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一  《北部航空宇宙司令部|N O R A D》の下部組織、戦略空軍防空指令所第586警戒管制群の高性能レーダーが、何処からともなくコロラド上空に忽然と現われた2機の国籍不明機を捉えた。モニター上の《輝点|ブリツプ》は、レーダー基地監視管制室の真っ暗闇に近い中で妖しい光を放っていた。レーダーが捕捉してか ら数秒後に、飛行物体が急激に加速、方向転換したことにより、ブリップはモニター上で乱舞しはじめた。  基地では、緊急警報灯が一斉に点滅すると同時に、緊急発進した戦略偵察機SR91を操縦するパイロット、迎撃管制官との間で、部外者には数字の羅列にしか視えない暗号化した信号での交信が始まった。モニター上に は、2機の未確認飛行物体と1機のSR91の、互いに接近して行くブリップが映っていた。3機はアラスカ上空で旋回飛行を繰り返し、方位270度に転進したのちシベリアへと向った。  ヒマラヤ山脈の最高峰チョモランマの山頂では、地上光学・電子宇宙探査網のレーダーが間もなく3機の機影を捉えた。しかし、3機がトゥングース上空に接近するにしたがい、強力な妨害電波が発生し、パイロットとの交信は途絶えた。どうして妨害電波が?しかも強力な電波だという。ロシア空軍基地でも同様の疑問が湧き起こった。米露間を繋ぐ緊急電話回線を通じ、怪電波の正体に就いて議論は沸騰したが、お互い自国の軍隊が発した電波でないことを確認した。  では一体、何者が妨害電波を放ったのか。決定権限を持つ米露両軍の連絡将校は、トゥングースに調査隊を送り込むべきとの意見で一致した。  そうこうする中にも時間は刻々とすぎ、空白の時間が長引くにつれ、レーダー基地には焦燥感が浸透して行った。だが、迎撃管制官には手の打ちようはなく、スコルツェ二中佐、ラスムッセン伍長が無事であってくれればと祈るしかなかった。  一人の防空指令所下士官がモニターに眼をやりながら盛んにキーを叩いている最中、別の手持ち無沙汰な下士官が3人、うしろからそのモニターを熱心に覗き込んでいた。はじめは退屈そうな表情で眺めていた下士官の中、少し年嵩なアレックス軍曹がキーを叩き続けるヘンダスン伍長に訊いた。  「ヘンダスン、そいつはミサイルの弾道を示しているのか?」  「まあそんなところですが一寸違います」  興味津々といった面持ちでやりとりを聴いていた、もう一人の若いモファット伍長が二人の間に割り込んだ。 「そいつは、UFOの航路を示す軌跡だろ?」  「その通り。さて皆さん、このUFOはいつ頃、何処を飛び、その後どうなったのでしょう」ヘンダスンはそういってうしろを振向くと、ニヤニヤしながらモファットの横腹を小突いた。  「前置きはいいから、さっさっと次を視せろや」さらに、背高のっぽの優男マクニーリィ軍曹が割り込んできた。気の短いのが玉に瑕だが、矛盾だらけの点に魅かれる女の子が多く、基地内で一番の洒落者との評判だった。  ヘンダスンがキーを叩くにしたがって飛行物体の軌跡は、右から左へと逆方向に転進しはじめた。  「おやおや、UFOにしても飛び方が変だぞ。一体いつ頃地球に飛来したやつだ?」  「1908年6月30日、このUFOは空中で大爆発を起こし、シベリアの永久凍土に激突しました」  「ふーん、ニューメキシコに墜落したやつより随分古いじゃないか」  「そうですが、遥かに古い時代からUFOは地球に飛来しています」  「ああ知ってるぞ、支那だろ。うん?」  「残念でした。旧訳聖書をお読み下さい」  「そんなに古い時代から地球にやってきてるのか?奴らはなんだって、こんな銀河系の辺境になんぞ興味があるんだろな」  「そいつが分ったら、我々軍人は即刻お払い箱だ」いつの間にか上官のオッキャリーニ大佐が、下士官連の背後から仁王立ちしてモニターを覗き込んでいた。  一同大慌てで、起立すると回れ右して敬礼をした。オッキャリーニ大佐といえば、有能なコンピュータ科学者であり、基地内で1、2を争うタフなボクサーだった。鼻が折れ曲がり、顔全体が岩石を彷彿とさせる相貌から、同僚や部下の軍人は呆れ返ると共に少なからず感心してもいた。  「一同解散。各自所定の部署に戻り、そのまま待機せよ」  叱責があるものと覚悟していた下士官連は大佐の命令に、深々と息を吸い込むと安堵の吐息を漏らした。その後、探査網から入ってきた情報によると、重なっていたブリップは分離し、しばらくめまぐるしい動きを繰り返していたのち、モニター上から忽然と消え去った。戦略空軍は遭難と断定、即座に上部組織NORADに通報した。同時に部隊内の解析班が、ツンドラ地帯上空から軍事衛星の送信してきた静止画の解析に取り掛かった。  間もなく解析班からNORADに、SR91はトゥングースの凍てつくツンドラ地帯に軟着陸しており、しかも機体の何処にも損傷した痕跡はないとの報告が届いた。だが、パイロット2名の安否は目下確認中とのことだった。  シベリアにあるロシアの空軍基地から救難機一機が飛び立ち、凍てつく中をトゥングースへと向った。元々ミサイル専用の軍輸送機だったが、第一線を退いてから格納庫内で埃を被り、何年間か冬眠期間をすごしたのち、目出度くも大改良の栄誉に浴し前線基地に復帰したのだった。  その着陸する姿は、まるで途徹もなく巨大な蝙蝠さながら、怪物が咆哮しながら舞い降りてくるようだった。救難機を操縦するミンスキー中尉には外側から視る限り、SR91の何処にも異常はなさそうに視えた。だが、仔細に観察するまでもなく二人のアンクルサムは昏睡していた。  「一体なんだってこんな寒いシベリアなんぞにきて、わざわざ昼寝せにゃならんのだ、うん?」  酒焼けに加えて長時間寒風に曝していたか、普段の赭ら顔をこの日は恰も熟したトマトのように真赤にさせ、人の好さそうなロシアの大男は独り、空中停止させた救難機の中でぼやいた。  「ふむ、今宵もナジェズダと懇ろに……」  ミンスキーは、ナジェズダの若々しく豊満な肉体を憶いだし、ほんの束の間放心状態になった。だが、《苟|いやしく》もプロの軍人、我に返るとセントバーナード犬よろしく、巨体を揺さぶって任務に全神経を集中させた。ブツブツ独り言をいいながら、慣れた手つきでキーボードを叩き、矢継ぎ早に指示を入力していった。ミンスキーは、夢の世界をさまよう両パイロットを乗せたSR91を、救難機の腹部に強力な電磁ロック装置で固定させ、荒寥としたツンドラ地帯から北米コロラドのサンフォードを目指した。  数十分後、救難機はアラスカを経由してコロラド上空に到達、サンフォード基地に着陸した。SR91を電磁ロック装置から解除、滑走路をアラート・ハンガーへとむかった。ロシアの巨人がやっとのことで操縦室から這い出し、滑走路に降り立って何気なく振り返ったときには、最新鋭の戦略偵察機はすでに地下格納庫の所定位置に収まったあとだった。  数十人の軍科学情報部将校や軍事技術分野の専門家が、制御室内部から地下格納庫に鎮座するSR91を仔細に観察していた。担当官が機体を数度に亙り洗浄し、入念に放射能測定を行なったが、ガイガー・カウンタ ーは極微量の放射線を検知したに留まった。  念のため機体を再度徹底的に洗浄し、機内を綿密に点検したが、何処にも極立った異常は視つからなかった。一方、2名の戦略空軍パイロットは医療コンピュータによって、脳波、心電図、血圧などの検査を受けたが、機体同様に各波形は正常に近い数値を示した。だが慎重を期して二人は数日間、外界から完全に隔絶した隔離室で過ごすことになった。規律を重んじる軍隊ならではの措置とあっては、たとえ優秀なパイロットだろうと従わざるを得なかった。 二  私立探偵ヴィーゴ・オストロスキは、日当たりのよい窓際に椅子を引き寄せて腰掛け、カナダの大衆紙「オンタリオ・タイムズ」を開いた。注意を引くほどの事件はなく、いたって平和そのものだ。カナダに問題があるとするなら人種問題ぐらいで、何れにしろ瞠目するほどの怪事件はなかった。依頼人はやって来ず、ヴィーゴは毎日手持ち無沙汰の日々をすごしていた。  煙草を喫いながら新聞に眼を通し、机の抽斗からラベルの剥げかかったウイスキー瓶を取り出した。喫い殻を灰皿に放り込み、徐ろにウイスキー瓶の栓を空けて小さなグラスに注いだ。そのグラスを口に持って行って一気に煽り、ふたたび煙草に火を點け、紫烟とアルコール臭い息を同時に吐き出した――それが私立探偵ヴィーゴの日課だった。  少しアルコールが回りはじめ、気分が昂揚してきたヴィーゴ、「オンタリオ・タイムズ」紙に一通り眼を通し終ると、別の新聞「アルゴンキン・ポスト」紙を開いた。「オンタリオ・タイムズ」より俗受けする分、信憑性に乏しい記事が多いので有名だ。ある特定の敏腕記者の取材記事に気づかない購読者には、何処まで真実なのか虚偽なのか、まったく見当のつかない大衆紙だった。  中に次のような、「合衆国戦略空軍、UFO航行技術を実用化」なる少々刺激的な見出しを掲げている記事があった。記事の内容が事実なら、我が友好国は、UFOの航行原理と製造技術を手中にしたことになる。実戦配備も間近いとのことだが果して信憑性はあるのか。狂信的なUFOマニアの関心を惹きつける程度の、一般購読者なら無視してしまいそうな見出しだった。  20世紀後半に、米国では情報自由公開法に基き、国家機関が秘匿していたUFOに関する資料が公けになったことがある。とりわけ愕くべきなのは、U F O の襲来を人類存亡に係わる重大問題と断言している《国家安全保障局|N S A》の文書だ。  「人類存亡に係る重大問題」とは一体なにを指しているのか。UFOの推進原理を挙げるまでもなく、彼らの科学技術が地球のそれよりも五千年から一万年も先行しているに違いなく、価値観の懸隔は想像もつかない程に 大きいだろう。しかし、UFOの実在を証明した科学者は一人もおらず、運よく立証できるかも知れない拉致被害者、接近遭遇体験者の体験談やスティル写真、あるいは尤もらしい映像が存在するのみだ。  電話の呼び出し音がけたたましい音をたてて静寂を一掃した。咄嗟にヴィーゴはホルスターに手をやり、それから徐ろに腕時計で時刻を確かめた。いつの間にか太陽は西に沈みかけ、時刻は午後6時を回っていた。そんなに長時間、考えに耽っていたはずはないのだが、腕時計が正確なのは確かめるまでもなかった。電話の呼び出し音が何度か鳴ったのち、ヴィーゴは煙草に火を點けると、灰皿を引き寄せて徐ろに受話器を取った。ハスキー にして魅惑的な女の声が受話器の向こう側から聴こえてきた。  「探偵さん、もうおやすみ?」  電話の相手は、「アルゴンキン・ポスト」紙の記者シモーヌだ。長い金髪に暗緑色の眸の絶妙な配合、面長な容貌と肉感的な唇の醸し出す危うい雰囲気、ほっそりしていながら豊満な肢体から発散する色香、如何なる紳士もこれらの妖しいシモーヌの魅力には抵抗できまい。そんなシモーヌがどうした弾みか、ヴィーゴのようなうらぶれた中年と交際っているのだから女心とは不可解なものだ。  「探偵さんはよせ、パブの親父もそう呼んでた」  「あらそうなの御免なさい。ねえ、ちょっと前に取材先から戻ってきたばかりなの。耳よりな話があるのよ」  「いいとも、いつものパブで待ってる」  「まあ嬉しいわ、じゃあとでね」  信憑性に乏しい内容の「アルゴンキン・ポスト」紙に、骨太の取材記事があるとするなら、それはシモーヌの書いた記事と決まっていた。若いに似合わず、シモーヌは完璧主義を持前としていた。凡そ信用できない不安な 現代だからこそ、シモーヌの記事は、何処の新聞社の記事よりも遥かに内容が充実していた。耳寄りな話にはもちろん大いに興味は湧く。だが、魅力タップリのシモーヌには、何はさておき会うのが先決、聞くのは二の次で構わない。  ヴィーゴは強力なエンジンに換装したシトローエンに乗り込み、行きつけのパブへと急行した。ガソリン車の立てる音には独特な響きがあり、歩行者はもとより電気自動車の運転者までがヴィーゴの車に眼を瞠った。シモーヌはこの車に「走る骨董品」の異名を奉った。ガソリン代が途方もなくかかるにしろ、悪路に強い点では電気自動車に優っていた。古い技術を使い捨ててきた人間の愚かしさを横目で視ながら、ヴィーゴのシトローエンは風を切って軽快に走った。  間もなくそれらしい建物が巨大な蔭のようにボンヤリ視えてきた。二人がよく待ち合わせに利用するそのパブは、中世紀フランドルの版画家ブリューゲルの作品「バベルの塔」を彷彿とさせた。高さだけでは「バベルの塔」には遠く及ばないものの、全体の容積では遜色がなかった。伝説の塔を建てるために、この建物の所有者は古い煉瓦を世界中から集めたという。丘の上からでも眺めたらその偉容は嘸かし圧巻だったろう。  所有者は一体どんな人物なのか、其処へ行く度にヴィーゴは想像する。相当な資産家だろうが、それだけではそんな莫迦げたものに投資するはずはない。とんでもない浪費家か狂人、あるいは底なしの偏屈に違いない。  いつもの通り、予約しておいた個室に入って黒ビールを注文した。内密な話をするにしろ内輪で酒盛りをして騒ぐにしろ、ドアを閉め切ってしまえば、話し声が外部に洩れる懸念はなかった。  盗聴を恐れていたら何も話せないが、どうしても他人に知られたくないなら、筆談で済ますことで少しは気休めになる。盗み聴きするのは必然性があってのことだろうが、それを趣味や道楽にするようになったらお終いだ。黒ビールを味わい、煙草を4、5本喫い終った頃にシモーヌはやってきた。ドアを空け放しておいたのに、足音を忍ばせて近づいてくるシモーヌに気づかなかった。大きなゲップをした丁度そのとき、シモーヌの、辺りに反響するハスキーな笑い声が聴こえ、ヴィーゴは椅子から転げ落ちそうなほどに愕いた。  「あら、あなたでも吃驚することがあるのね」  「でもはないだろ。誰だって傍でいきなり《勝鬨|かちどき》を、上げられたんじゃ吃驚するさ」  「勝鬨だなんて失礼な。それはそうと、あなたそんなに煙草ばかり喫ってると、いつか必ず肺癌で死ぬことになるわよ」  「まあいいから座ってビールでも呑みなさいよ」  「いいえ、わたしはドライ・マーティニを戴くわ」  「ではドライ・マーティニをダブルで一つと」  「わたしを酔わせてなにをしようっての、この祿でなしさん」  「それはあとになってのお楽しみ」  ヴィーゴは灰皿を手前に引き寄せようとして手を伸ばす拍子に、想わずシモーヌの胸に触れてしまった。束の間だが手の甲には硬くなったシモーヌの乳首の感触が生々しく焼きついた。昨今は男も女もおしなべて中性よりも無性に近かったが、シモーヌは珍しく情感豊かな女らしい女だった。二人は、ビールやカクテルを呑み、煙草を喫っては冗談をいい合った。互いにほろ酔いになったところで支払いを済ませてパブを出た。シトローエンに乗り込んでからしばらくは、双方から話すことなく押し黙った。痺れを切らしたのはヴィーゴの方だった。  「ところでその耳寄りな話というのは」  「あなたのこの車が盗聴されているってことはないでしょうね」  「長年の探偵稼業の経験から、この車に盗聴器を仕掛けた奴がいたら、何となく耳がこそばゆくなるんだ。ところが、今宵はどうも酔いの回りが早すぎた所為かな、勘が鈍ってしまってさっぱり分からん」  「安全ってことにしましょ。取材先でいかがわしい組織と関わりのある人物に遭ったのよ。マッカンドゥルーといって、あるカルト教団に強力なコネを持った人物らしいの。その人物がこっそりメモをくれたわ」  「マッカンドゥルーなる人物は初耳だ。オズなら、世界中にネットワークを張り巡らしているので有名なカルト教団だがな」  「あらどうしてそんなことまで知ってるのよ」  「しかるべき筋から入手した情報に偶然まぎれ込んでいたんだ」  「わたしにはちっとも話してくれなかったくせに」  「危険に巻き込みたくはないからだ。君のお蔭で面識のないマッカンドゥルーと会えるんだし、感謝しなくちゃな。お礼に今宵はたっぷり」  「ええ、一週間振りですもの、あなたさえ差し支えなければ……」  車を走らせること2、30分で珈琲店の前に着いた。店の外観は奇妙の一語に盡きたが、その奇妙な造りには観る者を魅きつけて離さない強烈な魅力があった。店は十九世紀後半、スペインで活躍した建築家ガウディの 設計になるアパートメントを模したものだ。店内の作りも凝っていた。曲りくねり、階段があり、迷路のように入り組んでいて新顔の会員は戸惑ってしまうだろう。  「まああなたこんな高級な店に入って大丈夫?会員制って表示があるわよ」  「会員なんだから心配しないでいいんだ」  ヴィーゴはシモーヌの手を引いて階段を3階へと上って行った。好きな女の手を握ったからとて誰も咎めだてはしないが、傍から視ればいい歳した男が若い女と手を繋ぐなんて、みっともないと《密|ひそ》かに想うだろう。だが此処では必要なことなのだ。階段はまともな方角に通じてはおらず、迷路のように複雑に入り組み、曲がりくねり、初めての客は方向間隔を失ってしまうからだ。  シモーヌはヴィーゴに手を引かれ、随分歩いたように想う頃になってやっと3階に辿り着いた。シモーヌは席につくなり頬をピンク色に染め、豊かな胸を揺さぶるかのように息を弾ませた。ヴィーゴは十代の少女のような初々しさをシモーヌの中に発見し、遥か昔の甘くも苦い異性への憧憬を憶いだした。  「どうかな、店内を歩いてみた感想は」  「こんなに歩いたのは久し振り、まだ膝がふらつくわ」  「そうなんだ、此処では普段の不摂生がこたえることになる。それだけ、いい運動になるってことだが」  「そうね、慣れればそんなに苦にならないでしょうね。それに、あちこちに珍しい写真や絵が飾ってあったりして飽きないわ。此処では歩くのが病みつきになりそうね」  二人は好みの珈琲を注文した。シモーヌは昔に戻ったかのような環境に少なからず愕いた。しかし愕きはそれだけではなかった。座って周りを見回すまでシモーヌはまったく気づかなかったのだが、それは席の周囲に木 が生い繁り、まるで森の中にでもいるかのような錯覚に陥ることだった。  「此処の経営者は先刻のパブの経営者に敗けず劣らずの変り者ね。自然愛好家もしくはジャングル・マニアとでも呼んだらいいのかしら、この拘りぶりには尋常ではないものを感じるわ」  「拘りはそれだけではなさそうだ。多種多様な花が咲き乱れる中を、蜜蜂や花虻は忙しそうに動き回っている。しかし、此処で眼につく昆虫は2種類だけ、おかしなことに他の虫は一匹もいない」  「もしその2種類の昆虫が増えすぎたらどうするのかしら。余計なことかも知れないけどちょっぴり気になるわね」  「そういえば一つだけ気になることがある」  「なによ、気になることって」  「それはだな、昆虫も植物も本物ではなさそうなんだ。つまりどれもこれも精密にできた人工物やロボットらしいんだな」  「それじゃ経営者はとんでもない科学技術信奉者かロボットおたくってとこね」  「ロボットおたくとは傑作だな」  「それはそうと、生き物そっくりなロボットを造る高度な技術なんて地球の何処かにあったかしら。ある分野では部外者の想像もつかないほど進歩してるらしいけど、ロボットについては果してどうかしらね」  「そこなんだ困ったところは。地球上の科学技術がどの程度進歩してるのか、この半世紀というもの政府は公表してはいないからな」  「科学者でさえ自分の専門外の分野については、まるっきり理解できなくなってしまってるそうよ」  「それじゃ進歩してるか退歩してるか分らないだろな。ひょっとしたら此処の経営者は異星人じゃないのか」  「どうしてなのよ、わたし異星人って聴いただけで虫酸が走るわ」  「おいおい冗談だよ冗談。こんな旨い珈琲を淹れるなんて、奴らにはできやしないだろ」  「それもそうね」  「おやっ、もう十時を回ってしまったぞ。ちょっと前にきたばかりだと想ったんだが、シモーヌと一緒だとつい話が弾んでしまい、時間の過ぎるのも忘れてしまうんだ」  「あらまあ、いつからそんなにお世辞が上手になったのよ。そんなことより、なにか忘れてはいませんか」  「モーテルに泊るってことなら、きっちり憶えているとも」  「嫌な人ね、そんなこといわれなくても了解よ。話を逸らさないでいいなさいよ」  「すっかり忘れていた。実は小説を」といいながらヴィーゴはニヤつく。  「それで、どんな小説なのよ」  「初めての自作ホラーSFだ」  「なによそのホラーSFって」  「SFにホラーのスパイスを効かせたものとでも想ったらいい」  「ねえ視せて視せて」  「それじゃ1、2日中に電子メールで送る」  「そんなの嫌、モニター画面で読むなんて興醒めだわ。きちんと印刷した本でないと、わたし読んだ気がしないもの」  「天然資源を無闇に消費しないのが良識ある市民だろに、君は社会的規範に反することになるんだぞ」  「ええそうよ、活字は印刷されていなければいけないわ。電子化された小説なんて、いくら有名作家の作品でも嫌」  「参ったね、まるで駄々ッ子だ」  「駄々ッ子でいいもん、印刷して製本されてなきゃつまらないわ」  「分った、一冊しかない限定本をやる」  「まあー、あなたって人が悪いわね。わたしには天然資源を大切にするようにいっておきながら、限定本を隠し持ってるなんて」  「記念に蔵っておこうと想ったんだが、さして執着があるでなし、愛するシモーヌのためとあらば喜んで」  「あら嬉しいこと」  「モーテルに泊まる前に事務所に立ち寄る。それとも我慢できないか」  「嫌な人ね、そうやってわたしをじらそうったって駄目よ。あなたこそ我慢できないんでしょ」  「恐れ入ったね、なんでもお見通しなんだからな」  「そうよ」  ヴィーゴはビルディングの横に車を駐め、階段を2段おきに駆け足であがった。事務所を開けて奥の部屋に入り、机の抽斗からウイスキーの小瓶を取り出して一口呑んだ。それから徐ろに金庫を開け、中から分厚い本を取り出した後、鍵を掛けて階段を駆け下りた。本を差し出すと、シモーヌは眼を輝かせながら小さな声で礼を述べた。シモーヌは本を両手で抱え、ふっくらした胸に押しつけた。その仕種はまるで乳児に授乳させるかのようだった。  「まあー素晴らしい装丁だこと、それにずっしりとしたこの重量感は堪らないわ」  その夜、二人は互いに烈しく求め合った。一週間振りとはいいながら、それだけでは説明のつけようがない烈しさだった。特にシモーヌは、この世の終りを目前に、死んでからのちも決して相手を忘れまいとしているかのようだった。