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プロローグ  預言なるものを信じる信仰心《篤|あつ》い善人から、天に唾する極悪人に至るまで、世界中の人々が固唾を呑んで見守る中、如何なる災いも起こらず1999年は静かに過ぎ去った。しかしその年を境に、それまで順調に進化し続けていたかに視える太陽系内に、不可解な異変や大災害が起こりはじめた。地球上の自然界はいうにおよばず、人々、社会および国家に最初の兆候が顕われた。同人種間、異人種間さらには国家間に紛争が絶えることはなく、人類は自ら首を締める愚を犯していながら気づかず、社会全体にジワジワ浸透してくる喪失感、無力感が人々を不毛な精神状態へと追いやっているのに誰も気にも留めなかった。  人々を《蝕|むしば》む疎外感は特に若年労働者の間に蔓延、行き場を失った若者は、生死を《彷徨|さまよ》う重症患者の精神的麻痺よりも遥かに危機的な状況にあった。仕事に倦み疲れた勤め人は無気力に陥り、夜遅くまで《虚|うつ》ろな眼つきで歓楽街を徘徊した。《凡|あら》ゆる権限から締め出しを喰らった一家の主には、 会社内にも家庭内にも居場所はなく、ただ虚ろな眼差しで辺りを睥睨するのみだった。民意を代表する為政者に実行力はなく、《徒|いたず》らに引き伸ばしを図り、責任逃れするばかりで、打開策を見出す気力の《欠片|かけら》すら持ち合わせてはいなかった。案山子ほどにも役立たない為政者を選択した有権者もまた、自分自身を救けることすらままならず、何の行動をも起こすことなく諦め切っていた。  精神的劣化が起こりはじめたか、己れを《貶|おとし》め《蔑|ないがし》ろにする等、愚かしい限りを盡くしながら人々はなんら反省しなかった。原初よりDNAに欠陥を持つ人類は、己れを救うことすらできない。他者を嘲り疎んじるは精一杯の抵抗、束の間の快楽に溺れる愚かな行為は魂を《攫|さら》おうと待ち構えるサタン の罠、快楽のあとに襲いくる嫌悪感、虚無感は信仰心を喪ってしまった人々の頭上に振り降ろされる神の鉄槌――か。いよいよ、最期の審判が降る日が近づいてきたのだろう。小心者の善人はもちろん極悪非道な悪人すら、一縷の望みにしがみつく――「天は自ら救けるものを救く」が真理なら、自ら救かろうとする者には神からの恩寵があるかも知れない。  天空全体に金属を引き裂くような鋭い音が雷鳴の如く轟き、激越な震動が天地を揺るがし、極寒の夜と灼熱の昼とがめまぐるしく変転した。やがて深宇宙に直径数万光年に達する超巨大な光の渦が発生、《恰|あたか》もドラゴンさながら《蜷局|とぐろ》を巻きながら拡散し、《目眩|めくるめ》く光の触手を延ばして行った。光の渦は島宇宙を次々に呑み込みながら膨張を続け、銀河系宇宙の外縁部に到達、さらに中心部へと向かった。 一  不覚にも呑み過ぎた挙句に、受像機を點けっ放しにして眠り込んでしまつったらしい。民放で流す広告の音声が聴こえてくる。けたたましい笑い声に続いて、電話の呼び出し音が響き、女歌手の《嗄|しわが》れ声が呼び出し音を追い駈ける。1、2秒の間をおいて、けたたましい笑い声に続き、電話の呼び出し音が響く。さらにその後を、女の嗄れた唄声が追い駈け、まるで磨り減ったLPレコードが空回りして、同一箇処を際限もなく再生しているようだ。  朦朧とした頭を両手で抑えながら、立ち上がる間もなく《蹌踉|よろ》めいて椅子諸共その場に倒れ込み、前嶋秀一は悪態をついた。受像機は點いていなかったし、騒々しい音声もいつの間にか掻き消えていた。三十四歳になる秀一は産業機械を扱う中堅商社に勤めていた。四年前になにを想ったか、管理職の椅子を部下の《郡司兵太|ぐんじ・ひょうた》に譲ってしまった。秀一がなぜ勤務先での地位を放棄してしまったのか、ひところ社内で《喧|かまびす》しく取沙汰されたことがある。しかし、本人はいたって無頓着で、私語や噂話にはまったく気にする様子はなかった。窓際族だって満更捨てたものではない――それが持論だった。  また、一度離婚を経験して以来独身を通していた。独身であることに格別の感慨もないようで、これも無頓着な性格のなせる技なのだろう。ウイスキーの水割りを呑みすぎたか、とんだ不覚だった。《蹌踉|よろ》めいた拍子に、想いっ切り椅子に打つけた向こう脛をさすりながら、騒音の出処と覚しい方向に注意を向けた。呼び出し音とばかり想ったのは訪問者の押す《電鈴|でんれい》だった。  夜の九時すぎに一体誰が――怪しい奴なら容赦はしないなどと、独り言を言いながら右足を軽く引き摺るようにして玄関へと急いだ。灯を《點|つ》けて錠を外すと同時に《把手|とって》を回して、おそるおそる戸を開けた。血の気の失せた《貌|かお》と対面し、一瞬ギクリとしながらも薄暗がりに佇む若い女をよく視れば、そ れは《吉嵜杏子|よしざき・きようこ》だった。杏子は地方の高校を卒業して、大手金融機関に職を得たが、一年も勤めない中に辞めてしまった。今はベンチャー企業で、幼児向学習ソフトウエアの開発に従事、四苦八苦しながらも充実した日々を送っていた。  秀一が杏子を知ったのは、杏子が金融機関の受付にいた頃のことだ。ある夜、裏通りにある小さな居酒屋で偶然に出会ったのをきっかけにして親密になった。当時、杏子はまだパーソナル・コンピュータを使いはじめたばかりらしく、ソフトウエアに関する素朴な質問で同席者を湧かせた。その元気溌刺としていた杏子が今や、がっくり肩を落とし、意気消沈した様子で秀一の前に立っていた。  「秀一さん一晩泊めて欲しいの、おねがい」  青ざめた杏子の顔色から窮地を察した秀一は、無言のまま小刻みに身体を《顫|ふる》わせている杏子を居間に通した。なにか想像を絶するような経験をしたのだろう――ソファに座るのもやっとのようだった。秀一は恐怖が背筋を這い上ってくるのを覚え、全身を《戦慄|わなな》かせた。  「ブランデーを呑んでみたら……少しは元気出るんじゃないかな」  人一倍臆病な秀一は内心の動揺を気取られまいとして、必要以上に明るい口調を装ってはみたものの、グラスにブランデーを注ごうとする手はどうしても《顫|ふる》えた。  「シングル、それともダブルにしようか」そういいながら、秀一はブランデーを注いだグラスを杏子に手渡した。杏子はグラスに口をつけては《噎|む》せ、口をつけては噎せながらも、さらに口をつけて三度目に激しく咳き込み、口許をハンカチーフで押さえながら身体を小刻みに顫わせて泣いた。  「変な夢なんて視ることあるのか」  「視るわ、とっても奇妙な……」  「どういった夢を」  杏子はしばし《躊躇|ためら》っていたが意を決したように話しはじめた。  「外国のどこかにある石造りの大きな図書館、その図書館の中で書棚に立て掛けた梯子に登り、何か難しい本を探している……私は中年の男性で、伍代というジャーナリストなの」  「うんうん」  「梯子に乗っかったまま、夢中になってある本を読んでると、梯子に誰か《躓|つまづ》いたような音が聴こえ、次いで悲鳴が……若い白人女性の悲鳴が聴こえ、気がついたらその女性の脚の上に落下していたの」  「ふーん、なんだか奇妙な夢だな」  「秀一さんは」  「ああ、夢ならひっきりなしに視るよ。いつぞやのなんか、妙ちきりんこの上なしだったな」  「どんな」  「夢の中ではヴィートロスキとかなんとか、サイボーグらしい私立探偵なんだ。モータ・サイクルで2体のグロテスクなロボットを追跡中に、マシン諸共断崖かビルの天辺からだろうか落下し、爆発炎上したマシンの炎が身体に燃え移り……まるで煉獄にでも堕ちた気分だったな。救いようのない酷い夢だった」  「ふーん、変な夢ね」  「夢なんて、大なり小なり荒唐無稽で、奇妙奇天烈なもんだよ。どう、少しは落ち着いてきた?何があったか話してみて」  「最近、気味の悪いことが毎日のように起こるの」杏子はそこまで話し、自分を励ますかのようにブランデーを一口呑むと続けた。「夜中に天井裏をなにかが這いずり回るような気配がしたり、壁がまるで 亀裂でも入ったかのように裂ける音を立てたり」  不気味としかいいようのない話はなおも続いた。雨のシトシト降る陰気な夜、杏子は入浴後、椅子に腰掛けて《転寝|うたたね》をしていた。やがて何処からともなく風に揺れる、風鈴のたてるような音が聴こえてきた。その音は杏子の方にじりじりと近づき、いつしか人の呻き声に変わった。呻き声はうしろに回り込 み、しばらく留まっていたのちに耳許に《躙|にじ》り寄ってきた。同時に死臭が辺りに立ち籠め、杏子は咳き込んで床に倒れ臥し、身体を激しく痙攣させて悶えた。呻き声は死臭を伴って前へと移動、元きた方向にじわじわと戻って行き、やがてふっつりと消えてしまった。杏子は我に返り、椅子に腰掛け《凝|じ》っとしている自分に《愕|おどろ》いた。一体なにがあったのかしばらくは《憶|おも》いだせなかった。  そして休日明けの憂鬱な月曜日、幸いにして仕事が順調に捗り、退社後同僚四人と外食をすることになった。同年代の女性ばかりとあって話題は盡きそうになく、杏子は切りのよい処で同僚と別れて帰宅した。杏子の住むアパートメントは中庭を囲み、六角錐の頂点を斬り取った奇妙な造り――六角塔のような形状をしていて、広い中庭から2階に通じる階段を上がり、回廊を通って各室に出入りできる構造だった。充分な容積があるにも拘らず、一階部分に居住用の部屋は存在しなかった。また中庭のほぼ中央には、巨大な《欅|けやき》と覚しい樹木が一本、建物全体を覆うようにして生い茂り、夏の強い日差しを遮っていた。  秀一は、杏子の引っ越しを手伝った日を回想した――アパートメントの外壁は白煉瓦を貼り付けたように視えたが、煉瓦の内側がどのような材質なのかは不明だった。ドアは金属製で、かなりの衝撃にも耐えるだろうから、保安面ではなんの心配もなさそうで、独身女性に人気が高いのはそのためだろう。ドアを明けて中に入った途端、一部屋ながら想像以上の広さには《愕|おどろ》いてしまう。家具や書棚で室内の間取りを自由に変えられるから至極便利だ。  内装は濃緑の色調で落ち着いた感じを醸しだしていた。人によってこの建物からは、千差万別の印象を受けるだろうが、暗い雰囲気が漂っているのが気になったのを秀一は憶えている。  「ところで今夜、何があったんだい?」  「それが、上手くいえないの。今日は月曜日でしょう。いつもなら残業で遲くなるのが、今回に限り残務整理もなく早く終ったのよ。そこで、会社の同僚数人と外食することになり、女同士ということも手伝って話が弾み……でも、わたし途中で失礼しちゃった。帰宅して8時少し前だったかしら、浴室でシャワーを浴び、髪をとかしていたのよ。すると浴槽の蓋の内側を、何かが擦るような音が聴こえてきたの」  ブランデーでほんのり赤らんでいた杏子の顔は、視る間に血の気が引き、蒼白になってしまった。顔を両手で覆い、何か視てはならないものを視てしまったかのように、全身を小刻みに顫わせてすすり泣いた。  「さあ、想い切って話すんだ。その方が楽だろ」  杏子は意を決したか、両手を顔から放してふたたび話しはじめた。「そーっと、蓋を持ち上げてみたわ。前夜の残り湯の中から長い髪の毛が《蠢|うごめ》きながら浮いてきたのよ。まるで生きているようだった。わたし、その場に立ち竦んでしまった。気がつくと部屋中を駆け回って、バッグに身の回り品を詰め込んでいたわ。どうしたらいいかしら、秀一さんおねがい助けて」  そういいながら杏子は秀一にしがみついた。早くに両親と死に別れ、兄弟も姉妹もなく、身寄りのまったくない杏子にとって、秀一は父親以上の存在だった。  「引っ越してからどれくらいになるのかな」  「昨日でちょうど一週間。よい処が視つかったと想ってたのにガッカリだわ」  視れば、すっかり気落ちしてしまったか哨然として涙ぐんでいる。その憔悴し切った様は痛々しいほどだ。  「明日、あのアパートメントに行ってみよう。杏子はここで留守番してるといい」  「いや、わたしもゆく。秀一さんと一緒なら、恐くないもん」といいつつも、杏子は顫えが止まらない。秀一は強そうに装ってはいたが内心ビクついていた。男でさえ恐いのだから女なら恐いのは当然だろう。 二  妹の死は、苦い想い出となって秀一の胸の中にいつまでも《蟠|わだかま》っていた。兄の自分が注意を払ってさえいれば、妹は死なずに済んだかも知れないのだ。想いは十年前の暑い夏の記憶の中を彷徨う。私立大学を卒業して会社勤めをはじめた年、秀一は郷里で海水浴をしようと想い立った。連休前日、仕事を早めに切り上げると寮に戻って着替え、格安で入手した中古の中型2輪で両親、妹の暮らす田舎に向かった。  数時間後、実家に辿り着き、両親への挨拶もそこそこに、妹の勉強部屋を覗いて視た。明日の昼過ぎに海へ行くけど一緒にくるかとの秀一の誘いに、読書に熱中していた妹の淳子は二つ返事で応えた。家から大人の足 でたかだか十二、三分の距離にある、かつて豊漁で賑わったこともある砂浜だ。心配症の母は、水泳の下手な娘のことが気懸かりで顔を曇らせた。楽天的な父は何も言わず、何処吹く風とばかり、煙草の煙を天井にむけて吹かした。  父は隣町の役所を定年退職後、実家のある現在地に永住を決意し、退職金に貯蓄の大半を加えて家を新築した。隣町が観光地として有名なのとは対照的に、秀一の育った田舎は海に面していながら活気とは無縁で、 寂れゆくばかりの文明から置き去りを食ってしまった土地だった。だが両親はもとより兄妹もむしろ静かな方が好みに合うらしく、この土地にすっかり溶け込んでいた。  海岸は全長300メートル足らずで、その海岸の両端から沖にむかって、ゴツゴツした岩山が曲りくねりながら迫りだし、こじんまりした入り江を形成していた。入江から120メートルほど沖に蠟燭のような恰好の、地元で蝋燭岩と呼ぶ細長い岩がにょっきり聳えている。海岸全体を俯瞰したなら、疑問符を上下逆にしたように視えたに違いない。それほど、ここの入江は急カーヴを描いて湾曲していた。そのために、風の強い日でも海が荒れることが滅多になく、水泳には適していた。とはいえ、浅瀬は波打際のみで、深みに嵌まって溺れる危険性は充分にあった。  砂浜でありながら、どうして急激に深くなるのか、秀一にとっては長年の謎だった。隣町の高校へ通学する年頃になり、漸くその謎が解けたかに想った。強い潮流が絶えず同一方向に流れ、海底の砂を沖へと運ぶからだ――そう結論ずけ、万事につけ物ぐさな秀一は納得したものだった。  道すがら、秀一は淳子に「大人になったら何をしたい」と問う。淳子は兄の後見人然たる態度に些かムッとしつつも、「お兄さんの付き人がいいわ」などと切り返す。  二人は、秀一が高校生のころ、神社の床下に《蹲|うずくま》っているのを発見し、連れ帰ったイッコクという変わった呼び名のラブラドル・レトリーバーを従え、冗談をいい合ったりふざけ合いながら海へとむかった。イッコクとは妙な名前だが、首輪に「トオヤマイッコク」とあったのを、そのまま迷い犬に付けてしまったのだ。警察に届け出たが、飼い主は一向に名乗り出てくる様子もなく、動物好きの秀一が飼うことになった。いずれ飼い主が現れたら返す《心算|つもり》だった。  海岸に着くやいなや、秀一は手際よく岩場にパラソルを立て、そそくさと波打際に近づいてて行った。準備体操をしたのちに全身を海水に浸け、水中眼鏡を装着して沖へと向かった。2、30メートル泳いだのちに立泳ぎしながら、イッコクを呼ぶが打ち寄せる波を恐れ、いくら呼んでも淳子の周囲をただグルグル回りながら、子犬のように鳴くばかりだった。  秀一は妹の淳子に、浅瀬で水浴びしているようにいい残し、間近に視える岩礁へと向かった。かんかん照りの暑い夏には海水のヒンヤリした感蝕は心地よい。岩に手が触れると同時に、折り返して陸を目指し、波打際まで残り十数メートルに迫ったところから速度を上げた。手に海底の砂が触れたのを知り、泳ぐのを止めて立ち上がった。秀一は久し振りに泳いだ《所為|せい》か膝が振らつき、肺に圧迫感を感じて波打際にへたり込んでしまった。  淳子は兄に海水を浴びせて嬌声を上げ、イッコクは秀一の周囲を吠えながら跳ね回った。太陽のかんかん照りの下では熱風を吸い込むために息苦しかった。ぬるま湯に近い海水に浸かりすぎた所為か、陸に上がった途端 に身体全体から汗が噴き出した。水泳中に海水を飲んでしまい、喉に焼けつくような痛みを感じた。沖へは決して出るな、また邪魔でも浮輪は必ず身につけろ、できれば胸より深い処へは行くな、何はともあれ危険を感じたら大声で呼べ――そう秀一は妹にくだくだしく注意した。  「淳子、気をつけるんだぞ」  「お兄さんこそ、呑みすぎないようにね。アルコールは毒なんだから」  淳子の甲高い笑い声が、強い日差しで暑くなった大気の中を、熱風を従えた一陣の突風の如く駆け抜けた。秀一は火傷しそうに熱くなった砂浜を急いで縦断し、パラソルの下に冷えたビールのある岩場へと上って行って、しばらくは淳子とイッコクの様子を眺めていた。淳子は兄の注意に従って浮輪を身に着け、自主トレーニングに余念がなかった。わが愛犬イッコクは波打際に腹這いになり、明後日の方をむいて何処吹く風の表情で寛いでいた。  秀一はパラソルの下に陣取り、強い日射しを避けてビールを飲み、携帯ラジオから聴こえてくる音楽に耳を傾けた。最初の曲が終って1、2秒間の無音状態が続いたのち、激しく破壊的な曲が鳴りはじめた。飽くまでもドライかつピュア――限りなく透明度が高く、真夏の暑い日に相応しい楽曲だ。終楽章に近づき、《寒気|そうけ》立つような不気味な鈴の音が加わった。その部分を聴きながら《微睡|まどろ》む中に、秀一は学生時代に聴いたことのある、キング・クリムゾンの、『クリムゾン・キングの宮殿』なるロック音楽なのを唐突に憶いだした。  旋律に聴き入るうちに睡魔が襲ってきて、秀一の意識は暗黒の淵にむかって沈んで行った。其処は広く果しなく冷たいはずだが、秀一にとっては火焔の中にでもいるほどに暑いことこの上ない。まるで溶鉱炉の傍にでもい るように熱風が身体に《纏|まと》わりつく。暗黒の世界にしてこの暑さなら煉獄はもっと熱いに違いない。人類は煉獄で灼熱を浴びて自我を脱ぎ捨て、遂には純粋な魂にまで昇華するという。しかし自我を捨て切れない人間は一体どうなるのだろうか。  秀一の近くで何かが騒々しい音をたて、やがて耳に重低音の響きが跳び込んできた。何か銅鑼のような激しい音――銅鑼だって?それにしては低く内部に籠ったような音、何処かで聴いたことのあるお馴染みの音だ。そ の音はグワングワンというように耳に響いた。秀一は飛び起きて辺りを見渡した。いつの間にか横になって眠ってしまったらしい。耳の傍で銅鑼のような音を立て、吠えていたのは愛犬イッコクだった。  急を告げるかのように吠えるイッコクに気づき、秀一は立ち上がって砂浜から海面へと眼を走らせた。ビールを飲んで眺めていた先刻とは、海の様相はまったく異ってしまっていた。ゆったりとうねる海原、陽光を反射させる波間、置き去りのようにポツンと漂う浮輪が一つ。淳子は海にも砂浜にも視力のおよぶかぎり何処にもいなかった。  秀一は波打際にむかって全力疾走し、ゆったりうねる波間に跳び込んだ。潜水しながら泳ぎ、海水で眼がヒリヒリするのも構わず周りを見渡した。海中に黒い影を発見し、心臓が張り裂けそうになった。長い黒髪がまるで触手を延ばすかのように蠢き、汐の流れに逆らってユラユラ揺れていた。よく視ると淳子はうなだれ、海中に直立した姿勢で沈んでいた。見慣れた海水着を身に着けた淳子の、あどけない表情に生命の躍動感はなく、すでにこときれていた。  秀一は淳子を海中から引き上げ、脇に抱えて陸へとむかった。浅瀬に達した処で硬直した淳子の身体を抱え直して砂浜にそっと降し、教則本に書いてあった人工呼吸を試みた。身体は氷のように冷え切っていて脈がな い。それでも諦め切れない秀一は、人工呼吸を試みては脈を計り、身体をマッサージした。そのようにして精魂が盡きるまで何度も同じ動作を繰り返した。  涙がとめどなく流れ出る秀一に呼応してか、淳子の死を悼むかのように、イッコクが傍で長く尾を引く悲しげな声で吠えた。俯き加減でカートを引くイッコクを従え、秀一は硬直してしまった妹を抱えて家路を急いだ。林を抜けて裏口に回り込むと両親が強張った表情で待っていた。