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 道を迷ったあげくにチェーンまで切れた。いきなりがらくたになるママチャリ――さすがは《お古》。三千六百円のことだけはある。  漕げないそいつにまたがったまま右へ曲がった――噴水が派手に踊る広場。前へ進む勢いがゼロになったところでおれはサドルから降りた。 「くそ」  ママチャリにスタンドをかける。サビの浮いたクリーム色のこいつは忠一に教わったチャリンコ屋で買った。もちろん一番安いやつだが、店のおっさんはおれが断っているのに防犯登録=八百円もするそれをしろといって聞かず、いやならよそへ行けとまでいってきた。それでこれじゃ、ちょっとわりに合わない。 〝もっとちっちゃいと、もっともっとかわいいのにね〟 〝なにいってるのよ。大きくてころころしてるからかわいいんじゃない〟  頭の後ろを流れていく意味のつかめないガキどものおしゃべり。軽く舌打ちをする。唾を飲みこんで喉の渇きをごまかす。あたりを見まわす。プールみたいな池。えらそうな建物。小さな森。あるのはそれだけ。チャリンコ屋のかけらもない。  ペンギンガムを剥きながら考える。コーラを買う場所も住所を知るための電柱もないこの広場はいったいどこなのか。  大宮から《戸田|とだ》――そこそこ幅のある川を渡るまでは《中山道|なかせんどう》=国道十七号に沿うかたちで脇道を使ってきた。渡ってからは十七号そのものを突っ走ってきた。曲がりくねり、名前が変わり、ふたつにも三つにも枝分かれする都会の道。そのせいでおれは居場所の見当がつかなくなった。頼りにしていた『《日本橋|にほんばし》』の文字を見失ってからはどっちへ向かえばいいのかもわからなくなり、気づけばこのざまだ。地図ひとつ読めない馬鹿のままじゃ、これから先も同じ羽目を繰り返すことになる。  丸めたガムを口のなかへ放りこむ。いつもどおりの味わいが舌や歯ぐきをフレッシュにしてきたところで、今度は人に目をやった――鳩よりもはるかに多い人の数。背広のやつら。作業着のやつら。親に連れられたガキ。連れられていないガキ。百人は軽くいる中学生ども。それほどはいない高校生ども。おっさんども。おばさんども。そのどれでもない大人ども。迷子の分際で思うことじゃないが、長野なんかとは比べものにならない都会のうじゃつき加減におれはちょっと嬉しくなった。  東京のどこかまでは来れた。夢の半分はだから叶ったようなもの。問題は残りの半分。その一部=鉄くずになりかけている《ママチャリ|こいつ》をどうするか悩んでいると、黄緑色の円盤がおれの足もと近くに不時着して転がった。『すいませーん』の声に振り返る――両手をあげた学生服が広場の隅にひとり。片割れのほうはわからない。おれは拾いあげた円盤をママチャリなんか到底なおせそうもないYの字野郎に投げ返してやり、それから噴水のほうに体をねじった――顔に水の粒。喉がなにかを思いだす。 「飲める水、ねえかな……」  誰にいうでもなくぼやき、歩きだす。ママチャリは一旦そのまま。ひょうたん型のかんおけにしか見えないものを抱えた髪の長い男どもに目がいった。そのうちのひとりがみぞおちあたりにギターを構える。じゃんじゃかじゃんじゃん、ヘイヘイガール=覚えのないメロディーに歌詞。旗を持った女についてまわっている外人の集団が『ベイビー』を連発する男の脇を過ぎていく。外人の提げている袋にはもれなくパンダの絵が描かれていた。謎に包まれた歌が鳴りやむと、今度は覚えのある音=きちがいバイクの唸りに似た叫びが森の向こうから聞こえてきた。 〈ぱらりらぱらりらばおんばおんばおーん〉  ピンときた――日本で一番有名な動物の刑務所。真奈美の言葉が頭に浮かぶ――ごめん、気がついたら動物園だった。ひとりで修学旅行をしている気分になるおれ。バッグだけがカラフルな黒いやつらもきっとそれの途中にちがいない。  右手のカシオで時間を確認する――一五三七。ついでに地球の外へも顔を向ける。雲はない。だけどどこかくすんだ空。曇りとはちがうねずみ色の膜が街全体をサランラップしている。 「大宮の空はむかつくほど青かったのにな」  忠一はもう家へ戻っただろうか。それともまださっきの続きをやっているだろうか。Qは、爆発頭は、高木は、電話の刑事は……おれのことでそれぞれどんな動きをしているんだろうか。 〈たいほたいほたいほたいほ、しけい〉  馬鹿の相手はしない。頭のスイッチを切り替え、中断していたママチャリ問題の解決に乗りだす。暇そうな誰か。親切そうな誰か。旅の途中じゃなく、この近所に暮らしていそうな誰かを探す。おっさん、婆さん、ガキ、ガキ、外人――相変わらずの顔ぶれ。暇そうだが不親切。