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 旅の準備はデパートの便所に限る。駅のはくさくて敵わない。水で絞ったタオルを持って大便用の個室に入った。鍵をかけ、便器をふさぐふたをおろし、水洗タンクの上へ《まさかり》マークの買いもの袋を置く。濡れタオルとナップサックは扉のフックに引っかけて吊るした。 「どこ行ったあいつ」  長谷川を探す。服を脱ぎながら、たたみながら、《細々|こまごま》したものを整理しながらの手探り――見つからない。もしかして落としちまったか。 〈呪いだな〉 ――誰のだよ。 〈こんなにあいしてるのに! あひゃひゃひゃ〉  なめたことをほざいてきた豚。そのせいでざらついた気分にさせられたおれは見も知らない坂道を駆け下り、坂の終わりに広がる都会らしい街を歩きまわった。  《京成上野|けいせいうえの》駅、国鉄の上野駅、《御徒町|おかちまち》駅、地下鉄の駅、《○I○I|ゼロイチゼロイチ》とかいうデパート、アメヤ横町、《上野中|うえのなか》通り。  馬鹿みたいな数の人と《もの》であふれ返っていた東京――思い描いていたとおりの街に嬉しくなったおれは、アメヤ横町と上野中通りを行ったり来たりした。そうやって都会の風を吸って吐いてしているうちにポークショック=呪いじみた告白のダメージも薄らいでいった。 「いたいた。お前の隠れ家はここだ。ちょっと待ってろ」  用意しておいたタオルで体を拭き、買いもの袋のなかのものを引っぱりだす――でかくて頑丈なリュック=アメヤ横町の金太郎商会とかいう店で買ったシロモノ。そいつの右ポケットに長谷川を放りこむ――爬虫類にはもったいないほどの住みか。本当は亀なんか入れておくところじゃないが、上着やズボンのポケットに放りこんでおいて、ふとした拍子に潰しちまっても敵わない。忠一流にいうなら、これもひとつの対策ってやつだ。 「噛みついてんじゃねえよ、この野郎」  とはいえ、こっちも亀の面倒などいつまでもみちゃいられない。沼か池か湖か、なんかそういう場所があればこいつとはそこでおさらば。長谷川だってどこの馬の骨かわからないやつにくっついているより、自然のなかで自由に暮らすほうがいいに決まっている。亀は亀で亀らしく、おれはおれでおれらしく、だ。 「近いうちに見せろよ、お前の野生」  隠れ家のチャックを閉める。新しい服に袖を通し、それから持ちものの整理に取りかかった。同じ種類で百枚ずつにまとめた札束は、小豆色のナップサックにくるんで一番広いポケットに。今まで着けていた服や靴はその下の段、消毒セットと歯磨きセットは底のポケットへとそれぞれしまいこんだ。手紙やドライバー、薄型ラジオなんかは左のポケットにおさめ、まとまらなかった分の札と硬貨は腰に巻いたウエストバッグのなかへ押しこんだ。いつ使う羽目になるかわからない稲妻だけは上着の右ポケットに忍ばせておく。 「こっちは……いらない、か」  首なしの館でくすねてきたカッパモンキーの脅し道具。切れ味は悪くない――が、持ち手の色や柄がいただけない。刃の折りたたまれたこいつはどう見ても女用……というか口紅みたいだ。実際は握りこんじまえばわからないのかもしれないが、この武器は使う側のガッツとファイトを確実に盛り下げてくるような気がする。 「どうすっかな」  ごみ箱なら手洗いの脇にある。捨てるなら人けのない今がチャンス。でもなんか惜しい。必要ないのにもったいない。これだって買えばけっこうするだろう。持っていればなにかの役に立つかもしれない。移動に邪魔なサイズでもなし、もとの持ち主の名前が彫ってあるわけでもない。見ためがよくないからといって威力が落ち―― 〈よびのぶきでいんじゃね?〉 ――まったくだ。  おれは花柄ピンクのそいつを、いくつもある上着のポケットのひとつへ放りこんだ。    §  バックパックを背負って個室を出る――鏡。そのなかからこっちを睨みつけてくる誰か=まだらの柄にまみれた、まだら顔のガキ。 [*label_img*]  人目につきたくないというおれのリクエストに、この迷彩セットを勧めてきた金太郎商会のおっさん。相づちすら打てない機関銃しゃべりで『敵の目をあざむきたいならこいつが一番。丈夫で動きやすいうえに鼻血も出ない大特価。ほら、《まだら帽子|ミリタリーキャップ》だろ。《まだらジャンバー|ジャンバージャケット》だろ。《丸首の長袖|クルーネック》だろ。《まだらズボン|ワークパンツ》だろ。で、で、で、おまけに《指なし手袋|タクティカルグローブ》と鉄のつま先完全無敵の《安全革靴|セーフティーブーツ》、それでもってさっきの《大型リュック|バックパック》つきだ。これだけ揃ったスーパーセットがなんとたったの三万円。いや、二万円。いやいやいや、一万八千円だ、おい。持ってけ泥棒少年兵。明日からモテモテボンバーだぞ。ユーアーストロングソルジャー』と英語だらけのちんぷんかんぷんをやられ、気づいたときにはいわれた金額を払わされていた。  だからといって悪い気はしていない。似合っているかどうかは別にして、見ためを変えることはそのまま身の安全につながる。そこは経験済みの勉強済みだ。今のおれを長野や大宮にいた泥棒小僧と気づけるやつは誰ひとりとしてこの世にいない。 「あとは背が伸びて、声変わりさえしてくれりゃいうことねんだけどな」  ないものねだりの虫がおれのなかでぴくんと跳ねた。    §  ゼロイチデパートを出た並びにある、今にも潰れそうな本屋。ビニールののれんをくぐる。