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雨はただただ冷たくて、それに濡れると不快でしかないものだと思っていた。ましてや時雨など、降った日は頭が痛くて仕方ないし、気温は下がるし、嫌なことしか無かった。それが僕の知っている時雨だった。それが覆されることなど、無いはずだった。 それでも、あの時、見たものは、本当に美しかった。 僕は小さい頃から病院で暮らしている。生まれ持った病気の治療のため、だと聞いた。物心ついた頃から病院生活だったので、僕は病院外の世界を見たことが無い。本で読んだり、人から聞いたりした知識しか無いのだ。 僕に、体験した「雨」なんてものはない。窓を開けっ放しにしていたせいで、雨が吹き込んできて少しだけ濡れたことはあるけれど。その時感じたのは、濡れたことに対する不快感と冷たさだけ。生まれてはじめての体験に、感動なんてしなかった。僕の雨に対するイメージは可も不可もないではなく、マイナス。雨が好きな人間なんて頭がどうかしているレベルのものなのだ。 だからもちろん、時雨に良いイメージなど欠片もない。秋から冬にかけての、冷たい雨なんて、暖かい訳がなくただ不愉快なだけ。そうだったはずなのだ、前にも言ったように。僕の、その価値観を覆していったあの不思議なことがなければ―――。 二、三年ほど前になるのだろうか。その日は、僕の大嫌いな時雨の降る日だった。やっぱり、いつものように低気圧のせいで頭は痛くなるし、寒い、僕の嫌いな時雨だった。その年の初めての時雨は、これからの寒さを思わせ、僕をうんざりさせた。暇潰しに、と思った本は僕には面白さが分からず、余計に僕を苛立たせた。 気まぐれだった。ただ、何気なく外を見ただけだった。たまたま目に入っただけのはずだった。それを見た瞬間、僕はそれまで読んでいた本のことさえ忘れてしまうほど、それに惹き付けられた。退屈しのぎはずっと本を読むことで、活字中毒者の僕が、だ。 それは時雨の中を走る、僕と同じくらいの年頃の女の子だった。しかし、ただ走っているのではない。嬉しくて仕方がないと体全体で喜びを表して、踊るように走っていた。それは、僕の知っている何よりも美しく、何よりも元気そうで、僕とまるっきり正反対だった。 制服を着た、美しい少女がなぜ、あの冷たく不快な時雨の中をあんなに楽しそうに走っていたのか、僕には分からない。でも、その時、僕は嫌いな時雨でさえ美しく見えたのだ。彼女の周りだけ、僕の知っているものとは別の、暖かい何かが彼女を包んでいるようだった。いや、彼女自身が暖かい何かなのかもしれない。それとも、彼女がそれを出しているのか―――僕には分からなかった。 手を伸ばしたい。純粋にそう思った。僕の知るどんなものよりも美しい彼女に、触れてみたかった。彼女が浴びている雨ならば、暖かいのではないだろうかと、僕は濡れることを厭わないほどまでに高揚していた。 今まで持っていた本を乱暴に置き――普段の僕であれば、まずあり得ない――、ベッドから飛び降りた。普段しないような激しい動きをいきなりしたのだから、きっと苦しかっただろうけど、そんな事など意識の外にあった。半分ほどしまっていたカーテンを雑に開け、あまり使わないせいで固くなってしまった窓の鍵を、手間取りながらあげて、窓を思い切り開け放った。冷たい雨が吹き込んできた。僕は身を乗り出した。雨に濡れたことも、分からなかった。 「ねぇ、君!君は、……」 僕が呼び掛けると、驚いたような彼女と目があった。彼女の周りには神秘的な美しさが満ちていた。雨雲のせいでいつもより暗いはずなのに、彼女は白い光を纏っているようだった。彼女の周りだけが明るかった。 突然、突風が吹いてきた。しっかり止めていなかったカーテンがはためいて、僕の視界を奪った。カーテンの奥で彼女が纏っている白い光が凝縮され、一気にはじけた。