃には幽◯の再放送がやっていた! だから、起きるのは苦にならなかった。……ラジオ体操に全部参加すれば図書カードが貰えるのもあったけど。 ともかく、ラジオ体操が終わるとすぐにテレビの前までダッシュする。あの高揚感は今でも忘れない。 そして、放映されているのはいつも暗黒武術会編で、まさに僕たちの夏=暗黒武術会だった。 「懐かしいよな。 暗黒武術会が俺たちに夏休みを告げてくれた」 「あぁ、そうだな。 裏◯伽チーム辺りで登校日だったな」 「で、仙◯の頃には学校が始まる。 だから、仙◯は嫌いだ」 夏休み=幽◯には共感するけど、それで仙◯を嫌うのは青二。お前だけだ。 「まぁ、その話はまた今度にして。 教室で何の話をしていたんだ?」 「おいおいおい、待ってくれよう。 ここは楽しく昔話に花を咲かせる流れだろっ!」 「そんな訳ないだろ」 僕はバカじゃない。これくらいで本来の目的を忘れるなんて有り得ない。……ちょっと話したいけど。 「あの頃を思い出して。 何度でも、何度でも、君の窓を叩こうぜ! 真一!」 「そんな事、言ったって無駄だぞ」 「私も幽◯白◯なら分かる」 『おわぁっ!?』 2人して突如現れた紫に驚く。何でいつもいつも背後から急に現れるんだ。忍びの末裔か何かなのか。それとも執事の家系か。 「おはよう、真一」 「お、おはよう紫。 どうしてここに……?」 「佐渡さんに『人気のない場所で、あんたの大切な黒川くんが倉井くんに1発……もといヤられちゃうわ。今すぐ行って確かめて来なさい』って言われたから追いかけてきた」 佐渡さんは紫の数少ない友人で……いわゆる発酵したお方だ。紫曰く男女問わず同性の恋愛が大好きらしい。 前から僕と青二で危うい妄想をしているのは知っていたけど、教室から連れ出すだけで、そんな事を考えるとは……ちょっと背筋がゾワっとした。今頃、教室でグフフと怪しげな笑みを浮かべているのが容易に想像できる。 「ともかく、そんな事にはならないから安心してほしい」 「分かった。 ところで、幽◯白◯の話はしないの?」 「残念ながら今はもっと別の話をしなくちゃいけないんだ」 「そう…。 凍◯の話したかった」 すごくしょんぼりした声を発する紫。どうやら相当幽◯が好きな様子だ。そんなに好きなら、同好の士として原作を片手に語り合いたいな。今度、誘ってみるか。 おっと、今はそんな事を考えている場合じゃない。さっさと、青二を問い詰めないと時間がなくなる。 こほんと咳払いをして、気持ちを切り替える。 「お二人さん。 今日も熱々だねぇ」 「青二、話をそらすな。 さっきは、何を盛り上がってたんだ? んー?」 「あー、あれはな」 ──そして、放課後。 僕は何故か、青二と紫と肩を並べて帰っていた。どうしてこうなってしまったのか自分でも分からない。 あの後、青二から聞いた話によると今朝の出来事は『噂好きの学生』というサイトにアップされた記事から始まるらしい。 そのサイトは、うちの生徒のおもしろおかしな事件をまとめている。 例えば、学内で起きた集団カンニング事件の全容や過去の文化祭で起きた事件等の話がまとめられている。中には、何でそんな事をしようと思ったのか理解しかねるものもあった。(別に、聞きたくなかったのに青二が話した) 基本的に生徒がバカをやった話ばかりまとめていて、誰得か分からないすごくピンポイントで変態的なサイトだ。 で、そこにうちの生徒が女子小学生をおぶってコンビニにかけこんだという記事が写真と一緒に投稿された。 でも、その写真は少し離れて撮られている上に当事者が分からないように加工されていた。どうやらこのサイトの主は面白い事があったとまとめたいだけで、他人を乏しめるつもりはないらしい。 なのに、青二のやつが写っているのが僕だと触れ回り、今朝の出来事につながる。 結局、悪いのは青二だった。僕のターンになった時は覚悟してもらう。 ところで青二が僕だと断定出来たのはとある推理からだ。それは余りにも気持ち悪かったので割愛する。 そして、その推理のせいで、僕は言い逃れが出来なくなり渋々都ちゃんの事を話した。すると、青二が『しろ(都)ちゃんに会いたい!』なんて言い出し、今に至る。 何故か、その場にいた紫も一緒に来る事になり、この摩訶不思議パーティーが誕生した。 「で、この後どうする気なんだ?」 とりあえず、2人を僕の部屋へと通し、今後の方針を決める。奇妙な展開で出来たパーティーとはいえ、その辺りはきっちりしておく。グダグダになるのはごめんだ。 「どうって、ここに呼ぶだけじゃん」 「そんな事できるか」 能天気な事を言う青二に『お前は都ちゃんの友達かっ!』とツッコミたくなるが、話が進まなくなりそうなので、今は堪える。 「何でダメなの?」 すかさず紫も便乗してくる。『お前もかっ!』と(以下省略。 「あのなぁ、君に会いたたがってる人がいるって言ったら簡単に来てくれると思うか?」 『うん』 打ち合わせをする事なく声を合わせれる息ぴったりな思考を持つ2人を心から称賛したい。サッカーをやればゴールデンコンビと町中騒ぐレベルだ。 全く、そう簡単に呼べたら苦労──。 「あのぅ、紫さん。 ち、近い……です」 「都、可愛い。 だから、しょうがない」 「よく分からないです……あぅ」 しなかった……。 「なっ? 大丈夫だったろ?」 「……そうだな。 2人の言う通りだったよ。不本意だけど」 軽率だった。どうせ無理だと高を括り、言われた通りに呼びに行ったら、都ちゃんは二言返事で了承してくれた。 あまりにも良い子なので、国宝人間として保護すべきだと思う。 「にしても石見のやつ。 子ども好きだったんだな」 「みたいだな。 僕も驚いたよ」 都ちゃんを連れて部屋に戻るなり、勢いよく紫が駆け寄ってきた。そして、品を見定める商人のように都ちゃんを凝視したと思ったら、いきなり『可愛い』と言って都ちゃんに抱きついた。で、そのまま膝の上に乗せ、大絶賛愛でておられる。 「と、ところで、お2人はどうして私に会いたかったのでしょうか?」 子猫のように愛でられている都ちゃんが至極まっとうな質問をする。2人はそれに対し──。 「ライバル」 「親友」 『だからっ!』 理解しかねる返答をした。言っている事の意味どころか、どうして最後に声を合わせたのかすら分からない。 「え……ライバル? 親友? あ、あのぅ……?」 都ちゃんも困惑し、目配せで僕に助けを求めてきた。残念だけど、この2人の考えは僕にも分からない。それを、首を横に振りジェスチャーで都ちゃんに伝える。 すると、雨の日に捨てられた子犬のような顔をされた。僕は悪くない。 「親友に隠し事はナシだからなっ! 真一っ!」 そんなやり取りはお構いなしに、満足気に肘で突いてくる青二。僕はそれに対し、苦笑いをしながら、目で訴える。本人には、伝わらないように。 