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一  峨々たる山々の連なる山岳地帯の裾野に、天に向ってドラゴンさながらに捻くれ複雑に絡みつく巨木、さらに毒々しくも妖しい食虫植物や刺々しい茨などの下生えが蔓延り、凡ゆる動物の侵入を阻んでいた。天を仰ぎ視れば、めらめらと燃え上がる太陽が、動物はおろか植物さえも生存不可能に想える灼熱の放射線を地上に降り注ぎ、地面の至る処に亀裂を生じさせている。  食中植物や鋭い刺で威嚇する茨が形成する日陰を、何事にも動じない気丈な老婆と老婆に劣らず恐れを知らない孫娘が、近くの丘を目指してゆっくり歩いていた。植物の繁茂するその地域一帯は、森林パトロール隊第4 219分署の管轄下にあり、ならず者でさえ躊躇う立ち入り禁止区域指定の危険地帯だった。  鋭い牙を光らせた数匹の肉食昆虫が、捻くれ絡みつく巨木の幹に鉤爪を突き立てて掴まり、二人が通り過ぎるのを虎視眈々と狙っていた。一陣の風が熱風となって植物の鬱蒼と茂る草原や森林を揺さぶり、さらに山岳地帯に襲いかかってドラゴンの咆哮にも似た凄まじい轟音を立てた。そのとき突然、巨木の幹にしがみついていた数匹の昆虫が一斉に、老婆と少女を狙って突進した。  昆虫の立てる金属音にも似た羽音は、風の轟音に掻き消え、二人の耳には届かない。が、醜悪な形相をして牙を向く昆虫に、地上から放ったビームが命中し一瞬にして標的は消滅した。老婆と少女がキッと凄まじい形相で睨み返すその鼻先に叢を掻き分け、一人の森林パトロール隊隊員が右手にビームを放った銃を握り、ガムを噛みながらだらしのない恰好でぬっと現れた。  恩着せがましい表情で二人に近寄った若い隊員は、ニヤけた間抜け面でモゴモゴいう。「困るんだよなー婆ちゃん、お嬢ちゃん、こんな物騒な叢の中をノコノコよたよた歩かれたんじゃ。ここらは立ち入り禁止だってこと知ってんでしょうに」  婆ちゃんなどと、ニキビ面した新米隊員などにいわれて堪るもんか――気丈な老婆は威勢よく啖呵を切る。「ノコノコよたよたたあーなんだい、失礼な。この辺りならアンタなんかより、よく知ってんだい、坊や」  傍で二人の遣り取りを聴いていた利発そうな少女は、つぶらな瞳をさらに《瞠|みひらき》き、想いっきり飛び上がって着地すると老婆の口真似をした。「ノコよタヨみひらたのコたあーなんだい、センセにイーつけちゆゃうゾー」  ムッとしたのも束の間、少女のあまりの愛くるしさに隊員は想わず噴きだしてしまった。つられて老婆も入れ歯をカクカクいわせながら忍び笑いをする。大人2人の笑いにつられて、女の子は口をムッチリした掌で隠すような仕種をしながら笑いこける。笑う姿は天真爛漫な天使さながらだが、笑い声は恰も梟が月に向かって「ホーホッホ、ホーッホ」と鳴いているようだった。  梟を真似る様子にまたもや笑いがこみ上げ、老婆は慌てて孫娘の手を引くと、笑い転げているパトロール隊隊員を放ったらかしてその場から立ち去った。  発作に近い笑いがおさまり、新米隊員の《観世傳六|カンゼ・デンロク》は徐ろに立ち上がるとヘルメットを被り直し、側面に「《秀真|ホツマ》」と表示のあるパトロール機に乗り込んだ。大柄なデンロクには狭苦しいが、新入りだから文句はいえない。当分はこの操縦しにくいパトロール機で、我慢するしかないだろうと諦める。 豪胆婆さんと無邪気な孫の梟娘が通り抜けた巨木の点在する草原地帯は、獰猛な昆虫類にとって恰好の生息地だった。デンロクの操縦するマシンは、突風を喰らって茨の多い叢をガリガリ擦りながら宙に舞い上がり、山岳 地帯へと機首を向けた。  危機管理局は当該地域を立ち入り禁止に指定しているが、丘の住人はそれを無視していた。四六時中、死と隣り合わせの現世界、とりわけ丘の地域に住む住人の死生観は、他の地域に住む住人とはまったく異質だった。急峻な丘の頂上には、風葬を子々孫々行なってきた彼らの墓地が累々と連なり、奇っ怪な光景を呈していた。それというのも、大型の比較的温和な肉食性昆虫が遺体を片付けてくれるのだが、食欲をそそらないのか骨だけは残してしまうのだ。墓地にうず高く積み上げられた髑髏は、光線の当たる角度によって周囲を睥睨しているように視えた。しかも、それらの髑髏の虚ろな眼窩はことごとく、風の吹き抜ける不気味な音をたてた。  豪胆婆さん、その名を《龍口朱美|タツノクチ・アケミ》といい、また孫の梟娘を《茜|アカネ》という。二人 は、急勾配の断崖を切削した百数十段もの石段を攀じ登るようにして上がり続け、中腹のさして広くもない出っ張りに到達した。アケミ婆さんが、腰に差したハンマーを振り上げて岩戸を3度ノックすると、岩戸がガラガラキーキー歯車の回る軋み音を立てながら開いた。  洞穴からヌッと顔を出し、逞しい腕で岩戸を押さえながら立っていたのは顔中髭だらけの屈強な男だった。 「バァさま、アカネ、お帰えり」といいながら男は梟娘を抱こうとして右手を差し延べるが、娘は婆さまの陰に隠れ、頭を横に振ってイヤイヤをする。「これはこれはアカネ、父親の儂を忘れてしもうたか」  娘は婆さまの陰からソーッと顔を出して父親の方を見上げ、「とおさまのお髭は痛いからイヤっ」というと、父親の傍をすり抜けて洞穴の中に駆け込み、母親の《淑恵|トシエ》にしがみついた。数年前に隣の聚落から嫁いできたトシエは、色白の肌に銀髪と金色の瞳が妖しい魅力を湛えたなかなかの美人だった。「あらあらどーしたのアカネ、怖い目にでも遭ったの?」トシエはそういうと、娘を抱き上げて頬ずりした。  豪胆婆さんが背負っていた包みを解き、「ユウノスケ、ほらオマエ様の欲しがっていた日本刀ぞよ」そういって、がっしりした大刀をユウノスケに手渡すと徐ろに奥へと入って行った。  大刀を手にしたユウノスケは鞘の鮮やかな彫金に眼を瞠り、「おおーこれは複製品とは想えぬ出来映え、今にもドラゴンが跳び出してきそうだぞ」というや、押さえていた手を岩戸から放して3人の後に続いた。  岩戸はユウノスケが手を放すやいなや、グギグギゴロゴロと音を立てながら閉まった。洞穴の内部には照明具が随所に在り、生体を感知すると自動的に点灯する仕組だった。日本刀を手にして歩くいかついユウノスケの姿が、岩壁になにやら化物じみた影となって映った。 二  森林パトロール隊4219分署の署長《鬼村半兵衛|オニムラ・ハンベエ》は、新米伍長とりわけデンロクのことが気懸りだった。お人好しの惚れっぽい独身者だからとっとと嫁でも貰ったら好かんベーに、《P C|ピーシー》なんぞに《現|うつつ》を抜かしおって毎日夜更かしはするわ酒は喰らうわ、僻地で隠居暮らしをしてる父っつあんは気が気でなかんべーよ。  後ろ手をしてブツブツ独り言をいいながら、室内を端から端まで毎日毎日コツコツ歩くのには、秘書を務める57歳の《八頭薫子|ラヤツガシラ・カオルコ》嬢にとっては頗るイライラさせられることだった。だが、カオルコ嬢も負けてはいなかった。オニムラ署長に《倣|なら》ったか独り言に余念がない。署長こそ少しは腰を据えて事務処理でもこなしたらいいじゃないのさ、わたしにばっか仕事押し付けて税金無駄喰いだわ……なにやら古代語らしい言語を交えていいつつ、目にも止まらぬ速さでカタカタカッキーンとキーを叩いた。  壁にぶち当たって回れ右したハンベエ、明後日の方を向くと同時に咳払いをして、「カオルコ1等軍曹、何かいっただか」とカオルコ嬢に劣らぬ、聞き慣れない古代の一言語を交えて話しかけた。  聴こえないふりでもしようかどうしようか迷った挙句、「いいえ、何もいいませんわよ」そう気取って応えるカオルコ嬢。なにいってんだか最近半呆けのようだわと聴こえないようにいい、ストッキングの弛みを延ばすふりして俯くと舌をペロリと出した。  その時、本署から戻った2等軍曹《板倉雄高|イタクラ・ユタカ》が、ノックもせずに署長室に入ってきて大仰に敬礼をすると、よく響く低音で報告し始めた。「新型パトロール機の件ですが、今期も当4219分署には一機も配備する予定はないとのことであります」  相変わらず後ろ手をして室内をコツコツ歩きながらハンベエは、「そうであったかイタクラ2等軍曹。疲れたろ、そこに昨日手に入れた珍しいインスタント・コーヒーあっから、一杯やってくれや」そういうとクルリと回れ右してまた室内を歩き始めた。  イタクラは、珈琲缶に一瞥くれると鼻に皺を寄せて苦笑いした。署長、俺が今呑みたいのは酒だよ、オンボロのパトロール機ばっかしじゃ森林地帯や山岳地帯のパトロールなんて危なくてできやしねーよ。