余りの烈しさに、二人は灼熱の火焔の中で燃え盡きてしまいそうだった。ヴィーゴが微睡んでいると、シモーヌが呟くように話しかけてきた。  「ねえ輪廻転生なんて信じる」  「リンネテンショーってなんだ」  「生まれ変わりのことよ馬鹿ね」  「うーむ、馬鹿と言われようが分らんものは分らん」  「肉体は滅んでも霊魂は死滅せずにあの世で生まれ変わり、行為の善し悪しによって因果応報を無限に繰り返すんですって」  「なんで、そんな難しいこと知ってる」  「昔、在学中に印度哲学を聴講したことがあるの」  「仏教の教えとは違うのかな」  「さあ仏教のことは殆ど知らないわ。あなた仏教徒なの」  「まさか、キリスト教徒に決まってるじゃないか。もっとも成人して以来一度も教会へは足を踏み入れたことはないがな、不信心も極まれりだ」  「あなた神を信じてないの?」  「神を信じる信じないなどといった次元では、この宇宙の仕組みは理解できないだろな」  「まあーっ、そんなんじゃ罰が当って地獄に堕ちるかもよ」  「そうかも知れんな。しかし人間が信じようが信じまいが、神は存在するんだろう。そうでなきゃ生命の存在はおろか、この宇宙の存在理由さえ意味をなさなくなる」  「そうかもね。でも、人が行為の善悪によって天国へ行ったり、地獄に堕ちるってのは恐い考えだわ。わたし地獄にだけは堕ちたくない」そういうと、シモーヌはヴィーゴの胸に顔を埋めて啜り泣いた。  「心配するな、君なら間違いなく天国に行けるさ。気高い人間は地獄の方でお断わりだろ。純真無垢な精神の人間で溢れ返ったんじゃ、地獄は成り立たなくなるからな」  「……」  いつの間にかシモーヌは軽い寝息を立てて眠っていた。この世がシモーヌのような善人ばかりなら、現代がこれほど酷い世界にはならずに済んだはずだ。人は行為の善悪だけで地獄に堕ちたりするのではあるまい。二十 世紀最大の思想家スヴェーデンボリによれば、人は己れの意思で天国か地獄を選択するという。「蓼喰う虫も好き好き」ってことだ。もちろん、殺人を犯した人間は地獄堕ちは免れまいが――。 三  凍てついたトゥングースから帰還して7日後、退屈至極な被験者としての任務を終えたスコルツェ二中佐とラスムッセン伍長は、久し振りに冷たい外気を吸い込み、何事もなかったかのように基地内の野外ベンチで寛い だ。厄介なことは何もないはずだった。隔離室で深い眠りに就いている間どんな検査を受け、軍上層部がどんな事実を掴んだかなど二人には知る由もなかった。日が陰り気温が低下して辺りに冷気が漂いはじめた。  中佐と伍長はベンチでしばらく談笑したのち、一杯やるために《酒保|P X》内の一角にあるパイロット専用倶楽部へと入って行った。しばらくして大勢の記者がどっと押しかけ、アーリイタイムズを味わっている二人を取り巻いた。記者連の目論見はニュースになりそうな、何がしかの軍事情報を得ることだった。パイロット専用倶楽部を報道陣に限って取材を許しているのは、情報公開が当然の時代ながら異例だった。  最新鋭機を配備する戦略空軍偵察部隊から、軍事機密が漏洩するなぞ論外、万が一にも漏洩は有り得ないのが前提だった。それだけ当該偵察部隊は隠蔽態勢の堅持に、絶対的自信を持っていたようだが実情はどうなの か。アルコールが体内を巡り、気が大きくなった自己顕示欲の強い軍人が、自慢したいばかりに軍事機密を漏らす恐れはないとはいえなかった。  二人の軍人は表情ひとつ変えることなく、いつも通り、アーリイタイムズの個性的な味を心おきなく味わっていた。時間の経過とともに酔の回りが加速しはじめ、両人ともかなりメーターが上がっていた。とりわけ伍長の方は両脚で立っているのもやっとで、カウンターに寄りかかってはいるものの、今にもその場に潰れてしまいそうだった。中佐がバーボン・ウイスキーの入った大きなグラスを手にしたまま、身体をゆらゆらさせながら重い口を開いた。  「ふむ、我々は緊急発進して間もなくアラスカ上空で、どの国もまだ実戦配備していないと想われる国籍不明機に遭遇した、フーッ。どうだ諸君等も一杯やらんか、ヒック」  そういいながら中佐はバーボン・ウイスキーをグイッと煽り、朦朧としてきた頭を2、3度左右に振るって眼をカッと瞠くとふたたび話しはじめた。  「奴等は音速の7、8倍の速度で飛んでおった。この分なら簡単に片がつくと想ったが此方の考えが甘かった。我が方の就役したての新鋭機でさえ歯の立ない飛翔体だった」  ここでまたもや中佐はグビリと煽り、大きなゲップをした。呑みっぷりは見事なものだが話の方は酔いに紛れて一向に進展しない。カタツムリだってもっと速かろうに……何人かの記者は不満たらたらの表情で内心舌打ちしながらぼやいた。  「つまりだ、奴等は我々をからかっていたんだな。パッと消えては後方にいきなり回り込み、鋭角ターンをしてみせ、此方の技量を試しているような節があった。まったくなんて奴等なんだろう、ヒック」  そのとき、凡そ場違いに視えるほどそれらしからぬ年輩の記者が、中佐を取り巻く報道陣の中に割り込んできて唐突に質問した。  「中佐、単刀直入にお伺いします。貴方が追跡した、その未確認飛翔体とは、地球上の何処の国も保有していないUFOの類だったのですか」  中佐は焦点の定まらない眼つきで空間を睨みつけた後、軍事機密でも隠し持っているかのようにグラスの中を覗き込み、記者団にむかってニヤリと笑いかけるとおもむろに話しはじめた。  「ヒック、異星人の乗り物だとしたらビッグ・ニュースだ――そう諸君等は想っとるんだろ。私もそう考えてはみたが、奴等の姿を《確|しっか》と目視確認しとらんし、だからしてUFOと断定するのはだなヒック、早計ではないか早とちりではないかと……ヒック」  中佐の話は一向に埒が明かない。記者は一人また一人と立ち去り、最後に残ったのは髭も髪も真っ白けな、《伍代格|ごだい・いたる》という記者だけになってしまった。ウイスキーの入ったグラスはいまにも中佐の手から辷り落ちそうだ。しかし、伍代が注意するより速く中佐はグラスを握りなおした。中佐の全身から今までの酔った姿は失せていた。 「奴等には善悪の区別なんてどうでもいいらしい。我々にはバイブルをはじめトーラーやコーランそれに仏典がある。だが奴等には宗教心のかけらもないようだな」  伍代は眼を大きく瞠くと、深呼吸でもするかのように一拍おいて質問した。  「そうすると貴方は事実を隠し、先刻まで記者団を煙に巻いていたってことですか。本当の処を教えて下さい。一体、何があったんです」  スコルツェニは深く息をつき、ギョロッとした眼で伍代を睨みつけた。アクの強いアーリイ・タイムズの香りを伴った中佐の吐息が、伍代の顔に吹き掛けられ、伍代は不覚にもアルコール臭い息を吸い込んだかウッと呻いた。中佐の脳裏を突然恐怖がよぎったが、伍代はそれに気づいた風もなく、相手が話しはじめるのを辛抱強く待った。メモには中佐との会話がビッシリ書き込まれており、伍代という記者の性格、資質を窺わせた。彼の手にするメモに滴がポタリまたポタリと落ちた。  「中佐どうしました」  伍代はギクリとしてメモから顔を上げ、顔面蒼白な中佐と眼が合ってしまってふたたびギクリとした。これまでに視たこともない表情――半眼になった双眸は天を仰ぎ、口からは涎がしたたり落ちていた。両手が脇に力なく垂れ下がっているのを眼にして又もやギクリとした。中佐の背後の上部に影のようなものが、一瞬だが揺らめき視界から消えた――その影は単に不可解なだけではなかった。目撃直後に、冷水でも浴びたような悪寒が背筋を痛撃したのを伍代は後になって憶いだした。  「中佐」伍代は想わず大声を張り上げ、中佐の肩に手をかけた。床にウイスキーの入ったグラスが落ち、その途端に中佐は我に返った。  「フーッ」口から吐息が漏れた。「ああ君か」伍代の方に初対面の人物でも視るかのように虚ろな眼を向けた。伍代は愕いて尋ねた。「中佐、どうかしましたか」だが中佐から返事はなかった。  戦略空軍基地からの帰途、伍代は車を跳ばしながら考えた。スコルツェ二中佐とラスムッセン伍長は、多くの事実を知っていながら、それらしい話は一切しなかった。不可解なのは故意に隠しているようには視えなかったことだ。精神操作の後遺症があったにしろ、二人はそのことにはまったく気づいている様子はなかった。得体の知れない組織やしかるべき機関が、故意に偽のUFO情報を流してはいないだろうか。  それによってどんな利益が得られるのか――不可解なばかりで想像つかない。目撃者の想い込みや誤認にすぎなかったとは言え、UFOに関する限り如何なる譬えも通用せず、昔も今もUFOが最大の謎であることに変りはなかった。そもそもUFOは何処からやってくるのか、UFOには実体はあるのか――これまでに明確な回答が、何処からも出たためしはなかった。  目撃例を証拠に、UFOの存在を証明しようとする試みは数え切れないほどあるが、何れも根拠薄弱、実証不可能だった。いくら撮影に成功した映像を証拠として持ちだしたところで、コンピュータによる画像処理の発達した今日、それらの証拠でさえ、信憑性には多少の難点が残った。如何なる論理を展開しようと、確証を主張できるほどの証拠には成り得なかった。  結局は信じるか信じないか、意識するか意識しないかに関わることなのだろう。一瞬にして出現したり消滅する物体を想像するには、マトリックス理論の助けが必要だ。我々が存在する世界は物質界であり、死んだら無に帰するというのが一般的な認識だ。人間は死ぬことで、別世界なる精神界に行くかも知れないが、UFOの存在同様に確証はなかった。  そろそろ人類は根底から宇宙観を変えなければならない時代に差し掛かっているのかも知れない。マトリックス理論によれば我々の住む物質界は、《発生源|マトリツクス》からの投影物なのだ。投影物だからして実体ではあり得ず、UFO同様、瞬時に消滅しても不都合はない。発生源から送信してくるデータは何らかの属性を示すデータであり、それを同様の投影物である人間の頭脳が解釈し具象化するのだろう。コンピュータのシステムにはリンク元にデータ本体を保管し、他の領域にデータ本体と接続するリンク機能のみを保管する仕組みがある。その仕組はまるでマトリックス理論をソックリ模倣したように視える。  いわば、我々はマトリックスから送信してくるデータを、解釈し認識する機能を持ったプログラムに過ぎないことになる。ではマトリックスの仕組を創造し、わずかな機能しか持たない我々に、データを送信してくるのは如何なる存在なのだろうか。人類の想像も及ばないこの謎が明らかになるのはいつのことだろう。操舵桿を握る伍代の手がジットリ汗ばんできた。  中佐は酔った勢いから、冗談めかして話したとは伍代には到底想えなかった。背後では何か途方もないことが進行しているに違いない。睡魔が襲ってきて、操舵桿を握る手から力が抜けて視野が狭まり、伍代はまるで地下道の中を走行しているかのような錯覚に陥った。遠くから空耳かと想えるほど微かに波の音が聴こえてきた。生命誕生以前にまで遡った世界でしか聴くことのできない音、小波の押し寄せては返す音が伍代の全身を満たした。  砂浜に押し寄せては返す波の音が聴こえ、果てしなく広がる水面が眼前に広がっていた。伍代の意識はそれを海と理解した。燦然と輝く太陽が頭上にあり、光は水面に眩しく乱反射を起こしていた。太陽が惜しげもなくそのエネルギーを地球に降り注いでいた証拠と伍代は想像した。  だがギラギラ光り輝く太陽はいつしか赤味を帯び、暗く弱々しい星へと変貌して行った。その暗い星はやがて炎に包まれ、ゆらゆら揺れながら萎縮し、残ったエネルギーを徐々に放出しはじめた。今では太陽は力なく瞬く一介の星にすぎなかった。小波の音は遠ざかり、甲高く耳障りな鳥の《哢|さえず》る声――頻りに何かを訴えるかのような――が何処からともなく聴こえてきた。  「もう少し眠らせてくれ」  伍代は醒めはじめた意識下で、全身が燃え上がったかに視える鳥――赤い羽根で覆われた《赤翡翠|あかしようびん》に訴えた。今朝は機嫌が悪いのか肩に駐まり、キイキイ声で早く起きろと《五月蝿|うるさ》く哢った。誰かが伍代の肩の上でいつまでも哢っている鳥を掴まえて止まり木に駐まらせ、鳥に劣らぬけたたましく甲高い笑い声を轟かせて立ち去った。  「おまえは声ばかりか心臓まで凍ってしまったのか?鳴き声は刺々しく、逆立った全身の羽毛は金属質の光沢を放っているではないか」  鳥が、笑い声に呼応するかのようにおどけて片足を上げ、落ちると視せて一回転すると、毛を逆立ててまたもやけたたましく哢った。燃える氷にでも触れたかのように伍代は唐突に意識を回復した。操作盤上の警報システムが赤い光を点滅させ、けたたましく警報を鳴らしていた。無意識に手をこめかみに持って行くとズキリとくる痛みがあった。伍代は煙草に火を點けて深々と喫い込み、しばらくボンヤリしていたのちに車を発進させた。 四  ヴィーゴとベッドを共にした翌朝、シモーヌはヴィーゴの運転するシトローエンでアパートメントに戻り、着替えを済ませると再びシトローエンに乗り込んで仕事先に向かった。車中では両人ともに無言のままだったが、アルゴンキン・ポスト紙の社屋前に着くや、シモーヌはヴィーゴの首っ玉にしがみついてきた。ヴィーゴから身を引き離すと車から降りて振り向き、名残り惜しそうに微笑んで建物内に消えた。  ヴィーゴはシモーヌと別れて事務所に引き返し、喫煙しながら暫しの間くつろいだ。微笑みを残して去ったシモーヌの姿を想い浮かべながら、何気なく新聞の社会面に載っている広告に眼をやった。「年齢38才、白人男性、金髪に茶色の眼。顎の右側にホクロあり。身長《6フィート7インチ|約1 9 7 c m》。時々吃る癖あり。連絡先―― エヴァンストン75913852、USA、C・ウオータフォド」とあった。  ウオータフォドなる人物名には見覚えがあった。確か新進気鋭の科学者の中でも群を抜く天才科学者だ。どうやらそのウオータフォド氏が行方不明になってしまい、途方に暮れながらも健気な夫人は広告を――そのときド アをノックする音が聴こえた。ヴィーゴは机の袖斗からコルト45・マグナムを引っ張り出し、左手に構えて事務室の方に出て行った。ドアを開けて煙草の煙が沁み込み、霞んで視える両眼で廊下の左右に一瞥をくれた。 高級な香水の爽やかな香りが鼻を《擽|くすぐ》り、咥えた煙草を落としそうになりながら、ハッとして眼を《瞠|みひら》くと廊下に若い女が立っていた。女は拳銃を前にして動じず、ヴィーゴを人畜無害な中年紳士と想ったか笑みを浮べながら会釈した。ヴィーゴは女を応接室に招じ入れ、拳銃を上着のポケットに押し込んだ。  背丈は6フィートそこそこ、小柄ながら落ち着いた雰囲気を持ち、上流階級の出を想わせた。とびきりの美人ではないが、東洋風な容貌に一種独特の魅力を具え、青い眸は聡明な輝きに満ちていた。つんとすまし込んだ鼻の下には、キリッと引き締まった形のよい唇がすましこんでいた。一見したところホッソリしてはいるが痩せすぎてもいず、体を覆ったドレスの線はむしろ豊かな肉体を想像させた。肩まで垂れ下がり波打った黒髪は、青い眸と好対照をなしていた。  ヴィーゴが用件を訊くと、女は柔かく落ち着いた声で歌うように応えた。  「あなた、いつも骨董品のような拳銃をオモチャになさってるの?」  「まあそんなところです。吾が探偵社には、魅力あふれる淑女はもちろん物騒な連中も来ますんでね。こんな拳銃でも少しは役立つこともあるのです」  女は一瞬遠くを眺めるような表情を魅せてクスッと笑った。  「ごめんなさい。祖父がガンマニアでしたので、わたくし幼い頃から拳銃を玩具にしておりました。そのことで父にはよく叱られましたわ」  「そうでしたか。私の所持している拳銃もまた骨董品然としたものですが、危険な相手にはそれなりに威力はあります。ま、こんな物騒なものは振り回したくはないのですが、これも職掌柄止むを得ないことでして」  ヴィーゴが奥へ引っ込んで机の抽斗に拳銃を放り込み、煙草を咥えたまま出てくると、女は壁に架けた一見したところ年代物と見紛う渋味のある絵を眺めていた。  「これ、誰の作品なんですの?素晴らしい絵のようですけど、ずいぶん風変りね」  その絵はある依頼人が手数料替わりに置いて行った、有名な版画家の作品を模写した複製品だった。天使と悪魔が戦う姿は現代のような時代にこそ相応しいといえた。  「ブリューゲルです。昔、ヨーロッパにフランドルという国がありました。ブリューゲルはそこで産まれ活躍した版画家です。この絵は単に好きだから飾ってあるのではないのです」  「あなたって変った方ね。随分高価な絵に視えますけど」  「これは偽物、もちろん本物は高価でしょう。ある依頼人から手数料として止むを得ず受け取ったものです。無価値なものを壁に飾るのもどうかと想ったのですが、偽物にしては中々の出来映えなものですから捨て切れないでいます」  「あら失礼いたしました、ごめんなさい。わたくしテッキリ本物かと想ってしまいましたわ」  「いえ、構いません。慈善事業のつもりではないですが、支払い不能な依頼人にはそれなりに便宜をはかっているものですからね。昨今は世の中が物騒な上に経済が不安定でして、探偵稼業もままなりません」  「そうですの」といいつつ、目頭をハンカチーフで抑え、夫人はふたたび話しはじめた。  「夫のルイスがゆくえ知れずなものですから、お願いにあがったんです。わたくし、あなたならルイスを視つけてくださると想ったものですから」  「いつ御主人がいなくなったと気づきました?」  「一昨日の朝です。わたくし、ルイスは仮眠しているものと想い、書斎へ起こしに参りました。ルイスは研究のためによく遅くまで起きている習慣なんです」  「で、行ってみるといなかった」  「夜中に書きかけの論文を放ったらかしたまま、外出するなんてこれまで無かったことですわ」  「誘拐されたとでもお想いですか」  ルイス・ウオータフォドといえば天体物理学分野で、数々の華々しい功績をあげてきた科学者だ。そのルイス氏が何処かに雲隠れをしてしまい、キャサリン・ウオータフォドは途方に暮れながら健気にも自制心を失うまいとしているのだ。  「ウオータフォド夫人、あなたはルイス氏のご帰還を願っておられる。私は仕事と金が欲しい。不躾で恐縮ですが、手数料は5千ドル、その中から私に前金として5百ドルお支払いください」  「小切手でよろしいかしら」  「結構です。もし差し支えなければ、これからお宅へ伺いたいのですが構いませんか」  「ええ、結構ですわ。入口にフエイトンを駐めてありますから、わたくしの運転でよろしかったら」  ヴィーゴは事務所に鍵をかけ、夫人を伴って階段を歩いて降りた。出入口の近くに地面から浮き上がって走行する最新鋭の車フエイトンが一台あった。正確には走るのではなく飛ぶのだから車と呼ぶのが適切かどうか。ヴィーゴの車はレシプロ・エンジンを搭載したシトローエン――現在では骨董品と呼ぶに相応しい車だ。  「さて、それではあなたの運転振りでも拝見しましょうか」  「ビックリなさらないでね、こう視えてもわたくしスピード狂なんです」  車内は戦闘機の操縦席さながら、運転席の右側前面にはハンドルの替わりに操舵桿が付いていた。複雑な操作を補完する機構なのだろう、モニターには前方と同時に後方の様子をも映し出す。車体にはタイヤはおろかホ イールに類するものすら付属していない。これをどのようにして走行させるのか――不慣れな運転者には運転できそうにもない代物だ。もちろん、ヴィーゴは旧式な車の方が好みに合っていたし、車窓越しに外が視える方が安心できた。フエイトンの速度計は最高《520マイル/h|時速約8 3 7 k m》を示していた。  ヴィーゴは夫人の腕前を信用して、昨夜の寝不足を取り戻すべく、助手席に乗り込むとたちまち眠りに就いた。フェイトンのエンジンが醸し出す適度な振動が脳に伝わり不思議な夢を視た。なんとなく懐しい想いのする響きが耳に心地よく伝わってくる。ざぶん、ざざざざー、ざぶん、ざざざざー。岸辺に波の打ち寄せる音だった。見渡すかぎりの青海原、それは現代では、世界中の何処にも視掛けることのない情景だ。どれだけの人が波の打ち寄せては返す海を記憶に留めているだろう。憶えているにしろ、海を海として認識できるかどうか。まして、その海に様々な生物が棲息していたなど到底想像つかないだろう。ヴィーゴの夢に視る海もまた、同時代の人々が夢に視る海と大差なかった。  海棲生物を記憶している者は一人としていない。ただ何処までも拡がる海原を夢に視て、小波の音を聴くのみだ。それは人類がこの世に誕生して以来、接してきたに違いない海との関わりによって獲得した知識、今では完全に喪失してしまった原初体験だ。  「着きましたわ、さあ起きてくださいな」  夫人に揺り起こされ、夢うつつの微睡みから覚めた。余りの寝心地の好さにもっと眠っていたい気分だった。夫人が邸宅のドアを開けに行っている間、ヴィーゴは車のシートに凭れながら、頭の中から妄想を追い出すかのように煙草に火を點けた。住居には一箇所も窓はなく、家人と余程親しい間柄ででもない限り出入りは不可能に視えた。  ドアの開閉が脳波認証システムなので、不法侵入するには強力なレーザ砲で壁に穴を開けるしか手段はなさそうだった。しかしウオータフォド邸の何処にもそんな痕跡は見当らなかった。ヴィーゴは裏手にある螺旋階段を 上って行き、それらしい証拠がないか《検|あらた》めてみた。太陽光を取り込む集光装置にも破壊の痕跡はなかった。ルイス氏自身がドアを開けて外へ出たとしか考えられない。だが夜中に凍死の恐れをものともせず、車にも乗らずに外出するなど不可能だ。  証拠らしいものは花壇の叢の中に視つかった。光線の反射するのに気づき、拾い上げてよく視た――それは大粒のダイヤモンドを嵌め込んだネクタイピンだった。ヴィーゴは裏側にLWなるイニシャルのある、ネクタイピンを手にして邸宅に入って行った。夫人が濃紺の背広を着た二人の男と居間で話していた。ヴィーゴが三人の方に近づくと夫人は席を立ち、キッチンに何やら飲物を取りに行った。  背広の二人は内務省の小役人、官僚機構の中で狡っ辛く立ち回ってきた、抜目のないヌードセンにゴールドスタインだった。今や彼らの拠り所、官僚機構が崩壊寸前に陥っているにも関わらず、その風前の灯火然たる権 力にしがみつき痛痒すら感じていなかった。  「これはこれはお二人さん。