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 おれと哲とそれ以外の客を三日月の方向へ運んでいく黄色い電車。座れる椅子はなかったが、立っている場所なら好きに選べるぐらいの混み具合。おれは四十四番の鍵=赤い札に数字の書かれたそいつを腰のバッグへしまいこんだ。 「なんで荷物置いてきてん」 「重てえから」  というのは理由の半分。残りは万が一を考えてのこと。不良どもと話をつけるのに弱点を背負って歩く馬鹿はいない。コインロッカーの使い方はこいつに教わった。 「重いて、中身なんや」 「すぐには必要ないもんだ」  上着のポケットには稲妻と地図とガム。腰のバッグには伊藤博文五百枚と百円玉が少し。それと消毒液と絆創膏。あとはなくしたら大変なことになる四十四番と野生へ返しそびれた爬虫類が入れてある。それ以外は全部置いてきた。 「そないなもん、家出に持ってくんなや」  黙れ。うるさい。おれの勝手。お前に関係ない――文句の束を吐きつけてやる。 「あいあい。せやけどその短気はなおしや。ツキが落ちるだけやなしに、そのうちえらい目にあうで」  ツキなどもとからない。えらい目なんか十二年連続であっている。大きなお世話だ。 「なんか《いてん》ちゃう?」 「何回転? なにがだ」  質問には答えず、おれの腰あたりへ手を伸ばしてくる哲。すぐさま弾いた。 「痛ったいな、もう。なんや《もそもそ》しとるやんけ、そこ」  三秒して、やっと《なんかいてん》の意味を理解した。 「気になるならくれてやる。待ってろ」 「いや、ええわ」 「遠慮すんなって。スライムより役に立つ」  甲羅をつかみだし、哲の顔の前へかざしてやる。 「いらんいらんいらん、わかったから早よしまえや」 「なんでだよ。カッパ好きなんだろ。それの子分みてえなもんじゃねえか」 「好きちゃうわ。かいらしいうただけやで」 「大して変わんねえよ」 「変わるて。謝るし、これやるし、ほんま頼むわ」  哲の弱点をひとつ見つけた。これからこいつのおしゃべりがうるさいときは、長谷川を水戸黄門の印ろうみたいに突きだしてやればいい。  電車は《飯田橋|いいだばし》を出発していた。乗客の大人どもは誰もが黙り、疲れた顔をしている。元気なのはガキどもだけ。おれと哲はどっちでもなかった。 「小ガッパは味わかるんかい」 「味なんて関係ねえらしいよ」  爬虫類嫌いのよこしてきたビスコを手のひらでぱくつく印ろう。元気なガキのひとりがからからに乾いた甲羅を触ってきた。長い首が背中の指に向かって伸びていく=お食事タイムを邪魔されたことに腹を立てている顔つき。 「指をどけろ」  印ろうの顎が宙を噛む。ガキは『危ねえ~』といいながら、どこかへ歩いていった。 「ばっくり噛ましたったらええのに」 「ぎゃあぎゃあやられても困る」  次の停車駅を伝えてくる声が車内に響き渡る――《市ヶ谷|いちがや》。降り口は右側。引き続き左側の扉近くに陣取る。目の端に稲妻=架線のスパーク。窓に顔を近づけた。オレンジ色の列車がおれたちをゆっくりと追い抜いていく。鉄のかたまりのくせになんだかえらそうな態度だ。向こうからこっちを見ている乗客の顔つきにもそんな感じがある。気にいらない。腰から下に自然と力が入る。負けてんじゃねえよ。もっとスピードを出せ。根性で車輪をまわせ――心のなかで動力車両に野次を飛ばす。 「亨はどっから出てきてん、東京」  あまり口にしたくないことを聞いてくる哲。 「お前は」 「名前教えてんからお前いうなや、《ジブン》」  リクエストどおりにしてやると、哲は『それさっきいうたで』と返してきた。質問の中身をちょっとだけいじくる――大阪から《東京|ここ》までどうやって来た? 「歩いてきてん」  東京と大阪はそんなに近いんだろうか。使う言葉はさっぱりちがうのに。 「まじめにか」 「うそに決まっとるやんけ。新幹線でぴゅ~や」  本当のことをいう前にくだらない冗談を挟んでくるのがこいつのパターン。漫才王国のふんいきがおれにもだんだんつかめてきた。 「よく捕まんなかったな」 「なんでや。新幹線乗ったらあかんのんかい。小学生かてひとり旅したいときあるで」 「そういうことじゃなくてよ」 ――この野郎、おれがどれだけ苦労して東京まで来たと思ってんだ。くそ。 「追われたり探されたりしてないのか」 「ワシ、犯人とちゃうで」  話を聞いているうちに、おれは自分を物差しにしていることに気がついた。ふたりともたしかに家出野郎だが、学校から大金をかっぱらって逃げまわっているのはたぶんおれだけで、こいつはそこまでのやばい橋は渡ってきていない。