「な、なるほど、です」 何かを察して納得してくれた都ちゃんの優しさに胸がチクっと刺されたように痛む。後で、絶対に謝っておく。 「ところで、紫さんの……そのライバルというのは……?」 「ふふん」 待ってましたと言わんばかりに得意気な笑みを浮かべる紫。その様は、背後に『ドヤッ ドヤヤヤッ ドヤッ!!』と文字が浮かんでいるように見える。 「真一の絵はすごい。 だから、私のライバル」 「絵……ですかっ!?」 紫の発言に、心臓を鷲掴みされたかのようにどきりとする。別に隠す程でもないのは重々承知しているけど。まさかこんな形で、都ちゃんに絵を描いている事がバレてしまうとは……。 とりあえず、あまり絵に触れて貰わないように話を進めよう。自然に、クールに。 「紫。 それがどう繋がるんだ?」 「真一がまたキラキラしてた。 きっとこの子のおかげ。 だから、会ってみたかった」 「──っ!!」 トンチンカンな紫の返事に溜め息が出る。そういう掴みどころがないのが紫らしいけど、今ばかりはそれが困る。 そのトンチンカンぶりのせいか、膝の上にいる都ちゃんも大きく目を開いて驚いていた。 「何言ってるのか全然分からないぞ」 「そうかな?」 「そうだよ」 「んー?」 不思議そうに首を傾ける紫を見ていると、本当によく分かっていないのが分かる。 「あ、あの、紫さんっ!」 「何?」 「私の部屋で──2人だけでお話ししませんか?」 突如立ち上がり、驚きの提案をする都ちゃん。紫は、何も言わず頷き、2人は僕の部屋を後にした。 「行っちまったな」 「あぁ」 「こっちも対抗して秘密の話でもすっか」 「秘密の話って何もないだろ」 「実はな……。 昨日、聞いたラッキーアイテムなんだがな……手に入らなかったんだ!」 「それは、ただの報告だろ」 それから青二と他愛ない話をしていると、あっという間に日が沈み。そろそろ頃合いと、2人は帰宅することになった。 「それじゃあ、またね。 都」 「はいっ! 紫さん、またです!」 あの後、2人の間に何があったのかは知らないけど、帰る頃にはまるで旧知の仲のように挨拶を交わしていた。 「俺もまた来るからねっ!」 「え……はい」 青二との差を見る限り、紫とは相当仲良くなったのが伺える。 「なぁなぁ、真一」 「何だよ」 「俺もしろちゃんと仲良くなりてぇよ。 なんか仲良くなれそうなネタとかないか?」 一瞬、青ニがアリコンに目覚めて、今後の付き合い方を真剣に考え直さないといけないと思った。けど、青二の事だから友達の友達は友達ぐらいの感覚で、そんな事を言っているのだろう。 全く、急に小声で話しかけてきたかと思えば、何を言っているんだこいつは。誰がそんな事を教え──そうだ。いい事を思い付いた。 「特別に教えてやる。 実はな、都ちゃんはおすしマンが大好きなんだ」 「なっ!? マジかよ!」 「あぁ、マジだ」 「お前の言ってたラッキーアイテムとおんなじ……こりゃもっと知る必要があるな」 「その通りだ」 普通なら、僕の言ったラッキーアイテムと同じで何かしらの違和感を覚えるはずだ。だが、青二はそんな細かい事は気にしない。 「確か、お前の部屋にはBDレコーダーがあったよな?」 「あぁ、あるぜ。 まりな姉さんを隅々まで綺麗に見るために買った無茶苦茶いいやつがな」 年齢的に2年近く見れないはずなのに……どんだけ張り切ってるんだ。いや、僕らの世代には年齢制限なんて関係ないってモ◯ハンとグラ◯フが証明済みか。 「おすしマンを知れば都ちゃんと仲良くなれる。だから、今度おすしマンのアニメを一緒に見よう」 「おうとも! 親友!」 トントン拍子で事は進み、青二とおすしマン鑑賞会の約束を取り付けることが出来た。 僕もおすしマンのアニメを見たいと思っていたけど、見れるのがリビングしかなかった。流石に、高校生がリビングでおすしマンを見るのは羞恥心に憚られる。 だから、青二の部屋で見れるのはとても助かる。 「2人ともさっきから何を話してるんですか?」 「ふっふっふー、それは今度」 早速、都ちゃんに口を滑らせてしまいそうになった青二の口を塞ぎ耳元で囁く。 『おい。 こういうのはこっそり見て、驚かせるものだ』 『お、確かにそうだな』 因みに、こう言ったのは僕の為だ。どうせ後から知る事にはなるけど、こっそり見て驚かせたい。良い反応が見れそうだし。 「あの?」 「やっ! 何でもないよ! なっ、青二?」 「おう! 何でもないぜ! 俺たちは仲良しなんだ! わはははっ」 「そ、そうだな!」 「?」 今、知られるわけにはいかないので、苦しい言い訳をし、青二と肩を組み誤魔化す。若干、怪しまれたかもしれないけど、多分大丈夫だろう。 その後、2人を外まで見送ってから、リビングへと入っていく。 「ところで、都ちゃん。 随分、紫と仲良くなったんだね」 「はい! 連絡先も交換しちゃいましたっ!」 「そ、そうなんだ。 へぇ」 小学生と連絡先を交換って、流石は紫。何を考えているのか、さっぱり分からない。 「そこまで仲良くなってるのは驚いたよ」 「あのですね! 紫さんもおすしマンがお好きなんですよ! 私、嬉しくって! えへへ」 向日葵のようにニコニコする都ちゃんを見て納得。成る程、2人の仲が急に進展したのは共通の趣味のおかげか。 というよりここでもおすしマンか。ここまで来ると全てはおすしマンに通ずと思ってしまう……気のせいか。 「そういえば、どうして紫と2人で話そうと思ったの?」 ずっと気になっていた。あの時、2人には何の接点もなかった。それどころか初めて会ったばかりで、紫のスキンシップにたじろいでいた。普通なら、そんな相手と2人きりになろうとは思わない。それなのに紫と2人で……。一体、紫の何にそこまで興味を持ったんだろう。 「それは……………………」 昔やっていたクイズ番組の司会者を髣髴させる程、間をあける都ちゃん。黙ったまま僕を真っ直ぐに見つめる瞳に、自然と唾を飲み込み、汗が溢れ落ちた。 「お兄さんといえど秘密ですっ!」 「そう、だよね」 わざわざ部屋を変えてまで2人で話そうと行動したのだから、そう簡単に教えてくれる訳ないか。 「でも……もし、お兄さんの秘密を話してくれるのなら、私の秘密も話していいですよ」 悪戯っぽい笑みを浮かべる都ちゃん。それは彼女のイメージに似つかわしくなく、何か悪いものに魅入られたような不思議な感覚を覚えた。 つい、これはこれで小悪魔っぽくていい。ギャップ萌えってやつか。なんて呑気な事を考えてしまった。少々、子どもの無邪気さに当てられたのかもしれない。 それにしても、僕の秘密か。もしかして、絵の事を言っているのかな。だったら──。 「交換条件か……なら、悩んじゃうね」 アレは知られたくない。そう思った僕はお茶を濁して、微笑む事を選んだ。 ♪ -都の日記- 4月17日 今日、お兄さんのお友達の青二さんと紫さんに会いました。 