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少年二人は半壊した、屋根の無いソリの中に居た。生憎の曇天のため、夕日が見えず正確な時間が分からない。レオナルドが父親に貰った懐中時計は騒動の最中に壊れてしまったらしい、どれだけ長く見つめていても針が動くことは無かった。 「あー、畜生……お前今どんくらいだか分からねえか?」 「日が落ちるくらいでしょ。今日はここで寝るのが良さそうだ」 サイロはそう言うと、天井を見つめた。暗灰色の空に明かりは無く、少しずつ動いていく雲が見てとれた。晴れる兆しは無さそうだった。 「野宿、するのかよ……」 「さっき言ったじゃん、覚悟しなよって。いい機会だから言っとくけど、君は色々直した方がいい」 そう言いながらサイロは先程荷物を詰めた麻袋の中を漁り始めた。がらがらごろごろと物が動く音がする。 「何だよ、あーお前まだ漁ってない荷物貸せ。お前よりは中身把握してるから」 「んー」 サイロの生返事に、レオナルドはもう抗議しなくなった。息を全部吐き出して、レオナルドは立ち上がろうとした。が、立ち眩みに襲われて座り込んだ。 「あー……くそ…………サイロ、荷物取ってくんねえか? 大分長く水飲んでないから、しんど…………」 確かにレオナルドは化け物の襲撃からほとんど水を飲んでいない。一度堪えきれずに綺麗な雪を選んで三回程口にしただけである。正直に言えば、雪を食べるという行為に対してレオナルドはかなり抵抗があった。それでも、口一杯に雪を詰め込んだ時のひんやりと口全体が冷たくなり、身体の熱が治まっていくのは心地よいと感じたようである。 「水? 雪でも食べてればいいじゃん。解かして水にすれば?」 レオナルドの葛藤なぞ知らぬと言わんばかりに、小馬鹿にした顔でサイロはそう言う。流石にかちんときた。 「あのな、普通そんな飲み方しなかったんだよ今まで! いきなり慣れろってか? 無理だっつの!」 「だから覚悟しろって言ったのに。それより、このよく分からない食べ物開けておいて、すぐ食べられるようにしておいて。三人分出しておいてよ。僕はこれからまたすることがあるから」 レオナルドの主張を聞き流し、ちらりとこちらを一瞥し要件だけ言ったら、サイロはひらりと身を翻して暗い曇天が写ったような雪原へと消えていった。声をかける暇も無い素早さに、レオナルドは思わず舌を巻いた。 「あいつ…………勝手過ぎるだろ………………」 レオナルドは怒りよりも、呆れや脱力感を感じずにはいられなかった。自分の要件ばかりを優先させるのは、レオナルドの父親に似ていた。ぐっと胸につまる物があったが、レオナルドは気付かない振りをして何も出さないように努めた。何故か出したら負けだという気がした。 レオナルドはする事も無く、手持ち無沙汰だった。だが、すでにサイロの指示に従うのは何となく癪にさわるので、食事の準備ではなく荷物の整理を始めた。 サイロが麻袋に移していない物には共通点があった。サイロが欲していた物がレオナルドに読み取れる程、はっきりとした線引きだった。サイロが必要だと判断した物は食べ物、水筒、布、燐寸、灯り等の旅に欠かせない謂わば日用品であった。彼からすれば、貴重な資料だったとしても必要の無い、どうでもいいものなのだろう。 レオナルドの頭に、ふっと何かがよぎった。が、それを彼は自覚していない。遠くで狼のような、犬のような遠吠えが聞こえた。 荷物の整理をすると言っても、大してする事が無いので、仕方なくレオナルドが食事の準備を始めた頃、雪を踏む音が聞こえてきた。ふい、と顔をあげると黒いぼさぼさの頭が見えた。 「何やってたんだよ。勝手に居なくなりやがって」 「はいはい。で、今どうなってるの」 「何がだよって……食事か。出来合いのやつがあるからそれだよ」 「そう」 サイロは短くこう答えると、樹海の方向へ向き直った。軽く口の両端で親指と人差し指を噛み、大きく息を吸う。 すきま風の音に似た者だった。静かな雪原に、低い指笛が風に乗って遠くでこだまする。 「お、おいいきなり何やって…………」 黙れ、と手で制されてレオナルドは黙りこくった。目に見えない何かで押さえ付けられたようだ。