明星、平凡、ホットドッグプレス、フォーカス創刊号。そのへんの雑誌を食い入るようにして見ているやつらをかき分け、店のなかへと入っていく――細長い造りの店内。目的のものをさりげなく手に取り、あたりに目を配る――おれのことなど誰も気にしちゃいない。手のなかのものを光の速さでポケットへ。火傷の跡を気にしなくてよくなったせいか、《指なし手袋|タクティカルグローブ》をはめた右手はやたらとしなやかに動いた。 〈おいみんな、こいつどろぼーだぞ。こぶりなちずをまんびきしたぞ〉 ――お前の声なんて誰の耳にも聞こえやしない。好きなだけ喚き散らせ。 〈かーねはーらえ! かーねはーらえ!〉  だけどこの馬鹿とは関係なく油断は禁物だ。焦るのはもっと禁物。へたくそは盗った後でドジを踏む。だからすぐには店を出ない。態度も堂々とする。かっぱらいは《ふくらはぎ》あたりの血をしらばっくれて吸う《やぶ蚊》みたいにやるのが正解。おれは目当ての本を見つけられないでいる客を装って奥の棚へと進んだ。  筆で書かれたような文字に目が留まった。足を止め、教科書サイズのそいつを手に取る――とり年生まれの運勢・一九八二年版。背表紙にはそうあった。来年のことなんか今のおれにはどうでもいい話だが、干支の順番は気になるところ。表紙をめくると、さっそくお目当ての情報が載っていた。 「よし、覚えた」  今年《十三才|じゅうさん》なら《申|さる》。《十四才|じゅうし》なら《未|ひつじ》。そのまたひとつ上だと《午|うま》。《酉|とり》より後ろはどうでもいい。《甲|きのえ》とか《己|つちのと》とか、そのへんもあまり関係ないだろう。本をもとの場所へ戻し、おれは脇の棚から、おそらく誰も読みっこない厚めの本を棚からつかみだしてパラパラとやった。適当なところで親指に力を入れる――百十一ページ。運は悪くない。  舞いあがった埃が、最初にこの計画を聞かされた場所を、そしてあのガキのことを思いださせた。無視をしていると、この世からさっさと消えてほしいやつらの顔が頭に浮かんできた。  今頃は遊ぶおもちゃがなくていらいらしてるにちがいないきちがいども。学校からも金を弁償しろといわれているだろう。いい気味だ。やつらはうっぷんが溜まってそのうちどうしようもなくなる。そうなればきっとまた新しい奴隷を作るはずだ。そして今度こそそいつに息の根を止められる。金属バット殺人事件。畑からバラバラ死体。そんなニュースをいつか自由な暮らしのなかで耳にしたいと思う。問題はその暮らしをどこでやるか、だ。  ちゃんとした寝ぐらが必要だった。逃げまわったりしなくても、そこにいれば今日と同じ明日がやってくるおれだけの居場所。ここまで旅をしてくる間もずっとそのことを考えていた。 〈おまえにいばしょなんてない。じゆーなんてない。ないないないない、ちずどろぼー〉 ――それがそうでもねえんだよ、へへ。  ヒントは武田がよこしてきた。おれがまだお尋ね者になる前に聞いた情報だ。必要なものはふたつだけ。まずは金だが、そいつは背中にたんまりとある。厄介なのはもうひとつのほう=暴走族の先輩。これをどうにかしないとおれだけの居場所は作れない。東京で最初にしなくちゃならないことはだから、そういうやつらと知りあいになること。あまり気乗りはしないが、自由な暮らしを手に入れるには今のところそれしか方法がない。 〈いみわかんねー〉 「お前はそこでじっくりぶっ殺してやる。楽しみに――」 「ねえ、キミ!」  とびっきり元気な声。びっくりしすぎて転びそうになった。拳を握りこんで振り返る――利口そうなガキ。 「後ろからいきなり声かけてくんじゃねえよ!」 「ごめんごめん」  なれなれしい態度。見ためでいくとひとつ《年下|した》からひとつ《年上|うえ》。メガネをかけているあたり、たぶんけちなんだろう。 「ところで今、誰かとしゃべってなかった?」 「本の表紙を読んでただけだ。うるせえな」 「じっくりぶっ殺すなんて本、ないけど」  泣かすとしたら三秒もいらない《けち》メガネの手首に目がいった――大人の香り漂う腕時計。よく見ると着ている服もどこかしゃれている。 「なんの用だ。まさかおれからカツアゲでもする気か? 三秒であの世行きだぞ、お前」 [*label_img*] ――悪者って……そういうお前はじゃあなんだ。 「あ、そうそう。手に持ってるそれ、買う?」  誰も読みっこない本――『《π|横にした机》』やら『x』やら『y』やら『小さい2』やら、頭がおかしくなりそうな記号の躍る表紙を指差すけちメガネ。毛虫でも投げるようにして渡してやった。 「キミはいいの?」 「ああ、『キミ』はいいんだ。がんばって勉強してくれ」  人のことを『キミ』なんて呼んでくるやつにろくなのはいない。とっとと失せろという意味をこめて、おれはけちメガネに尻を向けた。 「助かるよ。キミはどこのゼミ生?」  ゼミセー? なんだそりゃ――いや、なんだろうがどうでもいい。無視を決めこみ、さっきの倍は埃まみれの、今度こそ誰も読まないに決まっている本を手に取る。けちメガネがまたしても脇へ並んできた。 「理系かあ。うん、だいたいわかった」  勝手になんでもわかればいい。だからもう行け、早く。 「友だちになろうよ」 「あいにくとそのへんは募集してない」 「まあそういわずにさ。アッキも宇宙好きだし」 「アッキ?」 「あ、うん。ボクのニックネーム」  ネームは名前。ニックのほうはわからない。コードネームみたいなもんか。 「いいよね、地球の外側」  埃本の表紙に目をやる――天体観測・二。