初めは紫さんのスキンシップに困りました……お酒を飲んだ時のお母さんぐらい大変でした。 紫さんはお兄さんのライバルとの事で。少し気になる事をおっしゃっていたのでお話を伺いました。紫さんも私と同じでした。 そういえば、青二さんとは……あまり話せませんでしたが。とりあえず、お兄さんとはすごく仲が良いみたいです。 ✳︎ 土曜日。僕は美術室を利用するために学校へと来ていた。 職員室に入り、美術室の鍵を借りる時、顧問に『部活熱心で感心、感心』と言われた。僕からすると別にそういう訳じゃない。ただ私的に利用したいだけだ。 「ほんと美術室って埃っぽいな」 中学生の頃も美術室を利用していると同じ事を思った。どうして何処の美術室も埃っぽくなるんだろうか。 美術室を利用する人間はいても、掃除をする人間はそういないから、自然とそうなるんだろうか。 とりあえず、着いて最初にするのは掃除だ。一応、私的に利用させて貰っているので、それぐらいのボランティアはしておこうと思って始めた事だけど、今ではルーティーンの一つになっている。 わざわざ休みの日に学校に来てまで美術室を利用するのは、ここが静かだからだ。ここに響く音は外の運動部の掛け声と金属音だけで、他に人はいない。絵を描いてる姿をあまり見られたくない僕にとってベストな環境だ。 まぁ、それだけじゃなくて単に絵画用のイーゼルを使いたいってのもある。画家っぽい雰囲気を楽しみたいなんて我ながらミーハーだ。 道具室からイーゼルを運び出し、ポジション決めをする。といっても、何かを見て描く訳じゃないから、気分で決めている。今日は陽に当たりたい気分なので、窓の側に置く。 自分のロッカーから描きかけの絵を取り出し画板にセットし、イーゼルに立てかける。よし、これで準備完了。 ──シャッ、シャッ。 外からの喧騒が途絶え、静寂の中に鉛筆を滑らせる音が鳴り響く。それは、一種の音楽のようで、僕の頭の中に譜面が流れる。 トン、タン、トトン。細く描く線は軽快に、リズミカルに。 ドン、ダダダ、ダンッ。指先に力を込め、力強く影を。 ポン…ポロン……。絵を擦り、か細く、今にも消えてしまいそうな儚さを。 あらゆる要素を織り込み、絵は──終わりへと少しずつ、向かっていく。 ──シャッ。 鉛筆を滑らせる回数が減っていく。画用紙には、僕の記憶に残っている風景が完成していく。 どうして色褪せず、何度も、何度も。 「あの」 「いぃっ!!?」 僕だけの静寂の世界を破り、少女の声が耳に入ってきた。恐る恐る背後へと視線を移す。実際に、目にするまでは何かの間違いであって欲しいと願ったが、それは叶わなかった。 「み、都ちゃん。 どうしてここに……?」 「紗枝さんに、お兄さんがお弁当を忘れたから届けてきてと頼まれたんです」 「そう、なんだ」 どういう訳か都ちゃんの手には2人分のお弁当があった。母さんがどういうつもりで都ちゃんの分も用意したかは分からないけど、今はそんな事はどうでも良かった。 それよりも、この後に起こり得るかもしれない展開に恐れ慄き、手に汗を握っていた。べっとりと。 「わざわざありがとうね」 「いえ。 ところで、お兄さん。 それ」 都ちゃんの手からお弁当を受け取り、固まってしまう。このまま後ろにあるものを気にせず接してくれるなんて都合のいい展開になっていたら、こんなにも焦らなかっただろうに。 「えーと。 これは、その……」 頭の中で何度も『cool it』と連呼し、自分を宥める。まだ絵を見られただけだ。それだけで、アレに触れられたりしない。だから、平常心を保て。クールになれ。 「お兄さんが描いたんですよね?」 「あ、あぁ……うん。 そうだよ……一応」 我ながら歯切れの悪さに辟易する。 「公園の絵ですよね。 夕景……綺麗ですね」 「えっ……!?」 都ちゃんの放った衝撃の言葉に驚きを隠せない。僕は都ちゃんの両肩を掴み、乱れた心で問う。 「ねぇっ! 今、今なんて!?」 「えぇっ!? あ、あの」 「頼むよっ! もう一度言って!」 「公園の絵って」 「そのあとっ!」 「夕景……綺麗ですね、と」 聞き間違いじゃなかった。確かに、都ちゃんは『夕景』と言ったのだ。 僕は曲がりなりにも美術部員だ。素人の目から見れば、僕の絵でもそれなりに上手く見えるので、何の絵か分かったかなんて大して驚くようなことじゃない。だから、公園の絵だと分かったのは驚くような事じゃない。 なら、何をそんなに驚いているのかというと都ちゃんは僕の絵を見て『夕景』だと分かった。それは絶対にあり得ない事だ。 何故なら、僕の絵には色がない。ただ、鉛筆で描いただけの白黒。だから、『夕景』だと分かる訳がない。 「あの……もしかして、違いましたか?」 「ううん、合ってるよ。 どうして夕景って分かったの?」 事態は急変し、その理由が気になって仕方なくなっていた。それは僕の希望になり得るかもしれないから。 「……笑いませんか?」 「笑わないよ。 絶対に」 「……その。 お兄さんの絵を見たら、そうイメージ出来ました」 それは単純かつ明快で漠然とした答えだった。理由なんてない。ただそう思っただけのこと。浅ましくも理論じみた明確な理由を欲していた僕にとっては拍子抜けな答えだった。 もしかして、白黒の絵でも色を理解してもらえる方法があるかもしれないと淡い希望を抱いてしまった。頭ではそんな魔法みたいな事ある訳ないって分かっているのに。 全く、歳下の子どもに何を期待していたんだろうか……どうかしてる。 「すごいね。 僕の絵は白黒なのに」 「い、いえ……イメージするのが人よりほんの少し得意なだけです」 そういえば、母さんの地図の時もイメージ出来たと言っていた。あの時は理解力がすごいと勝手に思っていたけど、本当は文字通り想像出来たって事だったのか。実は、想像力が豊かだった?でも、想像力で道が分かるって……ニュアンス的に違和感があるけど、気にする事でもないか。 「………」 「そんなに気になる?」 じっと絵を見つめる都ちゃんに、そう尋ねるとコクコクと頷いた。 そして、少し間を置いてからくりっとした真っ直ぐな瞳をこちらに向け、口を開く。 「お兄さんが絵を描くところを見ててもいいですか?」 「……。 いいよ」 ──ギュゥルルルルッ。 その音と同時に都ちゃんが俯く。 「あ、うぅ……」 「でも、その前にお昼にしよっか」 都ちゃんと少し早めの昼食を摂り、再び絵の前へと座る。 さっきとは違い、隣には都ちゃんがいる。人に絵を描くところを見られるのは好きじゃないけど、この時は何とも思わなかった。 それから都ちゃんは僕が絵を描く姿を何も言わず、じっと眺めていた。時折、お茶を飲むフリをして都ちゃんの顔を伺うと、頰を緩めニコニコとしていた。どうして見ているだけなのに、そんなにも楽しそうなのか。僕には分からなかった。 