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「文京区立、本郷給水所公……最後の字が読めないな」  そこかしこから高級ガムのにおいがしているところでおれは今、迷子の迷子になっていた。少し先には遊園地かなにかが見えている。池から稼げた距離は正直、わからない。 「こんなときのための……」  かっぱらってきたはずの地図――ポケットサイズのそいつがポケットになかった。カッパナイフも消えている。逃げている途中で落としたんだということは考えなくてもわかった。背中からバックパックをおろす。 「お前はしっかりいるのか」  隠れ家のなかで腹を下にしてやり、部屋の換気もしてやる。おれを見あげてくる黒目がちな目。誰かの目に似ていたが、知りあいに爬虫類の顔をしたやつはいない。  尻ポケットから厚いものを取りだす。青い三つ折りとしわくちゃの伊藤博文たち――使う気になれない金。なぜあんな真似をしたのか。暁彦をどうしたかったのか。この脳みそはときどき予想外のぶっ壊れ方をする――得体の知れない馬鹿。賢くないやつはこれだから長生きしちゃいけないのかもしれない。  暁彦にはいつかちゃんと謝りたいと思ったが、この人生でそれをするチャンスはたぶんないだろう。おれは中身が千円ぽっちの三つ折りに裸の札三枚をねじこみ、目の前のくず箱へ投げ入れた。  高級ガムのにおいのもと=バラだらけの敷地に入る。なかの造りは公園みたいだったが、人は数えるほどしかいなかった。水飲み場へと近づく。慎重に蛇口をひねり、高さ十五センチほどにした水の柱へ自分の口を持っていく――冷たくてうまい水。長谷川にもくれてやる。柱の先が腹に当たるたびに手足を引っこめる様子がおかしかった。 「よし、休憩は終わりだ。行くぞ」  水たまりで例のワカメになっていた長谷川をしまい、バックパックを背負う。高級じゃないガムを一枚噛み、これからやるべきことを頭のなかへ順に整理していった。  まずは地図。二度手間だが、こればっかりはしかたがない。さっきの道=《壱岐坂|なんとかざか》と書かれた通りに出て本屋を探し、そこでポケットサイズのを手に入れる。自分のいる場所をどこかで確認したら、一番近いヤマノテ線の駅を見つけてそこへ向かう。とにかくそうやってシブヤへ行かないことにはバラ色の人生もくそもない。  《本郷給水所公苑|ほんごうきゅうすいじょこうなんとか》を出て、広い通りへ。坂を下っていくと遊園地の奥に照明塔が見えた。覚えのあるかたち……。 「《後楽園球場|こうらくえんきゅうじょう》か!」 〝そうらしのう〟 ――やっぱりか。いや、待て。 「誰だ、お前」  振り返ると同時にいった――全身真っ黒の革ジャン野郎。 [*label_img*] 「誰だって聞いてんだよ」  にやつきながらさらに一歩近づいてくる革ジャン。カツアゲする気満々の目が似合いもしないサングラスの向こうで光っている――ふざけやがって。おれはポケットのなかで拳を握りこんだ。 「まあ、そないに《力|りき》まんと」  言葉の意味は半分もわからないが、おれをなめてきてるのはわかる。構えてもこないあたり、腕にも自信があるんだろう。が、こっちも負ける気はしていない。ぶちのめして、吠え面をかかせて、なんならしびれさせて反対に金を巻きあげてやる。ツキが落ちるのはお前のほうだ。 「相手してやるよ」 「なんて?」 「とっととかかってこいっていってんだよ、漫才野郎」 「誰が漫才じゃぼけ。こっちは《あんじょうしたろ》思てんのに」 「《なに女子太郎》か知らねえけど、やめとくなら今のうち――」 「落としてんで、財布」  素早い動きで突きだされてきた青い三つ折り。はみ出た札もそのままだった。 「おれのじゃ……ねえよ」 「そうかいな。