馬の頭のかたちをした黒いものが赤い光のなかに浮かんでいる。 「きれいだよね、馬頭星雲」 「バトー……なんだって?」 「星雲。星の集まりさ。オリオン座の《暗黒星雲|ダークネビュラ》。散光星雲が放つ光を背に、千数百光年の彼方を駆ける宇宙のサラブレッドだよ。知らない?」  耳がギリギリ覚えていたのはオリオン座。それ以外は暗号と同じだった。《松本|あのガキ》ぐらいの脳みそがないと、こいつの説明は理解できない。 「詳しいんだな」 「好きだからね」  いって、埃本を裏返すニックネームアッキ。 「ほら、《裏表紙|こっち》はアンドロメダ大星雲だよ。このかたちはすばら――」 「いや、もういい」 「どうして?」 「実はちんぷんかんぷんだ」 「理系なのに?」 「それもちんぷんかんぷんだ。悪いな」  おれがそう答えるとニックネームアッキは勝手に自分の説明をはじめた。    § 「お前のことはよくわかったよ」  アッキは《暁彦|あきひこ》。苗字のほうは《堤|つつみ》。年は《十二才|じゅうに》で同学年。ゼミとかいう塾みたいなとこは夕方から。目指す中学はカイセイかアザブ。家はカンダ。生まれも育ちもカンダ。そのあたりの様子を聞かされてもおれにはさっぱりだったが、そこはさっぱりじゃないふりをした――家出少年とバレないために。 「けっこう大荷物だよね」  体を引いて首を上下させる暁彦。 「もしかして旅人?」  まずい。いや、スレスレのギリギリか。 「まあ、そんなようなもんだ。今日はこの後、埼玉の親せきのところへ泊まりに行く」  なに食わぬ顔で得意のうそ八百を並べる。 「そっか。土曜日だもんね。いいなあ、ひとり旅……」  バトーセーウンを見つめてうっとりしはじめる暁彦。そろそろ店を出たいおれは、すり足でさりげなく宇宙研究家のそばを離れた。 「ねえねえ、いつか銀河を旅したくない?」  無視しづらい質問に足を止める。 「そりゃ、まあな……」 「じゃあじゃあ、《999|スリーナイン》好きでしょ? 見てた?」  好きとかそんなレベルはとっくに越えている。999は――星野鉄郎の生きざまはおれの夢だ。 「見てたなんてもんじゃない」 「アッキも見てたなんてもんじゃないよ! 映画のほうは?」 「もちろんだ」 「『さよなら』も?」 「当たり前だろう」  テレビでの放送が終わってからこっち、鉄郎やメーテルに夢中だったやつらのほとんどはガンダムにくら替えをした。999のことを人とこうして語りあうのはだから、けっこう久しぶりかもしれない。 「今週の少年キングは読んだ?」 「ああ、目の前が真っ暗になった」 「アッキもショックだった。ブラックホールに吸いこまれた気分」  銀鉄話に花が咲く――999好きに悪いやつはいない。おれ以外には。 「ねえ、やっぱり友だちになろうよ」 「もう友だちだろ。ジュースおごってやるよ」  おれたちはビニールののれんをくぐり、とてつもなくうるさい地球の線路下を並んで歩いた。    §  難しくて読めない名前のついた池。ほとりには桜の並木。暁彦は小さい頃からここの景色が好きらしい。跳ねた魚の作った波紋が蓮の葉っぱを揺らす――長谷川野生化計画には持ってこいの場所。 「発売されたらいくらぐらいだろうね」  車掌の正体について。戦士の銃について。時間城と機械伯爵について。鉄郎の父=黒騎士ファウストは死んだのかそうじゃないのかについて。そして今は永遠の命について。そのへんの話をおれたちはみの虫だらけの桜の下で、かれこれ三十分は話しこんでいる。 「百万円ぐらいじゃねえか」 「あれはもっとするよ」  あれ=機械の体。惑星メーテルでもらうことができるといわれていた鉄の手足と胴体。永遠に生きることのできるそいつは魅力的だったが、反対にありがたくない問題も抱えていた。 「だけど部品にされちまうわけだろ、《機械化母星|きかいかぼせい》の」 「鉄郎の場合はそうだったね。たしかネジだっけ?」  死ぬ心配がないのはいい。だが、自由ゼロで無限に生かされるのは奴隷も同じ。それなら肉と皮と骨に血を通わせながら、十年好きに生きてくたばったほうがマシだ。 「人をネジにするなんて頭おかしいよな」 「そうかな。考え方のひとつとしてはありだと思うけど」  暁彦はなにをいってるのか。 「そんなわけ――」 「鉄郎って最後にはいつも騙されるよね」  いい返そうとして言葉をかぶされた――まあ、いいか。話を暁彦に合わせる。 「全部あの女が悪い」 「あの女?」 「メーテルだよ」  大抵の女はおれと同じでうそつきだが、メーテルのそれは人ひとりの人生を台なしにしちまうレベルだ。美人であれじゃ男はちょっと敵わない。鉄郎じゃなかったら、終着駅へ着く前にどこかで騙し殺されている。 「彼女はエメラルダスに止められなかったら、鉄郎と一緒に地球へ行くつもりだったのかな」 「どうだろうな。あの女の考えてることはさっぱりわからない」 「いえてる。鉄郎も結局はなにがしたかったんだろうね」 「惚れた女と一緒にいたかっただけだろ」  惚れた女と一緒に旅ができなかったおれの言葉に、なぜか照れはじめる暁彦――おい、お前は鉄郎じゃないだろうが。 「アッキのお母さん、ちょっとメーテルに似てるんだ。亨くんのお母さんは?」  亨=《岡島|おかじま》《亨|とおる》。思いついたところを適当につなぎ合わせた今のおれの名前。駅で見た逃亡犯の写真の下には名前がふたつ書かれていた――誰々こと誰々。意味はわかる。逃げまわるのに本当の名前は邪魔だ。だからおれもそうした。 「似ても似つかない」 「やさしい?」 