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─4─ 目を覚ますと机に伏していた。まだ覚醒しきっていないぼんやりとした頭で記憶の糸を辿る。 確か、昨日は夕飯も食べずに絵を描く事に没頭して……何枚も描いては捨て、描いては捨てて……ようやく納得のいく絵が出来て、そのまま……っ!? 飛び起き、腕の下を確認する。 「良かった……無事だ」 最後の記憶は描き終えて、すぐに意識が途絶えた。ベッドに倒れる暇もなく。つまり、描いた絵を下敷きにして眠ってしまっていた。 なので絵の安否を確認するため、慌てて起きた。絵は汚れも折れもなく事なきを得た。 今日の夕方に間に合わせる為に必死に描いたのに、こんな凡ミスで台無しにする訳にはいかない。本当に焦った。 が、そのおかげで完全に目が覚めた。覚醒した頭で部屋を見渡すとある事に気付いた。 何故か、部屋の電気が消えていた。絵が完成した直後に意識を失ったから電気を消す余裕なんてなかったはず。それに、肩にはブランケットが掛けてあった。一体、誰が……。辺りを見渡すと、すぐに誰の仕業か分かった。 「母さんか」 机の上にトレイに乗せたおにぎりと書き置きがあった。 『ご飯はちゃんと食べて行くこと! お風呂もね! P.S.牛乳を飲むのも忘れないでね』 おにぎりを手に取るとまだほんのり暖かかった。 「早起き……苦手なくせに」 しっかりと手を合わせおにぎりをいただく。それから朝のシャワーも済ませ、準備万端。無論、牛乳はお風呂上がりに飲み、気合い充分!で家を後にしたのだが。 「かっしーなぁ。 野球部っていつもこのくらいに朝練してるから大丈夫だと思ったんだけど」 時刻は7時前。校門の前で首を傾げていた。 「もしかして、まだ入れないのか」 今日は朝から美術室を利用するべく早く来たものの、かたく閉ざされた校門を前に肩を落とす羽目に。 迂闊だった。クラスメイトが野球部の朝練が7時からでダルいとボヤいていたのを盗み聞き……というか嫌でも耳に入った。 それで早朝から来ても大丈夫と決めつけていたけど、朝練の場所が学校のグラウンドだなんて一言も言ってなかったよな。今も誰もいないし……。そもそも、本当に朝練をやっていたんだろうか。 さて、どうする。一旦家に帰る訳にもいかないし、かといってここで時間を潰すのも嫌だ。 「おはよう、真一」 「ああ。 おはよう、紫」 「今日、早いね」 「まぁな……んっ!?」 これからどうしようかと悩んでいた矢先。背後からさも当然かのように、紫に挨拶をされた。紫の神出鬼没さにも慣れてしまったせいか、ナチュラルに挨拶を返してしまったが、何で紫がここにいるんだ!? 「こんなところで何してるの?」 「それはこっちのセリフだ!」 「何で?」 「いや、何でってこんな朝早くに学校に来てる訳だし」 「でも、真一の方が先にいたよ?」 た、確かに……紫の言う通りだ。まさか、紫にまとも(?)な事を言われる日が来るなんて。 「それはだな……ちょっと美術室に用があって」 「なら、同じ。 私も美術室に用があるの」 偶然、紫も同じ目的だった。なら、同じ穴の狢同士仲良くこれからの事を。 「何してるの? 早くいこ?」 「……おう、そうだな」 校門の横にある警備員用の門をいとも容易く開ける紫。そっか……そっちは開いてたんだな。 紫と2人で職員室に向かっている最中。気になったので門の件を聞いてみると前にも朝から美術室を利用させてもらったから知っていたとの事だった。 しかも、僕とは違い事前に顧問に朝から利用出来るか聞いていたと。仕方がなかったとはいえ、特攻野郎の自分が少し恥ずかしくなった。 それを紛らわすようにグラウンドに目をやると息を切らした野球部員達がいた。どうやら外にランニングに出かけていて、今帰って来たみたいだ。なんか疑ってごめん。 「それじゃあ、私寄るところあるから。 先に行ってて」 職員室から戻ってきた紫から鍵を受け取り、美術室へと向かう。 「……」 美術室へ入ると妙な気持ちになった。