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一  紺碧の天空が突如として暗黒に変貌し、断崖の聳える山岳地帯が鳴動しはじめた。食中植物や毒茸の《蔓延|はびこ》る山岳の麓に、天にむかって捻くれ絡み合いながら延びる巨大な樹木が密生して一大植物圏を形成、その森林地帯を激しい雷雨と烈風が襲い、広く繁茂する巨木は悶え苦しむ恐竜さながらに揺れ動いた。  だが、盡く薙ぎ倒してしまう凄まじい嵐は突然おさまり、天地に不気味な静寂が訪れた。宇宙のありと凡ゆる生物が息絶えたかに視えるこの暗黒世界に、蠢くものがあるとするならそれは死神のみ。暗黒世界そのものが何かの到来の予感に、顫え戦いて息を潜めているかのようだ。やがて微かながら山岳地帯に鳴動が起こりはじめ、天空に凄まじい閃光が走り、遠くから雷鳴が怒涛の如く押し寄せてきた。  高速回転するモータの金属を斬り裂く鋭い音が、その暗黒世界を《劈|つんざ》いて時空に歪みを発生させ、モータサイクルを操る男の身体が断崖から飛び出すと同時に燃え上がり、鋼鉄をも押し潰してしまいそうな風圧が襲来した。下方から火焔が牙をむいて襲いかかり、男は想わず顔をそむけるが、激烈な波動に眼が眩んでしまい、意識に狂気が雪崩れ込んでくるのを防ぎきれない。  数機のUFOと覚しい飛翔体が、眼前を一瞬にして掠め、灼熱の烈風を残して視界から消えた。飛翔体はどこから出現したのか実体はあるのだろうか。一瞬にして出現し、消滅する飛翔体を人類の貧弱な物理学理論で解明可能なのか。男は眼が眩み、呼吸が苦しいにも拘らず、渦巻く火焔を残して消え去ったUFOに就いて取り留めなく考える。  眼に視える宇宙とその宇宙に存在する物質は、発生源からの投影物であって実在せず、UFOが空間を瞬時に移動できるのはそのためだ――マトリックス理論はそのように説明する。発生源から転送してくるデータは何らかの属性を表わしているに過ぎず、それを人間の頭脳は解釈し、映像化するのだという。人間は発生源から転送してくるデータを理解し、認識する機能を果たすプログラムに過ぎないのだろうか。マトリックスの仕組みを創造し、人間の頭脳にデータを転送してよこすのはそも何者。  男は、落下速度の急激な加速に意識が薄れ、光が乱舞する巨大な渦に突入した途端に何も視えなくなった。同時に、重力からの束縛感が遠退き、浮遊感覚が加速しつつ背骨を這い上がり、高密度の透明な液体の中を 這いずり周る感覚が襲ってくるのを知覚した。頭上に強烈な光を発して輝く太陽があり、液体の中にまでそのエネルギーは影響を及ぼしていた。  天空をも燃え盡くす灼熱のエネルギーに満ちた真夏、海岸に独り佇む男は沖を目指すべく海へと入って行った。太陽を仰ぎ視て大気を吸入し、海中に顔を沈めて息を吐きだしながら、両手で水を掻くと同時に足で水面を軽く叩き、海面を辷るように進んで行った。  陸地を離れて数十分後、なにかが腹を擦って通り過ぎたように想い、男は慌てて水中に顔を沈めると前方を注視した。見渡す限り半透明の海棲生物で溢れ返える異様な光景が続いていた。群棲しながら行動する生物の真っ只中に突入してしまったと気づいてから数秒後、男は恐慌状態寸前にまで陥ってしまった。  選択は引っ返えすか突っ切るかの二者択一、その半透明の海棲生物が仮に猛毒を武器にする攻撃的な生物なら、危険の中に自ら飛び込む愚を犯すことになるが引っ返えすには遅すぎた。男は突っ切る方を選び、その生 物の大群の中に別け入った。生物は男の腹や背中を擦り、何事もなかったかのように後方へと去って行った。  あの半透明の海棲生物がユラユラ揺れながら移動して行く様は、速度では比肩すべくもないが、まるでUFOのようだなどと想いつつ、男は誰かの記憶をなぞり、感情移入している自分に気づいた。それにしても熱い、煉獄の熱さはこんなものだろうか。