覚悟をしていたか、秀一の言葉数少ない説明に両親は無言で頷くだけだった。それが何よりも秀一には辛かった。  母が救急車を呼び、父が警察に連絡して間もなく、若い救急隊員二人と中年の警官が一人やってきた。父が経緯をかいつまんで話し、秀一がそれに補足するかのように説明した。救急隊員が警官とひそひそ声で相談し、 ややあって遺体を担架で車内に運び入れた。救急車が出発した直後、近づいてきた警官の問いに秀一は憶いだせる限りの事実を話した。警官は手帳に記入し終わるとなにやらお悔みを述べ、巨体を丸めて運転席に乗り込む と三人の前から去った。  結局、事故の翌々日に荼毘に付し納骨した。検死もせずに荼毘に付すのはどうかと想い、両親に問い質したところ、警察の方で事故死と断定したとのことだ。悲嘆に暮れている父や母を前にして、秀一はそれ以上問う気力は失せてしまった。問う気力のないまま、想いは海の方に自ずとむいてしまう。  納骨した翌日、秀一は連休最終日のこととて散歩を口実に、イッコクを伴い、海岸目指して走った。岩場から砂浜に降り、波打際に座って煙草に火を點けると、ちょうど水平線に沈みゆく夕陽が視えた。そのとき、唐突に学生時代よく聴いた曲を憶いだした。オーティス・レディングの唱う「ドック・オヴ・ベイ」だ。哀愁を帯びた メロディが頭の中で鳴り響く。煙草の煙が眼に滲みた所為もあり、夕景色が霞んで視えた。イッコクが秀一の傍でクンクン鳴く様子は、まるで我子を失って悲しんでいるかのようだった。  水平線の彼方に太陽が隠れ、闇が迫ってきたが、秀一もイッコクもその場を動こうとはしなかった。薄暮の中で、波が打ち寄せては引いて行く音に耳傾けながら、入江に流れ込む潮の行く先がどうなっているかを想像してみた。だが、何も想い浮かばず、ただ闇に眼を凝らすしかなかった。海辺の近くに生まれ、人一倍馴染んで育ったにもかかわらず、秀一は海について自分が無知に等しいのを痛感した。こうなったら、連休最後の日を締め括るべく、夜の海に潜ってみるのが最善だろう。  両親に余計な心配をかけたくなかったので、決行は深夜1時と決めた。家に戻ってゴムボートや潜水に必要な器具、備品などを海岸まで運び、岩蔭にまとめておいた。風呂に入って夕食をすませ、両親と会話を二言三言 交わすが寂しい想いは去らない。秀一は父にも母にも淳子の死因について言い出せないまま席を立ち、2階の自室に籠って深夜を待った。  キース・ジャレットの『スピリッツ』を聴き、なにも考えずベッドに寝転んだ。音楽を聴きながら微睡む中に、何時の間にか熟睡してしまい、耳許でチリチリ鳴る腕時計の次第に大きく聴こえてくる音に《吃驚|びっくり》して跳ね起きた。手速くトレーニング・パンツを身につけ、軋む階段をわざと音を立てながら階下に降りた。茶の間から母の声が聴こえてきたので、イッコクを連れてジョギングしてくると告げ、裏口から海へむかって駆けた。  岩陰からゴムボートを運び出し、手動ポンプで空気を入れ、波打際まで引き摺って行った。海は凪いでいた。ボートに装備類を積み込んでイッコクの方を視た。いずれにしろわが愛犬殿は、大型の豪華船だってお気に召さないだろうから、陸で待っていて貰うしかない。イッコクに待つように身振りで示し、ボートを海に浮べた。秀一がオールで漕ぎ出すと、イッコクはちょっぴり困った素振りを視せた。それでも砂がほどよく冷えていて心地よいのか、諦めて腹這いの姿勢を取り、前脚に顎を乗せて動かなくなった。  岩場の先端に達したところでボートを引き揚げ、ウエット・スーツに着替えて潜水具を装着した。いよいよ潜水かと想うと緊張する。流石に真夏とはいえ浅瀬とは違って海水は冷たい。秀一は手を海水に浸し、頭から顔へと海水を掛け、水中眼鏡を海水で《濯|すす》いだ。こうした儀式めいた準備を終えて水中眼鏡、続いてマウスピースを装着し、防水の懐中電灯を左手に持って真っ暗な海に潜って行った。水圧もさることながら潮流の強いのに愕く。潮は右の方角から湾内に流れ込み、孤を描いて左方向へと進んで、湾外へ出ると聞いたことがあった。秀一が潜水したのはちょうど潮流が湾外へ出て行く箇処に該当した。  スキューバ・ダイヴィングがまだ知られていない遠い昔、血気盛んな若い漁師達がこの岩場の先端で素潜りを試みたという。しかし、潜水した数人の漁師のうち、一人として目撃したものについて口外した者はいなかったらしい。潮流が海底にむかっているのを秀一は体感した。二十五、六メートルほど潜ると潮流が岩の亀裂に入って行くのが分った。  その亀裂は人間の一人や二人は優に通れるだけの広さがあった。懐中電灯で腕時計の文字盤を照して確認すると、時刻は一時二十分を回っていた。酸素ボンベには一時間三十分は水中にいられるだけの量が入っている。余すところ一時間十分だから暢気に構えてはいられない。潮流に乗り、ひたすら下へ下へとむかった。水深三十メートルに到達したのち、海底と覚しい方向にむけて照明を当てると、何か白っぽいものが無数に視えた。 さらに三十七、八メートルまで潜り、周囲を照らした途端、眼前に広がる異様な光景に危うく咥えていたマウス・ピースを外してしまいそうになった。  懐中電灯を落さなかったのは勿怪の幸い――心臓が頭頂に響くほどの激しい動悸を打った。前方には人間のものと想われる白骨が重なり、山をなして下へ下へと延び広がっていた。懐中電灯で照して視たが人骨かどうか判別が付かない。《堆|うずたか》く積み上がった中から手頃な骨を選び、水中眼鏡のゴムバンドに固定した。  イッコクが海に入りたがらなかったのはこれが原因だったのだろうか。犬の方が人間よりも何層倍も霊感が強いのかも知れない。若い漁師が沈黙を守ったのは当然だった。誰がこんな光景を人に語りたがるものか。悪い夢を視たものとして記憶の奥に蔵い込み、できることなら忘れてしまいたかっただろう。  一体、この白骨の山は何処まで続いているのだろうか。懐中電灯で照した深淵から、幽鬼じみた何かが上ってくるのが視えた。眼を凝らして確認する――体長4メートルを優に超える黒っぽい深海生物だ。興奮と恐怖が《綯交|ないま》ぜになると同時に頭が痺れたようになり、四肢が強張って動作が緩慢になった。なんとか、今の危機から脱しなければならない。  海中で死ぬなんて真っ平ご免だ。恐怖の原因から逃げようとするからさらに恐怖は強まるのだ。しかし、それは死に対して抱く恐怖を意味するのではなく、死に到るまでに味わうはずの苦痛を想像することからくる恐怖だ。想像が恐怖を増幅させるのだ。恐怖を克服する秘訣は恐怖から逃げようとするのではなく、恐怖の対象から眼を離さず、むしろ対象を凝視することだ。  恐怖体験を憶いだすことで、秀一は幾分落ち着きを取り戻した。恐慌が薄らぐと同時に持前の好奇心が頭を《擡|もた》げてきて、生物の方を注視しながらゆっくり後退して行った。数匹の烏賊のようで烏賊ではない生き物、それはまるで異星からやってきた番犬のようだ。群れの一匹が触腕を突き出しながら、徐ろに接近してきたが恐怖は感じなかった。よくよく観察するまでもなくその烏賊のような生き物の行動は、軽い警告を発しているようにしか視えなかったからだ。  秀一は懐中電灯の輝度を最大に上げて、生き物を照らしながら回避行動に移った。《徐|おもむ》ろに遠ざかろうとしていた矢先に敵が素早く動いた。電光石火の早業――気づいたときには懐中電灯は手から叩き落とされていた。腹立たしそうな唸りを聴いたと想った直後、右手に軽い電気ショックを感じた。いきなり顔を照らされ、腹立紛れに不届者の手から懐中電灯を払い落したといった風だった。  どうやら招かれざる客だったようだ。しかし、秀一を人畜無害の生き物と判断したらしく、それ以上は接近してこなかった。灯りを失ない、真暗闇にとり残されたものの、さしたる被害がなかったのは幸運だった。岩壁に沿って浮上しながら時計で2時すぎなのを確認した。今のペースなら海上に辿り着くまで酸素は充分保つだろう。  周囲は依然として漆黒の闇だったが、烏賊もどきは追ってはこなかった。どうやら連中は、監視領域への不当な侵入を阻止するのを専らの任務としているようだった。その証拠に、回避行動を取る秀一を追撃する素振りは視せなかった。唯一の例外は、強い光を浴びせたときだけだった。そういえば、かなりの数のイルカが連中の領域にいた。  今頃になって突然イルカの存在を憶いだしたのは、あの烏賊もどきが余りにも異様だったからに違いない。イルカが秀一の意識にまったくなかったのは、見慣れた生物であり脅威にならなかったからだ。あの烏賊もどきにとっても、監視領域を気ままに遊泳するイルカは邪魔な存在にしかすぎないのだろう。波が岩に打つかって砕ける音が聴こえてきた。間もなく海上に帰還だ――そう想うと秀一はホッと安堵の吐息を漏らした。秀一は岩場に打ち寄せる波の勢いと浮力を、巧みに利用して一気に岩の上にあがった。引き上げておいたゴムボートがすぐ眼の前にあった。岩の出っ張りに手をかけて立ち上がると水中眼鏡を顔から外した。何かが左の側頭部から落ちて岩に打つかり、耳障りな金属音を立てた。秀一は闇夜の中に、ボーッと白く光るものを視つけ、それが持ち帰った骨片なのを知った。  自己満足にすぎなかったが一応成果はあった。疲れ切ってはいたものの、疑問の一部が解けた満足感から少し元気が沸いてきた。波のまったくない海上をボートは辷るように進み、砂浜に勢いよく乗り上げた。それまで凝っとしていたイッコクが想いっ切り胴振いをし、身体から砂を払い落として駆けてくると秀一に跳びついた。イッコクは余程寂しかったのだろう、尻尾を勢いよく振って喜びを示した。  空気を抜いてボートをたたみ、装具類と一緒にロープで縛り、肩に担いで家路を急いだ。足は鉛のように重かったが気分は羽根のように軽かった。イッコクもなんとなく晴々した気分のようだった。それは夜が明けはじめたためでもあったろう。裏口からそーっと家に入って肩の荷を降ろした。それから風呂場に行って畳んだボート、装備類そして骨片に水をかけて塩分を洗い流した。酸素ボンベの水気を拭き取って物置に《蔵|しま》い、ボートや、ウエット・スーツその他の装具類を物干し場のロープに掛けた。  時刻は午前3時を回っていた。出社時刻に間に合わせるにはもう寝ている時間はなかった。秀一はシャワーを浴びると2階の自室に戻った。ポケット瓶のウイスキーを二、三口いきおいよく煽り、着替えをすませて両親宛てに簡単な手紙を認めた。手紙を右手に、ポケット瓶と骨片を入れたバッグを左手に持ち、1階の茶の間に入って行って食卓の上に手紙を置くと裏口から出た。神妙にしている愛犬イッコクを撫でて別れを告げ、モータサイクルに跨ると秀一は会社方向目指して出発した。 三  ボーンという妖しい響きを含み、柱時計が午前一時を報せて深夜の静寂を破った。話が一段落し、もの想いに耽っていた矢先だけに、二人は跳び上がらんばかりに愕いた。秀一は自分の臆病さ加減に想わず苦笑してし まったが、杏子の強張った表情を前に落ち着かない気分になった。それでも、半ば故意に大きな欠伸をして平静を装った。  「そろそろ、休むとしようか」  秀一は空元気を出して勢いよく立ち上がり、隣室に入って行った。しばらくなにやらゴソゴソ動かしていたようだが、やがて居間に戻ってくると杏子に《寝|やす》むようにいった。  「秀一さんはどこに寝るのよ」  「心配しないでいいよ、ソファがあるから。恐くなったら大声で呼んだら」  独身男の使ってる部屋にしては整頓が行き届いていた。真新しいシーツに薄手の毛布が、杏子に少なからず安らぎを与えたもののなかなか寝就けず、浅い眠りに就いて間もなく突然ハッと目覚め、辺りを恐怖の眼差しで 見渡した。  秀一は輾転反側し、苛々を抑えるために煙草を喫った。尿意を催してトイレに立ち、柱時計の午前3時を報せる時報の、名状しがたい妖しい響きにギクリとした。様子を確かめるべく寝室を覗き、軽い寝息をたてて眠っている杏子の寝姿に、一安心して足音を忍ばせながら居間に引っ返した。秀一は余計なことは考えないでソファに寝そべり、微かに視える天井の染みを眺めながら、様々なイメージを想い描いた。やがて眠気を催し、大きな欠伸をして微睡みはじめた。  真夏の暑い昼下がり、灼熱の太陽光を浴びた身体を海水に浸す――適度な冷たさが心地よい。秀一は下方に小さなクラゲが無数に漂っている中を沖へむかって泳いでいた。一見したところUFOの大編隊が音も立てず に移動しているかのようだ。色とりどりの魚が勝手な方向目指して悠然と泳いでいた。秀一は魚を追い駆けるが力盡き、全身に脱力感を覚えて見上げると、何故か青海苔が海面に漂い、光を反射して揺らめいていた。  真にそのとき、秀一は溺れている自分に気づいた。肺が空気を求めて大きく伸縮を繰り返した。水中から出ようとして手足をばたつかせて藻掻き、やがて身体が海面に出た。鋭い陽光が眩しく、想わず手をかざしてしまっ た。喉の締めつけられる圧迫感から眼が覚め、薄ボンヤリ辺りが視えてくると同時に夢だったのに気づいた。だが、喉が締めつけられる苦しさは去らなかった。  いつの間にか、杏子が覆い被さるように秀一の首に左腕を巻きつけて眠っていた。巻きついた左腕を首からどけようとするが、男の腕力をもってしても微動だにしなかった。このままでは窒息してしまうかも知れない。腹筋力を利用して起き上がり、硬直した杏子の身体を抱きかかえながら寝室にむかってゆっくり移動しはじめた。  呼吸が困難なので想うように動けないが、何とか寝室のベッドに辿り着き杏子の身体を横たえた。やっと呼吸できるようになり、巻き付いている左腕を引き離そうとする直前、杏子の硬直していた身体は全身から力が抜けてしまったかのようにグッタリとなった。床に落ちていた毛布を身体にそっと掛けてやり、寝室を出ようとしていた秀一の耳に、深呼吸に近い杏子の寝息が聴こえてきた。そのとき、想わずアッと愕きの声を上げてしまった。  一体、いつから呼吸を停止していたのだろうか。自分のことにかまけ、杏子が呼吸せずにいたのにまったく気づかなかった。呼吸停止時間が長すぎた場合、脳にどれほどの障害が起こるのか秀一には想像つかなかった。  またもや、秀一は十年前の事故当日を憶いだす。淳子の死因は溺死ではなく睡眠中の呼吸停止にあった。浮輪を身に着けたまま眠ってしまい、潮流によって浅瀬から深い方へと押し流されて行ったに違いない。水温の変化に気づかなかったのはすでに呼吸が止っていたからなのだろう。  妹が水温の変化に気づいていれば、当然のように大声で秀一を呼ぶか、自力で浅瀬へ戻ろうとしただろう。両親に訊きたかったのはそのことだ。浮輪に通していた両腕は身体の重みで抜けてしまい、淳子は海中を浮遊することになった。もし検死が行なわれていれば、肺の中に海水が溜っていないのに担当医は気づいたはずだ。睡眠中の呼吸停止が死因なのが明らかになったに違いない――何故検死を省略したのか。  そこで秀一は今まで想像もしなかった結論に到達した。父や母はいうまでもなく、田舎の誰もが同じ血族の出なのだ。同族なら同じ病巣を持っていて当然だろう。両親はおろか妹や秀一さえも同じ疾患、つまり《睡眠障害|ナルコレプシー》の変種を体内に秘めているということだ。これまでも同様の事故はあったはずにもかかわらず、誰ひとりとして何もしなかった。それは単なる睡眠障害ではなく治療法不明な、ナルコレプシーの変種だったからに違いない。手の施しようがなかったということであり、これからも事故が続発するのは明かだ。  今のところ杏子は規則正しく寝息を立てている。真夜中に救急車を頼むのにはかなりの躊躇いを感じる。心配ではあるものの、杏子が自力で機能を回復したのであれば、矢鱈騒ぎ立てるのは大人気ない気がする。秀一は このまま朝まで待つことにした。暗闇の中でソファに寝そべり、床に灰皿を置いて煙草を吹かしながら、アルコールのまだ抜け切れない朦朧とした意識下で想いに耽った。  人類がまだ火の利用法を知らない時代、日没とともに洞窟の真暗闇の中で人々は身を寄せ合い、闇を恐れながら暫しの安らぎを得て微睡んだことだろう。その時代、闇にはどんな魔物が潜んでいたのか――肉食獣だけ が人類にとって脅威ではなかったろう。闇に対する恐怖の念は人類誕生以来連綿として残っている。闇は死の恐怖に始まり、漠然とした不安や懸念を惹き起こし、凡ゆる疑心暗鬼を産み出してきた。それらのどれを取っても脅威に繋らないものはない。  暗黒世界の派生物である恐怖は、ときには芸術に恰好の題材を提供してきた。音楽、絵画のみならず文学もまた、恐怖を昇華し芸術にまで高めた。カフカの描く世界は悪夢そのものだ。『審判』では主人公ヨーゼフ・Kは何者かの誹謗によって逮捕の憂き目に遭い、想像だにしなかった死刑になる。想い当る理由もないまま遂には殺されるのだ。カフカは異様な世界を構築し、その中で漠然とした不安に慄きながら生きる人々を描いた。裁く側の権力者は捕らえ処がなく不可解な存在だ。  著者の意図は奈辺にあるのだろうか。当人にさえ不明な罪悪とは一体どんな罪悪なのか。審判を病気に置き換えたらどうなるだろうか。病気は当人が望むかどうかに拘わらず、ある日、まるで晴天の霹靂の如く表面に出てくる。病気の原因は病源菌といってみたところで、同語反復するに等しく、病原菌の正体は依然として謎だ。だからこそ、人は誰しも発病するや否やただオロオロするばかりか腑抜けになり、脈絡のない思考に囚われてしまう。なんで自分が――その想いが胸中を真っ黒い影のようによぎって行く。 四  秀一が深い眠りの淵から這い上がり、微睡みはじめたちょうどそのときに柱時計が午前8時を報せた。カーテン越しに差し込む陽射しが眩しい。頭の何処かではこのまましばらく眠っていたいと叫んでいたが、杏子のことが気懸かりで跳び起きた。寝室を覗いてみると間延びした寝息を立てて眠っていた。ほんのり赤味の差した頬が熟睡している証拠だろう。杏子の寝姿を視て安心した秀一は、大きな欠伸をして足音を忍ばせながら寝室を出た。  ガスコンロに薬鑵を掛け、トースターで食パン6枚の中3枚を狐色に焼き、残り3枚を焦げ茶色になるまで焼いて、オレンジ・マーマレードと林檎を添える。湯が沸騰したところで珈琲を淹れ、そこで考え込んでしまった。そもそも年頃の娘は朝食を摂るものなんだろうか、一体どんな朝食を?そこまで考え、想わず苦笑してしまった――これではまるで父子家庭だ。元々食べるということにさしたる興味がなく、無頓着だった酒呑みの秀一はスーパーマーケットに出かけ、手当たり次第にバスケットに放り込む癖があった。  ここ4、5年というもの、秀一はまるで菜食主義者のような生活をしていた。6年前に離婚した女房が魚肉を除き、肉なるものをまったく食しなかったために、秀一まで肉食の習慣をなくしてしまった。以来、食事は野菜や果物が中心の仙人暮らしだった。食卓に朝食を並べ終り、熟睡しているだろうかと想いながら杏子を起こしに行った。寝室の入口で危うくぶつかりそうになり、秀一は杏子を避けるつもりが敷居に躓き、勢いよく地響きたてて転げた。甲高い笑い声に秀一は些かムッとしたものの、杏子の元気なのにホッとしたか、大きな背を丸くして照れ笑いをした。  「おはよう、秀一さん」そういいながら秀一の腕を引っ張り、起こそうとするが杏子の腕力では微動だにしない。  「昨夜はよく眠れたか?」杏子に腕を引っ張られ、ちょっと照れた様子で秀一はノッソリ立ち上がった。「珈琲を用意してあるから軽く朝食でも摂ろう。美容のために林檎なんかどうだ」  秀一の矢継早に問いかけるその様に杏子は微笑み、生きていた頃の父親にそっくりなのに愕いた。杏子は物心がつくかつかない中に両親と死別してしまった。にもかかわらず、父の仕種や言動を鮮明に憶えている自分を 不思議に想った。  「よく眠れたわ。秀一さんに感謝しなくっちゃね」杏子はそういうと洗面具の入ったバッグを手にして洗面所に向かい、しばらくするとサッパリした顔つきをして戻ってきた。  「さて」と杏子が改まった口調でいい、「朝めしにでもしようか」と秀一が急に砕けた調子でいった途端に二人同時に噴き出してしまった。  「失礼、いつも独りで食べているものだから、どういったら好いか分らないんだ」そういうと秀一は椅子から立ち上がり、珈琲を入れておいた2つの大きなマグカップを両手に持ち、慎重な手つきでそろりそろりと食卓に運んだ。  