そのまばゆい閃光は真っ白で明るい世界を作り、一瞬で消えた。 風が止んで、カーテンと 僕の視界が元通りになった。彼女は居なくなっていた。彼女が纏っていた白い光の名残はどこにもなく、そこにあるのは、いつものような雨だった。 呆然とした僕が雨に濡れているのを、巡回していた看護婦さんが見つけて、大慌てで声を掛けられるまで、僕はずっと身を乗り出しているままだった。人が、消えた。彼女が、消えた。ただその事だけがショックだった。 彼女の存在は、不可解なことが多すぎる。まず、この地域の住民ではないこと。どこの学校の制服かを調べれば、何者か分かるだろうと探してみたが、分からなかった。似たような制服があったとしても、それでも違うのだ。どこの学生なのか分からない、これが一つ目だ。 それに、彼女が纏っていた雰囲気。僕と同じくらいの年頃だと思えないものだった。子供らしくもあり、でも何かを達観したような感じ。この二つを持ち合わせることが、どれ程の人が出来るのか、僕は知らない。これが二つ目。 そして、彼女が発したであろうあの光は――彼女を包んでいた白い光も――。あの後、すぐに消えてしまった彼女を、忘れられないのだ。美しく、鮮烈に、僕を惹き付けた彼女を。僕の人生で、一番美しいであろう人を。それも、あの光のせいなのだろうか。あの、白く輝く光なのかもしれない。 漫然と、それでも毎日、僕は彼女が人間ではないという、頭がおかしいようなことを考えている。人間でないとすれば、納得出来ることが多すぎるからだ。人間でないから、あんなに美しかったのだろうか。人間でないから、神秘的な美しさを持っていたのだろうか。人間でないから、あの白い光と共に僕の前を去っていったのだろうか―――。 彼女の存在は強烈でも、僕の中でふわふわとしている。それだから、何時だったか、彼女を絵で描こうとしたことがある。やりはじめてすぐに止めた。彼女を、どうして絵が得意でない自分に描けると思ったのか、自分でも訳が分からなかった。きっと、どんなに絵が上手い人でも、彼女の美しさは表せまいと思う。だから、彼女の存在を、僕の見える形にするのは諦めた。文章でも、音楽でも、僕には出来ないことだ。吹っ切れたら、随分すっきりした。 だから、いつまでも覚えていようと思う。彼女は人間ではないかもしれない。あるいは、僕自身が生み出した、幻想なのかもしれない。それでも、覚えていたい。彼女の存在を、彼女の美しさを、彼女が美しいものに変えてくれた、あの日の時雨を―――。彼女が何であったところで、僕が彼女を見たという事実は変わらないのだ。だから覚えていよう。誰にも言わず、僕だけが知る事実として、彼女を。いつまでも、僕が死ぬまで。 世界を美しくしてくれた彼女に、最大の感謝を込めよう。ずっと、僕の宝であるだろう。 「なぁ、あの娘はもう少し慎重に行動出来ないのか?また人の子に姿を見られたのだろう?」 「まあまあ、長老。あの娘には言っても無駄ですぞ?それに、あの子は自由でいる時に、一番輝くのはご存知でしょうに」 「知っていても、なぁ。そのうちあの娘が人の子にさらわれてしまいそうな気がするのだ。思い過ごしだと思いたいが……」 「そのようなことを言うでない。皆あの娘に離れて欲しくないのだ、そうだろう?」 「当たり前ではないか、あの娘の踊りを楽しみにしないものはもはや我らの仲間には居るまい」 「愛されておるなぁ、あの子は」 「おお、皆愛しているとも。だからこそ離れて欲しくないのだ。さらわれた日には皆狂ってしまいそうでな」 「そうだなぁ」 「しかし、そう言っていても何も変わるまい。今は、あの娘の踊りを楽しみにしていようじゃないか」 「あの娘は本当に楽しそうに踊る。まさに冬を望んでいた我らの心の通りだ」 「宴はあの娘が居なければな、意味はないようなものだて。誰よりも美しく舞うあの娘に勝る美しさを持つものは、居ないだろうな」 「前に……キャナダだったか?あそこでの舞いも素晴らしかった。