金属を斬り裂くような鋭いモータの回転音が遠のいて、激烈な熱が天地を満たしはじめ、錯綜する光が覆い被さってきて肉体を蝕んだ。男は辺りを見渡すも状況を把握できないまま、足下から背骨を伝って這いあがり、纏わりついてくる浮遊感覚の虜になった。  自分が何者なのか憶いだせず、誰かとの意識の共有感に囚われ、相手を一体何者だろうかと訝しんだ。己れの身体を猛火の渦に飲み込んで燃え盛るモータサイクル、ガードレールを突っ切って落下して行く乗用車、さら に苦悶に歪んだ東洋人と覚しい男の顔が、恰も半透明の映像ででもあるかのように互いの領域を侵食して二重写しになって視えた。  網膜にでも焼き付いてしまったかのような映像に埋没しながら、肉が焼け焦げ、全身を襲う苦痛に声にならない絶叫を上げた。これは単なる妄想なのか悪夢なのか、それとも記憶を追体験しているに過ぎないのか。靄でもかかったような、天地の境目も判然としない空間を、男はゆっくり上昇して行った。光が充満しているにも拘らず、茫洋としていて何も視えず、自分自身の存在感すら捉えどころがなく頼りなかった。  上昇はなおも続き、間断なく襲いくる悪寒が神経を苛み、それに反比例して意識は徐々に明確になって行った。眼球に突き刺すような激痛を覚え、男は誰にも届きそうにない呻き声を上げた。やがて目眩く真っ昼間の光の洪水の中で、溺れてしまいそうな感覚と格闘しつつ突如として意識を回復した。  「お目覚めになりました?縫合部位がまだ完全に癒着してませんので、安静にしてないといけませんよ」  金髪緑眼の2メートル近い痩せぎすの女が看護婦の《身形|みなり》をして、左手にプローブを握り締め、戸惑いを隠せないでいるカプセル内の患者を同情的な仕種で覗き視た。  「モータサイクルごと道路から跳びだし、崖下に転落して死んだはずなんだが……天国ならぬカプセルの中で息を吹き返えすとはな、やれやれだ」  昏睡から覚めたヴィーゴ・オストロスキは明瞭に憶いだした。猛火を身に纏って断崖を落下しつつ、若い恋人シモーヌに懐いを馳せていたのを。かつて私立探偵だったヴィーゴは看護婦をジロリと見遣り、皮肉を籠めてなにやら呟いた。  「発声器官は安定して機能するようになり、内蔵器官はそれぞれに所定の部位に落ち着いてまいりました。全身の筋肉も活動しはじめたようですから、数時間後にはカプセルから出てお歩きになっても差し支えありませんわ」  「ふむ、それは願ってもない。ところで君は看護婦なのかね、名前は?」  「アンディ12号です、ヴィーゴさん」  「転落事故に遭った所為か、どうも記憶が曖昧で細部を憶いだせん。困ったことに、以前に生きていた世界とは周囲の様子がかなり違って視えるんだ」  「お気づきになりました?現在は3012年です。あなたの生きていた時代とは多少異なっているかも知れませんわね」  「多少どころか、遥か500年後の未来世界にテレポートするとはな。テレポート技術なんぞ500年前には存在していなかった」  「いえ、あなたはテレポートしたのではなく、運よく蘇ったのです。進化した医療技術のおかげなのは確かですわ」  「500年もの間、死んでいたのに生き返えったってことなのかな」  「厳密にいうなら正確ではありませんが、おおむね当たっております。あなたの強靭な肉体と精神力には感服いたしますわ。なにしろ、他の人より何倍も修復が困難でしたから」  他にも蘇生した人物がいるという看護婦の、仄めかしとも取れる一言は穏やかではない。シモーヌに再会できるならどんなに嬉しいだろう。だが、シモーヌは完全に炭化して死んでいたのだ。死滅してしまった細胞を蘇生させるなど、如何に進化した医療技術をもってしても可能とは想えない。ヴィーゴは期待に興奮しながらも冷静になろうと努め、看護婦の方からいい出すまでシモーヌの生存に就いては訊くのを控えておこうと決意した。  それにしても看護婦の奇妙な表現には引っかかる。