「ショッカーに改造されたんじゃないかってぐらいやさしいよ」 「それってやさしいの?」 「メーテル母さんはやさしそうだな」  聞かれたことを無視していった。 「う、うん……勉強勉強って口うるさいけど、でもそれも愛情なんだろうなって最近は思えるようになってきた」 「そっか」 ――そういや、あのガキも母親が大好きだったな。 「ママさんバレーをやりはじめたら気をつけたほうがいいぞ」 「え? なにそれ」  教育熱心な母親に限って裏じゃなにしてるかわかったもんじゃない、とはいわなかった。 「それより早く飲まないと気が抜ける」  赤い缶=暁彦の右手に握られているコーラを指差しながらいった。慌ててごくごくやるメーテルもどきの息子。ダイナミックなげっぷを期待できる飲みっぷりだ。 「ぷはーっ、喉が……痛い」  しかめっ面でメガネの位置をなおし、言葉の間に上品で控えめなげっぷを混ぜてくる暁彦。ポケットの熱でふにゃふにゃになったペンギンガムを一枚、胸のあたりへ差しだす。 「きつい炭酸の後にやるそいつは最高だ」 「ありがと。けど亨くんのは炭酸じゃないね。なに?」 「レモネードさ。飲むと運のよくなるなにかが炭酸の代わりに入ってる」 「ほんと?」 「ああ。《昨夜|ゆうべ》からのお気にいりだ」  あの後真奈美はじきにいなくなったが、そのせいでおれはトラックの荷台に乗れた。生まれつきのくそみたいな運だけでもし動いていたら、長野すら脱出できずにいたかもしれない。 「いいことあったんだね、昨夜」 「まあな」  なにがあったのかいうつもりはない、というより話せる内容がない。ありがたいことに暁彦もそれ以上首を突っこんでこようとはしなかった。 「亨くん、知ってるかな」  ガムを噛む。そして空き缶はくずかごへ――飲み干したそれをおれは投げ入れ、暁彦は投げずにきちんと捨てた。 「たぶん知らない。なんだよ」 「宇宙旅行のための乗りもの。実はもうあるって話」 「どっかよその国の宇宙船だろ」 「スペースシャトルじゃないよ。宇宙列車。銀河超特急」  四日前なら信じていたかもしれない話。暁彦は現実よりも夢の世界がお好みらしい。きっと毎年暮れには枕もとにサンタクロースがやってきてるんだろう。 「ほんとなら嬉しいけどな」 「気にならない?」  気にはなる。だが、車もまだ宙に浮いていないうちから―― 「汽車が空飛んじまうとは思えねえな」 「汽車のかたちはしてないよ」 「してないって、今、宇宙列――」 「リニアモーターカーっぽい感じ」 「実物を見たのか?」  どくんと跳ねる心臓――もう一度だけ、サンタクロースを信じてみるか。 「うわさ」 「なんだ」  文句に舌打ちを追加する――サンタクロースの夢、消滅。 「格納庫にしまってあるんだって。羽田空港の」 「それもうわさだろ」 「ううん、こっちはわりと確かな情報」  うそをつけ、という代わりに空港の場所を聞く――海のほう。 「あんまり詳しくないんだね」  なにが?――東京のこと。 「あ……ああ。その、あれだ。千葉のほうなんだよ、家」  知ったかぶりで聞いていたカンダあたりの話がこれでおじゃんになった。 「そこへはどうやって行くんだ?」 「羽田? うんとね……京浜急行だと品川からかな。モノレールだったら浜松町で乗り換え」  乗り換える前が何線なのかわからない。質問を変える――こっから見てそいつはどっちの方向にある?  池の反対側を指差す暁彦。手首の磁石でおれは方角を確認した――《S|南》。うわさを丸ごと信じるわけじゃないが、東京で暮らしていくなら空港の場所ぐらいは知っておいたほうがいい。 「でね、こないだゼミの《大前田|おおまえだ》くんとも話してたんだけど――」  さらに説明を続けようとする暁彦。 「もういい。わかった」 「よくないよ。火のないところに煙は立たないんだから」  暁彦が話を引っぱり戻しにかかる。つきあった。 「アンドロメダは無理としても、今の科学力をもってすれば月や火星に行けてもおかしくないはずだって」  アンドロメダ、科学力、火星。ずいぶんと壮大な話になってきた。サランラップされた空に目をやる――西に三日月。 「月は近そうだな」 「天体のなかではそうだね。だけど人間の感覚でいくと遠いよ。地球を十周するのと変わらない距離だから。光でも一・三秒かかっちゃう」  ピンとこなかったが、まさか長野と東京の往復回数で計算してくれともいえない。聞き流す。 「で、そんな遠いところへ羽田空港から行けるのか?」 「たぶんね。駅はきっと月の裏側だよ」 「裏側? そんなの決まってんのかよ」 「うん。いつも見えてるほうが表。裏側は地球から見えない」  驚いた。おれはてっきり地球と同じように一日かけてぐるっとやってるものだとばかり思っていた。 「気にいらないな」 「どうして?」 「外面のいい、どっかの誰かみたいだ」 「いるよねそういう人。で、誰かって誰?」 「さあな。ところで裏側にはなにがあるんだ?」  食えないとわかっている消しゴム=メロンのにおいが染みついたそいつへ歯形をつけたくなるように、見えないとなるとそこはやっぱりのぞいてみたくなるもの。 「陸地。表にはそれがあまりない。海が多いんだ」 「海まであるのか!?」 「うさぎのところは全部そうだよ」  浮き輪にはまって地球を眺める想像をした。 「水はないけどね」  浮き輪のまま砂漠に突っ立たされるおれ。月はどこまでも暗く冷たかった。 「海じゃないだろ、それ……」 「岩と砂の海さ」 ――干あがったうさぎの海。 「あ」  うさぎに勝ったのろま=長谷川のことを思いだした。 