サイロの目は、蛇のような捕食者、というより強者の目をしていた。 (悔しいけど、こいつがやると俺よりもなんかこう……支配者って感じになるんだよな…………) 遠くで狼のような、犬のような遠吠えがした。既視感のようなものを感じて、レオナルドは考えを巡らせた。 一つ、二つと遠吠えが聞こえる。何かが吠える声が雪原を一気に不気味なものへと変えていく。レオナルドの背中を冷や汗がつたっていった。小さく地鳴りのような足音が聞こえた。 「な、なあ…………これって俺達まずいんじゃねえか!? おいどうすんだよ!」 「五月蝿いよ。黙って見てな」 怠そうに応えるサイロに、なら説明しろと言いたいのを唇を噛んで我慢した。この点では、レオナルドは今日この一日でかなり成長したと言えるだろう。 暗い雪原に吹く風は色々なものを連れてきた。地鳴りのような足音が近付いていた。足音の方向へ、よく目を凝らすと砂煙のよう雪が舞い上がっているのが薄く見えた。何かが近付いている。しかも、かなり大きいのではないか? まさか、あの化け物がまた来たのでは───? 交錯するレオナルドの思案とは反対に、サイロは真っ直ぐ前を向いて立っていた。凛としたその姿に、レオナルドは自分が情けなくなった。 (何なんだよ、この差……) 内心でレオナルドが剥れていると、何かに気付いたらしい、不意にサイロがソリの外へと出た。レオナルドが呆気にとられたのもつかの間、サイロを呼んで急いで彼を追った。 「おいサイロ! 危ねえんだから……」 「ご主人!」 「は?」 聞こえたのは男の声だった。おそらくこれは、レオナルドやサイロより少し年上のものだ。声の主をあたりを見渡して探す。レオナルドの視界の斜め上で、何かが跳び跳ねた。 「はあ!?」 影を視線で追うと、そこには大きな狼のような犬が居た。それ以外には何も居ない。消去法で考えると、声の主は一人(一つ?)しかない。 「ご主人、お呼びですか! 樹海の方の探索、してきましたよ!」 「あり得ねえ!!」 声を発していたのは、その大きな「犬」だった。何故かサイロをご主人と呼ぶその犬は大きな尻尾をぶんぶんと振っていた。一振りする度にぶおんと風が鳴った。 「お疲れ様、ノース。じゃあ食事をして、後はなんとかしよう。ああ、これ、今日から一緒に来るんだって」 サイロが軽くレオナルドを犬に紹介した。が、紹介とも言えないような雑さに少々呆れながらも諦めたのかレオナルドが改めて自己紹介をする。 「紹介雑だなおい! えーっと……ノース? だったっけか? 俺はレオナルド。ナクラの学者の息子だ。よろしく頼むぜ」 ノースと呼ばれた犬はかなり大きく、灰の混じった黒の毛で覆われていて、顔の部分だけが白かった。人懐こい色を浮かべた大きな瞳はくりくりと動き、嬉しそうに目を細めた。 「レオナルド! よろしく! 俺はご主人と一緒に旅してるんだ、仲間が増えた!」 ノースはそう言いながら飛び上がった。しかし、ひらりと着地した筈の所にノースは居なかった。ノースの代わりに居たのは、大柄だが顔立ちに幼さの残るレオナルドより少し年上に見える少年だった。「…………は?」 「どうしたんだ、レオナルド? ご主人、俺何すればいいの?」 想定外の事が重なりすぎた。レオナルドの頭の中は絡まってしまっている。仕方がないが、サイロとノースの空気を無視する力はなかなかのものだと言えるだろう。 「あり得ねえって! え、ノースお前獣人だったのかよ!? なら最初からそう言えっつの! 無駄に混乱したじゃねえか!!」 レオナルドが不憫に思えるのも仕方無かろう。 「そっか、驚いたのかー。ご主人、俺のことレオナルドに言って無かったんだな。じゃあもう一回言う! 俺は犬の獣人のノース! 名前はご主人につけてもらったんだ!」 サイロとは正反対の、愛想のいい獣人だった。人間の姿になっても残る耳はぴんと伸び、尻尾をしきりに振っていた。好青年という言葉がしっくりくる。サイロと正反対であるが、レオナルドとも全く違う少年だった。 「サイロが名付け親!? いやちょっと待て、あいつ化け物に鳥虎とか訳分かんねえ名前付ける奴だぞ? そんなちゃんとした名前、本当にサイロが付けたのかよ!?」 「そんな事言うな! 