ストレス解消には酒が一番、そうブツブツ独り言をいってカオルコ嬢にウインクすると署長室から出て行った。  「あいつめ今夜もまた梯子酒するつもりだな、少しは自分の健康を心配したらどーだべ」コツコツ歩きながら、独り言にしてはちと大きすぎる声でいうハンベエ。  その時、署外で地面をガリガリ擦り、調子の悪いエンジンのゴロゴロ音に続いて、ゴツンと鉄柱にでもぶつかったような金属音、さらに悪態を吐く金切り声が聴こえてきた。  なにやらブツブツいいながら、玄関の階段をゴツゴツ上がって廊下をドスドス歩き、署長室のドアを蹴破ぶるようにして威勢よく入ってきたのはデンロクだった。  「オニムラ署長殿、カオルコ1等軍曹殿、カンゼ伍長ただいま任務より帰還いたしました」そういいながらデンロクは、よれよれ軍靴の踵と踵をドスッと鈍い音を立ててぶつけ、大仰に敬礼した。  「カンゼ伍長、ご苦労だった。そこのテーブルさ、チョットしたインスタント・コーヒーあるべ。よかったら飲んでみてくれろ」  「任務遂行中はもちろんカフェインが必須でありますが、任務終了後はアルコールが不可欠であります、署長殿」そういいながらデンロクはぞんざいに敬礼して、署長室から退出すると大股でロッカー室に向かった。  ハンベエは、憮然とした面持ちでブツブツ独り言をいい、流石に歩き疲れたか手近のソファにへたり込んでしまった。「やれやれ、デンロクは悪い先輩を持っちまったもんだべ。なあ、カオルコ1等軍曹」  「あら、イタクラ2等軍曹はそんな悪い人じゃありませんわよ。入隊したての隊員にとって、頼りになる兄貴分だってことは署長ご自身ご存知じゃありませんか」  「そうだが、酒癖がチッとばかしよくねーのが困るべ。それに、幹部昇進の資格がありながら、2等軍曹で甘んじているだなんて……なに考えてんだか」  儂もデンロクくらいの年頃にゃー、毎晩梯子酒で酔いどれまくってたもんだが、それでも朝帰りなんてしたこたあなかった。パトロール隊員は任務第一でなければ、永く勤まるもんじゃねー。克己精神を失っちまったら、只のボンクラになるしかねーべ。そうブツブツいいながら、ハンベエはコックリコックリ居眠りし始めた。  「あらら署長、こんな時に眠ってしまっちゃいけませんわ。本日の任務は終了ですよ」  浅い眠りに入りかけていたハンベエは、雌鶏が《刻|とき》を告げるかのような甲高い声に驚き、跳ね起きようとしてソファから転げ落ちた。「おー、ビックリした。カオルコ1等軍曹、突撃ラッパが耳許で聴こえ、儂は 天下の一大事でも起こったかと想ったぞ」そういいながら床に胡座をかいたハンベエ、つるつるの禿頭に手をやると照れ笑いをした。  「あらゴメンなさい、署長。わたしの声、そんなに騒々しかったかしら」といいつつ、大柄なカオルコ嬢、男勝りの大きな手を差し延べてハンベエを助け起こそうとした。  「ソプラノより、もっと高音に聴こえた」そういいながらハンベエは、カオルコ嬢の手に掴まり起き上がった。「帰るとするか。遅くなったら、旦那が心配するべ、カオルコ1等軍曹」  「主人なら大丈夫ですわよ、わたしを信用してますもの。それより署長こそお気をつけください、大事な車を壊したりなさらないようにね」  「こいつは一本とられたな。では明日の朝、またお目にかかるべ。ご苦労さん、戸締りよろしく」ハンベエは戸締りをカオルコ嬢に任せ、ロッカー室に行って制服から私服に着替えるとそそくさと帰ってしまった。  「お休みなさい、署長。定年まで後一年ですもの、しっかりなさい」独り言をいいながらカオルコ嬢は、手際よく各部署の室内を点検し戸締りをして行った。 三  通信機内蔵型腕時計のライトが点滅しているのに気づき、デンロクは慌ててトグル・スイッチを「受信」に合わせた。旧式で扱い難い時計だが、デンロクにとっては捨てがたい記念品だった。成績優秀な高等理学学院卒業生の証しとして、それなりにハッタリが効いたからだ。  学院卒業後、即座に森林パトロール隊に入隊できたのも、「学業成績優秀」のお墨付きが役立ったということだ。隊内での3箇月間の研修を終了し、3階級特進したのはデンロクを含め、僅か8人に過ぎなかった。残り92人は気の毒にも准パトロール士の称号で、我慢する羽目になり失望落胆に陥ってしまった。  記念すべき腕時計だからとて、同僚や後輩を相手にやたら自慢するのは禁物だ。さりげなく腕に嵌めているのが肝心で、視せびらかして嫌味に取られては逆効果だし、利口ぶったところで多寡が知れているからだった。しばらく地上勤務に甘んじなければならない准パトロール士の面々から、反感を買わないようにしないといつ脚を掬われるか分からない。勉学にばかり励んできたデンロクにも、社会で生き延びるに必要最小限の心得はあった。  「よっデンロク、一杯呑みに街へ繰り出さんか?」イタクラ2等軍曹の声が、まるで弾力性に富んだボールが縦横無尽に壁にぶつかりでもしたかのように周辺に反響した。  「2等軍曹どの、も少し音量を下げて話してくれませんか」慌ててトグル・スイッチを「送信」に合わせると、デンロクは周りを見回すかのようにしながらヒソヒソ声でそう応えた。  「すまん、何時もの癖で大声を出してしまった。お前んとこの宿舎は、建物の壁全体がスピーカーのようなもんだったな。どーだ、呑みにいかんか?」囁くようにイタクラ。  「明日の任務に差し支えない程度ならおつきあいします。朝まで梯子酒は任務に差し障りますから」相手に視えないのを幸い、ニヤつきながら応えるデンロク。  「よし決まった。着替えたら俺んとこに来てくれ、いいな」そういうと、イタクラもデンロク同様ニヤリと笑った。  イタクラは署内では酒豪で有名だったが、新米隊員のデンロクの方が若いだけに先輩隊員に負けてはいない。他の大人しく品行方正な若い隊員の間では、イタクラとデンロクが呑み比べをしたら、新米のデンロクが勝つかも知れないと専らの評判だった。  カオルコ嬢に署の戸締りを押しつけて帰宅途上のハンベエ、レシプロ・エンジン搭載のオンボロ・スポーツ車フェラーリを運転しながら、ロック音楽を聴き、至極ご満悦だった。老境にさしかかり、なにを血迷ったかロック音楽に熱中、以来ロックなしでは一日が終わらなくなってしまった。ハンベエがロック狂いの《老耄|おいぼれ》だなんて、愛妻はおろか4219分署でも知る者は一人もいなかった。  配下の隊員は訓練と実務を日々こなしつつ、ゆっくりではあるが成長し続けているのは喜ばしい限りだ。このまま定年まで何事もなく過ぎて行ってくれたら、退任後は悠々自適の隠遁だって夢ではない。若い頃にさんざん苦労をかけてきた愛妻に、平穏な余生を保障できようってものだ――もちろん、ハンベエは愛妻の不在時にこっそりロック音楽を、大音響で聴くのを無上の楽しみとしていた。  署の戸締りを済ませてジーンズに黒っぽい革ジャンパーで身を固め、さらにブーツを履いて変身願望を満たすと、カオルコ嬢は駐機場の端に駐めてあるモーターサイクルに跨った。ハンベエの車同様、レシプロ・エンジンを搭載したノートン・マンクスのエンジン音はいつ聴いても心地好い。マンクスの古く錆びついたパーツをネット・オークションで少しづつ入手し、数ヶ月かけて磨き上げ、防錆処理を施した後に組み立てて深紅の塗装をした車体は見事のほかなかった。  古代の技術発掘に熱心な技術者にしてカオルコ嬢の伴侶でもある、《八頭昂吉|ヤツガシラ・コウキチ》の協力によって遥か昔の名車が蘇り、マンクスに想い入れの強いカオルコ嬢は大いに満足していた。  漆黒のヘルメットを装着してエンジンをかけ、駐機場から路上に出たカオルコ嬢は、鼻歌を唄いながら帰路を中速で跳ばした。路面は片側各1車線しかないものの幅員に余裕があり、その上この時代としてはそこそこ整備が行き届いていて、スピード狂のライダーにとっては腕試しにもってこいだった。  日々鍛錬に励むデンロク、今宵もスポーツ・ウエアに着替え、独身を謳歌しているイタクラの豪勢な住居目指して走った。岩石や倒木の多い《凸凹|でこぼこ》した裏道を25、6分ほど走って脚力を鍛え、やがてイタクラの住む住居に通じる道路を左側に曲がって石の門をくぐり、邸内の鬱蒼と繁る森林の中を走り抜けて玄関前に辿り着いた。  イタクラはデンロクより10歳年上だったが、たゆまぬ精神的、肉体的鍛錬のお陰で、身長でデンロクに負けていながら頭脳と筋力で数段優っていた。玄関脇の壁に両脚を凭れさせ、逆立ちしながら腕立て伏せをしていたイタクラ、呼吸に少しの乱れもなく落ち着いた声で「よっ、待ってたぞデンロク」としゃちこばったデンロクの敬礼に応えると、両脚を壁から離して起き上がった。  