様子や口ぶりからしてもそれはわかる。親はいないといっていたから、新幹線代とかそのへんはカツアゲしたか、そうじゃなきゃ貯金を崩して…… 「なにやってんだよ!」 「銭勘定や。見たらわかるやろ」  哲の手もとに目が吸いつく――聖徳太子のオンパレード。カツアゲや貯金なんてレベルじゃない。全部でいくら……いや、それよりなんでこんな大金を持っているのか。まさかこいつも―― 「泥棒してきたのか!?」  限界まで声を落として聞いた。 「ジブン、ちょいちょい失礼やな」  まわりの目もおかまいなしに札を数え続ける哲。いったいどういう神経してんだ。 「とにかくこんなとこでよせ。みんなこっち見てんぞ」  体を使って、ほかの乗客の目から札束を隠すようにしていった。 「見さしたったらええねん。減るもんやなし」 「カツアゲされたらどうすんだ」 「そんなん返り討ちにした……」  印ろうを目の前にしてかたまる哲。 「とっととしまえ」 「わ、わかったがな、もう……」  哲が札束をしまい終えるのを待ち、それから亀黄門を腰のバッグへ戻した。 「札を食うんじゃねえぞ、印ろう」 「なんて?」 「なんでもねえよ。で、今の金はなんだ」 「教えなあかんか」  金の出どころはともかく、今の答えで後ろめたいそれだというのはわかった。なんでもしゃべりたがるこいつがしゃべりたくないといっている話を無理に聞きだすこともない。 「いや、いい」 「しゃあないのう。ほな、説明したるわ」  自分の日本語のどこがおかしかったのかを考えていると、哲が耳もとに口を持ってきていった。 「《ここ》と《ここ》に百万ずつある」  革ジャンがぱんぱんといい音を立てる。 「ワシ、実はええしの子ぉやねん」 「こっちの言葉になおせ。わからない」 「ボンボンいうたらわかるかの」  頷いた。早い話が漫才王国の武田……いや、だけどちょっと待て。こいつに親はいないんじゃなかったのか――そのまま聞いた。 「おう、おらんで。しゃあけどいろいろあって銭だけはあんねん」 「そんなでたらめな話があるかよ」 「でたらめちゃうがな。ミナミで《橘|たちばな》いうたら、知らんやつおらんで」  たちばなてつ。原田哲。ミナミのボンボン。謎の二百万――見えてきそうでこない話。だが、うそのにおいはしていない。 「亨はところで、銭持っとんかいな」  お前よりある。そういう代わりに、聞いてどうするんだといった。 「どうもせえへんて。ただあれや、ワシの銭はあてにせんとってな」  ケチなメガネの懐をあてにするほど無意味なことはない。 「乞食扱いかよ」 「ワシそんなんいうたか」 「どうか知らねえけど、気分が悪りいのはたしかだ」 「線引きはきっちりしとこうやっちゅう話や」  そんなもの、お互い様の当たり前。確認するまでもない。 「金が心配ならひとりで動け。おれもそっちのほうが気が楽だ」 「まぁた怒りよる。ジブンほんま病気やな。短気病やで、短気病」 「頭にきていってるわけじゃない」 「顔、怒っとんで」 「生まれつきこうなんだよ」  窓と夜景の間に蛍光灯の輝きが割りこんできた。電車のスピードががくんと落ちる。 「ワシな、銭が人の心いわすことよう知ってんねん」 「いわすってなんだ」 「ぶち壊しにしてまうことや」  どんな理屈でもねじ曲げちまう金の前じゃ心なんて簡単にぶっ壊れる。別に珍しいことでもなんでもない。実際、おれもぶっ壊れた。 「それがどうした」 「そないなりたないやん」  意味を修正する。哲はつまり、金でおれと揉めたくない。だから貸さない。 「気ぃ《悪|わ》るぅさしたんはごめんやで」  喉だけで返事をした。電車が止まる。看板の駅名を読む――《四ツ谷|よつや》。哲は知らん顔で例の図鑑をめくりはじめた。扉が開く――人のなだれ。降りたやつの五倍はいる四ツ谷からの客ども。つまり、もみくちゃの押しくらまんじゅう。おれと哲の間にも人がめりこんできた。 「なんやなんやなんや!」  進行方向に押し流されていく哲――声だけの漫才語。こっちはこっちで窓にほっぺたのハンコを《捺|つ》いている状態。両手を使って腰のバッグをガードする。 〝おい、どこにいてんねん、亨! お~い〟 ――迷子じゃあるまいし、でかい声でみっともない。  無視を決めこんで目をつぶる。ベルが鳴る。扉が閉まる。うなりをあげる床下のモーター。目を開けた。ガラスのなかで動きだす景色。前からの圧力が次第に強くなってきた。汗、化粧、酒、タバコ=無視できないにおいのかたまり。腕を無理やりに動かしてガムを取りだした=応急処置。外包みを歯とくちびるで剥く。 〝ごめんやっしゃ、ごめんやっしゃ、ごめんやっしゃ〟  漫才の呪文を《はきはき》と唱えながら、すし詰めのなかを戻ってくる哲。