確かにご主人は適当に名前付けるし、俺も最初は犬男になるところだったけど、俺にとって大事なものになるからって、凄く沢山考えてくれた名前なんだよ!」 レオナルドは吹き出した。確かに不意討ちのように「犬男」と言われて笑わない人の方が珍しいだろう。いきなりレオナルドの喉から変な音が出て、ノースとサイロは驚いた顔をした。 「……なにその変な音。あと、食事何処にも無いんだけど」 「お前どこまでも……まあいいや。今日グェンで買った弁当があるんだよ、ほら本の下にあっただろ?」 「本? レオナルドは本読むのか? お前、字を読めるんだな、凄いことだ!」 怪訝そうな顔をしたサイロ、レオナルドが字を読めると分かり、尊敬するような視線を嬉しそうに向けるノース。レオナルドは困惑した。字を読めるのは彼にとって当然のことだ。ナクラでは小さな子供でも簡単なものなら読める。今までのレオナルドの生活には欠かせないものだったのだ。 しかし、この反応ではおそらくサイロもノースも字を知らない。読む必要が無かったのだろうか? いや、学ぶ機会に恵まれなかったというのが一番相応しいだろうか。 (こいつら、俺の想像出来ない人生だったんだ……逆に、今までよく生きてられたな) 「本………………」 尻尾を振り回すノースとは反対に、サイロは真剣な顔をして本を探していた。彼の様子から察するに、本の概念は知っているらしい。レオナルドはそれも不思議に思った。 「その袋貸せ…………ほら、あっただろ?」 レオナルドが取り出した弁当は注意書きの書かれた紙にくるまれた直方体の箱だった。何も知らないサイロから見れば、弁当だとは分からないだろう。 「……………………」 サイロは何も言わない。主人を案じるようにノースはサイロを見ていた。サイロの金の瞳は鈍い色をたたえ、写していて何も写っていないようにレオナルドには思えた。 「四人分あんだよ。全部食っちまわねえと悪くなるから、全部あけるぞ」 レオナルドは何も言わない方がいいと思った。何を言ったとしても誰も助からないと、何となく分かった。これの名前が「気遣い」だと、レオナルドは知らない。 「食事にするのか!? 弁当ってなんだ? 旨いのか?!」 「これは旨いぜ。グェンの家庭料理で、名前は……何つったかな。米と、小麦粉を水を練ったやつに茸と野菜を入れて蒸しながら炊くみたいな感じで作るんだ。かなり腹持ちいいから明日の朝何も食べなくても動けるぜ」 「ふうん……君、これ作れる?」 「無理に決まってんだろ」 「威張らないでくれる? 調理はやっぱり無理か、仕方ない……」 「ご主人、これ! 俺今までこんなの食べたこと無いよ!」 「早えなお前! 何時開けた!?」 「今!」 レオナルドが今まで経験した中で最も賑やかな食事だった。それがこれからのことだと思うと、何故か胸があつくなった。夜が少しずつ更けていった。 レオナルドが目を覚ました時、世界は冷気と闇で包まれていた。荷物からサイロが引っ張り出した毛布は柔らかく暖かい。出来ることならこのままずっと毛布に覆われていたいともう一度くるまり直すと、不意に影がかかった。 「レオナルド、起きたのか。もうご主人移動の準備してるから、レオナルドも早く毛布から出て!」 影の正体はノースであった。顔の部分の毛布を剥がされ、少々不機嫌であったが、あまりにも悪気の無い顔をしているため、毒気を抜かれたようである。 「まだこんなに暗いじゃねえか……しかも滅茶苦茶さみいし……もう少し寝ててもいいだろ?」 毒気は抜かれたものの、反論の一つはしたかったらしい。寝惚けた声には張りが無く、普段の威勢はおろか、五月蝿さも感じられなかった。 「駄目だよ、だってもうご主人は荷物まとめたんだから! このソリっていうのも少し解体して使うからレオナルドがそこに居ると邪魔だかんな!」 「おいちょっと待て」 寝惚けていた頭がノースの言葉を聞いて急速に冴えていく。レオナルドにとって「解体」はなかなかに衝撃的であった。 「お前解体するっつったよな?」 「言ったぞ! ご主人がこれ解体して使うって」 「……木材にでもするんだったらいらないと思うぞ………………」 「何でだ? 使うのに」 「俺からすればお前らが何での塊だっつの……」 昨日作った、ソリの屋根だった木材を思いだし、少々げんなりしたレオナルドに、ノースは不思議そうに首を傾げる。