相変らずの名コンビ振りには恐れ入りやだ」  「ヴィーゴ、其方に出番はないぞ。尻尾を巻いて退散したがお利口ってものだ」  「私は、此の家のご夫人の依頼で來た。お宅らのような役人よりも有能だってことだ」  「そいつは減らず口ってもんだ、歯をへし折ってやろか」  「まあそうカッカしなさんなって」  夫人がバーボンの入った大きなグラスを手にしてやってきた。三人の険悪な様子を敏感に感じ取ったらしく、夫人はグラスをヴィーゴに手渡して案内する素振りを示した。探偵は二人を放ったらかし、夫人の案内にしたがってルイス氏の書斎に入ると調査にとりかかった。机上に未完の論文が載っていたので読んでみたがまるっきり理解できなかった。科学者とは想像もつかないことを考えるものとみえる。ヴィーゴは庭で発見したネクタイピンを夫人に渡した。  「確かにルイスのですわ。どこにありまして?」  「花壇です、ルイス氏は余程急いでいたんでしょう。ネクタイもネクタイピンも手にしたままだったに違いありません。庭からヘリコプターにでも搭乗した可能性はあります」  「おかしいですわ、いくらわたくしが熟睡していたにしろ、ヘリコプターの爆音なら聴こえたはずですのに」 「ご尤も……あの論文についてなにかご意見は」  「わたくしにはとても理解できませんわ。ルイスの頭の中には計り知れないイマジネーションがぎっしり詰まっているのですもの。わたくしなんかにはとても」  ルイスが乗ったのはヘリコプタではなくUFOだったかも知れない。ヴィーゴはウオータフォドがネクタイとネクタイピンを手にして、如何にもヘリコプタ然とした乗物に乗り込む様子を想像してみた。夜中に正装して会わなければならない相手とは一体何者なのか。それはルイスの生殺与奪の権利を握っている人物だろう。高名な科学者が頭の上がらない人物とは、かつてはルイスの恩師であり、現政府部内で重要なポストを占める権力者の一人だ。  その政府の高官が何故UFOを操る異星人と関わっているのだろうか。相当数の高官が異星人とコンタクトを取り続けてきた――それが周知の事実としても謎は解けない。異星人の所有する高度な科学技術には科学者や、 軍人のみならず誰しもが強い関心を抱いてきた。特に軍部は異星人の航行技術を手中にできるなら如何なる犠牲も厭わないほどだった。  しかしそれでも疑問は残る。何を考えているのか判らない異星人に、地球人類の運命を委ねることに躊躇はないのか。それは個人的な問題に留まらない。一国家、否地球を含む太陽系全体を何処からやってきたとも分らない連中に、勝手気ままに利用させておいて構わないのかということだ。  「どうします?」  「ああこれはどうも失礼、考え事をしていたものですから」  「カナダにお戻りになるのでしたらお送りしますわ」  「途中に、立ち寄る処がありますのでお構いなく。差し支えなければ、タクシーを呼んでくれませんか」  「すぐお呼びします」  間もなくタクシーが轟音を上げて庭内に着陸した。旧式な上に酷く傷んだオンボロタクシーだ。ヴィーゴと夫人は同時に天を仰ぎ、肩をすくめて苦笑した。内務省の二人は腕組みをしてニヤつき、タクシーに乗り込むヴィーゴを見物していた。役人とは何処までも暇潰しに長けた生き物とみえる。ヴィーゴはタクシーに乗り込み、脳波をコンピュータにスキャンさせて行先を入力した。  無人タクシーに乗るのに不安を感じないかと言えば嘘になる。合衆国交通局の有能な技術者が構築した交通システムにバグがないものと仮定し、それを採用したタクシー会社の見識を信用するしかない。タクシーの乗心地は最悪を遥かに超えていた。しかし加速力に優れ、速度が増すにつれて振動は減少して行った。此のタクシーは軍の払い下げた高速ジェットヘリを改造したものに違いない。  エンジンの発する騒音は別にして、振動は殆ど無に等しかった。足下の景色を視ない限り飛行しているのに気づかないほどだった。もちろん頭上には灰色一色の雲がうっすらと幕のように貼り付いており、空を視あげてもタクシーが動いているかどうかを知るのは難しかった。  どうやら減速しはじめたようで、ふたたび振動が激しくなってきた。夫人がこのタクシーを呼んだのにはそれなりに理由があったのだ。気がつくと繁華街の外れにある雑居ビルの屋上に着陸していた。なんと東海岸から西海岸まで十数分で横断してしまったことになる。ヴィーゴが降りた途端、タクシーは轟音を上げ、ゆらゆら揺れながら東へ向けて飛び去った。  シカゴはかつて合衆国第二の巨大都市として繁栄したが、今では過去の痕跡すら何処にも見当たらない寂れ果てた一地方都市に過ぎなくなっていた。荒廃は此の巨大都市にも忍び寄っていた。屋上から視おろせる範囲には先を急ぐ通行人はおろか、そぞろ歩きの通行人さえいなかった。車のクラクションもエンジン音も聴こえてこない死の街――人々は何処へ行ってしまったのか。郊外へかそれとも山奥で隠遁生活を送っているのか、あるいは全住民がそっくりスペースコロニーにでも移住してしまったか。  ヴィーゴは灰色の空を視あげて伸びをすると屋上からエレヴェータで地階を目指した。オンボロ・エレヴェータの動きに、苛々しながら待つこと数分、やっとのことで地下十五階に辿り着いた。悪態を吐きながらのろいエレヴェータから通路に出た。こんな地下深くまで降りてくる物好きはいないのか、周囲は眼前を人が通りすぎても分らないほど暗かった。視力を調整し、ドアの表示を確かめながらゆっくり進んで行った。どのドアも煤けてはいるが少しぐらいの爆薬ではビクともしそうにないほど頑丈な造りに視えた。やがて一際薄汚れたドアの前に辿り着いた。ドアには何を意味するのか不明な六角塔のロゴマークに続いて、『オズ・ラボラトリ』の刻印が微かに読み取れた。  ドアには把手のあるべき位置に用途不明の握りがあり、しかもその握りはご丁寧にも右手で握ってできたかのように指の形に窪んでいた。他にドアを開ける手段もなさそうなのでヴィーゴはその握りを掴んでみた。ドアはなんなく開いたが、通路を挟んでさらに別のドアに続いていた。この調子では際限もなくドアが現われそうだった。思考が完全に停止し、最後と想って開けたドアの先は崖っ淵ではないのかと想像してしまう。  2番目のドアは最初のドアとは違っていた。燻銀のように渋い光沢を放つ材質不明の合金だった。ドアの前に立ったヴィーゴはドアに一瞬ではあったが微妙な変化が起こったのを見逃さなかった。次の瞬間、間接照明によってまったく影のできない部屋で、周りを4、五人の男女が取り巻いているのに気づいた。どのような仕組みなのかは分らない。だがこれには違和感がないことから、地球外の技術ではないと確信できた。  彼らの身長はといえばヴィーゴと似たり寄ったり、それほど差はなく、彼我の違いはただ外見のみだった。ヴィーゴは如何にも探偵らしい風貌だが、彼らは二十世紀に存在したヒッピー風の髪型やら《身形|みなり》をしていた。全員長髪が決まりなのか、髪型だけでは男女の区別はつかない。  一人が前に進み出てくると、義務でも果たすかのようにヴィーゴと素っ気ない握手をした。廃れてしまった儀式が通用するのはちょっと奇異な感じだった。招かれざる客でなかったことでヴィーゴは一応安堵すると共に、前置きなしに《直截|ちょくせつ》簡明な疑問を突きつけてみた。  「政府の高官が異星人とコンタクトしているという噂の信憑性は」  「100%信用して結構ですわ。われわれ独自の調査によって裏づけられています」  「高官ともあろう人物がどうして異星人などのいうことを信じるのかな」  「それは信じるというよりお互いに利害が一致したからですわ」  「利害が一致したぐらいで地球を売ってしまうものだろうか」  「売るという表現は穏かではありませんね。しかし彼らならどんなことだってやりかねません」  「理解できないのはそれほど知性の卓れた彼らがどうして、《唯々諾々|いいだくだく》と相手の要求を受け入れてしまうのかということなのだ」  「東洋に、国土は小さいながらも強大な国があります。かつてその国には宗教、無宗教を含め数十のカルト集団が存在しました。ある集団には一流大学出の青年が大勢入団し、その後彼らは教祖の命ずるままに大それたことをしでかしてしまったのです。知的能力に卓れた青年らが、なぜ精神異常者の命令に服したのか、今もって理解できないこととされています」  「その集団の連中は判断力を養わなかったんだろうか」  「そうだと想います。判断力は一朝一夕で身につくものではありません。学問を修めただけでは思考力を向上させるところまでは行きませんね。知識が増すにすぎません」  「彼らから思考力を奪う元凶になったものは?」  「手軽に読める解説本、俗悪にまみれた書籍、意味もなく流される膨大な量の映像、一見複雑そうでいて馬鹿馬鹿しいほど単純なゲーム、『猿にも使える』との宣伝文句で登場したマウス操作主体のコンピュータ、どれもこれも人間の思考力を破壊します」  「俗悪な書籍は納得だが原書に及ばないにしても、解説本というのはそれほど悪いものなのだろうか」  「そうですね、中には卓れた専門分野の解説本もあります。わたしが特に申し上げたいのは俗悪な書籍です。そういった書籍は若年者にとりわけ悪影響を及ぼします。またゲームは何通りかの攻略法を覚えてしまえばそれで終りです。さらにコンピュータをマウスで操作する場合、ハッキリ意味を知らずにクリックしてしまいがちです。コマンド入力の場合は、自分で何をコンピュータにさせたいのかが分らなければ、コンピュータを操作できません」  「なるほど。計算方法も知らずに電卓を使うな……だな」  ヴィーゴはカナダへの帰途、オズ・ラボラトリでの彼らとの遣り取りを想い返した。オズの意味、彼らの資金源、原罪の根拠等々、問答は長時間に亙った。最初は若い女が答えていたが、いつの間にか東洋の仙人然たる年配者と交替していた。  「《オズ|o d d s》は『オズの魔法使い』のオズであり、賭けの意味でもある」  また、資金源に就いては次のような答えが返ってきた。  「オズ・ラボラトリは不可解な現象、特に眉唾ものの現象を研究し検証するほか、投資や投機を行なって研究資金に充てている。現在、当研究所の運営資金は順調に増え続け、宇宙開発会社に大規模な投資を行なうまで になった」  予想もしない答えにヴィーゴは愕いた。オカルト研究は頷けるが、投資や投機から得られる利益が運営資金とは意外だ。普通は特定の組織に属するか、賛同者からの寄付にでも頼らなければ、到底存続できるものではな いからだ。いつも勝ち続けるなど賭事の世界ではあり得ない。  「われわれはオカルト研究の他に、賭けに就いても長年に亙り研究を続けてきた。単なる投機集団とは一線を画しているのだ」  ヴィーゴは最後に原罪に就いて質問――その余りにも常識離れした仙人氏の返答には、馬鹿馬鹿しいの一語に尽きる想いだった。狂気じみたカルトの教祖は、この手の偏執狂が多いのかも知れないと想わせる印象しかな かった。  「人間の原罪はサタンの仕業なのだ。我々人間を創造したのはサタンなのだ。だから本来、君も私もそして此処にいる者は誰もが悪者なのだよ。遺伝子の中にサタンが書いたコードが埋め込まれているのだね」  それでは何故人間の中には悪人ばかりか善人もいるのか。それには明解な返答が返ってきた。  「二十世紀に、一人の非常に独創的な考え方をする心理学者がいた。その学者は、『人間は本来悪であり、善に汚染されて善人になる』と唱えた。これは蓋し名言と言える。皮肉もタップリ含まれているところなどわしの好みにピッタリだ」  人間はこれから進化する余地はあるかとの問には、「人類はサタンの被造物だからといって従わなければならない理由は微塵もない。純粋な科学者として、サタンは己れの信念を追及しているにすぎず、被造物の進化に大 いなる興味を示すにしても罰してやろうなどとは考えない。罰は人間の行為に対して神が課するものだからね」との偏執狂の典型的な応えが返ってきた。  そいつはどうかな、仙人氏の考えは些か独断に走り過ぎの傾向がある。信じる信じないは人の勝手、この手の意見には眉に唾つけて聞くのが賢明だろう。善に汚染されるとは名言だが馬鹿げた考えだし信じる価値など微塵もない。  サタンとは一体如何なる存在なのか。仙人氏のいうように先鋭的な科学者なのかも知れない。だがサタンこそ天地創造の時代から、地球に関わりを持ち続けてきた異星人だったのではなかろうか――そうヴィーゴは想像す る。サタン=異星人と仮定するならギルガメッシュ叙事詩や、聖書中の不可解な数々の記述に辻褄が合ってくる。  それにしても、オズ・ラボラトリの連中は異星人に負けず劣らず不可解な存在だ。上辺は一見紳士、淑女然としているが、蔭では何をしているのか分らない。ヴィーゴを人畜無害と判断したのは的外れではないが、身許を確かめもせずに招き入れたのには、何やら魂胆があったのではないか。ひょっとするとヴィーゴを利用できると考えたのかも知れない。オズをシモーヌに紹介した人物にしてからが、何処か危険な臭いのする胡散な輩だった。ヴィーゴはオズなる得体の知れない組織から、天才科学者失踪の手懸かりになるヒントでも得られるのではないかと期待した。  身体検査もせずにヴィーゴをドアの中へ、すんなり入れたのには何かいわくがありそうだ。オズ・ラボラトリなる団体、集団もしくはカルト教団は、広報を担当する異星人の出先機関ではないのか。この突秘な想像にはヴィーゴ自身想わず笑ってしまった。もし連中が異星人だとすると、大量の疑わしい情報にわずかな信用に足る情報を混入させる、諜報機関の常套手段を使っていることになる。  ただ通常の諜報機関と異なるのは連中の流す情報の中身だ。大量の信用できる情報にわずかな偽情報を混入させる手法は大胆かつ不敵だ。連中は教科書通りにしか行動できない間抜けな異星人なのか、あるいは連中の 手先とは違うことをヴィーゴに示したかったのだろうか。ヴィーゴは思考が堂々巡りしているのに気づいてそれ以上考えるのを止めた。推測、憶測では事実への到達は覚束ない。  本物、偽物を選別するには情報を広範囲かつ大量に収集しなければならない。それには行動を起こすことだ。机にしがみついているだけでは事は解決しない。山が此方にこないのなら此方から山の方に行かなければな るまい。 五  あらゆる新聞が、パイロット専用倶楽部での、スコルツェ二中佐、ラスムッセン伍長とのインタヴュー記事を掲載した。だが、どの記事も妙にもって回った表現が多く、まったく要領を得なかったために講読者は苛立った。しかしそういった反応を予期したか『サンポスト』紙だけは、如何にも皮肉たっぷりな見出しを掲げて軍の秘密主義に一矢を報いた。  その見出しは「船酔いは大気圏外でも起こるか?」で、下段に各社の新聞記者と渦中の軍人二人との遣り取りを掲載し、最後に担当記者がコメントを付記していた。フリーランスの記者、伍代の記事は真相を衝いていたに違いないが、何処のデスクをも納得させるに足る内容ではなかったか採用には到らなかった。余りにも空想じみていて、現実を重視する講読者の知識欲を満たすのは極めて困難――それが不採用の理由だった。  だが、もし伍代の推測通りだとしたら、善良なる市民のまったく預り知らない処で、権力者らが秘かに想像もつかない計画を練り上げ、着々と実行に移している可能性はあり得る。何故なら、彼らは躊躇うことなく個人の人格を踏み躙って精神操作を行ない、記憶抹消の大それた行為に及んでいるからだ。精神操作が事実なら考えるだに恐ろしいことだ。伍代が想わずゾッとして身震いをすると、ちょうどそのとき電話がけたたましく鳴り響いた。受話機を取る手が小刻みに顫えたが、電話の向うからアイリーンの澄んだ声が聴こえてきたので胸を撫で下ろした。  アイリーンとの話し中に、突然耳鳴りがしはじめ、伍代は想わず耳を手で覆ってしまった。深呼吸をしながら気分を落ち着かせ、受話器を持ち直して耳に押し当てると耳鳴りは収まっていた。その直後、何処からともなく伍代の意識に「トゥングース」――そう囁く嗄れ声が割り込んできた。天の声とも空耳ともとれる囁きは、井戸の底からでも聴こえてくるように耳の奥でしばらく反響していた。  「もしもしあなた、聴こえてるかしら?」アイリーンの声に伍代はハッと我に返った。  「ああ聴こえるとも。アイリーン、頼みたいことがあるんだがな」  伍代は要件をいい終ると、アイリーンの問いかけるのを無視して電話を切ってしまった。先刻の囁きは単なるノイズだろうか、天から降ってきたかそれとも地から湧いてきたのか。天の声でも空耳でもないとしたら、無意識の中に祖先から引き継いだ記憶の扉を、伍代みずから叩いたとしか考えようがない。アイリーンは伍代が一方的に電話を切ってしまったために、ヒステリー症状を呈し、受話機を握りしめて怒り狂った。  あの人ときたら何かに夢中になると、相手が誰だろうが忘れてしまうんだわ、いつだってそうなんだから――。だがそんな心理状態はいつまでも続かず、独り言をいいたいだけいってしまうと怒りは収まった。アイリーンがフリー・ジャーナリストの伍代を知ったのは八年前、事故が取り持つ縁が二人を結びつけた。はじめての出会いは今となっては滑稽にさえ想えた。  ある日、図書館で書棚の前を通り過ぎようとして、アイリーンは梯子に躓いてしまった。梯子に打つけた足を抱えてその場に蹲っていた処に、梯子の上の方に乗っていた伍代がタイミングよく落ちてきた。結局、アイリーンは一箇月も入院する羽目になった。その間、伍代が見舞いに足繁く通うこととなり、二人の間に恋愛感情が生まれた。それ以来交際が続き、結婚もせずに到頭現在に到った。アイリーンは憶いだし笑いをしながら年甲斐もなく頬を赧らめた。  伍代とのことを取留めもなく考えながら、アイリーンは慣れた手つきで情報検索コードを入力した。しかしデータベースからは、「当該データは何れも抹消済みです」なる素っ気ない返答が返ってくるのみだった。何度入力し直しても、入力したコードに間違いはないにもかかわらず返答は変わらなかった。  伍代に電話してみたが、アパートメントにも事務所にも不在だった。何処かで用事を済ませたら、やがては事務所に戻ってくるに違いない。コンピュータの電源を切ると、アイリーンは伍代の事務所へと向かった。外は凍てつくような寒さだが、構わずに歩き続けた。吐息が今にも鼻や口の周りに凍りつきそうだった。十二、三分ほど歩いてビル街に入り、伍代の事務所前に到着した。  右手の親指をセンサーに押しつけて1、2秒後、「識別完了しました、入室を許可します」なるメッセージがスクリーン上に現われてドアが開いた。それにしてもOKサインで開くなんてこの指紋認証システムの考案者には、ちょっぴりユーモアのセンスらしいものがあったとみえる。指紋認証システムなんてすでに時代おくれ、化石同然の代物になってはいたが――。伍代は事務所の奥にある部屋でソファに横たわってなにやら思案中だった。アイリーンが入って行って声をかけるや、伍代は焦点の定まらない眼つきでアイリーンを視た。  「格、あなたのご要望のデータはすでに抹消されてるそうよ」  アイリーンがそういっても伍代は別段愕く風もなく、眠そうに眼をしょぼつかせるだけだった。アイリーンはソファに腰掛け、伍代の頭を自分の膝に乗せた。伍代はアイリーンの温かみのある、柔らかな肌の感触を楽しむかのように微睡みはじめた。アイリーンは伍代の微睡んでいるのを幸い、机の上に手を伸ばし、繰り返し読んだと覚しいボロボロの原稿を引き寄せて開いてみた。  「ところで、異星人と通信するとしたら、あなたならどうする?」  「異星人との通信に、地球上の言語が通用するはずはないだろうから、いい考えなんて想い浮かばないなあ。宇宙に普遍的な言語理論なるものが存在するなら別だろうけど」  「一つだけ可能性があるわね」  「なんだい、唯一考えられそうなのは。まさかDNAではなかろうし……そんな馬鹿な、遺伝子が言語体系を持っているなんてことがあり得るだろうか」  「なによブツブツいったりして。そのDNAが一番普遍性があると想わない?だって、遺伝子はコード化されたデータそのものでしょ。だったら、言語体系と似通っていて当然だわ」  「まあ、DNAも通信手段になり得ると仮定しておこう。むしろ、そういったデータを利用するより、微粒子の動きを利用する方が通信手段になりそうに想うな」  「なによ馬鹿にして。あなたは元々科学者なのだから知識も才能もあり余るほどあるでしょう。わたしはない知慧しぼって、なんとかDNAに辿り着いたのに」  「すまない。無視するつもりはもちろん、馬鹿にするつもりだってない。気に障ったんなら謝る。気体や液体の中に浮遊する微粒子の運動……確かブラウン運動だったと想うが、そいつが最も普遍性があるのではないだろうか」  「どうしてブラウン運動に普遍性が?だって不規則な動きがブラウン運動じゃなかったかしら」  「そうその通りだ。その運動は一見不規則なんだが注意深く、観察しさえすれば一定のパターンを描いているのが分かる。つまり凡ゆる物質は神秘的な宇宙の法則に従って動いているんだな」  「そうだったかしら。わたしにはあなたを批判する資格はないわね」 六  カナダに戻ったヴィーゴは、ウオータフォド夫人から受け取った小切手を銀行で現金に替えた。事務所の横にある車庫から、オンボロの85年型シトローエンを出し、建物の前に停めておいて階段を2段おきに駆け上った。5階に辿り着き、ヴィーゴ・オストロスキ私立探偵事務所と表示のあるドアを開け、奥に入って机の抽斗から拳銃とホルスター、さらにウイスキー瓶を取り出した。ホルスターを身につけて拳銃を装着、ウイスキーを煽って事務所に施錠すると1階まで駆け下りた。ガタのきたエレヴェータに、うっかり乗ろうものなら無事では済まないからだ。シトローエンに乗り込んで発進させ、街外れでガソリンを補給して一路ツーソンを目指した。  手掛かりは皆無に等しい上に謎は深まるばかりで、人跡未踏の密林の中にでも踏み込んだ想いだった。煽ったウイスキーが体内を駆け巡り、血がたぎるのを覚えてヴィーゴは奮い立った。結局は見当外れに終り、4千5百ドルがフイになるかも知れないが、運が好ければ報酬以上のものを手中にできるかも知れないのだ。ツーソンまでは長かったので、途中で腹ごしらえをすることにし、常連客らしい連中が屯しているパブに立ち寄った。窓際の席に座り、ブラック珈琲とランチを注文――食材の成分に就いては詮策しないことにした。  店員がやがて大皿に焼き立ての肉モドキ、それに茹でた馬鈴薯や人参を添えて持ってきた。