「2等軍曹殿、街中まで駆け足それとも競歩で行きますか」全力疾走してきたデンロク、不覚にも呼吸を乱し、やっとのことでそれだけいうと深呼吸をした。  「その2等軍曹殿は止めてくれないか、任務外なんだから階級名は不要だ」イタクラは、ニヤニヤ笑いながらからかい半分にいう。  「では何とお呼びしたら宜しいので?」ムッとしたデンロク、いくぶん気色ばんだ口調で訊く。  「呼び捨てで構わんぞ。気になるなら、適当に『さん』でも『くん』でも付け足したらいい」上官らしく鷹揚に構えながら応えるイタクラ。  「いくらなんでも、それはマズイでしょ。どうしてもと《仰言|おつしや》るなら『さん』づけでお呼びします」半ば諦め気味に返事を返すデンロク。  「うん、そうか。では此処から街まで駆け足だ、《随|つ》いてこられるな?」先刻のからかい気味の口調は失せ、到って真剣な表情で訊くイタクラ。  「まかせて下さいイタクラさん。では、参りましょっ」そういってニヤリと笑い、デンロクはイタクラに拇を立てて合図を送ると、猛スピードで跳び出した。  軍曹よりも若いのだから、負ける筈など有り得ない――しかし若いデンロクは自分を買い被り過ぎていた。そう気づいたのは、ネオン街の派手な照明が視え始めてからのことだった。 四  《龍口祐乃介|タツノクチ・ユウノスケ》は、50歳代後半ながら精悍な面構えをし、実際の年齢よりも遥かに若く視えた。修験者のように厳格かつ神秘性を湛えた表情は、視ようによっては超能力者か予言者かと見紛うばかりだった。また、ハガネのように強靭な肉体からは剣術使いの雰囲気を漂わせ、太古の武士を想わせない でもなかった。そんな《強持|こわも》てのするユウノスケだったが、愛すべき家族や弱く善良な住人に対しては慈愛のこもった態度で接した。父の生前、ユウノスケは一家の主として《相応|ふさわ》しかるべき心得の多くを、呑んだくれの暴れん坊だった父から学んだ。性格的破綻者の父親だったが、ユウノスケに数々の有益な教えを授けた。  天空の彼方からやってきた不可解な存在と人類の起源、太古から連綿と続く諸々の宗教が認めなかった真正にして慈愛あふれる神、峻厳にして深遠なる武士道の極意等々、ユウノスケは理論のみならず実践をも混じえた 特訓を受け、期待通りに父を超えて一家の主へと成長を遂げた。  ユウノスケは大刀を手にして大股で通路を奥へと向かい、広々した女人禁制の書斎に入って行った。壁には岩を《刳|く》り抜いた書棚があり、独りで使うには大き過ぎる木製の机や椅子が無造作に備えつけてあった。横長の書棚に大刀を収めると、書斎を出て居間に向かった。玄米を主原料とする《麺麭|ぱん》、大豆を加工したヨーグルト、それに野菜や果物類を整然と食卓に並べ終わり、家族一同は一家の主を待っていた。  左手に妻と娘、右手に祖母が控える中、席に着いたユウノスケは両手を合わせて祈りを捧げた。家族は、その仕種にならって両手を合わせると祈りを終えた。次いで、おもむろに歯ごたえのある堅焼き麺麭を千切り、土器に入ったヨーグルトをつけてユックリ噛んだ。  娘のアカネは堅焼き麺麭が大好物だった。無心に食べる様は健康そのもの、母親トシエはもちろん祖母のア ケミや父親のユウノスケにとって自慢の一粒種だった。  デンロクは繁華街のネオンが眼前にちらつき始めた直後、さらに速度を上げようとしていた。脚は確かに力強く地面を蹴っている筈だったが、酸素を求めて肺が大きく伸縮し始めたのをそれとなく意識していた。やがて、両脚が鉛のように重くなり、呼吸が苦しくなって喘ぎ、それまで視えていたネオンが揺らぎ薄らいで行った。 デンロクが喘ぎながら《蹌踉|よろ》めき、スローモーションのようにゆっくり倒れて行くのを、後ろから追い上げにかかっていたイタクラは注視した。  登山家がしばしば経験する高山病、それと似たような症状がデンロクを襲ったのだ。海抜5千メートルを超える環境下での運動に、未熟者のデンロクはまだ完全に馴れていなかった。イタクラは倒れているデンロクに近寄り、携帯型人口呼吸器を腰のベルトから外して鼻と口を覆うようにしてデンロクの顔に装着した。  真っ暗な海底から黒っぽい何かが浮いてくるのに気づいたデンロクは、必死になってその魔物から逃れようともがいた。身体が浮いて行く感覚を味わいながら、なおも両手、両脚を振り回し、頭上に視える微かな光に向かって懸命に突き進んだ。  暗く冷たい海底から浮かび上がるように意識が蘇ってきたデンロクは、天空に星々が瞬く大パノラマを前にしていた。起き上がろうとするのを、イタクラは軽く手で抑えると話しかけた。「お前が蹌踉めき、倒れ込んだ時には、危うくぶつかりそうになったぞ。どうだ気分は。苦しいなら、暫くそのまま凝っとしてろ」  イタクラの覗き込んでいる顔が、深海で出遭った魔物と重なって視えるのに驚きながら、デンロクは細めに開けた眼をしばたたいて魔物を追い出した。デンロクは記憶の奥深くに潜む魔物を抑えこみ、心配そうなイタクラに溺死寸前の遭難者のような表情で頷いてみせた。  ハンベエは、オンボロ・スポーツ車フェラーリの中でロック音楽を聴きながら、前方の夜道に眼を凝らして運転していた。太陽光線下で視る昼間の車道とは異なり、歳の所為で視力が衰えたか路面状態を判別しにくいこと甚だしい。10代の頃から車を運転してきたハンベエの、運転歴はかれこれ半世紀を超えていた。一度たりとも事故を起こしたことがないのは、安全第一を心掛けてきたからだった。今時の洟垂れ小僧どもは、己れの未熟な運転技術を棚に上げ、道路整備のお粗末さを槍玉に挙げる。  道路の手入れが行き届かないのは、今に始まったことではなかった。千数百年前、プラズマ・エネルギーを利用するモーターが出現し、それまでの航空機用エンジンに取って変わった。その後、乗り物はことごとく強力なモーターを搭載し、重力を制御する航空機が主流になった。物好きなカーマニアを除き、誰もが路上を走り回る車に見向きもしなくなった。以来、道路の手入れは行きとどかず、顧みることなく放ったらかし状態になった。  レナード・スキナードのロック音楽に耳傾け、ブツブツ独り言をいいつつ前方を注視していたその時、ハンベエは暗闇から何かが跳び出して車道を横切ったような幻覚を覚えた。視神経は明暗の微かな変化に反応せず、そればかりか眼そのものが動体を捉えなかった。にも拘わらず、深紅の光束が眼球に突き刺さり、名状し難い不気味な震動が全身を揺さぶるのを感じた。ハンベエは冷水を浴びたように寒気立ち、実在するはずのない魔物に向かって悲鳴に近い罵声を浴びせた。帰宅直後に温水を浴びたが、身体の何処にも異常は視つからなかった。 食事をすませ、愛妻《柚子|ユズ》との手振りを交えた取り留めない会話に暫しくつろいだ。しかし、それも束の間、自分の口を《吐|つ》いて出た声のいつもと異質だったのを憶い出して愕然とした。  ユズが両耳に掌をあてがって茫然自失に陥り、しばらくして仰ぎ視るようにしながら両手を併せて合掌する仕種をした。ユズの頬を涙が伝わり落ちるのを目にしたハンベエは、不審に想いながらもこれまでになく驚いた。合掌しながら笑みを浮かべるユズの表情から、歓喜が溢れ感謝の念が沸き起こっている様を読み取ったのだ。  「あなた、耳が、耳が聴こえるようになったわ。まあ、どうしましょう、神様に感謝しなくては……」  「ユズ、儂のいうのが聴こえるのか?ああ、こいつは驚き、なんといったらよかんべー」  イタクラに助け起こして貰い、デンロクは立ち上がった。少しふらついたが、両眼の焦点は定まり、意識は倒れ込む前よりも鮮明かつ鋭敏になっていた。一体、走っている最中に何が起こったのか、イタクラはかつて目撃したことがあり気づいていたが、デンロクには想像すらつかなかった。  イタクラは徐ろに口を開いた――「さっきは驚いたぞ。俺の眼前で急に蹌踉めき、倒れてしまったんだからな。どうだ気分は」  デンロクは想いっきり《嚔|くしゃみ》をし、続いて咳払いをした後、これまでよりも幾分甲高い声で応えた。「もう大丈夫、気分は上々です。行きましょう」  「ならば駆けるのは止めにして、速や足で行こうじゃないか」  「駆け足でも速や足でも構いません」  二人は何事もなかったかのように、真っ暗闇に近い中をかなりの速や足でネオン街に向った。人間レーダーと呼ぶに相応しい彼らは、微かな光さえあれば5キロメートル先でも視える、驚異的な視力を持っていたから暗闇など少しも気にならない。見慣れた何時ものネオンそして馴染みのパブが眼前に視えてきた。「異形の――」とでも表現するのが相応しい、巨大な岩石を刳り抜いた館は周辺の建築物を見下ろすかのように聳え立っていた。 