辺りに立ち籠める珈琲の馥郁たる薫りに、新しい一日の到来が重なり、二人は悲喜こもごもの複雑な気分にひたった。  「杏子、クリームと砂糖はそこにあるよ。珈琲に入れるならどうぞ」そう秀一がいい終るやいなや、杏子はクリーム、砂糖の両方をたっぷり珈琲カップに入れ、スプーンで掻き混ぜた。秀一はそれを視て大袈裟に眉を吊り上げた。  「大丈夫よ、あとでまた歯を磨くんだから」  どうやら杏子は、秀一の表情を誤解したらしい。だが、そこは当世の娘だけに燦然と輝く笑顔でかえす。  「なに、珈琲はストレートが最高だと想っていたものだから、一寸愕いただけだ」そういいながら、秀一は眉をピクピク上下動させておどけて視せる。  そこで危うく噴き出しそうになりながら、二人は眼を白黒させて珈琲を飲み込むと陽気に笑った。  カリカリに焼いた食パンを無造作に手に取った秀一は、歯に当るサクサク感が一日の始まりに相応しいなどと、《恍|とぼ》けたことをいいながら如何にも旨そうに食べた。ストレート珈琲にはこんがり焼いた食パンが合うらしい。  杏子がマーマレードを付けた食パンを食べ終らない中に、秀一の方は大きな林檎のまる噛りにとりかかった。冗談をいい合って笑い転げ、二人だけの至って質素な朝食は滞りなく済んだ。杏子は昨夜の怯えが嘘のように元気溌剌として視えた。珈琲が眠気醒しに欠かせないのと同じように、笑いは精神をバランスよく保つのに必要不可欠なのだろう。  「ところで、退去手続きはどのようにするのかな」  「ドアに付属するモニターとキーボードを使用してパスワードを解除し、できるだけ速やかに解除通知を管理会社に送信するの――そこが肝心ね。パスワード解除後、間を取り過ぎたりしたらメール機能が使えなくなるわ」  「そうか、管理会社は何を警戒してるんだろうな。何はともあれ、先ずは引越会社を検索してみるとしようか。杏子、当面はここに同居するしかないな」  「秀一さんさえ構わなければ。わたしに異存のありようもないわ」  「住まいの件はそれでよしとして、引っ越しの手配はインターネット上で済ませてしまおう」  しばらくの間パーソナル・コンピュータの前に陣取り、秀一は珈琲を飲みながら無言でキーを叩き続けた。幸いにして一社から、金曜日の午前中なら空いているとの返事が返ってきた。何事につけても決断の早い秀一は、 杏子のアパートメントに行って、家財道具をコンテナに詰め込むことにした。聊か慌しくはあるが、引っ越すと決まったからにはできるだけ早い方がいい。  「今日はアパートメント内の様子を視ながら、引っ越し準備やら何やらに時間を割こう」  「どっちみち契約者当人でなければドアは開けられないし、秀一さんが一緒に《随|つ》いてってくれるならわたし平気」  「契約者当人しか開けられないとは、つまり、アパートメント備え付けのコンピュータは、人相で当人かどうか判断するってこと?」  「秀一さんって面白いこという人なのね。確かにそのようだわ……だって鍵だけではドアは岩のようにビクともしないもん」  「やれやれ、確かに安全この上なしだろうな。独身女性に人気があるのも《宜|むべ》なるかなだ」 五  男女の性別が著しく曖昧模糊となってしまった現代、秀一や杏子のようにはっきり自己の性を自覚している者は極めて少かった。二十世紀も末期に到り、新人類なる得体の知れない若者らが出現したが、現代から彼らを視ればそれほど異質ではない。むしろ現代こそ遥かに奇妙な人類が多く、その彼らから視るなら二人は旧人類、石器時代の蛮族に等しい存在だった。  同じ日本人でありながら言動はおろか、着る物さえ互いに異様に視える始末だ。これまで外国から一枚岩と想われてきた単一民族国家日本は、いつの間にか多民族を抱える多種多様な社会に変容していたのだ。均等を嫌い、変化を好む者にとっては現代の日本こそ、理想に近い国であり興味の盡きない国なのだ。しかし、どれだけの日本人がその現実を潔く認めるだろうか。  めまぐるしく変転する社会で様々な人々と《交際|つきあ》うには、可成のカルチャー・ショックに耐え得る精神力が必要だ。世界の様相に変化が起こりはじめたか、それとも二人のような旧人類とでも呼ぶべき人種が、時代の激変から置き去りになりつつあるのか、気づいたときにはすでに手遅れなのかも知れない。それにしても何かが何処かがおかしい。  凡そ迷信などとは無縁に等しい秀一だったが、世紀末預言には戦慄を覚えずにはいられなかった。特に20世紀初頭に現れた預言は、世紀末に起るありと凡ゆる現象を、寸分違わずいい当てているのには愕然としたものだった。過去の事象に過去の預言を照し合わせ、それをさらに現代から観察して視ると、余りにもきっちり符合するのにはただ愕き呆れる許りだ。宇宙を支配する何者かが目論んだ実行計画表を、眺める想いがするのは考え過ぎだろうか。  火山の噴火による気温の低下、頻発する大地震、温暖化が原因の冷害や酷暑、それに加えて大洪水といった天変地異に始まり、人間同士の《啀|いが》み合いや殺し合い、性の乱れを誘発する野放図な性解放、犯罪の低年齢化、嘘の横行に自己欺瞞等々、地球そのものが発狂寸前の状態に陥ったのではないかと想えるほどだ。世紀末現象などと単純にいい切れないものが預言にはあった。  天罰こそが適切な表現かも知れない――そう秀一は想った。そもそも預言に注目するよう秀一に仕向けたのは、同じ大学の国文科に在籍していた北原祐介だった。現代から20世紀を振り返ってみるのも面白かろう――祐介の冗談半分ともとれる意見に秀一は興味を抱いた。ちょうど田舎から出てきたばかりの大学一年生だった秀一にとって、大都会に《犇|うごめ》く男女の性的な乱れは驚愕を超えるものだった。  何が原因で、日本人はこんなにふしだらになってしまったのか。それを知るには過去を渉猟するに限る。文献漁りは祐介の得意とするところで、秀一は幸いにして苦労もなしに資料を探し出すことができた。インターネットを利用するとはいえ、膨大な量のデータの中から最適な資料を発見するには祐介の特殊な知識が大いに役立った。  「ねえ、突然なんだけどちょっと訊きたいことあるの」  「簡単に答えられる質問なら構わないよ」  「別れた奥さんてなんと《仰言|おっしゃ》る方?」  「由紀、《時枝由紀|ときえだ・ゆき》だ」  「由紀さんって魅力的な女性だった?」  「そりゃ魅力はあったさ、知性的魅力に溢れていたな」  「由紀さんに時々会いたくなることってない?秀一さん」  「そりゃまったくないと言えば嘘になる。偶には四方山話に花を咲かせる、なんてのも好いかなと想うことはあるよ」  「なによ、そのもって回ったいい方は。わたしの聞きたいのはそのものズバリよ。由紀さんと偶には《目合|まぐわ》いたくなることないかってことなの」  「おいおい……そりゃ性欲を感じなくなったら、男はお終いだが其処まで露骨に言わなくたって」  「だってわたしを一人前の女として、認めてくれないもん、秀一さんは。だから、ちょっと中年のおじさんに迫ってみたくなったの」  「杏子は素直で奔放で実に女の子らしくていいよ」  「女の子じゃありません、女です」  「そんなにムキにならないで。その中に杏子には好男子がいっぱいいい寄ってくるって」  「そんな好い男なんて同年代には一人もいないわよ」  「そいつは認識不足だったかな。近頃の男は、若く溌剌とした好い女に何も感じないんだろうか」  「さあ、どうかしら。秀一さんこそどうなのよ」  「そりゃ好みが合えば、ときには一夜の契りなど交わすこともあるにはあるな」  「話し相手がわたしでよかったわね。夫が妻に内緒で不倫をしようが、悪い病気を持ってこなければ、わたしなら大目にみるかも」  「杏子はまるで妹の淳子と似たような話し方をするんだな」  「あらそう淳子さんってわたしと同じ歳なの」  「うむ生きていれば同年代だろうな」  「ごめんなさい、逝くなった妹さんのことで余計なこといっちゃって」  「いやいいんだ、杏子と話していると辛いことも忘れられるんだ」  「……」  「さあ元気を出して、涙を拭いて」  二十世紀末期には環境汚染が原因の、災難が次から次へと地球に襲来した。その最たる元凶は愚かしくも加害者であり被害者でもある人間自身なのは皮肉だ。祐介に言わせるなら、地球は腐れ林檎であり、人間はその林檎にたかる害虫だった。聊か自虐的な表現だが、それは楽天家の祐介には珍しく悲憤慷慨の念を表わしていた。  「猛獣や猛禽の世界では、弱肉強食とはいうものの、それぞれに天敵が存在していて、人類のように人口過剰にはならない。では昆虫の世界はどうだろう。意外に上手く行ってそうに想えるんだ。どうしてかな」  「昆虫の世界には、ネットワークでいうところの共有感覚があるんじゃないかしら」  「蟻や蜂はどうやって知識を共有するんだろう。脳があるにしても、あんなちっぽけな身体では充分な機能を持っているとは想えないが」  「昆虫の世界にネットワークに類する機能があると仮定すると、個々の昆虫は通信端末を持っていればいいから、小さくとも不利にはならないんじゃないかしら」  「人間に比較したら遥かに小さいのに、連中は効率のいい社会を形成している。通信に関する限り、人間より昆虫の方が進歩しているのかも知れないな」  「他の生物の生き方を考える度に、人間が一番下等な動物なのじゃないかしらって想うことあるわ」  「人間は生きる道の選択を誤ったんだな。性交の結果としての快感を追及するあまり、生命存在の本当の意味を理解できなくなったんだろう。性行為なんて愛を表現する一形態にすぎないのにだ」  「すると、性的行為抜きで交際ってるカップルが、いちばん理想的ってことにならないかしら」  「うーむ、無性欲の男女こそ新人類ってことに――そうすると、その現代に生きる我々二人は旧人類ってことになるぞ」 六  「杏子、そろそろでかけよう」そういうと、秀一は煙草とライターを半袖シャツの胸ポケットに入れ、偶にはドライヴもいいのではないか、気晴しに海を視てもよかろうし……などと考えながら車のキーを手にして立ち上がった。  「用が済んだら、港の方へ行ってみるってのはどうだい」  「ええ、行きましょ。少しは気分転換になるかも」  「そうと決ったら、車庫から愛車を出してくるから待っててくれないか」  やがて、ガソリン車が地響きを伴うエンジン音を轟かせ、杏子の鼻先に颯爽と現れた。有害な廃棄物を撒き散らす車を前に、心なしか杏子の表情が曇った。しかし、この前世紀の遺物のような車に関する限り、杏子は無 知な人々同様、完全に間違っていた。今時ガソリンを撒き散らして走る公害車なんて、悪徳役人に賄賂を使っ ても許可は下りなかったろう。それは、どう改良を加えようが、レシプロ・エンジンでは規定値を満たせないからだった。ところが、一人だけ条件に適合する方法を発見した人物がいた。零細企業に籍を置きながら、発明家として業界の片隅で研究・開発を続けていた《服部洽治|はつとり・こうじ》だ。  ひょんなことから、秀一はこの技術者の開発した車を入手することになった。遺族がインターネット上に車の競売広告を出したのだ。服部洽治がウエブ上での「時の人」でなかったら、遺族の出した広告がなんであれ、誰も気づかなかったに違いない。全国の物好きがこの競売広告に跳びついた。  服部洽治は生前に天才的な発明家として勇名を馳せ、一時期マスコミ界からもて囃されたことがあった。だが画期的な発明にも拘らず、時代の流れは確実にレシプロ・エンジンから電動モーターに向かっていた。あるときを境に超低公害ガソリン車は、圧倒的に優勢だったはずの地位から転落しはじめ、相前後して服部洽治自身マスコミ界から姿を消した。服部洽治は孤群奮闘したものの、遂に資金が底を盡き、数ヶ月後に拳銃で自分の頭を撃ち抜いて死んだ。  昔々、米国のある自動車メーカーがアヴァンティなるスポーツカーを造った。同時代のどのメーカーも考えつかない先進性に富んだ斬新なディザインだったが、あまり売れることなく消え去った。少数のマニアはアヴァンティの《恰好|かつこう》よさにすっかり惚れてしまった。以来、この車は一般の運転者からは完全に忘れ去られながらも、幻の名車としてマニアの記憶に焼きつくことになった。  秀一が競売広告に注目したのは、服部洽治の名声もさることながら、あまり話題にもならずに消えた幻の名車アヴァンティと見間違えたことによる。手持ちの株を何千株か売れば買えそうだった。株の売買に手間取り、入札に応じたのは最後だったが結局は秀一が落札し、全国のマニアを口惜しがらせた。ガソリン車入手までの経緯を話すと、杏子は秀一の意図を渋々だったが理解した。  世界の人口は日本をも含め、年々減り続けていた。その人口減少に一役買っていたのは公害問題だけではなかった。溢れかえる物に取り巻かれていながら、人々は未来に漠然とした不安を抱き、精神的に枯渇しかかって いた。いつまで経っても満足感を充足することができず、精神上の欠落部分を埋め合わせることができなかった。未来に待ち受けているのは絶望だけ――誰もがそう気づきはじめて久しかった。まるで何者かに精神を操られているかのようだった。  「秀一さん大丈夫?」怪訝そうに訊く杏子の声に秀一はハッとして前方に眼を凝らした。どうやら、ブツブツ独り言をいっていたらしい。  「考えごとをしていたものだから、運転が疎かになってしまった」心配そうに覗き込む杏子を意識しながら秀一はハンドルを握る手に力を籠めた。  「前も視ずに運転できるなんて、秀一さんってスーパーマンね」  「だったらいいんだがな。実はこの車、自動走行できるんだ」  「自動走行って?」  「運転者が、何もすることなく目的地まで行けるってこと。それぞれの操作部、制御部にはトルクを検知する機能があるんだ。トルクを検知しなければ、コンピュータは自動と判断、トルクを検知すれば手動と判断する。例えばハンドルを操作した直後、車に搭載したシステムがそのトルクを一瞬にしてコンピュータに0、1のデータとして送り込み……そこから先は、杏子の得意分野だから説明するまでもないだろ」  「へえーなかなか進んだ車なんだ。でも、完全に自力で走るなんてできないんじゃない?だって、コンピュータが自ら状況を判断して走行するなんて無理でしょ。そんなシステムあったかしら」  「昔はGPSを塔載して、目的地までの道順を決定できたんだよな。今は軍関係者を除き、部外者には利用できない軍事衛星しか地球軌道を回っていないからそんなことは不可能だ。そこで、服部洽冶は一計を案じる。地形や方位を読み、障害物の静止、移動を判断し……この車は驚異的な機能を満載しているんだよ。だから、運転席に座っていながら居眠りだってできるし、物想いに耽るなんて朝飯前だ。なにしろ自動、手動の切り替えが完全に自動になってるんだから」  「でもわたしにはまだ分らないとこがあるわ」  「どんなとこ」  「それはね、目的地をどうやって知るのかよ」  「そいつは意外と単純なんだ。この車は予め地図の膨大なデータベースを保有しているから、運転者は行先を入力してやるだけ。行先が複数であっても構わない。優先順位を指定しておけばその通りに走ってくれる……路 面に埋め込まれたチップから信号を読み取りながら」  「愕きだわ。でもどうして自動と手動の2重操作になってるのかしら」  「そこが、この車を設計した服部洽治の非凡なところなんだな。昔、アメリカ合衆国では月に人間を送り込むべく、巨大プロジェクトを発足させたことがあるんだ」  「その小父さんと巨大プロジェクトにどういう関係があるのよ」  「つまり両者とも、当初は完全な自動を目指していたんだ。しかし、服部の場合はあるとき両方の機構を塔載した方が、何かと利点が多いのに気づいた」  「ふーん、では合衆国の場合は」  「向こうは、日本とは違ってすんなり実現しなかった。技術者と宇宙飛行士との間に一悶着があったんだ」  「どうして」  「技術者は、自動操縦の方が開発が楽だし、開発費が安上がりになると考えた。だが飛行士達は納得しなかった。俺たちはモルモットじゃないんだ……ってね」  「ふーん、面白いわね」  「どうやら講釈に熱中している中に、アパートメントの前にご到着のようだ。本日の講義はこれにて終了。敷地内に駐車するとしようか」  「それはダメ。塀の外側からシャッターを開けて、駐車させる仕組だって説明書に書いてあったわ」  「今時珍しいんだな、そこまで厳しく規制して排気ガスを閉め出すとは」  「排気ガスではなく、騒音を閉め出そうとしているようね。では駐車の手順をお教えするわ。まず塀に沿って車をゆっくり走らせます。次に車庫上部の点滅灯を確認します。點いていれば使用中なので點いていない車庫を探します。視つかったら、シャッターに向って構わず車を前進させます。これで講義はお終いよ」  杏子の説明を聞きながら、秀一は塀に沿って左回りに車を走行させた。その塀は蛇腹の形状をなしてアパートメントを一周しており、車の進行方向をわずかに変えるだけで、易々と車庫に乗り入れできる仕組みになってい た。それにしても杏子が引っ越してきた日には、塀はなかったはずで妙なことがあればあるものだ。  一瞬にして開いたシャッターは車が入ると同時に閉まった。駐車場内部はたかだか車一台分の空間しかなさそうだが、大人二人が車のドアを開けて降りるに充分の余裕があった。明りは壁全体から発しているようだった。 適度な明るさが作用したか、何となく夢の世界を浮遊しているような錯覚に陥り、二人は一瞬戸惑いを感じてその場に立ち竦んでしまった。  「この駐車場を兼ねた塀なんてもの、前からあったかな」  「いいえ、なかったわ。引っ越してきた翌日にはできていたのよ。郵便受けに説明書が入っていたの憶えているもの。さっき、その説明書の内容を、そっくりそのまま秀一さんに講義申し上げたの。一度しか読んでいないのにすらすら言えたわ、どうしてかしら」  「なんとも説明つかないのは、この塀を兼ねた車庫の構造だな。俯瞰してみたらギアの断面に似ているのじゃないかと想うんだよ、多分……」  「そうなの?ちっとも気づかなかったわ」  「空いてる車庫を探しながら車を運転している間、月の動きを連想していたよ」  「月っていつも、地球には同一面を視せてるんでしょ、自転と公転が同一周期だから」  「その通りなんだ。車と塀の両方が同方向に等速度で回転、同期している……運転しながらそんな風に想像してしまった」  「ますますもって変てこりんね」  「世の中には説明できないことってあるもんだな。こうして、愚図愚図考えていては時間の無駄だ。さあて何処から出るんだい」  「向って右側にドアがなかったかしら。ドアノブらしい丸みを帯びた突起物に、軽く触れるだけで敷地内にでられるはずよ」  杏子の説明通りその突起物に触れるか触れない中に、二人とも同時にアパートメントの敷地内に出ていた。まるでテレポーテーションのようだな――秀一は学生時代に読んだことのあるSFを憶いだした。中庭から階段を 上り、杏子の借りている部屋の前に出た。杏子がドアと格闘している間、それとなくあたりを視まわしながら様子をうかがった。  中庭に生えている欅は、以前にも増して生命力が漲ってきたかに視えた。腑に落ちないのはその欅には鳥や虫が寄りつかないばかりか、敷地内の何処にも猫はおろか犬さえ一匹もいないことだった。ひよっとしたら、人間をのぞく生き物は立入禁止なのかも知れない。ドアが開いたので二人は中に入った。真夏の真っ昼間だというのに、部屋の内部はヒンヤリしていて心地好かった。  「杏子、ここへ引っ越してきてから今までに窓を開けたことは」  「帰宅直後はその都度開けていたわ。でも変なのよね、窓をいくら開けっぱなしにしていても、虫なんて一匹も入ってきたためしがないんだから」  「そこなんだ、不思議なのは。人間のようにある程度の知能に達した生物を通し、他の生物は通さない……まるでフィルター機能を備えているようだなこの建物は」  「何者かが、データベースの機能に例外を設けたような感じね」  「その例外が我々人間ってことになるのかな」  「その通りだわきっと」  杏子が室内の冷えた空気を追い出すかのように、窓を開けると同時に熱風が勢いよく流れ込んできた。秀一は風呂場のドアを開け、浴槽の蓋をそーっと持ち上げてみた。浴槽は手入れが行き届き、残り湯など入っていなかった。