いつも通りここが埃っぽいのは変わらない。なのに、今日は清々しい気持ちになった。朝の澄んだ空気のせいか、それとも……。 「どうしたの?」 入り口で立ち尽くしているといつの間にか紫が合流していた。僕は『何でもない』と返し、準備をはじめた。 ずっとロッカーにしまっていた小さなバッグを取り出す。それだけで、じわりと手に汗をかいていた。水道の側に積んである絵の具用のバケツを手に持ち、蛇口をひねる。ただ水を汲んでいるだけなのにソワソワした。パレットを広げるとあの日の事がフラッシュバックした。 そして、今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいになったが、都ちゃんが描いてくれた絵を思い出して何とか堪えれた。 最初の一歩。それが一番難しい。だから、最初の一歩さえ踏み出せれば後は簡単だ……最初の一歩、最初の一歩さえ……。 水彩絵の具をひとつ手に取る。蓋を外し……そして。 「でき……た。 やっと、やっと。 くぅっ!」 それは、ただパレットに絵の具を出しただけだった。でも、長い間それすらも怖かった僕からするとアポロ11号の月面着陸ぐらい大きな一歩だ。まぁ、本当の最初の一歩はまだだけど。 「色、塗るんだ」 ガッツポーズを決め、大袈裟に喜んでいたせいか。少し離れて作業をしていた紫がこちらにやって来ていた。 「あぁ、この絵にはどうしても色をつけたいんだ」 「なら、何で白?」 「べ、別にいいだろ。 使うん……だし」 頰が少しかゆい。若干、アツい気もする。 別に、最初に白を出したのに深い意味はない。ただ、何となく、何となーく、最初に出すのが白だと安心出来たからだ。そう、ただの気まぐれだ。 別に、都ちゃんは関係ない。断言してもいい。しないけど。 「ねぇ、色塗るところ見てていい?」 「いや、紫にはやる事があるんじゃ」 「別にいい。 こっちの方がキラキラしてる」 「キラキラって」 「早く塗ろ?」 「はぁ、分かったよ」 自分もやる事があって朝早くから来ているはずなのに、例のごとくキラキラしてると言ってほっぽり出すとは。相変わらずよく分からないやつだ。 「……」 「ねぇ、まだ?」 「こ、心の準備がいるんだよ!」 「もう……待てない」 もう待てないって。勝手に見たいと言っておきながらなんて厚かましいんだ。 あと、隣に座ってるからって耳元で囁くな……お前はれっきとした女なんだからな。別の意味で緊張するだろ! 「怖いの?」 確信を突いてくる紫。そりゃそうか分かりやすく手が震えてるしな……。 「……あぁ、そうだよ。 もう何年も色を塗れなかったんだ。 そう簡単には出来ない」 都ちゃんのおかげで決意出来たにも関わらず、いざ目前に迫ると尻込みする。我ながら情けない。 「なら、私が何とかしてあげる」 「あ、おい」 紫は小走りで自分の鞄を置いている机まで行き、1枚の絵を持って戻ってきた。 それは奇しくも、僕の絵と構図がよく似ていた。 「これで予行練習すれば大丈夫」 「でも、それは」 「いい。 ピンチの時にライバルを助けるのは基本。 寧ろ、本望」 「ありがとな」 その絵を完成させる為に、朝早くから来ているはずなのに……。お前の粋な計らいしかと受け取った。是非、その厚意に甘えさせてもらう。 「……」 「……?」 「……」 「ねぇ、真一」 「…分かってる…」 「なら、どうしてダメなの?」 「その……なんだ。 ぶっちゃけさっきとあんまり変わってないよな」 僕の絵から紫の絵に変えても、絵に色をつける行為は変わらない訳で。まぁ、少しくらいなら気が楽になるけど……控えめに言っても誤差だ。 「じゃあ、奥の手」 「なっ!?」 僕の右手に自分の右手を添える紫。グッと距離が近づいた為か、紫の髪から漂う桃のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。 その香りのせいで健康番組で紹介された食品の売り上げのごとく心拍数が上昇した。……紫のやつシャンプー変えたのか。 これは、あくまで推測だが。