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ふんわりとしたシャンプーの香りが僕の鼻孔をくすぐった。少し茶色がかったサラサラなロングヘアに一際大きな瞳。スラッとした高めの鼻に柔らかそうな唇。透き通った白い肌は照りつける太陽の光を全て反射しているかのように眩く輝いていた。 触ってみたくなる唇がゆっくりと形を変え何かを伝える。 「一緒に旅に出よう」 彼女がそう告げた。だから旅に出た。 ふと我に返ると身体中から汗が吹き出るほどの猛烈な暑さを感じた。真上にらんらんと輝く太陽と背中に引っつくような砂は、もちろんその要因に当てはまるだろうが決定的な原因ではなかった。 僕の目の前には吸い込まれそうなほどに澄んだ彼女の瞳があった。僕の両手は彼女の華奢な両の手に塞がれており、僕の身体は彼女の火照った身体に押さえつけられていた。ーーようは彼女の身体が僕の上に乗っていた。それも密着して。 「ご、ごごごごごめんなさい!」 慌てて手を振りほどき、身体をくねらせるようにしてその場から脱出した。 どうした? 何が起こった? 体についた砂を急いで払って立ち上がる。白シャツに黒のデニムにサンダル。とにかく服はきっちりと着ているようだ。 僕の慌て具合と裏腹に彼女は落ち着いてゆっくりと立ち上がり、ていねいに服についた砂を払っていた。白シャツに黒のデニムにサンダル。同じ出で立ちだった。 「あ、あの、とにかくすみません」 他に言うべきことも浮かばず出てきた謝罪の言葉に彼女はにっこりと微笑んで首を横に振った。 「大丈夫ですよ。それよりーー」 彼女の体が再び目と鼻の先まで近づく。とくんと心臓が跳ねるのがわかった。彼女は少し背伸びをして僕の髪の毛に手を触れた。 「ここにも砂、ついてますよ」 「あっ、ありがとう」 緊張のあまり声が上ずってしまった。そんな僕をからかうように彼女は笑った。 「あはは、かわいいですね。そんなに緊張しないでくださいよ。初めて会ったわけじゃないですし」 「初めて会ったわけじゃない?」 素朴な疑問が口をついて出た。一瞬彼女の表情が曇った気がした。 「覚えてないんですよ。忘れてしまったというか」 「忘れてしまった?」 彼女がコクリとうなずく。なんでもない仕草にもいちいち胸が弾む。 「ここがどこかわかりますか?」 そう言って彼女が振り返った方向には見渡す限り深い青色の海が広がっていた。もちろん海は知っている。だけど、ここは? なんで僕はここにいるんだ? 「ここはあなたにとって、そして私にとって大きな意味を持つ場所です。ここがどんな場所か思い出せれば、私のこともきっと思い出せますよ」 当惑する僕の顔を覗き込むようにして、彼女は悪戯っぽく笑った。 「それがこの旅の目的です。添乗員は私、ツアー客はあなた一人です。千陽くん」 彼女が名前を呼んだ途端、心が跳ねた。と、同時にぎゅっと心が締め付けられた。懐かしいような新鮮なような妙な感覚。 「君はなんで僕を知ってるの?」 「さて、なんででしょう。言ったはずですよ、それを思い出すのが旅の目的だと。さてーー」 彼女はぐいっと僕の右腕をつかんだ。 「それでは出発します!」 不思議な感覚だった。頭の端からつま先まで身体全体が冷たい水に浸かっている。身体は鉛をぶら下げているかのように重く、だるく底の見えない海底の深い闇に落ちていくというのに、心は羽でも生えたように軽やかに青空のずっと高いところまで飛んでいくようだった。 「千陽くん」 自分を呼ぶ声にスッと目を開けると、彼女の顔が目の前にあった。 「わっ!」 慌てて跳び上がると、体が大きく傾きそのまま床に転倒してしまった。 「いっつ!」 転がったまま床に強く打ちつけた右脚をさすっていると、彼女が呆れたようにため息をついて手を差し伸べてくれた。その手を取って立ち上がると、見慣れた場所に立っていることがわかった。 「電車?」 彼女はまたため息をついた。 「そうですよ。電車で急に立ち上がるなんてまだ寝ぼけてるんですか? それとも私の顔にびっくりしたとか」 「い、いや、そうじゃないよ」 慌てて首を横に振って、僕は彼女の横に座った。彼女は読んでいた途中らしい雑誌に目を落とした。 「ところで、どこに向かってるんだっけ?」 「まずは腹ごしらえということで、千陽くんがよく行くファストフードのお店へ。