絵は大方出来上がっていたので日が沈み始める少し前に帰路を辿っていた。 未だに、楽しそうにする都ちゃんにある事を尋ねた。 「退屈じゃなかった?」 返事は分かりきっているけど、そう聞かずにはいられなかった。 思っていた通り満面の笑みで『退屈じゃなかったですっ!』と返ってきた。 それが、山彦のように頭の中で響く。 分かっている。本当はそんな事が聞きたいんじゃない。僕が聞きたいのは、君が楽しそうに笑う理由だ。 でも、聞けなかった。聞いてしまうと泡のように弾けて消えてしまいそうだったから。 ♪ -都の日記- 4月21日 お兄さんがお弁当を忘れたので、学校まで届けに行きました。 中に入るのは難しいかと思っていたのですが、お兄さんの事を話すとすんなり入れました。ついでにお兄さんの居場所も教えてくれて本当に助かりました。 美術室へ入ってすぐに声をかけようと思っていたのですが、いざ絵を描くお兄さんの姿を見ると足が止まってしまいました。 また、あの時のお兄さんに会えた気がして……。こっそり見ていました。 でも、こっそり見るだけでは満足出来ません。もっと近くで、見ていたいです。ずっと……。 だから、紗枝さんにお願いして、私の分のお弁当も用意してもらっておいて正解でした。 やっぱり、お兄さんの絵……好きです。紫さんのおっしゃっていた通りキラキラですっ! 夕景……少し、ドキッとしました。 そういえば、校内で紫さんによく似た方を見かけたのですが、他人の空似だったのかな? ✳︎ 昼休みの教室。青二に、スマホであの絵の写真を見せてみた。 「なぁ、これ何に見える?」 「なんだ? 心理テストか?」 「いいから答えてくれ」 「オーケー。 任せろ」 青二は目を瞑り、スマホへ手をかざした。 「おい、何してるんだよ」 「プロフェッショナルの技を見せてやる」 「はぁ?」 「しぃっ! 今集中してるんだ!」 明らかにバカな事をしているのに、異様なまでの真剣さを発揮する青二。僕は言葉を失わざるを得なかった。呆れて。 「よーし。 見えてきたぞ……お、成る程な」 「なぁ、青二。 僕は真面目な話をしてるんだ」 「俺だって大真面目さ。 プロフェッショナルの技を信じろっ!」 「……はぁ。 で、そのプロフェッショナルの技で何が見えた?」 「んー、はっ! これは……白黒の公園の絵だ。 しかも、お前が描いたな」 「お見事、流石はプロフェッショナル。 やるねぇ、エスパー少年もびっくりだ」 バカなワンアクションを挟んだのはご愛嬌として。やっぱり、青二も白黒の公園の絵にしか見えなかった。当たり前といえば当たり前だけど。 「で、何でそんな事、聞いてきたんだ?」 「世の中にはこれを見て、夕景だってイメージ出来る子がいるんだよ。 それで他のやつにも聞いてみたくなったんだ」 やっぱり、都ちゃんの想像力は並外れていると考えるのが正しい。本当に、10年に1人……いや、100年に1人の天才かもしれず、驚嘆を禁じ得ない。……すぐに親バカになっちゃうな。 「それマジかっ!?」 「あ? あぁ、マジだ」 「見ただけでイメージって。 やべぇな、やべぇよ。 超能力かよ」 どうやら青二も僕と同じ感想を抱いたようだ。 「俺もイメージ力を鍛えたら、顔見ただけで女の子の履いてるパンツをイメージ出来るんじゃ……試す価値はあるな」 訂正。こいつは僕とは違う。ただのスケベバカだ。もしかしなくても、聞く相手を間違えた。 それで結果が変わるとは思えないけど、一応他にも当たっておいた方がいいな。 「お前にしてはキてるな」 「だろだろっ!」 「あぁ、キレッキレだ。 早速、委員長にイメージ力の鍛え方を聞いてくるといい」 「だな! 行ってくるぜっ! なぁ〜委員長〜〜」 青二は素早く委員長の元へと行った。遠耳に『あ、あのね。 そもそも、私は委員長じゃないよ』と聞こえたけど、聞かなかった事にする。その内、ちゃんと名前を覚えるから、それまでは委員長で。 さて、他に話を聞ける相手といえば。 「何、真一?」 僕は頼れる知人が少ない。読書の最中に話しかけるのは申し訳ないと思ったが、頼れるのはもう紫しかいない。 別に、クラスメイトという視点であれば他にもいる。だが、絵の話が聞ける程、気が許せる仲となれば2人しかいないだけだ。決して、2人がいなかったら寂しいぼっち野郎って訳じゃない。 「ちょっと聞きたいんだけどさ。 これ何に見える?」 青二の時と同じようにあの絵を見せる。すると『キラキラしてる』と外角低めに抉りこむような珍解答をされた。 流石は紫さん。常識では測れない感性の持ち主だ。常人の二歩先をいくキング……いや、クイーンっぷりだ。 「なぁ、紫。 確かに、人類の英知の結晶、液晶画面はとてもキラキラしている。 でもな、そういう事を聞いてるんじゃないんだ」 「ん? 私もそういう事を言ったんじゃないよ?」 「なら、どういうつもりで言ったんだよ」 「この絵。見てると胸がぽわってして、何か素敵な想いを感じる。 だから、キラキラしてるって言った」 おかしい。言葉の意味を教えてもらったはずなのに、余計に意味が分からなくなった。 そもそも素敵な想いって何だ?描いた本人ですら知らないぞ。 「これ描いたの真一でしょ?」 「あぁ、そうだよ」 「やっぱり。 真一の色だと思った」 「なっ!?」 紫もまた僕の絵から色を感じ取ったのか!? 「なぁ、それってどんな色なんだ!?」 「黒と白」 と思ったら違った。全く、ぬか喜びだよ。 「何だ……ただの白黒か。 色、ないじゃないか」 「ただのじゃない。 ちゃんと色はあるよ」 席から立ち上がり、これでもかと顔を近づけてくる紫。それは、吐息がかかる程近く。何かの弾みで押されると、とんでもない事故が起きるのは確実だ。 そして、真っ直ぐこちらを見つめる瞳は……都ちゃんに似ていた。 「濃い黒、薄い黒、擦れた黒、優しい白、力強い白、燻んだ白。 みんなちゃんとした色。 みんな語りかけてくる」 「………」 「だから、ちゃんと色はある」 「そんなの……。 とんちだよ」 紫の真っ直ぐな瞳に耐え切れず、目を伏せる。 「えいっ」 「ぬぁっ!?!?」 すると、いきなり頰をつねられた。 「お、おい」 「私、読書中に話しかけられるのは好きじゃない。だから、ペナルティ1。 これは累積してく」 「それは、悪かったよ。 次から気をつける」 「でも、話しかけてくれたのは嬉しかった。 だから、読書の分のペナルティは無し」 紫は言い終えると席に戻り、読書を再開した。 だったら、さっきのペナルティは何の分だよ……とは聞けず、教室を後にする。紫につねられた頰がじんわりと痛んだ。 「おっ、黒川くんじゃないか」 とりあえず、ジュースでも買おうと自販機の前まで来たものの、特に買いたいものもなく迷っていると後ろから声をかけられた。 声を聞いただけでもため息が出そうなのを堪え、後ろを振り向く。 