「どうしたの」  暁彦に亀が好きかどうかを聞く。 「好きじゃないけどなんで?」 「こいつの身の振り方を考えてやらなくちゃいけなくてな」  桜の幹へ立てかけておいたバックパックのポケットから、うさぎのライバルを取りだして見せた。 「うわ、生きてる」  海にはほど遠いが、ちゃんと水のある地球の池へ近づいていく。 「放しちゃうの?」 「ああ、野生に返すんだ」  月にうさぎがいるように、土にミミズがいるように、亀は池にいればいい。お別れだ、長谷川。 「かわいそうじゃない?」 「それじゃ、もらってやってくれるか。餌はゆで玉――」 〝アッキッキ~〟  広場のほうからの声。おれより先に暁彦が振り返る。 「や、やあ」  手をあげて応えるも、どこかぎこちない。こっちへ向かって歩いてくるガキどもは三人。顔つきや態度からして、おそらく暁彦にとっちゃありがたくない相手なんだろう。 「あいつら悪者だろ」 「ううん、友だちだよ」  暁彦がメガネを外してまたかける。 「ほんとか? お前とちがって頭悪そうだぞ、あいつら」 「し、聞こえちゃうよ」  おろおろしだす暁彦――と、ここでひらめき。 「探したぞ、堤ぃ」 「ど、どうしようかな……いいや、亨くんここでちょっと待ってて」  小声でいって走りだす暁彦――きびきびした動き。真ん中の赤いジャンバーを着たガキの前へ着くと暁彦はそいつに頭を下げた。 「なにが友だちだよ」  この手のパターンはゲームセンターや駅の便所でさんざん目にしてきている。赤いガキがこっちを気にしながら暁彦の肩に腕をまわした――カツアゲのはじまり。ひそひそ話が終わると、暁彦は財布から何枚かの札を取りだした。メガネをかけているわりにはずいぶんと気前がいい。  うその友だちの手に光の速さで引ったくられていく札。こっちの手のなかでは誰かが暴れている。 「大自然がいいか、新しい飼い主にもらわれていくのがいいか、よく考えとけ」  おれは長谷川をもとの隠れ家へ戻し、そいつを背負って四人のほうへ歩いていった。    § 「なんか用か」 「用があるから来てんだよ」  赤野郎のど真ん前に立っていう。 「てめえ! ノブくんに向かってなんだその口の利き方!」  三人のなかで一番弱そうなやつ=阪神ファンの喜びそうな縦縞を着た《ヤセ》が、おれの胸ぐらをつかんでこようとした。もちろんそんな真似はさせない。 「《痛|い》ててて、やめろ、おい!」 「やめたらちゃんと話せるかい、ノブくん」  稲妻を使うまでもないへなちょこぶり。縦縞小僧の腕をひねりながら赤ジャン野郎=ノブとやらの目を見る。 「亨くんやめて! ア、アッキは大丈夫だから……」 ――心配するな暁彦。おれは別にお前を助けに来たわけじゃない。自分のひらめきに従っただけだ。 「そうみたいだな」 「え?」 「だって友だちなんだろ? 三人とも」  暁彦のほうに顔を向けていった。 「あ、いや……う、うん、まあ」 「てことはつまり――」  目だけをノブに向ける。 「おれとあんたらも友だちみたいなもんだ。そうだろ?」 「わかったから、《勝|まさる》を放せよ」  ボスらしいセリフ。縦縞の口だけ男を自由にしてやる。札束と長谷川の隠れ家を暁彦に抱えさせる。なかを開けて見たりするなよ、とつけ足しもする。暇になった左腕は赤いジャンバーの肩へまわした。 「な、なんだよ、お前」 「おれか? 亨だよ。岡島亨。よろしくな」 「名前なんて聞いてねえよ」 「そっか。んじゃ忘れてくれ。それよりお前らに頼みたいことがある」 「頼み?」 「ああ、頼みだ」  抑えた声でいった。 「そんなの堤にいえばいいだろ!」 「声がでかい。おれに合わせろ」 「ど、どうしてお前に……」  言葉の尻がうやむやになる――暁彦には勝ててもおれには勝てないノブ。最初に目を合わせたとき、こいつは顔を下へ向けた。男の勝負はそういうところでも決まる。 「暁彦じゃ無理なんだ」 「意味がわかんねえよ」 「今、説明する。お前、兄貴いるか」 「いねえよ」 「あっちのふたりは?」 「《重雄|しげお》がいるけど、それがどうしたんだよ」  ノブの足もとにガムを吐きつける。 「聞いたことだけ答えろ」 「あ、ああ……」  小声でいい、顎だけで頷くノブ。 「シゲオの兄貴は不良か?」 「不良?」 「暴走族とかそういうのだよ」 「ちがうけど、それなら《家|うち》の近所に《勇|いさむ》くんって人がいる」 「いくつだそいつ」 「中二だから十三か十四」  ちょっともの足りないが、こいつらよりはマシか。 「うるさいバイクや車を乗りまわしてるのがいるのか? そいつのまわりには」 「いない。中学生だぜ、勇くん。チャリンコ暴走族はやってるけど」  無駄骨。やっぱり武田ぐらいの不良と知りあわないことには話にならない。 「さっきの金返せ」 「さっきの?」 「暁彦から巻きあげた金だよ」 「そ、そっちは関係ないだろ!」  面倒くさくなったおれはノブを小突きまわしていうことを聞かせた。 「もう行け。『覚えてろよ、この野郎』とかいわなくていいからな」  ノブの肩を押しやり、かやの外の三人に体を向ける。 「マサルとシゲオ」 「はい!」 「な、なんですか」  腕をねじられたマサルよりも、シゲオのほうがおれにビビっていた。 「お前らも失せろ」  黙っておれの言葉に従う子分ども。まったく、都会のガキはこっちが情けなくなるほど弱っちい。    § 「ほら、取り返してやったぞ」  おしゃれなシャツの胸ポケットに伊藤博文三人をねじこんでやる。 「見ただろ、暁彦。いばってたって実際はあんなもんだ。