肉モドキは靴底のように硬かったが味は悪くはなかったし、野菜の類もそれなりに食すに耐えるものだった。珈琲の香りはこの時代としては及第点だが、味は無に等しく二度と注文したくはなかった。  食糧難の現代、食事を摂取する行為は概念すら存在しないも同然で、猛獣や猛禽が食欲を満たすために獲物を捕らえる行為と大差はなかった。そういった動物を引き合いに出したところで、誰も想像すらできない。ヴィー ゴ自身、実在の肉食動物にお目に掛ったことはなく、偶々ネットワーク上でアクセス先を間違え、気づいたら肉食動物の動画サイトを覗いていたにすぎない。  二十世紀末期に製作されたと覚しいSF映画の中には、興味深い映像が視つかることがあって結構楽しめる。ある映画では、ハッカーが異星人のコンピュータにウイルスを忍び込ませ、通信システムを破壊して地球を侵略 から守り、ハッピーエンドで終る。異星人の言語に通暁している者など地球上に存在するはずはなく、連中のシステムを地球製のウイルスで破壊するなど不可能だ。連中のプログラムがどのようなアルゴリズムに《基|もとづ》いているか、天才的なハッカーにさえ解析できまい。アルゴリズムが分らない限り、プログラムは書きようがないのだ。  ヴィーゴは自分の方を不審そうな眼つきで視ている燃えるような《紅髪|あかがみ》の若い女に気づき、手にした珈琲カップを危うく落しそうになった。どうやら5、6分の間、亡我の境を彷徨い放心状態だったのだろう。女の方を視るともなく視ると、マズイことに眼が合ってしまった。こいつはマズイ、不味いのは珈琲だけで充分だ。  ヴィーゴの鋭い凝視に耐えきれなかったか、益々もってマズイことに女は俯いてしまった。態勢を立て直すべく口に咥えた煙草に火を點け、あらぬ方向に眼を遣りながら女を盗み視るが、ほんの4、5秒の間に女は消えていた。狐に鼻でも《抓|つま》まれたような気分だ。  オズ・ラボラトリ内に漂う大麻の成分を吸い込んでしまったか、ヴィーゴは感覚になにがしかの狂いが生じているのを感じていた。しかし、若い女が此方を視ていたのは確かで幻覚などではあり得ないし、それにオズ・ラボラトリを出てから時間が相当経過している。  かつて大麻漬けに等しかったヴィーゴにとって、少しぐらい吸い込んだところで脅威にはならず、効力なぞ多寡が知れてるはずだった。だが、先刻の若い女の表情や服装を憶いだせず、連れがあったかどうかに就いてさえ 覚束なかった。確かなのは長く燃えるように紅い髪の女が此方を視ていたことだけだった。  左手の甲に激痛が走りヴィーゴは我に返った。右手の人差指と中指の間に狭んでいた煙草から燃え殻が落ちたのだ。喫っている煙草のことなど何処へやら、ぼんやり考え込んでる中に満腹感が眠気を誘い、どうやら微睡んでいたらしい。新たに煙草を取り出して火を點けると、2度と飲みたくないと想っていた珈琲を注文した。不味い珈琲のお蔭で朦朧としていた頭が冴えはじめた。煙草を喫いながら珈琲を所在なげに啜り、周囲のざわめきの中から聴こえてくる話に聴き耳を立てた。まだ少年、少女にしか視えない男女数人が、声を潜めて話しているのが隣席から聴こえてきた。  「こっちが異星人の要求を100パーセント聞き入れるなんて無理だ。そんなの無視しろ。それで、奴等が納得しなくとも気にするこたあーない」  「お、おれ、マ、マックのいうのは、も、もっともだと、お、想う。け、けど、それじゃ奴等と全面戦争に、な、なる、だ、だろ」  「あのな、ドイル、話すの止めろ。そんなにつっかえてばかりじゃ聴いてる方は苛々するんだよ。第一、全面戦争ってのは穏かじゃない」  「なんだよヴェ、ヴェラスコ、お、おれだって、し、真剣になって考えてんじゃん。そりゃ、ぜ、ぜ、全面戦争に、な、なるかどうかは異、異星人と、地、地球の軍、軍隊の決めることだろけど。ヴェ、ヴェラスコこそ、ど、どんな意見だ。聞、聞かせろ」  「おれはマックの無視するってのに賛成だ。おれたちは奴等のメッセンジャーじゃないし、どれいでもないんだからな。突っぱねた方がいいときにはそうしろってことよ」  「なによ、オトコばかりで決めないでよ。わたしたちにもいわせて」  「そうだな、おネエちゃん方の意見をも拝聴しようじゃないか」  「感じわるいの……《老耄|おいぼれ》が話してるみたい。まっいっか。わたしとイーヴリンはドイルと同じよ」  「そうよ、プラスコーヴィヤとわたしで、よくあなたがたの意見をケントウしたわ。ドイルのいうのがもっともな気がするわね」  「無視するのには反対なんだな。いかにもレディらしい意見だっての」  「なによマック、女の意見なんてつまんないっての?」  「まあ、そんなにとんがるこたあないだろ、プラスコ」  「プラスコじゃないの、プラスコーヴィヤ。まったく、やってらんないわ」  「わかったわかった、これから気いつけるから、きげん直せ、な。さてと、無視に賛成か不賛成かを、ミンシュシュギの原理にノットッテ決めなきゃならないぞ」  「ノットルって、なにを。マック、わかるようにいってくれよ。スペイン系のおれには、イミフメイだ」  「ヴェラスコ、ちゃんと英語おぼえろ。ノットルたあシタガウってことだ」  「なんだ、つまんねーの、ミンシュシュギにシタガウなんて。いちばん強いのが決めて、ほかのみんなはそれにノットルのがすじじゃないのか」  「そういうな、ヴェラスコ。力づくってのは時代おくれになってしまったんだ。昔なら、強い者がケッテーケンをにぎるってのが当り前だったらしいんだが」  「まっいいか。ガッシューコクはミンシュシュギの国だからな」  「あら、ヴェラスコ。意外と物わかりがいいのね、見直しちゃったわ、あたし」如何にも感じ入った風にプラスコーヴィヤはヴェラスコを見凝めた。  「プ、プラスコっ、ひ、ひやかさないでくれ」といいながら、ヴェラスコは照れ臭そうにドイルの方をチラッと盗み視た。ドイルは、ドイルで頭を振りながらニヤついていた。  どうやらマックなる少年がグループのボスらしい。男女を区別するものを外観から診て取ることはできない。服装は大昔に流行った典型的な暴走族スタイル、ジーンズに革ジャンパーといった恰好だ。それにしても一人前に煙草なぞを吹かしたりするのだから恐れ入る。一見した感じは何処にでもいるグレた少年や少女のようだが、手の動きや目線を仔細に観察してみることで油断のならない連中だと気づく。  連中には一種異様な雰囲気が漂っていた。鋭利なナイフで相手の喉を一気に掻き斬ってしまいそうな危険と、幼稚な話し方からくる子供っぽさとが同居した、異常とも奇妙とも表現し難い雰囲気だ。  異星人との間で全面戦争に突入するかどうかなんて、子供が話題にするようなことではない。一体どんな連中だろうかとヴィーゴは訝る。だが此処で聴き耳を立てているヴィーゴの素振りに、連中が気づいたらマズイいことになりそうだ。連中が此方に気づかない中に立ち去るのが賢明だ。ヴィーゴは目立たないように静かに立ち上がって出入口へと向った。  途中で車を路肩に寄せて駐め、道端にある電話ボックスからシモーヌに電話してみた。シモーヌの同僚が送話口に出てきていうには、先刻アパートメントに忘れ物を取りに戻ったらしいとのことだった。よく忘れたりするのかどうかの問いには、木で鼻を括ったような返答しか返ってこなかった。一旦電話を切り、シモーヌのアパートメントの方に電話をかけてみたが何の応答もなかった。不吉な予感がしたものの引っ返すことはできず、そのまま目的地を目指した。  ヴィーゴは運転を自動に切り替え、宇宙遊泳の夢でも楽しむことにした。しばらく心地よいエンジン音を聴きながら微睡む中に、やがてピッツバーグに差し掛かった。昔は製鉄の中心地だったが、今では寂れてしまって廃 墟も同然――この死の町を抜けてしまえばツーソンまでは3時間足らずだ。  ピッツバーグを通過し、20分ほど車を走らせて小さな町に入った。むかし流行った西部劇映画のセットを想わせる、建物が何戸かあるだけの寂れた町だ。途中でガソリンを補給し、うらぶれたカフェに入ってビール とサンドイッチを注文した。人の好さそうなカフェの親父と冗談をいいながらビールを呑み、厚く苦味のある《仙人掌|サボテン》の実を挟んだ、奇妙な歯触りのサンドイッチを頬張った。勘定をすませて喫煙しながら車に乗り込み、ツーソンへと向かった。  途中で、裏通りから出てきた黒塗りの車と危うく接触しそうになった。急停止して相手の運転席を凝視するヴィーゴの方に、黒服を身に着けた3人組が無表情な顔を向けた。直後にぎくしゃくした動作を繰り返す3人組を乗せた車は、急発進してヴィーゴの前から去った。  シモーヌの様子が気に掛かり、車を道路脇に駐めてふたたび電話をしてみた。待ってみたが応答がないので社の方に電話してしつこく訊いたところ、結局、シモーヌは戻らなかったのが分かった。シモーヌのことだから特種を求めて取材先へと急いだに違いない。その中に連絡が入るはずとのことだった。胸騒ぎは頂点に近づいていたが引き返せなかった。  最近は行方不明や横死が増えていたので、シモーヌのことは特に気懸かりだった。危険を承知で何処へでも飛び込んで行くシモーヌのような記者は、我身に災難が降り掛かってくる覚悟はしているだろう。記者は探偵に劣 らず危険な目に遭うし、それが恐いなら安全な職に就くしかない。退屈を承知で平凡でも安全な職に就くか、危険でもやり甲斐ある職を選ぶか――シモーヌは危険な方を選択した。 七  人類が太陽系の辺境目指して進出するにつれ、外宇宙に退いて行ったUFOがふたたび太陽系内に出現しはじめた。最初、人類が月面に軍事基地を設営後、まるで物珍しいものでも眺めるかのようにUFOは基地周辺 を徘徊いた。それから興味を失くしたか、地球上ばかりか月面上からも消え去った。偶に土星のリング内に、巨大なUFOを目撃したとの報告が、前哨基地から入ってくる程度だった。  地球連合軍が太陽系内の衛星や惑星に基地を設営する度に、UFOは眼の前から去って行き、それからの半世紀間、太陽系内では1機をも視かけなくなった。奴らは銀河系の辺境から引き上げて行ったのだろう。軍人の みならず民間人までもがそう想い込んだものだった。それが忘れ物を憶いだしでもしたかのように唐突に、月面に大挙襲来し、そしてまた地球にもお馴染みの姿を現わしはじめた。異星人にとって精神操作し易い人類の拉致なぞ造作もなく、それで我々を収穫しにやってきたのさ――UFO狂はそう口々にいった。  繁華街の最も賑う通りに、石造りの堂々たるパブが辺りを威圧して聳え立っていた。何故か夕方になると、そのパブには中年以上の男女が多勢やってきた。昔は、勤め人が仕事帰りに立ち寄るのが習わしだったが、先祖返りでも起こりはじめたか――。労働をしなくても贅沢さえしなければ、なんとか生きてゆける現代にしても奇異な現象だった。  一見紳士風の三人が店内で銘々、黒ビールの入ったジョッキを手にしてヒソヒソ話に余念がなかった。連中の服装、立居振舞いは特に目立つほどではないが、なんとなく周囲からかけ離れていた。ビールを不味そうに呑む 酒好きなどいるものだろうか。  眼の鋭い男が辺りを用心深く看回し、ビールを呑み込んで眼を白黒させると話しはじめた。「それらしい筋から入手した情報によれば、地下基地は拡大しているとのことだ。これで連中が開戦準備をしているのが明きらかになった」  すると、もう一人の男が表情を強ばらせ小声で応えた。「そう、深度およそ数十キロメートルの地中に地下道が縦横に走り、地球の地下は蜘蛛の巣のように基地から基地へと繋っている。それらの地下基地には強力な電磁波を発生させる軍事兵器が配備されてるそうだ」  三人目の男がとぼけた表情で話題に割り込んだ。「地下に潜んで戦おうったってそう思惑通りにゆくものか。いずれにしろ連中に勝目はないだろ」  「それが本当なら」と最初の男。「物資の備蓄がどの程度のものか、我が方ではまだ正確に把握していないので不明だが、連中は絶対絶命ってことだな」  二人目が先刻同様に表情を強ばらせ、小声でいった。「いや、そうとも限らんぞ。連中が侮り難いのは承知のはずだろ、ご両人。我々に甚大な被害を与えたのも連中だからな。見縊ってはならないってことだよ」  この三人、どうやらビールを呑み終るまで、順送りに会話を進行させる積りらしい。体内に収集データを蓄積した3基のロボットが、互いに情報交換しているようにも視えた。パブの中に客が増えはじめ、彼らの屯ろする一角にも押し寄せてきたのを機会に、三人はジョッキを空にしてパブを出るとそれぞれの車で去った。  パブで情報交換をしていた三人が何者なのかは不明だが、連中の話題にしていた内容は大方察しがついた。列強は地球の地下基地に、陰の政府なる世界統合政府中枢部、および最強の軍事組織を置き、複数の精鋭部隊に防衛させているとの噂は絶えなかった。その地下基地で、どのような陰謀が進行しているのか巷には虚実が入り乱れていた。  一説では旧ルーマニア出身の天才科学者ニコラ・テスラの理論を軍事兵器に応用、地球を電磁バリアで覆うことで外部からの脅威に対抗し、なおかつ攻撃するとのことだった。しかし、それでも疑問は残った。地下に軍事基地を設けた主目的はなにか。憶測の域は出ないが、おそらく電磁バリアと何らかの関係があるのだろう。電磁波が人体に悪影響を及ぼすことは周知の事実だった。しかも、極めて弱い電磁波でもそうなのだから、地球をすっぽり覆ってしまうような電磁波が、如何に強大かは想像の域を超えていた。地球そのものが巨大かつ強 力な電子レンジになってしまうのだ。  いうまでもなく、外部からの脅威とはUFOを指すが、異星文明と地球文明との間にどの程度の技術的格差があるのか――何万年もの途方もない開きがあるともいう。それでも彼らと戦争をしようとしているのは、一体どんな連中なのだろうか。  インターネット上で匿名氏らの語る話は、ときには愕くべき内容を含んでいた。真偽のほどは定かではないが、そのやりとりの中に、墜落UFOの機内から切り刻まれた地球人の死体が視つかったという話がある。その死体を目撃した軍人が、異星人に敵性ありと判断したろうことは想像するまでもない。  異星人との戦争を目論でいる軍人にとって、それは戦争肯定の恰好な根拠になる。しかし死体の存在を匂わせる噂があるばかりで、実際には一般大衆の預り知らないことなのは確かだ。死体そのものが軍部の捏造でないと は断言できない。  異星人が地球支配を企んでいるとの噂もまた絶えない。ユミットなる異星人が大国の政府に最後通牒を突きつけたというのだ。人類に太陽系を管理するだけの能力はないとの判断からきたものらしいのだが、それにしても余所者であるはずの彼らが地球人類の生き方に、喙を入れるなどそれこそ大きなお世話だろう。  もし彼らが地球を支配下に置いた場合、最も不利益を蒙るのは各国の支配階級に属する連中に違いない。何故なら異星人の世界では生物の優劣を決定するのはDNAとのことだからだ。これは有無を言わさぬ絶対的な評価手法だ。そうなると階級など怱ちにして消滅し、支配階級の生れかどうかなど何の役にも立たなくなるだろう。現在の支配体制が根本から覆ってしまい、支配者層は既得権益を永久に失ってしまうかも知れないのだ。 八  異星人の文明と我々の文明に一万年を超える開きがあるとして、その時間的差異がどれほどの知能的差異に相当するのか想像すら覚束ない。人間とチンパンジーとの間に立ちはだかる懸隔どころか、昆虫とのそれを遥かに超えているのかも知れない。結局、言語によるコンタクトが可能かどうか、通信手段を探すのは時間の浪費にすぎないということになる。  如何に異星人の知能が高く卓れた文明を確立していようが、人類と昆虫との間に通信手段があり得ないのと同様に、我々と異星人との間に意思疎通の手段があるとは考えがたいのは確かだ。異星人の言語体系が、地球 上の言語体系に類似していない限り、双方向通信は不可能だろう。もしそのような言語が存在すると仮定したとしても、地球人類が他の生物の言語を修得したなんて話は聞いたことがない。  百歩譲って、連中に特殊能力が備わっていると仮定し、では何故これまで一度も我々に接触してきたことがないのか。それぞれに生存環境の異なる世界で別々に進化し、精神構造が互いに異なる異種生物の間には伝達手段はないのかも知れない。それとも、各国政府は連中とのコンタクトの事実を、一般大衆から隠しているにすぎないのだろうか。  ハイウエイに入り、エンジンをフル回転させて跳ばしたお陰で、ツーソンには三十分足らずで着いた。ヴィーゴはUFO研究組織のある建物に入って行き、地下室に通じる階段を駈け降りて目指すドアを勢いよく開けた。  「よおっジム、久し振りだな」  「これはこれは、いやはや吃驚ものだな。ヴィーゴ、元気そうじゃないか」  「ああ、ご覧の通りだ」  「ヴィーゴ、こっちは私の研究仲間……UFO狂いのホンダだ」  「UFO狂いはお互い様だ、ジム。やあ、ヴィーゴさんはじめまして」  「さて、これで役者が全員揃ったな。ところで聞きたいことがあるんだ」  「なにかね、途方もない質問は止めてくれよ」  「月に基地を設営している異星人は、UFOに乗って地球にやってくるそうだ。それが事実なら、どうして政府の高官や科学者は公表しないんだ?」  「科学者には、実証困難な発見を認めることによって、自説を危うくしたくない想い……強迫観念がある。妙な説を唱えて変人扱いされたくないのだ。異星人が月に移住してきたなどといって、科学者としての生命を葬ったりはしたくないってことだよ」  「しかしそれだけではなかろう。ある筋から脅迫されたりしたら本当のことはいうまい」  「もちろん理由はいくらでも考えつくだろう。だが月については別だ。我々UFO研究家の埒外にあるからな」  「なるほど……《執拗|しつこ》いようだが、月に関して何か知っているのでは」  「月はUFO研究家の間ではタブーになっているんだ。何故だか解るかね?UFOと異なり、月は余りにも実在感があり過ぎるからだ。UFOは捕捉不可能だが、月はその気になりさえすれば行って確かめることもできる。では、何故そうしない。誰も余計な混乱を招きたくはないからだ」  「ここには月面写真はなかったか?写真にそれらしい痕跡でも視つかれば、おいそれとは否定できまい」  「あるにはあるんだが、実をいえば私自身、月面に視える多種多様な物体らしいものには困惑している」  「そいつを視せてくれないか」  「いいだろ。ホンダ、例の静止画を持ってきてくれないか」  ホンダが持ってきた数枚の月面写真の説明書きには、「1964年7月31日、レンジャー7号撮影」とある。70年以上前のものとは想えないほど、写真は鮮明だ。ヴィーゴは一枚の写真を抜き取り、ジムとホンダに視せた。  「これは月のどの辺なんだ?」  「ブリアルドス平原の近くだろう。当時の技術からしてもかなりの精度だ」  「NASAの連中が目的もなく闇雲に、レンジャー7号を打ち上げたとは想えんな。ここに視える靄か雲のようなものは何だろう」  ヴィーゴが指差して視せた箇所にジムとホンダはしばらく見入った。二人の口から深い吐息が漏れた。  「砂塵のようだな」  「私にはそうは診えない。月の内部から吹き出た蒸気かあるいは煙では?」  「月面を蔽っている微小な岩屑がなんらかの作用によって舞い上がっているのではないのかな」  「どうして微小な岩屑が?要するに、これは知的生物が地下に住んでる証拠に違いない。砂塵だとしたら、この地点だけ舞い上っているのはどうしてなんだ?」  「月の引力は地球の6分の1だし、おまけに真空だから、そういった現象が起こるかも知れん」  「なら、こっちに視えるのは?私には建築物の一部に視えるが」  「当時NASAでは、巨大な岩石だと発表したらしい」  「眼に写るものをありのままに診ようとしていないようだな、ジム。どうして事実を歪曲する必要があるんだ」  「私も頑迷な科学者の一人かも知れん。しかし、月の地下に異星人の住居があるなんて公表できるかね。誰かが信用するとでも?まあ、気違い扱いされ、挙げ句の果ては科学者としての生涯を閉じることになる。写真だけで判断するのは危険この上ない」  「実証不可能ってことはあるまい」  「月まで行って、月人の住む家のドアをノックしろとでも?」  「月についてはもうこれ以上は訊くまい。ところで、火星に存在する人面岩の話はどうだ?」  「ああ、発見されて間もなく陰影のなせる技だと判明したそうだ」  「ジム、それはNASAのいい分であって、事実には程遠いのではないか」  「科学者の間でも賛否両論はあったようだ。光の加減でなんの変哲もない岩が、人面に視えたそうだから信憑性は高い」  「ご両人はれっきとした科学者だ。したがって、事実を除いて認めはするまいが、ちょっと想像を働かせれば、岩の突起に光が当って人面に視える確立は、そんなに高くないのに気づくはずだ。しかも、火星の人面岩の周囲には他に巨大な岩石は存在しなかった」  ジムは頭髪を掻きむしり、ホンダは腕組をしながら考え込んでしまった。政府はもちろんNASAの科学者、技術者らも、月や火星に関するかぎり沈黙を押し通してきた。しかも、政府は大衆の関心を他の惑星に向けさせようとさえしたのだ。アポロ計画が17号を以って唐突に打切りになったのは何故か――。  「ジム、ホンダ、黒服の連中に付き纏われた経験は?大抵三人一組で行動するらしいんだが」  「いや。知らんな」とジム。  「私の知る限り、UFOマニアの間では黒服の連中を、《M I B|Men In Black》と呼んでいた。 噂では、MIBはNSAに所属していたらしい。しかし、誰も正体を知らない、噂だけが独り歩きしているんだろうと想う」と自身なさそうにホンダ。  この聰明そうな東洋人の表情からは、何も窺い知ることはできなかった。だが、ジムの狼狽振りにはただならぬものがあった。視ると、この有能な科学者の秀でた額にはじっとりと脂汗が滲み出ていた。もしジムが黒服の連中にでも脅迫されていたとしたら、多分誰にも真相を打ち明けたりはするまい。明らかにジムの表情には恐怖の影がちらついていた。奴等は一体何者なのか、なぜ月面の現象を我々から隠そうとするのか。  ヴィーゴは一枚の月面写真を注意深く眺めた。何者かが隠蔽工作を行なっているのは明白だ。その隠蔽工作は望遠鏡を通しても、それと分るほど大掛かりな偽装だった。  「ホンダ、月に居住しているのがロボットの可能性はないのか?連中は、我々のような人間とは限らないのではないだろうか。