小さな子供にしか許されなさそうなその仕草が妙に似合っていた。 レオナルドは空を仰いだ。昨日よりは薄い灰色の空。ゆっくりと動いている雲が見えた。不意に冷たい風が吹いて、レオナルドはぶるりと頭を振った。 「ねえ、起きてるんだったら早く退いてくれない?」 「うわっ」 何の気配も感じなかった真後ろからその声が聞こえた。驚いたレオナルドの身体が僅かに宙に浮いた。慌てて振り向くと、呆れたような色さえも無い、無の表情をしたサイロがソリの外に立っていた。レオナルドは逆に何も無い方が傷つくこともあるものだと学習した。 「お前、驚かすなよ……。それより、このソリ解体するってどういうことだ? 一応契約者の中に俺入ってるんだけど」 「そんなの僕が知ってる訳無いじゃん。どうせこのままなら使いにくいんだから変えた方がいいでしょ。何時も以上に荷物があるからこれ使わなきゃ進めないし」 サイロは移動しながらそう言った。運転席に正面から入る。何かごそごそと探り始めた。 「動かしたいのか? でもこれ多分無理だぞ。発条のソリだから発条壊れてたら使えねえんだよ」 「はつじょ……?」 レオナルドの言った通り、彼のソリは発条の動力で動くそれであった。伸びたり縮んだり、元に戻ったりする時に生じる力で進む。しかし、今となっては発条が上手くはまっておらず、もう手動でしか動かない。 「発条って、あれだよ……えっと、ばね。でもな、このソリ凄いんだぜ? 犬ソリってあるだろ? それみたいにも出来るんだ。ただな……重いから何匹も犬が必要だから俺らには無理なんだよな」 ノースは得心がいかないように不満そうな顔をしていたが、サイロは何故か納得したらしい。どうして知っているのだろうかとレオナルドが不思議に思っていると、おもむろにサイロはこちらを向いた。 「ふうん、犬ソリねえ…………それより、そこ降りてくれる? 君もだよ、ノース」 その手には昨日のものよりは一回り程度大きい鋸があった。無表情でそれをかざし、二人に降りるように促す。それは脅しにも受け取れるものだった。 「ひいっ」 「分かったご主人! レオナルド、降りるの速いな。なら俺はこうする!!」 サイロに怯えて飛びさすったせいで引っくり返ってソリから転げ落ちたレオナルドに向かってノースが飛び付く。飛び付かれた側としてはたまったものではない。ぼすんと雪が舞った。 「ねえ、これ連れて樹海までもう一度行ってきてくれる? それまでには片がつくから」 「はあ? 片がつくってお前何するつもりで……」 「分かった、【溜まり場】まで行ってくる! ご主人、すぐに帰ってくる。行こう、レオナルド! よいしょ!!」 「頼んだよ」 相変わらず、レオナルドの知らない話が目の前でついていく。秘密なのか、まだ信用されきって居ないのか。レオナルドは一抹の不満を感じた。反論のために口を開こうとしたら、首筋に毛が当たる擽ったさの後に浮遊感に襲われた。犬の姿へと変わったノースがレオナルドを背に乗せたのである。サイロもノースも、レオナルドの扱いが非常に雑である。主人と使い人はここまで似るものなのか、レオナルドにとって甚だ疑問であった。 「お前ら……説明くらいうわっ」 レオナルドが怒鳴ろうとした次の瞬間、ノースは走り出した。冷たい風を切り、雪原を力強い足取りで雪を舞わせながら進む。ソリが徐々に小さくなっていく。ノースの背はかなり揺れ、体幹の無いレオナルドが安定するように座るのは難しかった。 「反論くらいさせろっつのーーーー!!」 彼の心からの想いが雪原に響いた。 冷たい空気を切り裂いて進むノースに、レオナルドはしがみつくだけでやっとだった。舌を噛まないように、何時もならよく回る口はしっかりと閉じていた。もうソリとサイロの姿は見えない。雪原を駆け抜け、樹海に突入しているのだから仕方なかろう。楽しげに走るノースとは反対に、レオナルドは少し吐き気を覚えていた。ノースが地を蹴る度、振動で身体が大きく揺れる。臓器が引っくり返ってしまうのではないかとレオナルドは半ば本気で案じていた。 「……ちょ………………ノ、……ス」 必死の想いで捻り出した声は頼りない、細く何時もよりもかなり掠れたものだった。それに色気があるとは誰も感じないあたりが彼らしいのかもしれない。