もう金なんかやる必要ねえからな」  えらそうにいってはみたものの、よくよく思えばおれもノブ一味とおんなじようなことを昔にやっている。今のはせめてもの罪ほろぼしと思いたかったが、大泥棒をやらかした後じゃ、それもちゃんちゃらおかしな話だった。 「これ……」  暁彦がバックパックを返してくる――浮かない表情。どうしたのか。 「なんか暗いぞ。金、損しなくて済んだんだから、もうちょっと嬉しそうな顔しろよ」  こっちの目的は叶わなかったが、暁彦に取っちゃラッキーな結果になった――はず。 「その顔の傷や痣は……ケンカ?」 「まあそうだけど、急にどうしたんだよ」 「……んな……ばんな……おも……かった」  途中の言葉が音になる前に消えていく。口のかたちからも意味を想像できなかった。 「おい、暁――」 「キ、キミがそんな野蛮な人だと思ってなかった!」  いつの間にか亨くんからキミに逆戻りしているおれ。暁彦の目の前で暴力を振るったのはまずかったか。 「ヤバンってなんだ」 「最低な人間のこと」  怒りよりも先に疑問が湧く――人助けのどこが最低なのか。 「なにが気にいらない」 「いろいろだよ」 「いってみろ」  おれを睨む暁彦。こんな目ができるなら、あいつらのいいなりになる必要なんてないだろうに。 「彼らはお金を借りに来ただけなのに、それをキミは……」 「ちょっと待てよ。なんで金を貸すほうが頭下げなきゃならないんだ」 「いいんだよ、そんなことは!」  よくない。あれはどう見たってカツアゲだ。 「だいたい貸したとかいうんだったら――」 「だからお金の問題じゃないんだってば!」  きゃしゃな拳が《不忍池|ふにんいけ》と書かれた鉄の立て札を叩く。 「アッキが普通に暮らせてるのは、あの三人のおかげなんだよ!」 「おかげ?」 「そうさ! 彼らはアッキを守ってくれてるんだ! それも週にたったの三千円でね!」 「お前さっきは借りに来たっていってたぞ」 「アッキが返してっていわないだけさ!」  話がまるで噛みあってこないが、こっちが思っていたのとは少し事情がちがうみたいだ。 「仕返しされる……キミが余計なことをしてくれたせいでアッキは……アッキの人生はめちゃくちゃだ! どうしてくれるんだよ!」 「わかんねえよ。どうすりゃいいんだ」 「守ってよ。彼らの代わりにずっとアッキのこと」 「ずっとって、いつまでだよ」 「アッキが大人になるまで」 「馬鹿いうな。おれだって暇じゃない」 「お金ならいくらでも払うから!」  けちメガネの大サービス。暁彦の家はひょっとすると金持ちなのかもしれない。 「じゃあ年に百万。《二十才|はたち》までで八百万だ」 「どうしてそんな金額になるの! 彼らは週に三千円でよかったんだよ!」 ――今、いくらでも払うっていっただろうが。 「だったら自分でなんとかしろ」 「友だちがいのない人だね、キミは」  なんだかしらけてきた。誰かもそうだったが、頭のいいやつはどこかで必ずおかしなことをいいだす。 「そうやってなんでも金で済ませちまう仲を友だちとはいわねえよ」  バックパックを背負い、東京で最初の友だちと思いかけたやつに背を向ける。 「逃げるのか」 「ああ。おれは面倒くさいのが嫌いだ」  気持ち早足で来た道を戻る――背中に軽い衝撃。小石かなにかが土の上へ転がった。 「結局キミも彼らと同じさ。力が強いってだけでえらいと勘ちがいしてる」  振り返る――五メートル先で大層な演説をぶつ暁彦。自分の頭に人差し指を突き立てている。 「本当の力はここだよ! みんなそういってる。アッキのパパはエリートだ。お爺ちゃんだってそうさ。ママはやさしくてきれいで頭もいい」 「さっきも聞いたよ」 「何度だっていうさ! アッキはだから幸せだし、そういう選ばれた人のところにしか幸せは来ないと思ってる。力の強い、だけどそれ以外に取り柄のない人たちがいい思いをしていられるのは子供のときだけだ!」  わかるところだけで意味をまとめる。 「力が強いだけのやつは大人になると不幸になるのか」 「当たり前さ。たくさん苦しんでたくさんつらい目にあう。そして最後には自殺するか、悪いことして死刑にさせられる。エリートじゃない人たちはそうやって世界からいなくなるのさ」  今すぐ死ねといわれているみたいだった。 「暁彦は自殺をしないのか」 「どうして? アッキは選ばれた人間だよ? 死ぬ理由なんてどこにもないよね!」 「選ばれなかった人間が死なずに長生きしたっていいだろう」  エリートの坊ちゃんが鼻を鳴らす。かちんときたが堪えた。 「なんにもわかってないな、キミは。そんなことされたら世のなかがめちゃくちゃになっちゃうんだよ。いいかい? 悪いことをして捕まるのはみんな馬鹿な人たちさ。エリートはそんな真似しない。やったことは必ず自分に返ってくるって知ってるからね。ブーメランみたいに」  選ばれなかった人間=力が強いだけの人間がいつの間にか馬鹿に置き換わっていた。かちんが倍になる。我慢する。暁彦が続ける。 「すべては学歴さ。なにより大事なのはそれ。ほかのものは大事じゃない。当然かもしれないけど学歴のない人たちはそこのところを理解できない。だから罰を与える。法律はそのためにあるんだから」 「おい、なんで理解できないだけで罰を受けなきゃならないんだ」 「知らない、わからない、理解できない、聞いてない。そういうのは全部罪。子供のうちはまだいいよ。罪が軽いからね。理解できなくてもセーフ。だけど大人になったらそうはいかない。法律がそれを許さない」  手が出そうだった。