ま、せやろな」  漫才語は『あほ』と『ほんま』と『なんでやねん』と『ちゃうちゃう』しか知らない。『やすし・きよし』や『おぼん・こぼん』を見て笑えるやつをおれはだから、天才だと思っている。 「ほな、ワシがもうとくけど、ええか?」  手つきと表情から言葉の意味を読む――んじゃ、オレがもらっちまうけど、いいか? 「好きにすりゃいいだろ」 「そら、おおきに」 「用がそれだけならもう行けよ。おれは忙しいんだ」 「いらちやのう。まだようけ残ってんねんて、用」  漫才野郎がしゃがみだす。 「ものいうなら、まともな日本語しゃべ――」 「こっちはジブンのやろ」  無視された文句。だけど今のは意味がわかった。わからないのは安全靴の前に並べられた品の数々。半分はおれが落としたものだ。 「お前、どっからつけてきた」 「ごっつ新しいやんけ、この地図」 「どっからだ!」 「ほんま、やっかましのう」 「いいから答えろ、蹴飛ばすぞ」 「スライムむっちゃなつかしわぁ。見てんかこの黄緑! おっそろし色やで。こんなんなにに使うん?」 「おれのじゃない! てめえ、さっきから――」 「《不忍池|しのばずのいけ》や。派っ手に《恐かつ》かけとったのう」  シノバズノイケ――おそらく上野の池。キョウカツはたぶん、カツアゲのこと。漫才野郎が立ちあがる。 「しゃあけどジブン、めっちゃ足速いで。なんべんも見失いそなったわ」 「なんでつけてきた」 「なんでや思う?」 「クイズやってんじゃねんだよ、この野郎」  すっとぼけた顔でなにかをお手玉する革ジャン。こいつ、一丁前にこっちの隙をうかがっていやがる。 「かいらし光りもんやな、これ。カッパのマーク入っとるし。好きなん? カッパ」  花柄のピンクから銀色が伸びる。おれはジャンバージャケットの内側へ左手を突っこんだ。 「なにしよんな、お前!」  先手必勝=ケンカの常識。右手でナイフの手をねじりあげ、後ろを取る――歩道で音を立てるカッパナイフ。鉄のつま先で植えこみへ蹴りこみ、目の前の首筋に稲妻を押しつけた。 「ちょい、待てて!」 「人に刃物向けといて待ったはねえだろ」 「あほか、お前。光りもん握ったら誰でも刃ぁぐらい開くやろが!」 「おれは敵の前以外じゃ開かない」 「それもそやな。けどこっそりやらんとバレるで」 ――だからこうなってんだろうが。 「ちゅうかなんやねん、ジブン。ワシ敵とちゃうで」 「いいや、敵だ。そうじゃないやつはめったにおれに近づかない」 「あほくさ」 「今、なんていったてめえ」 「ワシみたいなスーパー二枚目《味方|みかた》、どこ探してもおらんいうたんや、早口で」  よくまわる口が本当のことをいってるのかどうか、少し力を抜いて確かめる。一、二、三――反撃の気配なし。おれは漫才野郎の体を突っ放した。 「ジブン、ほんまシャレならんほど気ぃ短いのう。病気ちゃうか」 「お前こそ人のことつけまわして、そっちのほうがよっぽど病気だ」 「つけまわしたんとちゃうがな」 「じゃあ、なんだ」 「しゃあから味方やいうとるやんけ」 「そんなもの必要ない」  吐き捨て、地図を拾いあげる。 「まいど! 五百円でよろしぃわ」 「この手はなんだ」 「勘定に決まっとるやん。めっちゃ勉強――」  革ジャンの襟を引っつかむ――今度こそしびれさす。いや、丸焦げにしてやる。 「冗談やて、冗談。オーサカン・ジョーク」 「おれは冗談とスパゲティーが大嫌いなんだよ」 「わかったわかった。わかったから、とりあえず手ぇ放してんか」 「あ?」 「伸びるやん、服」    §  ヤマノテ線は《山手|YAMANOTE》線――地図を調べてわかった情報。東京のいろんな街をぐるっとやっている、どこにも終点のない国鉄の路線で駅の数は二十九。暁彦がどっちに乗ってもシブヤ=《渋谷|SHIBUYA》へ着くといった意味がこいつを見てようやくと理解できた。