親切そうだが旅の人。そんなラインナップ。探す側を森のほうに変えてみる――いた。小太りの、肌の白い、見るからに親切そうな、そしていかにもこの近所に暮らしていそうなおばさんが、ちょこんとベンチへ腰かけている。おれはママチャリのところへとって返し、そいつを押して《椎|しい》の木陰へと急いだ。 「すいま――」  口のなかのガムを奥歯の脇へどけて続きをいう。 「――せん。このへんで自転車の修理やってくれるところ知らないですか?」  三秒経過。おばさんはあさっての方向を向いたまま黙っている。 「あの……」  同じ質問をし、さっきの倍の秒数で待ってみるも変わりなし――というより無視。おばさんはもしかしたら耳が遠いのかもしれない。 「知ってたらちょっと教えてもらいたんですけど!」  あさっての側へまわりこみ、叫ぶようにして尋ねる。すぐに舌打ちが聞こえた――節穴全開のおれの目玉。親切そうに見えた感じの悪いおばさんはベンチから腰をあげると《きっ》とおれを睨み、尻をぶるんぶるんやりながら動物園のほうへと歩いていった。 「知らないなら知らないっていやあいいだろう。気分悪りいなあ」  文句とガムを足もとへ吐く。おれはママチャリを引いて歩き、捨てるつもりで電話ボックスの脇へそいつを止めた。    § 「早く出ろよ……」  秘密の……いや、秘密でもなんでもなくなっちまったアパートの電話は誰も取らなかった。親がいるほうのそれも同じ。今は別の十桁の呼びだし音が鳴っている。 「誰ー」  覚えのある声とセリフ。 「おれだ。まさか忘れちゃいないだろうな」  黙りこむ電話の相手。 「……まわりに誰かいるのか?」  続くだんまり。耳を凝らしてみたが、受話器の穴から流れてくる鼻息がうるさすぎて、それ以外の音はなにも聞き取れなかった。 「やばいなら息を止めて舌打ちをしろ」  嵐のような音が止まる。舌打ちは聞こえてこない。この野郎はひょっとしておれから姉を守ろうとしているんだろうか。昨夜のあれこれを《優孝|ばか》がどこまで聞いているのか知らないが、身内を思う気持ちに脳みその量は関係ない――当然といえば当然の反応。おれはまたひとり敵を作っちまったみたいだ。 「悪かったな」 「ぶー」 「ぶう?」 「合言葉待ちー。チャンスはあと三回」 「合言葉って……」 ――お前は真奈美じゃないだろうが。 「ぶーぶーぶー」 「ちょ、ちょっと待てよ、おい」 「ぶぶぶぶぶ。はい、ラストチャーンス」  前に電話で話したときと同じ調子でからかってくる優孝。馬鹿全開のガキ相手に考えすぎだったか――くそ。 「タイムだ。だからこれはカウントするんじゃ――」 「タイムなーし。次でほんとの最後だからー」  だめだ。これじゃうかつに話せない。 「合言葉を聞かないとボクはなんにもしゃべれなーい。教えなーい。教えたくもなーい」 「真奈……姉ちゃんからなんか聞いてるのか!?」 「それでいいのー?」 「ちがう! ちがうから切るな!」  手紙にあった謎の言葉を思いだす。 「ティン……ティン……ティンなんとかスパイ、だよな」 「ぶー。ばいな――」 「だから、ちょっと待てって!」  受話器を置き、肩からおろしたナップサックを漁る。札束、稲妻、オキシドール……長谷川。真奈美のあれはどこへしまったか。 「ティンカーテイラー……えっと、ソルジャースパイ!」  手紙はブラックジーンズの尻ポケットで潰れていた。危ない危ない。 「『えっと』も入るのー?」 「入らない!」 「もぐらー」  相変わらずの馬鹿っぷりを発揮してくる優孝。二枚めの百円玉が電話の胃袋に落っこちる。 「スパイごっこはなしだ。姉ちゃんは――」 「口を慎みたまえ」 「あ? なんだって?」 「口を慎めといったんだ」  どこかの司令官みたいなセリフ。くそガキが調子に乗りやがって。 「いいかげんに――」 「キサマは耳が悪いのか」  司令官からキサマ呼ばわりされたおれ。《年下|がき》を殺したいと思ったことは一度もないが、《優孝|こいつ》だけは今すぐどうにかしてやりたくなった。 「誰がキサマだ、この野郎。真奈美の弟だからっていい気になってんなよ」 「なんか怖いよー」  今度は馬鹿しゃべり。なんなんだ、こいつは。 「だったらまじめに話せ。こっちは遊んでんじゃねえんだ」 「りょーかーい。では所属とコードネームを」 「合言葉だけで充分だろう」 「所属とコードネームを」  断固とした口ぶり――筋金入りの馬鹿。そうじゃなきゃ頭の病気。もしくは脳みそそのものがこいつにはない。いずれにしろ褒めてやりたくなるようなあんぽんたんだ。 「お前なあ……」 「お前ではない。わたしの名はミスター・グラッチェだ」  受話器に稲妻をくれてやりたくなった。堪えた。考えた――時間を節約するには司令官ごっこにつきあってやるしかない。