ロボットなら酸素なぞ必要ないだろうし」 うむ、確かにロボットなら鉄やら、アルミニウムそれにシリコンは欠かせまいが、空気や水、食料なんてものは要らない。月には鉄やニッケルの他に、アルミニウム、チタニウム、あるいはウラニウム、トリウムといった鉱物があるようだ。分光写真分析とかサンプルの土壌や岩石を、分析した結果によればそういった鉱物の存在は確認できている」  あくまでも噂と断った上でのホンダの説明によれば、UFOの搭乗者らは月面で鉱物を採掘しているのだ。それで月のクレーターがどうして多角形をしているのかが解る。連中は月面でウラニウムやらアルミニウムを採掘して精錬を行ない、燃料やマシンのための素材を造っているのだろう。だが、それでも連中が月にいる本当の目的は不明だ。一説によればもともと月は連中の母船であって、太陽系外の宇宙でなんらかの原因により破損した。そこで破損した宇宙船である月を、地球の傍まで曳航してきて修理しているというのだ。それが事実なら月はいずれ太陽系から出て行くに違いない。  「ヴィーゴ、これからどうする?」  「ヒューストンに乗り込む。その前に腹ごしらえをしなくてはならないが」  「我が家で食事ってのはどうかね?」  「ジム、それは願ってもないが、止めておこう。変な連中が私の周囲を徘徊いているんだ。迷惑をかけるかも知れん」  「変な連中?」  「うむ、礼儀知らずの愛想なし野郎供だ。また現れるかもな」  「何か私にできることはないか?」  「心配無用だ。奴らをまいて、モーテルにでも泊ろうかと想っている。お二人さんも気をつけろ、それから細君に宜しく伝えてくれ。では、これで失礼する」  「女房には忘れず伝えておく。気をつけろ、ヴィーゴ」  ヴィーゴは二人と握手して別れた。今となっては廃れてしまった儀礼だ。ごく親しい間でしか通用しない過去の遺物だった。黒服の連中は諦めたのか姿を視せなかった――しかし油断はできない。ヴィーゴは煙草を喫いな がら周囲を視まわしてゆっくりシトローエンに乗り込んだ。さてヴィーゴ・オストロスキよ、これからどうする?はっきりしているのは何処へ行こうが、手掛かりはまったく掴めないということだ。  ヴィーゴはツーソンの裏通りを出鱈目に走り回り、それからヴォルティモア方向へと全速で跳ばした。見知らぬ街に入ってからはさすがに跳ばす訳にもゆかず減速し、一軒の古風と呼ぶには些か《草臥|くたび》れ切ったパブの裏手に駐車した。パブに入って表通りに面した席に座り、ビールとローストビーフもどきを注文した。  路上生活者の風体をした三人組が奥まった席に腰掛け、ヴィーゴの方を視ながら互いに相手を肘で小突いて笑っていた。彼らはかつては企業の中枢で活躍していたかも知れないが、今では真っ昼間からアルコールを口 にする中毒者であり人生の敗残者――この時代、何処にでも見掛ける光景だ。  ビーフもどきを二皿平らげて黒ビールを三杯呑み、久しぶりに食べた実感を味わった。愛想笑いする女店員に支払いをすませ、タバコを喫いながらパブの裏手に回ると、燃えるように紅い髪を長く垂らした若い女がシトローエンの中を覗き込んでいた。やれやれ、今日はなんて忙しい日だろう。こやつも黒服の一味かも知れない――そう想うと無性に腹が立ち、ヴィーゴは女の腕を軽く捻り上げると車のドアを開けて中に押し込んだ。  「此処で何をしている、車の中には目当ての物なぞないだろ?」  「痛いわ放して。わたしはただぶらついていただけよ」  「ぶらついていたとは?」  「痛いったら、おねがい乱暴しないで」  女はむしろ幼く視えるほどに若かった。女の子が他人の車に一体なんの用があるのか。ヴォルティモア目指して車を跳ばしながら、ヴィーゴは紅髪の女にあれこれ訊いてみた。以前に会ったような気がするのだが、どうしても憶いだせなかった。何処かで会っていながら憶いだせないのは、記憶に異常が生じたためかもしれない。しかし思考力には別段変化もないようだし、若い頃のことは依然として鮮明に憶えている。考えすぎは思考力を低下させるだけと想い、雑念を振り払って運転に集中することにした。  「すると、家出をしてきたってのか?今頃さぞかし、そっちの両親は嘆いていることだろうな」  「わたしの名前は『そっち』ではありません」  「ほう、何というのだ」  「アンジェラ」  「何処からきた」  「ワシントン」  「やれやれ、とんだ厄介者と係わり合ってしまったものだ」  「ねえ、一晩だけでいいからご一緒させて。おねがい」  「駄目だ、ワシントンの両親の許に帰るんだ。子供の独り旅など危険この上ない」  「両親の家に戻るなんて真っ平よ。あんな親なんてくたばるがいいんだわ」  「なんてこという、呆れたもんだ。私の娘だったらそんな口の利き方は許さない」  「あら、そうなの。おじさん、意外と古くさい人なのね」  「古いも新しいもない。大人に向っていうことではない。視たところ下層階級の出ではなさそうだし、家柄はよさそうなのにな」  「今日び、家柄なんてなんの足しにもならないわ。ね、おねがい」  「一晩だけだぞ。子守りなんかしている暇はないからな」  「バカにしないで。これでも一人前なんですからね」  「ところで、以前に何処かで会ったことはないか」  「いいえ、おじさんと会ったのは初めてよ、どうして?」  「いや何でもない、なにかの間違いだ。忘れてくれ」  極寒世界にしばしの寛ぎをもたらす太陽が、何時の間にか山々の彼方に隠れようとしていた。難問題を抱えていながら余計な道草を食ったものだ。ヴィーゴが助手席の娘のことなど忘れてシトローエンを跳ばす中、車はとある奇妙に捻くれた樹木の生い茂る並木道にさしかかった。黒塗りの古ぼけたリムジンが木陰から飛びだし、蛇行運転を繰り返して進行方向をふさいだ。  「気いつけろボケナス!」想わず悪態が口を衝いて出た。ヴィーゴは助手席の娘のくすくす笑いを聴きながら車の挙動を眼で追った。がらくた同然のリムジンもどきは真っ黒な煙を振り撒きながら、エンジンの発する大音響と共に森の中に消えてしまった。運転していたのはスピード狂のいかれた酔っ払いだったようだ。他にガソリン車などを運転する物好きがいたとは意外だった。  ヴィーゴが運転しながら地方のラジオ局に合わせようと、ダイアル調整をしていた丁度そのとき、信じられないニュースが跳び込んできた。あまりの愕きに運転しているのを忘れてハンドルから手を離しそうになった。それはシモーヌの事故死を伝えるニュースだった。アナウンサーの声が耳の中でいつまでも反響した。涙が溢れそうになり、危ういところで凝っと堪えにこらえた。シモーヌは車中で真っ黒に炭化していたという――眼を覆いたくなるような凄惨な死に方だ。  一体、何処の何者がシモーヌの生殺与奪の権限を握っているのか。そんな権限なぞ誰にもないだろう。この世に正義はなくなってしまったのか。ヴィーゴの胸中には怒りが煮え《滾|たぎ》った。ウオータフォドの一件が解決したら、シモーヌを殺した奴らを視つけだして八つ裂きにしてやる。五体をバラバラにして摺り潰し、肉食昆虫の餌にでもしてやるのだ。そうでもしなければ怒りは治らない。  前方右手にモーテル・ハネムーンなるネオン輝く、おどろおどろしいモーテルが迫りだしてきた。今夜のヴィーゴには厄介な連れがあり、しかもその連れときたら、ヴィーゴに娘がいたら同年齢で通りそうな若い娘だった。ヴィーゴがフロントでいい加減な署名をすると、複眼かと見紛う眼つきの若いフロントマンが、醜く歪んだニヤけ顔を二人の方に向けて続き部屋の鍵を寄こした。  ますます結構、ニヤついてなきゃチップをもっとはずんでやるのに。軋み音を立てる階段を上り、隣接したドアの一方を開け、スイート・ルームには程遠い煤けた室内を視まわした。アンジェラがドアの蔭から顔だけ出しておやすみの挨拶をした。おやすみアンジェラ、今夜は余計なことなぞ考えずにぐっすり眠ることだ。ヴィーゴはみすぼらしい室内の光景を追い払うべく明りを消し、ベッドに寝転んでしばしの間、ぼんやりしながら煙草を吹かした。  今日はめまぐるしい一日だった。ヴィーゴはベッドから起き上り、ホルスターを外して服を脱ぐとシャワー室に入った。熱い湯を満身に浴びながら鼻歌を歌った。シャワー室から出て身体にタオルを巻き付け、ベッドの端に腰かけた直後、ベッド・カヴァーの下で何やらもぞもぞ動きはじめた。ドアに鍵をかけなかったのを憶いだし、ヴィーゴは舌打ちしてカヴァーを力いっぱいめくった。素裸のアンジェラが、悪びれる風もなく裸身を晒して寝そべっていた。  アンジェラは真紅の髪で下腹部を覆い隠しながらベッドの上に立ち上った。月明りを満身に浴びたその裸体は成熟した女のものだった。しかし、胸の大きさは申し分なかったし、腰の括れ方は見事だったが、すらりと延びた肢体は均整が取れていなかった。一瞬、脳裏を疑惑がよぎった――ひょっとしてロボット、それともアンドロイドか。  そのとき、「抱いて……一晩わたしを愛して」という囁きが聴こえた。その一言に疑惑を蒸し返すことなく、情欲の赴くままに肉欲の中に埋没し、明け方にはへとへとになっていた。女が静かにベッドを離れ、タオルを持って出て行くのをぼんやりした意識下で見送り、ヴィーゴは淺い眠りに落ちて行った。  潮流が海底に向っているのを体感する奇妙な夢を視ていた。浅瀬と違って海水が冷たい――どうやら潜水しているらしい。どうして海になど潜っているのか理解できない。二十五、六メートルほど潜水した頃、潮流が岩の裂け目に入って行くのが分った。水深三十メートルに到達、底なしにも等しい深淵にむかって照明を当ててみた。深淵から複数の薄気味悪い生物が上ってくるのがボンヤリ視えた。  眼を凝らしてよく視た――体長数メートルに達する黒っぽい深海生物だった。興奮と恐怖から頭と手足が痺れて身体全体が、麻痺したように強張って身動きできなくなった。脳内に稲妻でも閃いたかのように、突然眼を瞠くと頻りに周囲を視まわした。四肢が冷え切り、半身がベッドから摩り落ちそうになっていた。誰かの記憶が脳内の記憶部位に焼き付いたか、まるで実体験のように生々しく蘇ってきたのだ。ヴィーゴは寒気を覚えて身震いすると起き上り、タオルを肩に掛けてシャワー室に向った。 九  日没間際の凍てつく街中を数人の若い男女がそぞろ歩きをしていた。特に目立つほどではないが、よく気をつけて視ると、彼らの服装には現代離れしたところがあった。ジーンズに革ジャンパーという出立ちには、古臭いという表現がピッタリきそうだった。昔も今も、若い連中はファッションにかけては中々うるさいはずだが、そぞろ歩きする彼らはファッションなどにはまるで無関心に視えた。顔つきは一様に若いし動作は機敏だが、果して実際に若いのかどうかは不明だ。  その中のがっしりした体格ながら、鼻の下にうっすらと産毛のような髭を生やした少年が、殆ど聴き取れないような囁き声でいった。  「最近、ドラゴンネットから入ってくる映像に異常な処があるように想うんだけどな、どうだ?」  すると、少年よりも上背のある金髪の少女が、姐御めかして応えた。  「異常なんてどこにもなかったわよ、ジョージ。あなた近頃ちょっと考えすぎてんじゃない?」  「そんなこたあないさ。奴らの送ってよこす映像がなんとなく変ってきたのは、今じゃネット仲間の間ではお馴染だ。なあ、マトゥック」  「う、うん」なんとなく自信のなさそうなマトゥックの返事に、ジョージは気分を害したか顔を《顰|しか》めた。  「あのなー、映像に異変が起こりはじめたってことは先週確かめたろー」といいながら、ジョージはマトゥックを睨んだ。すると、マトゥックは想い切り悪そうに突っかえながらいいはじめた。  「あっ、その先週は変だなと想ったけど、あとで冷静になって考えてみたら、どうやら見間違ってたんじゃなかったかなと想った」と応えると、マトゥックは姐御めかしたパトリシアの陰に隠れてしまった。ジョージは、そんなマトゥックの曖昧な態度に忌々しさを隠し切れない様子だ。  顎に産毛を生やし、ちょっぴり学者気取りのキージンガが、素頓狂な声でジョージに賛成する発言をした。  「場合によって映像が変ることはあり得るな。2、3日前にも変になったぞ。あー、そのとき居合せたスーザンは同様の感じを持ったのを覚えてる」  「スーザンってな誰だ、プロフェッサー。この中にスーザンって名の娘はいないよな、そうだろ」とジョージ。  キージンガはプロフェッサーなどと煽られ、照れ臭いのか妙に勿体つけた話し方をした。「スーザンってのは六つになるかならないかの女の子なんだ。爺さんと二人暮しなんだが、その天才振りには只々脱帽するしかない」  「プロフェッサーは天才だったんじゃないのかよ、うん?」とからかうようにジョージがいった。  「いや、あのスーザンに敵う者なんか一人もいない」そういいながら、キージンガは頭を掻いた。  「ねえ、あそこに珈琲飲ませる店があるの。冷えてきたし、ちょっと寄ってかない?」とデボラがいった。 デボラは一見淑女らしく視えるのだが甘いものには眼がなく、なにかを食べはじめるや際限なくなるので、仲間うちでは敬遠されていた。  「寄るのは好いけどな、甘いものにだけは手をだすな。そんなら寄ってもいい」とジョージがデボラに釘を刺した。デボラはがっかりしたようにうなだれ、「いいわ、今回は我慢して珈琲だけにしておくから」としおらしく応えた。  一行は別段急ぐでもなく、だらしない恰好をして珈琲ショップの方角にむかった。一人がドアを開けてドアボーイよろしく気取ってドアを抑えている間、眼を凝らして視なければ《蹴躓|けつまづ》きそうな店内に次々入って行った。暗いフロアに、20世紀初頭のジュークボックスだけが、辺りに淡いオレンジ色の光を放っていた。デボラは喊声を上げてジュークボックスに突進――デボラの目当ては珈琲でも、甘いケーキでもなくその骨董品にあった。 ジョージを含む他の連中はただポカンとしてデボラの行動を眺めているばかりだった。店内に昔の前衛音楽とも想える耳障りな音楽が流れはじめた。  キージンガが両耳を手で塞ぎ、デボラに大声で訊いた。「この騒々しい音楽はなんてんだ、デボラ」  「騒々しいって、あなたこの音楽ご存知ないの。二十世紀に流行ったキング・クリムゾンのロックなのに。彼らの音楽は今じゃこの店でしか聴けない貴重なものよ」  キージンガが相変わらず耳を手で抑えたまま辺り構わず大声を張り上げた。「どうでもいいけど、狂気そのものだなこのロックなる音楽は……こんなの音楽か、デボラ」  「『21世紀の精神異常者』ってわたし達にピッタリだと想わない?」そう冷やかすように応えるデボラ。  「どうでもいいけど、こいつは世紀末の現代にピッタリだぜ。キング・クリムゾンの連中は早くから今の世界を予見してたってことかな」と妙に悟り切った口振りでマトゥックがいった。先刻とは大違いな、如何にも自信ありげなマトゥックの口ぶりに、ジョージは半ば呆れ顔だ。  「音楽にはかなり詳しいようだな、マトゥック。今のいままでそうとは知らなかった俺が馬鹿だったんだ。ひょっとすると、映像なんかよりも音楽の方に向いてんのかもな」  そういいながらジョージは、大袈裟に感心した表情をして視せた。ジョージの煽てに満更でもなさそうなマトゥックだが、いつもながら当意即妙に言い返せないのが歯痒かった。マトゥックはIQでならジョージに負けてはいないと密かに自負していた。しかし、リーダーとしての資質ではジョージに到底敵わないのを認めてもいた。  「なによマトゥック、世期末なんて不吉なこといわないで。彼らの曲はそんなんじゃないわよ。これこそ音楽の中の音楽なんだから。わたし、ウットリしちゃう、麻薬なんて比較にならないわよ」とデボラ。  一同、いつになく威勢のよいデボラの険幕にタジタジの体だった。  「ああ、そうとも。麻薬なんて、あんなものゲロだ」ジョージは吐き捨てるようにいった。  政府は麻薬に溺れる若者のみならず、中年のれっきとした大人にも手を焼いていた。なんとかしなければ、やがて政府部内にも麻薬が浸透し、気がついたら自分までドップリ麻薬漬けに――なんてことにでもなったら国は 崩壊するだろう。世の中には麻薬で精神が安定するなら、安いものだと主張する不届者もいた。  麻薬は論外だがそれに替わるもので、人々の精神を安定させるものはないか。各分野の専門家をも交えて日夜討議を重ねた結果、音楽を利用するのがよかろうとの意見に落ち着いた。ロックそのものでは《五月蝿|うるさ》くて迷惑至極だが、ロックのように若者を魅了する曲でなおかつ欲をいうなら、中年にも抵抗なく受け入れて貰えそうなのが好かろう。  試用版で秘かに人々の反応を調査してデータを収集、何人かの作曲家に依頼したのち、決定版と想える作品をインターネット上で無償配布することにした。この決定版には《絡繰|からく》りがあった。正規の音楽信号に覆い被せるように、別の音楽信号を記録してあるのだが、もちろん作曲家諸氏は知るよしもなかった。政府の要人の中でも知っている者はほんのわずかだった。  最初、この曲に跳びついたのは若者達だったことはいうまでもない。インターネット・ユーザの間に忽ち拡がり、一週間も経たない中に地球上のどの地域でも、同一のメロディを耳にするようになった。  一ヶ月後、新曲がまたインターネット上の然るべき音楽サイトに出現、前回の反響に気を好くしたか無償配布だった。誰ともなくこの無償配付の新旧両版を、ダブルソースなどと呼ぶようになった。その後、矢継ぎ早にダブルソースの新曲が出てきた。無償配布だったことはいうまでもなかった。若者の間では、これらのダブルソースなる曲が他を圧して人気を博していた。  ダブルソースには催眠効果があり、聴く者を魅きつける力は圧倒的だった。聴き終ったあとの気分は性的満足感を遥かに凌駕するものだった。しかし、中には胡散臭い眼で視る音楽マニアも少なくはなかった。ダブルソースには麻薬のような破壊性があり、危険だから聴かないようにという者もいた。一体、誰がそんな世迷い言を聞き入れるだろうか。警告は無視と冷笑であっさり葬り去られ、気づいた時には世界中の若者がダブルソースなしでは、一日が始まらないほどの中毒状態に陥っていた。  ひょっとすると麻薬なんかより数十倍も危険なのではないか。無視と冷笑で葬り去られた警告がふたたび持ち上がるのにそう時間はかからなかった。ただでさえ無気力な若者が増え続けていたところへもってきて、こうした奇妙な音楽が氾濫、若者の無気力に一層拍車をかけた。  「ところでデボラ、例のダブルソースは聴かないのか?」とジョージが矛先をデボラの方に向けたのでマトゥックは秘かに胸を撫で下ろした。  「あんなの音楽じゃないわよ、ジョージ。あなただってそんなこと承知でしょ。ロック音楽に比べたらゲロ以下だわ」とデボラ。  「そのようね、デボラのいう通りだわ」と、それまで黙って聞いていたパトリシアが口を開いた。「あのダブルソースって、普段音楽を聴かない連中に人気があるっていうわね、どうしてかしら」  「麻薬の替わりだろ。耳に心地よい分、毒も多いといえるな」とキージンガ。  「それに気づかないで聴き惚れてる中にいつの間にか中毒になり、そしてダブルソースなしでは夜も昼も明けないってことになるんだ」  「そして終いには廃人になる」とジョージがあとを引き継いだ。「あのダブルソースなる代物が二重構造になってるってことは、早くから指摘されてはいたなあ。それなのに誰も忠告に耳を貸そうとしなかった。では俺たちはどうか」  「賢明にもリーダの指導よろしく我々はダブルソースに背を向けた。お蔭で中毒にもならず、今宵も健全なる姿を互いに確かめ合い……ってことさ」とマトゥック。 十  カーテンの隙間から差し込む陽射しの強さから、太陽はすでに真上にきているのが分かり、ヴィーゴはグッスリ眠り込んでしまった自分に腹を立てた。ベッドを出て伸びをしたのち煙草を喫い、電話台の方に何気なく眼をやると、そこに女の筆跡らしいメモがあるのに気づいた。煙草の煙が眼に沁み、霞んで視えるのに苛立ちながら、アンジェラの書いたと覚しい紙片を手に取った。  「夕べは楽しかったわ、バーイ」――そう書いてあるのが辛うじて読める程度の乱雑な筆跡だ。世紀末ともいえる、《荒|すさ》んでしまった時代の娘の例に漏れず、アッケラカンとして性交渉にさしたる感慨もないらしい。無政府状態に近い時代に相応しい新種の人類なのだろう。それにしても、あーいった女の子を一人前の大人と見做していいものかどうか。もしアンジェラが未成年者なら、ヴィーゴの行為は昔であれば断罪に値しただろう。だがアンジェラは実際のところ何歳にでも視えた。いまとなっては性行為に大した重要性もなく、誰も目くじらを立てないだろうが――。  紅毛の女の子ならとっくに出て行った――そう応える眠そうな表情のフロント係に、なにがしかのチップを払ってモーテルを出た。石ころだらけの悪路をしばらく跳ばしたのちに幾分減速し、ハリスンベリィからハイウエイに入ってさらにナッシュヴィルへとむかった。平均時速100マイルで走らせても十時間ほどで着くはずだ。ヴィーゴはロック、ジャズ、クラシックと手当たり次第に音楽テープを再生し、脇目もふらずに運転し続けた。  ハリスンベリィを過ぎてから約6時間後、左手に「ノックスヴィルまであと《38マイル|約6 1 k m》」の標識が視えてきた。ヴィーゴはシトローエンを路側帯に停めて車から降り、くしゃくしゃになってしまった煙草に火を點けた。それから大きな伸びをして凝り固まった身体全体の筋肉をほぐした。  ヴィーゴは南東に巨大なドラゴンが、寝そべってでもいるかのような、低い山が望見できるのに気づいた。山の上空を全長数百メートルはありそうな妖しい光を放つ物体が、西方に向って飛行して行くのが視えた。大気圏内で超巨大な飛行物体を飛行させる技術は、ヴィーゴの知る限り、地球の何処にも存在していない。ヴィーゴは煙草を道端に捨てて車に乗り込んだ。  間もなくノックスヴィルと覚しい町並みが視えてきた。ガソリン・スタンドで燃料を補給し終ったのち、町を通り抜けてナッシュヴィル目指して車を跳ばした。かつて、ナッシュヴィルはテネシー州の州都として繁栄した時代がありながら、今では人口が激減し荒廃いちじるしかった。  都市の荒廃はテネシー州に限らずどの州でも進んでいた。路地裏には腐乱死体、白骨化した死体などが散乱、あたりに死臭が立ち篭めていた。ヴィーゴは手頃なホテルをひとしきり物色したのち、裏通りにひっそり建つ、幽霊屋敷然としたホテルの敷地内に乗り入れた。