そのためだろうか、壁面から反射する光が眩しいぐらいだった。杏子の想い違いかそれとも恐怖体験のショックから、無我夢中で動き回っている中に意識せず浴槽を綺麗にしたのだろう。  よく火事場の馬鹿力などという《咄嗟|とつさ》の反応と、それは似たような行為なのかも知れない。無意識の振舞いには、通常では想像つかない能力発揮が伴うともいうが、人間の潜在能力のなせる業か、あるいは未知の力が作用した結果だろうか。超常現象など、宇宙そのものに意識でもなければ、説明つかないばかりか人間には到底想像のおよばない現象だ。  長い黒髪が浴槽内を蠢き、真赤な血が溢れ出してくるのを幻視した秀一は、金縛りにでもかかったようにその場に立ち竦んでしまった。身体が凍りつき手足に感覚がなかった。浴槽から洪水のように溢れだし、廊下へとすさまじい勢いで流れ出す鮮血――ホラー映画の一場面のようだ。女の甲高い声が深く暗い地底から、はじめは微かに、やがて鼓膜を揺さ振る大音響となって秀一に襲いかかってきた。  「秀一さんっ」  「えっ、ああ、どうも考え込んでいたらしい」  「さっきから呼んでたのに聴こえなかったようね。わたしコンテナに詰めるから、秀一さん窓の傍に積んでくれないかしら」  「よしきた任せなさい、力仕事なら得意中の得意。先ずはコンテナを収納庫から出して、列べておくとしよう」 七  杏子の手際がよかったので作業は順調に捗った。久し振りの肉体労働に秀一は身体の節々に痛みを感じたが、むしろ酩酊感とでもよぶべき快い感覚だった。時刻は正午を回ったばかりなのに、普段滅多に使わない筋肉まで使ったためか、二人は軽い疲労感とともに空腹感をも覚えた。  「そろそろ昼食にしようか。この辺にレストランはあったかな」  「その方なら、わたしに任せて。配達して貰いましょ」  杏子のキーボードを操作する音が、出入口の方から微弱な震動に変換され、壁を介して伝わってきた。埋め込み型の端末から街中のレストランに配達依頼をしているのだろう。やがて首尾よく注文できたらしく、洗面所の方から杏子のうがいをしているのが、壁伝いに軽い震動となって伝わり、秀一の聴覚を刺激した。フィルター機能をも果たす壁が建物内外の音を選別、吸収し、適度に調整して住人に伝達する仕組みになっているのだろう。  ほどなく、電鈴が鳴ったので、秀一は椅子から立ち上がって出入口へと急いだ。役目を果たした配達人は電鈴を押して立ち去っていた。引き込まれたトレー上には注文した昼食が、複数の惣菜ともども二人前をパックにして分けてあった。請求書がないのは、電子決済が済んでいるからだろう。容器類は今時の例に漏れず、有機物で出来ており、そのまま廃棄してもバクテリアが分解してくれる。ささやかな公害対策というやつだ。  秀一はひっくり返さないように慎重に両手でトレーを持ち、まだ荷造りせずに残してある洋テーブルの方に向った。慣れない手つきで容器を次々とあけるにしたがい、旨そうな和食の匂いが周辺に立ち籠めた。お互い話しかけることなく、しばらくは食事に熱中した。ところが、食事が一段落すると同時に、二人そろって溜息を漏らし、想わず噴きだしてしまった。  「和食ってどの料理もとても微妙な味がして、美味しいんだけれど肩が凝るのが困りものよね」  「同感、箸を使う食事なんて久し振りだ。口が強張って飮み込むのは大変だったが旨かった。それにしても、此の緑茶のなんとも不思議な味わいにはただ溜息出るのみだな」  普段、食べることには無頓着な秀一だったが、人の繊細な味覚に訴える日本料理の味わいを完全に忘れてしまってはいなかった。母親の手料理を懐しく憶いだすことさえあった。しかし、今となっては遠い昔のように想えた。それは秀一ひとりに留らず、杏子はもちろん日本人全員に関わりのある食糧難という深刻な問題が背後にあったためだ。  食糧難が近い将来どれほどの深刻な影響を人類におよぼすか、想像する度に誰もがゾッとしたことだろう。結局、お先真っ暗な未来についていくら悩もうが、どうにもならないと気づいて思考を停止させてしまうのだ。和食など滅多に口にしないのだから偶には贅沢も許されるだろう――二人はそう想うことで納得することにした。やりきれなさは残るが、一応満足したのを機会に、秀一は煙草に火を點けて寛ぎ、杏子は緑茶を味わった。そうこうする中に前夜の寝不足のためか二人とも眠気を催しはじめた。  「なんだかやけに眠くなってきたぞ。十五、六分ソファに横にならせて貰うよ。杏子もそうしたらいい」  「ええ、そうね」  いい終るやいなや杏子はソファの肘掛けに両手を載せ、その上に顔を伏せると軽く寝息をたてはじめた。秀一はそんなあどけない杏子の寝姿を一瞥したのち、灰皿を手にして反対側にあるソファに寝転んで食後の一服を楽 しんだ。  秀一は学生時代の寝煙草の習慣を憶いだし、喫煙しながらボンヤリ天井板の木目を眺めた。ところが、身体になにかがのしかかってくる感覚に囚われて《狼狽|うろた》えた。何を意味するのか分らず右手で振り払おうとしたが、金縛りにでもかかってしまったかのように、身体全体が硬直してしまった。首を締める何者かの両手から生々しい感触が伝わってきた。  意識がハッキリしているにも拘わらず、秀一にはどうすることもできなかった。抵抗しても無駄らしいのでしばらくじっとしている中に、首からも身体全体からも圧迫感は遠退いて行った。硬直した姿勢で身じろぎせずに天井を睨みながら、何処からやってきた何者なのかと考えた。秀一はいまだに残る生々しい感触から、正体不明の相手は二十七、八歳の女だったような気がした。  左手の人差指と中指の付け根に激痛が走り、指に狭んでいた燃え殻を床に落としてしまった。それは、幻覚が襲ってくる直前、秀一が迂闊にもフィルター近くまで喫ってしまった煙草だった。ということは、金縛りにかかっていたのは、時間にしてほんの数秒間だったことになる。汗がどっと吹きだしてきた。しかし、身体はまるで氷水の中に漬かってでもいたかのように冷たかった。  額の汗を手の甲で拭きながら、先刻の不可解な体験を頭の中で再生してみた。日中なので明るいばかりか意識がはっきりしていたために、周囲の様子を鮮明に憶えていた。幻覚でもなく悪夢でもないとしたら一体何だったのか。煙草を咥え、火を點けようとするが、手が顫えて上手く點けられずに苛立った。ライターを持つ右手を左手で抑え、顫えながらやっとのことで火を點け、深々と吸い込むと噎せかえった。  「秀一さん、早いのね。おやすみになれた?」  「うん、ああ。スッキリした」  嘘をいったところで、すぐばれてしまうのにと想いつつ、それでも杏子には本当のことはいうまいと決めた。程なくして、家具類を除いて部屋にあるものは悉くコンテナに詰め終えた。搬出は金曜日にやってくる引越会社に依頼済みなので、洋テーブルの上を片づけ、不要なものを捨てた。午後一時を回ったばかりだったが、備え付けのロボットが掃除してくれるので戸締まりをして港に向った。  運転しながら窓を開けてみたが、真夏の日中のためだろうか涼しくはなかった。却って車内に熱風が吹き込んできて暑いぐらいだった。杏子はドライブするのが久し振りなのか、終始笑顔で秀一の話に聴き入った。秀一の方は内心穏かならない精神状態のために、気取られはしないかとそのことだけで頭の中は一杯だった。高層ビルの立ち並ぶ前景から海が垣間見えた。  秀一はハンドルを切って車線を変え、港の方向へと車を走らせた。カモメのように白い鳥が群をなして車を掠めて翔び去り、汐風が開けた車窓から吹き込んできた。海特有の臭いを伴なった汐風はまるでからかうかのように二人の鼻をくすぐり、後部の窓から抜けて行った。杏子が仔猫のようなくしゃみをし、身震いをするとクスクス笑った。  「杏子には、汐風は毒だったかな」  「いいえ、そんなことないわ。海大好き、汐風大好き人間よ、わたし」  「昔は今ほど海だって、汚染が酷くはなかったんだがな。最近は何処へ行っても、風に化学物質の臭気が潜んでいるんだろう、くしゃみが出るのも無理ないよな」  「そういえば、汐風にしては複雑な臭いがするわね。これって、海水の汚染が原因かしら」  「そうかも知れないな、困ったものだ」  「なにも秀一さんが一人で困ることないわ。さんざん環境破壊を繰り返してきて、反省の色すらない全人類の責任よ。いまさら、いってみたところでしようがないけど」  軒を連ねる倉庫の間から埠頭に出た。汐風が沖の方から陸へ向ってドッと押し寄せてきた。車を停めて空を見上げると、風に逆って白い鳥が5、6羽翔んでいるのが眼についた。一見カモメのようだが、よく注意して視ると足には水掻きがなかった。鳴き声は鴉そっくりだから鴉そのものなのだろうが、白い鴉など奇異な感じがするだけだ。  汽笛を辺りに轟かせて外国の巨大な貨物船が入港してきた。その船を取り巻くように数隻のタグボートが敏捷に動きながら誘導していた。岩礁や浅瀬に乗り上げたりしては大型船は身動きが取れなくなるからだった。タグボートが誘導する様は、恰もイルカが鯨に進行方向を教えているかのようだ。  以前、この埠頭からは乗用車、鉄鋼製品、工作機械などが盛んに海外に出て行ったものだが、今では偶に外国船が入ってくるばかりで、それも輸入品を積んだ貨物船が主で客船など見掛けなくなった。いつ頃から日本は輸入大国に変ってしまったのだろう。穀物の備蓄が底をついてからだろうか。当然のことながら穀物の輸入が増えたのであれば、それに比例して輸出を増やさなければ外貨は減る。皮肉なことに輸入は増え続け、それに反比例するかのように輸出は減り続けていた。唯一外貨獲得に貢献していたのは、建設現場や土木工事で使う重機類だった。  輸出品目の中には、地下道工事用の巨大な掘削機も入っている。輸出先は合衆国の他にヨーロッパ連合国、ロシア、インド、支那など大国ばかりだった。注文主は民間企業ではなく各国政府――それは一体何を意味し ているのだろう。政府が自ら重機を導入し、何を企んでいるのか想像するだけでも興味深い。一説では、大規模な地下都市を建設し、地下道で各国の都市を繋ぐ計画があるとか、すでに着工しているとかいうのだが信じられない話だ。  仮に各国で地下都市を建設しているのが事実だとしても、一体何の益があるのか役所のお偉方に聞いてみたいものだ。可能性を考える場合の常套手段は消去法だが、その手法がいつも当るとは限らない。となれば、最もありそうにない荒唐無稽としか想えない、異星人との戦争が理由として浮上してくる。地球上の何処に異星人と戦争するほどの、戦力や工業技術を持つ国があるのだろうか。  破壊が人類の本能であるにしろ、星間戦争に到っては規模が違いすぎる。古いビルディングを壊し空地にする程度のことしかできない人類が、異星人と戦争だなんて莫迦莫迦しい。地球の人類は生命誕生以来、異星生物 の管理下にあり、彼らの実験動物なのかも知れない。  彼らは人類に知恵を授けておいて、悪への誘惑を囁きながら精神をコントロールし、さらにその囁きが過激を極め、人類に自殺を勧めることで最後の仕上げを企んでいるとしたらどうだろう。それこそ人類は彼らの罠にまんまと嵌まってしまった間抜けな生物、存続するに値しない存在だとしたら、現在地球の運命が滅亡に向って《直|ひた》走りに走っているのは、自業自得ってことにならないだろうか。  「秀一さん大丈夫?そろそろ帰りましょうか」  「うん、そうだな。珈琲店にでも寄って、旨い珈琲でも飮むとしようか」  「賛成」  エンジンを始動させると同時に篠突く雨が降りはじめた。その降り方の猛烈な様は熱帯地方のスコールをも凌ぎ、ワイパーを作動させても視界ゼロに等しい凄まじさだった。車道を走っている限り、完全に自動走行できるのだから、たとえ運転者がぐっすり眠っていようが問題ないのだが――。行先を入力した直後に、システムが車道からコードを読み取って現在地を割りだし、時には羅針儀からのデータによって方位を特定する。次に塔載した膨大なデータベースから、地理情報を得て目的地までの最短コースを決定するのだ。  「帰路のコース上に、アクセス可能な旨い珈琲を飮ませる珈琲店はあるかな」  「まかせて、眼を凝らして探してみるわ。秀一さんはきっちり運転してね」  「わかった。考え事せず、ひたすら運転モードに集中することにするよ」  濁流の中を行く小型船さながら、車は勢いよく流れる雨水を掻き分け、水しぶきをたてながら走行した。雨滴がフロントガラスを叩いて視界を遮り、路上に溢れる水がハンドルの効きを弱めた。秀一の体内に警報が鳴り響き、ハンドルを握る手に緊張が走った。  「前方左側にてんとう虫って店が視えるわ。ほらあれよ、黄色地に濃紺の斑点紋様をあしらった建物、ポプラ並木の間に」  「了解、視えてきた」  そう応える秀一の声には、安堵の響きが籠っていたかも知れないが、窓外に注視している杏子に気づいた様子はなかった。できてから相当に年数の経つ建物らしい――てんとう虫を模して壁面に塗装した濃紺の斑点が剥げかかっていた。車を店先に駐め、二人はずぶ濡れを避けるかのように店内に駆け込んだ。  虫にも色々あるが、てんとう虫は人から好かれる方の虫だろう。何となく愛嬌があったりするので子供が恐がらない。店内に駆け込んだ二人は老舗を想わせる重厚な造りの中に、現代風の洒落た内装を取り入れているのに眼を《瞠|みは》った。テーブル、椅子、照明器具のどれをとっても高価な骨董品の《趣|おもむき》ながら、時代を超越した新鮮味を漂わせていた。  店内に流れる音楽は店主の骨董趣味にはおよそ似つかわしくなかった。もちろん二人にとっては初耳の、人によっては神秘的にも奇妙にも聴こえる前衛派の曲だった。経営者らしいその老夫婦がカウンターの内側に鎮座している様は、まるで仙人、仙女がこれから香でも焚きそうな雰囲気を漂わせていた。  視せて貰った音響製品は、デジタル・オーディオのような最新のハイテク・マシンの趣はなかった。時代がかった渋みのある木製キャビネットに、管球式アンプの組み合わせは骨董品のようだった。いまや技術の使い捨ては、常に最先端の技術を要求する軍事兵器のみに留まらなかった。影響は民生機器にも及び、絶えず新製品が出ては消えて行った。  ふと秀一の頭の中に突飛な考えが浮かんできた。人間が絶えず最先端技術を寸時も休むことなく追い駆けるのは、精神的に進化できないところに起因しているのではないか。精神的進化の停滞を埋め合わせるために物 質面での進歩を指向するのだ。それは精神上の不備を物質で補う代償行為に等しい。  「秀一さん、吸殻が床に落ちそうよ」  「おっと、危ういところであった」  「おどけている場合じゃないでしょ」  「すまぬ、貴公も一服どうか」  此処で杏子は噴きだしてしまった。視れば、カウンターの中で老夫婦が必死になって笑いを《堪|こら》えていた。  「ご夫婦なんですか?」  カウンターの中から奥さんが杏子の方を向いて訊いた。店主が頻りに「黙ってろ」とでもいうように、奥さんの脇腹を小突いているらしい様子だった。  「いいえ夫婦ではないんです。でも、それ以上かも知れません」  杏子の大胆ないいっ振りに、秀一はドギマギしてしまった。奥さんの方は一瞬戸惑っていたようだが店主の止めるのも構わずに続けた。  「ごめんなさい、あんまり仲が好さそうに視えたもんですから」  「ありがとうございます」  これ以上愚図愚図していたのでは、天衣無縫な杏子の口から、次に何が飛び出すやら分かったものではない。コクのある珈琲を味わい、興味盡きない音楽を聴いて、大いに満足した今こそ潮時かも知れない。勘定をすませ、老夫婦に会釈して店をあとにした。雨はすっかりあがり、青空が天空の彼方にまで続いていた。先刻のどしゃ降りがまるで嘘のようだった。  車を運転しながらうしろを振り返って視たが、珈琲店てんとう虫は視界から消えていた。見落したのではないかと振り返って再三確かめてみたが、黄色地に濃紺の斑点模様の建物は何処にも見当らなかった。学生時代に秀一は交差点で信号待ちしていて、此方を凝視している自転車に乗った若い女を視かけたことがあった。やがて信号が青になり、秀一もその女も舗道を同一方向に進んだ。  自転車で颯爽と秀一の前を走る女の優美な仕種を、何気なく眼で追ってる最中にそれは起こった。鮮やかな深紅のワンピースを風に靡かせ、眼前から忽然と消えてしまったのだ。神隠しにでも遭ったのではないかと秀一は 我が眼を疑った。今もって秀一はその女の表情を憶いだす。異国の風趣を遥かに超え、この世のものとも想えないなんとも異様な女だったのを。  人は一生の間に何度不思議な体験をするものだろう。今日の珈琲店での体験にしろ、学生時代の路上での体験にしろ、不思議以外の何ものでもない。杏子は気づいただろうか。ふと横を視ると、杏子は軽い寝息を立てながら無邪気な表情で眠っていた。昨夜から今朝にかけて熟睡したはずだが、実際には眠っていたかどうか、杏子自身にも分らないに違いない。 八  秀一が車を車庫に戻しに行ってる間、杏子は出入口の錠を開けたのち、仲間同士で互いに触覚と触覚を触れて何かを伝えあう蟻の生態を観察していた。何者かが、地球外から蟻を観察する人間を監視している――ふと 杏子の脳裏を古いSF映画の一場面がよぎった。秀一が戻ってきたのを機会に蟻の観察を諦めて起ち上がり、名残惜しい想いをふっきって戸を開けると秀一のあとから家に入った。  奥の方で人の気配がしたように想い、秀一はギクリとして杏子の方を視るが、幸いにして気づいた様子はなかった。秀一は廊下を故意に大きな足音を立てて奥の方へと進んで行き、誰もいるはずのない寝室を覗いてみた。気の所為だったかと安堵の吐息を漏らしつつ、傍に杏子がいなくて好かったと想った。廊下を元きた方向に引っ返し、熱気の籠った居間に入って行った。  ソファに腰掛けてしばらくは何も考えずに煙草を吹かした。バス・タオルで髪を拭きながら居間に入ってきた杏子を視ると、いつの間にか緑色のワンピースに着替えていた。外出時にカーテンを引かずに出たので曇りガラスを通し、外部から淡い光が居間に差し込んでいた。その淡い光がワンピースの緑色を散乱させ、初恋の相手を前にしたかのように秀一の眼に眩しく映った。  秀一はのっそりと起ち上り、肩にタオルをかけてシャワーを浴びに行った。傍を複数の人物が通りすぎる気配がし、耳許に女の囁き声が聴こえたが、何といったのか分らなかった。意識をはっきりさせるべく頭を激しく振ったが、眼に膜が貼ってしまったかのように周囲が霞んで視えた。浴室の戸を閉め、手探りでシャワーの栓を捻って水温を調整した。適温になったのを確かめたのち冷静を装い、よからぬ想念を吹っ切るかのように鼻唄を唄いながら温水を浴びた。  温水を浴びて気分爽快になるとともに、眼に膜が貼ったような感じはなくなった。換気扇のスイッチを入れ、蒸し暑さの因になっている湿気を屋外に排出した。頭をタオルでごしごし擦ったのちに身体全体から水気を拭き取った。洗濯したてのパリパリに干上がった下着を身に着け、焦げ茶色の半ズボンを履いてシャワー室を出た。秀一が居間に戻ると、杏子はヴィデオ・チップを再生して観賞の最中だった。それは、ある古書店で秀一が学生時代に偶々入手した古い記録映画『カフカの世界』だった。  学生時代にひょんなことからその記録映画の存在を知った秀一は、欲しくて堪らず、頻繁に街の中古ヴィデオ・ショップ巡りをするようになった。探しはじめて一年が過ぎ、そろそろ諦めかけていたある日のことだ。パブでビールを呑み、ほろ酔い気分で繁華街をぶらつくうちに、それまで一度も通ったことも立ち寄った記憶もない裏通りに迷い込んだ。大抵、裏通りは閑散としているものだが、その通りはむしろ表通りよりも賑わっていた。古書店や骨董店、なにやら怪しげな民芸品を売る店がびっしり軒を連ねていた。中古と名のつくものなら、何でも揃っていそうな店は何処も人で溢れ返っていた。  秀一はたちまち酔いが醒め、古書店を手当たり次第に覗きはじめた。七、八軒目の古書店に入って何気なく眼をやると、まるで秀一を待っていたかのように、そのチップが全集本の間にひっそりと収まっていた。定価の十 数倍もの値段なのに愕き、数ヶ月間に亙る歓楽街での浪費を後悔した。しかし、ここで迷っていたら、もう永久に入手できずに悔やむ恐れがあり、想い切って買うことにした。  