「檀野先輩……どうもです」 案の定、そこに居たのは同じ美術部に所属する3年の檀野先輩だった。檀野先輩は自信家で、よく自分は有名画家の◯◯◯に匹敵する天才と称している。その自信は自作の名刺を持ち歩く程で、かなりのものだ。ただ、それは自惚れではなく実力から来るものだ。 檀野先輩は、幼い頃から英才教育(本人曰く)を受け、数多くのコンテストで賞を受賞している。なので、絵の才能があるのは確かだ。 決して、口だけの鼻持ちならない嫌なナルシストではない。話し方や接し方は、正にそれだけど。 部では発言力(?)が強く、仕切る事が多い。ただ、人望はそんなにないので従う人は少ない。 理由は分からないけど、入部当初から目を付けられている。だから、僕はこの人が苦手だ。 「何か用ですか?」 「いや、用って程でもないんだけどね。 最近、絵の方はどうかと思ってね」 やっぱり、それか。 「ぼちぼちって、感じです」 「おいおい、そんな謙遜するなよ。 また土曜に来てたんだろ? 誰よりも熱心に描いてるって先生から聞いたよ」 にこやかな顔で本当に嫌な事を言ってくる人だ。何処で仕入れたかは知らないけど、この人は僕のアレの事を知っている。知ってて、その話へ持って行こうとする。いつも。 「……下書きは終わりました……」 「そうか、それは良かった! 君は熱心で僕も認める素晴らしい部員だからね。 心の底から嬉しいよ!」 「……恐縮です……」 「うんうんっ。 それで、色はいつ塗るのかな?」 いつも通り、嬉しそうに色の事を突いてくる檀野先輩。 「まさか、また塗らないつもりかい?」 「……まぁ、塗るの苦手なんで……」 「ダメだなぁ。 もっと君の才能を活かさないと。 ほら、努力する才能をね。 分かるだろ?」 「………」 「なぁ、苦手だからって逃げてばかりじゃいけないと思わないかい?」 「……そう、ですね。 次、頑張ります」 「そうか、次か。 うん、楽しみにしているよ。じゃあね」 クソったれピエロの檀野先輩は、今日の楽しみを終えると愉快に笑いながら去っていった。 今日は部活を休む事になるな。これもまたあの人の糧になると思うと癪だけど、そんな事はどうでもいい。勝手にしてくれ。 ✳︎ 学校から帰宅し、リビングへ入ると都ちゃんが僕を待っていた。 「あれ? 母さんは?」 「お兄さん、これ」 都ちゃんからメモを手渡された。そこには 『急に繁さんのところへ行かなくちゃいけなくなったの>< 夜の10時には帰れると思うわ! だから、晩ご飯はシンちゃんに任せるわね♪』 と書かれていた。どうやらまた急な呼び出しがあったみたいだ。 繁さんとは僕の父さん。つまり、母さんの旦那だ。 父さんは研究職で、泊まり込みが多く、滅多に家に帰ってこない。母さんが呼ばれたのはまた生活面での事だろう。父さんは研究に没頭すると生活面が壊滅的になる。ご飯を食べないのは当たり前、身だしなみなんて言うまでもない。その上、研究以外の話は聞かない。 それに危機を感じた同僚が母さんに頼る。その訳は、いくら研究に没頭した父さんでも母さんの話は聞くからだ。母は父より強し(我が家においてはだけど)。 とりあえず、状況は分かったので冷蔵庫の中を確認した。すると、食材は殆どなかった。今回は買い物へ行く前に呼ばれたらしい。 つまり、晩ご飯を任せるとは好きに済ませてくれという事だ。 「それじゃあ、今日は外に食べにいこっか」 「へ……っ!?」 外食を提案しただけなのに、マンガのようなオーバーリアクションをして驚く都ちゃん。一体、どうしたんだろうか? 「もしかして、外食はあまり好きじゃない?」 「い、いえっ! そういう訳ではなく……あまり行った事がないので」 「あ、そうなんだ」 俯きながら、人差し指を擦り合わせるなんてリアルでする人いたんだ。ちょっと感動した。 それはさておき。外食をあまりした事ないなんて珍しいと思った。それ程、白間家では食への拘りが強いんだろうか。まぁ、お米の件を考えるとなきにしもあらずだ。もしそうだとしたら……。 突如、頭の中で悪魔の囁きがし、少し意地悪をしたくなってしまった。 「どうする? 自炊のがいいなら何か作るけど?」 「えっ!? えーと、それは……その……」 モジモジする都ちゃん。その様子から内心はどうしたいのか容易に分かる。いや、都ちゃん風に言うと容易にイメージ出来る。 そう、あまり外食に行った事がないのなら、行ける機会があれば、すごーく行きたいはずだ。 「都ちゃんの好きな方でいいからね」 「あ、ぅ、そんなぁ……ぁわわ……」 アニメのキャラクターみたいにあたふたしする都ちゃん。 きっと、外食したい気持ちと遠慮する気持ちがせめぎ合ってるんだろうなぁ。それこそ、天使と悪魔が戦ってるみたいに。 さっきから、こっちを見ては目を伏せ、こっちを見ては目を伏せてを繰り返している。相当悩んでいるのが伺える。 何だろう。この胸のポワポワする感じは……ついニヤけてしまいそうになる。 「どうする?」 「ぁ、うぅ。 その……お兄さんとなら。 外が、いい……ぇす……」 「うん、分かったよ」 「──ふあぁっ! ……あっ……!?」 「それじゃあ、着替えてくるね」 「……ん、ん……」 そして、リビングを後にする。自室へと入ると真っ先にベッドへと倒れ込み 「─────────っ!!!!」 枕で声を殺し、思いっきり叫んだ。 何だ、何なんだ。あの可愛い仕草はっ……!!顔を真っ赤にしてっ!上目遣いでっ!しかも僕とならって、僕とならって……っ!! 最後も、笑顔を輝かせてから我に返って。口元が緩んで笑窪くっきりなのを必死に隠そうとして俯いて『……ん、ん……』って、コクコク頷いて……。 あぁ、もうほんとに、子どもって可愛いなぁ。可愛い過ぎるよ。ちょっとした出来心だったけど、良いものが見れたなぁ……。 すぐさま体を起こし、机の引き出しを開ける。 「さて、ヘソクリは……。 確か、ここに……」 今なら、あの時の紫の気持ちが分かる。僕も紫のように都ちゃんを愛でれたら、無限にナデナデしているところだ。けど、僕がそれをすると有毒廃液に突っ込むぐらい真っ青なエンディングを迎えてしまう。 だから、別のアプローチをする。今夜は好きなものを好きなだけ食べさせてあげよう。ちょっと意地悪もしちゃったから、そのお詫びも兼ねて。 この小さな町では外食が出来る場所は限られている。駅前にあるファーストフード店の『バーガージャック』、商店街にあるラーメン屋『天下人』、昔ながらの懐かしい味を売りにしている食堂『味庵』、そしてチェーン店のファミリーレストラン『full eat』だ。 都ちゃんの好みをはっきりと把握している訳ではないので、今日は『full eat』で済まそうと思う。 この店は、その名の通りいっぱい食べれる(食え)のを売りとしている。