ホラー映画にでも登場しそうなオドロオドロしい外観とは裏腹に、そのホテルのフロントには異国風の若く溌剌としたブロンド娘が待機していた。  「一泊したいんだが空いているかな」  「ございますとも」  フロント嬢は日焼けした褐色の肌に真っ白い歯並みを覗かせ、ヴィーゴにむかって微笑んだ。その様は実に魅力的だが、一瞬ギョッとする魔物めいた表情に変わった。ヴィーゴは何気ない風を装って無精髭の生えた顎に手 をやり、大時代な宿帳なる宿泊者記録簿に記入して手続きをすませた。車をホテルのガレージに入れ、部屋を確かめたのちに外出した。美観もなにもあらばこそ、毒々しい照明の中に、幻影のように浮かび上がるネオン街をぶらついた。  仕事を失い妻子とも別れた挙句に、生ける屍と化して通りの到るところに屯するアル中やら薬中、浮浪者にとって唯一の逃げ場はアルコールか麻薬だ。しかし、宇宙空間を逃げ場に選んだ者もまた、この舗道に屯する連 中と大差はなかった。自然環境を徹底的に汚染し、地下資源を掘り尽くしておきながら、後始末もせずに逃げだしてしまったのだから。  ヴィーゴは一軒の廃虚同然の酒場に足を踏み入れた。荒み蝕まれつつある町に崩れかかった酒場――荒廃した都市は何処も似たりよったりだ。埃だらけの急な階段を地下室目指して降りて行くと、壊れかけたドアの内側 からロック音楽が聴こえてきた。いまにも崩れてしまいそうなドアを開け、ヴィーゴは地獄に蠢く悪鬼供にも等しい群衆の中へと踏み込んで行った。  腐敗した血液のように毒々しい緋色の照明下で、亡者の如く店内を徘徊きながら喚き散らし、死のダンスを踊る大勢の男女が、ヴィーゴの眼前をめまぐるしく往来した。煙と喧騒と黴の臭い――それらは死につつある者の 口から漏れ出る吐息であり、自らに捧げる挽歌だ。  ヴィーゴはゾンビもかくやと想える、酔いどれの群れを掻き分けて奥に進んだ。毀れかけた椅子に腰掛け、周囲の騒音を一掃してしまいそうな大声で呑み物を注文した。フランケンシュタインをも凌ぐ容貌魁偉なバーテン ダーが、ラベルの剥げかかった怪しげなバーボン・ウイスキー瓶を手にしてノッソリやってきた。フランケンシュタイン氏は、今にも燃え上がりそうな赭ら顔を晒して上機嫌だった。呂律の回らない舌を操って一言、二言ブツブツいうと、ボトルとグラスを無造作にテーブルに置き、フラつきながら元きた方向へと戻って行った。ヴィーゴはグラスにウイスキーを注いで勢いよく煽り、体内が燃え上がる感覚を味わった。 十一  早朝、日本列島が太平洋の藻屑となり、消え去ったとのニュースは瞬く間に地球を一周し、各国に超弩級の衝撃を与えた。真夜中にSOSを受信した列強の軍用機、戦艦は間髪をおかず、極東に急行したが間に合わず、生 存者はおろか遺留品をも何一つ発見できなかった。  それから、数十年をかけて日本列島消滅の原因を調査した結果が、各国政府部内に公文書として残ったが、開示に踏み切った国は一国もなかった。しかし、調査完了と同時にインターネット上に、その調査内容をアップロードした強者がいたのはいうまでもない。万人は、義務を重んじ、個人の自由および権利を尊重し、公文書を閲覧する権利を有する――そう信じて疑わない、極めて正義感の強い高級官僚が、各国政府部内に存在したかどうかは不明だ。  公文書の複写さえ怪しからんのにそれを勝手に持ちだし、あろうことかインターネット上で公開するなど言語道断との、極めて正統な非難が揚がったのは確かだが、いつの間にやらうやむやになってしまった。秘密主義から歓迎すべき結果が生まれたためしは滅多にないし、たとえ最終的に事態が悪化しようとも、万人に知らしめる方が政治体制は安泰だろう――権力者たちはそう考え、情報の漏洩には眼をつぶることにした。  各国々民ははじめのうちこそ恐怖に戦き、パニックを起こしたものの、やがて平静を取り戻した。だが合衆国内の日系アメリカ人の間には流石に絶望感や無力感が、ユックリだが浸透しトラウマとして各人の胸の中に滞留することになった。とりわけムサシ・イノウエと名乗る日系三世は、精神的に不安定になり、軍隊内での任務遂行に苦痛を感じはじめていた。  日本消滅は日本人の堕落ぶりに神が怒った結果か、それとも地球上の全人類へのみせしめのため、ルシファーが神に替って鉄槌を振り降ろした結果なのか。2度も核爆弾の洗礼を受けた日本人にそれだけでは足りず、 日本列島崩落という大災害が降りかかるとは、よほど籤運が悪かったとしかいいようがない。  はじめの中こそ怒りを抑え切れずにいたが、やがて可笑しみと哀しみとが絶えず胸中を去来するに到り、ムサシは己れの無力を恥じて慟哭した。日本は経済力では大国の仲間入りを果しながら、どうして怠惰や堕落の蔓延に気づかず、凋落、消滅の道を辿ったのか――それがムサシには不可解だった。  崩れかかった門には「メタ宇宙学」の看板が掛っているが、辺りにはまったく人の気配がなく、敷地内を奥に向って何処までも欝蒼とした森林が続いているのみだった。門を数十メートルほど入った真正面に噴水らしい設備があり、水の替わりにレーザ・ビームが乱舞し、それの織りなすホログラムが空間に万華鏡のような色模様を描きだしていた。光粒子の乱舞から発する鮮やかな色調を帯びた輝きは、二,三百メートルの高さにまで達し、森林の造り出す漆黒の闇と好対照をなしていた。  ホログラムは時々刻々変化し、多種多様な立体映像を空間に描きだしていた。それは恰も重量感を伴った実体であるかのように視え、ときには半透明の蜃気楼のようにも視えた。その千変万化する映像には催眠効果でも あるのか、視る者を魅きつけ、自己の存在感を喪失させる力があった。ムサシは光が形成する渦の中に没入し、身体が縮小して行く感覚を味わい、現実と虚構の錯綜する中でやがて忘我の境地に陥って原初の生命形態へと 縮小、さらに生命をも超えて宇宙に浮遊する超微粒子に変貌した。  潮の流れに従ってプランクトンのように漂流しながら自分が現在浮遊している海を、適度の無重力感と圧迫感から観念的に理解し、それがどのような存在かを体感した。巨大な生物が群れをなしてムサシの眼前を悠然と、そしてその後を小ぶりな生物がやはり群れをなし、敏捷な動作を繰り返しながら通りすぎて行った。  最初遭遇した生物を鯨、次の生物をイルカと知っているその理由をムサシ自身は知らなかった。頭上にゼラチン状のまるでUFOのような生物が、無数に浮遊しているのが視え、それがクラゲだと知った。鮮やかな色彩の大小様々な生物が四方八方に緩急自在に動きつつ移動していた。それらは鯨やイルカとは明らかに異なる魚類と称する生物だった。眼にするものはどれもこれも新鮮な驚異に満ちていた。  魚類がめまぐるしく縦横無尽に行き来する中を、数えきれない程の溺死しかかった人間が海底にむかって沈んで行くのを眼にしてムサシは恐れ戦いた。黒髪のアジア人種――彼らはムサシによく似た風貌、体格の持ち主 だった。一夜にして太平洋の藻屑となった日本列島と共に、暗く冷たい深海へと沈みゆく同族の姿をムサシは恐怖の眼差しで見送った。  頭上からあらゆる物体を透過してしまう眩い光が降り注いだ。ムサシは光の洪水の中に没入し、自己の存在を喪失しかけながら、無の世界に埋没する感覚と闘った。真っ暗な深海から無数の泡が頭上に輝く光の渦を目指すかのように浮き上がって行った。さらに、奈落の底から泡のあとを追うかのようにヒュドラのような、黒っぽく巨大な魔物が触手を四方に伸ばしながら浮上してきた。  魔物は奈落の底へ引き摺り込もうとするかのように複数の触手を延ばして襲いかかってきた。ヌラヌラした触手がムサシを掴まえ、締め付けると覆いかぶさってきた。ムサシの恐怖は頂点に達し、意識が薄らいで行くのを感じた。微かな意識の中でムサシは恐怖と怒りに我を忘れ、奈落の底へと落ちゆく感覚と格闘し足掻いた。深海へと落下して行く感覚が遠のき、悪夢の世界から抜け出すと共に、意識が戻ってくるのを知覚し、眼を開けて周囲を見渡した。  「此処は何処だ?」  「気がつかれたようだな。君は辛うじてではあるが、テストに合格した、おめでとう。我々の一員として心から歓迎する」  長身痩躯の老人が、深紅のゆったりしたガウンを身に纏い、ムサシの眼前に坐っていた。老人は椅子に座っているのではなく、いとも簡単に重力を制御し、空間に腰を据えているように視えた。  「テストに合格?」  ムサシは金属質のすべすべした光沢ある床に座り込み、半ば朦朧とした頭を両手で抱えるようにしながらかすれ声で老人に問いかけた。  「左様、ここに入ってこられる者は非常に少ない。大抵は発狂し、息絶える」老人の力強い声の響きは支配階級に属する人物であることを表わしていた。 十二  早朝から曇り空が重くのしかかり、吐息が口の周りに凍りつく鬱陶しい一日になりそうだった。大気温度は零下30℃以上だろうか、おんぼろシトローエンは、むつかる幼児のように不機嫌なエンジン音を立てた。だが寝ていたのでは事件は解決しない。時速150マイルなら、メンフィス経由で目的地のヒューストンまで6、7時間の旅程だ。陰気な空模様は不味い煙草を喫ったときに味わう胸につっかえた煙のようだ。だが、前夜の呑みすぎにもかかわらずヴィーゴの頭は逆に冴えわたっていた。  シトローエンを軽快にとばしながら、いまの空模様にピッタリの曲、キング・クリムゾンの『暗黒の世界』を再生した。ハイウエイはカチカチに凍てつき、天地は灰色一色に染まり、まるで荒廃にむかって突き進む人間の精神を暗示しているかのようだった。  メンフィスに到着後に街外れの古ぼけたドラッグ・ストアで、サンドイッチとビールそれに地方紙を買い、運転しながらサンドイッチを頬張りビールを呑んだ。新聞に眼を通したが格別に変った事件は載っていなかった。シトローエンのエンジンが焼き切れるぎりぎりまで、エンジンの回転を上げてヒューストンを目指した。順調なら5時間たらずで着くはずだ。目的地まで残り1時間ほどの辺りで、霧が立ち籠め、ライトを點けなくてはならなくなった。  零下30℃にもなるのに霧とは妙ではないか。ヴィーゴは不吉な予感がして車を止め、トランクからロケット・ベルトを引き摺りだした。このマシンは緊急時に役立つに違いない。燃料に特殊な推進剤を使用しているから、ヴィーゴ自身が現在の寒さに耐え得るなら、優に数時間は飛行可能なはずだった。ヴィーゴはロケット・ベルトを装着して車に乗り込むとエンジン全開で跳ばした。  濃密な霧が辺りに垂れ込め、運転は困難を極めた。灼熱の陽光を浴びているかのように車内の温度が上昇しはじめた。ヴィーゴの体内で頻りに警報が鳴り、シトローエンが突然閃光に包まれて燃え上った。その瞬間、ヴィ ーゴは宙を飛び、霧深い森の中に降り立った。ヴィーゴは斜め上空に発光体を発見し、体内に激しい怒りが膨れ上るのを覚えて武者震いした。  今度こそ手加減せず地獄に叩き落としてやる。頭上の発光体に照準を合わせ、強力な念波を放射した。念波が大気中のエネルギーを吸収、増幅して発光体を寸断した。その直後に猛烈な火焔が天空高く噴きだし、発光体は大音響とともに忽ち消滅した。それまで立ち籠めていた霧が掻き消え、辺りが明るくなった。あの発光体がなんであったにしろ、車から脱出するのがもう少し遅かったら、電子レンジの中のチキンのように、真っ黒焦げになっていたかも知れない。幸いにも身体に異常はなくロケット・ベルトも正常に作動した。  ヒューストンに向けて飛び立ち、森林地帯を越えて広大な砂漠地帯を眼下に視た。寒気が体内にじわじわ浸透しはじめて意識が薄れゆく中、幼少期に雪中でよく経験した空中浮揚を味わった。ヴィーゴよしっかりしろ―― それは遠くで叫んでいるかのように聴こえるヴィーゴ自身の声だった。今眠ってしまったらどうなる?おまえの骨は砂漠の砂に揉まれ、やがて粒子になって果てるだけだぞ。それでも構わんのか――はっとして目醒めると地面が眼前に迫っていた。ヴィーゴは危ういところで体勢を立て直すと上昇した。  天空にむかって《聳|そそ》り立つヒューストンの発射台に近づくにしたがって、砂煙を上げながらジープが一台やってくるのが視界に入ってきた。管制室内部では大騒ぎの最中なのだろう。なにしろ侵入方向を無視した軍用のロケット・ベルトが、中年のしがない私立探偵を乗せて降りてきたのだから。  ヴィーゴがジープの鼻先に荒っぽい着地をした直後、二人の保安要員が車から降りて旧式な拳銃を構えながら近づいてきた。大男と小男、まるでアボット、コステロのカリカチュアだ。小男が噛みタバコを地面に吐きだし、低く太い声を喉の奥から搾り出した。初めポーランド訛りで早口に何かを言い、続いて不明瞭ながら流暢な英語で話しかけてきた。  「不法侵入罪で逮捕する」  ヴィーゴがホルスターから、コルト45・マグナムを抜くのを看て、大男は巨大な拳銃に肝を潰してしまったらしい――寒いにもかかわらず額に汗を掻き、大きな身体を揺さ振りながらキィキィ声で喚いた。ポーランド人は首を左右に振りながら肩をすくめ、溜息をついて拳銃をホルスターに戻した。ヴィーゴも相手の銃に弾が入っていないと看て取り、マグナムをホルスターに戻した。  「拘束してみたところで何の益にもなるまい。野暮はいわずにベルンハルトって奴に会わせろ」  「ああ、そっちがなにもしないならな。その前に一応チェックだけはさせて貰うぜ」  大男が二人の間に割り込んでバツの悪そうな表情を視せて、またもやキィキィ声でまくし立てた。ヴィーゴがよく注意して聴くと、男はロシア語風のロンドン下街英語で話していた。  「その拳銃こっちいよこせ、おい」  「相棒は図体の大きい割には敏捷なんだ。面倒にならない中に拳銃を渡せ」  ポーランド人がうしろに下がり、ヴィーゴとロシア人が睨み合う恰好になった。デブはヴィーゴよりも一回り大きかったが腕力では互格に近い――しかし、格闘になったら何方もボロ雑巾のようになりそうだった。馬鹿な真似を止めて拳銃を渡すのが賢明だろう。ヴィーゴが無言で拳銃を突き出すのを視て、大男はニヤつきながら受け取り、ジープの後部座席に放り込んだ。  ヴィーゴが上着の内ポケットから身分証を取り出す様子を看て、何を誤解したかアボット、コステロは同時に血相を変えて身構えた。大男、小男のお笑いコンビには観客を笑わせる余裕がないらしい。両人の反応は精密に設計されたロボットを想わせ、一方の反応に正確に他方が呼応しているようだった。  「拳銃ならさっきくれてやったし、ナイフは携帯していない。そらっ、身分証だ受け取れ」  ヴィーゴはそういって身分証をロシア人の顔めがけて投げた。カメレオンが獲物を捕らえるように、大男は右手を素早く動かして身分証を鷲掴みにした。ヴィーゴが大声で笑うのにつられてアボット、コステロも笑った。三人の笑い声は蜥蜴の鳴き声のように、乾燥した大気中に虚ろに響きながら消えて行った。  ロシア人は身分証を矯めつ眇めつ仔細に吟味し太陽に翳しさえした。一通り荒探しが終り、偽物かどうかを確かめて満足したか、相棒に身分証を手渡した。ポーランド人は身分証をジロリと一瞥し、ヴィーゴの方にスローモーションのようにユックリ顔を上げた。  「やれやれ、私立探偵さんのおでましか。しかもカナダのハーストからとはな」  「ベルンハルトには何処に行ったら会えるんだ」  「ああ、案内するからジープに乗れ」  ヴィーゴはロケット・ベルトを肩から外し後部席に乗り込んだ。手が金属に触れたのを視ると、それは大男が放り込んだコルト45・マグナムだった。なに喰わぬ顔で銃を引き寄せ、前席の二人に気づかれないようにそーっとホルスターに戻した。  ロシア人が運転し、ポーランド人は助手席に乗った。ジープは砂埃を上げて砂漠を突っ切り、視る者を圧倒してしまう威圧感漂う地下壕入口前で停止した。ポーランド人が入口の横にあるカプセル内の電話で何事か小声で話し、送受話器をフックに戻した。数分後に分厚く巨大な岩戸が音もなく開き、奥にむかって延びるトンネルが眼前に現れた。奈落にまで通じていそうな岩盤剥きだしの地下道だ。  小男がリニアカーの運転席に乗り込み、面白くも無さそうに助手席を指し示した。相棒の大男は入口で看張りでもするのか、リニアカーはロシア人を置き去りにして走行しはじめた。顔に当る風の強さから推察するに乗物の速度は120マイルを超えている模様だ。地下道は際限もなく延び、時間は永遠の未来に向って流れ続けた。リニアカーが走りはじめてからの実際の経過時間は、十五、六分にすぎないはずなのだが、ヴィーゴには長い時間が経過したように想えた。  時間が未来にむかって流れるのに反し、リニアカーの速度は急速に落ちて行った。ヴィーゴの体内で、何かの異常を報せるかのように警報が鳴り続けた。膝の上に滴が落ち、生暖い感蝕が伝わってきた。反射的に指に擦 り付けて嗅いでみると血の臭いがした。立て続けに滴がしたたり落ちるのを視、それが自身の鼻血なのに気づいた。リニアカーはいつの間にか止っていた。  ポーランド人が運転席から降りて随いてくるように指示した。二人が地下道の薄暗い中を枝道に入ると、周囲は霧が張ってでもいるかのように鈍い光を放っていた。小男が振り向きざまヴィーゴの鳩尾に一撃を喰らわせた。  背骨に腹部がくっつきそうなほどの痛撃に、ヴィーゴは身体を二つ折りにしてその場に倒れると、酸素の希薄な高山にでも登ったかのように喘いだ。  「おい、立ちな相棒。お偉方の命令で気の毒だが生かしてはおけないのだ」相手が身構えながらいった。  気の毒なのはお互いさまってやつ――相手を倒さなければ、こっちの身が危なくなるだけだ。ヴィーゴが隙を狙って立ち上りざま相手の股間を蹴り上げた。一瞬後、形勢が逆転した。屈んだ相手の頭を一方の手で抑えつ け、他方の手に握った拳銃の台尻で首を想いっ切り打ち据えた。首が胴体から離れてすっ跳び、猛烈な火花が飛び散って、辺りを真昼のように明るく照しだした。何者かが人間そっくりに造り上げたロボットか、有機体と機械から成るハイブリッド型アンドロイドらしい。  ひょっとすると黒服の連中や小人供さえこのての人間もどきかも知れない。ヴィーゴは地下道の奥に向って走った。何処に通じているやらまったく見当つかないがとにかく進むしかなかった。やがて、地下道はカーヴを描き二方向に別れた。躊躇うことなく左手に突き進むと、次のカーヴで地下道は三方向に別れた。左手を選択して前進した先で、通路はさらに四方向に別れているのに気づき、それ以上前進するのを止めた。  通路は網の目のように張り巡らされているのだろう。だとしたら、いくら前進しても徒労に終るばかりか、決してこの地下道からは出られまい。もっと早くに気づくべきだった。視力を千倍に上げて周囲の透視を試みた。頭上の内部にボンヤリ視える何かに、焦点を絞って感度をさらに上げた。楕円体らしい物体が視え、計器類や受像機らしいものが浮かび上がってきた。  それは管制室か乗物の内部、宇宙空間を航行する操縦室のようだった。両手を頭上に突きだして跳躍したがそこに壁はなく、ヴィーゴの身体はあるはずの壁を突き抜け、楕円体の内部に転げ込んだ。内部に複数の生命 体の忍び笑いが反響したのを聴き、ヴィーゴは自分がとんだ道化師なのを知った。打つけた腰をさすりながら、立ち上って周囲の壁に毒づいた。  「こんチクショー、隠れてないで正体をあらわせ」  「ようこそヴィーゴ君、よくきてくれた。我々は条件付きで君を歓迎する」  周囲にくすくす笑いが反響した。気に喰わない相手だが、如何にせん何処にいるのか分らない。ヴィーゴは腹を立て、壁を蹴跳ばしてどなった。  「これはこれはヴィーゴ君、腹を立てては戦はできぬかな」  「それをいうなら、腹が減っては戦はできぬだ。ところで、ルイスは何処にいる?知らないとはいわせない」  「この乗物は、現在ある衛星に向っている」  「土星最大の衛星タイタンだろ」  「いかにも、君はなかなか察しがよい」  「タイタンなら行ったことがある。どうして異星人諸君は《土竜|もぐら》のように地中に潜っているんだ」  「なぜ諸君等は《虫螻|むしけら》のように地表を這いずり回っているんだね」  「なるほど問には問を以って応じようって訳かな。押し問答なんかしてる場合ではないだろ」  「愚問には愚問で応えるしかあるまい。地球人諸君は愚か者だ。我々の警告を無視し、地球を荒廃に追いやった元凶だからな」  「まあそれには一理ある。だが、元凶は地球に住む我々だけではあるまい。異星からやってきた諸君等だってこれまでに失策を犯してきただろう。それとも身に憶えはないとでも」  「白を切るつもりはないが、少なくとも太陽系を汚染しないように注意はしてきた。的外れだが鋭い指摘だ。参照リストに加えておくとしよう」  「よかろう」  宇宙船は衛星または惑星に接近していた。以前に脳内でシミュレートした映像の中に、それらしい衛星が出てきたが、眼前の星がタイタンである確証はない。なぜなら特徴的なリングを持つ、太陽系で二番目に大きい惑星 が付近には見当たらないからだ。しかも、水星はタイタンとほぼ同じ大きさだ。ならば、眼前に視える星は水星かも知れない。奴等はまたしても一杯喰わせるつもりでいるのだろうか。ヴィーゴは漠然とした疑問を胸の奥に押し込めた。  どうやら、ヴィーゴが何を考えているのか、連中は気づいているらしい。惑星の地下道に入った宇宙船は、闇の中をかなり進んだのちに音もなく止った。少くともヴィーゴは止ったように想い、周囲を仔細に見渡した。そのとき、誰かが傍にいる気配がした。ルイス、そこにいるのはルイス・ウオータフォドか?  とつぜん辺りが明るくなって眼が眩んだ。ヴィーゴの方を凝視している、ルイスらしい人物の映像が頭脳に直接流入してきた。この宇宙船に乗ったときから実像、虚像の違いを知る《術|すべ》を、さらには時間に対する観念、自身の存在感すら喪失していた。ヴィーゴにとって、眼前の人物がルイスである確信はなく、本人を特定できる証拠は何もなかった。  男は銀髪を掻き毟り、頭を激しく横に振って、要請を拒むかのような拒絶の意思を示した。何もいわないのにもかかわらず、相手には此方の要件が分っているのだろう。ヴィーゴの体内で警報が鳴り、偽の映像ではないかと告げた。警報に疑念が重なり、ヴィーゴの思考を掻き乱した。どうでも好い、ルイスはルイスで勝手にするがいい。疲労感が濁流のように襲ってきて、何もかも忘れてしまいたくなり、ベッドでぐっすり眠りたい欲求が襲ってきた。  気分を浮きうきさせる晴れ渡った五月の陽気は、花から花へと飛び回って蜜を集める虻や蜂にとって絶好の収穫期だ。ヴィーゴは甘ったるい花の香りを含んだ新鮮な空気を、胸いっぱいに吸い込み、身体全体に漲る幸福 感を満喫した。