足も出そうだった。我慢に我慢を重ねるおれ。そうしないととてつもなくやばいことをしちまいそうな気分だった。 「……なにいってんだよ、お前」 「わからないの? エリート以外は人のかたちをした動物なんだよ」 「そんなわけないだろ!」 「あるさ! 放っておけば彼らはいつか誰かに迷惑をかけるよ。それをルール違反とわからずにね」 ――ちがう、暁彦。わかってるんだ。ルールを破ってるのは頭にくるほどわかってるんだよ。 「だから罰が必要だし、檻が必要だし、死刑が必要だし、つまりは管理してやる必要があるってことさ。賢い人たちはそのための法律をどんどん作って、どんどん悪者を裁く。それが世のなかのしくみ。エリート以外の人たちはどうがんばっても長生きできないし、長生きする意味も価値もない」  ポケットのなかで震える拳。それをさせているのは怒り以外のなにか=悪者の心だけに湧き起こるどうしようもない気持ち。 「アッキはそんなふうになりたくない。今いろんなことを我慢してるのも、たくさん勉強してるのも、すべては将来のため。裁く側の一員になるためさ」 「お前、ほんとに999好きだったのか」  映画じゃ、永遠の命を手にしたやつらが、そいつを手に入れられなかった人間たちの魂を食っていた。それと似た意味のことを暁彦はいっている気がする。 「そっちは科学の話さ。関係ないよ、この話と」  関係なくない。鉄郎が、ハーロックが、アンタレスが、ミャウダーが馬鹿を死刑にしろなんていうはずがない。 「長生きしたかったらキミもアッキみたいに勉強しなよ。今からでも遅くないと思う」  奴隷暮らしをしていなければ、金の心配がなければ、生まれつきの馬鹿でも少しは努力をしていたかもしれない。だけど―― 「無理だな」 「だろうね。なんにもしないうちから諦めるのが賢くない人たちの特徴だから」 「演説は終わりか」 「演説じゃないよ。ルールさ、世のなかの」 「お前を殺す」 「え!?」  やぶから棒に切り替わる心のスイッチ――なんだ? どうした? そいつをやるほどやばい状況でもないだろうに。 「そのルールでいくとおれはどうなる? お前を殺した後」  知らない誰かがおれの喉と口を使って勝手にしゃべる……いや、でもちがう。そんな気がするだけで言葉はまちがいなくおれの脳みそから垂れ流されている。つまりスイッチはおれ自身で切り替えた。 「……なにその質問」 「答えろよ、暁彦。おれは賢くないんだ」  なんなのか。いや、もうなんでもいい。今はいいたいことをいわないと、心がどうにかなっちまう。 「死刑になるよ、キミは」  だよな――いって、左足を一歩前へ出す。心がだんだんとひとつになってきた。 「だけど暁彦はおれが死刑になるより前にこの世から消えちまってる。ちがうか?」 「なにがいいたいんだ! 脅してるのか!」  顔をこわばらせる暁彦。かまわず距離を詰めていく。 「別に脅しちゃいない。思ったことをいっただけだ。でもお前――」  ふたりの胸の間で刃を開く――花柄ピンクのカッパナイフ。息を素早く吸いこむ音がした。 「今ちょっと怖いだろう」  暁彦の体を見えない力で押していく。 「法律が自分を守ってくれないかもしれない。そう思ってるんじゃないのか」 「思って……ないよ」  ふたつの心がまるで新品同士の下敷きのようにぴたりと重なる。 「そうか。なら、ためしてみるか」 「た、ためすってなにを……」 「馬鹿に法律がどれだけ効くか、だよ」  暁彦はうさぎ。のろい亀をなめてかかった白いあいつだ。 「人生を棒に振るってのはこういうことをいうのかもな」  うさぎの武器はスピード。亀にはそれがない。なにもしなくたって勝てる――自信が生んだ油断。暁彦の武器は賢さと法律。それがある限り殺されっこない。死刑と聞けば誰もがビビると思っている。 「と、亨くん!」  桜の幹が暁彦の後ずさりを止める。見えない力は緩めない。刃の背でメガネの縁を叩きながらいう。 「キミから名前に戻ったぞ。どうしてだ?」 「あ、危ないってば……」  暁彦の下半身に力が入る=ダッシュを決める準備。カッパナイフの先を鼻の穴に突っこんでやった。 「法律があったって、死刑だなんだ脅されたって、馬鹿は簡単に人を死なせちまうと思うけどな、おれは」 「こ、こ、殺すのか、アッキを」 「さっきそういわなかったか」 「や、や、や……」 「そうじゃなきゃどうしてほしい?」  殺人はいつでも起きている。どこでだって起きている。大昔から何千回何万回と起き続けている。今日殺されるやつがお前じゃないって保証はどこにもないんだぞ、暁彦。 「さっぱり効いてこないな」 「……え?」 「法律だよ。もたもたしてたら死んじまうっていうのに。もしかしたらおれ、馬鹿じゃないのかもしれないな。どう思う?」 〈もうやめたほうがいいぞ〉 ――黙れ。 〈ぜったいやめたほうがいいぞ〉 ――黙らないならお前から先に殺す。 〈むり。あたしはころせない。ころすまえにおまえがしぬ。でもあきひこころすりゆーない。ころすのはきちがいござんけ。ちがうひとごろしはそん。どろぼーはおとく。ゆめがかなう。じんせーばらいろ。いつかまなみとけっこん。きよかともけっこん。どれいのくせに。しね〉 「冗談だよ、暁彦」  はじめて聞く《顔なし女|ばけもの》の説得。そいつに納得するおれ。刃をたたみ、体を離し、くちびるの端をあげる。今にも叫びだしそうだった暁彦の顔もひとまず落ち着いた。 「選ばれたとか抜かしてるやつら。いうほど賢くねんじゃねえのか。