丼物の大盛りが無料だったり、セットによってサイドメニューが食べ放題になる。更に、和洋中の様々なメニューを取り揃えており、客のニーズに幅広く応えてくれる。あと、学生の財布にも優しい。 「わぁーっ! メニューがたくさんあります!すごいですっ!」 「好きなのを頼んでくれていいからね」 メニューを見て瞳をキラキラさせる都ちゃんを見ているとここに来て良かった思う。しかし、この完璧そうなお店にも少々問題がある。 「へいっ、おまち! 当店自慢のフライドポテトだぜ!!」 それは、よく知っているやつが働いている事だ。 「青二。 まだ何も頼んでないぞ」 「ふっ、俺からのサービスに決まってんだろ。 言わせるなって!」 ばっちり両目を瞑る青二。ウィンクが出来ないなら無理にやろうとするな。ただの忙しない瞬きになってるぞ。面倒だから言ってやらないけど。 「んじゃ、決まったら呼んでくれ」 「おう。 ポテトサンキューな」 厨房へと戻る青二。それと同時に、何やら厨房が騒がしくなった。あいつ、もしかして無断でポテトを出したのが即バレたんじゃ? まぁ、何にせよ悪いのはあいつだし、気にせず厚意には甘えておこう。骨ぐらいは拾ってやるからな。 「あ、あの決まりました」 「なら、呼ぶね」 呼び出しのボタンを押し、青二を呼ぶ……というか、青二が来た。丁度いいから、特に気にしないけど。 「ご注文をどぞっ!」 「オムライスセット。 スープはポタージュで」 「ハンバーグセットと……ライスの……な、並……ぉねがい、します……」 「………」 「ハイ、ハーイっ! かしこまり!」 「青二。 あと、レモンだ」 「おっ!! りょうかーいっ!!」 注文を受けた青二はチャラい敬礼をし颯爽と厨房へと戻った。僕はすかさずスマホでメールを打ち、送信する。 「あのお兄さん、レモンって? そんなのメニューにありましたか?」 「え、ポテトにかけようかなって。 はははぁ」 「ポテトに……レモンですか?」 「あっ、飲み物取ってくるよ! 何がいいかな?」 「え、えーと……オレンジジュースでお願いします」 「じゃあ、ちょっと待っててね」 ふう、焦った。まさか、レモンに食いつかれるとは思わなかった。 勿論、さっきのレモンは本当にレモンが欲しいって意味じゃない。あれは、暗号だ。 昔、2人で某スパイドラマにハマった時に作った。アップルが危険、バナナが逃げろ、オレンジが安全、そしてレモンが緊急事態・連絡だ。他にも、ストロベリーとか、グレープもあったけど、その辺は忘れた。 要は、都ちゃんにバレないように僕のメールをすぐに見ろと伝えた。その理由は。 「あのお兄さん」 「どうしたの?」 「これ並ですよね? ご飯多いような……」 「ここだとそれぐらいが普通じゃないかな」 「そう、なんですか……?」 勿論、それは嘘だ。僕がメールで大盛りに変更して──もとい気持ちで増やしてくれて構わないと伝えた。 数日とはいえ都ちゃんの食べっぷりは知っている。いつもご飯を2杯は必ず食べているのに、ライスが並でいいなんてあり得ない。遠慮をしているのは丸わかりだ。 僕は、都ちゃんに好きなものをお腹いっぱい食べて欲しいと思っている!『full eat』だけにっ!……口にチャックをつけておいて正解だった。 気を取り直して……だから、遠慮はさせない。 「まぁ、盛り付けは人のやる事だからね。多少のミスはあるよ。 だから、お腹いっぱい食べてね」 「──っ。 は、はいっ!」 この余計な一言で手を回したのがバレてしまったかもしれない。けど、それはそれで良かった。 その後、都ちゃんは遠慮せず好きなデザートを頼んで、目一杯喜んでくれたのだから。 「うふふー」 「……ご機嫌だね、母さん」 「あら、やっぱり分かる?」 「ま、まぁね、そりゃ」 帰ってくるなり、ずっと幸せオーラ満開でニコニコしているのだから嫌でも分かる。しかも、何があったかは大体察せる。 「今日ねー、繁さんとお風呂入っちゃった♡」 「……そう。良かったね」 いつも通り、惚気てきたみたいだ。 「でね、繁さんったら」 「待って、母さん。 世の中には言わぬが花って素敵な言葉があるんだ」 「私は花より団子派だからいいのよ」 何となく言いたいことは分かるけど、それは絶対に間違っている。 「母さん。 頼むから、僕の血糖値を上げないでよ」 「えぇー、良い話なのに」 良い話だろうと両親のイチャラブを聞く息子にかかる負担は、日本の年金制度と同じなんだ。許してほしい。 「あのね、シンちゃん。 日本には裸の付き合いって言葉があるのよ」 「それ精神的な意味合いの言葉だよ」 「細かい事はいいじゃない。 裸なら本音を語り合えるのは一緒よ」 「それはキャベツとレタスぐらい違うよ」 「もう……あ、シンちゃんもやってみれば、きっと分かってくれるわ!」 「……ソウダネ、ウン」 母さんの考えを聞いていると感情を失いロボットのようになってしまう。出来れば、理解出来る日が来ないのを祈るばかりだ。 ガチャリと音が鳴り、扉が開く。 「お風呂上がりました」 「それじゃあ、母さん。 惚気るのも程々にね。 都ちゃんがいるんだから」 「むぅ、はーい」 年甲斐もなく膨れる母さんを横目にリビングを後にする。そして、洗面所の扉に手をかけるのと同時に後ろから声をかけられた。 「どうしたの、都ちゃん?」 「……んと…ですね………お、お…にぃ。 お……ぁ、うぅ…おやすみなさいっ!」 「え……うん。 おやすみ」 都ちゃんはおやすみの一言を言い終えると慌ただしい様子で二階へ駆け上がっていった。途中で『ひぅんっ』という声とともにすごい音がしたけど……階段で転けた?みたいだ。大丈夫かな。 ♪ -都の日記- 4月23日 今日はお兄さんと2人でご飯に行けて良い一日で終わるはずだったのに……最後の最後に下手をしてしまいました。 いつもお世話になっているお兄さんに『お礼をしたいです』って言いたかっただけなのに……恥ずかしがって……。ちゃんとお礼したいのに……。 ううん。気を取り直して、明日頑張ります。 ✳︎ 今朝、都ちゃんの様子があからさまにおかしく、学校に着いてからも、その事で首を捻っていた。 「んー」 「朝から何唸ってんだ?」 「それがさ」 とりあえず、青二に相談してみた。やむを得なく、ほんとやむを得なく。 「何だそりゃ。 惚気かよ」 「は? どこが惚気なんだよ」 「いいか? 朝起こしに来てくれて、洗面所でタオルを渡してくれる。 食卓では醤油を取りにいってくれて。 果ては靴を暖めてもらっただとぉー? しかも、あんな可愛い子にっ! 最早、新妻さんだ。愛されてるんだよ」 腰に手を当て踏ん反り返る青二の力説を聞き、開いた口が塞がらない。 「お前……」 「おん、何だ?」 「頭、留守なのか?」 「ったく、お前ってやつは……。 それは、ちゃんと頭にノックして言え」 気にするのはそこなんだな。 