遠くから子供達のはしゃぐ賑やかな喊声が聴こえてきた。  妻アンジェラは中年に差しかかってはいたものの、まだ20代で通るほどに初々しい。本人は腰周りに脂肪が付きはじめたのを気にしてはいたが、ヴィーゴの眼にはこれまでよりも一層魅力的に映った。眩しい輝きを放つ金髪に神秘的な緑色の眼、小柄ながら恰好の好い肢体に加え、ハスキーな声がアンジェラを一際魅力的な女に魅せていた。  空中浮揚をするアンジェラの優美な姿に、ヴィーゴはいつものことながら惚れ惚れしてしまった。あんまり見凝めていて、危うく巨大な岩石に激突しそうになったこともある。  下方から妻アンジェラの声が微風に乗って流れてきた。「そんな所に浮いていないで、降りてきてチビちゃん達を視ててよ。わたし忙しいから手が離せないの」  子供らは母親がチビちゃんなどと呼んだことに、不満の意を表するべく一斉に鼻を鳴らし、手をバタつかせ、足を踏み鳴らした。その姿は白鳥どころかアヒルが尻を振りながら騒々しく鳴き叫び、不法に侵入しようとする他の鳥に対して抗議をしているかのようだった。  ヴィーゴは空中浮揚をしながら、アンジェラの近くに着地しようとしたが、子供達の愛くるしくも滑稽な仕種に噴きだし、途中で木の枝に足を引っ掛けて叢に転げ落ちた。子供達が父親の失敗を視てはしゃいだ。アンジェラが叱ったのか、大人しくなりはしたが、転げ落ちる様がよほど可笑しかったか、クスクス笑いがいつまでも続いた。その笑い声が小さくなるにつれ、ヴィーゴを呼ぶアンジェラの声が大きくなった。  「ヴィーゴ、あなた大丈夫?」  ヴィーゴは車の中に横たわっている自分に気づくとともに、女が二人、心配そうに視おろしているのに愕いた。一方はヴォルティモアのモーテルで一夜を共にした女、他方はナッシュヴィルのホテルで会った女だ。燃えるシトローエンから脱けだしたのち、どうなったのかをヴィーゴは憶いだせなかった。  「此処は何処だ、いま何時ごろか」我ながら間抜けな質問だな……胸の中でそう呟きながら、ヴィーゴが女二人を見上げると褐色の方が応えた。  「ヒューストンから約170マイル離れた森の中よ。ハイウエイから少し入ったとこ」  紅髪の女があとを引き継いだ。「わたしとエミリィは、あなたの後方を車数台分の車間距離を取って走っていたの。すると、あなたの車がいきなりガード・レールを突き破って飛びだしたのが視えたわ。わたし達、びっくりしてその破れたガード・レールから道路を抜け、あなたの車を追ったのよ。とにかく愕いたわね、狂ったのかと想ったわ」  なぜ二人が尾行していたのか、ヴィーゴは気掛りだった。「どうして尾行なんかしていたんだ」二人はしばらく躊躇っていたが、想い切ったように話しはじめた。  「わたし達、実はカナダ政府の依頼で密かにあなたの後を追っていたの。あなた、合衆国内務省の捜査官を酷く怒らせたの憶えてる?マグヌッソンにホイットカムだったかしら。その二人がカナダ政府の直轄捜査機関に告 げ口したらしいのよ。ヴィーゴなる探偵が無闇に動き回り、事件を混乱させて捜査の邪魔をしてるとか」  ヌードセンにゴールドスタインだ。女がなぜ名前を間違えたのか分らないが、憶え違いは誰にでもあることだ。名前の違いなんて今更どうでもよい。それよりも本人のいないのを幸い、悪口をいったり告げ口するあいつらのやり口に腹が立つ。ヴィーゴは腕時計で時刻を確かめようとした。だが、腕時計は手首に巻き付いたまま無残にも壊れていた。  「気を失っていたのはどの位だろうかな。知らんか」  「そうねえ、わたし達があなたを、シトローエンから助けだしてから20分は経っていそうよ」  「車のフロント部分はぺしゃんこになっていたわ。でもあなたとてもタフなのね。どこににも怪我がないなんて奇跡だわ」  「ドアを開けるのは大変だったわよ、あなたを引き摺り出すのがやっと」  「車の奴め燃えてしまったか、やれやれだな」  「もの凄い大音響だったわね。車はたちまち火ダルマよ、確かめてみる?」  ヴィーゴは愛車の無残な姿を視る気にはならなかった。「止めておこう、ところで君等はこれからどうするんだ」  「あなた次第よ、ヒューストンに引き返えす?」  ヴィーゴはすっかり意気阻喪していた。秘密のベールは厚く、突破するべき壁は堅固だ。しかも、たとえ壁を越えたにしても真相が掴める保証はなかった。何処へ行くべきか、今のヴィーゴにはまるで考えつかなかった。  「ワシントンに行ってくれないか、運転は任せる。私はしばらく眠らせて貰うよ」二人の顔にホッとした表情が現われたようだが、想いすごしかも知れない。  惰眠を貪るミイラが奇妙な刺激でも受けたかのように、ヴィーゴの意識は微かな光を求め、暗い深淵からそろそろ這い登りはじめていた。緩慢な動きながら、意識は針の頭ほどに視えた弱い光を確実に引き寄せた。光の点が徐々に明度を増すとともに昏睡の淵から波打際へ、さらに覚醒の陸上へと辿り着いた。四肢の末端の神経に血液が行き亙り、連鎖反応を起こして意識が蘇ってきた。  車はハイウエイの左側ぎりぎりの位置に停止していた。無理な姿勢で寝ていた所為だろうか、ヴィーゴは手足に痺れを感じ、不快感が身体の端々から中心に向ってじわじわ浸透してくるのを感じた。痛痒の入り混った妙な気分に凝っと堪えながら、アンジェラとエミリィの動きを眼の端に捉えた。二人の動作は、いまヴィーゴが感じている不快感以上に違和感を催させた。  股間を大きく広げて相手の体内に互いに手を入れ、なにかを引っ張りだしているのだ。危うく愕きの声を上げそうになり、慌てて口を手でふさいだ。二人が手にしているものはシリンダ状の容器のようだ。この二人は精巧にできたロボットなのだ。人名をいい間違えたり人間らしい振るまいを視せはするが、所詮はロボット、つまらないことで馬脚を露してしまった。大仰な欠伸を漏らし、起き上ろうとしたときには眼前から容器は消えていた。それと同時にヴィーゴの頭の中に閃光が走った。  「地球で採取した体液を、おまえらは何処へ持って行こうってんだ」  二人は、ゆっくりヴィーゴの方に強張った顔を向け、切れ長な口から音声を発した。その声は人間らしい響きを失い、ざらついた金属音に変っていた。  「チキュウノシュゾクヲソンゾクサセルタメアルワクセイニモッテユクノダ」  そのゾッとする金属を引っ掛くような声は、ヴィーゴに身の毛もよだつ嫌悪感とも恐怖感とも、表現しがたい強烈な違和感を催させた。振り向いて笑いかけた女達の表情には血の通った生命の温もりはなかった。人工的な冷たく凍りついた顔面の痙攣であり、死の世界に響く干からびた死人の口から出る嘲笑だった。ヴィーゴは車のドアを力まかせに開けて路上に飛びだし、行く先を定めることもなく、死に物狂いで駆けだした。  うしろから嘲り笑う声が追い駆けてきた。その余韻は何処までも獲物を追う猟犬の遠吠えのように月明かりの虚空に響き、途切れることなく何時までも谺した。ヴィーゴは葉擦れの音や、樹木の影に怯える子供のように駆け続けた。どれだけの間、凍てつく高原を走っていたろうか、夜は白々と明けていた。足下に半ば凍りかけた滝が視え、右手に湖、さらに左手にも湖が視える。空気は冷たく沈み、ヴィーゴの脚は鉛のように重かった。  実在感を失ない、名前を喪失し、ただ帰巣本能の命ずるままにひたすら前進した。太陽が沈んで月が昇り、そして夜明けが訪れた。依然として冷たく沈む大気の中を、重い足を引摺るようにして歩いて行った。脚には感覚がなく、動いているのか止っているのかさえ分らなかった。自分の名前を憶いだせず、歩き続ける理由が分らず、本能だけで行動した。  かつてヴィーゴと呼ばれた男の眼前には大氷原が拡っていた。月が淡い光を地上に投げかけ、知性ある生物ででもあるかのように視おろしていた。月が男に命じた――「歩け、その氷原を歩き続けるのだ。私にはおまえ に命令する権利がある。何故ならおまえを造ったのはこの私だからな。それなのにおまえは私に逆い、地球に追放の身となったのだ。おまえは愚かな地球人に混って生きて行かねばならない。そうすることでしか反逆罪の汚名を拭い去ることはできない。苦しめ、もっと苦しんで己れの罪を知るがよい」  罪とは一体なんだ?感覚の麻痺している男には知りようがなかった。頭上に視える月が神だとしたところでそれがどうだというのか。地球に住む人間がかつて月で罪を犯し、追放の憂き目に遭った罪人だとしてそれが何だ。 十三  世界の屋根が連なるヒマラヤ山系の頂点チョモランマに、遠宇宙探査網の本拠地ができてから二世紀近く経過していた。そもそも、この探査網はNORADを支援し、地球軌道上にある無数の浮遊物体を管理するのが目 的で設立に到った施設で、当初、遠宇宙探査は計画の埓外にあった。  伍代は極寒の山頂で身に浸みる寒さに顫えながら、絶景であろう晴天下のトゥングースを探した。あいにく時期が悪かったか、激しい吹雪に息をするのもやっとで、トゥングースの方角すら見極めるのは困難だった。大抵のシベリア人がそうであったように、20世紀ロシアを代表する科学者カザンツェフもまた、凍え吹きすさぶ極北の荒寥とした景色に魅力を感じるロシア人の一人だった。その荒寥たる凍土から成る大地のイメージが、カザンツェフのトゥングース大爆発にまつわる理論構築の根幹を形成するに到った。  火星に拠点を設営した銀河系外の異星人は、シベリア北部が火星の表面に酷似していることから、ツンドラ地帯を目指して飛来したという。しかし何のために?そいつは異星人にでも訊いてくれ。永遠に解けない謎のまま氷原のなかに埋もれ、科学者にさえ明確に答えられはしないのだ。  伍代は巨大なアンテナを内蔵するレーダー・ドームの下を、北から南の方に回り込んで冷たい風を避けた。吸い込む空気は痛いほど胸に浸みたが、ある種の心地好さを感じた。伍代はいまにも結晶化してしまいそうな、真っ白い吐息の向こう側に、小柄で東洋風な男の立っているのが透けて視えるのに気づいた。宇宙工学を専攻する支那系アルメニア人、ヤン博士だ。  「いつきた?ジャーナリズム業界は楽しいかね」  十年以上前に、会議の席上で度々論戦した相手、ヤンが伍代に握手を求めながらそういった。当時は大変な野心家だった二人だが、今では一方は並ぶ者のない大科学者、他方はしがないフリーの科学ジャーナリストだ った。しかし彼らは、そんなことなど少しも気にしなかった。  「このところ学会に姿を視せないからどうしたのかと想っていたんだ。仄聞するところ、ジャーナリズム界の方に転身したとか」  「ちょっと気紛れを起こしたまで、二流の科学者にとっては潮時だったのさ。わたしの理論など今では誰も顧みる者などいないし、そんなことで胸が痛みはしない。わたしには生れつき放浪癖があったということだ」  研究室内はさほど広くもなく、旧式のコンピュータが数台、オーディオ・セットそれに専門書が数十冊あるきりだった。聊か時代がかった一見豪華なソファ以外、これといって贅沢なものは何もなかった。室温が0度に保たれているのが唯一の贅沢なのだろう。なにしろ外気は摂氏マイナス70度を遥かに超えているのだから、室内の暖房には膨大なエネルギーを消費しているに違いない。地球の最高峰上で生きるにはそれなりに覚悟を要することだろう。  キッチンでなにやらゴソゴソやっていたアルメニア人は、場違いなほど華奢な紅茶茶碗に、芳醇な香りのする紅茶をたっぷり注いで持ってきた。冷え切った身体に紅茶の温もりが行きわたり、喩えようもない満足感と活力が漲ってきた。ヤンはパイプ煙草をくゆらせ、伍代は紙巻き煙草を喫いながら、夜の更けるのも忘れて話し込んだ。  「君の理論は細部に多少の矛盾がありながら概要においては正しかった。此処にはいまだに君の途方もない理論を支持する過激なシンパが何人かいるんだ」  ヤンがいい終えると同時に二人は腹を抱えて笑い、烟を喉につまらせて激しく咳き込んだ。室内には烟が充満していたが、二人は別段気にも止めなかった。ヤンはパイプに刻みを詰め、マッチで火を點けるとふたたび話 しはじめた。  「そのシンパのリーダーがこの私なんだよ」  「支持して貰えるのは大変嬉しいんだが、自身の理論を疎かにしないよう願いたいものだな。なにしろ、わたしの理論ときたら、到る処から綻びはじめていた。壁にぶち当ったと気づいたときには、さすが堅固を誇ったわが野心も音をたてて崩壊した。だからって尻に帆をかけスタコラ、逃げだしたなんて想わないで欲しいんだ」意気軒昂な処を視せるかのように、伍代は勢いよく烟を吐きだした。  「ところで君が此処へきたのには何か理由があるのだろ?知ってることならなんなりと話すが、余り期待しないで貰いたい」  「信憑性は兎も角、膨大な量の歴史的記録によれば、1908年、シベリアのトゥングースで大爆発があった。当時、爆発原因として隕石、彗星、反物質、ミニ・ブラックホール、果ては地球外宇宙船等々さまざまな説が登場した。だが何れも決定論にはならなかった。最も有望だったのは地球外宇宙船説だが、それとて飽くまで仮説にすぎない。そこで私の質問―― 1.宇宙船は何処から飛来したのか、2.飛来目的は、3.地球のような辺境惑星にやってきた目的は、4.航行のための動力および動力源は、5.銀河系外から飛来したと仮定し、如何にして時空の壁を突破できたか――以上五項目だ」  パイプをくゆらせ、しばらく沈思黙考の末、ヤンはゆっくり話しはじめた。  「今となってはそれらの疑問に、明確、適切な回答をだせる科学者など一人もいまい。推測を重ね、色々な仮説に到達するのは《容易|たやす》いが、実証できない限り憶測の域はでない。私に言えるのはUFOの出現と霊現象の間には、何らかの因果関係があるに違いないということだけだ。UFOの問題は意識と物質化の現象に落着くだろう。それこそが天体物理学者時代に追及していた君の、理論の根幹をなすものだったはずだ」  実証不可能なことに首を突っ込んではならない――それが科学者間の不文律だった。その認識は昔も今も変らない。多才かつ逞しい想像力の持ち主カザンツェフゆえに、実証不可能な現象の探究ができたのだ。既存の 科学が解明不能と断定したら、自然に氷解するまで辛抱強く待つしかないのだろうか。  「トゥングースにはどのように行ったら辿り着けそうかな。謎の解明は無理にしろ、大爆発の痕跡を観察できさえすれば、判明することは多いはずだ。あの五百年前のトゥングース事件は、今でも新鮮なニュースになり得るだろう」  「残念ながら、トゥングース周辺のツンドラ地帯には如何なる方法でも辿り着けない。一級立ち入り禁止区域指定に決まったから、たとえ政府高官でも不可能だ」  伍代は口から危うく喫いかけの煙草を落しそうになった。  「そんな無茶な。いつなんだ、まったく知らなかった」  ヤンは不審そうな面持ちで、パイプを咥え直すと火を點けた。  「衛星中継での放送から一週間になるんだが、とにかく五百年前の事件程ではない」  「一体、トゥングースで何が起こっているんだ?」  「爆発地点で、機密にしなければならない事態が発生したらしい」ヤンはそういいながら肩をすくめ、大袈裟に首を横に振った。  夜明けが訪れ、橙色に輝く光がヒマラヤ山系の稜線を這いながら天空に向って薄れて行くと同時に、鮮やかな濃紺色がさらにその上に拡がって行った。吹雪のおさまった静寂の世界は、やがて光の満ちた世界へと変貌 し、新しい一日が訪れた。だが今の伍代にはそんなことはどうでもよかった。  一般の人々がまったく与り知らない動きが何処かで密かにに進行しつつある。一夜を山頂の建物内で明した伍代は、大きな伸びをして煙草に火を點け、深呼吸するかのように喫い込んだ。すっきりした頭に心地好い酩酊 感が襲ってくる。  「そろそろ帰ろうかと想う。お邪魔次いでに電話を借りたい」  ヤンが無言で指さす方に骨董品かと見紛う旧式な電話器があった。煙草を口に咥えながら受話器を取り、アイリーンのコードを入力した。先方を呼び出す信号音が聴こえてきたがアイリーンからの応答はなかった。何処に行ったらアイリーンに会えるか、いまの伍代にはおおかた見当がついた。伍代はヤンに別れを告げて考え事をしながら、周囲に注意を払いもせず、エレヴェータに乗り込んだ。誰かが乗り込んできたように想い、操作《釦|ボタン》を押しながらゴンドラ内を見渡した。だが、伍代を除いて搭乗者は一人もいないのに気づき、一瞬間だが自分がいま何処で何をしようとしているのか分からなくなった。 十四  黄金色の光を放っていた月はいつの間にか沈み、東の空が徐々に明るんできた。橙色の光が地平線に沿って何処までも伸び拡がり、さらに上層部を紺色の光が占めはじめた。自己認識を喪失していた男は氷原を越えて 街の入り口に辿り着き、そのとき記憶の奥に仄かな灯りが點るのに気づいた。眼前に何時もの見慣れた街角に聳える建物が……そして裏手を走る路地が拡がっているのを一瞬の間に俯瞰した。  男の歩みは街角から街角さらに路地から路地へと速まり、遂に馴染みの角を曲った途端、ほとんど駆足になっていた。煤けた五階建ての建物に入って階段を一気に駆け上がり、ドアの前で踏み留まった。「V・オストロスキ私立探偵事務所」の表示を眼にしたヴィーゴは、ドアを開けて中に入り、さらに奥の部屋に続くドアを開けた。  机の抽斗からウイスキー瓶を取り出して、蓋を開けると貪るように呑んだ。ウイスキーが体中を一周し終ると同時に、これまでの体験を万華鏡を視るように憶いだした。ウオータフォド夫人に電話をかけたが先方から応答はなく、ヴィーゴの耳許で呼出し音が虚ろに響いただけだった。ヴィーゴは夫人の失踪記事がないかと、新聞受けに溜っていた新聞を片っぱしから視て行った。  5日前の新聞にそれらしい記事は視つかったが、夫人の失踪の事実を伝えているだけ、ルイスの場合同様なんの手掛りも掴めない曖昧表現に終始していた。これで4千500ドルの手数料はフィになったが、しかし同時に前金の500ドルを返えすこともできなくなった。  ヴィーゴは自問自答する――ウオータフォド夫妻は何処へ消えてしまったのか。これまでに得た微々たる成果を前にして、それでも自信をもっていえるとするなら、二人は地球とは異質の世界に旅立ったということだけだ。その異世界でルイスとキャサリンは、はじめの中こそ戸惑うだろうが、やがて環境に適応し子孫を残すに違いない。ヴィーゴはアルゴンキン・ポスト紙に電話をしてみた。話し方に妙な癖のあるシモーヌの同僚なる女性記者が電話口に出た。  「私立探偵のヴィゴさーん?わたーしシモヌの同僚ヴァネサーです。シモヌの事故死はとてーもショックーでした」  「分ります、わたしも同様の気持です。仕事が終ってからで結構ですから会ってくれませんか……差し支えなければ」  「ええ、それはー構いませんーわ。何処がーよろしいかしーら」  「そうですね、会員制の珈琲店をご存知ですか」  「知てーます、わたしぃ会員ですから。其処にしーますか」  「その珈琲店を視おろせる丘が一箇所あるのですが、知っておられるかどうか。できれば其処でお会いしたいんですがね」  「道順を教えていただけれーばと想います。もしぃ迷ったらごー連絡しますわ」  「そうですか、ではわたしの電話番号をお教えします」  その丘からは会員制の珈琲店を視おろせるばかりかUFO多発地帯をも見渡せた。電話の相手はアンジェラかエミリィに違いない。巧みに声を変え、話し方を変えてはいるが、電話に出たのは二人の中の何方かだ。よくもヴァネッサなどといった白々しい名前を名乗ったものだ。  新聞社に繋がるべきヴィーゴの電話は、交換機を通ることなしに直接繋がったのだろう。いきなりシモーヌの同僚が電話口に出てくるなんてあまりにもできすぎている。ヴィーゴの事務所に盗聴器を仕掛けてあるか、それともテレパシーを使って思考を盗み読みしているのだろう。連中がヴィーゴの潜在能力を見縊っているなら、ヴィーゴにとっては好都合この上ない。シモーヌの復讐をするときがやってきた――機は熟したのだ。  ヴィーゴはモータサイクルをガレージから出しきて、エンジンを始動、裏通りで走行テストをしてみた。はじめは掛かりの悪かったエンジンだが、一旦掛かってしまうと調子よくなった。乗心地は贅沢いわなければ我慢できる程度だ。久し振りのモータサイクルを前にして、柄にもなく若い頃を憶いだして興奮した。不具合箇所を目視確認、整備して燃料計を視た。丘の上まで走るには無理だと分り、ガソリンを扱っている店に電話し、給油して貰うことにした。  給油車がやってくる間、すこし時間があったので、ヘルメットの汚れを落してピカピカに磨き上げた。ヴィーゴと同年代の顔見知り――かつてのモータサイクル狂、モストウが給油車を運転してやってきた。モストウは車から降りてヴィーゴに挨拶し、給油をはじめながら如何にも感じ入った表情で頷いた。  「こんな見事なモータサイクルを視たのはしばらく振りだな。このタイプは合衆国中探したってあるかどうか」  「ノートン社のものの中でもこのタイプには滅多にお目に掛かれないはずだ」  「ところでシトローエンは?」  「ああ、大破してしまったので乗り捨てた。残念だが、もうガソリン車はこのモータサイクルで最後だな。次からは電気自動車にするしかない。それまではこのノートンを乗り回すつもりだ」  モストウは給油車に乗り込み、ヴィーゴに軽く頷いて駐車場から出て行った。ヴィーゴはモストウが出て行くのを見送り、モータサイクルに跨るとエンジンを始動し、乗心地を確かめるべく舗装の悪い路上で走行させてみた。スプリングの効きが少し弱いようだが、急ぎとあっては無視するしかない。ヴィーゴはエンジンを半開から徐々に加速して行きながら丘の頂上を目指した。  頂上へむかう途中にヘアピン・カーヴがあるが、上り坂なのでさしたる危険はないはずだった。峠越えをした十代の頃を憶いだしながら気にすることなく軽快に跳ばした。1時間たらずで丘の頂上に到着、煙草を喫いながら眼下に視える繁華街を眼で辿って行った。特徴の際立った建物だけに、夕闇の中でもなんなくその会員制珈琲店は視つかった。太陽が沈みはじめるにしたがって、建物は太陽を背にして周りの建物から影絵のように浮上してきた。  ヴィーゴは喫煙し景色を視ながら無念無想で静かに待った。周囲にバリアを張り巡らして外部に他愛ない思考波を放ち、連中に本心を読み取らせないようにするのだ。一服、二服、ゆっくり煙草を喫いながら、切れたらまた一本取りだして火を點ける。ヴィーゴは背後から金属臭が漂ってきたのに気づいて振り返えった。