翌週の夕方、物理学や化学の参考書を適当に選び、ショルダー・バッグに詰め込んでアパートメントを出た。バッグが肩に喰い込んで骨が軋んだ。流石参考書は重いなどと感心しながら、秀一はやっとのことで馴染みの 表通りに辿り着いた。その安心感から、急に渇きを覚えてカフェを探し歩くことになった。  秀一はうしろから肩を叩かれ我に返った。不思議なことは重なるもので、振り向いた間近に、不精髭を生やし、よれよれのブレザーとスラックスを身に着け、サンダル履きのラフな恰好をした北原祐介がいた。彫が深く日焼けした相貌に、いつ散髪に行ったか分らないクシャクシャな頭髪、190cmを超える長身の祐介は一見したところ探検家を想わせた。その北原が満面に人懐っこい笑みをうかべ、眼前に立っていたのだ。  「よっ前嶋、どうした。珈琲でも飲むか」  「北原、こんなところで会うなんて奇遇だな」  四つ角の一角に赤レンガ造りの古風な、洋館かと見紛うようなカフェがあった。直径十五メートルほどの池を模した円形の水槽が、吹き抜けの広々した中央フロアを占めていた。その周囲を椰子の木が取り囲むように生え、水槽の中には大小様々なロボット型の魚十数匹が泳いでいた。「魚に餌を与えないで下さい」との注意書きがあった。ジョークのつもりらしい。店内の装飾は視るからに古風で、二十世紀初期にでも戻ったような雰囲気だった。  単に色褪せているとか、歳月が経って煤けてしまったようには視えなかった。経営者は一種独特な感覚の持ち主なのか、そうかといって懐古趣味の持ち主でもなさそうだった。骨董品、中古品、古書、昔を偲ばせるありと凡ゆる物が溢れる街に相応しい建築物だ。二人は店内に足を踏み入れた直後から、なんとなく懐しく落ち着いた気分に浸った。普段、酒を呑まない祐介がラム酒のオンザロックを、アルコール漬けの秀一がキリマンジャロのブラックを注文した。店内に、テナー・サックスフォン奏者、スタンリー・タレンタイン の奏でる昔懐しい曲が鳴り響いていた。  「そのショルダー・バッグの中身はなんだ」  「参考書だ。ここの裏通りにある古書店で売ろうと想ってな」  「どうせ、物理学だの化学だの、サッパリ分らない本ばかりだろ」  「分る分らないは別として、中身はお察しの通りだ」  「ところで、この辺には裏通りなんてものはないぞ」  「えっ、それはどういう意味だ」  「どういう意味もこういう意味も、昔から裏通りは存在しない」  「うーむ、重いのを我慢して担いできたのにな」  「この店を出て、通りを左へ真っすぐ行ってみるといい。右手に大きな古書店があるぞ。どんな内容であれ、参考書なら高く買うので評判の古書店だ」  「そいつは助かる。この重いのをまた担いで帰るなんて堪らんからな」  「物理や化学の参考書ばかりでなく、偶には違った傾向の本などを読んでみたらどうだ」  「そうだよな、参考書だけでは視野が狭まってしまう。酒呑む暇はあるんだが、他分野にまで手を拡げるとなったら、相当ストイックに生きなきゃ無理かな」  「二十世紀終盤に異星生物から最後通牒が、当時の合衆国大統領に届いたの知ってるか?」  唐突な問いかけに面喰らい、秀一は何も応えずにただ祐介を視るだけだった。頭の中でめまぐるしく考えを巡らす――異星生物ってあの異星人とかいう奴だろうか、それにしても最後通牒とは何のことやらさっぱり分らない。  「異星生物だの最後通牒だのって何のことだ」  「なんだ、知らなかったか。実はな、インターネットでフランスの文献を《漁|あさ》っていたんだ」  「フランスか、フランス語できるのか」  「ああ、少しばかり。それで例の話を知ったんだ。地球をこれ以上汚染させないように、我々が地球を支配することにした……云々」  「なんで異星人が、地球のことに《喙|くちばし》を入れなきゃならない」  「奴らにとって、地球は地球人だけの所有物ではないらしいんだな」  「うーむ、増々こんがらかってきたぞ。それでは誰のものだ」  「銀河連邦とやらが管理しているらしい」  「まるで、未熟な人類に地球の管理を任せておけない、とでもいいたいようだな。大統領だってそんな理不尽は認めなかったろう」  「そこでだ、当時の合衆国大統領はどのように返答したか」  「なんだ冗談か。北原、人が悪いぞ」  「気分を害したんなら謝る。誰だって、こんな話には半信半疑だ」  「意見を聞かせろってことならいうが、とっとと地獄へ失せやがれ……だろ」  「合衆国大統領の反応は、真にその通りだったようだな」  「それでどうなった。最終戦争、ハルマゲドンはあったのか。今は二十一世紀だぞ」  「あったと想われる徴候は随所にある。最近この世界が変だとは想わんか」  「変って何が」  「偶然が何度も起こってるんだな。偶然ってのは何度も起るものではなく、もし何度も起こるようならそいつは必然だ。必然が頻発するとなったら、やはり変なだけで済ませる訳にはいかない」  「そうだろうな。しかしそれだけでは、異星人が地球を支配している証拠にはならないだろ」  「それはそうだが、気をつけろ。我々は四六時中監視下にあるんだ」  「どうして」  「分らん。ところでUFOの存在を信じるか?」  「実物を視たことないし……応えようがないな」  「視たこともないものを信じろでは確かに無茶だ。だが世界中の何億人もの人々が、毎日、眼にしている書物の中に記述があるとしたらどうだ」  「その書物とは」  「旧約聖書だ。七、八十年前、《アメリカ航空宇宙局|N A S A》に在籍していた科学者ヨーゼフ・ブルームリヒが、エゼキェルの書を読んでいて気づいたらしいんだな。その記述を詳細に分析した結果、当時NASAが月に飛行士を送り込むべく開発を進めていた月着陸船にそっくりなのが判明したというんだ」  「しかし月着陸船に似ているだけで、UFOと決めつけるのはどうかな」  「言わんとすることは分る。だが、太陽系外の異星人が旧約聖書時代、すでに地球に到来していた可能性を否定できない。そういった奴らが、UFOを乗り回している連中の祖先なのかも知れないのだ」  「旧約聖書といえば新約聖書より遥かに古いよな。したがって、UFOは数千年以前から太陽系に飛来していたことになる」  「ブルームリヒの推測通りなら、旧約聖書に出てくる着陸船は異星人の乗り物だ――真偽はともかく。ひょっとするとUFOなるものは、地球がこの世に誕生して以来、太陽系を飛び回っていたんじゃないか」  「おいおい其処まで飛躍したら、一体どういうことになる。銀河系星系を造ったのも、連中ということになってしまう」  「そうかも知れんな」  「人間を造ったのも奴ら、そういいたいのか」  「いや其処までは考えたくないぞ」  急に跳びだしてきた話題のために、肝心なことは何も言わずに終った。誰しも薄々気づいているに違いないのだが、それを口外する勇気を持ち合わせていない。口を《噤|つぐ》むだけ、黙して語らずで通してしまう。早くからインターネット漬けだった祐介は、大らかな性格なのか情報公開には積極的だった。さほど慎重でもない秀一がいい淀んでしまいそうな話題こそ、祐介にとってみれば万人が共有するべき知識なのだった。 知識は力――それが祐介の持論だった。知識は学問世界に閉ざしておくのではなく、《況|いわ》んや支配層になど独占させておくべきものでもない。万人の体験もまた知識になり得るのだから知識は万人のものだ。しかし、実際には知識の共有など理想でしかない。だからこそ、情報公開は重要なのだと北原は力説する。理想を理想で終らせてしまったのでは、人類存続に何の価値もなくなるだろう。いつまで経っても学生気分の抜け切らない北原らしい論法だが、その熱意の籠った話し方には説得力があった。  二十世紀最大の謎、UFOは二十一世紀の今日も謎だらけのままだった。半信半疑の面持ちで誰もが半ば公然と話題にするが、UFOは依然として正体を曝けだしてはいなかった。しかし逆に考えるなら、二十世紀に各国の軍情報部はすでにUFOの存在を肯定していたとも言える。否定の態度を貫いてきた軍情報部は、実は逆情報を流し続けることで、一般国民の潜在意識にUFOの存在を刷り込んできたのだ。  「今日のところはこれで失礼する。興味深い話ではあるが俄かには信じ難い。詳しくは次の機会に聞かせて貰うとしよう。先刻、教えてくれた古書店に行ってみる。参考書を処分しないことには明日からの生活に支障をきたすからな」  「気が向いたらサイトを覗いてみたらいい」  「近い中に電話する。もっと詳しく聞きたいから」  太陽はすでに沈み、外灯が煌々と燈っていた。秀一は祐介と別れ、重いバッグを担いで古書店を目指した。通りは興味を魅きそうなものを探して《徘徊|うろつ》く男女で溢れ返っていた。通行人を押し分け掻き分け汗だくになり、その書店をやっとのことで探し当てた。祐介のいう通り、大きな古書店だった。店主は、秀一の持ち込んだ参考書に気前よく払ってくれた。苦労して担いできた甲斐はあるというものだ。祐介とはその日以来会っていない。些事に取り紛れて約束を果せないまま今日に到ってしまった。  「これ、とっても不思議なヴィデオね。こんなの視たのはじめて。秀一さんどこで手に入れたのよ、随分古そうね」  「うん?ああそれか。想い起こせばまだ学生時代だな」  「へえー、秀一さんに文学趣味があったなんて知らなかったわね」  「純文学作品で読むのは『審判』だけかな。専らSF――フィリップ・K・ディックの作品だ。カフカに比較したら理解し易いし面白いんでね」  「秀一さん、ディックのSF読むの?わたしも好きよ」  「書棚に全部揃っているからよかったらどうぞ。作品を論じたアンソロジーもあるはずだ」  今やディックのSFは古典中の古典としてもて囃されていた。それは現代の退廃した世界を二十世紀に予見していたからだけではない。作品の表面に漂うペシミズムの内側には、ディックらしいヒューマニズムが漲っていたからだ。単なる通俗科学小説では、空想物を好む多くの若い読者から支持を得るには到らなかったろう。現代SFには視かけなくなった人間臭いドラマを、展開させたところにディック作品の魅力はあった。  二十一世紀のSFは悉く類型化してつまらないものに堕していた。ハイテク技術の解説に終始し、暴力行為やドタバタ活劇を申し訳程度に付け加える始末だった。情報小説なる類の通俗小説となんら変る処はなかった。文 学性を無視した作品が横行し、現代のSFからファンを遠ざける結果になっていた。そうこうする中に、真の読者は現代の画一的な出版物から古書の世界に眼を向けはじめた。古書街が賑っているのにはそれなりに理由があったのだ。  さらにその読者に《倣|なら》うかのように他分野のファンおよび、マニアが中古品やら骨董品の世界に雪崩れ込んだ。影響は深刻だ――まずハリウッドが形骸化し、衰退の道を辿りはじめた。映画産業はコンピュータ・アニメーションに頼りきり、脚本の内容を碌に推敲せずに製作し続け、遂にそのつけが回ってきた。瓦解は自業自得だった。次いでインターネット上から新刊書の出版広告が消えて行った。映画製作の手法を模倣した出版界が、映画産業同様の運命を辿ったのは当然だった。  「活字の逃手なわたしにもディックは読めるわね。読みはじめたら途中で止められず、気がついたら朝になってたなんてこともあったわ。それにしても昔の映画って作りが丁寧なのにはびっくりね。二十世紀の終り頃からはどの作品も、中身が空っぽになってゆくようだわ……どうしてかしら」  「金儲けに奔走し、内容にまで注意が行き届かなくなったんじゃないかな」  「それだけなの?原因って」  「うーむ、エントロピーの増大がエネルギーの供給を上回ったのかも知れない」  「えっ?」  「あっなに、さして深い意味でいったんじゃないんだ。熱力学の第2法則、物理学者ボルツマンの理論だったかな。経済学者ケネス・ボールディングも、著書『20世紀の意味』の中でエントロピーに言及していたような気がする」 九  金曜日、六時に起床――夢は視なかったし夜中に起きることもなかった。しかし、熟睡したはずにもかかわらず、杏子はもちろん秀一も気分がすぐれなかった。トーストにオレンジジュースの軽い朝食をすませ、一服の間をも惜しむかのように手早く外出着に着替え、玄関に施錠をして何気なく空を視あげた。今にも雨が降ってきそうなどんよりした空模様に、二人同時に表情を硬くして肩を《竦|すく》め力なく笑うと、時間的余裕があったにも拘わらず、なにかを追うかのように慌ただしく車に乗り込んだ。  車は不機嫌そうに二、三度ノッキングを起こし、くしゃみに似た音を辺りに轟かせて動いた。二人を乗せた車は、野生動物が視せるような《躊躇|ためら》いの素振りを示し、アパートメント行きを拒んだ。秀一は気懸りになり、ハンドルを握る手に力を入れた。落ち着いて運転しないと事故を起こしそうだな――不安がハンドルを握る手から車に伝わりそうだった。雑念を振り払い、運転に集中せねばと想った。  「秀一さん大丈夫?額に汗が」そういう杏子の方こそ不安が募り、素振りに視せまいとしながらも落ち着かなかった。  「う、うん、昨夜はよく眠れたから大丈夫だ。杏子はどうだ?」  「ええ、わたしなら大丈夫よ、秀一さんのお蔭でぐっすり眠れたもの」そういいつつも、杏子はそわそわしていた。秀一が何かの拍子に、事故を起こすのではないかと心配するあまり、今にも心臓が止ってしまいそうだった。  「杏子、気分でも悪いのか?まだ時間はたっぷりあることだし出直してもいい。不動産会社と運送会社に、予定変更を知らせるだけで済むことだ」  「だめよ、時間と金がむだになるもの。わたしのことならいいの、それより運転に気をつけて」  杏子は健気にも自分より秀一の方を心配した。杏子のそんないい方に、秀一は強くならねばと想うのだった。それにしてもどうしてこうも憂鬱なのか。運転しながら自己分析を試みる。熟睡したにもかかわらず頭痛が酷く、爽やか気分には程遠い精神状態だ。ハンドルを握り、運転しはじめたときから暗澹たる想いは強まる一方だった。まるで、間に合いそうもない身内の葬儀に何とか赴こうとしながら、病を抱えて途方に暮れている孤独な老人の心境に近かった。  あのアパートメントは墓場とか納骨堂の類では――そんな突拍子もない考えが脳裏をよぎった。墓地の上に家を建てたばかりに災難に見舞われる――昔ならB級ホラー映画と相場は決っていたものだった。だが、今回は絵空事ではなく、現実に起こったことなのだ。秀一は奇異な形状をしたアパートメントよりも、あばら屋だろうが雨露しのげる日本家屋が好みだった。  杏子がどうして奇妙にしか視えない建物を気に入ったのか不思議だ。折をみて訊いてみようかと想うが、止めておくのが無難かとも想う。納骨堂だと仮定して、それでは一体何者があのような奇っ怪な建築物を建てたのか。外観はいうまでもないが、構造そのものにも人を落ち着かない気分にさせるものがあった。  そもそも、インターネット上に広告を掲載している不動産会社は実在するのかしないのか。建物の所有者はどんな人物なのか興味は盡きない。何者がいつ何の目的で建てたのか、建材を構成する物質は地球上に存在する のか、年代測定をしてみたら興味深い結果が出るに違いない。  内部はいうまでもなく、外部も一見したところ新築したばかりに視える。入居時に引越しを手伝いながら、建材に注意しなかったのは今となっては手落ちだった。仔細に観察していたら、建材に途轍もない古さを発見し、まるで異質なピラミッドにさえ視えたかも知れないのだ。  以前に祐介と話した際、旧約聖書に載っている、月着陸船にそっくりな乗物に就いて話題になったことがある。その後、秀一は古書店で聖書を一冊入手した。キリスト教徒でもない秀一は買うことに少なからず抵抗はあった。しかし読みはじめて間もなく、不信心者の躊躇など何処へか消し飛んでしまい、興味の赴くままにひたすら読み進めたのを憶えている。  旧約聖書中の『エゼキェルの書』には、着陸船に就いて愕くほど克明な描写があった。エゼキェルは桁外れに鋭い観察眼と、卓れた記憶力を具えた聖者だったに違いない。西暦紀元前――今から数千年前に聖者エゼキェ ルは、烈しい風と雲を伴った火の玉が北の方角から飛来してくるのを目撃した。エゼキェルは持前の鋭い観察力と卓れた記憶力により、目撃したものを寸分違わず脳裏に焼きつけた。  風と雲を伴って現れた飛行物体は火の玉のように輝いて視えただろう。エゼキェルはまた機体の四面に生物の顔らしきものを視ていた。四面から成る機体だとしても、四角形ではなかったかも知れない。何故なら角張っていては、大気中では抵抗が大きすぎて飛行には適さないからだ。地球製の月着陸船と決定的に異なっていたのは、ヘリコプター同様に機体上部に回転翼が付いていたことだ。  しかも、その回転翼は4基だから、地球製のヘリコプターとは異なる。さらに方向転換や高速飛行時に使用すると考えられる、ジェット・エンジンもしくはロケット・エンジンをも装備していた。これは、ロケット・エンジンしか装備していない月着陸船とは大違いだ。大気中をも飛行可能な設計だったのだろう。回転翼もジェット・エンジンも、大気の存在しない惑星上では何の役にも立たない代物だ。  描写はまだ続く。その着陸船を目撃し、なおかつその着陸船に乗った聖者エゼキェルは、異星人と覚しい生命体から教えを受けている。その内容は聖書に記述のある通りに違いない。異星人は異星から到来した科学者で あり、何らかの使命を帯びて地球にやってきた。しかし、目的に就いては地球人類には知る由もなかった。  聖書とりわけ旧約聖書は人類の誕生から始まる、地球の歴史を綴った歴史書と診ることもできる。当時、聖者エゼキェルは頻繁に異星人と接触していたに違いない。そうでなければ書として後世に残ることはなかったろう。人類がこの世に誕生して以来、UFOが地球文明に背後で関与してきたと考えられないことはない。  六角塔は日本の特定地域にのみならず列島全域にあるのかも知れない。そればかりか地球上ないしは太陽系全体に存在する可能性さえありうる。秀一は六角塔という形状に妙に引っかかるのが気になった。何故こうも 六なる数字が気懸りになるのか。しばらくその一点に思考を集中してみる。けものの数字「666」が地球文明に何らかの、関与をしてきた異星人を指しているなら、人類の歩んできた道は死の世界に通じていることになりはしないか。  しかし逆に、そのようなことがあるだろうかとも想う。人類よりも高度な文明を持つ異星人が殺戮を好む、野蛮な性癖や分裂症的な矛盾を持つ生命体のはずはない。UFOに乗ってやってくる異星人が、地球の人類とはまったく異なる価値観を持っているとしたら、地球の権力者が最も恐れるのはこの価値観の完全な違いだろう。  仮に連中が地球を征服し彼らの規範を我々に押しつけたとしてみよう。その規範が権力者にはまったく受け入れ難いのに反し、一般大衆にとっては歓迎すべきとするなら、世界の現体制は根底から覆ってしまうことにな る。権力者はそういった事態が起こるのを非常に恐れているに違いない。謎に満ちたあの建物は何らかの目的があって存在しているのかも知れない。  人類に向けてなにかを発信しているとしてそれは如何なる信号なのか。彼我の価値観や言語が互いにまったく異質なら、伝達内容が互いに理解不能なものになってしまうだろう。連中は対象とする地球の被験者に馴染 み易い映像を使うことにしたとする。だが、何処かが違っているのだ。そこで我々は誤解することになり、混乱を起こして恐慌に陥ることになる。杏子が浴槽で眼にしたものは単なる幻覚だったとは考え難い。  さらに、杏子の居室での不可解な秀一の体験は、単なる幻覚の類ではなかったはずだ。理解し難い信号であり映像だということだろう。死は人生の終りを意味しない。生と死は連続し未来永劫消滅することなく存在し続ける。死後の世界は別の世界にもかかわらず、現世と密接な繋がりを持っている。脳細胞および脳神経こそ、我々人間の眼には視えない世界と接触するための通信回路だ。  生命の生成消滅は永遠に繰り返される。この掟には人間の取るに足りない感情論など入り込む余地はない。冷酷無惨の厳然たる大宇宙の法則だ。連環状をなす進化過程を、頂点目指して進んで行く生命の行く手には、 想像を絶する数々の罠が待ち構えている。運よく頂点に辿り着ける生命はほんの一握りにすぎず、大部分は袋小路に嵌まり込んでしまうか、逆戻りすることになる。