目指す街はさっきの街=上野のちょうど反対あたりにある。ローマ字の助けがなかったら、渋谷を『シブヤ』とは読めなかったし、山手線もすぐには見つけられなかったにちがいない。 「どこへ向かいよん」  日本語を考えたやつは馬鹿だったんだろうか。同じ国のなかで使う言葉をここまで分けた理由がわからない。 「意味が通じない」 「うそやん。普通わかるで」  三年前に暮らす場所が変わったときも似たようなことを思った。長野じゃ話しているやつの表情や態度を、聞き取れた言葉につけ足して考えていた。漫才語のこいつはそれと同じことをおれにやらせようとしている。 「ここは東京だ。漫才王国じゃない」 「ジブン、お笑いなめとうやろ」  意味のわからないものをどうなめろというのか。くだらない。 「んじゃ、しゃべりかけてくるな」 「無理や。黙っとったら死んでまうねんて、ワシ」 ――だったら死んでろ。 「ほな死んどけ思たやろ、今」 「ああ」 「失礼なやっちゃな。おかんにいいつけるで」  坂を下りきり、足を止める=信号待ち。 「で、どこ行き――」 「外人としゃべってるみてえで疲れんだよ、漫才語は」 「わかるわかる。アラン・ドロンみたいやぁよういわれんねん、ワシ」  カッコウがピヨピヨに変わる。いっそのことこのままダッシュでぶっちぎってやろうかとも考えたが、おれにはこいつから逃げなきゃならない理由がない。 「なんしとん。青やで」  前へ進め。何車線あるのかわからない道を《普通に》渡る――ぐっと近くなってきた後楽園球場。こんなかっこいいスタジアムを巨人と日ハムだけのものにしておくのは絶対にもったいない。照明塔を見あげながら、ここもいつかは《阪急|ブレーブス》のものになればいいのに、とおれは思った。 「考えなしに歩くのん、しんどいわ。ほんまどこ行きよん」  無視。いってもわからないやつにはこうするよりほかない。 「シカトすなや、おい」  耳栓代わりにガムを噛む――鼻に抜けるハッカの香り。奥歯に力をこめればこいつのおしゃべり声も少しは遠くなる。 「あいあいあい、ほないいなおしまっすわ。キミはどちらへ行かれちゃうんでございまひょか。たーだ、ぶらぶらするんは疲れるだけじゃーん」  三倍になった言葉の数と時間。今の長ゼリフと『ホンマドコイキヨン』は、ちゃんとりんごとアップルぐらいに同じ意味なんだろうか。 「なんや《けったい》やのう、こっちの言葉になおすと」 ――全然なおっていない。 「なあ、ジブーン」 「おれはそんな名前じゃない」 「せやせや、自己紹介しようや、自己紹介」 「しない。だいたいお前このへんのやつじゃないだろ」 「おう、漫才王国大阪のハラダテツ様や。字ぃは――」  なんてことのない『《原田|はらだ》』に『折』れる『口』と書いて『《哲|てつ》』。いったいどうやればこんなおしゃべり野郎の口をへし折れるのか。名前というのはつくづくあてにならない。 「で、漫才王国の口折れ様が東京でなにしてんだよ」 「家族旅行や」 ――こっちは人生を賭けた旅をしてるっていうのに、なにが家族旅行だ。甘ちゃんが。 「んじゃ、とっとと戻れ」 「戻れてどこにや」 「父ちゃん母ちゃんとこに決まってんだろ」 「ええねんええねん、そっちは」  意味を、言葉を勝手に取り替える――ええねん=いいねん=いいんだよ、そっちは。 「よかねえだろ。心配してんぞ」 「やあやあ、ほんまええねんて。今日は記念日やさかい、ふたりっきりにしたってん。夫婦水入らずってやつや。孝行息子やろ、ワシ」  よその家の事情なんて正直どうでもいい。おれは歩くスピードをあげた。 「それよっかジブンはどこ……ちゅうか名前教えぇよ、名前。あと歩くん速いで」  数時間前に不忍池のほとりで生まれた《でっちあげ》のそれを早足のまま口にする。 「かっこええ名前やな。