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 ――爪先立ちの恋だった。  不安定で身の丈に合わなくて、些細なことで心揺られ――到底届かない相手だったけれど、それでもただただ好きだった。  人並みに嫉妬もした。届かぬ想いに頬を濡らしもしたし、寝ても覚めてもただどうしたらその人ともっと仲良くなれるのか、どうしたら近付けるのか、それだけを考えていた。  私の抱くそれが、所謂「重い」ものだというのはどうやら事実だったが、でも言ってしまえばそれだけのことだった。私の感情は何処にでもある恋愛感情で、特段珍しくもなく、在り来りなものだったのだ。  だからなのだろう。その終わり方もまたよくある只の失恋であり、特段語るべきこともないようなものだった。強いていえばそれが告白という形を取らなかったことが、変わった点だろうか。想いを知られた紆余曲折は省くが、拒絶を告げられたのは伝聞によってだった。  まあそんな瑣末事はどうでもいいのだ。とにかく私は人生で初めて失恋をし、全ての行動に対する意味を失った。自分磨きをするのも、その人と共通だった趣味の知識を増やすのも、全部、全部その人の気を引き振り向いて貰う為でしかなく――だから、それらをする必要のなくなった私は、今まで我慢していた甘いものをこれでもかという程食べ、生活リズムを崩し、ひたすら怠惰な生活を送り続けた。  けれど、そこまでは別に良かった。いや、良くはないのだが――序の口ではあった。  先程伝聞によって失恋したと言ったが、その時伝言役をしていたのが当時仲の良かった少女だった。失恋してから暫くの間、私は彼女を介して彼と会話をした。彼女はいつも私の話を聞いてくれ、励ましてくれた――やがて私たちは、親友と言える間柄にまでなった。  そんなある日、彼女は私に言った。 「今まで隠しててごめん。実は私の好きな人――あなたと一緒なの」  その後彼女はこうも言った。 「でも私、あの人のことは譲る。今まで一番近くで聞いてて、どんなに強い想いであの人のことを好きか知ってるから」  その時私は思ったものだ――既に失恋している私をこんなに励まし、挙句自分の感情を抑えてそんなことを言えるなんて――彼女はなんて善人なんだ、と。  そして、程なくして――彼女は、その人と付き合い出した。  まず初めに抱いたのは、ああやっぱり、という至極真っ当な感想だった。元よりこの感情は誰かの為に抑えられるものなどではないのだ、口ではああ言ったって諦められないのは当然である。増して、誰かに譲るなど――出来る筈がない。私はそれを身をもって知っていたから、その行動に疑問を抱きはしなかった。  だがそれと同時に、私はこうも思った。  ――そう、この感情は、誰かの為に抑えられるものなどではない。だから、私があれ程までに身を焦がして望んだ、あの人からの好意を、優しさを、今一身に受けている彼女に、私が醜い嫉妬の情を抱こうとも――誰も、私を責めはしない、と。  それが許されることか否かは議論の分かれるところであろう。だが、許されるにしろ許されないにしろ私が彼女に嫉妬せずに居られないのは事実だったし、ならば、と開き直った私は、彼女に対し思いつく限りの悪口を尽くし、彼女が「内緒だよ」と言ったにも関わらず二人の関係を周りに言いふらし、クラスでも部活でも彼女の無視を続け――  そうして、私と彼女の関係は完全に壊れ、私と彼との関係もまた、壊れたのだった。  ――それが、天高い中秋の出来事だったのである。           ◇ 「…………感想いいですか」 「どぞ」  半眼になって言う後輩の口調には既に呆れが滲んでいて、感想を聞くまでもないのは明白だった。  きっと呆れ、幻滅したことだろう。女としての私にも、先輩としての私にも。でも、それでいい。――否、それがいい。下手に情を汲んで私を赦してしまう誰かよりも、こうして分かりやすく私に失望してくれるであろうこの後輩の方が、今の私には余程救いだ。  誤解のないように言っておくと、私は別に当時の行動を反省してはいるが悔いてはいない。例え過去に戻ってやり直すことが出来たとしても、私はあの時と同じ行動を取るだろう。この嫉妬という感情は、そういうものだ。私はそう思っている。 「何というか、その……まあ、女子怖いなぁとは思いました」 「そういう問題でもないと思うけどねぇ。私が重いだけでしょ」 何ということだろう。あろうことかこの後輩に、忖度とか配慮とかそんな言葉と最も縁遠いところに住むこの後輩に――気を遣われてしまったというのか。 「いえ、別に気を遣ってるとかじゃなくてですね。というかどうして俺が先輩に気なんか遣わなきゃいけないんですか」 「…………そりゃ随分有難い話だけどさ、後輩くん。どうしてかって言われれば社会一般的に君が後輩で私が先輩だからだよ」 「俺は年功序列とかいう都市伝説は信じてないんで」  ……この後輩が社会でやっていけるか、一介の先輩としては非常に不安だ。 「そうじゃなくてですね、先輩。もう分かってると思いますが、重いとか何とかそういうのは俺にはよく分かんないです。けど、感情を言語化するこの文芸部にいるくらいなんですから、嫉妬に限らず感情が強いのは当たり前なんじゃないですか? 増して、先輩のあの作風ですし。――それと、もう一つ」  後輩は言葉を切り、手に持っていた文庫本を閉じて真っ直ぐに私を見つめた。  ――吸い込まれそうな黒い瞳は、月の無い秋の夜を思わせた。 「先輩が秋に失恋したのは分かりました。秋になるとそれが思い出されて辛いっていうのも、何となくですけど分かりました。――でもそれって、その何時だかの秋って――今こうして文芸部で活動してるこの秋と、何か関係あるんですか? …………それなりに楽しくやってると、俺は思ってるんですけど」  そう言って、ふいと目を逸らす後輩。――それは、感情と季節情緒が結びつかないこの後輩だからこその、彼なりの思遣だった。  言われてみれば本当にその通りだった。数年前の失恋や後悔と、今この部室で淡い感情と共に過ごすこの時と――一体何の関係があろうか。増して、その淡い感情を向ける相手と、こうして毎日長机を挟んで他愛のない会話を出来て、しかもそれを彼は楽しいと言ってくれたのだ。あの日の失恋と後悔は物書きとして心の内に持っておくべき感情ではあるが、それとこれとはまた別――こんなふうに後輩と楽しく過ごす今を、大切にするべきなのである。 「後輩くん、ありがとね」  朽葉の香と共に冬に向かって澄んでゆく空気を吸い込み、吐き出す息で私は彼にそう言った。 「…………いえ、別に」  少し照れたように返す後輩の視線の先の窓の外には、秋茜が行く宛もなく彷徨っていた。  後輩は確かに感情を識っている。初夏の日に後輩本人はああ言ったが、それだけは確かなのだ。きっと、当人が思っている感情というものと実際の感情との間に認識の齟齬があるとか、そんな話に過ぎないのだ。そうでなければ、今日こんなふうに私に言葉をかけてくれることは出来ない。  きっと後輩は近いうちに感情を理解するだろう。その時彼の隣にいるのが、私でありたいのだ。何なら彼が感情を解るきっかけが、私であって欲しいのだ。彼の感情の中に私がいて欲しいのだ。  それが、きっと、もうすぐだから。  だから、その瞬間までは――。
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