しかも、行き止りであることにも退化していることにも気づくことはない。  「危ない!秀一さん」  杏子の悲鳴に近い叫び声に我に返った秀一は、危ういところで対向車との衝突をかわした。短時間だが、秀一はハンドルを握っているのも忘れ、考えごとに熱中していた。ぶつからなかったのは《勿怪|もつけ》の幸いだった。杏子は事故を予測し、秀一の運転振りを息を潜めて視ていた。もし杏子が周囲の様子に注意を払っていなければ、二人は今ごろあの世行きになっていただろう。こんな早朝に対向車が走っているのは妙だが、わずか1、2秒の間ながら運転中に意識不明同然になるとは、これまでの秀一自身には考えられない事態だった。  秀一はハンドルを握る手にかすかな顫えがあるのを、感づかれないようにそれとなく隠し、「杏子、対向車はどんな車だった?」と冷静を装いながら、落ち着いた口調で訊き返し、何喰わぬ顔をして運転し続けた。  「黒っぽくて、なんとなく亡霊じみていたわ」そういいながら、不安が今にも爆発しそうなのを必死に堪えるあまり、杏子はそわそわと落ち着かなかった。  「ふーん、だとすると一体全体どういうことになるかな。上空から遠隔操作をしていたか、それとも完全自動走行の車を路上でテストしていたか、それとも……」秀一は其処までいうと黙りこんでしまった。  想像性の欠けた現実主義者や物質主義者には、意識の実体化など物笑いの種であり、狂信的なオカルト教信者の莫迦莫迦しい盲信にしか視えないはずだ。しかし、このところ秀一の身辺に妙な現象が相次いで起こっていた。感覚でしか捉えられない数々の不可解な現象を、信じる方が精神衛生上よいか、そういった現象を否定し、安全圏に退避している方が楽か――秀一はそう考えながらも、物質化なる不可解な現象に拘泥する己れを、現実逃避のアルコール中毒者かと疑わざるを得なかった。  一週間ほど前、秀一は以前に視たことのある、深紅のワンピースを着た女に隣町の交差点で遭遇した。女は前と同じように自転車に乗って信号待ちをしていた。信号が青になると同時に女は此方を振り向きざま凄みのある笑みを浮かべ、横断の途中で忽然と消えた。現れるのも唐突だが消えるのも唐突だった。この世とあの世が部分的に重なり、あの世の女が間違えてこの世に出現したのか。一回ならまだしも二回も出てくるとは、いくらエキゾチックで人間離れした不思議な女とはいえ、悪夢でも視ているようで薄気味悪かった。  「ああー秀一さん、そこ、そこを右よ」杏子は素頓狂な声で《忙|せわ》しく指さし、秀一に注意を促した。  「想ったより時間がかかってしまったな。おや、引越君はもうきているぞ。杏子、駐車場に車を入れる前に彼らと話す必要がありそうだな」  運送会社の車は着いたばかりらしく、二人の若者がトラックの後部に回り、コンテナを積む準備をしていた。  「そうね、説明してくるわ」  いい終るか終らない中に、杏子は車を降りると小走りに走って行き、運送会社の若者に何やら説明しはじめた。秀一はハンドルに手を載せ、杏子が戻ってくるのを待った。ほどなく、杏子は小走りに戻ってきた。  「窓の下で待ってて貰うことにしたわ。その方がよさそうなの。どっちにしても、車は中には入れられないもの」  前に経験していたので手際よく駐車でき、中庭から部屋に入るにも造作なかった。あとはリフトを利用して、コンテナを下へ降すのみだった。窓の左側にある扉の把手を回し、リフト走行用のシャフトを確認した。リフトは高速走行にもかかわらず静音設計らしく、液晶パネルに矢印や到着を示すアイコンの表示がなければ、動いているのにも気づかないほどだ。  運送会社の二人の青年は、手早くコンテナをトラックに積み終わり、先に出発することになった。引越先までの道順は地図を視るから分るとのことなので、玄関を入って直ぐの居間にコンテナを運び込んで貰うことにして合鍵を渡した。搬入が終ったら鍵を郵便受けに投函し、帰ってくれて構わない――そう付け加えた。  備え付けのキーボードを操作、パスワードを無効化してドアをロックすると同時に、二人は内側から聴こえてくる悪意の《篭|こも》った忍び笑いに気づいた。  杏子は一呼吸おいて、顫える手でキーを叩き、管理会社に解除通知を送信した。このアパートメントとは、これでおさらばできると想ったら胸の支えが取れた。部屋の内部を完全な静寂が占めた。何者かが暗がりに潜み、二人が出て行くのを密かに監視しているようだった。この建物は、まるで生き物ででもあるかのように呼吸していた。  駐車場から車を出して乗り込み、ほっとすると同時に疲労感がどっと襲ってきたのに気づいた。でかける前に雨模様だった朝方の天候は、いつの間にか崩れ、本降りになりかかっていた。路面に注意しながら車をゆっくり走行させる。朝のような危険な眼に遭うのはご免だ――杏子も同意見だったろう。秀一は今朝から一本も煙草を《喫|す》っていないのを憶いだし、口に煙草を咥え、ライターを取り出した。だが、運転に専念するべきと想い直し、煙草とライターをダッシュボードに放り込んだ。  雨が一段と激しくなり、路面が川に変貌し始めた。後方から大型のトラックが追い越しをかけ、二人の乗る車に飛抹を浴びせ、猛烈な速度で走り去った。ハンドルがいつもより軽くなり、秀一の頭の内部で警報が鳴りはじめた。速度をもっと落さなければ軽い事故では済まなくなる。雨がどしゃ降りの気配を示しているばかりか、風が真正面から襲ってきて危険この上なかった。  運転する秀一も横に乗っている杏子も、川を上流にむかって進んでいるような錯覚に陥った。珈琲店にでも寄って、この嵐をやりすごした方が賢明なのではないか。二人は心の中でそう想いながら頷き合い、そして殆んど同時にヒステリックに笑った。秀一は以前に立ち寄ったことのある、てんとう虫なる珈琲店がこの辺りにあったのを憶いだした。なんだか随分前のような気がするが、実際は昨日か一昨日かも知れない。記憶がぽっかり抜け落ちたようになってしまい、ほんの1、2日前のことさえはっきり憶いだせなかった。  「昨日か一昨日、二人でてんとう虫という珈琲店に入ったよな。あそこで一休みしようか。杏子、探す方は任せるよ」  「ええいいわよ。任せといて」  篠つく雨の中、通りの両側に眼を凝らしていた杏子が喊声を上げて指さした。「秀一さん、左前方にてんとう虫みつけたわよ」  「了解、視えた」そういうと秀一は左に急ハンドルを切り、てんとう虫の駐車場に車を駐めた。  二人はずぶ濡れになる前に、老夫婦がカウンターの中に鎮座している店に跳び込んだ。例の如く仙人、仙女がこれから香でも焚きそうな雰囲気を醸しだしていた。曲はキング・クリムゾンの『アイランズ』――雨降りの日に相応しい曲だ。弦の響きを中心にした演奏が独特な音色を醸し出す。リーダーのロバート・フリップは音創りに異常なほどに拘り、他のミュージシャンの追随を許さなかったという。そのためか、ストイックなまでのフリップの凝り性に同調できず、メンバーはよく変ったとか。  二人は芳醇な珈琲を味わい、神秘的な中に叙情性を湛えた音楽に聴き惚れて束の間ながらくつろいだ。しばらくして支払いを済ませようとした秀一は、カウンターの蔭からひょっこり顔を出した夫婦が、まったくの別人なのに気づき一瞬その場に凍りついた。老夫婦は一体どこへ行ってしまったのか。眼前の二人はむしろ子供にちかく、老夫婦とはまるで比較にならないほどに若かった。  杏子は身体を強張らせたまま、殆んど直立した姿勢でその場を動かなかった。顔からは血の気が失せ、眼が虚ろになって虚空を彷徨う――これは、大変なことになりそうだ。とにかく支払いを済ませ、早く杏子を外へ連れ 出さなくては危ない。カウンター内の若夫婦は無表情で何事にも動じない風だった。秀一が伝票に紙幣を添えてだすと、店主は無言のまま無造作に受け取り、レジスタを操作して釣銭をよこした。  秀一は根が生えたように微動だにしない杏子の腕を掴み、引き摺るようにして店から出た。雨は《疾|と》うに上り、太陽がいつもよりぎらぎらと輝いていた。秀一は《眩暈|めまい》を堪えながら杏子の手を引き、車に乗り込んでエンジン始動を試みた。だが車はうんともすんとも反応せず、何度か始動してみたが、眠りこける 《酔漢|よいどれ》のようにまったく反応しなかった。  眼が大きく異様な感じの若夫婦が店から出てきた。依然にこんな眼をした人物を視たように想うが憶いだせなかった。連中が車に近づいてこない中に此処から去らなければ――。杏子は依然として身体を強張らせ、眼はあらぬ方角を向いていた。二人は汗をかきながら口を半開きにして喘いだ――車内の気温が急激に上昇しはじめていた。いくらエアコンの効きが悪いにしろ車内の気温が高すぎた。まるで電子レンジの中にいるようだった。このままだと焼け死んでしまう。あの連中に特殊な能力があるなら、この場から即刻逃げ出さなければ危ない。  秀一は限りを尽くして罵ったり詛ったりしながらアクセルを踏み続けた。やがて、悪態が呪文か合言葉でもあるかのように、轟音とどろくエンジンを始動させた。連中から遠ざかることしか頭になかった秀一は、エンジン全開で車を猛発進させてその場から脱出した。路面はまだ乾き切っておらず、辷り易かったが気にせず跳ばした。助手席で深い吐息をついて苦しそうにしている杏子を視れば、青ざめていた顔色は朱色に染まり、眼にはいつもの利発そうな輝きが戻っていた。  「秀一さんよかったわね、エンジンかかって」  「うん、一時はどうなることかと冷汗を掻いたよ」そういいながら、余裕のあるところを視せるように強張った笑みを浮かべた。  本当は冷汗どころではなかったが、杏子を前にして虚勢を張った。そうしなければ、二人揃って恐慌状態に陥り、収拾がつかなくなるからだった。  杏子は何事もなかったかのように話しはじめた。「さあ、帰りましょ。コンテナを開けて整頓しなくちゃ」  「コンテナは何処にあったかな。それから、業者の電話番号をどうしても憶いだせないんだ」  「そうなの?でも、そんなこと気にすることないわよ、わたしが知ってるから。第一、そんな些細なこと気にするなんて秀一さんらしくないわ」  「うん、そうだな」そういいつつも、秀一は自分の記憶力の衰えには何か原因があるのではないかと怪しんだ。精神的な障害ではなく、何らかの外的要因によって記憶力が弱まっているとしたら――。  外的要因で想いつくのは、些か莫迦莫迦しい話だが、UFOとの遭遇にまつわる拉致事件だ。拉致被害者は一様に人体実験を受けたりするらしく、体内に通信装置を埋め込まれたりするという。さらに強力な催眠術によって記憶を消去されてしまうこともあるらしい。UFOとの遭遇に限るなら、誰もが似たような体験をしていても変ではなかった。しかし拉致に遭った挙句に人体実験を受けるばかりか、その後、長期に亙って悪夢に悩まされるとしたら変なだけでは済まない。単なる妄想で片付けてしまって済むような軽い問題ではなくなる。  秀一は今よりも若く血の気の多かった無鉄砲な時代、よく大酒を呑んだすえにベンチでごろ寝をしたことがあった。時期が春や秋だったりすると寝心地が好く、明方まで寝入ってしまうことがしばしばあった。酔い潰れ、ぐっすり眠り込んでいる酔っ払いを拉致するなど《容易|たやす》いことだったに違いない。となれば、運悪く連中の拉致に遭い、UFOの船内で人体実験を受けたとしても不思議ではない。  「秀一さん、運転中に考え事?考えるのは家に着いてからにしたら。でないと、その中に生命を落すことになるわよ」  杏子に言われるまでもなかった。秀一自身、飲酒はもちろんだが運転もいずれ止めなくてはなるまいと覚悟していた。  「杏子、すまない。考えるのは家に帰ってからにするよ。もうこれ以上、危険を犯したくない。なんなら運転を交替してもいい」  「いいわよ、そうまでしなくたって。ただ秀一さんのことが心配なの。わたしが傍にいて、注意していればすむことですもの」  「借家まではもうすぐだから、どっちみちそう跳ばす必要もないしな。ところで、いま何時ごろだろう」  「午後5時を回ったようね。てんとう虫には、ずいぶん長くいたことになるんだわ」  「そのようだな。あそこの老夫婦はどうなってしまったのかな。それにしても、あの若夫婦は一体何者なんだろう」  「若夫婦ですって?」  「どうも曲者のようだ。老夫婦とはまったく違う」  「例えば、どんな風に?」  「老夫婦は温厚だが若夫婦は危険……特に若い男からは血の臭いがしてきそうだった」  「えっ、そんな人達なの?わたし、途中から記憶が消えてしまっているのかしら、老夫婦のことしか憶いだせないのよ」  「無理に憶いださなくともいいじゃないか。いずれにしろ、あの珈琲店にはしばらく行かずにおこう」  「ねえ、あそこでなにかあったの?」  「杏子は、まるで子供に戻ったようだな。どうしてとか、何故とか質問するばかりだ」  「ご免なさい。だって知りたいんだもん」  「もう、この話は止さないか?それに、また運転中に考え事してるなんて杏子に難詰されてしまいそうだし」  「そうね、もっと楽しい話題にしましょ」そういいながらも杏子は塞ぎ込んでしまった。  どうやら、記憶がそっくり抜け落ちてしまったのが、杏子にとっては相当な衝撃なのだろう。秀一でさえ、記憶のほんの一部が欠落したぐらいで、落ち込んでしまうのだから無理はなかった。人間にとって記憶は、自己の存在を認識する手段であり、過去を読み解く手段でもある。だからこそ、人は肝心な記憶が機能しなくなるのを非常に恐れる。自分の名前、続いて顔そして帰る家というように、次々と忘れてしまったとしたら、そんな恐い経験が他にあるだろうか。  「秀一さん、家の前を通りすぎてしまったようよ」  「しまった、帰り道を忘れるとはな」  結局、裏通りは道幅が狭いために、後続の車をやりすごすことができず、一旦表通りに出る羽目になってしまった。物想いに耽って運転するのが危険とは心得ているつもりだが、いつもの癖でおなじ間違いをしでかす。表通りのように裏通りにも路面にチップを埋め込んであれば、目的地を通りすぎたりはしないだろうになどと、自分の間違いはさておいて秀一は行政の手際の悪さを非難した。  「秀一さん、自分の間違いを棚に上げて、他を《詰|なじ》るなんていけないわよ」  「おや、おや、他を詰るとは妙に古風で文学的な表現を使うんだな」  「駄目よ、話を逸らしても、秀一さんの正当性は認められませんからね」  どうやら、元気が出てきたらしい杏子の様子に秀一は安堵した。  「さて、やっと我が家に辿り着いたぞ。一服したら、引っ越しの仕上げにかかるとしようか」  「そうね、なんだかわたしくたびれちゃったわ、秀一さんは?」  「いや、杏子が元気を出してくれたから疲れは吹っ飛んだよ」  「あら、お世辞が上手なのね」 十  車をガレージに入れ、郵便受けの中にある鍵で玄関を開けた。秀一は居間にていねいに積んであるコンテナを視ながら、作業員がどんな経歴の持ち主なのかと想った。端を揃えてきっちり整列させてある状態から、二人は軍隊仕込みなのだろう――。湯を沸かして、杏子には薄めの珈琲にクリームを多く、自分の珈琲には何も加えずストレートにした。ソファに腰掛け、珈琲を啜りながら喫煙してくつろいだ。  口から吐き出した煙は初め丸い輪になったのち、徐々に疑問符を上下逆にしたような形に変形した。秀一は煙をぼんやり眺め、何処かで視たように想いながら、煙の行方を追う中に、それが故郷の海岸にそっくりなのを憶いだした。一体どんな意味があるのだろう――真夏の暑い夕方にもかかわらず寒気立った。  毎年、盆暮れには欠かさず故郷の墓参りをしていた。両親が墓の中で秀一に不満を抱いているとは想えなかった。淳子の死後、数年を経ずして両親は亡くなった。父の運転する車に母が同乗、急カーヴを曲がり切れずに崖から海へ転落した。地元の警察は事故死と断定したが、秀一はいまだに納得していなかった。  妹の溺死同様、警察は両親についても検死をしなかった。地元では誰もが同じ病気を抱えているのだから、死因を詮索する必要は微塵もないのだろう。愛犬のイッコクは、両親が事故死した直後に行方不明になってしまっ た。両親の葬式を終えてから、村を隅から隅まで探したが視つからなかった。四足動物の方が人間よりも引際を心得ているのだろうか。  煙草の煙が複雑な図形に変形するなど自然作用では不可能だ。それにしても何故上下逆の疑問符なのか、秀一の産れ育った田舎の海岸にそっくりな地形が、他の何処かにあるにしろ超自然作用の結果などとは考えたく なかった。  「ねえ、秀一さん」  傍で突然杏子の声が聴こえ、秀一はギクッとして危うく珈琲カップを落としそうになった。体勢を立て直して何気ない風を装い、「どうした?眠くなったんなら、その辺のソファにでも寝たらいい」欠伸をしながらそう応える秀一に、「そうじゃないのよ、煙草を一本いただきたいの」といい、杏子は悪戯っぽい仕種をした。  「杏子は未成年者じゃないから、他人がとやかくいう筋合いではないだろうけど、煙草は毒だぞ」そういいつつ、それでも国産の煙草をライターと一緒に手渡した。  横目で仕種を視ている秀一を意識するでもなく、杏子は慣れた手つきで煙草に火を點けると旨そうに喫った。そんな杏子をこれまでに視たこともなかった秀一は、覗き視でもしたかのようにどぎまぎし、落ち着かない気分になった。  「非難するような眼で視るのは止してよ。なんだか不良にでもなったみたい」などといいながら杏子は艶っぽく笑った。  どうしてどうして女というのは若かろうが、老いていようが色香の漂ってくるものだわい。なまめかしい女を演じてはいるが、杏子自身はまったく意識していない。何かに操られているだけだ。  「さあ一服が済んだら、コンテナを空けて、中身を向こう側の部屋に入れようか」  「ここでいいわよ。広々していてとっても寛げるの」  「それは嬉しいんだが、ここでは使い勝手が悪すぎだろ。居間は共用ってことにしておいたら……それに杏子の好みにぴったりな部屋がこの向こうにあるんだ」  「秀一さん使っているんでしょ?」  「正確にいえば二、三日前までは使っていた。備え付けの箪笥や書棚それにベッドがあるから、快適だし窓から視える景色だって満更でもない」  「でも、それじゃまるで押し掛け女房のようで嫌」  「おや、おや、これはまた古い表現を知ってるんだな」  「ええそうよ、古い人間ですもの」  「なにも急に老け込む必要はないし遠慮も無用だ。ちょっと視てみたらいい」  部屋に入っていった杏子の上げる《喊声|かんせい》が聴こえてきた。  「ほんと、秀一さんのいう通りだわ。わたし好みの部屋ね。窓から観える景色の素晴らしいこと」  「気に入ってくれたんなら大変嬉しいよ。それはそうと、急いで模様替えをしてしまおう」  コンテナを空け、衣類を備え付けの箪笥に入れて鏡台を組み立てた。続いて素ッ気ない柄のカーテンから杏子の持ってきた、瑞々しい花柄のカーテンに取り替え、書棚に参考書類を入れた。それまで殺風景だった部屋 は愕くほど華やいで視えた。机は大きく重いので移動するのを止め、《抽斗|ひきだし》に入れてある文書や単行本を隣室の書棚の方に移動することにした。  時刻はいつの間にか午後9時を回り、さすが日の長い季節とはいえ暗くなってきた。今夜は何事も起こらなければいいがと想う。嗜眠症にも不眠症にも重大な障害を誘発する威力がある。  「さてと、大部かたづいたようだから、シャワーを浴びて夕食にするか」  「秀一さん、お先にどうぞ。もう少し整理したら……」  「そうか、では先に浴びてくるとしよう」  猛暑続きの昨今、秀一はとても湯に浸かる気分にはならなかった。ぬるま湯か冷水を浴び、髭を剃っておしまいだ。気温が摂氏四十五、六度にもなる暑さは真に猛暑とよぶに相応しい。うっかり軽装で外出したら脱水症になり、運が悪ければあの世ゆきになる。喉の渇きは慢性化し、いつも身体がだるいために食欲は極端に減退する。そんな環境で人々は次々と死んで行った。この苛酷な生存圏に辛うじて適応している人類の中に杏子と秀一はいた。  だが適応性で劣るにもかかわらず、しぶとく生き続けている、悪運強い人類が少からず存在した。宇宙空間のスペースコロニーに活路を求めた人々だ。彼らは一般大衆よりも遥かに豊かな経済力を有していながら、躊躇す ることなく地球を見捨てた。