五  タツノクチ・ユウノスケには、家族にも知人にも視せない別の《貌|かお》があった。それは、死んだ父親がユウノスケに遺した途轍もなく古い文献を読み解き、手順書に従って瞑想を実践することだった。夕食を含む一家団欒のささやかな寛ぎに浸ったのも束の間、書斎に独り閉じ籠り、龍口家に伝わる年代特定不可能な古文献を開いた。  地球上に唯一残った陸地に居住する400万人足らずの住民にとって、知覚し得る宇宙は非常に小さい。にも拘わらず想像を絶する世界――それが一般的な住民の共通認識だ。住民は放射性物質による汚染から比較的影 響の少ない領域に、それぞれ小規模な聚落を形成し暮らしていた。常用語は複雑怪奇きわまりなく、知識階級に属さない住民にとっても異なる語彙が絡まり合った矛盾だらけの言語に想えた。  かつては、異なる人種がそれぞれに異なる言語を使用していたが、生存環境の激変が異人種の垣根を取り払い、それに伴って人種間に交流、混淆が起こり、複雑怪奇な混成語が常用語になった。唯一、500年前まで地球上に存在したモンゴロイド、コーカソイド等の人種の違いが姓名に名残りを留めていた。  昔々、地球上に存在したと思しい日本なる国は、4島の主要な島および小さな島々からなる島国だったという。当時の列強はおろか小国までが、日本を天皇を戴く単一民族の特殊な国家と見做していた。日本が一枚岩に視えたのは統一が徹底していたからだろう。日本を国家として形造り、支配者として君臨した人物が如何なる素性の者であったかは定かでない。  ユウノスケは坐禅を組み、深く静かに深呼吸して瞑想に入ると暗黒の世界に沈潜して行った。呼吸と脈拍が止まる寸前にまで低下し、それに連れて体温も低下、坐禅を組むユウノスケは岩のように微動だにしなかった。 錯綜する光の洪水の中を分け入って行くユウノスケの耳に、馴染みのない言語を話す複数の人々の声が聴こえてきた。広々とした地下の一角に大テーブルを囲んで、13人の聖職者もしくは魔術使いが腰掛け、なにやら討 議に余念がなかった。  正体不明の13人は、一体なにをしようとしているのか。13の意味するところは何か、永年修行を続けてきたユウノスケにさえ13は不可解な数字だった。得体の知れない13人は、いつ頃の時代の如何なる地位にある面々なのか、同時代の者でない限り服装から伺い知るのは不可能だった。洞窟の壁面には大古に栄えた文明を示すらしい、無数の文字や図像が刻み込まれていた。それは、龍口家に代々伝わる年代特定不可能な古文献の中にも、見出すことのできる文字や図像に酷似していた。  数分後、《目眩|めくるめ》く光が渦巻きながらユウノスケに纏わりついてきて、それまで視えていた洞窟内に靄が立ち籠めはじめた。目視の不可能な状況下、視力低下を補完するようにユウノスケの聴力は強まった。なにやら討議する彼らの話し声が理解できる言語となってユウノスケの耳に届き、会議を取り仕切っているらしいリーダー格の落ち着きある断言口調が聴こえてきた。  「我々が、彼らを神として永遠に崇めるものと想い込んどる。彼らは、いつまでも我々を騙し通せると信じとるんだ」  「そうでしょうか、彼らへの疑念を何時までも胸の内に閉ざしていられるなんて、私には自信ありませんわ」  抑制の効いた凛とした声が周囲に小波のようになって拡がって行く、その不思議な話し方にユウノスケはぎくりとした。  穏やかに話す男の声が割り込んできた。「クリスティーナ、貴方同様の懸念を誰しも抱いている。もちろん、私もそうだ」  「何れにしろ、彼らの想い込みが続いてる間に、我らは密かに事を進めなくてはならぬ。今回の一件を、『バベルの塔』計画と呼ぶことにしよう。諸君らに異存がなければ、今後はこの呼称を使いたい……どうかな?」  「『バベルの塔』とは、この洞窟内の何処かに秘密の保管庫でも造るお積もりですかな?」  「そうではない。いうなれば隠蔽工作のため……観念の中にのみ存在する幻の巨塔建設計画だ」  「隠しおおせることができるとお考えなんですか」  「ふむ、できるともいえるし、できないともいえる。この計画を進めるに当たっては、日常取り交わす会話の中に、それとなく気づくような表現を密かに忍び込ませる。この会合に出席した者同士にしか理解できない表現を使うのだ」  「暗号を使うのですか?もし、そうなら、彼らにたちまち見破られてしまうではありませんか」  「そうではない、暗号など使わないのだ。語彙に日常の意味の他に特定の意味を割当て、二重にしておいて我らにしか判読できないようにする。見破られたら当然、我ら13人は生命がなくなるものと覚悟しておかなくてはならぬぞ」  「一蓮托生、連中が気づいたとしても大事に到らぬよう手だてを致さねば」  「そうとも、科学技術を過信している彼らの気を逸らしておける間に、事を密かに進めなくてはな」  「彼らが感取したとしても、此処に結集した13人で食い止めるよう手を盡くす……そういうことでありましょう」  「それしかありませんわね。大勢の同族を見殺しにするよりはよいでしょう」  一瞬ののち、半透明の茫漠とした空間を複数の黒っぽい影が掠めていった。周囲に眩しい光が満ちてきて、それまでユウノスケに聴こえていた13人のくぐもった声は靄と共に遠のいた。ユウノスケは坐禅を組み、瞑想に耽る己が姿を高所から眺めている自分に気づいた。自分自身を外部から観察する奇妙な感覚に軽い眩暈を催しながらも、ユウノスケは意識が鮮明になりつつあるのを知覚した。あまりにも現実的な異次元世界から戻った直後、自己認識の難しさを認識して精神的に落ち着かなかった。  ユウノスケは立ち上がろうとしたが、膝に痺れを感じてよろめくと岩壁に額をしたたかに打ちつけた。何処からともなく愉快そうに高笑いする声が聴こえ、修験者らしい髭を蓄えた老人の顔が垣間視えた。嗄れた低い声で、「まだまだ修行が足りんよーだのう」といってるようだった。「うぬ、なにやつ」――腹立ち紛れにそういったものの、己れの滑稽な姿を想像し、ユウノスケはこみ上げてくる笑いを抑えきれずに肩を揺すって笑った。  岩壁に埋め込んだ原子時計が午前2時を告げた。それを機会に起ち上がったユウノスケは書斎を出て、トシエの眠る寝室へと向かった。トシエは、古代北欧の種族の血を引くといわれる色白の美人だった。金色に輝く瞳と銀髪の長い髪の醸し出す異国情緒が、トシエに喩えようのない神秘的な魅力を与えていた。もし、トシエが暗がりから突然ぬっと現れたら、トシエをよく知らない者はその場に凍りついてしまっただろう。  冷ややかな中に耽美的な表情を湛えたトシエは、天女のようにも魔女のようにも視えたに違いない。この世のものとは想えぬ美を具えた、そんなトシエをユウノスケは娘のアカネ同様かそれ以上に愛していた。 六  帰宅の途についたカオルコ嬢を、けたたましい鳴き声で《赤翡翠|アカシヨウビン》が迎えた。コウキチ自慢の絶滅種、アカショウビンはヘルメットを被ったままのカオルコ嬢をお気に召さないらしい。カオルコ嬢は肩に駐まって何時までも囀るアカショウビンを、大きな手で掴まえると止まり木に戻した。ヘルメットを脇に抱えて居間に入って行ったカオルコ嬢を、亭主のコウキチは肩を《竦|すく》めて出迎えた。   「ねえ貴方、あの鳥にヘルメットを被ってる私をキチンと認識させて頂戴。帰ってくる度にけたたましく鳴き叫び、肩に止まられるのは嫌だわ」  「そうかね、家人を出迎える可愛い鳥ではないかな。気になるなら、プログラムを書き直そうか。愛妻のたっての願いとあらば致し方ない」  「ええ、お願い」  「よければ食事にしたいんだがな。それとも、サウナで一汗かいてからにするかね」  「そうねえ貴方さえよければ、一寸サウナで贅肉落としてからの方が好いわ」  「ふむ……では、本日の夕食メニューに従って調理マシンを起動しておく」  「わたしの分は、高カロリー、高脂肪のものを除いておいてね」  「アイアイ、マダム」  サウナ室に向かうカオルコ嬢の、アカショウビンに劣らぬけたたましくも甲高い笑い声が、廊下の壁に反響し谺となってコウキチの耳に届いた。アカショウビンがおどけて片足を上げ、落ちると視せて一回転したのをコウキチは目敏く捉え、満足そうに肩を揺すって何時までも笑った。  イタクラ、デンロク両人がパブのドアに近づくと同時に、岩石の重々しいドアが軋みながら両側に開いた。イタクラが中に踏み込み、デンロクが後に続いた。何時もの騒々しさは何処へやら、店内はヒッソリ閑と静まりかえっていた。