ワシほどやあれへんけど。年はなんぼや」 「お前は」 「ワシか。なんぼや思う?」  すぐ脇を黄色い声まみれのジェットコースターがぶっ飛んでいった。 「またシカトかい。しゃあないのう、聞いてびっくりしなや」  駅に着いた――丸ノ内線、後楽園駅。《細々|こまごま》した路線図じゃ、いまひとつわかりづらかった停車駅を券売機の前に立って確認する。 「こう見えてワシな……」  《池袋|いけぶくろ》、東京、《新宿|しんじゅく》。山手線とつながっている駅はこの三つ。後楽園駅から一番近いのは池袋だったが、そこから先=渋谷までの料金が載っていなかった。 「ほんまは小学生やねん。コケコッコの酉年六年や。中学生……いや、高校生ぐらいに思うとったやろ」  載っているほう=反対方面をたどっていくと、赤坂なんちゃらいう駅で乗り換えて三つめか四つめが渋谷だった。こっちはだけど山手線じゃないから、不安といえば不安だ。 「……なんや、あんまびっくりしてへんな」  不安の種はそれともうひとつあった。おまわりに追っかけられているおれが電車に乗っちまっても平気かどうかだ。 「まあええわ。ほんで、ジブンはよ」  この問題を別の手でなんとかするとなると、歩くかチャリをちょうだいするか、そのふたつしかない。どっちを選んでも勘と地図と青看板だけで渋谷へたどり着けるとは思えなかった。人の目だらけのこの街で得意技を決める自信もない。 「もしもしぃ」  ごった返している階段を見ながら思う。ここだけじゃなしに、東京中の駅はどこもこんな感じにちがいない。実際、上野や御徒町の駅もここと同じかそれ以上の押しあいへしあいをしていたし、電車だって引っきりなしに動いていた。ガキがひとりぐらい混ざりこんだところで普通ならわかりっこない。おまわりだっておればかり探しているわけじゃないだろう。仮にやつらの近くを歩いちまったとしても、そのときはこのまだらの模様が威力を発揮するはずだ。気を抜かなければ捕まりはしない。 「ちょい、亨。聞いとんか」 「……あ? おれか」 「お前以外に亨ておらへんやろ」 ――そんなこともないんだが。 「考えごとしてた。なんだ」 「年や年」 「ああ、お前は?」 「今、高校生風味の小六やいうたやろがい!」 「そうか。おれはあれだ、来年中学」  行くつもりなんて一ミリもない中学。おれの頭は小学生のまま大人になっていくことが決まっている。 「なんや、タメか」 「タメ?」 「同い年っちゅうこっちゃ。気ぃ合うやん、ワシら」  Qのいう『縁』、忠一のいう『運命』と変わらないことをこいつはいっていた。 「大阪じゃ同い年ってだけで気が合うのか」 「こんまいこといいなや。モテへんど」  いらつくだけの漫才語。無視をしてもういっぺん地図を開く。今度は路線図じゃなく難しいほう=駅も道路も建物もなにもかもが載っている恐怖のページに挑戦。さっきの水飲み場=バラの広場にあった文字を思いだして目次を開く――文京区。同じ文字が書かれたページを探り当て、紙の上で自分の居場所を探した。 「で、どこ行きよん」 ――またそれか。 「一分半だけ黙っててくれ」 「よしゃ、九十秒やな。数えとくで。いーち」 「日本語がわからないのか」  息での秒読みに切り替える原田哲。おれはおれで自分の続きをはじめた。《春日|かすが》通り、《白山|はくさん》通り、《外堀|そとぼり》通り。後楽園駅を中心に、文字で示された場所を頭のなかへ読みあげる。白山通りの右側には秒読みの馬鹿と下ってきた坂があった。左のほうには高速道路なんてものまである。今立っている場所のすぐ下が、いずれ阪急のものになる後楽園球場だ。 「さんじゅはっち、さんじゅきゅっ」  まわれ右。照明塔を見ながら手首の磁石を使う――南。息を吸いこんで目をつぶった。