あそこは冬が長くて良かったなぁ」 「あそこに居たときは、あの娘とお前さんの息子が人の子に見つかって騒ぎになったな。写真には写っていないが、確かに見たと人の子どもが騒いでおった」 「そう言えば、二、三年前にあの娘が人の子に見られたと言っていたな。ただ、その人の子は誰にも何も言わなかったようで、騒ぎは起こらなかったなぁ」 「そんな事もあったな、その時はどこに居たのか、誰か覚えておらんか?」 「確かそれは日本だったと思うぞ、あの時も楽しかった。あの娘に、制服とやらを妻が作っておったが、あれは舞いをするには向かないな。軽すぎて布が邪魔くさいと言っておった」 「日本はいいよなぁ、やはり生まれ故郷とは愛着があっていいものだ」 「だが、スイッツァランドとやらも良かったなぁ。皆姿を作り変えて騒いで山を登って……清々しいところだった」 「いや、ロシアも良かったぞ。まず冬が長いし、人の子が少ないから見つからないから、好き放題騒げた」 「いや、それでも日本がいい。姿を作り変える必要も無いし、過ごしやすい」 「うんうん、……おっ、あの娘がやって来たようだぞ!皆、宴の準備をせい!」 「おお、やっと帰って来たか!長老からの命だと伝えよ、『冬の踊り子』が来た、早急に集まれと!」 『冬の踊り子』―――それは、冬の始まりと共に現れ、冬の終わりと共にどこへともなく去っていく女の妖怪。彼女は「冬知らせ」という一団の看板娘である。毎年気まぐれに土地を訪れ、一冬をそこで過ごす。次にその地を訪れるのは、いつになるのか、誰にも分かりえない。どこで生まれたのか、いつ生まれたのか、誰も知らない謎多き存在。 美しき冬の日、一人の踊り子はますます輝かしい存在となる。其の姿は、冬の野を駆る一羽の兎の如し。由来し、彼女は「沙雪兎(さゆう)」と名付く。 「あ、居た!おーい、『冬の踊り子』!」 「おお、雪の子に霜の子じゃないか。どうかした、そんなに急いで」 「どうしたもこうしたも無いよ!だって、『冬の踊り子』、どっか行っちゃうんでしょ?行かないでって言いに来たんだよ!」 「私が?誰がそんなことを。私は皆から離れてどこかに行くようなことなんてしないぞ」 「だって、長老様とか父さんとか、皆『冬の踊り子』が誰かにさらわれるような気がするって……」 「さらわれるって……私はそんなに子供に見えるのか、あの人達には」 「だって、『冬の踊り子』綺麗なんだもん。僕ら一団の自慢なんだよ。綺麗なものは皆欲しいでしょ?」 「それって……ありがとな、雪の子、霜の子。だけど大丈夫。私は皆と居なきゃ駄目みたいだ。じゃあ、皆のところに戻ろう。競争だ!」 「あ、ずるいよ、待って!」 私は冬を歓ぶ『冬の踊り子』、冬を望む『冬の踊り子』、あの人達の、『冬の踊り子』―――。でもごめんね、誰にも名を教えられないんだ。そうすれば、私は消えてしまうから。だからこそ、皆と過ごす一冬一冬を大切にしたいんだ。だからこそ、冬を知らせる時雨が降ると嬉しいんだ。また、皆と過ごせる冬が来たと分かるから。その度に浮かれてしまって、人の子に姿を見られてしまうのには、目をつぶって欲しい。衣装を変えて見たり、舞いを変えてみたり、姿を作り変えたり、性別まで変えてみたり―――。やんちゃも許してくれないか、皆が楽しそうにしてくれるから、とんでもないようなことまでやってみたくなるんだ。 皆が、愛してくれるから、私の命は輝ける。いつまでも、この大好きな人達と過ごしたい。だから、時雨の降る秋の日よ、早く来てくれ。春が近づき暖かくなった雪解けの日よ、急ぎすぎないでくれ。私は、まだ一冬を満喫しきっていないんだ。いつまでも、続いて欲しいんだ。ああ、今日も冬が続くことを祈って、あの人達のために精一杯舞おう。私は、それしか出来ないから。さあ―――とびきりの笑顔で。 「ただいま!」
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