流石に何か不味いものを感じたらしい、ノースは少しずつ速さを落とし、細い川のほとりで止まった。 「どうしたんだレオナルド? 元気無いな」 「速すぎ、んだよ……気持ち悪い…………」 レオナルドは馬車を思い出した。あれに初めて乗った時も、こんな風に内臓が引っくり返る思いをしたのだ。彼は揺れる乗り物に全くと言っていいほど向いていないらしい。 「情けないぞ、レオナルド! ご主人はもっと速く行けるか聞いてくるぞ!!」 「あいつもう同じ人間じゃねえ…………てかここ何処だよ」 何時もよりも高く情けないが、生気が戻ってきた声。自分の周りの環境について考える元気も戻ったらしい。 レオナルドは空を仰ごうと上を見た。しかし、天に向かって伸びる黒い枝、冬でも残っている葉に遮られ、天上は何も見えない。また夜に放り込まれたようだ、と彼は内心で一人ごちた。 「樹海の中だぞ。まだ入ったばっかりだし、何も無いな。獣の気配もしないし、休憩したらレオナルドも歩くか?」 「歩く、なあ…………ノース、この川の上流の方に向かえるか?」 細く、細く流れる小さな川。レオナルドはそっと手を伸ばして水に触れた。 「冷たっ……」 「そりゃそうだな! この川はな大川って名前があって、前ご主人と来た時につけたんだ。そのじょうりゅう? って方は凄く大きい川だぞ!」 「ちょっと待てその安直な名前」 レオナルドは段々と予測がつくようになっていた。サイロは名前をつけるのが下手くそらしく、鳥虎、犬男、大川と雑な名前しか思い付かないようだ。反対にレオナルドはやたら仰々しい名前を付けたがるので、ここでも正反対と言ってもいいだろう。 「分かれば何でも大丈夫だって、ご主人が言ってたんだ…………あ、レオナルド来るぞ」 「何がだよ…………って、冷た!!」 レオナルドの首筋に何か冷たいものが降ってきた。防寒のために大袈裟に巻いた襟巻きも意味をなさなかったらしい。 「だから言ったのに。ご主人なら避けたぞ」 「あいつもう人間じゃねえよ、一緒にすんな!分からねえからな、お前ら何がどうなるくらいちゃんと言え! そんなとこ似るんじゃねえ!」 かなり積もった雪の重みに耐えかねた枝がしなり、落雪する。周りをよく見ると、同じ事があったらしい形跡が数多く見つかった。レオナルドの不注意さも原因の一つなのだが。 「犬は主人に似るものだから、俺がご主人に似るのは仕方なことなんだぞ!」 言葉だけで聞けば随分と尊大な飼い犬だと思われるが、それを言うノースの顔は嬉しそうに綻んでいた。サイロに似ていることは嬉しいのだろう、尻尾も機嫌良さそうに振り回している。 「そうかよ。で、何処まで行くんだ? 確か【溜まり場】とか言ってたよな?」 ノースに振り回されながらも、レオナルドは考えていた。彼らが言う溜まり場とやらは何なのか。出した結論は合っているのだろうか。 「お前らの拠点、【溜まり場】なのか」 「そうだぞ! 【溜まり場】の見回りしてご主人のとこに帰るつもりだ」 「だからそういうのは俺にも言えっつの! 取り敢えずこの辺り散策してもう戻ろうぜ。背中乗せてくれ、もう気分は落ち着いたんだ」 冷たい風は樹海を自由に吹き抜ける。弄ばれる髪をレオナルドは軽く押さえた。この風の吹く方向には何があるのだろうか。そちらへとレオナルドを案内するように身体の向きを変えたノースの背に、慎重にまたがった。 ゆったりとした歩みで樹海を進むレオナルドとノース。彼らの周囲の木々は少しずつ異形のものへと姿を変えていたが、彼らはそれに気が付かなかった。ノースにとっては異形が「普通」であり、判断する術を持たなかったし、レオナルドには周囲を観察するだけの余裕が無かった。 「なあ、【溜まり場】って一つしかないのか?」 「樹海の中に沢山あるぞ。その中でも一番大きい【溜まり場】に行く」 異形の木々は少しずつ禍々しさを醸し出していた。異常な雰囲気をやっとレオナルドは感じ取ったのである。 「絶対【溜まり場】に行かなくちゃいけないのか? や、止めておこうぜ。嫌な感じがするし、サイロいねえし」 積もる雪は深くなり、ノースの逞しくも毛に覆われ、触りたくなる脚もしっとりと濡れている。いつか二人とも埋もれてしまうのではないかとレオナルドの頭の中で警報が鳴り響いていた。