自分の方向感覚と地図、それとさっきの路線図をまぶたの裏で重ね合わせる――右前の位置に渋谷。左後ろに不忍池。戸田や大宮は右後ろで、本郷給水所はほぼ左。それぞれを方角になおすと南西、北東、北西、東だ。 「よし、つながったぞ」 「ごぉじゅろぉく……お、いけるんか?」 「まだだ」 「なんやもう。ごぉじゅ……ん? なんぼやったかの。覚えてへん?」 「五十六」 「おおきに」  地図読みをものにしたおれは嬉しくなってさらに調べた――《小石川|こいしかわ》後楽園、後楽園ホール、《水道橋|すいどうばし》駅……中央線。直感メーターの針が振れる。  ページを路線図にチェンジ――直感的中。中央線は国鉄。山手線の仲間だ。《秋葉原|あきはばら》と《代々木|よよぎ》、新宿で山手線とつながっている。水道橋の駅は球場を挟んですぐ。得体の知れない丸ノ内線よりも、国鉄とわかっている路線を乗り継いでいったほうがおれとしては安心できる。料金もそっちのほうがきっと安い。長野でも国鉄の信越線から私鉄の長野電鉄で移動するパターンを使うと途端に金額が跳ねあがっていたのを覚えている。 「ななじゅっさぁん、ななじゅっし……あ、おい、どこ行くねん!」 「お前はお前で好きなとこ行けよ。じゃあな」  夕闇迫る後楽園。《灯|とも》りだした照明塔を目の端っこへ入れながら、おれは色づいた森のなかに踏みこんでいった。    §  さっきからおれの下をやたらとパトカーが過ぎていっている。どこかで人殺しでもあったんだろうか。黄色い電車が《のそのそ》と動きだすのが見えた。 「また行っちまったじゃねえか、くそ」  もっともこれだけ人がうじゃうじゃしていれば、ほっといたって日にひとりやふたりは殺される。そうなるのがおれじゃなきゃ問題なかった。誰の人生がどう終わろうが知ったことじゃない。  顔をあげる――背の高い建物のてっぺんとくっついた三日月。あのあたりが渋谷か。999はビルの隙間を抜けて、そこから力強く宇宙へと旅立っていった。おれもそうしたい。逃げまわるんじゃなく、誰の手も伸びてこない安全で自由な暮らしのできるところへたどり着きたい。今日中に。 [*label_img*] 〝最終もだめだったなあ。そっちはどうだい〟 〝悪いね。《獲|と》っちまったよ〟  パトカーがまたぶっ飛んでいった。都会は本当に人がよく死ぬ。 〝あんなヒモ拾えないぞ、普通〟  体を反対に向けて手すりへもたれた――わりと幅のある歩道橋。座りこんだ汚いやつらのすぐ脇をきれいなやつらが過ぎていく。おれの未来はどっちだろう。自由ならどっちでもかまわなかった。 「総流しに決まってんべよ。そうじゃなきゃあんなロバみたいな馬買えっこない」  橋の手すりの向こうでは照明塔が夕闇を蹴散らしている。この前の日曜まではファイターズと巨人があそこで火花を散らしていた。今はなにをやっているのか。ときおりあがる歓声が気になったが、ここからじゃなかの様子を知ることができない。 「そいじゃ一杯おごってもらうかな」 「負けたやつとは飲まないって決めててね」  選ばれたやつらのルールでいくなら、寝床をそろそろ棺桶に変えなくちゃいけないおっさんふたりが、赤ペンだらけの新聞片手にロバや酒の話で盛りあがっている。それもずいぶんと楽しそうに。 「傷つくなあ、そういうの」 「ええ?」 「けっこう繊細なとこあるからさ、俺」 「怪獣みたいな顔してよくいうよ」  楽しそうだがおれからしたらどうでもいい話のせいで、三日月型の傷がある顔を思いだした。あたりに目を配る。あるはずのない影を探す。階段をのぼってくるやつら。こっちへ歩いてくるやつら。黄色いビルのあたりでたむろしているやつら。橋の下に見えるやつら。まだらの影はどこにもない。当たり前だ。あのちんけな街から何百キロも離れた大都会にあいつがいてたまるか。敵はおまわりだけで充分――いや、本当はそれだって邪魔くさい。 