…まあ、私も行きつけなんですけどね」 そう言うと、彼女は僕の表情をうかがうように一瞬だけチラッと視線をこちらに向けて、また雑誌を読み始めた。 甘辛ソースの味が口の中へ広がっていく。 テリヤキバーガーは好物だった。ライトブラウンの円形テーブルをはさんだ向かい側では、彼女が小さい口でちょこちょことフィッシュバーガーを食べていた。 彼女が言うには、僕の、そして彼女の行きつけのお店らしいこのハンバーガーショップ。店内を見回してみるが、記憶に引っかかるようなものは何もなかった。唯一あるとすれば、このテリヤキが好物だということだけ。 「千陽くんは、いっつもそのハンバーガーを食べていましたよ。私はこのフィッシュバーガーがお気に入りでしたが。こうして差し向かいで仲良く食べていましたね」 「仲良くって。僕と君はどういう関係だったの?」 彼女はハンバーガーをトレイの上に置くと、細長いコップに入った紅茶を一口飲んだ。 「それは秘密です。自分で思い出してください」 「思い出してって言われても…うーん、友達?」 「いいえ」 「同僚?」 「いいえ」 「じゃあ――」 次の質問をしようとする僕を彼女はきっと睨みつけると、僕の言葉を遮ってまくしたてる。 「ダメです。自分で思い出さないとこの旅の意味がないんですから。だいたい、相手が誰かも覚えていないのに、あなたと私はこういう関係ですよなんて伝えてしっくりくると思いますか?」 「う…そうだね」 その迫力に気圧されてしまって、言葉が出なかった。きれいな人が怒るとこんなにも怖いものか。 「そうです。だから、頑張って思い出してください、千陽くん」 そんな言い方――口をついで出かかった言葉を急いで飲み込んだ。彼女が僕のことをいろいろ知っているのに、僕は名前すら知らない。不機嫌になるのも当然だ。 「そういえば、君はなんて名前なの?」 しまった。また質問してしまった。 「だから秘密ですって。自分で思い出して――でも、いつまでも君とか呼ばれるのも嫌ですね」 そう言うと、彼女はポテトを一本取り出して口にくわえた。そして腕を組んで眉間にしわを寄せて「うーん」とうなる。 「どうしたの?」 「ちょっと待ってください。今、いい名前が浮かびそうで――あっ!」 口からポテトがこぼれ落ちる。 「私のことはルナと呼んでください」 「ルナ?」 今度は僕が眉間にしわを寄せていた。明らかに日本人顔の人に「ルナ」なんて外国人みたいな名前はさすがに。 「はい、ルナです。いいですか、これは大ヒントですよ」 「大ヒントって言われても、いきなりルナなんて――」 急に彼女の顔が接近してきた。 「ルナって呼んでください」 有無を言わさないその迫力にまたしても僕は何も言えなかった。 ガタン、ゴトンと車体は規則正しく揺れた。僕たちは再び電車に乗り込み、次の目的地へと向かっていた。 もちろん僕はどこに行くか知らないわけだが。ガイドは彼女、いやルナなのだ。 そんな僕の気持ちを察したのか、熱心に雑誌を読んでいたルナがこちらに顔を向けた。 「次は映画館に行きます」 「映画館?」 ルナはゆっくりと頷いた。彼女の柔らかそうな髪が揺れる。 「そうです。映画館。ちょうど見たい映画がやっているはずです。まあ、これも前に千陽くんと一緒に行っているんですけどね」 「どんな映画なの?」 「それはもちろん秘密です。ネタバレしてしまっては面白くないでしょう」 僕は言葉を発する代わりにポリポリと頭をかいた。ご飯を食べた後に映画館ってお決まりのデートコースじゃないか? 『あなたは私に今まで知らなかった安らぎを与えてくれた。だけど、私は行かなきゃいけないの!』 『ちょっと待って! 行かないで、ここに居てくれ。君が僕を必要としている以上に僕は君が必要なんだ!』 この映画のタイトルは「remember me 海の中の記憶」。あからさまなタイトルで最初はルナの嫌がらせかと思ったが、彼女は僕の隣の椅子に座って号泣している。 ルナが泣き始めたのは上映開始後すぐだった。物語は二人の男女の恋愛を描いていて、幼少期のトラウマから心を閉ざしていた主人公の女性を男性が変えていくという僕から見たらありきたりなものだった。 主人公が人ひとりいない静かな海辺でじっと水平線を眺めるところからストーリーは始まる。その最初のシーンからルナの涙は止まらなかった。 小刻みに震え続ける彼女の肩が折れそうなくらい華奢に見えていつの間にか僕は彼女の背中を撫でていた。