右に左にかき分けられたやつらの目が革ジャンの背中にぶすぶすと突き刺さっていたが、矢を食らった本人はおかまいなしのどこ吹く台風。図太さもここまでくると清々しくしか見えない。 「返事せえや、返事ぃ」  奥歯でペンギンを処刑するたびに鼻が喜んだ。 「したよ」 「うそいいなや。聞こえへんかったわ」 「耳くそ溜めてるからだろ」  窓に目をやった――炎の塔。透けたおれの向こうでそいつが黒い空をあぶっている。不気味で、怪しくて、きれいな、この街のたぶん――シンボル。ろくでもない磁力はあそこから垂れ流されている。そんな気がした。 「今どこや」 「四ツ谷を過ぎた」 「渋谷へはいつ着きよん」 「その前に三つ先で乗り換えだ」 「ワシそれ知らんがな。あっぶないわぁ、もう。なんでいわへんねん」  聞かれなかったからいわなかっただけ。自分中心もいいかげんにしろ。ボンボンが。 「おれはお前の案内係じゃない」 「ほな、今から頼むわ」 「断る」 「そないいわんと、亨ちゃん」 「まいど」  手のひらを上にしたその指先で哲の腹を軽く突く。 「なんの真似や」 「五十万でよろしぃわ」  いつかしばいたる――新しい漫才語をまたひとつ覚えた。    §  馬鹿みたいな数の人間どもが歩き、しゃべり、騒ぎ、怒って泣いて笑っていた。車なんかはさっきから一ミリも動いていないように見える――方向感覚をおかしくしちまうほどのごちゃつきかげんに面食らっているおれ。哲はどうか。 「ワシはこの街が気にいったでえ」  心配するまでもない元気。右手からの短い電子音を耳がかろうじて捕まえる――午後七時。交差点の向こう――電気の文字でいろんなことを教えてくる看板に目をやった。来週の天気。明日の朝の気温。日中の最高気温。今日のニュース。今この瞬間に渋谷の駅前がどれだけうるさいか=おれには必要のない情報ばかり。知りたいことは足を使って調べていくしかない。 「ちょい、亨! あれ見てんか、あれ!」  あれと呼べるものは腐るほどあった。 「どこ見とん。あっこの赤いぺったぺたのやつや」  ベルリネッタボクサー、十二気筒、三百何十馬力――追加の説明でいくと『あれ』はスーパーカー。だが、あいにくとおれはそのへんに詳しくない。区別がつくのはサニーとカローラとブルーバード。あとは最近見て覚えた自衛隊の車ぐらいだ。 「本気出したら時速千キロは出るっちゅう話や」  そんな車がこの世にないことぐらい、車音痴のおれにだってわかる。哲は鼻歌でジュリーの『《TOKIO|トキオ》』をやりながら、指を鳴らしはじめた。 「亨、ワシはこの街が気に――」 「さっきも聞いた」 「ええやん、二度いうても」  別にかまわない。口には出さないが、おれもこの街は気にいっている。上野や後楽園にはいなかったやつら――すぐそこには不良お得意の髪型=リーゼントや《ちりちり》パーマの馬鹿どもが、犬の銅像のまわりにはどう見たって大人じゃないのにタバコをふかしているいんちき野郎が、《斜|はす》向かいの薬屋の前には髪をおかしな色に染めたり、カラフルでへんてこな服を着たあっぱらぱーどもが、それぞれたむろしている。今のところひと目で暴走族とわかるのはいないが、悪いやつらはよりどりみどり。武田のいう先輩作戦も渋谷でならうまくいく。人生バラ色計画の一面めはクリアだ。暁彦も最後にはいい情報を出してきた。  問題は二面め。おれみたいなガキがどうやって大人の不良に近づくかだが、これといった筋書きはまだ思いつけていない。仮にそこをなんとかできたとしても、いきなりアパートを探しているとはいえないし、余計なことを口にして作戦をパーにしちまっても困る。不良は馬鹿だが勘がいい。おかしなガキだと思われたらそこでゲームオーバーだ。追加の百円玉はそのへんにごろごろしているが、それでもやっぱり慎重にいくべきだろう。無駄はなるべく避けたい。へたくそな鼻歌TOKIOの一番が終わった。 「やさしいお姉ちゃんはどこに眠っとんかの」 「お前、女が好きなのか」 「男は誰でも好きやで。ジブンは嫌いなん?」 ――変なことをいっちまった。 「今は興味ない」  目の前にいた背広が歩きだした。交差点に目を向ける。灯っている信号は四角い青と丸い赤の二種類だけ。縦横斜めに伸びた横断歩道を何百もの人間が渡りはじめる。おれと哲も背広の後に続いた。 「シブいのう。ワシも誰かに聞かれたらそないいうたろ」  もみくちゃにされたくないおれは交差点の中心を目指さず、止まっている車に近いほうを行った。哲も後ろをついてくる。目は自然と車の尻や鼻っ面の文字をなぞっていた。《品川|なんちゃら》、横浜、練馬、品川、《多摩|なんちゃら》。