煙草の煙が立ち込める中を見透かせば、フードを目深に被った異様な雰囲気の連中が大挙出動してきたのが原因か、フロア内に空席を視つけ出せそうになかった。それに反し、何時もなら鈴なりのカウンター席には一人も酔っ払いがいなかった。  「今宵は些か雰囲気が違うようだぞ」イタクラが顎をさすりながら呟くと、それに呼応するかのようにデンロクが、「カウンターの方に行きましょう」と応えた。  カウンターの隅にいた中肉中背の若いバーテンダーが、ノッソリと二人に近づいてきて何やらブツブツ呟いた。注文通りの飲み物が出てくるならよし、バーテンダーが無愛想だろうと気にならなかった。  「さてと、俺は清酒を貰おうか。取り敢えず、瓶ごとカリカリに冷やした中瓶を1本と大きめのグラス」  イタクラが注文するのを横で聴いていたデンロク、眼をグリグリ回してふざけながら同様の注文をした。  米を原料とする清酒の甘からず辛からずの味が、パトロール隊二人の口には蒸留酒よりも合うのだろう。ウイスキーのようにオンザロックにするよりも、清酒は瓶ごと冷やした方が味わい深いということらしい。いつ頃からか、両人はそのようにして呑むようになった。  酒豪の二人にとって中瓶3、4本の酒量は日中の水分補給と大差ない。規律ある隊員は誰しも、傍若無人な無頼漢供とは異なり、大声を出すこともなくひたすら静かに呑むのが暗黙の了解事項と心得ていた。明日に備えて早く就寝するのも好かろうということになり、二人は怪しいみなりの連中を横目に視ながら大人しく帰ることにした。何時もなら駆け足で帰るところだが、今宵は急ぎ足で歩くことにする。  ほろ酔い気分の規律正しい二人にとっては、急ぎ足で歩いたところで日頃の筋肉鍛錬に比較したら、街中を冷やかし半分にぶらつく程度でしかなかった。星空を眺めながら冗談を飛ばし合い、二人は広い車道の下に並行 する細い道を猛スピードで歩いた。舗装した車道に比肩するべくもなく、どうにか横並びで歩ける程度の、荒れて石ころだらけの細道をわざわざ選ぶのには理由があった。平地を歩いていたのでは並な運動にしかならないが、この細道を歩くことで足首を鍛錬できるのだった。二人が横並びでなんとか歩けるその細道は、骨折覚悟なら、肥満体を持て余す中高年齢者にとって運動不足および不摂生を解消する上で絶好の訓練コースになるだろう。  二人そろって星空を眺めた丁度その時、眩い光の塊が天空を南から北に向けて縦断し、地平線の彼方から大音響が轟いてきた。同時に上の車道から、二人に負けず劣らずの速度で走り抜ける一団の気配がした。先刻、酒場で視かけた得体の知れない連中が、地平線に向かっているのが暗闇の中に浮かび上がってきた。二人はやり過ごしてから、車道の方に上がって行き、群れの去った地平線を眼を凝らして視た。遥か彼方の森の途切れた辺りに、終末を想わせる異様な色彩をおびた光が天空に向かっているのが垣間見え、二人は暗闇の中で密かに身震いをした。  「一体全体、何が起こったんでしょう、イタクラさん。酒場で視かけた連中は場違いに視えましたが、あの異様な光と何か関係でもあるのですかね」  「俺にも分からんが、餓鬼の頃読んだことのある『トゥングース大爆発』ってノンフィクションの内容――そいつによく似た光景に視えるな」  「地平線より《向側|むこっかわ》にしろ、爆心地まではそう遠くなさそうですね。これから行ってみましょうか」  「明朝、出動命令が出るだろうから、今夜は大人しく帰ろうぜ」  「そうでありますか。自分は、2等軍曹殿のいわれる通りに致す所存であります」  「明日、任務に就くまではまだ大分時間があるぞ。硬っ苦しいいい方はよせ」  「あっ、こいつはいけねえ。失礼いたしました、イタクラさん」  ハンベエは何時になく寝つきが悪く、心地よさそうな寝息を立てて眠っている愛妻を寝室に残して階下に降りていった。地方のラジオ局にダイアルを合わせ、ソファに寝そべって昔の雑誌を読みながら深夜放送に耳傾けている中に、ハンベエはその放送に合わせるかのようにノイズが聴こえてくるのに気づいた。しかも、それが一定のパターンを現しているのだ。ノイズに視せかけた何かの信号かも知れない――眠気が吹っ飛んでしまったハンベエ、ダイアルを調整しながらノイズに聞き耳を立てた。  知的生物の会話にも聞こえそうなそのノイズに、ハンベエは頭を抱えてしばらくは呆然自失の様子だった。愛車フエラーリを運転して帰宅する途上での説明し難い体験が、記憶の奥から蘇ってくるのに戦慄した。最初、眼はもちろん視神経さえも異常を感取し得なかったにも拘わらず、深紅の光が眼球から内部に侵入し、なんとも形容しがたい震動が皮膚を刺激したのを憶い出した。夕食後、愛妻との身振り手振りによる会話で寛いでいる最中、何かに反応して絶叫した時の声が、何時もの自分の声と違っていたと気づいて震え戦いた。 七  翌朝、勇んで4219分署に出頭したイタクラ、デンロクの両人は、何ごともないかのような何時も通りの署内の様子に拍子抜けしてしまった。二人は署長やカオルコ嬢と形式的な敬礼を交わし、多少、酒の残った息を吐きながら肩を竦めて笑った。カオルコ嬢は相変わらずキーをカタカタいわせて文書作成に勤しみ、署長は室内を行ったり来たりしながら、ブツブツ独り言をいうのに余念がない。  パトロール出動中にでも、多少の時間的余裕があるようなら、昨夜の爆発地点にでも行ってみるしかないだろう。二人のパトロール隊員は密かに目配せし、不味いインスタントものの珈琲をがぶ飲みした後、駐機場から《草臥|くたび》れきった機体を操縦してパトロールに出かけた。  それぞれ、自分の管轄領域に向けて飛び立ってから、暫くして頃合いを見計らい、会合地点に機首を向けた。機上から交信していたのでは、管轄内の通信部隊に傍受される恐れがあり、二人にとって至極当然な行動といえた。また、森林地帯上空を樹木すれすれに飛行し、監視部隊の注意をはぐらかすことぐらいは、イタクラはもちろんデンロクにとっても朝飯前だった。  受け持ち空域の半分をそれぞれ一通り完了し、丈の高い樹木を《躱|かわ》しながら低空で飛び続けた。両人は部外者には想いつきもしない断崖に接近し、パトロール機が辛うじて進入できる洞窟内の堅固な岩盤上に着陸した。それから、機外に出て銘々が用意してきた昼食を頬張った。  デンロクは同部屋の地上勤務員から分捕った缶珈琲を、バッグから取り出してその中の1缶をイタクラに手渡した。署長が前日に薦めてくれたインスタントものより、味はいくらか美味といえる程度だったが、珍しい煙草を一服しながら飲む珈琲は格別だった。  「2等軍曹殿、任務を放擲して爆発地点に行くのは控えるべき……発覚時の厄介なのを慮るなら、やはり夜になってから出掛けるしかないでありますか」  「うむ、そういう事になるな。それより、二人だけの時には硬っ苦しい……殿呼ばわりはなしにしてくれないか。折角、珍しい煙草やら結構な珈琲を、味わってる最中に野暮は止めようぜ」  「失礼しました2等……あっイヤそのイタクラさん」  「あっイヤそのはいい、相棒とでも呼んでくれ」  「とんでもない、いくらなんでもそれでは服務規定に反してしまいます、相棒殿」  「おいおい、いくらなんでも相棒殿はないだろう」  「了解しました、イタクラさん相棒……」  「ハッハッハッハッハッ、あまり笑わせないでくれよ。飲んでる珈琲を噴き出してしまいそうだ」  「午後のパトロールまで時間がありますから、掠め飛ぶ程度の偵察に行ってみましょうか?」  「できるなら写真撮影したいところだが、その余裕はないだろうし……よかろう、任務遂行中のフリして上空から様子を視るか」  「ではイザ出動ってことで」  「よし行こうぜ」  二人は煙草を靴底に擦りつけて消すと、バラバラに解体して洞窟の入り口から、風の吹き去る方向に向けて放り出した。それから空き缶を手にして、パトロール機に乗り込み離陸して直ぐさま散開、樹間を低空ですり抜け爆発地点に機首を向けた。  飛び続けて十数分が経過、爆発地点と思しい上空に到達した。しかしその直後、操縦桿が凍りついたかのように反応しなくなり、両機は勝手に爆発地点から急速に転進し始めた。強大な反発力を持つ磁気が、機体を弾き飛ばしたとしか想えない不意の出来事に、新米はおろかヴェテランまで《為|な》すすべがない。弩級を離れた矢がビームの誘導するままに、眼に視えない標的に向かって一直線に突進して行くようだった。  どれだけの時間が経過したか、二人のパトロール隊員には分からず、分署駐機場に帰還しているのに気づいたのは任務終了間際の夕刻だった。両人は共に、何が起こったのか訳が分からず、パトロール機内で操縦桿を握ったまま暫くは茫然自失の態だった。