前はコー◯ンとかに売ってそうな男性向けのシャンプーを使っていた。なので、爽やかな香りはしても心が躍るような事は決してなかった。 僕、個人としては折角長くてサラサラの綺麗な髪なので良い香りがすれば最高だと思っていた。 だから、それとなく提案した事もある。けど、紫がシャンプーを変える事はなかった。何度も言ったけど、ワンチャンすらなかった。 だがしかし。今は変えている!前とは違い甘くて良い香りを漂わせている!まさに美髪香!勢い有り余って健康的なファールをしても仕方ない。 感動だ。参観日のお父さんぐらい感動している。出来れば、この感動をカメラに収めたい。 「良い髪は心を。 人生を豊かにする」 「急に何言ってるの?」 「……すまん、忘れてくれ」 紫のジトーッとした視線が痛く、顔を背ける。うっかり失言をしてしまって本当にすまないと思っている。 「ところで、何でこんな事を?」 これが奥の手らしいけど、今のところ髪の香りへの感動と心拍数の上昇しかしていない。 「1人でダメなら一緒にやれば出来る」 成る程、そういう事か。一緒にやる事で僕に勇気を……。でも。 「それ、のり太がタマごろんに言ったセリフだろ」 「……。 知ってるんだ」 「最近、見たからな」 紫のやつ。どんだけおすしマンが好きなんだよ。でも、知っている身からすると妙に力強い言葉に感じる。それを狙ってやった訳じゃないと思うけど、効果的だったよ。なんか余計な力が抜けていった。 しばしの沈黙の後。 「紫……頼む」 「うん」 震える手を支えてもらい、絵へと筆を近づける。 ──トクン。トクンと。 近づくたびに、心臓の鼓動が早くなる。呼吸も荒くなり、額から汗が落ちる。 「──っ」 次は、鮮明にあの日の事が頭を過り、手が止まる。これ以上、手が動かない……やっぱり、僕には。 その時、紫が添えていた手でギュッと僕の手を握ってきた。 「いこ。 キラキラが待ってる」 またキラキラって……本当に訳が分からない。なのに、嫌な出来事に支配されていた思考が止み、嵐で大荒れの海のようにざわついていた心が凪いでいた。 今、目に映るのは1枚の色のない絵だけ。まるで心と体を切り離して、後ろから自分自身を見ているみたいに冷静だ。よく見える。 僕はずっと、ずっと色を塗りたかった。自分の目に映るものをそのまま絵にしたかった。そうやって自分の見つけたキラキラを……そうか、紫の言ってる事って。 「……」 「どう?」 「何て言ったらいいんだろな。 今すごくドキドキして……良い気持ちでいっぱいというか……その……。 ”楽しい”よ」 「良かった」 最初の一歩は踏み出せた。後は、ゴールに向かって真っ直ぐ突き進むだけだ。 ✳︎ 「あら? 石見さんがいない。 さっき職員室で会ったのに……変ね」 朝のHR。教室に入るなり担任が不思議そうにそう言った。 石見を中学の頃から知ってるいるが、あいつも真一と負けず劣らず真面目なやつだ。朝は必ず教室にいるし、そう易々とサボるようなやつではない。 もし石見がサボるとしたら何か特別な事情があると考えていいだろう。 「なぁ、先生。 石見のやつ職員室に何しに行ったんすか?」 「朝から美術室を利用してたみたいで、鍵を返しに来たんだけど」 「へぇー。 朝から、ねぇ」 真一の席に目をやる。今日は、真一のやつもいない。あの2人が揃っていない。それはただの偶然かもしれない。 だが、石見は朝から美術室を利用して、姿を消した。明らかに不自然だ。 真一に電話をかけてみたが、案の定出なかった。真一は律儀な性格で、電話をかければすぐに出るし、メールもちゃんと返す。 もし出ないとしたら、電源が入っていない。もしくは、マナーモードにしているか、何かに没頭しているか。何れも気付いてない時で、自分の意思で無視する事はない。 「先生ー。 石見のやつ急に気分が悪くなって早退したみたいっす」 「そうなの」 「で、真一は体調不良で休みっす」 iPhoneを片手に言うと簡単に信じてもらえた。本当は石見の連絡先は知らない。変に探されたりしないようにする為の嘘だ。 