「起こす、タオル、醤油はいいとして靴はどう考えてもおかしいだろ。 それに、それがどう愛されるに繋がるんだよ」 「長年の読書による知識から導き出された真理さ」 頼むから日本語で返してくれ。いや、そもそも最初の選択肢から間違えているか。 「はぁ、お前に相談した僕の頭が留守だったよ」 「おう。って、それ俺をバカにしてないか?」 「さぁな」 全く、都ちゃんが僕に対して変に気を遣い始めたから相談したのに、愛されてるって……どんな思考をしてるんだよ。青春モノのラノベに影響され過ぎだ。そんな簡単に愛だの、恋だのになる訳ないだろ……ったく。 でも、一理ぐらいはあるのかもしれない。意味合いは変わるけど。勿論、青二の言うようなのは抜きだ。 ♪ 「んー」 「なぁ、都。 朝から難しい顔して何かあったの?」 「みんな。それが」 首を捻る私を、心配してくれた友達(邦美、数恵、英子の3人)に今朝の事を相談してみました。お兄さんを喜ばせたい件も含めて。 「都。 ほんとお兄さんのこと」 「しっ! 邦美、それは言っちゃダメ! 都はピュアなんだから!」 「でもさぁー」 「数恵の言う通り。 自分で気付くまで言わない方がいい」 「英子まで」 何かを言おうとする邦美を数恵と英子の2人がかりで止めた。2人は何やら私の事を気遣ってくれてたみたいだけど……どういう事か全く分からない。 私がピュア?気付く?何の事だろ? 「ったく。 とりあえず、都。 それじゃダメだっ!!」 「え……どこがダメだったの?」 「いいか? 朝起こしてもらって喜ぶ男なんていない。 タオルも、醤油も気が利く程度にしか思われない。 100歩ゆずって、ここまではまだいい。 問題は、その後だ! 靴をあっためるって──そんなの喜ばれた方が困るわっ!!!」 腰に手を当て容赦なくダメ出しをする邦美を前に、開いた口が塞がらない。 「そ、そんな……前に読んだ本では靴を暖めるのは喜ばれてたのに……」 「信長はもういない。 忘れろ」 「そもそも冬じゃないから喜ばれない」 「いや、そういう問題じゃないよ。 英子」 「へー? 違うの?」 「普通に引くだけだから」 「──っ!?」 数恵の言葉を聞き、頭の中に稲妻が走る。引く…引くって……気味悪がられたって事だよね。確かに、今思い返すと玄関でのお兄さんの顔……引きつってた。 「どうしよう……お兄さんに変な子って思われたかな……」 『まぁ、うん』 3人の声が一斉にハモり、自分のしでかしたミスに頭を抱えてしまう。 「うぅ、どうしよう…どうしよう…どうしよう……ただ喜んでほしかっただけなのに」 「落ち着きな、都。 あたし達がいるだろ?」 「…みんなぁ…」 「一緒に良い方法を考えてあげるからさ」 「ありがとう」 「ふふん、いいってことよ!」 やっぱり、持つべきものは友達。ピンチには助けてくれる。みんなと友達になれて本当に良かった。 と、都は思っているが3人はただ面白そうだから手を貸すだけで。結果的にはからかわれるだけなのだ。 が、都はそれに気づかない。それ程、人との関わりに慣れていないから。 「それじゃあ、邦美は何をしたら喜んでくれると思う?」 「それはだな……………………」 「邦美?」 「か、数恵っ。 何か言いたそうだな!」 「はぁ、あんたねぇ……じゃあ、クッキーを作ってあげるとかは?」 「クッキー……ですか」 そういえば、お母さんに聞いた事があります。 手作りクッキー。それは、古来よりクラスメイト間で仲良くなる為に用いられた対友人用親睦スイーツだと。特に、女子から男子へ送るクッキーは特別な意味合いを持ち、その効果は非常に高くなると。さらに、貰った男子は皆口を揃えて大いに喜んだとも。 広い言い方(?)をすればお兄さんも男子です。つまり、手作りクッキーを渡せば喜んでくれるに違いありません。よし。 「私、クッキー作ってみようと思います!」 「えぇ、クッキーって。 今時、低学年だって喜ばないでしょ」 「じゃあ、あんたが代案を出しなさいよ」 「クッキーがいーとおもいます」 「なら、決まりね」 「ふっふっふっ、みんなまだまだ青い。 そんなモブに毛の生えたような考えではダメ」 話がまとまりかけたその時。真打ち登場と言わんばかりに英子が声を上げた。 ところで、あの額に人差し指を当て、空を見上げるように仰け反ったポーズは何なんだろ? 「いいみんな? 私たち小学生じゃ1人でクッキーを作る事にはならない。きっと、ママが手伝ってくれる。 それは手作りクッキーとは言わない。それは、ただのママのお手伝いクッキーだよっ!!」 「どストレートなネーミングセンスね。 第一クッキーくらい言えば1人で作らせてくれ」 「確かに……英子の言う通りです……」 「都っ!?」 抜かっていました。手作りクッキーとは1人で作るもの。まだ幼くて1人で作れない私は、紗枝さんに頼る事になってしまう。そうなれば、よく頑張ったねと褒められる事はあっても、真の意味で喜ばせた事にはならない。 「……また振り出しです……」 「振り出しじゃない。 私に名案がある」 落ち込む私の肩に手を置き、優しい顔で名案という希望を与えてくれる英子。その眼差しはアメリカのヒーローのように力強く、牧師さんのように私の不安をかき消してくれた。 私は明るい声で名案が何か聞きました。そして、英子が出した名案は。 「それは、一緒にお風呂に入ること」 想像を絶するものでした。 一緒に、オフロ……?オフロ…オフロって何だろ…。英語かな、フランス語かな、イタリア語かな?それとも響き的にドイツ語かな……日本語じゃ、ない…よね? 「あ、あのね、英子……その」 「お風呂で背中を流せば、バッチリ」 やっぱり、日本語でした。 「むむ、無理だよっ! お母さんとだって5歳までだったのに……この歳で誰かと一緒にお風呂なんて」 心の中で『気にするのそっちなんだ』と思う邦美と数恵。2人は『男女』ではなく『誰かと一緒に』を恥ずかしがる辺りがピュアなのだと思った。 そして、英子はこれだけピュアなんだから提案すれば『絶対にやる』と思っていた。なので、翌日ものすごく怒られるのは必然だった。 「都、聞いて。 とあるバンドアニメを見て、私の兄は言いました。我が家にも一緒にお風呂に入ってくれる妹がいれば最高だな、と」 「そんな事言われても……」 お兄さんと一緒にお風呂。そんな事、イメージするだけでも顔が熱くなるのに、本当にやったら……頭が爆発しちゃう。 「でも、英子の兄貴ってオタクじゃん。 その話、頼りになるの?」 そうだよ。まだお兄さんに、それが通用するとは限らない。もし、英子のお兄さんが特殊なだけならしなくていい。 頑張って、邦美!英子に打ち勝って! 「これは男のピュアな欲求だからみんな共通って言ってた。 だから、大丈夫。 問題ない」 「なるほどなぁ」 「………」 「はよー。 朝から、何騒いでんの?」 「──っ!!」 