さらに考える――馬鹿とガキはおだてに弱い。 「わかったよ、ゲラッチョ司令官」 「グラッチェだ」  正しい呼び名でもう一度。 「なにかね」 「ミスKと話をしたい」 「お話をしたいのでありますが、だ。おろか者めが」 〈ぶっころすぞ、てめー〉 ――うるせえ。 「んじゃ、それで」 「それ?」 「でありますが。お話を。ミスKと」 「うむ。おらぬ」  司令官の言葉を信じるなら、真奈美たちはまだおまわりのところに……いや、そんなこともない。直接でも電話でも真奈美から合言葉を聞かされていなければ、優孝にこのやり取りはできていない。 「どうしていない?」 「どうしてだと? ふん、おらぬといったらおらぬのだ」 「了解だ。そしたら質問を変える。司令官は昨夜からミスKと会ってないのか?」 「先ほど会っている」 「先ほどって、どれぐらい先ほどだ」 「その前に所属とコ――」 「RSだよ、うるせえな。所属とかそんなものはわからない」 「教えるわけにはいかんな」  受話器で思いきり電話をぶっ叩いた――ゲジゲジやゴキブリを新聞紙でそうするときのように。 「いいか。よく聞け、司令官。おれが――」 「所属! 所属! 所属!」  くそほど馬鹿らしいそいつを口にする――話を前へ進めるために。 「もう一度」 「おい、くそガ――」 「確認だよー いわないと電話切れるよー」 ――ウルトラぶっ殺したい。 「ち、ちびっ子革命⋯⋯明日の風、だ。まちがっちゃいねえだろ」 「うむ、よろしい。では捜査官、現在地を――」 「おれがお前を殺しに戻る前に答えろ。真奈美は今どこにいる」 「怖いからー」 「どこにいる!」 「お、お父さんに叱られてるー」  よし。あの刑事は真奈美たちを解放した。心配ごとがひとつ減ってひとつ増える。新しい心配の種はもちろん、頭のおかしいこいつらの父親のこと。 「説教はいつ頃終わりそうだ?」 「わからぬ」 「そいつが済んだら話せそうか?」 「誰と?」 「姉ちゃんに決まってるだろ、お前の」 「知らぬ」 「おい、ゲラッチョ!」 「グラッチェだ」 「どっちでもいい! 代われ! 今すぐだ!」 「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿ー、家にいないんだから話せるわけないだろー、怖いの禁止ー」  家にいない? それじゃどこで叱られてるんだ? 働いてる会社か? いや、そんなわけない。いったいどうなってる。 「変なこと聞いてもいいか?」 「だめー」 「だめでも聞く。お前ら家族と父ちゃん、別々に暮らしてたりする――」 「あー、ちょっと待ってー」  電話口から気配が消える。真奈美が帰ってきたのかもしれない。詳しい話は本人の口から……待て、だめだ。姿の見えない電話とはいえ、父親と一緒じゃ話すのは難しい――そう考えながらもおれは心のどこかで真奈美のスパイ魂に期待をしていた。 「おれだ! わかるか!」  受話器が人の手に握られるのと同時にいった。 「わかるよ。だって――」  電話口の声は真奈美じゃなかった。頭のおかしいやつらでもない。だけどおれは声の主が誰なのか一発でわかっちまった。 「沢村くんのこと愛してるもの」  怒りと吐きけを堪えるのに精一杯でなにもいい返せない。 「だからお願い! 馬鹿な真似はもうやめて!」 「口を慎め」 「え?」  あまりの怒りに口調がおかしくなった。特急でもとに。 「どうしてお前がそこにいる」 「連絡してくるとしたら真奈ちゃんのところしかないと思って、だからあたし……」  人の考えをガシガシ読んでくるタバコ好きの生徒番長。真奈美には悪いがスパイの腕はこの豚のほうがはるかに上だ。 「ねえ、沢村くん!」 「気安く呼ぶな」 「どうして!? 手紙読んでくれたんでしょう!?」  読んだらなんなのか。読めば誰もがお前と同じ気持ちになるとでも思っているのか。こっちの秘密をひとつかふたつ知ってるからっていい気になるなよ、《猪八戒|ちょはっかい》。 「あんなものはすぐ灰にしてやった」 「ひどい! こんなに愛してるのに!」  体に異常。来た道を戻ろうとする牛の肉。気合と根性で喉にふたをする。 「おれが愛してるのは真奈美だ。わかったら、とっとと――」 「あたしのほうが愛してる! 真奈ちゃんよりずっとずっと愛してる!」  呪文よりもおそろしいセリフ。黙れ! しゃべるな! 今すぐ死ね! 百はいえる文句のうちからいくつかを選んで吐きつける。 「二度とそういうことをいってくるな。次に聞いたら、ぶち殺してパックに詰めるぞ!」 「詰められてもいい! だから――」  受話器でフックをぶん殴った。
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