「なぁ、委員長。 頼みがある」 「急に、どうしたの?」 「ちょーっと用事が出来たんだ。 だから、テキトーな理由で早退したって言っといてくれ」 「えっ、あの倉井くん……用事って」 「んじゃ、頼んだ!」 「あ、あぁ……行っちゃった」 HRの後、すぐに教室を後にした。無論、2人の居場所を探す為だ。 2人が一緒にいる確証はないが、絵と真一しか頭にないような石見の事だ。サボるとしたら真一が関係しているに決まってる。 「お、2人とも靴はあるのか」 真っ先に確認したのは下駄箱。理由は簡単だ。靴があればまだ校内にいるかどうか確認出来るからだ。 次は、念の為美術室。ここは当然閉まっていて、中には誰もいなかった。まぁ、授業で使うかもしれないのでいる訳がないか。 理由は分からないが、2人は誰の目にもつくわけにはいかず、校内にいないといけない。もしくは、校内にいた方が都合がいい状況にいる。つまり、この学校において人目につかない場所に行けばいい。 となると候補は……空き教室か。いや、それはないか。去年、とある先輩達が空き教室でwi◯スポーツ大会を開いて以来、見回りが厳しくなったって聞いた事がある。 『噂好きの学生』にもまとめられている程、有名な話で、あの時話題にもした。だから、空き教室は避けるだろう。 じゃあ、定番の体育館裏とか倉庫とか……。あの2人に限ってそれはないな。絶対にあり得ないって言い切れる。そもそも授業で使う。 なら、もっと別の……人目がつかない場所。絶対に誰も来ない場所。 「ひとつだけ心当たりがあるな」 屋上前の踊り場。学校において屋上が封鎖されているのは当たり前。故に、ここへ来る人間は滅多にいない。 けど、ここにはいないだろう。人が滅多に来ないという事は、ここでサボろうとする人間がいてもおかしくない。なので、見回りが来る。 今も生徒指導が確認に行き、何事もなく去っていった。 なら、何でここに来たのか?それは簡単だ。もし封鎖されて当たり前の場所が封鎖されていないとしたら──。 屋上のドアの取っ手に手をかける。 「ふふん」 どうやら今日は鞄に入れておいたスニッ◯ーズが役に立ちそうだ。 ✳︎ 日が真上に来る時間帯。休憩するのに良い頃合いになったと弁当を広げ、昼食を摂る事にした。 「よく屋上にいるって分かったよな」 「お、やっぱり聞きたいか?」 「いや……お前の聡明な頭脳は世に出すべきじゃない。 お前の為にもな。 だから、言わなくていい」 僕とてこんな形で友人を失いたくない。 「そうか、そりゃ残念だ。 ところで、どうやって鍵を開けたんだ?」 「それはだな……」 「ん?」 隣でタコ型に切ったウインナーを頬張る紫へと視線を移す。すると、首を傾げ不思議そうな顔をした。この見るからに無害で純真無垢な反応をしている紫が屋上の鍵を開けた張本人だ。 ──朝の予鈴が鳴った頃。 『真一。 そろそろ時間だよ』 『分かってる。 でも……』 『教室、行かないの?』 『あぁ。 これを夕方までに仕上げて、見せたい人がいる。 だから、今日はサボる』 『……』 『悪いけど、担任にはテキトーな理由で休むって』 『なら、私もサボる』 『一応、最後まで聞いてくれよ。 それに、私もって。 別に、紫はサボらなくたって』 『屋上前の踊り場で待ってて』 『……はぁ。 だから』 『待ってて!』 『わ、分かった。 ま、待ってる。 いや、待たせていただきます』 珍しく語調が強い紫に圧倒され、言われた通りに待つ事にした。 『で、どうするんだ? まさか、ここでコソコソ描くのか?』 『ううん。 ここだと見回りが来てバレる。 だから、こっち』 そう言って紫は屋上のドアを開けた。 『え、なんで!?』 『ふふんっ』 紫は僕が朝から美術室を利用すると聞いた時点でサボる事を予見し、屋上の鍵を開けておいた。無論、僕に美術室の鍵を渡して別れた時にだ。 どうやって鍵を入手したのか聞くと。鍵は壁に掛けているだけで管理は甘く、すり替えるのは簡単だったらしい。 そうやって屋上の鍵を開け、バレないように職員室に返した。 「ほぇー。 