法律は誰かを殺した馬鹿を死刑にするかもしれねえけど、腹にめりこんだこいつまでどうにかしてくれるわけじゃない」  暁彦はなにもいわなかった。鼻をすすりながら、おれをただ睨んでいる。 「馬鹿も利口も同じ人間だ。鉄郎ならきっとそういう。だから死刑だのこの世からいなくなれだのいうなよ」  きゃしゃな肩をポンと叩いてまわれ右――さて、これからどうしたもんか。 「……鉄郎は機械の側の人間になろうとした」  聞こえないふりをして歩きだす。 「メーテルもそれを手伝った」  奥歯に力をこめる。こうすると聞こえている音の半分は耳から締めだせる。きちがいどもの難くせを聞くのに飽きたとき、この技はなかなか役に立った。 「あの映画はおかしいよ」 「もういい、やめろ」 「しょせんは子供騙しのいんちきさ」 「やめろっていってるだろう」 「いいよね、マンガと現実をごちゃ混ぜにできる野蛮人――」  なにかがおれの我慢を――いくつも重ねたそいつを食い破った。今度のは正真正銘の怒り。しゃれた柄の襟首を引っつかみ、暁彦を桜の幹へと叩きつける。 「かはっ!」  咳きこみ、目を白黒させる裏切り者。拳を突きだし、メガネを叩き割る――真似をする。 「な、な、な……」  目の端で捕まえた黒が肌色に変わる――人の顔。池のほとりで餌やりかなにかをしていた親子らしきふたり。おまわりじゃなきゃかまわなかった。 「そんなに死にたいのか」 「だだだ誰か――」 「黙れ。刺すぞ」 「あ、あ、あ……」  利口顔がいろんな表情を浮かべる。寸止めしていた拳を開き、『あ』のかたちの口をふさいだ。 「おれは悪者だ。わかるな」  暁彦が首を振る。わからないといっているのか、自由が欲しいだけなのか判断がつかなかった。 「ヤバンなことをして逃げまわってる、長生きする意味も価値もない馬鹿っていえばわかるか」 「あごゎぐぁ、かぁ……なん――」  身をよじる暁彦に軽く膝蹴りを入れる。 「おとなしくしろ。次はほんとに刺す」  首の動きが横から縦に変わる。指の隙間から垂れ落ちるよだれ。親指をその顎にかけて引きあげ、口を完全に閉じさせる――助けて。手のひらで聞き取った願い。自分の身ひとつ守れないやつが口にするお決まりのセリフ。 「ああ、助けてやる。その代わり有り金を全部出せ」  細かい、けいれんのような頷き――賢いくせに馬鹿な暁彦。まぬけな暁彦。胸ポケットから伊藤博文たちを引っこ抜き、顎にかけていた親指の力をほんの少し緩めてやる。 「なんだ」 「あ、あるっ、あるっ、ここに! かばんに!」  喉に詰まっていた言葉が《唾|つばき》とともに手のひらへぶつかってくる。 「自分で出せ」  桜の木にぴたりと貼りついたまま、肩下げのかばんをまさぐる暁彦。すぐにチェック柄の財布=青い三つ折りが顔を出した。取りあげて、三人の伊藤博文もろとも上着のポケットへとねじこむ。どこからか『ケンカをしてるぞ』という声が聞こえた。 「もうひとつ」 「お、お願いだからもうやめ――」 「だめだ」  でかい涙の粒がレンズの向こうに盛りあがってはこぼれていく。葉っぱの上を滑り落ちていく露みたいだと思った。 「おれみたいなガキでもひとりで暮らしていける街を教えろ」 「埼玉に行くって……」 「予定を変更した」 「じゃ、じゃあ家に帰れば――」 「逃げまわってるっていってるだろう。どこだっていいんだ」 「……わかんないよ、そんなの」 「お前、東京に住んでんだろ? だったら聞いたことぐらいあるはずだ。よく考えて思いだせ」  見物人が増えてきていた。暁彦はしゃくりあげながら質問の答えを考えている。街の名前を聞きだしたら特急でばいならだ。こいつだっておれのことなんか光の速さで忘れたいだろう。 「早くしろ」 「……ブヤとか」 「なに?」 「《渋谷|しぶや》とか行けばキミみたいな人たちがたくさんいると……お、思う」  シブヤ――聞いたことのある名前だった。 「どうやって行けばいい」 「《山手線|やまのてせん》に乗れば……」 「どこ行きのヤマノテ線だ?」 「どっちでも着くよ……」 「どっちでもってなんだ。いいかげんなこといってると――」 「ほ、ほんとだよ! あれは環状線っていって、東京をぐるぐる――」 〝こらこら、ケンカはいかんぞ〟  真後ろからの声=大人のそれ。振り向く前に肩をつかまれた。腰を落とす。脇目に見えたズボンの色は焦げ茶色――おまわりじゃない。後ろへ転ぶようにして股の間をくぐり抜ける。肩にあった手が離れた。体を起こす――起こせない。バックパックのどこかをつかまれている感じだ。 「脅されました! お金取られました! 殺されかけました! この人犯人です!」  誰かれかまわず助けを求める暁彦――放っておいた。ざわめきが東西南北のどこからも聞こえてくる。膝をたたんで素早く伸ばす=蛙跳び。焦げ茶ズボンのど真ん中狙い。脳天が股の骨を突きあげる――取り戻した背中の自由。尻もちを突いたそいつの顔を確認する――おれの五倍は生きてそうな《亀面|かめづら》のじじい。立ちあがり、エリートうさぎの顎へ一発お見舞いした。喚くために目一杯開かれていた口が一瞬にして閉じる――ダッシュ。 〈おまえばか〉 「ああ、利口じゃない」  広場を駆け抜ける。追ってくる声をぶっちぎる。平和のシンボルどもがおれに驚き、ねずみ色の膜でサランラップされた空へと散っていく。足を止めずに振り返った――走るのをやめている大人ども。 〈ゆだんたいてき〉  いわれなくてもわかっている。おれは逃げ足にターボをかけた。
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