〈じぶん、びびっとるやーん〉  へたくそな漫才語。馬鹿はすぐに人真似をする。心のなかの重力を強めに調節――首絞めに代わっての新技。これをやると《顔なし女|ばけもの》の自由を奪うことができる。でかい漬けもの石を載っける感じだ。ついさっき森を歩いているときに偶然できるようになった。 〈や……やめろ。つぶ……れる〉 ――ペラペラになるまでそうしとけ。  上着のポケットから地図と同じサイズで、地図よりも少し厚めの図鑑を取りだした。こすれてなにが映っているのかわからなくなっている表紙をめくる。花と木の名前がびっしりと並んだ目次。すっ飛ばして真ん中あたりを開いた――ソメイヨシノ。春になればいやでも目につく花びら満開の写真。ページは耳が折られていた。 「桜ってバラの仲間なのか」  日本産の園芸種。もともとの一本から全国へ広がっていったとかなんとか。一斉に咲いて散るのはそのため。桜としては国花、ソメイヨシノとしては東京都の花にそれぞれ指定されている=花の説明。つまりこの国は桜だらけ。暁彦を叩きつけた木もそういえばそれだった。 〈まじ……おもい……あやまる〉  おとなしくするのを条件に漬けもの石をどけてやる――珍しく約束を守る化けもの。いいことだった。  時間を確認して図鑑を閉じる。じきに六時だ。くそ。裏表紙にはきれいな字で『せいかようちえん ばらぐみ たちばなてつ』とマジック書きがしてあった。 「半分うそじゃねえか」  陸橋の下をのぞきこむ――パトカーの大群。凶悪事件か。そのわりにおまわりども=左下に見えている交番のそいつらはおとなしかった。特に慌てるでもなく、背中の丸くなった婆さん相手に道案内をしている。 〝あい、お待っとさん〟  冷たいものが頬に押しつけられる――マウンテンデュー。 「なんだこりゃ」 「缶ジュースや。見たらわかるやろ」  そんなことより、てめえ―― 「どんだけくそすりゃ気が済むんだよ」 「どんだけて、いつもと変わらん量やで。色のほうはしゃあけどちょっと――」 「くその様子聞いてんじゃねえよ。お前、五分で済ませ――」 「耳もとで《やいやい》いいなや。ジブンかてババぐらいするやろが」 〈ばばよりいのき!〉  重力スイッチ、オン――のしいかになる化けもの。 「とりあえずそれ飲んで落ち着きや」 「くそまずそうだ」 「あほ、めっちゃイケるわ。びっくりするで」  見たこともない缶の飲み口を切り、知らない味の液体を一気に喉へと流しこむ――むせた。 「早飲みせえとはいうてない」 「どう飲もうがおれの……勝手だろう」  げっぷつきでいい返してやる。味のほうはまあまあだった。 「汚っちゃないのう……あ、せやせや、あれ返してんか」  あれ=植物図鑑。くそをしている間に逃げられると思ったのか、哲はそいつをおれに押しつけて便所へ走った。 「返せじゃねえだろが。ほら」 「破いたりしてへんやろな」 「お望みならやってやる。貸せ」  革ジャンの内側へ滑りこんでいく図鑑。またあほといわれた。 「おい、タチバナ」 「誰やそれ」 「とぼけてんじゃねえよ」  哲がやれやれという顔をする。 「《小林|こばやし》《旭|あきら》ふうにいうたら昔の名前や」 「『ふう』はいいから説明しろ」  ネオンを映しこんだサングラスを奥までかけ、しっかりと目を隠す哲。坂道からこっち、ずっとその顔に貼りついていた《にたつき》も消えた。 「ワシかていろいろあんねん。いらうなや」  ガキの苗字が変わるパターンはそういくつもない。旅行中の親に気を使ったとかいう話はだから、丸っきりのでまかせじゃないのかもしれない。 「しっかしあれや。亨のおかげでええもん見れたで」  態度がころっと変わる。にたつきも同時に復活。例の歓声がまた聞こえた。 「後楽園球場か」 「後楽園は後楽園やけどな。