渡りきった先で右向け右。四角いほうの信号はまだ点滅をしていない。斜めに渡ったときのゴールを目指してさらに横断を続ける。足立、練馬、練馬、川崎――わりと目につくのは大根ナンバー。渋谷ナンバーというのはないんだろうか。 「哲お前、それとあれの字読めるか?」  止めてあったバイクと客を降ろしているタクシーのナンバーを指差した。 「けぇ、あぁ」 「漢字のほうだよ」 「『《多摩|たま》』と『《品川|しながわ》』やんけ。なんやジブン、あんなんも読めへんのかいな」  まさかの漢字博士ぶりに驚いたが、もちろんそれを顔に出したりはしない。この手のタイプは調子に乗せると後が面倒くさい。 「確認しただけだ」  いずれにしろ、いろんなところのやつがこの街に集まってきているのはわかった。おれと哲もそうだが、前を歩いている女もさっきの背広も結局はみんなよそ者ってわけだ。 「ほんまか、亨。ほんならあれ読んでみいや」 「《練馬|ねりま》」 「あっちは?」 「あし……《足立|あだち》」 ――肥料屋のおっさんと忠一に感謝。今のをおかしな答えで返していたら、まちがいなくかちんレベル三超えのうっとうしいセリフを聞かされている。 「ほう、そない読むんか。ワシ《練馬|れんま》と《足立|そっくたっち》いうんか思うとったで。東京の漢字は難しのう」  漢字博士、取り消し。ソックタッチなんてだいたい日本語じゃないだろう。 「漢字も日本語も作ったやつは頭がどうかしてる」 「ほんまやで」  哲の頭の程度がおれとそう変わらないことに安心する。馬鹿にすることはしない。代わりにどう歩けばいいのかわからない通りの名前を確かめる――渋谷センター街。車の通れない、人だらけの道。ドーナツ屋の脇を過ぎながら足もとに唾を吐いた。 「ラムちゃんみたいなコいてへんな」  人の顔などみんな同じに見えた。ラムちゃんどころか男女の区別すらつかない。まぶたの上から親指で目をこすってみるも効きめはなし。目玉の神経が馬鹿になっちまったみたいだ。 「どや、あのふたり組。ワシと目ぇ《合|お》うて笑ろとるで――なあなあ、茶ぁしばかへーん、茶ぁ!」  元気あふれる哲とは反対に体の調子が急降下していくおれ。ぶん殴られたわけでもないのに景色がぐるんぐるんしはじめた。 「悪りい、哲」 「なんや? あかんか、あの子ら」  冗談抜きでぶっ倒れそうだった。吐きそうな感じもある。そのふたり組が医者か薬屋ならお願いしてでも助けてもらいたいところだ。 「だめだ……」 「おいおい、さっきはジブン興味ないいうとったや――」 「女じゃない。おれがだめなんだよ。人がすごくて」  暁彦の恨みか。首なしの館のたたりか。それとも豚か誰かの呪いか。いったいなんのばちだ、くそ。 「人がすごいて、ここ渋谷やで」 「んなことはわかってんだよ!」  汗で背中がじっとりとする。膝から力が抜けそうになる。みぞおちがけいれんする――限界の限界。 「しゃあないのう。ほんなら次いっとこ……お、おい! どないしてん!?」  道脇の地面に両手を突いてしゃがみこんだ。苦いものが喉を焼いてくる。目をつぶり、鼻で呼吸をしながらレンガ敷きの上へ染みを作った。哲がおれの顔を脇からのぞきこんでくる。 「顔色めっちゃ悪いで」 「大丈夫だ。しばらくこうしてればよくなる」 「なれへんなれへん。ええわ、動かんとそこで待っとき」  哲がどこかへ走っていった。なんのためにそうしたのかはわからない。体を起こして街灯の柱へよりかかる。舌と喉がハッカの刺激を欲しがったが、今はポケットに手を突っこむのもおっくうだった。 「病気にでもかかったかな、おれ……」  もしそうだとしたらついてない――というより、ここまで来た意味がない。冗談じゃなかった。なにがなんでも調子を戻してやる。今までだってそうしてきた。どんなに具合が悪くても、血の小便を発射しても、気合と根性で乗りきってきた。トカゲのしっぽ並みの回復力をなめんじゃねえぞ、病気野郎。 〝ぼく、だいじょぶか?〟  一瞬にして引き締まる全身の筋肉。だけど肝心の力が入らない。どの方向から声をかけられたのかもあやふやだった。 「大丈夫です。ちょっと転んだだけなんで……」  心のなかで最悪の相手じゃないことを祈りながらいう。 「だいじょぶちがうね。ぼく、吐いてるよ」  変な日本語はおれの左後ろから聞こえていた。首だけねじってそいつを見る――祈りはとりあえず通じていた。 「ちゅがくせ?」 「……まあ、そんなとこです」  白い前かけをした丸顔のおっさん――だいぶ太ってもいる。おそらくコックだ。そしておそらく日本人じゃない。 「はらぺこしてるの顔ね。