イタクラが徐ろに機外に出て、デンロクのパトロール機に近づいてキャノピーを無造作に叩いた。  叩音に気づいたデンロク、慌てて機外に跳び出すと、《翻筋斗|もんどり》打って駐機場の地べたに転げた。それでも冷静を装って上官に笑いかけ、腕時計で時刻を確かめる余裕を視せた。兎に角、署長もカオルコ嬢も署内で日常業務に励み、二人の帰還には気づいていないのは幸いとでもいうべきかも知れない。  「2等軍曹殿、何があったとお想いになりますか?自分は何がどうなったのか、まったく想像もできないのでありますが……」  「しっ、あまり大きい声で話すな。今は冷静になり、何事もなかったかのように署長に報告するしかあるまい、いいな」  「アイアイ、サー」  「よし、では当該部署に帰還ってことにするぞ」  「了解」  「何時も通りの態度で、相も変わらぬ報告をするぞ」  デンロクはイタクラが先に入るのを待ち、暫くしてなにやらブツブツいいながら玄関の階段をゴツゴツと音をたてて上がり、何時も通りに廊下をドスドス歩いて戻ってきたのを頭の隅で想い返しながら、署長室のドアを蹴破るようにして威勢よく入って行った。  「オニムラ署長殿、カオルコ1等軍曹殿、カンゼ伍長ただいま任務より帰還いたしました」そういいながらデンロクは草臥れ切った軍靴の踵と踵を、鈍い音を立ててぶつけると大仰に敬礼した。  「カンゼ伍長、ご苦労だった。そこのテーブルさ、チョットしたインスタント・コーヒーあるべ。よかったら飲んでみてくれろ」 八  何がどうなっているのか訳が分からず混乱した頭で、つい2、3日前にも署長と1等軍曹に、同じように報告し同じように返答が返ってきたのをデンロクは憶い出した。テーブルに近づいて缶に入った粉末のインスタント・コーヒーを、大きめの紙コップにドサッと空け、近くにある熱湯注ぎ口の下に置いた。  熱湯なら、少々不味いインスタントものでもそれなりに味わえるはずだ。ひとくち飲んでみて予想に反し、意外に口当たりの好いのに驚きながら味わっている処に、何処へ行っていたのか降って湧いたように、イタクラが湯気の立つ紙コップを手にして現れた。お互い何時も通りの冗談をいいつつも一件を持ち出さないよう気をつけながら、さりげなくパトロール任務について語り、辺りを見渡してモニターに見入っている准パトロール士の勤務ぶりなどをそれとなく窺った。  飲み終わった紙コップを潰して容器に放り込み、カオルコ嬢に軽く敬礼して署長室を覗き、署長の退出を見計らってロッカー室に向かった。うっかりロッカー室で署長に出会い、老いたりといえども、その鋭い観察眼に刺激を与える真似はできなかった。用心するに越したことはない。  「どうやら外部世界から干渉が起こり始めたようだな。時間の流れに乱れが生じている」  「記憶する限り、今回のような体験は初めてです。イタクラさんは今までに何度か?」  「そうだな、物心つき始めたころ、似たような現象が起こったのを憶えている」  「外部世界とは一体どのような世界のことですか」  「そいつは俺にもよく分からんな。ただ、そう直感しただけだ」  「地球上に僅かに残った陸地に住む、われわれ数百万人の人類に何かが降りかかろうとしているのでしょうかね」  「ふむ、とにかく今日のところは大人しく帰ろうぜ」  「そうですね」  二人が着替えを済ませて分署出入り口で別れ、日常の鍛錬おこたりなく、夫々に駆け足で帰る方向を目指している丁度その頃、ハンベエはレナード・スキナードの曲を聴きながら帰宅の途中だった。頭の隅では部下であるイタクラ、デンロクの今日の行動が、以前とよく似ているのを不審に想いつつ、ロック音楽に取り紛れ、意識の彼方に遠のいて行ったのを微かに知覚していた。  ハンベエ同様に、カオルコ嬢は深紅のノートン・マンクスを巧みに操って自宅を目指した。ジーンズに黒い革ジャンパー、さらにブーツで身を固めた現在の己れに、若かりし頃の均整のとれた肢体を重ねて想い描きながら我が家の方向を目指した。以前と同じ時間帯に同じ想念を抱き、路上の同一地点を通り過ぎたのに気づいて、女の第六感から何かを察知した。  家族との一家団欒を切り上げ、ユウノスケは書斎に独り閉じ篭って座禅を組み、ゆっくり深呼吸しながら瞑想に耽っていた。13人の何時とは知れない時代の、魔術使いともとれる聖職者一団との接触を試みようというのだ。意識の闇の階梯を下へ下へと下って行くにつれて、喩えようのない寒気が己れの身体全体に覆い被さってくるのをユウノスケは知覚しつつ、さらに深い闇の奥へと沈潜して行った。  食後、居間で寛ぐ祖母アケミのうたた寝する姿を、ユウノスケの妻トシエとその娘アカネは視てにっこり笑って頷き合い、台所に向かうと食器洗いを始めた。娘のアカネは母親の洗い終わった食器から、布巾で手際よく水気を拭き取って所定の食器棚に格納していった。  「おーほっほっほっ、アカネや食器の扱いが上手になったねえ」  「かあさまの躾のお蔭よ、ホーホッホ、ホーッホ」  「まあ、その笑い方はちっちゃな梟にそっくりね」  「知ってたのかあさま?私の小いっちゃな梟先生の鳴き声」  「えーえー、知ってたわよ。あなたが生まれて直ぐの時からね」  「なーんだ、そうだったのガッカリ。かあさまをビックリさせようと想ったのに」  台所を綺麗に拭き終わった母と娘は、手を繋いでスキップしながら居間に戻り、祖母がうたた寝する様子を視て微笑んだ。アカネが祖母のコックリコックリしているのを見上げ、跳び上がると両手を鳥が羽ばたくようにさせて着地し、ホーホッホ、ホーッホと笑った。祖母がピクリと身じろぎしながら眼を開け、傍で微笑みかけるアケミを膝の上に抱き上げた。その時、居間全体に微かな震動が起こったのに気づき、3人は一瞬だったが不安そうな表情を浮かべた。  カオルコ嬢はマンクスのエンジン音に聴き入りながら、軽快に跳ばす路上にこれまでにない揺れを感じ、ヘアピンカーヴということもあって危うく転倒しそうになった。どうにか態勢を立て直し、速度を落として辺りを見回す薄闇の中に、カオルコ嬢は光が一閃して通り過ぎるのを視た。瞬間的な現象のこともあり、光の出処を確かめるに到らなかったものの、異常な色調が脳裏に焼きついたのに気づいた。  いつもの騒々しいアカショウビンの出迎えを半ば期待しながら、カオルコ嬢はヘルメットを左脇に抱えて帰宅したと同時に、右腕に何かが触れる気配を感じた。アカショウビンが腕に掴まり、コックリ頷いてカオルコ嬢をまじまじと見上げていた。コウキチのお陰とでもいうべきか、肩に止まって五月蝿く囀る鳥の行儀が前よりは幾分よくなったのを識り、カオルコ嬢は束の間ながら爽快な気分を味わった。  書斎に篭って瞑想に耽るユウノスケの周囲に、別次元の空間が出現して渦巻きながら光を乱舞させ始めた。その直後、ユウノスケの身体が透明になって行き、歪みの生じた空間に複数の立体映像が現れた。座禅を組むユウ ノスケを取り巻き、13人の聖職者の一団の何者かと闘う姿が目まぐるしく生成、消滅を繰り返し、灼熱の閃光が視認不可能な中心部から凄まじい勢いで拡散して行った。  イタクラは帰宅後、早々に食事を済ませて葉巻を燻らせながらネット内を彷徨い、例の爆発地点について取り留めもなく考えていた。その頃、デンロクは宿舎の食堂で、地上勤務の同僚数人と冗談をいい合いながら夕食にありついていた。それとなく話してみた限り、自分達と同様の奇っ怪な体験をした者はいないのが判明しただけだった。 九  アカショウビンを止まり木に戻して居間に入って行ったカオルコ嬢は、亭主のコウキチが昏睡状態で眠りこけているのを発見して驚いた。コウキチは今にもソファからずり落ちそうにしながら、愛妻の帰宅にも気づかずに熟睡していた。カオルコ嬢が恐る恐る肩に手をかけようとすると、コウキチは気配を察知したか、突然跳ね起きると瞬間的に恐怖の眼差しで辺りを見回した。  カオルコ嬢は、強烈な磁気の反発力にでも打たれたように仰け反り、そのままの姿勢で2、3メートルほど《後退|あとじ》さったがなんとか踏み止まった。二人は驚愕の余りに眼を瞠き、互いに相手の存在を認めるとともにソファに凭れて抱き合った。と同時に、何方からともなく深呼吸に近い溜め息をもらした。   「先ほど、帰宅途中の路上でなにかしら異常が起こり、カーヴで転倒しそうになったわ。なんとか《堪|こら》えて、転倒する目に遭わないで済んだものの、異変がこの世界に始まったのではないかしら……そう想ってゾッとした。あなたはどうなの、何か感じた?」  「ふむ、一言では説明し難い奇妙奇天烈な夢を視ていた。