そっちとはちゃうねん」  ちがうといっても、まさか駅やホールじゃないだろう。 「お前、けっこうガキだな」  遊園地に心躍らせる格好だけの不良。鼻で笑い飛ばしてやった。 「そらどうかのう」  倍になって返ってきた鼻笑い――かちんレベル、一。哲の顔が球場のほうを向く。 「ガキなんは亨のほうかもわからんで」  追加のかちん。堪忍袋の限界は三。そこを超えたら問答無用でぶっ飛ばしてやる。 「ほないくで、亨」 「どこへ」 「そうちゃう。チェリーブラッサムや! 新しいワタシや! 知っとるやろ? フレッシュ、フレッシュ、フレーッシュ……はその後か。まあええわ。一度しかいわんからよう聞きや。《染之助|そめのすけ》・《染太郎|そめたろう》の『《染|そめ》』、井戸の『井』――」  いってることもわからないが、それよりもこいつの興奮している意味のほうがもっとわからなかった。気味が悪い。 「吉野家の『吉』、野バラ、野路菊、《野々村|ののむら》病院物語の『野』。さあ、なんや!」 ――染め井戸物語。 「あほう。『《戸|ど》』いらんし、『物語』関係あれへんし、『吉』も『野』も入ってへんやんけ!」 「知らねえよ」 「《染井吉野|そめいよしの》や」  木の名前――くそタイムの間に知った桜のあれこれ。 「後ろ半分は吉野家の『吉野』でいいんじゃねえのか」 「せやな。次からそれでいこか――て、おい」  左肩にぽんと裏拳を食らった――かちんレベル、二。 「そんなん、どうでもええんじゃ。ほんまもんの染井吉野やで、ほんまもんの」 「桜がどうかしたのかよ」 「どないもこないもあるかい。見たやろ、あの《ふっとい》根っこ」  いよいよわけがわからない。 「上野の池の桜をいってんのか」 「ちゃうがな。さっき抜けてきた森や。小石川後楽園。あっこらの桜が元祖染井吉野や。百才超えてんねんで。ごっついやろ。前からいっぺん《会|お》うてみたかってん」  桜でここまで興奮できる男も珍しい。まじめに気味の悪いやつだ。 「花、咲いてなかったぞ」 「当たり前やんけ。秋やで今。咲いとったらセミが腰抜かすわ」  かちんレベル、二・五。そしてセミも秋には天国だ。真奈美にいわせれば、いつだってひと言多いのがおれらしいが、こいつの話を聞いたらきっと『そんなこともなかったね』となるはず。 「もっけの幸い……いや、ちゃうな。ひょうたんから駒? まあええわ。おおきにやで」  どっちもよくわからないが、おれのなかじゃ桜といえばおまわり。心臓によくない赤い光がまた闇を染めてきた。 「しっかしパトカー多いぃのう。なんかあったんやろか」 「あったからばたついてんだろ。殺人かなんかだ、どうせ」  列車の到着を知らせるメロディーに続けてアナウンス――二番線に各駅停車、《三鷹|みたか》行き。足もとへアルミ缶を立てて置き、勢いよく踏み潰す。 「んじゃ行くわ。ジュースごちそうさん」 「せやせや、そないいうとってんな」  水道橋駅に向かって歩きだすおれ。ついてくる哲。考える。ダッシュか、それとも攻撃か。 「悪りいけど急いでんだ」  体をひるがえしていった――どっちでもない選択。かちんレベルはとっくに三を超えていたが、目と鼻の先には交番がある。がらくたの頭でもまずいパターンの予測ぐらいはついた。 「わかっとるがな」 「だったらここでばいならだ。おれとお前は友だちでもなんでもない」 「それもわかっとる。しゃあけど暇やろ」 「暇じゃない。行くとこがあんだよ、冗談抜きで」 「よういうわ」  哲が片眉をあげる。 「ほんまはあれへんねやろ。行くとこなんてどっこも」  にらみあった。そうしながら言葉の意味を考える――もやもやしただけだった。にたつきは消えない。サングラスの奥の目は笑っている。 「なにがいいたい」 「旅は道づれっちゅうこっちゃ。袖触れあうもラッキョの皮いうやろ」  道づれもくそもない。