ワタシのお店、目の前よ。餃子とてもおいしい。来るか」  いわれてみればたしかに腹は減っている――ような気がする。昼は忠一たちと牛丼を二杯もやっつけていたが、その後は三十キロ近いサイクリングを全速力でやっている。逃げたりぶん殴ったりぶん殴られたりを計算に入れると、今日はかなりエネルギーを使っているかもしれない。ふらふらの原因はそれか。 「餃子……ですか?」 「そう。特製の餃子ね。タンメンとチャーハンもおいしい。ちゅがくせ、食べ盛り。我慢よくない」 〝誰や、このおっさん〟 「ぼくも友だちか」 「そうや。こいつに用あんねやったらワシが代わりに聞いたる。なんや」  戻ってきた哲。右手に青い紙袋。反対の手にはまたしてもマウンテンデューが握られている。 「それじゃぼくも一緒に食べるよ」 「なにいうとんねん。《湧|わ》いとんか、このおっさん」 「餃子とタンメンとチャーハンがうまいんだってよ、おっさんの店」 「そう。全部うまい。なんでもうまい。栄養満タン。すぐ元気」 「飯なんか食えるんか、亨」 「ああ。ふらふらしちまったのはたぶん、栄養失調だ」 「なんやそれ。ほなこれ、どないすんねん」  青い袋から取りだされてきたこれ=ラッパのマークで有名な、なんにでも効く薬。 「サンキュ。後で金払うよ」  哲とおっさんの肩を借りて立ちあがる。腹の虫が恥知らずな声で喚きだした。    § 「死んでまうんちゃうか思たで」  人の流れに逆らって歩く。吉野家じゃない牛丼屋のところを右に折れ、ほとんど動いていない車の通りへ。 「うまくてか」 「あほう、亨や」  哲がおれの前を行った。車と車の間を抜けながら道を渡る。 「《飯|めし》は感動的なまずさやったわ。豚でもよう食わんであんなん。《麩|ふ》ぅかじっとったほうがまだマシや」  《張|チャン》とかいうおっさんの店で哲はチャーシュータンメンと餃子を、麺類すべてが敵のおれはチャーハンと餃子をそれぞれ平らげた。 「共食いになっちまうからな。餃子もチャーシューも」 「牛でも泣いて謝りよるわ。しかもあのおっさん銭までしっかり取りくさって。こっちはタダでもいらんちゅうねん。腹立つわ、ほんま」  哲の口には合わなかったらしい《宝龍苑|パオロンウェン》の飯。豚でも食わないそれをおれはこれっぽっちもまずいと思わなかった。ものが腐ってさえいなければ、この舌はたぶんなんでもうまいと感じる。 「そのわりには全部食ってたじゃねえか」 「そないせな、銭に失礼やろがい」  目の前の背中がふいに消える――右へ曲がった哲。意味はすぐにわかった。ナイスな判断に逆らう理由はない。通りの先に見えているおまわりの巣を見やりながらおれもそうした。 「ひゃあ、ここもごついのう」  センター街と変わらない混雑ぶり=スペイン坂。通りの名前を示す鉄板にはそうあった。道幅がやたらと狭いせいで人の流れが悪い。だけどこの感じがよかった。これこそがおれにとっての隠れみのだ。長野や大宮じゃこうはいかない。お互いがお互いをかくまう人の煙幕。こいつをうまく使っておれはこの街で生き延びる。 「なんや舌おかしないか?」 「全然」 「ワシおかしいわ。さっきから生ゴミの味しかしてへん」 ――食ったことあんのかよ、そんなもの。 「ぜいたくだ」 「なんの話しとんねん」 「お前の舌の話だよ」  階段に差しかかったところで哲を追い抜く。 「なにをいうてんねん。あんなくっそまずい――」 「おれはちゃんとうまかった。おかげで体の調子ももとどおりだ。あの特製餃子だって食えっていわれりゃ、もうふた皿はいける。《長谷|はせ》……亀だって喜んで《むしゃむしゃ》やってた」 「うそやん。残飯の一歩手前やで、あれ」 「なら残飯でも食えるな」 「スパゲティー混じっとってもかい」 「よけて食うさ」  階段を上りきると目の前が《開|ひら》けた――強い光。目に飛びこんできたのはいくつものテレビ。白い建物の壁に埋めこまれている。画面のなかでは顔に絵の具をそのまま塗りたくったような女が笑ったり、澄ましたり、目を閉じたりしていた。右腕のデジタルを読む――二〇一〇。どうせなら六チャンネルを流してもらいたいもんだ。 「今までどんな暮らししとってんな」 「だから残飯がうまいと思える暮らしだよ。哲とちがってボンボンじゃなかったからな、おれは」  赤い自動販売機の前に立つ。コーラ、ファンタ、スプライト、ジョージア――見慣れたラインナップ。マウンテンデューはなかった。 「ま、元気出てんから、とりあえずはええか」  いつものやつを二本買う。よく冷えていた。 「世話かけて悪かったな。ほら」  ペンギンガムつきのコーラと伊藤博文一枚を革ジャンに押しつける。 