余りにも臨在感があり過ぎて、我が眼を疑るような光景が広がっていたんだ。熱風の嵐の中を光が乱舞し宇宙全体が鳴動していたな」  「そうなの、何も起こらなければよいのだけれど……くよくよ考えるだけ無駄かも知れないわね。わたし、一寸シャワーを浴びてくるから、その間に夕食の用意をお願いね」  「よしきた任せなさい。贅肉のつかないメニューを探し出して、調理マシンを作動させておく」  深夜、坐禅を組んで瞑想するユウノスケは、大刀を振り回して敵を薙ぎ倒す勇猛な一武将になっていた。夢にしては余りにも生々しく、現世界に転生する以前の時代に生きていた頃の、己れの記憶を追体験しているのだろうと想った。細部に、想像していたのとは異なった時代を想わせる部分がありはするものの、ユウノスケは自分がかつては遥か悠久の太古に存在した複数の種族の一員だったに違いないと確信した。  葉巻を燻らせて何やら思案中のイタクラは、ネット上のぶらつきに飽きがきたか起ち上がると、壁に向かって逆立ちしたまま腕立て伏せを始めた。イタクラは早くに両親を失い、国家の運営する全寮制の施設で生活しながら学業を修めた。一度は魅力的な同年代の女と同居しながらも子供には恵まれず、挙句に交通事故でその伴侶を失ってしまった。以来、似合いの再婚相手に出会う機会がありながら、踏ん切りつかずにいつまでも独身を通していた。  分署の所属とはいうものの、パトロール隊の中堅パイロットとして、イタクラは抜群の資質と技量を持ち、隊内の後輩から羨望の的だった。だが、幹部昇進への資格を持っているにも拘わらず、まったく野心のないイタクラには現在の気楽、気儘な地方暮らしが気に入っていた。そんなイタクラに、デンロクは尊敬の念を抱き、単なる上官に対する以上の敬意を表するのだった。  宿舎内の個室で缶珈琲を飲みながら、デンロクはイタクラのようにネット上で目新しいニュースを探して彷徨っていた。例の一件に就いては、政府のサイトはおろか民間のサイトにもまったく載っていなかった。デンロクとイタクラだけが体験したに過ぎないとなれば、部署内で語るのはもちろん、署外の親友に密かに漏らすのさえ禁物だ。うっかり話して噂が噂を呼び、狂人扱いされては堪ったものではない。  イタクラに連絡してみようかとも考えたが、さる機関の監視部門にあらぬ疑惑を起こさせるのは賢明ではないと気づいて想いとどまった。パトロール中に例の洞窟でイタクラと落ち合い、情報を遣り取りする方が安全だろう。そう想ったら、デンロクは急に眠気を催してきて眠り込んでしまい、微かな震動が宿舎を揺さぶったのにも気づかなかった。  天空を《劈|つんざ》く閃光が灼熱の熱風をもたらして地表を覆い尽くし、その一瞬後に大気を消滅させて大半の生物を葬り去り、太陽系第三惑星の大陸を海水が侵蝕、わずかな陸地だけが残った。複数の異なる人種の中、地球を見舞った大災厄を奇跡的に免れ、運よく陸地に漂着した生存者は悠久とも想える時間の流れに乗って原始時代からやり直しを始めた。  イタクラ、デンロクの二人は、時空間を超えて押し寄せてくる悪夢に等しい大災厄の中を、波間に漂う木片のように彷徨い続けていた。月が一瞬ゆらぎ、地球上に降り注いでいた太陽からの放射光は、渦巻きながら拡散し天空に消えた。それは、何万分の一秒間の人間には知覚し得ない時間だった。月に何かが起こったとしても、夜間に住居内に留まって寛いでいる限り、月の揺らぎを目撃した者はいなかっただろう。  裕福な実業家イルファン・ラジニーシの息子モルディカイは、インド人の父とユダヤ人の母を親に持ち、バンガロール国立大学天体物理学部惑星工学科に在籍しながら、趣味の天体観測に余念がなかった。その日、自由課 題の研究報告部会を途中で退席し、帰宅して間もなく屋上に設置した観測塔にこもり、高価な観測機器を操作して天空をなぞっていた。星々に変わった動きはなく、いつも通りの軌道を回っていた。そろそろ、観測を切り上げなくては、父親から叱責を受けそうな時刻に差しかかっていた。観測を終えようとして、何気なく月に焦点を合わせた瞬間、天空全体が遠のいて月が揺らいだように視えた。  一家揃っての夕食を終えて自室に篭もったモルディカイは早速、月の揺らぎについて観測した模様をネット上に掲載した。その直後から、中には好意的な感想を寄せる者もいたが、ほとんどのネット・ユーザから罵声、嘲笑を浴び、そういった罵詈讒謗に耐性のないモルディカイは意気消沈してしまった。単純なユーザが多いネット世界では、他人が撃つけてよこす悪口雑言に、いちいち一喜一憂していたのでは保たない。翌日、大学のキャンパスで、大勢の学生が銘々グループを形成、興奮した面持ちで語り合っていたが気弱なモルディカイは気づかなかった。  なんでも前日未明、日本列島上空に月に匹敵するほどの巨大な飛行物体が出現、それから間もなく列島から一部の不法移民を置き去りにして、日本に居住する外国人を含む日本人が忽然と消え去ったというのだ。列強は もちろん小国に至るまで、世界中から日本列島を占領するべく押しかけていって、忽ち醜い奪い合いに発展し、小競り合いから戦争へと拡大して行った。  日本に絶えず難癖をつけたり、領土を主張していたアジアの2ヶ国は早々に淘汰の憂き目に遭って壊滅した。 最後にヨーロッパ連邦、アラブ諸国の決戦となり、核兵器の応酬が留まることなく続き、戦火は硝子化してしまった日本列島から世界中に拡大して行った。あまりにも生々しく夢か現か分からない、現実感のある体験はかつて地球と称した、太陽系第三惑星の小さな島国の全住民を慄え戦かせた。 十  アカネは、それまでは一度もなかった夜泣きをして、両親や祖母を驚かせ慌てさせた。数日が経ち、アカネの語る夢物語は両親や祖母の視た夢と寸分たがわず、太古の日本列島から消えた同国人についての内容なのが明 らかになった。タツノクチ一家の不可解な体験は、燎原の火の如く400万人の人々の共有する知識として定着するに到った。  400万人の島民の中には、大いなる期待と不安に駆られ、殆ど睡眠もとらずに一夜を明かす者が多かった。住人は夜明けと共に起き出し、まだ薄暗いにも拘わらず家々から出てきて、そちこちに小グループを造り、立ち話に熱中していた。  森林パトロール隊4219分署内でも、早朝から悪夢に等しい夢の話で持ちきりだった。ハンベエは何故か何時もより若返ったように活発になり、室内を忙しく行ったり来たりしながら独り言に夢中だった。カオルコ嬢はカオルコ嬢で文書作成に身が入らず、そわそわして集中力を欠く有様だった。イタクラ、デンロクはもとより新米隊員までが署内のいたる処で数人ずつ固まり、任務そっちのけで前夜の話題を語り合っていた。  観測機からの第一報により、4219分署どころか島中が蜂の巣を突っついたような騒然とした状態に陥っていた。分署内の各部署に届いた通達は、驚くべき内容だったのはいうまでもない。いわく――「観測機が洋上を航行中、太古の時代に太平洋と称していた海洋上に、巨大な大陸が深海から浮かび上がってくるのを搭乗員が目撃した。続報は追って通知する」――云々。  400万人の住む島国を残して海底に没し去った陸地の一部が、悠久の時を経て地球上に出現したのを手放しで喜べるものか、誰もが戸惑い畏れ慄いたのは無理もない。  23世紀に活躍した印度のレオナルド・ダ・モルディカイなる異名を持つ天体物理学者、イルファン・モルディカイの理論「恒常宇宙論」によれば、宇宙は膨張しながら無の空間から物質を生成し、星雲の分布を恒常状態に保つという。しかし、その恒常性に狂いが生じたとしたら、現在の僅か400万人の人口はやがて増え続け、地球上には足の踏み場もなくなるだろう。人種間に軋轢が生じ、取るにも足りない諍いから発展して、戦争が勃発した挙句に人類滅亡へと向かう。しかし、絶滅一歩手前で生き残った数少ない人々は懸念を抱く。進歩が永遠に加速し続けた果てには、一体なにが待ち構えているのだろうかと――。  進化がヒョッとして人類の単なる幻想に過ぎないとしたら、宇宙の存在自体に如何なる意味があるのだろうか。愚かな人類の取るにも足りない夢なのだとすると、ならば夢を除外した宇宙はどのような世界なのか。デンロクの思考は捉えどころのない禅問答よろしく、暴走するマシーンのように何時果てるともなく続くかにみえた。  「恒常宇宙論」を宇宙の定則と仮定し――敢えてこの論を敷衍するなら――沈下した大陸に代わる別の大陸が、地球上に忽然と出現したことになる。しかし、いくら若いデンロクといえども、己れの想像には無理がありすぎ、そればかりか不遜のような気がしていた。