秀一はたぐい稀な適応力、それに加えて強靭な体力を有する一人だった。秀一にとって、現在の環境は我慢できないほど住みにくくはなかった。中には痩我慢を生甲斐とする変人もいたが、殆んどの人々は生きるか死ぬかの瀬戸際で踏み留まっていた。  弱小国家の中、猛暑を超えて焦熱地獄になってしまった南半球は壊滅に近く、極寒地獄を呈しはじめた北半球の国々は辛うじて体裁を保っていた。国家としての体裁を繕う程度に経済力を維持できているのは、列強の中 でも数えるほどしか存在しなかった。大気すら燃え上がってしまいそうな焦熱地獄と、逆に大気さえも凍ってしまいそうな極寒地獄が地球上に日々出現し、そんな中で人々は生死の境を《彷徨|さまよ》い足掻いていた。  「杏子、シャワー浴びたら」  「ええ、そうね」  秀一は杏子が戻ってくるまでソファに寄り掛かり、煙草を喫いながらぼんやりとあらぬことを考えていた。杏子が転がり込んできてから今日でちょうど五日目になる。その間、杏子は毎日のように成長し急速に大人びてきた。わずかな間に女の子から女に変貌しはじめている――それは一体何を意味するのか。杏子がきた日は月曜日だから今日は金曜日、ということはあと二日で一週間になる。創世紀によれば、この地球は六日間ででき上がり、最後の一日は休み――安息日だ。創世紀に杏子の成長を重ね合わせたら一体どうなるだろう。  「あー、さっぱりした。でも、喉が渇いちゃったわ」  「うん、乾杯しよう」  この猛暑の中で呑むビールは砂漠の炎天下で呑む、カリカリに冷えたビールにも匹敵するだろう。余り豊かではなくなった現代社会に、極上のビールがあるのは奇異な感じだが、ビールの歴史そのものは非常に古い。人 類は誕生と同時にビールの製法を修得したのではないかと想えるほどだ。  「昔の習慣では、引っ越すと引越蕎麦を食べたものなんだそうだ。そこでインスタントのカップ蕎麦を調達した。これはかなり人気が高いそうなんでいけるんじゃないかな」  「へえー、インスタントの蕎麦なんて珍しいわね」  「そうなんだ、《彼方此方|あちこち》のそれらしいサイトに当たってみたよ。そしたら、なんとヨーロッパのサイトで視つかった。いったい何処の何者が造ってるんだろな」  「それいつのこと」  「いつって何が」  「蕎麦が届いた日」  「二日前だったかなあ」  「あら、それじゃわたしの引っ越し祝いとは無関係なのね」  「それが、そうでもなさそうなんだ」  「どうしてよ」  「買おうと想った動機が、今にして想えば腑に落ちるんだ」  「腑に落ちるって?」  「おっと、こいつは変てこりんな表現だったかな。つまり、納得できるとか理屈に合うだったかな。なんだか言葉が《辷|すべ》って妙ちきりんだぞ」  「意味は分かったわ。でも分からないのは、酒豪の秀一さんが、ビールぐらいで酔ってしまったってことよ」  「うーむ分からん。で、先ほどの続きなんだが、今週の月曜日に仕事が終ったあとで、突然誰かが我家に住むことになりそうだと想ったんだ。どうしても引っ越し蕎麦を買って置く必要がある、もうこうなったら強迫観念なんてものではない。そしたらどうだろう、杏子が引っ越してきた。なんとも不思議だ」  「そうねえ、でも本当は別れた奥さんじゃなかったのかしら。秀一さん、そう想わなかった?」  元オフィス・レディがプログラマーに転身するなんて誰が予想できたろうか。しかし、当人にとってみれば至極当然の帰結だったのだろう。才能さえあれば、現代では誰でも簡単に転職できる。一箇所に一生勤めていなければならない義理などないのだ。様々な問題を抱えているとはいうものの、コンピュータ・ネットワークの発達のお蔭だろう。ネットワークの浸透は会社勤めそのものを根底から変えてしまった。愛社精神、帰属意識が薄れるに従って、横の繋がりが緊密になり連帯感が強まった。  会社内での上下関係などさほど意味をなさなくなり、各々が単に役割分担しているにすぎない――そのような意識に変りはじめていた。「本当に偉いのは誰か」などといった愚かな考えは消滅してしまった。秀一は杏子の一言、「本当は別れた奥さん」が気になった。引っ越したがっていたのが元女房だとしたら、どういうことになるのか――何があったのか確めてみる必要がある。  「ねえ、別れた奥さんに電話してみたら」  「うん、今そう想ってたところだ。別れてもう七、八年になるからな。以前の研究室にそのまま留まっているかどうかだが……」  「研究室って?あっ、奥さん医学専攻の先生だったわね」  「そう、医学者としては非常に優秀だった。残念だが家庭向きの女ではなかったな」  別れた女房、時枝由紀とはじめて会ったのはある同好会でのことだ。由紀の特異性は、気品ある容姿からはおよそ想像もつかない鋭い舌鋒にあった。由紀の両親は二人が一緒になるのには当然のように反対した。ところが当人はあっけらかんとしたもので、両親の反対をいとも簡単に拒み、秀一の処に転がり込んできた。  裕福な家庭に産れ、両親の溺愛の許で《温々|ぬくぬく》と育ってきた由紀は、しかしながら親の押しつけなどに唯々諾々と従うひ弱な女ではなかった。由紀に言わせるなら「私はわたし、親はおや」にすぎず、娘は両親の愛玩動物ではないというのだ。J大学医学部研究室に電話してみたところ、助手を務めていた谷岡と称する青年が出た。  過去形で語る理由を尋ねると愕くべき返答が返ってきた。「先生は今週の月曜日、午後7時すぎに突然亡くなりました」という。死因はウイルス性肝炎とのことだった。秀一は涙が溢れ出そうになるのを堪らえるあまり、手から受話器が辷り落ちたのにも気づかなかった。  「由紀は、月曜日の夕方に亡くなったそうだ」そういうとコードを手繰り寄せ、受話器を元に戻した。なんと、月曜日の夜は杏子と二人で由紀の通夜をしていたことになる。秀一はたて続けにビールをあおると、深いためいきをついて《項垂|うなだ》れた。  「奥さん、お気の毒なことしたわね。秀一さん、愛してたんでしょ?」杏子が涙ぐんでいった。  「ああ、今までの中で最愛の女だったな」そういうと口を《噤|つぐ》んでしまったが、ハッと気づいて顔を上げ、またもやビールをあおった。今夜は杏子の引っ越し祝いの日だ。確かに誰よりも、別れた女房を愛してはいたが、今は泣いてる場合ではない。杏子を元気づけないで、一体誰を元気づけるというのだ。  「今はめそめそ泣いている場合ではない。引っ越し祝いの続きをしようじゃないか」  「えっ、だって最愛のひとが亡くなったんでしょ?遅ればせながら、弔いをして上げなくちゃ」  「ああ分かってるとも。だからこそ、杏子の引っ越し祝いをするべきだ。それが別れた女房への手向けにもなるんだ」  「葬儀はいつなの?」  「水曜日に終っている。いずれにしろ、先方の両親兄弟と一面識もない、何処の馬の骨とも分からない男がどの面下げて出席できただろう」  「……」  「心遣いには感謝するよ。人は死ぬことで人生が終りになるのではない。死は新しい旅立ちの一歩だから、送る側の我々が明るく振舞い、死者を送ってやるべきだと想うんだ」  二人はビールで酔いが回り、熱い蕎麦を食べて汗をかき、そしてなにがしかの満足を得ることができた。明日がどんな一日になるかは神のみぞ知るだが、予期しなかった暗い出来事があったにしろ、締め括りは成功した。 あとは何も考えずにぐっすり眠ることだ。 十一  杏子は午前一時すぎにシャワーを浴び、備え付けのベッドを整えたのち、薄手の毛布を肩の辺りまで掛けると寝に就いた。だが、三十分も経たない中に眼が醒め、その後は輾転反側し、なかなか眠ることができなかった。 ベッドから抜け出してカーテンを開け、月明りを頼りに外の景色を視た。夕方に視た景色とは一変していた。鬱蒼とした森が何処までも広がり、その中心部にブラックホールのような真っ暗闇が口を開け、凡ゆるものを吸入してしまうかに視えた。  杏子は暗闇に引き摺り込まれる恐怖に囚えられ、慌ててカーテンを閉めて頭から毛布を被った。眼をきつく閉じて何も考えまいとするが、黒々とした森の中には何か得体の知れない魔物が潜んでいそうで眠るのが恐かった。しかし、まだ完全に酔いから醒めていなかったか浅い眠りに入って行った。渦巻く妄想を掻き分け、睡眠の淵を下方へと落ちて行くにつれ、樹木の密生する暗い森が視えてきた。  その森の奥から長い髪を、恰も触手のように伸ばしながら蠢く、不気味な生き物が空中を浮遊し、少しづつ杏子の方へと近づいてきた。毛髪の下方には月明りを反射して青白く光る、楕円体の薄気味わるい何かがぶら下 がっていた。それはゴルゴンさながらカッと両眼を《瞠|みひら》き、髪振り乱しながら迫りくる女の生首だった。杏子は夢なら醒めて欲しいと想いながらも、誰の耳にも届くはずのない悲鳴を上げた。  杏子が悪夢に《魘|うな》され、輾転反側していたちょうどその頃、秀一はシャワーを浴び終り、寝室に灰皿を持ち込んで煙草を喫っていた。部屋の中が煙草の煙で充満するのにも気づかず、考える気力を失ってしまうほどの放心状態だった。  煙草を《燻|くゆ》らせながら煙をボンヤリ眺め、やがてうとうとしはじめた。浅い眠りに陥り、険阻な岩山を必死になって攀じ登る奇妙な夢を視ていた。半日登り続けだから、高所恐怖症の秀一は下を視るのが恐かった。身が《竦|すく》んでしまいそうなほどの高所に到達していたに違いない。秀一にはそれほどに険しい崖を登る理由が想い浮かばなかった。上方にある洞窟の入口を目指しているつもりだった。本当は行きたくないのだが、何か得体の知れない力によって引き寄せられていた。ヒンヤリした風が上方から吹いてくる。汗を掻いているので冷風は心地好いはずだが、何故か身の毛がよだち、背筋に寒気が走った。  風の吹いてくる方向を視れば、数段しかない石段の最上段は洞窟へと続いていた。秀一は石段を一歩一歩踏みしめながら上って行った。洞窟の奥には身がすくみ怖気づく、何か不気味なものが潜んでいそうだった。それ でも勇を鼓して入口から中へと踏み込み、真っ暗闇を壁伝いに手探りで進んだ。時間の観念も空間を把握する感覚もすでに失っていた。宙を浮遊する感覚にがんじがらめになり、前進しているのか後退しているのか分らなくなってしまった。  やがて右手にまたしても数段からなる石段が、うっすらとした靄の中から迫り出してきた。段を上り切り、大きな岩戸の前に辿りついた。何かの地面を這い摺る音が岩戸の中から聴こえてきた。秀一はどうしても確かめてみたくなり、重い岩戸を開けようとした。だが岩戸は数度試してみたが微動だにしなかった。薄闇の中に眼を凝らしてよく視た――それは単なる岩戸ではなく封印の役割を果たしていた。  秀一は心臓を鷲掴みにされたように、激烈な苦痛に襲われてその場に凍りついた。強烈な死臭が鼻をつき、激痛や痙攣が体中を疾駆した。痛みが秀一の息の根を止め、奈落の底へ引き摺り込もうとしていた。なんとかしなければ――さもないと絶命してしまう。ところが痛みは唐突に消え去り、やがて意識が戻ってきた。秀一はいつの間にか寝返りを打ったら、たちまち転落してしまいそうな、欄干の上に横たわっていた。  落ちないように要慎しながら、徐々に体勢を変えて《俯|うつぶ》せになり、一方の端へと這って行った。薄暗がりの中で辺りを見渡してみると、欄干は巨大な納骨堂の天井近くを走っていた。底はどのくらい深いのか見透すことはできなかった。岩山全体が納骨堂なのだろう。這って進むというのは想ったよりきつく、呼吸が苦しくなった。気の遠くなるような長い時間がすぎ、身体の節々が痛みはじめた。  それでも這い続けるが痛みの感覚が薄れるにつれ、手足から力が抜けてしまったようになった。このまま奈落の底に落ちて行く方がどんなに楽だろうと想う。辺りは黄昏から薄明へと変り、欄干の端に辿りついたのが分った。しばらく俯せの状態でぐったりしていたが、立ちあがって洞窟の奥へとむかった。天井が高く足音が岩壁に反響した。日の出まぢからしく、外から差し込む光で周囲の様子がはっきり視えるようになってきた。  近くに出口があるのだろうか、塩の香りを含んだ風が吹き込み、続いて波の砕ける音が波動となって伝わってきた。秀一は呼吸の苦しくなるのも構わず、出口にむかって疾走した。喉が焼けるように痛み、いまにも肺が破裂してしまいそうに感じながら、それでも走った。本人の意志を無視して足が勝手に動き、いつの間にか洞窟の外に出ていた。出口から数メートル先には崖っ淵が迫り、岩にぶつかる波音が足下から聴こえてきた。  もう少し暗かったら転落していただろう。腹這いになって下を覗いてみた。眩暈を起こしてしまいそうな、断崖が遥かな下方にむかって延びていた。波の砕ける様子が微かに視え、海原の彼方から太陽が登ろうとしていた。東の空へと一機の途轍もなく大きなUFOが、音もなく飛び去ろうとしているのが視えた。秀一は聴こえるはずもないUFOの搭乗員に向って叫んだ――「おーい待て、置いてきぼりにしないでくれー」  だが、なおも叫ぶ秀一を、UFOは完全に無視して飛び去った。秀一の声には非難がましさが籠っていた。なぜか、UFOは秀一を地球に置き去りにし――そこで眼が醒めた。寒くもないのに歯ががちがち鳴り、身体が小刻みに顫え続けた。その夢は高校時代に見始め、社会人になってもなお断続的に見続けたのと細部にわたり、寸分も違っていなかった。  毎回、同じ場面で始まり、そして終る――繰り返し繰り返し同じ夢、昔みた夢を憶いだして顫えが止らなくなった。秀一は起き上がって居間に行き、ソファに腰掛けると煙草に火を點けた。吐きだした煙の白っぽいのを眼にして明け方なのに気づいた。ぼんやりした寝不足の頭で夢の意味を考えようとするが何も想い浮かばなかった。  何かが床を擦るような音をたてて近づいてきた。ギョッとして振向く秀一の眼前に顔色の真っ青な杏子が立っていた。秀一は煙草の煙に噎せ、《掠|かす》れ声で話しかけた――「杏子、どうした。眠れなかったのか?」  杏子は何も言わず、身体を小刻みに顫わせながら秀一にしがみつき、重なるようにしてソファに倒れ込んだ。二人の潜在意識の何処かに共通する部分があったにしろ、取り留めない夢の中を別々に彷徨った。日が登り、朝 がやってきたが眼を覚まさなかった。前日までの疲れを解消しようとするのか、二人とも起きようともせずに眠り続けた。  だが、気温が寝苦しいほどに上昇しはじめ、睡眠が浅くなって意識が少しづつ戻りかけていた。秀一は今、洞窟を出たすぐの崖っ淵に仰向けになって寝ていた。そんな処に寝ていたら転落すると意識の奥で知覚しなが ら、全身が麻痺したようになり身動きできなかった。無重力感覚を味わえる安易な睡眠の中に、逃げ込んでいたい欲求が強すぎるためか、腕が崖っ淵に垂れ下っていながら危ういところでバランスを保っていた。  少しでも動いたら、身体は崖下に落ちて行くだろう。そのとき垂れ下った腕を下から引っ張られ、転落しそうになったところで眼が醒めた。ソファから身体が辷り落ちそうなのに気づき、体勢を立て直して辺りを見渡せば、杏子はいつの間にかいなくなっていた。浴室の方角からシャワーを浴びる音が聴こえてきた。秀一は居間のカーテンを引き開け、窓を開け放ったが、吹き込む熱風にむせ返って苦しくなり、慌てて窓を閉めた。汗がドッと吹きだすと同時に身体がだるくなり、少し動くのでさえ億劫になった。  クーラーを入れて調整つまみを弱に合わせ、さらに扇風機を回した。だるさは幾分薄らいだが猛烈な喉の渇きが襲ってきた。特大のグラスに冷蔵庫から出したアイス珈琲と一掴みの氷を入れて掻き混ぜた。グラスをテーブルの上に置き、珈琲が充分に冷える間、別のグラスにオレンジ・ジュースを注ぎ、冷蔵庫に入れて冷やしておいた。アイス珈琲が充分に冷えた頃合いを見計らって二、三口飲んだ。  冷えた珈琲のほろ苦い味が口中に広がり、それとともに体温の下がってゆくのが分かった。杏子が身体にタオルを巻きつけて浴室から出てきた。シャワーを浴びた直後は体温が下がり、気分爽快にはなるがそれも束の間 にすぎない。素裸の身体にタオルを巻いて歩く杏子の姿は、まるでアヒルが氷の上をおっかなビックリ歩く恰好に似ていた。だが、すぐまた汗を掻くとなればそれはそれで止むを得ない対処だった。  「冷蔵庫に、オレンジ・ジュースをグラスに入れて冷やしてある。ちょうど飲み頃のはずだ」  「わあ嬉しい、いただきます」  秀一は立ち上がってシャワーを浴びに行った。アイス珈琲をタップリ飲んだ直後の、下がっていた体温がまた上がってきて暑くなった。今日一日、この暑さが続くかと想うと気が重かった。浴槽に水を張り、その中に浸かっていようかとも想った。とにかく、他に効果的な方法がないのだから水を浴びるしかなかった。水は氷のような冷たさには程遠かったが、それでも体温はゆっくり低下しはじめ汗が遠のいた。  そろそろ出ようとしていると、誰かがシャワー室の戸を静かに開ける音が聴こえてきた。幻覚なら、永年飲酒を続けてきた報いか暑さの所為に違いない。何者かの手が延びてきて秀一の身体に触れ、くびれた腰と張った胸を押しつけてきた。すべすべしていて冷たく心地好い感触だが性欲は湧かなかった。逆光線の位置にいるので表情はよく視えなかった。  心当たりを辿ってみるが想い当たる女には行きつかない。もちろん杏子であるはずはなかった。深紅のワンピースを着た女の姿がちらつくと同時に、裸体の感触は唐突に薄れ、浴室の戸を開け閉めする音が聴こえてき た。浴室を出た直後に我に返り、身体の水滴を拭いている自分に気づいた。何処で何をしていたのか咄嗟には憶いだせなかった。 十二  居間に入って行った秀一は、杏子のいないのに気づいて寝室を覗いて視た。神隠しにでも遭ってしまったかのように消えていた。杏子が身体に巻きつけていたタオルは、秀一がさきほど身体の水滴を拭き取るのに使ったタオルだった。ということは、着替えてでかけたのだろうが何処へ行ったのかが問題だ。メモでも残していないかと期待し、それらしい箇処を探すが見つからなかった。  秀一はカーテンを開け、緩やかな勾配に沿って下方へと広がる森の景色を窓越しに眺めた。散歩道が借家の横から森の奥へと通じ、森の先端は崖っ淵で終り、そこから先には海原が広がっている。どうか神様、手遅れに なりませんように――そうブツブツいいながら森へと急いだ。このときだけは信仰心の乏しい秀一でさえ、信心深い人間に豹変し自然と駆け足になっていた。  運動不足と不摂生が禍いして、膝は悲鳴を上げ、喉がヒリヒリ痛んだ。久しぶりに経験する激しい肉体労働のようだった。学生時代は学費稼ぎが目的で様々な肉体労働を経験した。労働自体が筋肉トレーニングの役割を 果してくれたお蔭で、殊更運動に精をだす必要はなかった。しかし、歳月が秀一をただの中年にしてしまった。このときばかりは日頃の運動不足を悔やむばかりだった。汗がドッと吹きだし、喉に加えて眼までがヒリヒリ痛んだ。しかし、今や一刻の猶予もならず、急がずにはいられなかった。  森の中は涼しいが、出始めた汗は止まるどころか勢いを増し、眼が眩んで転びそうになった。だが苦しくとも休む訳には行かなかった。夢の中で走っているような錯覚が襲ってきた。足に感覚がなくなり、走っているのか歩いているのか立ち止っているのか分らなくなってしまった。本人の意志を無視して手足が勝手に動き、肺が酸素を求めて喘ぎ、心臓は四肢の末端まで血液を送るべくフル稼働していた。  秀一はなにかに躓いて宙返りを打ち、地面に転げてしまって、しばらくは立ち上れなかった。巨大な樹木の下にいるのに気づいて、横になったまま辺りを視まわした。欅にそっくりな樹木に蔦のような植物が絡み合ってい た。回りを取り囲む塀は、杏子が住んでいたアパートメントの一階部分に近い形状だった。  起き上ろうとして地面に手をつきかけ、触れたものの感触にギクリとした。眼を凝らしてよく視ると、杏子が摘み採った花々を抱え、苦しそうな寝息を立てて叢に横たわっていた。秀一はこのまましばらくそっとしておくのがいいか、それとも今すぐ起こした方がいいか判断しかねた。  暫しためらったのち、杏子の肩に手を掛けて揺さぶるが、丸っきり反応がなかった。耳許に口を寄せ、大声で名前を呼びながら身体を揺さぶった。杏子は半身を起こしながら辺りを視まわして秀一に気づき、起き上ろうとするがその場に力なく突っ伏してしまった。  「無理に起きないでもいいよ。