そんな緊張しているレオナルドとは反対に、ノースは意気揚々と進んでいた。 「いや、大丈夫だ! 今は【溜まり場】の近くまで行ったらご主人のところに帰るから!」 「……そういう意味じゃねぇんだよな。まあ、言うだけ無理だろうな」 レオナルドが項垂れても、ノースがその顔を見ることは叶わない。諦めをレオナルドは今まで知らなかったが、この短期間で驚く程身に付いてきていた。彼自身、その事実に気付いていないが。 「……なあ、どうしてお前はサイロのことご主人って呼んでるんだ?」 「どうして……」 会話が途切れ、樹海に静寂が戻った。レオナルドは静寂が苦手であった。耐えきれず、前々からの疑問を問うた。珍しく歯切れの悪いノースを、レオナルドは不思議に思った。 「うー……仲間になるんだもんな、レオナルド。知っておいた方がいいのかな」 「本人に聞いちゃ不味いことだったら知っておいて損はねえ。あいつが聞かれたくないことだったら尚更、な」 渋るだけの理由はある。しかし、サイロ以外の誰もが知らない訳ではない。ならば、俺も知っていいだろう、そうレオナルドは思った。時折見せる、彼の闇に繋がっているのなら、知る義務があるように感じたのである。サイロの言った「彼らに必要な知識」を求めてレオナルドを引き入れたのなら。 「分かった、けどご主人には俺が言ったとか知ってるとか言わないでくれよ? …………俺とご主人が最初に会った時、俺は名前が無かったし、ご主人も知らなかったんだ」 「名前が、無い?」 レオナルドの知っている「普通」とはやはり離れていた。子供が生まれてから半月程にはもう名前がついているのが、彼の知る常識である。名前を付けなくても生きていたという状況が読めずにいた。 「そうだよ。もうどれだけ前になるのか分からないけどな。ご主人も俺もまだ小さかった。……ご主人は二つだけ、名前になる言葉を知ってたんだ。その片方の、ご主人が理解出来てた言葉を俺にくれたんだ」 「お前達、そんなに前から知り合いだったんだな……」 レオナルドは一つ仮説を立てた。が、直接聞くことは叶わないだろう。それをすることを彼自身望んで居なかった。薄々感じ取っていた、サイロとノースの学の無さ。二人とも、幼い頃からこの過酷な生活をしていたのだろう。突っ込んで聞くのは憚られた。 「うん、その時からご主人って呼んでる……この話、終わりにしよう! この川、大きくなったろ? もうすぐで【溜まり場】だ! 目的は達成したし、ご主人のところに帰ろう」 「あ、ああ……そうだな」 無理に何時もの調子を取り戻そうとするノースに、レオナルドは申し訳なくなった。聞かなかった方が良かっただろうか、レオナルドはもう後悔をし始めていたが、ノースの表情には気がついて居なかった。 「思いっきり走るから、レオナルドしっかり掴まっててくれ! 早く帰ろう!!」 晴れ晴れとしたような顔をして、ノースは力強く雪原を駆け始めた。 樹海を抜け、レオナルドとノースはソリの元までたどり着いた。そこには、何故か朝見た時よりも一回り以上小さくなっているように見受けられるソリと焚き火をするサイロの姿があった。 「ご主人、ただいま! 【溜まり場】に異常は無かったぞ」 「そう、お疲れ様。軽くこの肉でも食べて、何時でも出られるように支度してくれる? 君もだよ」 「お、おう」 先ほどサイロの知らないところで聞かなければ良かったかもしれないことを聞いた、という思いでレオナルドの態度はよそよそしかった。そんなレオナルドの気持ちなどサイロが知っている訳が無い。反応が鈍いレオナルドに、サイロは訝しげな視線を向けていた。 「君、大分おかしいけど何か異常でもあったわけ?」 「何もねえよ……」 仕方ねえだろ、と小さく口を動かした。サイロが気がついた様子は無い。最も、知られても彼にはどうしようもないのだが。 三人は、サイロが用意していた肉で食事をすることにした。凍らせて腐敗を防いだものを焼いただけの簡単な食事である。昨日の夜の食事とは全く違い、静かな食事だった。一心不乱に肉にしゃぶりつくノース、秘密を勝手に暴いた後ろめたさからなかなか話しかけられないレオナルド、用件が無ければ全く口を開かないサイロ。ここまで無機質な食事は、レオナルドには初めてのものだった。