石見のやつがそんな事を。 おったまげーだな」 「あぁ、凄腕のエージェントになれるよ」 「将来はホットドッグ売りだな」 「僕はヨーグルト店の方が好みだ」 「さっきから何の話してるの?」 『こっちの話だから気にしないでくれ(いいぞ)』 こういう下らない事でシンクロ出来ると嬉しさを感じる。趣味の合う友人って大切なのだと改めて思う。 「なぁなぁ、真一。 ちょっといいか?」 「急に何だよ」 「それ誰の為に描いてるんだ?」 さっきまでのおちゃらけな雰囲気はいずこへ。真剣な顔をした青二が、僕の絵を指さして聞いてきた。 「誰かじゃない……僕の為だよ」 「そっか」 返事を聞いた青二はどこか満足げに見えた。気のせいかもしれないけど。 「おし! じゃあ、さっさと飯食って完成させようぜ!」 「いや、お前が仕切るな」 「うん、真一の言う通り。 仕切るなら私」 「それも違うからな」 「おいおい、俺達チーム青二だろ? なら、仕切るのはリーダーである俺に決まってるだろ」 「違う。 私達は真一チーム。 大将は私」 「はぁ……何を訳分かんない事で盛り上がってるんだよ」 『……ふ、ははは』 何が面白いのか分からないやり取りだった。なのにどうしてこんなにも笑えるんだろうか。全くもって分からない。 けど、この空間がどうしようもなく心地良いのは確かだった。 「……完成だ」 放課後を告げるチャイムが鳴る頃、ようやく最後の一塗りを終え僕の絵は完成した。 「やったな! 真一!」 「いい。 すごくキラキラしてる」 すかさず称賛してくれる2人。称賛してくれるのは、素直に嬉しく思う。こんな状況でなければ。 「2人ともありがとな。 でも、喜んでいる暇はないんだ」 辺りには練習に使った大量の画用紙があちらこちらに散らばっている。それに、使い終わったパレットに絵の具バケツ。 今すぐにでも公園へと向かいたいところだけど、ここを片付けずに行く事は、僕の良心が許さない。授業をサボったり、校則を破っている事には目を瞑る都合のいい良心だけども。 約束は夕方と言っただけで、ちゃんと時間を決めた訳じゃない。が、先に着いているであろう都ちゃんをあまり待たせたくもない。 「すぐに片付けて」 「真一、絵見せたい人がいるんでしょ?」 「だから、さっさと片付けて」 「行けよ」 「なっ。 青二、何言って」 「ここは俺が何とかする。 だから、さっさと行け」 「でも、お前1人にやらせる訳には」 「なーに、ここを片付けて、鍵を閉めるぐらい朝飯前だ」 「青二。 今度、ちゃんと礼をする」 「いいって事よ。 俺も屋上でやらせたい事があったんだ」 「……後で動画」 「ったりめぇだ。 こいつにバッチリおさめて人気者にしてやるよ!」 スマホを片手に悪い顔をする青二。全くもって容赦がないが、そういうの嫌いじゃない。まぁ、そのせいで死亡フラグっぽい雰囲気は台無しになったけどな。 「石見も真一と一緒に行けよな。 一応、早退してる事になってるんだから」 「…ん…」 「それとな……」 青二に片付けを任せ屋上を後にする。別れ際に、青二が紫に何か言っていたみたいだけど、何を言ったんだろうか。紫が満足げにしているから何か良い事だとは思うけど。 「行ったか。 よし、ならこっちも……。 あ、雀部ー。この間の負けた時、何でもするって言ったよな? とりあえず、屋上まで来てくれ。 ショータイムだ」 いや、それより反省文で済むといいな。 教員の目を避ける為、最善の注意を払いながら移動する。そして、昇降口がすぐ目の前に見えるところで、ある意味教員よりも厄介な人に出会ってしまった。 「おやぁ、黒川くんじゃないか。 こんなところで会うなんて奇遇だね」 いつに増して嬉しそうに絡んでくる檀野先輩。それもそうだろう。今、僕の右手には丸めた画用紙があるのだから。 「……そう、ですね」 怖気付いてしまったせいか、声が弱々しくなる。何の悪戯か、このタイミングでこの人に会ってしまうなんて……最悪だ。 「その手に持ってるのはもしかして絵かい?」 冷や汗が出る。やはり、この人見逃してくれなかった。 