ラッキョはともかく、ふたり旅なんてもううんざりだ。 「お前、名前のほかにもうひとつうそついてるだろ」 「亨もワシにいうてないこと、ひとつ以上あるやろ。当てたろか」  互いのうそを暴きあう。暴かれた中身はどっちも一緒だった。この街にはろくでもないガキどもを引っぱりよせる磁石があるにちがいない。哲はおれの読みをあっさりと認めた。 「ジブンもせやろ」 「どうしてそう思う」 「東京のガキやったら目ぇ皿にして地図なんか読まんて」  地図を広げたのはこいつと会ってから。そのことが家出を疑うきっかけになっていたとしても、おれをつけてきた理由にはなっていない。 「あとは」 「あとてなんや」 「それだけじゃないだろう」 「それだけやて」 ――この野郎、おれを馬鹿にしてるのか。 「隠す必要もないことを隠すな」  おまわりなら問答無用でおれを追ってくる。おまわりじゃない哲がそうしたのはおれが――まだらのガキが家出をしていると踏んだからだ。自分と似たような状況のやつを捕まえて仲間にする。そう考えたからこその追跡。こうして今もしつこくまとわりついてきているのがなによりの証拠だ。でたらめにまみれて暮らしてきたおれに、いいかげんなつじつま合わせは通用しない。 「ほんまやな。なかなか鋭いやんけ」 「お前にはうそつきの才能がない」 「根がど正直やさかいのう。まあ、隠しとってもしゃあないし白状したるわ。メガネのガキに聞いてん」 「暁彦か」 「名前までは知らん。けど、亨のこと知らんやつやいいよったわ。人殺してトンズラかましとる犯人やともいうとったな」  誰ともいがみあって終わるのがおれの得意パターン。巻きあげた金をいつか返したいと思っていた気持ちはどこかに消えた。 「人なんか殺してねえよ」 「そらそうや。やるとしてもこれからやろ」  そんなもの、永遠にやるつもりはない。 「で、今の話とおれが家出してるって話、どこでつながってくるんだよ」 「ごっついかばんや」  バックパックの肩ベルトを哲が人差し指の爪で叩く。 「そんなん《背負|せた》ろうて、今どきにその格好や。東京モンやったら絶対着いひんで、ダッサい」 「ダセえってなんだよ」 「うっそやろ、亨。ジブンまさかナウい思うて着よんか、それ」  関係ない。服はしゃれてるかどうかよりも、人目につくかつかないかだ。 「いろいろ事情があって着てんだよ、うるせえな。ほかにはなんだ」 「ほか? ああ、なんでバレたいう話やったな」  家出をしていたら金も必要。だから恐かつもする=哲のいい分。 「ま、一番の決め手はこいつの刃ぁみたいに鋭い哲様の勘や」  手のものを取りあげたついでに刃を開く。あいつを探す。持ち手の両側、刃の左右――いた。生意気そうな《面|つら》をしたカッパが刃の根もとにしっかりと刻みこまれていやがる。 「なんや、いらんねやろ。もうワシのもんやでそれ。返してや」 「ほんとの家族はどうしてる」  たたんだナイフを渡しながら聞いた。 「おらん」 「あ?」 「意味通じひんか」  哲から顔を背ける――目に飛びこんでくる都会の光。パトカーの赤。でかいデジタルのオレンジ。ネオンの青、緑、紫、ピンク。架線をこするパンタグラフの放つ白=くそ明るい夜。 「記念日とかもじゃあ、うそか」 「それはほんまや。悲しい記念日やけどな」  おれは闇という闇を渡り歩いてきた。哲もそうかもしれない。だけどこの街にはどこにも闇がなかった。そのかけらすらない。ろくでもないガキどもは光が好きだ。明るい未来が好きだ。暗く湿ったところにはいたくない。 「変なこと聞いたな」 「どんまいやで、亨」  哲に背中を押された。肩を組まれた。振り解くことはしなかった。
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