早く終われ、と呪いのように心の中で唱え続ける。そんなレオナルドの気持ちを嘲笑うかのように、硬い肉を嚥下することは難しく、長い長い食事の時間を三人は過ごしていた。 「レオナルドレオナルド! 早く食べ終われ、肉いらないんだったら俺が食う!!」 「お前が食いたいだけだろうが!」 一番早く食事を終えたのはノースだった。身体の大きな彼は、サイロから一番多く肉を貰っていたはずだったのだが、一番少ない量を食べていたレオナルドよりかなり早く食べ終えたのだ。肉と格闘しているレオナルドを見て、もっと食べられるかもしれないと思ったのだろうか。勢いよく話しかけてきた。 「君の名前って、仰々しいよね」 レオナルドとノースが肉をめぐって争っていると、全く関係のない、脈絡の見えないことをぽつりとサイロがこぼした。 「人の名前に向かって何なんだお前!……って、ノース、お前肉返せ!」 「もう飲み込んだから返さないぞ!」 「早えよ、ちゃんと噛め!!」 「親なの?」 レオナルドの残っていた肉は、ノースの胃に収まってしまった。サイロも最後の一欠片を飲み込み、最後だけ賑やかだった食事の時間は終わった。気まずさは溶け、暖かな時間だった。 「食べ終わったんだったら、もう行こうか。時間はあまりかからない筈だから、大丈夫だと思うけど。ノース、あのソリ引けるか試して」 ノースはサイロの指示を聞くと、嬉しそうに立ち上がり、突撃と言っても過言ではない程の勢いでソリの周りを走り出した。犬の獣人らしく、彼はサイロにとても従順であった。 「仰々しい名前ねえ……サイロって名前、俺の知ってる言葉に似てて、いい名前だと思うぜ?」 始め、サイロはレオナルドが何を言い出したのか分からないような顔をした。いい名前、と口の中でその言葉を転がす。不意に顔を真っ直ぐにあげ、こう言った。 「僕はこの名前よりも、何よりも綺麗な名前を知っている」 サイロの言葉はレオナルドにとって、あまりにも意外過ぎた。サイロが歯の浮くような台詞を言うなど、誰が想像できたのであろうか。唖然としたレオナルドをおいて、サイロは颯爽と歩き出した。数瞬の後、気が戻ったレオナルドは慌ててサイロの後を追いかけた。 レオナルドが知っている橇は何処にも無かった。一回り以上小さくなり、外れた筈だった発条がはまったのか、ノースが犬橇のように引かなくても走る。縦幅は三分の一程度に、横幅は五分の一程が削れていた。樹海をこの橇で無理矢理にでも進むためには、小さくしなければならなかったとサイロは説明した。が、所有者であるレオナルドには、致し方ないと分かった上でも一抹の不満が残った。自分の所有物を勝手に改造されれば誰だって怒るだろうが、と思ったようだ。 「レオナルド、まだ肉食ったこと怒ってるのか?」 「怒ってねえよ……」 不貞腐れたレオナルドの顔色を、ノースは伺っていた。隠すということを知らない彼らしく、率直に聞くのだ。一方でサイロは何も知らぬ存ぜぬというように橇の運転席に座っていた。癪に障るほど黙々と仕事をする大人のような姿勢が似合っているのが、とても腹立たしかった。 「うーん……まあいいか! 【溜まり場】に行く前には機嫌直してくれ!」 「機嫌悪くなんてねぇって……つか、【溜まり場】行って何するんだよ。俺何も知らねえぞ」 「俺達は特に何もしないな。【溜まり場】に着けば全部大丈夫だ!」 「そうか。…………さっきからずっと思ってたんだけどよ。この橇なんでこんなに速く走ってるんだ? 俺の知ってる限りでは、こんなに速い筈が無いんだけど」 サイロは器用に木々を避け、橇は先程レオナルドとノースが一休みをとった場所をさっさと過ぎていった。発条が壊れた筈の橇が何故速く走れるのか、レオナルドには理解出来なかった。 「さっきご主人が、ずれてたはつじょうってやつ無理矢理入れたら入ったって言ってただろ?」 「無理矢理入れた!? そんなことやったら発条今度こそ壊れるっつの! 迂闊に触れたものじゃねえぞ!?」 「それは僕も知ってる。一回飛ばされたから」 「危ないことしてんなお前! そんな実体験に基づいた結論なんか知りたかねえ!」 サイロの言葉にレオナルドが噛みつく。普段は静かな筈の樹海は賑やかであった。しかし、三人の他に生き物の気配は無い。