「はい……僕の、描いた絵です」 「そうか、そうか。 また新しいのを描いたんだね」 「……えぇ、まぁ」 「なら、聞くまでもないと思うけど、塗ったんだろ? 次は頑張ると言ってたしね」 この人は本当に……手に力をこめさせるのが上手だ。今すぐにでも絵を見せて黙らせてやりたい。 「ねぇ、どうなんだい?」 「……」 でも、僕にとって大切な絵をこんな人に見せる気はない。 「檀野先輩。 真一は、あ……」 僕の気持ちを察してか、代わりに話をつけてくれようとした紫を手で制止する。 紫の気遣いは嬉しい。けど、これは僕がケリをつけないといけない事だ。 「塗りました」 「……。 へぇ、それは良かった。 どんな物か是非見せてくれよ」 「すみません。 もう檀野先輩に構ってる暇はないんですっ!」 「な、おまっ。 か、構ってだとぉ」 「失礼します。 行くぞ、紫」 礼儀正しくお辞儀をしてから檀野先輩の横を駆け抜け、その場を後にする。 「ンフッ、見事にフラれちゃいましたね」 「香坂……っ」 「やだなぁ。 ちゃんと部長って呼んでくださいよ、檀野せーんぱい」 昇降口に着き、靴を履き替えながら紫にさっきの檀野先輩について聞く。 「なぁ、紫。 檀野先輩のあの顔見たか?」 「うん。 見た」 「感想は?」 「満足」 「だよな」 その後、しばらくの間口角が上がりっぱなしだった。もしかすると紫と別れた後も上がりっぱなしだったかもしれない。 予想外のアクシデントだったとはいえ、あの人の事を吹っ切れたのはそれ程嬉しい事だった。 ✳︎ 公園へ着くと、茜色の空を背景に都ちゃんが佇んでいた。 夕陽に照らされた髪がキラキラと輝く。それは息を飲む美しさで、見惚れてしまった。あの時と同じに。 しばらくして都ちゃんがこちらに気付くと早足で駆け寄ってきてくれた。 「待たせちゃってごめんね」 「いえ、さっき着いたところです」 「そっか」 ニコっと笑顔を向けてくれる都ちゃん。そんな顔をされると野暮な事は言わないでおこうと思う。だからといって何もしないのは違うので、僕の上着を羽織らせてあげる。今年のこの季節はまだ肌寒い。 「これを見て欲しい」 例の絵を都ちゃんへと手渡す。 「……っ。 お兄さん、色を」 「知ってたんだね」 「…はい…」 ──僕が色を塗れなくなったのは小学4年生の時。授業で完成した絵を見たクラスメイトの一言がきっかけだった。 『黒川の絵って色ぬらない方が上手いよな』 それを聞いた時、目を見張った。 自分の絵に絶対的な自信があった訳じゃない。でも、ずっと自分の思うまま、感じるままに絵を描いてきた僕の心を揺らがせるくらい造作もない言葉だった。 『あ、それ私も思ってた。 なんか色ぬると子どもっぽくなるっていうか』 『のっぺりしてるよな』 『そうそれ』 『分かる、分かる。 下書きは黒川だけど、完成したら林のが上手いって思うよな』 他のクラスメイト達も便乗してきた。きっと、彼らには悪気なんてない。ただ思った事を口にしているだけ。 だから、笑って流そうと思っていた。でも、そうはいかなかった。 『なら、色ぬる意味ないじゃん』 『……えっ……!?』 色を塗る意味がない。その一言で、僕の中の大切な何かが壊れていく気がした。 『 まぁ、授業だからぬらない訳にはいかないけどねー』 『……』 『おい、黒川? どした?』 『……』 『おーい? 黒川ー?』 『あーあ。 あんたが言い過ぎるから』 『え、俺は別に。 てか、お前も言ったじゃん!』 『いやいや、私は』 『……僕もさ、色ぬるの苦手だし。 ぬらない方がいいと思ってたんだ』 『……ははっ! だよなぁ! 驚かせやがって! このこのぉ』 『はは、やめろって。 ……ほんとに』 言われた事に傷つかなかったと言えば嘘になる。けど、1番傷ついたのは、周りに合わせて絵に背を向けてしまった自分自身にだった。 そして、色を塗る事が怖くなった。色を塗って、また同じ事を言われたらまた同じように背を向ける。弱い僕が動けなくなるのに、充分過ぎる理由だ。 