手の平が熱かったが、構わず撫でながら映画を見ていた。 映画の流れからもうすぐクライマックスに突入する。けど、やはりと言っていいのか、僕には何の記憶も沸いてはこなかった。 舞台は再び海辺へ。どこかへ行ってしまおうとする彼女の腕を力強く引っ張った彼は、そのまま彼女の身体を引き寄せて唇にキスをして抱きしめる。彼女の白く細長い腕が震えながら彼の背中を抱きしめる。 「この子は幸せ者ですね」 僕の横の彼女がそうつぶやいた。 ずっとさすっていた手にルナの手が触れた。不意に感じた温かい感触に胸のあたりが熱くなる。 ルナは僕の手を自分の背中からゆっくりと離すと、そのまま僕の膝の上に置いて、僕の手をぎゅっと強く握った。 「え!? ルナ?」 「このままいさせてください。次の場所まで」 車体が大きく揺れた。ルナはそんな揺れなど感じていないみたいにじっと窓の外を見つめていた。その瞳に映る色を僕は読み取ることができなかった。が、何か、ルナの中で何かと闘っているのだろう。 僕はルナの手を握り返し、同じように車窓を眺めた。 窓の外には夕闇が広がっていた。夕陽が水平線のかなたへと姿を消していこうとしている。雄大な風景だが、寂しかった。 『私、この時間が一番嫌いなんです』 「え?」 頭の中に聞き心地のいい声が広がった。 「今、ルナ何か言った?」 ルナはきょとんとその細い首を傾げた。 「いえ、何も。どうかしたんですか?」 「いや、今声がーー」 急にルナが立ち上がり、僕の言葉を遮った。 「聞こえたんですか!? 何か思い出したんですか?」 「思い出したかどうかわからないけど、この時間が嫌いとかなんとかって言ってた」 ルナは驚いたように目と口を大きく開けた。そして。 「やったーーー!」 と歓声を上げる。 と次の瞬間。再びの大きな揺れとともに握っていた手が離れ、ルナは豪快に床に転んでいった。 「いった」 「大丈夫!?」 差し出した手をルナは恥ずかしそうにつかんだ。 「これじゃ、千陽くんと一緒ですね」 大きなため息を一つついて、僕は白壁に背中を預けた。 記憶を思い出したかもしれないとわかったあとのルナは急にハイテンションになってしまった。 いや、ハイテンションになるのは全然いいんだけど、なぜか次の目的地が大型ショッピングセンターとなり、僕はいやいや買い物に付き合わされ、そしていい加減疲れ切ってトイレ前のベンチに座ることになってしまった。 でも、ルナのはしゃぐ姿を見れたのは嬉しい。キレイな顔立ちのせいかどこか近寄りがたい感じのあるルナの無防備な一面を見た、そんな感じがする。 「それにしても」 上を見るとこれまた真っ白な天井が広がっていた。きっとていねいに磨かれているのだろう。 いったい僕と彼女はどういう関係なのだろう。 当たり前のようにルナは僕とハンバーガーを食べて映画を見てショッピングを楽しむ。笑った顔、怒った顔、泣いた顔すべてをさらけ出す。僕はその一つ一つに戸惑うが、決して嫌な感じはしない。 「これってそうとう深い関係だよな」 妹かあるいは彼女、か。 そう考えたとたんに顔が熱くなった。クーラーは効き過ぎるほど効いてるはずなのに、どんどん熱くなっていく。 彼女? ルナが? あんなキレイな人が僕みたいな普通の人と付き合うだろうか。いや、でも、顔が似てるわけでもないしそれならなおさら。 それに列車で聞こえてきた声はおそらく彼女のものだった。今の彼女と何一つ変わらない口調、声のトーン。 彼女はルナは本当に僕の彼女? 「何やましいこと考えてるんですか? 千陽くん」 その台詞とともに頬に冷たい何かが当たった。 「ルナっ! って冷たっ!」 「はい、付き合わせたお詫びです」 そう言って目の前に出されたのはお茶の入ったペットボトルだった。 「あ、ありがとう」 とペットボトルを受け取ろうと手を伸ばした僕は、しかしそのまま固まってしまった。 「やましいこと考えてる千陽くんにはこっちの方がお詫びになりますかね?」 そう小悪魔みたいな笑みを浮かべたルナは、水着姿だった。 ところどころ金色のアクセサリーで装飾されたブラック一色のビキニが彼女の透き通った白い肌とその長い脚をより際立たせていた。小ぶりながら形のいいーー。 「い、いやいやいや! やましいことなんて考えてないよ!」 「いえ、今考えてたじゃないですか?」 にやにやと笑うルナの顔を直視することができない。