「なんやこの銭」 「こいつの分だ」  いって、上着のポケットから取りだした小瓶を宙に振る。すぐさま取りあげられた。 「ちょうどええわ、ひとつもらうで」 「なんだ。腹でも痛てえのか」 「念のためや、念のため」  正露丸をコーラで流しこむ哲。真似しようとは思わなかった。おれはおれのやり方で喉をうるおし、すぐにまた人の少ないほうへ向かって歩きだした。    § 「苦いし《辛|か》っらいし、口んなかめちゃめちゃや」  小さな公園のベンチ=水銀灯の真下のそれへ哲がどかっと腰かける。おれは立ったまま道行くやつらひとりひとりを注意深く眺めていた。 「ほなこれ、返しとくで」  戻された正露丸を上着のポケットへ押しこめ、引き続き花壇の向こうに目をやる。歩いているのは普通の格好をしたやつらばかり。暴走族はおろか、ただの不良も通らない。仮にもしそんなのがいたとしても、このあたりのやつらなのかどうかまではわからない。人にもナンバーがついていればいいと思ったが、そうなるとおれにも長野ナンバーがつくことになる。くだらない考えだった。 「コスモスもええ花や」  頭のなかに山口百恵の歌が流れだした。目の焦点を通りから手前の花壇に合わせる。 「漢字で秋の桜て書くんやで。知っとった?」 「ああ。歌にもあったからな」 「ええ歌やったなあ、あれ。ワシ聞くたびに涙しとったで」 〈じゃかじゃん! ばかにしないーでよ〉 ――それはちがう歌だ。 〈これっきりーこれっきりーもー〉 「黙れ」 「なんやねん、黙れて」 ――しまった。ごまかす言葉を特急で考える。 「いや……あれだ、歌詞を思いだしてた」 「黙れなんて歌にいっこも入ってへんで」  哲が腰をあげる。近づいてきておれの前に立つ。目をしっかりと見つめてくる――疑いのサングラス。無言が続いた。三秒めで堪えきれなくなった。目玉だけを水銀灯へ向ける。印ろうを出してやろうか――どう考えてもおかどちがい。いっそ本当の―― 「どんな《秋桜|コスモス》やねん、それ。親に感謝する歌やど」  早まらなくて正解。化けもののことを知っているのはおれのほかにひとりしかいない。ふたりめになりかけたやつもいるが、そいつは次の日から友だちじゃなくなった。秘密なんてやたらと誰かにバラすもんじゃない。 「どうして花なんか好きなんだ。女みてえだぞ」  話題をほどほどにずらす。目玉の位置はずらさない。 「ええやん。そんなん好きなやつがおっても。爬虫類いろて喜んどるヘンタイかておんねから」  ヘンタイじゃないが黙っていた。今は話をもっとぶっ飛ばしていかなくちゃいけない。  野球は好きか?――バーベキューのほうが好っきやな。  999は?――なんやそれ。  銀河鉄道だよ――笑かすなや、亨。ガキとちゃうで、ワシ。  《沢田研二|ジュリー》は?――やめてえな、その呼び方。《樹木希林|きききりん》かジブン。まあでも歌は好きやで。ワシもいつかはカサブランカ・ダンディや。  母ちゃんは好きか?――当たり前やん。ワシをこの世に生んでくれた人やで。亨は好きちゃうんかい。 「喉渇いたな」 「さっきコーラ飲んどったやんけ」 ――話題チェンジ。 「哲はタバコとか吸わないのか」 「吸わへん吸わへん、あんなもの。で、亨はおかん――」 ――くそ。 「おれは吸ったことある。けどめちゃくちゃまずかった。だからたぶん二度と吸わない」  羽音とともになにかが舞い降りてきた。くるくる、くるくる、くるくる――白い部分の勝った鳩が一羽。なにもない土の上をくちばしでぶっ叩いている。 「ふん、まあええわ」  哲はそういうと、さっきまで腰をおろしていたベンチへまたどかっとやった。 「亨はヤンキーとちゃうんか」  ヤンキー=ツッパリ。つまりは不良=哲の説明。 「ああ。ヤクザも引っくるめてそういうやつらは好きじゃない」 「ジブンはほんならなんや」  なんだろう。不良でもない。普通でもない。ましてや天才でも優等生でもない。教師どもはおれを問題児だといっていた。灰にしてやった手紙には《虞犯|ぐはん》少年とあった。よた者のせがれ、やくなし、うじ虫、ごったく、奴隷。最近じゃヤバンジンだかなんだか、妙ちくりんなことまでいわれた。 「ただのろくでなしだ」 「憎みきれない感じやな」 「憎まれまくりに決まってるだろう」  誰の目にどう映ろうがおれはおれだ。 「好きやないのはなんでなん」 「質問ばっかしてくんなよ」 「気んなんねもん、しゃあないやんけ」  誰がえらい。誰がえらくない。自分の後ろには誰々がいる。仲間といれば気合が入る。どれもこれも馬鹿くさかった。 「わかるわ、それ」  一丁前のツッパリ小僧がなにをいってるのか。 