水筒を持ってきたから少し飲んだら」  「ありがとう、秀一さん」  「何処へ行ったのかと心配した。偶然、ここに辿り着いたからいいものの、もし違った方角に行ったりしたらどうなっていたか」  「ごめん、秀一さん。窓から森の景色を眺めていたら、きっと綺麗な花が沢山見つかると想い、軽い気持でふらっと出てしまったのよ」  「この森は昼間はいいとして、夜になると一変してしまうんだ。ハッキリいわなかったのが悪かった。外側から眺めるだけにして、あまり近づかない方がいいんだ」  「この六角塔に似せた塀があるからなの?心配ご無用だわ、別に害はなさそうよ」  「害があるかどうかはともかく、奥へ行くにしたがって、まるで違う世界が現れてくるんだ」  「違う世界が?それってなんだか、秀一さんらしくない表現ね」  「どうも誤解を招いてしまったかな、大して深い意味はないんだ。ところで、どうしてこんな処で眠ってしまったんだい」  「綺麗な花が沢山あったの。叢をわけいって花を摘んでる中に、気づいたらここにきていたのよ。わたし、しばらく呆然としてただ突っ立っていたようなの。でもそれからは覚えてないわ」  杏子は何かを隠しているのではなく、憶いだせないだけなのだろう。むしろ隠しているのは秀一の方かも知れなかった。しかしそれは故意に隠しているのではなく、秀一自身妄想ではないかと疑っているからだった。このところずっと幻覚に悩まされていた。永年の飲酒が原因なのか慢性化している寝不足の所為かは分らなかった。秀一は中学から高校時代にかけ不可解な夢、しかもUFO絡みの夢を何年にも亙って視たのを憶えていた。そういった異常な体験を級友と語るような環境は当時の地方にはなかった。  その異常な体験に絡む後遺症を、秀一は無意識に飲酒で紛らわせ、記憶の奥に蔵い込んできた。今にして公言した方がよかったのかも知れないと痛感する。今更ながら想う――UFOによるアブダクションの発生件数は 明らかになっている数万倍から、数十万倍に達するのではないかと。悪夢に悩む体験者同士が語りあい、論議する社会環境が整っていて然るべきだ。  ひょっとすると地球の全人類がUFOを操る連中と、人類誕生以来かかわりを持ってきたのかも知れないのだ。預言なるものの内容を読み解けば、預言者の正体が仄視えてくる。世の預言者の言分によると、預言は神からの啓示なのだ。その神なるものは実は神ではなくUFOの搭乗員とするのが祐介の考えだ。遥かな昔、1910年代にポルトガルはファティマなる聖地に聖母マリアが現れ、二人の少女ルシアとヤシンタ、一人の少年フランシスコに数々の預言を授けた。その後、第1、第2の預言は明らかとなったが、第3の預言はカトリック教の総本山ヴァチカンの奥深くに秘蔵、90年もの長い間というもの未公開のまま過ぎて行った。西暦2千年初頭に到り、遂にヴァチカンは公開に踏み切った。  公開されたファティマ第3の預言は、実際には想像以上に驚愕すべき内容だったのではないか――そう勘ぐったUFOマニアは少なくなかったという。ヴァチカンは結局、教会に都合の悪い真相を明らかにしたくはなかっ たに違いない。第3の預言が人類の起源に就いての衝撃的事実を、それもヴァチカンにとって甚だしく不都合な真実を述べているとしたら、聖書の教えは畏れ多くも捏造になってしまう――時の法王はそれを恐れたのかも知れない。  秀一がふと顔を上げた丁度そのときに、杏子が物問いたげな眼で秀一を視た。いつの間にか日が沈みかけ、辺りは薄暗くなっていた。叢の中にどのくらいのあいだ、二人は座り込んでいたのだろうか。時間の観念をなくしていたとしか想えない。秀一は慌てて立ち上ると杏子の手を引いた。早く森をでなければ――なにが起こるか分ったものではない。森の中には何かが潜み、餌食が近づいてくるのを虎視眈々と狙っている――増幅する恐怖が秀一をせきたてた。  「さあ、帰ろう。森の日没は早い。できるだけ急いで抜け出さなくてはならない」  「ねえ、このままここで夜を明かしましょうよ。虫はいないし、とっても快適よ」  「禁断の世界に通じる入り口にいるような気がしてならないんだ。危険を感じるね」  「秀一さんどうかしてるわよ」  「今は上手く説明できない。あのアパートメントには何かいわくがありそうだな。明日、行ってみないか?」  「そうね、秀一さんが分らないなら、あそこの端末に接続して調べてみるのも手だわね。さ、帰りましょ」  秀一は水筒を手にして起ち上がり、杏子は束ねた花を抱えて歩き出した。歩幅に差はあったが歩く速度に殆ど違いはなかった。しばらくの間、まったく語り合うこともなく黙々と歩いた。歩きはじめて数時間が過ぎたにも拘わらず、森の出口が《何方|どっち》なのか見当つかずに立ち往生した。帰る方角が分らない上に陽が沈んでしまい、手探りでないと一歩も進めなくなった。  身体が熱くなり、呼吸が荒くなるのも構わず、真っ暗な中を方向感覚を失ったまま闇雲に歩き回った。森の中で鳥を一羽も見掛けなかったのは、磁界が狂っているからに違いない。磁気に関しては人間より鳥の方が鋭いということか。昼間は遠くの方から波の打ち寄せる音が微かに聴こえていたが、今はまったく聴こえてこなくなった。間違えて、反対方向にむかって歩いてきたからだろう。  「杏子、どうやら迷ってしまったようだ。まだ歩く元気はあるか?疲れたのなら、ここらで一休みするか」  「わたしなら大丈夫よ、十分に睡眠をとったもの。それより、秀一さんこそ疲れたんじゃない?」  「森から出るのが先決なのに、帰る方角が分らくなってしまった」  「そうね、人間の能力には限界があるものね。皮肉でいったんじゃないわよ、わたし自身にいえることだもの」  それからも歩き続けたが、杏子が足の痛みを訴えたのを機会にしばらく休むことにした。顔の見分けがつかないほど暗かったが、木の間から差す月明りでどうにか辺りの様子が窺えた。付近にある細めの枯枝を木の根方に近い地面に敷きつめ、その上にコウモリ傘大の枯葉を集めてきて覆い被せた。  背もたれが付いていれば、立派なソファになる出来映えに仕上がった。二人は即製ベッドに寝そべり、月明りを反射させて微風に揺れる樹々の葉を眺め、宇宙の神秘に想いを馳せた。それは幻想的な光景で、別の世界にいるような錯覚に陥った。流転する宇宙で、生命は生成消滅を繰り返しつつ進化し、時には退化しながらも階梯を上って行く。宇宙の神秘的な動きは二人が眠ってる間も絶えず変転し続け、片時も休むことがない。  夜が深まるにつれて気温は微かながら下りはじめた。森の中では猛暑の夏でさえ初春のような穏かさだ。月明り、木の葉、微風が醸し出す影絵は、万華鏡のようにめまぐるしく変化し、視ていて飽きることがなかった。危険は去っていないように想ったが、疲労困憊から、もうどうにでもなれと開きなおった。腰を据えてしまったことで不安感が薄らぐと共に、危険に対して鈍感になり恐怖感は消え去った。  やがて気が緩み、睡魔の誘惑に勝てずに眠り込んでしまった。秀一は太陽が上ってくる直前の薄明の中、辺りの異様な様子から唐突に眼が醒めた。傍に寝ているはずの杏子は見当たらず、秀一ひとりが木の根方に近い 叢にぽつんと寝ているのに気づいた。杏子は何処へ――そう想って《仰向|あおむ》けのまま周囲を見回すが人影はなかった。  木の幹から枝へと眼を移して行った先に、首に蔓が巻きつき、手足が弛緩した状態で枝からぶら下がっている杏子を発見、秀一は想わず悲鳴に近い叫び声を上げた。視るも無惨な姿にしばらく息をするのも忘れてしまっ た。長い髪の毛が垂れ下り、表情はよく視えなかったが、すでに息絶えていることは様子から察しがついた。  踏台になりそうなものは辺りにはなく、枝の高さからして自力でことを成し遂げるのは不可能だった。蔓が一夜にして成長し、首に絡みつき、さらに木の幹を伝って枝に達したとしか考えられなかった。なにはともあれ、不憫な杏子を一刻も早く枝から降ろさなければならない。枝にぶら下がり、折れるまで揺さ振り続けるか、手頃な石で蔓を叩き切るかだ。いずれにしろ木に攀じ登る必要があった。  付近から一方が尖って握り易い石を視つけ、胸ポケットに入れた。手近な枝に跳びついてその上に腹這いになり、立ち上る態勢に移って目当ての枝に移動するだけだ。掻きはじめた汗のために手が辷り易くなってきた。杏子のぶら下がっている枝を伸び上がってなんとか両手で掴むと、秀一はそろそろと杏子の方に近づいて行った。次に左手でぶら下って右手に石を持った。体重を左手だけで支えるのは容易ではない。早く蔓を叩き切らねばと想い、勢いをつけて蔓めがけて一撃を加えようとした瞬間に手が辷って地上に落下した。  叢が落下の衝撃を柔らげ、軽い怪我ですんだのは幸いだった。秀一が立ち上ろうとして上を視あげた丁度そのとき、杏子の身体が落下してきて抱き止める恰好になった。蔓はまるで杏子には用がなくなり、手放したようにすら想えた。森の植物に異変が起こりはじめているのだろうか――如何にも摘んで欲しげな花々、わずか一夜で完全に成長してしまう蔓、しかもどの植物も人間の心を読むらしい。  六角塔の建築物が森の植物に、なんらかの関与をしているとしか考えられなかった。だが、なぜ杏子が死ななくてはならなかったのか。今にも起き上がってきて秀一に何かを問いかけそうだった。秀一は眠っているかに視える杏子を抱き締めてしばらく揺さ振りつづけた。やがてほっそりしたその身体を抱き上げ、帰り道を慎重に選びながら歩きはじめた。  今となっては、入って行くのに苦労した森から出て行くのは造作なかった。最初から秀一に用はなく、この森からとっとと失せろということなのだろう。森の中を追風に煽られながら借家目指して疾走するうちに、屋根から高く突き出たアンテナが視えてきた。そのとき、秀一は走っているにもかかわらず宙を浮いて飛んでるような錯覚に捉えられた。  家の前に辿り着いたが中には入らず、ガレージを開けて遺体を車の助手席に乗せた。シート・ベルトで身体を固定すると、背筋が真直ぐになる所為か生きているように視えた。あのアパートメントに行ったら、杏子が死んだ理由が分るかも知れない。秀一は溺死寸前の藁をも掴みたい想いで、一刻の猶予もならずに車を跳ばした。杏子が生き返るならどんなことだってする――そういった想いが秀一を駆り立てた。  身替わりになれるなら躊躇うことなくそうする覚悟はあった。何処の何者かは知らないが他人の生命を勝手に奪う権利などない。車道は早朝ということもあって空いていたので、無理に近道を選ぶ必要はなかった。エンジンを全開にして違反すれすれまで速度を上げた。車は轟音を上げて大気を引き裂き、獲物に襲いかかろうとする黒豹さながら疾駆した。  獲物はもちろんあのアパートメントだ。あそこに潜む奴らにどうして杏子の生命を奪う権利があるのか、言葉が通じるものなら訊いてみたいし、応えたくないなら破壊するまでだ。建物を粉々に摺り潰して海へでもばらまいたら腹癒せにはなる。しかし、難攻不落の砦に向って拳で打ち掛かるようなもので、摺り潰すどころか瑕をつけることさえできないだろう。  杏子をみすみす死なせてしまった――秀一は非力な己れを恥じて怒り、同時に後悔の念から涙の溢れ出るのを抑えきれなかった。今の秀一には、復讐する以外に怒りを鎮める方法は考えつかず、行動を起こさなければ 後悔しか残らないのを恐れる気持ちがあった。異星人の言語が理解可能なら、《アルゴリズム|算法》を構築するのは困難ではない。連中のコンピュータをウイルスで攻撃し破壊できるならそうしたろう。だが、連中がどんな言語を使っているのかまったく分らず、そのことで秀一は増々自分に腹を立てた。 十三  怒りの赴くままに車を跳ばし続けて1、2時間経ったが、一向にアパートメントのある通りは見当たらなかった。上の空で運転していた所為でないのは明らかで、もし周囲に注意もせずに運転していたのなら、疾っくに大事故を起こしていただろう。アパートメントへの道順は脳裏に焼きついていたので道を間違えるはずはなかった。先刻から同じ通りを何度も通りすぎたように想い、住宅を注意深く一軒一軒視て行った。  門構えにしろ垣根にしろ、これまでに数回は視ており、いつもの見慣れた高級住宅街とそれほど変わりはなかった。秀一は車をゆっくり走らせながら舗道の色模様から、道路の凹凸まで舐めるように視て行った。右手に雑草で埋め盡くされた空き地が視えたので車を乗り入れた。車から降り、無数の虫が飛び交う中、欅が生えていたと覚しい地点に立ってみた。周辺からモーターの回転するような音が聴こえ、それと共に足下からかすかに振動が伝わってきた。  注意していないと気づかない程のかすかな振動だった。辺りの様子を窺うかぎりアパートメントが立っていた空き地に間違いはなかった。違っているのは、以前には昆虫一匹見かけたことはなかったのに、今では群がり集まっていることだった。付近の住人はこの辺りの異変に気づかないのか、それとも他の宇宙からやってきた余所者ばかりなのか。  かんかん照りの中にしばらくいたために眩暈がしてきたので、クーラーの効く車の中に一時退避することにした。杏子は今ではうなだれてしまい、一寸診には眠っているように診えた。よほど好奇心旺盛な者ででもない限り、杏子が死んでいることには気づかないだろう。秀一は己れの不甲斐なさを憤るあまり、杏子の死を受け入れられず、現状を的確に認識できずにいた。  喉が渇いてきたので飲物を入手するべく、車をゆっくり走らせながら自動販売機を探した。しかし、表通りに出ていくら眼を凝らしても、一台すら視つからなかった。替りにガソリン・スタンドが眼に飛び込んできた。そこで咄嗟に想いつき、空の容器5缶にガソリンを買うことにした。ガソリンを振動の伝わってくる、あの空き地の地中に流し込んで火を放ち、杏子の復讐をするのだ。  店員はそんなこととは露知らず、ピストン・エンジン車に乗った男が、ガソリンを買いにきたのが余程珍しいのか秀一と車を交互に眺めた。秀一が促すと、店員は慌てて容器にガソリンを注入し、法外な値段を印字した請求書を寄こした。が、何もいわずに支払ってスタンドを後にした。興奮のあまり喉の渇きは消し飛んでしまい、替わりに猛烈な武者震いが《滾|たぎ》ってきた。これで奴らに一泡吹かせてやるのだ。昔、ある大国の戦艦がUFOを大砲で撃墜した――真偽のほどは定かではないが、古書店で入手したオカルト系の古い月刊誌で読んだ憶えがある。  それが事実なら、先端技術の産物とりわけ電子機器や電子兵器の類は、原始的な攻撃には脆弱ということになる。アパートメントのあった空き地は今度はすぐに視つかった。空き地の中心地近くまで車を乗り入れて一旦 停止し、次いで後進させながら容器に入ったガソリンを地面に流し込んだ。想像した通り、ガソリンは地中に浸み込んで行った。車を停めて空になった4缶の容器をトランクに戻し、少し残した5缶目の容器を持って運転席に乗り込んだ。  ドアを開けたまま車をゆっくり後退させ、左手でハンドルを操作しながらガソリンを流し続け、容器が空になったのを見計らってドアを閉めると同時に窓を開けた。その直後にマッチ箱とマッチ棒を右手に持ち、マッチを擦って親指で弾き跳ばした。マッチ棒は燃えながらガソリンの末端に到達し、炎が一気に中心部に達した。秀一は火柱が高く上がったのを見届けると、辺り構わず車を急発進させて脱出した。  表通りに出るやいなや後方から猛烈な爆発音が聴こえてきた。空き地全体がなにかの合成物でできていたとしたら、ガソリンの燃焼で熱せられた地面が発火し、地中にあるタンクにでも引火したに違いない。如何なる宇宙からやってきた連中なのか、ガソリンが燃え易い物質なのを知らないとみえる。地面を形成する化学物質が猛烈な熱を発するとは気づかなかったようだ。  うしろを振り返って視たが追ってくる気配はなく、一応復讐を果たしたという満足感は残った。満足すると同時に忘れていた喉の渇きを憶いだし、秀一はまたもや自動販売機を探しはじめた。30分近く探し回った挙げ句、道端の一角を占拠している一台を発見した。車を路肩に停めて飲物を買い、車に乗り込んで飲みながら運転した。ところが飲んで間もなく猛烈な睡魔が襲ってきた。  いまさら警察署に出頭し、杏子の死因について説明する気も起こらず、このまま運転し続けるつもりでいただけに嫌な予感がした。暫し休息するべく駐車に適した場所を探そうとして、横を向き、次ぎに前を向いた。いつの間にか前に車が一台割り込んでいた。その間1、2秒だから割り込みに気づかないはずはないのに、地中からでも湧き出てきたとしか考えられない瞬時の出来事だった。  その車は色といい形といい、なんとも奇妙だった。それだけでも愕きなのに、さらに愕くべき発見をし、秀一は眠気がいっぺんに消し飛んでしまった。前を走る車の運転者は深紅のワンピースを着たこの世のものではない女だった。女が振り向きざま凄味のある笑顔を視せたが、秀一は恐怖心を振り払ってその妖しい女を追跡した。たとえ地獄の底までだろうと何処までも追跡する覚悟はできた。  相手の速度に合わせ、車を巧みに操って喰らいついた。数時間ものあいだ追跡劇は続き、太陽が沈んで月が昇り、依然として2台の車は走り続けた。それから暫くして、脳内を極細のワイアブラシで引っ掻かれるような、奇妙な感覚とともに悪寒が襲ってきた。就寝中、寝床に女が現れる――あの夢か現か分からないときに味わう気分にそっくりだった。脳内にかすかだが、勢いあまって釣り針を腕に引っ掛けてしまったときのような鋭い痛みが襲ってきた。頭の中で人の声が響き、盛んになにかを訴えていた。大分経ってから、女が秀一の意識に直接話しかけているのだと分った。  「またお目にかかったわね」  「何者だ」  「わたしはいつもあなたを監視し、警告を発してきた。なのに、悉く撥ねつけてきたわね。愚かな人類の中でもとびきりの愚か者よ、あなたは」  「お褒めの言葉、痛み入るね」  「いつまでも逆らっているといいわ。もう直ぐ、あなたの命運は盡きるのよ」  「それがどうした」  「中には、地獄にさえ行けなくて彷徨う気の毒な人もいるわ」女はちょっぴり悲し気だった。  「地獄だろうと何だろうと、行ける処があるなら幸せってもんだろ」  秀一は女と無意味な会話をそれ以上続けるつもりはなかった。そろそろ決着をつけるときがきたのだ。何度も同じ景色が視えたことで、秀一は女が只からかうために車を操っているのに気づいた。同じコースを左回りに繰り返し繰り返し回っていたのだ。逆回りだがまるでレコードの空回りのようだった。そんな下らないことを考えている中に、眠気が襲ってきて想わず前のめりになり、ハンドルに額をしたたかに打つけた。  しまったと想い、ハンドルを切ろうとしたが間に合わず、秀一の車は女の車に追突寸前にまで迫った。もうブレーキを踏んでも間に合わなかった。が、追突の衝撃はなく女は車諸共消え去った。秀一の車はガードレールを 突き破って高速道路から跳び出し、炎上しながら下を走る別の高速道路に転落した。その直後に車はバウンドし、分厚いコンクリートの支柱に激突したのち爆発した。衝撃音が轟いて地面が波打つと同時に建物が揺れ、通行人は耳を押えてその場に倒れ込んでしまった。建物の窓という窓はガラスに悉く《罅|ひび》割れが生じ、衝撃が如何に凄まじかったかを示していた。間もなくけたたましいサイレン音を轟かせ、消防車、救急車、パトロールカーが続々押し駆けてきた。炎の中で秀一は全身に襲ってくる激痛に耐えながら、絶叫を上げまいと必死に堪えた。  なんという熱さだ、地獄の業火はもっと熱いのだろうか。死に際に直面して秀一の思考は取り留めなくめまぐるしく変転した。別れてしまった最愛の由紀、両親、妹の淳子、杏子、祐介それに愛犬の姿が走馬燈の如く現れては消える。秀一は信仰心に篤い人間ではなかったが生まれ変わりを信じていた。神が存在しなければ、森羅万象は辻褄が合わなくなり矛盾だらけになる。神の世界に生きていると理解できれば死など恐れるに足りない。行き着く先が地獄だろうとも無の世界よりは増しだ。無の世界で永遠にときを過ごすほど恐いことが他にあるだろうか。肉が焼け落ち、肉体が崩壊しはじめたのが秀一には分った。行き着く先が天国なのか地獄なのかは皆目分らない。 [第2部に続く]
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