というか、なんでここで水着なんだ? 反則だろ。 火照ったままの顔に彼女のひんやりとした手が触れた。両頬に添えられたその手が強制的に僕の顔を上げる。 目の前に彼女のまぶしい笑顔があった。 「ダメですよ。千陽くん。私を見ててくれなきゃ」 ルナが笑い転がるたびにソファが揺れる。二人で座ると腕や肩が当たってしまう少し窮屈なソファだ。 「千陽くん今の見ました? あーダメおかしすぎる!!」 お腹を抱えて笑う彼女の手がソファの前に置かれた円型テーブルを叩いた。 「ちょっと待って!! お腹が、お腹いたいよ~あはははははは」 何を笑っているかというと、テレビのお笑い番組だ。思いのほかお笑いが好きらしくさっきからずっと笑っている。 もちろん面白くてつい僕も笑ってしまうが、さすがに目の前に並べられた夕食が食べれないほどではない。 ルナ手作りの夕食は、エビのクリームトマトソースパスタに冷製ポタージュスープ。僕はあと一口で完食のところまで来ているが、ルナは全然箸が進んでいない。 「こんなに美味しいのにな」 ただの独り言だったが、ルナは瞳を輝かせて僕の方を見た。 「美味しいですか!? よかった! 料理久しぶりだったので正直ちょっと不安だったんです」 「うん、絶品だよ」 そう言って微笑む僕の顔をルナはまじまじと見ると嬉しそうな笑顔になった。 「私、やっぱり千陽くんの笑顔が好きです」 「え?」 リモコンでテレビの電源を消すと、ルナがおもむろに顔を近づけてきた。 「もっと千陽くんの顔を見せてください」 「いや、そんな…」 潤んだ瞳に上気した顔、息遣いがわかるほど近くに彼女の顔はあった。夜の色のような深い黒色の瞳が瞬く。 「千陽くん。ごめんなさい。やっぱり私あなたが好きです。心の底から大好きです」 どこか甘美な香りがするそれはとても柔らかかった。そして、とても切なかった。 「ち、千陽くん?」 ルナが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。僕の目から涙が零れ落ちていたからだ。 「え? なん…で」 理由がわからない。記憶を思い出したわけじゃない。それなのに涙は止まることなく僕の頬を顎を伝って下に落ちていく。 感情のブレーキが壊れたみたいに。 ルナは何も言うことなく、僕の隣に座り直すとゆっくりと優しく背中を撫で始めた。 その温かな感触を僕は意識が残るまで感じ続けていた。 声がした。懐かしい声だ。聞いているだけで心が落ち着く、大切な声だ。 『私の名前には月が入っていて、千陽くんには太陽が入っている。お似合いのカップルだと思いませんか?』 『私自分の名前嫌いだったんですけど、千陽くんと出会って今の名前大好きになりました』 『千陽くん。私のことずっと見てて下さいね』 ーーそうだ…彼女のことは知っている。彼女は、彼女は海月。僕の彼女だ。 「海月ちゃん」 規則的な揺れにふと目を覚ますと、そこには驚いた顔のルナがいた。 海月は言った。 「やっと思い出してくれましたか」 その確信に満ちた問いに僕はしっかりと頷いてみせた。 僕らは手をつないで再び海岸を訪れていた。辺りは静まり返り、さざ波の音と二人の砂を踏む足音しか聞こえなかった。 時間はおそらく深夜。頭上遥か高くに佇んでいる満月が夜の闇を微かに照らしていた。 海月が不意に立ち止まった。手がかなり汗ばんでいるのがわかり、夏の暑さを改めて実感する。 「私はあなたにとってどんな存在ですか?」 海月の鋭い視線が僕の顔に注がれる。これは、正直に答えないといけないやつだ。僕はしっかりと目を見て答えた。 「海月ちゃんは僕の彼女だよ。たった一人のかけがえのない人」 彼女の顔がとたんに険しくなった。 「そのたった一人のかけがえのない人を忘れてしまうとは何事ですか」 「ご、ごめん」 謝るしかない。謝って、謝って許してもらおう。理由はまだわからないが、大事な彼女の記憶をなくしていたんだ。謝って、謝って、そしてまた歩いていこう。 彼女は大きくため息をついて下を向いた。 「冗談です。いいですよ。私が悪いんですから」 「海月ちゃんが悪い?」 意味がわからなかった。一方的に悪いのは記憶をなくした僕の方だ。 彼女はまたため息をついた。そして、一際哀しそうな目で空を見上げた。 「まだ全てを思い出したわけではないみたいですね。知ってますか? 月の黒い部分は海って言うんです。