眼前に紅髪のアンジェラと褐色肌のエミリィが、夕闇の中でもはっきり分かる、ひきつった表情を露わにして立っていた。  「おまえらは罪もないシモーヌを汚い手を使って殺した。ロボットにこんなことをいったところで始まるまいが罪は重いぞ」  「あらそう探偵さん、そんなに《熱|いき》り立ってはあたし達困るわ。それともまたお相手してくださる?」  「つまらん冗談はよせ、ロボットの冗談なんて面白くもない」  「誤解も甚だしいは。外見はロボットに診えるでしょうけど」  「おやおや、この期におよんで弁解するとは。それとも脳だけは本物だってのか?」  「そうよ、あたし達は進化した人類そのものなのよ」  「一緒にしないでくれ、そんなみっともない姿にはなりなくないもんだ」  「あなた、かなり旧式なサイボーグなのに自覚がないわね」  「サイボーグだとどうして分るんだ」  「そんなこと簡単よ、あなたはあたし達の仲間だもの……体内の埋め込みID識別チップが証拠よ。感情に走りすぎるのが困りものだけど。ま、旧式なんだから仕様がないわね」  「確かに年の所為で身体にガタはきてるがおまえらの仲間なんかではない」  「またまた冗談を」  紅髪と褐色の2体のロボットは話し方や仕種よりも、話の内容に人間臭さを醸し出す技術を心得ているらしい。油断したら相手の罠に嵌まり、骨抜きになってしまいそうだ。上空のUFOから遠隔操作しているに違いない、そう判断したヴィーゴは雲の中に潜むUFOに向って強力な念波を放射した。  辺りは真昼のように明るくなり、爆発音が夜空を引裂き地面を揺るがした。2体のロボットは動作がぎこちなくなったが態勢を立直し、ヴィーゴの眼前で融合して瞬く間に一体のロボットに変身してしまった。その姿は設計者の審美眼を疑わせるに充分すぎ、視るも悍しくグロテスクそのものだった。ロボットはヴィーゴの攻撃の構えに対抗してグロテスクな表情に、さらに醜くひきつった笑いを視せて空中に飛び上った。逃げ出すと視て取ったヴィーゴはモータサイクルのエンジンを全開にして素早く追跡した。  丘の斜面に沿ってヴィーゴとの間に一定の距離をおきながらロボットは降下して行った。奴を仕留めるなら今だ。ヴィーゴは己れの周囲に張り巡らしたバリアを取り払い、復讐の鬼と化して念波を放射した。ロボットは《目映|まばゆ》い光を発すると同時に空中分解を起こした。ヴィーゴは危ういところで四散したロボットの破片を避けたがバランスを崩し、転倒しそうになりながら坂道を下って行く途中で、一機の小型UFOと鉢合わせをしてしまった。  罠に気づくのが遅すぎたか、態勢を立て直す暇もなく、ヴィーゴはモータサイクルごと道路から空中に飛びだし、己れの全身が燃え上がるのを知った。激痛に襲われ、呼吸困難に陥りながら、ヴィーゴは唐突に事務所の抽斗に蔵ってあるウイスキーの小瓶、さらにシモーヌの愛くるしい表情を憶いだしていた。  いま、死に直面して誰かと意識を共有している自分に気づき、相手は一体何者だろうかと訝しんだ。その男を炎が覆い尽し、さらに燃え上るモータサイクルとガードレールを突っ切り、落下してゆく乗用車とが重ね合せになって視えた。  職掌柄、危険は承知だったが、こんな死に方をするとは想像していなかった。まだやり残したことが山ほどあるのに、死んでしまうなんて我ながら腹立たしい。ヴィーゴは己れの身体が内部に向って焼けてゆくにも拘らず、悲鳴はおろか呻き声さえ上げなかった。 十五  崩れかかった門をくぐった伍代は、欝蒼と茂った樹木の彩なす明暗の中に、眩しく輝いて交錯する無数の光の輪が浮き上っているのを視た。眼前に展開する目映いばかりの光景は、伍代の記憶のずーっと奥に焼き付いた映 像に何処か似ていた。波が岸辺に打ち寄せては引き、打ち寄せては引いて行く震動音が遠くから伝わってきた。と同時に、波紋が幾層にも重なって次々に足許に押し寄せてきた。波はいつの間にか氷結し膨張して天空に届くほどに成長、岸辺を越えてさらに陸地を内陸部へ向って前進し、やがて都市部や山岳地帯をも嚥み込んで行った。  氷にすっぽり覆われた球体、死期の近づいた地球が弱々しく宙に浮かび、太陽も月も姿を視せず、凡ゆる星が広大な宇宙の深遠な闇の中に埋没していた。伍代の予知していた終焉に差し掛りつつある太陽系の姿は、果し なく広がる宇宙の辺境に起こった些細な変化にすぎなかった。  伍代は徐々に意識を回復しはじめ、傍に人の気配を感じ取った直後、ぼんやりした色とりどりの光に包まれて立っている十二、三人の人影が眼前に現れたのに気づいた。  「きっときてくれると信じていたわ、あなた」  アイリーンの感情の昂った声に返事をしようとしたが、こみ上げるものがあり、伍代は何もいえずに無言で頷き返えした。アイリーンの頬を涙が伝い、雫となって床に落ちた。人類はこれまで数限りなく過ちを犯し、算え切れないほどの許しを神に乞うてきた。不信心だが同時に信心深くもあり、神への恐れから深く反省もした。だが結局、神は人類の頭上に鉄槌を振り下ろしたのだ。  太陽系全体が危機に陥っているにも拘らず、無力感にがんじがらめの人類には為す術もなかった。なにがなんでも、生き残ろうとする気力はもう残ってはいないのだろうか。嗄れ疲れ切った声が伍代の喉の奥から漏れ出 た。  「アイリーン、君には分っていたんだな?どうして話してくれなかった」  「格、わたしには信じられなかったのよ。狂ってしまいそうで恐かったの。それでわたし……」  アイリーンの身体は小刻みに顫えていた。老人が近づいてきて伍代の肩に軽く手を触れ、張りのある力強く低い声で話しかけてきた。  「諸君は、新しい人類の一員となった。わたしに随いてきなさい」  導師の雰囲気を漂わせる老人はそういうと二人に随いてくるよう促した。うしろに控えていた複数の男女は素早く動き、絶え間なく色彩の変化する壁の中に消えて行った。伍代とアイリーンが老人に随いて行く眼前で壁が前方から急速に迫ってきた。二人は反射的に眼を閉じたが、その瞬間、高度に進歩した科学技術の所産なのか、迫りつつある壁を擦り拔けていた。  「すると、この老人は?」  伍代が先を考えつかない中に、老人はゆっくり落ち着いた口調で応えた。  「ご明察通り我々は諸君らとは異なる存在だ。肉体は無用の長物であって、諸君が視ている我々の姿は見掛けにすぎず、仮の宿にすぎない」  胸中を読み取られ、伍代は冷汗を掻く想いだった。  「そんなに愕かんでも宜しい。読心術なる能力は天賦の才能なんだが、諸君はいたずらにその有益な能力を眠らせてきたのだ」  似たような壁を何回か擦り拔け、暗い夜空が頭上を覆う広場に出た。ダイアモンドのように輝く星々が満天を満たして瞬いていた。  眼前を音もなく一機の飛行物体が通りすぎて行った。異星人の乗物は直径1.5キロメートルはあろうかと想える巨大なUFO、二人には見慣れた円盤型をしていた。一際大きなUFOが登場し、軽々と旋回して暗闇に姿を消した。  人々の群を掻き分け、一人の異星人がやってきて徐ろに話しはじめた。声には妙に中性的な響きがあり、連中が地球の人類とはまったく異なる進化過程を辿ってきたことを暗示させた。  「知っての通り、銀河系全体に大異変が訪れつつある。原因は目下調査中とだけ申し上げておく。諸君は我々の指示に従って行動されたい。不安を感じておいでのようだが我々とて同様なのだ。運がよければ危機から脱 出できるだろう。今一番大事なのは太陽系外へ速やかに退避することだ。よろしいか、諸君はこれからある空域へ向かい、そこで恒星間連絡船に乗り込むことになる。なにか質問は?」  金髪の利発そうな少年が、血走った眼を大きく瞠き、意を決したように質問を発した。  「あなた方の意図は地球人類を救うことにあるのか、目的地は何処なのか、危機は逃げることでしか避けられないのか……以上です」  異星人が徐ろに答える。「大変鋭い質問をありがとう。先ず、我々は諸君の考えるほど、極端に善人でもなければ悪人でもないとお断りしておこう。何億年も前に我々は善悪の概念を捨てたのだ。我々の目的は諸君等を助けるためではない。真に自由たろうと決心したとき、我々は人間臭い感情を捨て去ったのだ。制約の多すぎる元の精神状態に戻るなど不可能だ。今回の我々の行動はほんの気紛れ、偶然から始まったことだ。したがって、諸君等は行先の定まらない宇宙旅行を選ぶか、地球に留まって確実に訪れる死を待つか、いずれを選択するのも自由だ。諸君、目的地は我々自身にも分らない。だが、宇宙空間には無限の可能性と自由がある。我々同様、諸君等もまた宇宙空間で生れ育った人類の子孫なのだ。やがて諸君等は暗黒の宇宙空間に親しみを抱き、遂には愛さえも抱くようになるだろう」  これは巧妙に仕組まれた罠だろうか。伍代は己れの思考が読み取られるのも構わず胸の中で呟いた。異星人のいうのが本当だとしたら、確かに彼らは善悪で物事を判断しないに違いない。彼らのこれまでの行動からはそう想える。UFOの目撃報告や異星人との接近遭遇の記録を読むと、彼らには気紛れとしか想えない行動が屢々読み取れたからだ。  もし殺人鬼が襲ってきたらと伍代は考える。自分を守るためには相手を倒さなくてはならない。場合によっては相手を殺さなくてはならなくなるかも知れない。それでも自分の身を守った方は罪悪を犯したことになるのか。もちろん、殺人鬼の方には当初から、人を殺そうとする意図があるから悪人には違いない。では殺されると分っていながら何もせず、その殺人鬼に殺されるのが最善の道なのか。殺人鬼に罪の上塗りをさせることになりはしないか。  もしそうなら、善人だった自分が其処で罪を犯すことになりはしないか。ここで、伍代は善悪で判断することの矛盾に気づき愕然とした。異星人が善悪を思考や行動の規範にするのを止めたのには、それなりに理由があるということだ。どうして今までそれに気づかなかったのか、己れの迂闊なのに愕いた。地球の人類はまだ大人にはなっていないのだ。世の親たちは息子や娘に善悪の違いを教える。ところが、親自身は常に正しい 行ないをするとは限らない。むしろ矛盾だらけのことをし、時には間違いを犯すことさえある。世の大人に完全無欠な者は皆無といってよい。  太古、異星人が太陽系外から地球に飛来、人類を創生し、慈悲深くも善悪を弁えるよう教えたのだ。彼ら自身はすでに捨て去った善悪の概念をだ。何故そのようなことをしたのか。何事も最初が肝心、基本が大事ということなのだろう。善悪の違いを知ることで、言動が極端な方向に傾いてしまう危険を回避できる。フィードバック機構とはそのようにして機能するのだろう。  いつの日か人類が太陽系とまったく異質かつ過酷な世界で、生きる羽目になったら、頼りになるのは己れだけと知るだろう。善悪で判断できない局面に立たされた時、否応なく己れの欲求の赴くままに行動するしかない。蓋し天は自ら助ける者を助くなのだ。善悪を辨別するのではなく、何れにも偏ることなく均衡を保つ――それが肝心だ。  十五世紀中葉にヨーロッパの都市国家ジュネーヴで独裁を揮った、カルヴァンなる聖職者は己れに過酷なばかりか民衆に対しても過酷だった。極端な正義感が民衆を不幸にした例といえる。なにしろこのカルヴァンなる人 物は、異性に性的欲求を抱くのも怪しからんと宣ったのだ。何事も程々がよく、度がすぎては生命取りになるのみ、徳ある者は中庸の道を選ぶ――大人になるとはそういうことなのだ。  辺りの騒々しいのも委細構わず、異星人は最後に一言付け加えた。  「太陽系を脱けだして他の星系に到達するまでの間、諸君等は充分すぎるほどの休息を貪ることができる。追って指示あるまでその場で待機せよ」  充分すぎるほどの休息とはすなわち人工冬眠のことだろう。アイリーンと伍代はそう想いながら顔見合わせて頷いた。星空の下で、二人は人工冬眠に入るまでの間、今後を想いながら愛を語り合った。伍代が聴き耳を立てると、幾組もの即成カップルが密かに囁き合っていた。誰もが星明かりを頼りにする以外に、相手を見分けることもできない暗闇の中で、お互いの存在を声によって確認し合っていた。  説得しなければならない――その想いが伍代を憂鬱にした。これまで話し合ったのが無に帰すると知ったら、《屹度|きつと》、アイリーンはヒステリーを起こすかも知れない。だが伍代にとって引き返えす機会は今しかなかった。  「アイリーン、今からいうことをよく聞いて欲しい。自分のこれまでに構築してきた理論を確認するために、わたしは地球に留まるつもりだ。もちろん、留まって万に一つの生き残りに賭ける訳ではない。見果てぬ夢で終わるかもしれないが、地球の終焉を見届けるのが私に残された最後の使命……だから一緒には行けない。身勝手な奴と想って見逃してくれないか」  「あなたは、自分のエゴを満足させるために、わたしを捨てることになるのを覚悟しているのね」  「すまない。これまで一方的に自分の意志を通してきた挙句に別れなければならない。いくら言い訳しても赦して貰えるとは想っていない」  はじめの中、アイリーンは冗談のつもりで聞いていたらしく笑っていたが、伍代の真剣なのを知るに及び、顔から血の気が引いて行った。しばらく二人は、無言のまま互いに語り合うことがなかった。満天に輝く星を眺める中に、伍代は星を視るのはこれが最後の予感がした。アイリーンが気を取り直し、重い口を開いて話しはじめた。  「あなたと会えてとても幸せ。わたしの聞いて上げられる最後の我儘になるのね。あなたの願いは了解よ。その替わり、わたしの最初で最後の我儘を聞いて」 アイリーンはいつだって嫌な顔をせずに頼みを聞き入れてくれた。伍代にとってこの世で最も素晴しい伴侶だった。「アイリーン、君は最愛の女であるばかりか最も信頼のおけるパートナーだった。君の頼みを拒んだら死んでも死に切れない」  「格、ビックリしないで、いい?わたしを愛して、さあ抱いて」  伍代とアイリーンの抱擁は永遠に続くかと想えるほどに長く、相手への激しくも切ない灼熱の感情が接触する皮膚を通して互いに伝わった。 十六  当初、寄せ集め部隊の悪評高かった地球連合軍は、地球の周囲を強力な電磁バリアで覆いつくし、太陽エネルギーを封じ込めつつあった。それは異星人の高度な科学技術すら手に負えない、未曾有の大変動を太陽系全体に及ぼしはじめていた。地球全体が日増しに冷却し、大気温度はいまや摂氏マイナス70度を超え、凍死する者があとを絶たなかった。街路の到る処で直立したまま死ぬ通行人が激増、その光景はまるで樹氷の森を想起させた。さらに海水は凍結、膨張して陸地に侵入を開始していた。  地球の地下基地に潜む軍人、科学者らがどれ程の期間、生存できるかは誰にも分らなかった。しかも、彼らの目論見が成功するかどうかは、彼らの技術がどの程度であるかにかかっていた。これは地球鎖国時代の幕明けか、それとも自殺行為か、断言できる者は一人もいなかった。異星種族が複数存在することが明らかになると同時に、人類救助に乗り出した異星人が気まぐれなのも明らかになった。彼らはもう二度と地球を訪れようとは考えないだろう。しかし好戦的な種族は地球に開国を迫ってくるに違いない。そうなったら当然戦争が起こる可能性は高い。いずれが勝利をおさめるか――地球人かそれとも異星人かは神のみぞ知るなのだ。  今や世界中の人々がトゥングースを目指し、次々に凍死者が出ていながら、それでも吹き晒しの凍てついたツンドラの凍土を踏みしめ、一歩また一歩と虚しい前進を続けていた。彼らには生存できる見込みはまったく残っ ておらず、いうなれば、生存競争に敗れた不運な人類なのだ。退路を失なった彼ら敗者にとって、トゥングース行は絶望の行進であり死出の旅だった。  人々の群に混って独り黙々と歩む初老の男がいた。選良の特権を捨て、太陽系に訪れた最期を見届ける決意をした伍代だ。突然、風の勢いが増したか、伍代は両足でふんばり、必死になって身体を支えた。風は嘲笑うかのように伍代の五体に纏わりつき、一陣の旋風となって大気を引き裂いた。風はさらに勢いを増して伍代の全身を強大な風圧で揺さぶり、まるで龍の高笑いででもあるかのような谺となって消え去った。  寒さは人間の耐え得る限界を疾うに越えていた。人々は夢遊病者のように歩み続け、歩きながら次第に意識を失って次々に斃れて行った。遠くの方から地鳴りが聴こえてきて、それはやがて生死の境を彷徨う人々の生命 を、根底から揺さ振るほどの轟音へと変って行った。眠りを妨げられたアルコール中毒者のように、伍代は生気の失せた表情で天を仰ぎ視た。爆心地から白熱の閃光が迸り、円筒型の宇宙船が続々発進して行った。それは行先のない放浪であるばかりか戻る宛のない片道旅行だった。  ブースターから発する噴射光が闇に消えて行くにつれ、伍代の意識は風の煽りを喰らった炎のように急速に弱まって行った。地上の凡ゆるものを凍らせる冷気が足下からじわじわ這い上り、伍代の全身を覆い盡くすと共に 心臓に向って最後の攻撃を開始した。鋭利な刃物の一撃を受けたかのように慄き、蹌踉めきながらも伍代は渾身の力を振り絞って倒れるのを堪えた。  今や銀河系宇宙は邪悪な存在の支配下に入ろうとしていた。善人も悪人も、一握りの人類を例外として、悉く滅亡する寸前に直面していた――地球に救世主は再臨しなかったのだ。イエス・キリストとサタンとの間に如何なる契約が成立したのか。時のローマ法王レオ十三世は、祈りを捧げている最中に両者の対話を聞いたという。救世主と悪魔のやり取りは法王の脳裏に焼きついたに違いない。  かくして十九世紀、サタンの地球支配計画は巧妙かつ秘かに始まった。欲望を掻き立てる囁きに耳を傾け、邪な想念の虜になってしまった人類は数限りない。精神的な侵略に屈服してしまい、欲望の赴くままに行動す る堕落ぶりには驚愕するのみだ。  「サタンの奴め、ついに地球を手に入れおったか」吹きすさぶ風の弱まる合間に、途切れ途切れに呟きが聴こえてきた。  耳に手をあてがい、聴く仕種をする伍代の傍に、年齢不詳の男が一人、地の底からでも湧き出たかのように忽然と現れた。仁王立ちになり腕組をして天を睨む男の、頭髪、髭、眸のどれもが金色の眩い光を周囲に放って いた。褐色の肌に深紅のガウンを纏った様はまるで黒魔術の導師のようだ。伍代は朦朧とした意識をなんとか正常に保ち、その男に話しかけようとしたが声にはならなかった。  男の隣隔は伍代の視ている傍で徐々に薄れて行き、やがて半透明から更に透明へと変化して消え去った。あ奴は一体何者なのか――伍代は睡眠、覚醒間を往来しながら考えた。物質化した何者かの意識が地球の様子を、観察しにやってきたのであるなら悪い冗談だ。人類が断末魔の叫びを上げているにも拘らず、救いの手を差し延べもせずにただ眺めているとは。  それともこれは地球の人類が自ら招いてしまった結末なのか。もしそうなら自業自得、救ってやるだけの価値はない、愚かな人間など自滅するがいいということか。トゥングースの爆心地に程遠からぬ地点から稲妻が大気を貫いて一閃し、さらに暗黒の宇宙空間を分断したかに視えた。 十七  歴史の書を繙けば、極東に国土は小さいながらも一大勢力を有した国の存在が記録として残っている。その国は一夜にして、海に没し去ったとのことだが、何が原因であったのか。摺り切れ、霞んだ文書から該当箇所を注意深く読み解くなら、随所から驚愕的な記述を発見するに到るだろう。  曰く、「国民は勤勉にして聰明だが、為政者は極めて愚かだった」とか「聰明だった国民がなぜか躾や教育を放棄し」、そして「遂には家庭が崩壊し親子間の絆は喪失、しかも支配層に欲呆けが蔓延した上に、一般国民の知能は低下の一途を辿り」云々。この国が太平洋の深海に沈みつつあるとき、何千万人という人々が海上を漂流していたはずだ。しかし、救助された者は誰一人としていなかった。  列強が原因究明に乗りだしたが、何一つ証拠らしいものを発見できずに終った。なにしろ、各国が先を争って現場に急行したがすでに遅く、国土は消失し、漂流しているはずの難民の姿は、何処にも見当らなかったとの記録が残っているのみだった。だが噂によれば、わずかながら北米大陸に漂着した人々がおり、更にその人々の子孫が子孫を残し相当数が生存しているとのことだ。  何処かの街中を歩きながらそれとなく注意して視るなら、一人や二人の東洋人の存在に気づくだろう。彼らは髪や眸が黒く礼儀正しい上に忠義心篤く、勤勉で控え目な人種だから直ぐに分かるとのことだ。なーに、一番簡単な方法は連中に英語で話し掛けてみることだ。なにしろ、アジアで最も英語の下手な国民だったのだから――。  魚の一群が墓石の間を優雅な姿で泳いでいた。水深200メートルの海中に光は差さず、闇のヴェールが厚く垂れ込めていた。太平洋側への日本列島崩落は東洋最大の臨海都市「《度会|わたらい》市」から始まり、さらにこの大都市の上方に位置する、墓地で埋め盡くされた広大な丘が崩落し、都市の上に折り重なるようにして沈んで行った。墓地は今では魚やその他の海棲生物にとって恰好の棲家だった。こうして崩落した列島の一部は水深の比較的浅い大陸棚に引っ掛かり、断崖から一気に海底に到る深部へ沈むのを免れていた。  かつては墓地だった大陸棚の一角に、夥しい数の人骨が積み重なり、断崖の付近まで占拠していた。冷たく暗い深海から巨大な烏賊に似た生物が数体、水深の浅い大陸棚目指して浮上してきて、銘々が人骨を守るような 配置に着いた。だが、大陸棚を形成する岩盤は海底地震に激しく揺さ振られ崩落寸前にまできていた。  合衆国は地球のほぼ全域で交戦し、無闇に戰火を拡げていたが、頼りになる同盟国を失ない、作戦に齟齬を来すまでになっていた。「日出ずる国」と称された東洋の強国が海の藻屑となって消滅してしまったためだ。そして遂に、好戦的な異星人と対決するに到った。  闘うことを知らない気紛れな異星人の宇宙船内で、意識を回復したアイリーンは伍代の温もりがまだ伝わってくるように感じた。自分の許から去った伍代の姿がつい先刻のことのように鮮明に憶いだせた。アイリーンは夢現に視た終末の到来を憶いだして全身に戦慄が走り、痙攣すると同時に硬直しかけ、息が止まりそうになった。  アイリーンの胎内に微かな脈動が起こりはじめ、体調の変化に気づいたアイリーンの耳許に囁き声が聴こえてきた。傍でまだ深い眠りから醒めないムサシの口から漏れ出た呻き声ではなく、はしゃぎ回る純真な子供達の甲 高い声でもなかった。それはアイリーン自身の体内から発せられた声で、余りにかぼそく空耳かと錯覚してしまう程だった。[第3部に続く]
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