「哲は不良だろう」 「どこがや」 「革ジャン着てるやつは大抵そうだ」 「なんやその決めつけ。男のファッションやんけ。ワシの行っとった学校の先生かて着とったわ」  職員室の窓をよじ上ってきた誰かを思いだした。たしかに教師も革ジャンは着る。 「亨みたいなややこし服着とるほうがよっぽどヤンキーやで」  ヤンキーはともかく、おれはそのややこしさを気にいって身に着けている。どこかで透明になれる服が売りだされるまではずっと着ておくつもりだ。 「お、ええもん見つけたで」  前屈みになり、自分の足もとあたりに右手を伸ばす哲。 「昔からよう《もの》《拾|ひら》うねん、ワシ」  哲の親指と人差し指につままれたなにかが灯りのあるほうへかざされる。 「同い年や」 「四十四年か」 「がま口やらガシャポンやらさい銭箱やら販売機やら十二年間旅してきて、ちょっとの《間|ま》、《公園|ここ》で骨休めしとってんで、こいつ」  考える頭や心のないものをまるで人のように扱う哲。変なやつだ。 「ツイとるで、ワシら」 「お前、同い年見つけるとそんなことばっかりいってるな」 「めぐりあわせっちゅうか定めっちゅうか運命っちゅうか、なんかそんなん感じる瞬間があんねん。わからんねやろな、鈍感くんには」 「余裕でわかんねえよ、そんなもの」 「やるわ、これ」 「いらねえよ、百円ぽっち」 「ワシさっき財布ごともうてるし、お返しや」  拾いものに拾いものでお返し。だけど四十分の一のお返し。哲から受け取ったそいつをおれは親指の爪で宙に弾きあげた。 「どっちだと思う」 「裏や」 「じゃあ、おれは表だ。なに賭ける?」  地面墜落の一メートル手前で百円玉を捕まえる――運のテスト。 「せやな……ほな、明日の朝飯にしよか」  おれがこいつをやると決まって桜の側が出ることを哲は知らない。朝飯はいただきだ。 「ご~ちそ~さ~ん。なに食うたろかのう」  舌打ちをする。唾を吐く。くそ、なんでだ。どうしていつもみたいにならない。 「このへんじゃ数字の書いてあるほうが表だ。知らないのか」 「悪いけどワシ、銭貸しのせがれやってん。日本全国、表は桜。そないなむちゃくちゃ通らんで」 「わかったよ、うるせえな」  十秒ももたなかった悪あがき。哲は聞いたこともないような料理の名前をいってきた。 「明日の朝飯はいいけど、この先どうすんだ」 「どないしよかのう……ジブンはなんか考えとん? せやせや、渋谷に用ってあれ、ほんまか」 「ああ、ほんまだ」 「そこは『だ』ちゃう。『や』や」  いいなおした――大笑いされた。 「おかしいて。『まぁ』で上げて『やぁ』で下げんと。やって――」 「なあ、哲」 「ん? なんや」 「お前このままずっと渋谷を遊び歩いてるつもりか」 「ちょい意味わからんの」 「明日も明後日も来週も来月も来年も、今日みたいに街をぶらついてるつもりなのかって話だ」  哲がおれを見ながら腕を組む。 「ワシもひとつ聞いてええか」  はぐらかされた、とは思わなかった。哲はおれの質問にどう答えるかを、この問いで決めようとしているんだろう。 「答えられることならな」 「けっこう難問やで」  どこかでうるさいバイクの音が聞こえた。そういうバイクがよく鳴らすラッパのメロディも聞こえた。暴走族は渋谷にもいる。 「いいから早くいってみろ」 「誰、《殺|ばら》したいねん、ジブン」  言葉の意味はわからなかったが、首をかき切る手の動作で聞かれている内容は理解できた。 「答えづらいやろ」 「いや、簡単だ。誰も殺そうなんて考えてないからな」 「とぼけはなしやで、亨」 「お前も少し常識でもの考えろよ。十二才だぞ、おれ」 「ワシも《十二才|じゅうに》や。せやけど人殺しを考えたことはあるで」 ――それぐらいならおれにだってある。 「考えるのと実際にやるのとじゃ大ちがいだ」 「ワシは大してちがわへん思うで。ちごたとしても餃子の皮一枚ぐらいの差やわ」 「けっこう歯ごたえあるぞ」 「ほな、ワンタンにしとこか」 ――変わらない。 「ジブン、いっぺん鏡でよう見てみ。顔」 「痣や傷なら鏡見つけるたびにチェックしてる」 「青たんとちゃう。目ぇや、目」 「人でも殺しそうか」  哲がゆっくりと頷く。なんだよ、冗談のつもりだったのに。 「ワシもいやぁな夢見た朝はジブンとおんなし顔になるさかい、ようわかんねん。しゃあからやめとき」 「同い年に説教食らってんのか、おれは」 「まぁた短気かい。ほんま飽きひんのう」 「お前もしつこい」 「ほなやめへんのかい、殺人」 「だから、考えてねえっていってんだろ!」 〝なめてんのか、こら!〟 ――はじまった。 「なんや、ケンカか」 「みたいだな。