光をあまり反射しないから黒く見えるんだそうです」 彼女の両の瞳が僕の瞳を捉えた。月の光が映し出す瞳は今にも泣き出しそうに揺れているのに、口元はいつものように微笑み、その口調は穏やかだった。ちょうど今聞こえているさざ波の音のように。 「海月。綺麗な名前だと思いますが、私はこの名前が嫌いでした。いっつも一人ぼっちで、まるでたくさんの命で溢れる地球を孤独に眺める月のような気分でした」 心音が跳ねる。彼女の一言一言が心をざわつかせ、その先にある記憶を呼び覚まそうとしているようだった。 「どんなに努力してもどんなに諦めても私の心が安らぐことはありませんでした。だから私はーー」 海月は僕の手を離した。そして、白シャツに黒のデニムにサンダルを脱ぎ捨てながら海へ歩いていった。 ーーそうだ。あのときも同じだった。なぜか一緒に買いに行った水着姿だった。きっと僕が誉めたその服を最期に着たかったんだろうって。 視界が歪む。強い耳鳴りが頭の中を貫いていく。胸元が一気に熱くなり、体の奥から何かが逆流してくる。 さざ波の音が聞こえるようになると、僕は砂浜に倒れ込んで息を切らしていた。 「やっと思い出してくれましたか」 彼女は死んだ。僕を置いて。これがすべてだ。 その答えは口に出すことができなかった。その代わりに僕は違う言葉をまくし立てた。 「なんでだ! なんで生きてるんだ! 死んだはずだぞ、僕は!! 僕はここで死んだんだ!」 「違います。あなたは生きています。生きているんです」 彼女の冷静な声がうるさかった。 「どうして生かしたんだよ! どうして思い出したんだよ! どうして一緒にいてくれなかった!」 彼女の声が震えた。 「…それは…あなたに…生きて、生きてほしいからです」 ガタン、ゴトンーー。 「最初に思ったのは、蝉しぐれがやけに耳につくということ。次に思ったのは、あなたの声が耳から離れないということ」 そこは公園だった。森の中にある公園で、気がつくと僕はベンチに座って雑誌を読んでいる海月を見つめていた。 海月が雑誌から顔を上げて僕に微笑みかける。 「覚えていますか? 千陽くん。私とあなたが初めて会った場所です」 彼女は雑誌を閉じてベンチに置くと、立ち上がって手を後ろで組み、様子をうかがうように僕を見る。 「最初はナンパかと思いましたよ。『なんの本読んでるんですか?』なんて」 彼女が近づいてくる。自然とそして悠々と。 「でもね、あなたのその名の通り太陽のような笑顔に私は最初から惹かれていました。まあ、世間的にはいわゆる一目惚れというやつですね」 彼女の顔が近づく。首を少し上げて僕を見るいつもの位置だ。 「私の側にはいつもあなたの笑顔があったんですよ」 彼女の瞳が真っ直ぐ僕の瞳を見つめた。 「千陽くん。あなたは私の太陽でした。あなたのそばにいるときだけ、私は輝けました。安らげました。千陽くんと一緒にいると思えました」 彼女の柔らかな指が髪の毛に触れる。 「私は命を絶ってしまったけれど、それは真実です。最後まで私のわがままに付き合わせてしまってすみません。だけど、いえ、だからーー」 彼女は笑顔になった。向日葵のような笑顔を。 「生きて、とにかく生きてほしい」 彼女の顔が視界から消えた。そしてすぐに身体に温もりを感じた。ふんわりとした柑橘系のシャンプーの香りに、滑らかなサラサラロングヘア。細長い華奢な手が小刻みに震えながらも優しくそして力強く僕の背中を抱きしめる。 僕はしばらくの間、その感触を確かめていた。 その感触はせわしく動き回る足音に少しずつ消えていった。微かな消毒液の匂い。 目を開けると滲む視界の中に、ただただ白い天井が広がっていた。 「そっか」 ゆっくりと上半身だけ起こして腕で涙を拭う。 車のクラクションが鳴って思わず窓の外を見ると、風ではためくカーテンの隙間からびっくりするくらい綺麗な青空が広がっていた。 部屋の外からは足音とともに談笑している声が漏れ聞こえる。 僕は、枕元にあったナースコールを押して、また窓の外へ視線を戻した。夏の空に目がくらむほどの太陽が浮かんでいる。 急におかしさがこみ上げてきて僕はひとしきり笑った。涙が出るくらい。 パタパタとはやる足音が病室に近づいてくる。 彼女はもういない。だから旅に出た。
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