英子に言い包められそうな邦美に全ての希望を断たれたと諦めかけた時、1番頼りになる人が来ました。 「里香、おはよう! 今日は遅刻じゃないんだね!」 「都、あんたね。 あたしだって毎日遅刻するわけじゃないからね。抜け道だってあるし……」 「ん?」 「何でもないよ。 で、どしたの?」 さっき小声で何か言っていたような気がするけど、今はそんな事より英子を止めてもらわないと。 「あのね」 里香に事の経緯を簡単に説明した。里香は見た目は派手だけど、この中では1番の常識人です。だから、困った私の事を助けて──。 「あっははは! 何それウケる。 やっちゃいなよ」 くれませんでした。 「里香ぁ……」 「大丈夫だって。 都、可愛いから」 「そういう問題じゃないです……」 「それに朝の失敗を取り消すには、それぐらいインパクトのあることしないと無理だよ?」 「…それは…」 「だから、ね?」 「………」 そんな無理のある理論を整然と説かれたって私は言い包められません。お兄さんと一緒にお風呂なんて絶対に、絶対に無理ですっ!! 「お風呂沸いたみたいだよ。 都ちゃん、先に入りなよ」 「………」 「都ちゃん?」 夕食を終え、リビングで一緒にテレビを見て過ごすこと1時間。ついに、この時が来てしまいました。 いつもならお兄さんも私も自室で過ごすところを今日は『一緒にテレビを見ませんか?』と自分から誘い、機会を作りましたが…ほ、本当に、一緒にお風呂に……。 「どうしたの? もしかして、まだテレビ見てたい?」 「ひゃっ!?」 黙り込む私を心配したお兄さんに顔を覗き込まれ、つい取り乱してしまう。うぅ、まだ言う前なのに……。 「ご、ごめんっ。 驚かせるつもりはなかったんだけど、その何かしちゃったかな?」 「いえ、そういう訳じゃなくて……うぅ」 私がウジウジしたせいで、お兄さんが困った顔を…私はただ……。 胸の前でぎゅっと両手を握る。 「あ、あの……わ、わわ、わ、私と…一緒に、お、おふ、おふ…」 「おふ?」 「お風呂に入ってくださいっ!!」 「………」 言ってしまいました……。お兄さんは……黙り込んでる。やっぱり、一緒にお風呂なんて…ダメですよね。 「うふふー、シンちゃーん。 聞こえたわよ」 「か、母さんっ!?」 さっきまでリビングの机でPCを使っていた紗枝さんがいつの間にかお兄さんの真後ろにいました。 「キ・モ・チ。 これで分かる?」 「何言ってるの! 相手は」 「んー?」 「……はい、分かります……」 2人が何の話をしたかは分かりませんが、その後はトントン拍子で事は進み、お兄さんと浴室へ。 ──ガチャリ。 「し、失礼します」 「う、うん。 どうぞ」 蛇口からピチョン、ピチョンと雫が溢れ落ちる。それに呼応するように鼓動が高鳴る。 先に入ってもらっていたお兄さんはこちらに背を向け、バスチェアに座って待ってくれていました。 「それじゃあ……お願い」 「は、はい……」 お兄さんの手からボディソープとボディタオルを受け取り、泡立てる。 入る前、お兄さんに『お背中を流させてください』とお願いをしていた。もちろん、英子の言葉を信じて。 恐る恐る大きな背に手を押し当て、上下に擦る。 「どうですか? 気持ち…いいですか?」 「え……と、うん。すごくいいよ。 はははぁ…」 「よ、良かっ、ひゃです……」 緊張のあまり声が裏返ってしまう。ここまでは、まだ何とか……でも、この後に。 ──休み時間。 『里香。 い、今なんて…!?』 『だから、タイルで滑ったフリして後ろから抱きつくんだってば』 『まだやるなんて言ってないなのに……。 うぅ、そんなの出来る訳ないよ……』 『やったら喜ぶと思うけどなー』 本当にそれで喜んでくれるのかな。今も喜んでくれているというよりは……。 「…変ですか…?」 「えっ」 「いきなりこんな事をお願いして…変な子って、思いましたか…?」 声が震える。もし今朝と同じで引かれていると思ったら、今にも泣きたくなった。 そんな私を見兼ねたお兄さんが優しい声で提案をしてくれました。 「ちょっと冷えたから湯船につかろっか」 「…はい…」 2人で入るには少々窮屈な湯船ですが、先に入ったお兄さんが足を開いてスペースを確保してくれていたので、そこへ座り込みました。無論、向かい合わせは恥ずかしいので背を向けて。 私が黙り込んでいるとお兄さんの方から話題を出してくれました。さっきの紗枝さんとのやり取りの事、『裸の付き合い』の事を。 「ほんと無茶苦茶だよね」 「ふふ、ですね」 「他にもね」 それからお兄さんと他愛ない話を続けました。それはとても楽しくて、泣きそうだった心がどんどん解れいきました。 「今日さ。 朝から都ちゃんの様子がいつもと違って変だったから、ずっと心配してたんだ」 さっきよりも優しい声で話すお兄さん。今朝の事……やっぱり、変だって思われてたんだ……。 「それを青二に相談したら愛されてるって言われた」 「あ、愛っ!?!? 私が、お兄さんを……うぅ」 「話が飛躍し過ぎだよね。 でも、一理あるって思ったんだ」 い、一理ある!?それって……お兄さんは、私に愛されてると。そ、そそ、そんな事が……!? 「なんていうか。 兄妹愛みたいなものはあるかなって」 「兄妹…愛ですか?」 「うん。 きっと都ちゃんは僕の事を想ってしてくれたんでしょ?」 「はい……いつも優しくしてくださるお兄さんに喜んでいただきたくて」 「それって兄と妹みたいだよね。 あの時の言葉が本当になったみたいだよ」 兄と…妹………あの時の言葉。 「それで、都ちゃんが本当の妹みたいで嬉しいなって思ったりして」 「……っ」 唇に力がこもる。 お兄さんはあの時の事を覚えていない。それでも、今のお兄さんもあの時と変わらない優しいお兄さん。だから、思い出せなくてもいい。 ずっとそう思っていた。いや、思い込もうとしてきた。 「へ、変な話だよね! 第一ひとりっ子なのに兄と妹みたいって」 「変じゃないです」 ──けど。 「お兄さんは、私にとって『お兄さん』ですから」 あったはずのものがないとどうしようもなく寂しい。胸にぽっかりと穴が開いたみたいで……嫌な気持ちになる。 ♪ -都の日記- 4月24日 お兄さんとお風呂で、裸の付き合いをして分かりました。私が本当に望んでいたことを。 今のお兄さんも優しいお兄さんです。でも、あの時のお兄さんに会いたい…私を思い出してほしい。私がそう思うのはおこがましい事ですけど…それでも……。 まだ、どうすれば思い出してくれるかは分かりません。でも、お兄さんなら思い出してくれると信じています。 だって、あの夕景の絵を描いていましたから……ふあっ、そうです!夕景です! これなら、きっと……。
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