ちょっと見学してくる」 「ちょ待てや、おい!」  騒ぎのもとへ走る。来た道を戻り、車道を渡り、さっきの場所=人の少なかった通りまで来て足を止めた――でかい建物の一階駐車場。なかじゃなく、道端へ止めてある車の陰に隠れて様子をうかがう。暗くてあまり見えない。気配はわかる。声や音はよく聞こえた。怒鳴り声、うめき声、誰かが誰かを殴る音、蹴る音、引きずる音。少なくみても十人は暴れている感じだ。 「意味わからんて、亨」 「ここじゃだめだ。あっちの車まで移動しよう」 「せやから待ていうとるやんけ。どないするつもりや」 「考えがある。哲も乗るか?」 「どないな考えでも乗らん。関わらんほうがええて……ちゅうかジブン、まさかヤカラから銭いわしたろ思とんちゃうやろな」 「思ってる。カラカラ銭かイワシ太郎か知らねえけど」 「《痛|あい》った!」  のけぞり、消火栓と書かれた赤い柱へ背中をぶつける哲。 「あほか、ぼけ! 火ぃに油もええとこや! エビフライかジブン。カリッカリにされんで。ちゅうか跳ねたらワシまで《熱|あ》っついやんけ」 「冗談だ」 「はあ?」 「だから冗談だよ」 「嫌いやったんちゃうんかい。スパゲティーとそれ」 「お前の調子に合わせた。だいたいあの人数相手にふたりで勝てるわけないだろう」 「しゃあからワシを数に入れんなて!」  哲の腕を引っぱりながら車伝いに見学場所を変えていく。 「ちょ、もういやや。放してくれ」 「しゃがめ、哲」  ハンドルが左についた車の陰。ここからならおよその数と状況がわかる。押してるほうは五、六人。押されてるほうは四、五人。突っ立ってるだけの女はどっちの仲間かわからない。哲も車の窓越しにやつらの動きを見ている。 「ああいうやつらは縄張りにこだわるんだ。だからいつも同じところでたむろしてる。漫才王国にもいただろ、そういうやつら」 「……そらおったけど、それがどないしてんな」 〝てめえら二度とこのへん歩くんじゃねえぞ! あ! わかったんか、こら!〟  風船にマジックで目鼻口を描いたような顔が……一、二、三、四、五。ボスらしき男にぺこぺこやっているのが見えた。 「ケリがついたみたいだな。さっきの答えを聞かせろ、哲」 「さっきてなんや?」  来週、来月、来年、そのまた次の年――大人になるまでの時間。 「先のことはわからん。亨はどない考えてん」 「少なくともおれは三年半、この街で暮らしていく」 「十五……六までやな。なんでや」 「その年になれば働ける。だけどそれまでの寝ぐらもいる」 「寝ぐらて……」 「それだけじゃない。風呂も洗濯も食いものも、暮らしに関係してくる全部が必要だ」 「そないなもん、銭あんねんからどないでもなるやろ。まあ、亨がいくら持っとんか知らんけど」  いくらあっても足りない。今ある分でなんとかできるのは飯代ぐらいだ。屋根のないところで暮らしていればいずれ捕まる。大人なら乞食のふりをしてやり過ごせるかもしれないが、ガキの場合はそうもいかない。 「二百万あるっていってたな」 「おう、あるけどよう貸さんで」 「そうじゃない。持ってる金を三年半で割ってみろ。一日に使える金、千いくらかだぞ」 「なんや」  哲がずり落ちてもいないサングラスを指の先で持ちあげる。なかなか憎たらしいしぐさだ。 「ワシの銭やったら心配いらんがな。のうなったら、また取りに戻ったらええだけやさかい」  しょせんは金持ち。お気楽だ。いいやつだが、おれとこいつじゃなにもかもがちがう。ちがいすぎて同じものがなにもない。 「実際んとこ、なんぼ持っとんねん」  金は人の心をぶち壊しにすると哲はいった。うそ、騙し、裏切り、寝返り。意味としちゃそんなところだろう。おれとはそうなりたくないともいっていた。同じことをおれも思っている。 「あいにくとおれの持ってる金には限りがある。んじゃ、元気でやってくれ」  革ジャンの肩を叩き、おれは車の陰から跳びだした。 「ちょい、なんやねん、亨、お前こら! 戻ってこいや! 朝飯どないすんねん! ちょっとぐらいやったら貸したるで! おい!」  おれは《松本|あのガキ》とくっつくために聖香と離れるところからはじめた。だけど長くはくっついちゃいられなかった。その後も決まりごとのように同じパターンを繰り返し、最後には砂鉄みたいなかすだけが心に残った。街も磁石なら人も磁石だ。引きあう力が強いほど反発しあったときの力も大きい。そして金や時間と同じように友情にも限りがある。いがみあって終わるパターンはもうこりごりだった。 [*label_img*]
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