それにレオナルドは気が付いて居なかった。 橇はどんどん進む。樹海の奥に進むにつれて、木々の間隔は狭くなっていく。絶妙に小回りを利かせ、異形をかわしていく。レオナルドはこの時初めて、周りの木々が異形だと気がついた。樹海の不気味な雰囲気を作り出しているものの一つはこれだとレオナルドは確信した。それは紛れもない、彼が初めて「自分で見つけた」発見であった。 しばらくして、サイロ曰く「大川」の川幅がぐんと広くなった。【溜まり場】はもうすぐだと言う。その辺りは、「異形」で溢れていて、レオナルドは不気味さに負けそうになっていた。耐えきれず口を軽く開いた瞬間、橇が大きく縦に揺れた。衝撃がレオナルドの身体を走る。前につんのめったレオナルドが顔をあげた時、彼の視界は茂みの葉で埋まった。慌てて顔を伏せたが、半開きだった口に二、三枚葉が入り、血の味こそしないが口の端がひりひりとした。 「サイロお前、ちゃんと操縦しろっつの! 俺の橇壊れるし俺も怪我するだろうが!」 「ちゃんと操縦したからここまで来れたんでしょ。ここが【溜まり場】なんだから」 レオナルドが顔をあげると、明らかに異質な空間が広がっていた。周りの樹海には見られない茂みで囲われた円形の、橇が二三台置ける大きさの空間。伐採でもしたのだろう、切り株がちらほら残っていた。人の手が入った、ここで幾日か過ごすための場所なのだろう。 周囲を観察するレオナルドなど眼中に無いように、サイロは橇から荷物をおろしていた。ノースは広い場所に出られて嬉しいらしく、茂みに沿って走っていた。レオナルドは上空を見た。ここだけ空が見えるように拓かれている。曇っていて薄暗いが、樹海の中よりも遥かに明るく、それがとても嬉しかった。太陽は今どこにあるのだろうか。長い間、時間を把握していなかったことにレオナルドは今気がついた。 「橇から降りてくれる? 早く行かなくちゃいけないんだから」 動くのが遅いレオナルドに苛立ったのか、それともよほど急いでいるのか、サイロはそう急かした。声色が何時もよりも冷静さを欠いているような気がした。レオナルドには解せなかった。 「行くって、何処にだよ。【溜まり場】にだって今着いたばかりじゃないか」 「…………僕には上手く説明出来ないから、行った方が早い」 サイロは思っていること、知っていることを上手く言葉に出来ないことに歯痒さを感じた。ノースには簡単に通じるのに。今まで通りに過ごすには、レオナルドはあまりに彼らの生き方を知らなさすぎた。 レオナルドから離れ、【溜まり場】の中央に立つ。一つ頭を振って唇に指を当てる。レオナルドに何か呼ばれた気がしたが無視をした。胸いっぱいになるまで息を吸い込む。冷たい空気がサイロの身体を満たす。少し力を込めて、高く、高く音を鳴らした。森の様子が変わる。樹海は一度変化を止め、また新たに変化を始めた。それは先程までとは種類の違う変化だとレオナルドにも分かった。樹海に風の音が響く。サイロを中心に、風が渦巻いていた。 「何だ、これ…………お前今何やったんだよ!」 「大丈夫だレオナルド! 風が凄く強く吹くから、俺に掴まってて。これから、人に会いに行くんだ!!」 「人? それって……うわっ」 不意に風が強くなった。布がはためく。木々の千枝がしなり、唸り声をあげる。橇が悲鳴を出し、板が飛んでいく。暴風という言葉がふさわしかった。レオナルドは今までにここまで強い強風を感じたことは無かった。毛根が弱い訳ではないが、まさに髪が根こそぎ抜けていくような暴風であった。 目など開けていられなかった。何処からか雪が舞ったのだろう、冷たいものが顔にかかった。驚いてノースから手を離しそうになったが、慌てて力を込めた。 「何だ……よ、これ…………どうやって……人に会いに……行く…………んだよ」 風に邪魔されて、話しにくい。途切れ途切れになってしまう。 「迎えが来る。だからもう少し待って」 「迎え…………?」 レオナルドは慎重に薄目をあけた。サイロは相変わらず粗末な服を翻しながら凛と立っていた。視界がさらに白む。 風の後ろに何か見えた気がした。 「ほら来た…………行くよ、宙人の里に!!」
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