それから、誰に何と言われようとも、どんどん絵を描く事が虚しくなっていっても、色を塗らなかった。これから、何があっても2度と塗らない。 ずっと、そう思ってきた。 「ごめんなさい、お兄さん。 勝手に聞いてしまって」 「別に謝らなくていいよ」 この話を知っている人は限られている。母さんはこの話を絶対にしない。青二も知らないフリをしてくれている。 となると、話した可能性があるのは小田山だけ。だから、大体の経緯は察せる。別に、都ちゃんは悪くない。 それに、今は知られている方がいい。 「それより。 絵、どう?」 「うぅ、それは……その」 頰を赤く染めて視線をそらす都ちゃん。 それもそのはず。前の夕景の絵とは違い、ある少女を描き加えた。それが、誰なのか都ちゃんは分かっている。いや、分からない訳がない。 「……私、ですよね?」 「うん。 そうだよ」 正確には、幼い日に会った時の都ちゃんだ。 「……どうして私を?」 「夢で見てたんだ。 あの夕景を」 幼い日、僕は『キミ』と仲良くなりたかった。仲良くなる為にあれやこれやと頑張ったけど、どれもダメだった。 ある日、『キミ』は1人で何処かへ行ってしまった。僕は慌てて『キミ』を探して、とある公園へと辿り着いた。 そして、そこで出会ったんだ。夕陽に照らされ、キラキラと輝く最高の『キミ』に。 僕は目的を忘れてしまう程、『キミ』に見惚れ、感動した。だから、すぐに『キミ』の元へ行き、それを伝えた。 でも、僕の感動はあまり伝わらなかった。だから、その時見た『キミ』を絵に描いて伝えたんだ。『キミ』はキラキラしてるって。 すると『キミ』は笑ってくれた。僕の手を取ってくれ、やっと『キミ』と仲良くなれた。 なのに、僕は『キミ』を。 「でも、忘れていた。 思い出を。 君を」 「……」 「そんな僕に、思い出させてくれたんだ。 あの絵で。 だから、描いたんだよ」 「っ!! ……じゃあ、全部」 「ごめんね。 全部思い出せたって訳じゃないんだ」 「そう、ですか」 一瞬、目を輝かせてから、がっくりと肩を落とし俯く都ちゃん。悲しげな彼女を慰める為に、頭を撫でようとした。しかし、そんな事をする必要はないと思い、手を止め、ただじっと待った。都ちゃんを信じて。 しばらくするとゆっくりと顔を上げ、こちらを見つめてきた。それに、微笑みを返す。 「ずっと不思議だと思ってた。 逃げる事を選んで、こんなにも苦しいのに何で絵を描く事をやめないんだろって」 「……」 「やめようと思うと、あの夕景を夢で見た。 そして、キラキラする君を見て、思い止まった」 「……っ」 「あの時の君が僕を繋ぎとめてくれて。 今の君が僕に思い出させてくれた。 どうして絵を描くのか……ありがとう、都ちゃん」 また色を塗れたのは支えてくれた人、見守ってくれた人のおかげもある。でも、1番は君のおかげだ。 「手、出して」 「…はい…」 差し出された右手に手を重ね、そっとストラップを手渡した。 「これで都合よく元通りって訳にはいかないけど」 「あ、ぅっ」 「っ!?」 勢いよく腰に手を回し抱きついてくる都ちゃん。体がぷるぷると震えている。顔は僕の胸部に押し当てているので、どんな表情をしているのか分からなかった。 「都ちゃん?」 「……もう驚きませんか?」 「え」 「もう声を荒げませんか?」 「……」 「もう、寂しそうにしませんか? もう、誤魔化して……隠しませんか?」 少しずつ都ちゃんの声が弱々しくなっていき、それに反比例するように都ちゃんの腕に力がこもる。 「妹のような、じゃ……やです。 だって、お兄さんは、約束して……くれ、ました。 だから、私を……妹で、いさせて…ください」 そうか。ずっと、君は。 都ちゃんの背に手を添え、囁く。彼女にだけ聞こえるように。 抱きつく腕の力が少しずつ弱まっていく。 身体を寄せ合う2人の頭上、空高くには2つの星が眩い光を放って輝いていた。 ♪ -都の日記- 5月1日 お兄さん。
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