なにしろ、神の考えなど人智のおよぶところではないだろうから――。今回の大陸浮上の一報は、神の意志が働いた結果なのではないかと想わざるをえず、デンロクにとっては驚天動地を超えていた。続報が入ってきたら何かが分かるかも知れない――そこまで考えながら、デンロクはいつの間にか寝入ってしまった。  何かがのしかかってくる感覚に、デンロクは我に返って辺りを見渡し、肩に手をかけて何やら話しかけているイタクラに気づいた。一瞬の間ながら意識を失っていたらしく、内心穏やかではなかったがイタクラの方を向いて相槌を打った。  「続報次第では、猫のひたいほどの土地にしがみついて生きてきた、我々地球人類の人口問題に決着がつくかも知れんな。そう想わんか」  「そうですね、400万人の枠を一気に取り払って、人口は爆発的に増加することでしょう。もう人口を制限する必要はなくなるでしょうから」  「太陽系第三惑星の未来は輝かしいものになるだろう。但し、浮上してきた大陸が、人類の生存に適していればの話だがな」  「では、2等軍曹殿は人類文明の進化に懸念をお持ちなので?」  「ふむ、我々が正当な歴史を掘り起こし、過去に何が起こったかを正確に把握し理解しなければ、また同じ過ちを繰り返すことになるだろう」  書斎に独り閉じ篭って瞑想に耽るユウノスケにとって、これまで認識できる宇宙は捉え処がなく果てしのない世界のはずだった。しかし、太平洋上に広大な大陸が浮上してきたとかいうのが事実なら、既存の世界観を変えなくてはならなくなるかも知れない。古文献の教える処に従っているだけでは、変動する宇宙の諸相を把握、認識するのは困難だろう。  かつて、太陽系第三惑星には大小さまざまな大陸が存在し、やがて悠久の時を経て現在のように400万人がなんとか生存可能な島を残すのみの海洋惑星になってしまった。ところが地殻変動の煽りが影響したか、太平洋上に陸地が海底から盛り上がってきた。事実かどうかは続報で明らかになるとして、人口制限を解除した後に人口は増え続けるのか、それとも現状維持のままで推移するのか、この島国を統治している為政者の考えを是非知りたいものだ。ユウノスケの脳内には新たな世界観が生まれ始めていた。  瞑想中にユウノスケの幻視した聖職者らしい十三人は、現世界の変動になんらかの役割を果たしているのかも知れない。神の使いか、それとも神そのものが天より舞い降り、第三惑星の創り直しを始めたとは考えられないだろうか。もしそうなら、神はこの宇宙をどのようにしようとしているのか、可能ならば神よりそれについて直接か、無理なら間接にでも聞きたいものだ。 十一  夕食後、一家団欒の一時を終え、そろそろ書斎にでも閉じこもって瞑想に耽ろうかと想っていたユウノスケの住居にハンベエが訪れた。地方のパトロール隊分署署長とはいうものの、さすが日頃の鍛錬を怠らない人物だけ のことはあり、難所にも等しい懸崖を攀じ登ってハンベエはさほどの疲れも視せなかった。暗い中をよくやってこれたものと感心しながら、ユウノスケはハンベエを書斎に招じ入れた。  「タツノクチさん、夜分とつぜんの訪問を失礼しますよ。なにしろ、緊要でして一刻の猶予もありませんので、まずは貴方に折り入ってお尋ねしたいことがありましてな。もう、ご存知でしょうが、太平洋上に陸地が浮上してきました。まだ第一報しか入ってきていないとはいえ、全島民がすでに巨大大陸の浮上を知っております」  「オニムラさん、ようお出でなされた。我が家にやって来られたのには、それなりに何らかの知識をお求めになってのこととご推察します」  「さよう、私はご尊父のことを小さい頃より知っており、古文献について語っていたのをよく耳にしてもおりました。古代ギリシアのプラトンなる哲人が、著書の中で語ったというアトランティス大陸その他について、ご存知ではありませんかな」  1万数千年前の太平洋に、その後に現れた文明を遥かに超える先進的文明を持つムー大陸が存在したといういい伝えがある。また、ギリシャ文明が栄えた時代、哲学者プラトンは地中海に沈んだアトランティス大陸につい て著書の中で言及している。その後の研究から、太平洋に存在したムー大陸は、大西洋に存在したアトランティス大陸の別名であることが判明したというのだ。  「確かに、プラトンが『クリティアス』、『ティマイオス』両書の中にアトランティス大陸について書いております。今から1万8千年以上前、そのアトランティスもしくはムーという大陸は、巨大地震や大洪水によって一夜の中に海に没してしまったと古文献にはあります」  「なんでも、19世紀に神智学協会を創設したマダム・ブラヴァツキーなる人物のいうには、地球上には超古代文明を有するレムリア大陸が存在した時期もあったそうですな」  ユウノスケは内心、ハンベエがマダム・ブラヴァツキーを話題にしたのを愕きながらも素知らぬ風を装った。  「同時代の気象学者ウェーゲナーの説によれば、地球上に存在したという超大陸パンゲアが分裂し、複数の大陸を形成した時代があったそうです。もっとも、ウェーゲナーは自説を主張できるだけの理論的根拠を呈示できず、学会から無視されてしまったといいます」  「それが、いつの間にか次々海に没し去り、我々400万人の住む島だけが残ってしまったのですかな。今回、浮上してきた大陸はレムリア大陸、それともアトランティス、ムー……いずれにしろ、観測機からのさらなる続報を待たねばなんともいえません。タツノクチさんはどのようにお考えですか」  「宇宙は誕生間際に爆発し、膨張し始めた……そのように主張するビッグバン説が、天体物理学界では永年有力だったそうです。その根拠とするところは、「赤方偏移」なる現象からきていました。遠ざかる音が小さく聴こえ、接近してくる音が大きく聴こえるドップラー効果をご存知でしょう。光の場合もそれと同様、遠ざかるにしたがって色が赤の方に偏って暗く、逆に接近してくる光は青の方に偏って明るく視えます。私自身、よく理解しているとはいいがたいですが、赤方偏移なる現象の観測結果に基き、そのように複数の学者が銘々唱えたのがビッグバン説の始まりなのでしょう」  「なるほど、私にはあまり馴染みのない説に聴こえますが、気にしないでください。その方面の知識には疎いものでしてな」  「天体観測では、遠ざかる惑星ほど暗く視えることから、宇宙は膨張していると判断できるのでしょう。ビッグバン説が有力だったのには、それなりに根拠があったのです。しかし、この有力な説に真っ向から対立する説が、実は存在したのです」  「それはまた、なんという説ですかな」  「イルファン・モルディカイの唱えた「恒常宇宙論」です。ご存知ありませんか」  「そういえば、ご尊父がよく語っていたような気がします。子供時代の私には、何のことやらサッパリ分かりませんでしたな」  「沈んだ大陸が再浮上してきたのは、人智を超えた神のなんらかの意志が働いた結果なのではないかと想えるのです。レオナルド・ダ・モルディカイの異名を持つ天才イルファン・モルディカイは、宇宙は無の中から現れ、膨張し、やがて希薄になって行くかに視える宇宙空間に物質を創出して恒常状態を保ち、それを繰り返すと唱えました。モルディカイは、遠くの星々ほど遠ざかる速度が速く、やがて宇宙空間は希薄になって行く。しかし、宇宙空間は星雲の分布状態を、一定に保ちながら膨張するというのです」  「ふむ、それでは現在この世界は、無の世界から陸地を創出し始めたのですかな。たしかに貴方の仰言るとおり、神の意志には人智など及ばないものがありますな。夜分にお邪魔し、お騒がせしました。伺った貴重なご意見を明朝、上層部に伝えることにいたそうと考えております。この国を治める重要なメンバーの一人に、差し支えなければ貴方を推薦いたす所存でおります……ご異存はありますまい。今後、国の統治には貴方のような逸材が是非とも必要になって参るのでしてな」  「異存も何も、わたし自身に決定権がある訳ではありませんし、オニムラさんのご意思に従う他ないでしょう。暗い中をお出でいただき恐れいります」  「なに、心配ご無用に願います。そろそろ、迎えの者が来ている頃です、ではご機嫌よう……」  書斎を出、一人はなにやら国家の中枢で重要な役職に就いていると想わせるオニムラ・ハンベエ、もう一人はこの家の主にして近い将来国家の頂天に治まるかも知れないタツノクチ・ユウノスケ――二人は古代の日本の習慣である深々としたお辞儀を交わして別れた。[完]
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