「蘇る」などアンドロイドの常用する語彙に入っているものだろうか。医療従事者が使う表現としては「蘇生する」が妥当なところだろう。ひょっとするとこの看護婦はアンドロイドを装ったヒューマノイド、地球型人類とは異なる人型高等生物ではないのか。  この3012年の世界でなら深宇宙から到来した異人種と、地球の在来種とが共存していたとしても不自然ではない。もちろん両者の融合が完了しているなら、少々問題があるにしろ有意義ではあるだろう。  ヴィーゴは無性に煙草を喫いたくなり、無意識に仰向けの姿勢のまま、右脇に手を伸ばすと自分の手をまじまじと観察した。以前とは何処かが違う、上手く説明できないが手のみならず全身になんとなく違和感を覚えた。  看護婦に気取られないよう平静を装い、あらぬ方向に眼を泳がせながら呟いた。  「おやっ、身体がまるで他に持ち主でもいるかのように想い通りにならんぞ」  「もちろんですとも。あなたの五体は判別不能に近い状態で、しかも半ばミイラ化していたのですから、修復には現代の最新医療技術をもってしても至難の技でした」  「うーむミイラとはな、確かに私は蘇ったことになるんだろう。差し支えなければ喫煙したいんだが、煙草、それと燐寸かライターはないだろうか」  「いまでは煙草はもう調達できないのです。煙草が人体、特に脳細胞におよぼす悪影響についてはご存知のはずですわね?どうしてもと《仰言|おっしゃ》るなら、似通ったもので宜しければご用意いたしますけど」  「なにしろニコチン中毒でね、毒の魅力には抗しきれんのさ。それに君も知っての通り私の肉体は強靭なんだよ。煙草の他にそうだな……月刊誌で構わないんだが調達できるなら是非」  「数時間後にはあなたの肉体は修復が完了しますので、もうしばらくお寝みになるようお奨めしますわ」そこまでいうと、看護婦はそそくさと病室から出て行った。 二  ヴィーゴは、意思に逆らう五体をどうすることもできず、カプセル内に凝っと《仰臥|ぎょうが》したまま拷問に等しい精神的苦痛に耐えていた。何もせずに過ごす数時間が如何に長いものか、想像だにしていなかったのを今さらながら想い知ることになった。頭脳内で500年前の世界を想い描くことで、持て余し気味の時間を潰すことにして眼を閉じた。  以前の世界に戻るにはひたすら念じ続けていれば、テレポートできるのだろうかなどと取り留めなく考える。しかし何事も起こらず、眠気が忍び寄ってくる気配を感じつつ大きな欠伸をしたのち、広大かつ深淵な異世界へと徐ろに降下して行った。  波動が遠くから最初は余りにも小さく、やがて徐々に大きくなり、海岸に打ち寄せる波の音となって聴こえてきた。眼前には見渡す限り蒼海原が拡がり、太陽が水平線の彼方に沈みつつあった。ヴィーゴは異世界に侵入し、UFO狂の屯ろする倶楽部の方向へと舗道をゆっくり歩いて行った。彼らはUFOマニアだが野心的な若者ではなく、わずかばかりの貯蓄と年金で暮す品行方正にして清廉潔白な老人達だった。  高密度の液体内を蠢くようにユックリ歩いて、煤けたビルディングの前に辿り着き、そのビルディングの入口から一番奥のドアを目指した。通路には大小様々な靴跡の輪郭が鮮やかに残っていた。手入れの悪さではヴィーゴが事務所を構えているビルディングと大差なかった。ヴィーゴのような仕事も祿にない私立探偵同様、年金暮しの隠居連中にも前世紀の遺物然たる建物が似合いだった。  ノックせずにドアを開け、屯ろする同好の士に加わった。部屋の中は煙が充満し、ヘヴィ・スモーカーのヴィーゴでさえ辟易するほどの凄さだが、高級葉巻の好い香りが空気中に漂っているのに気づいた。視れば、銘々ソファに腰かけて勝手な方向を向き、昔の月刊誌を読んだり地元のラジオ放送を聴いたり、沈思黙考したり微睡んだりして気楽なものだ。ヴィーゴは誰にともなく頷いて空席に座り、徐ろに煙草に火を點け、深呼吸でもするかのように深々と喫い込んだ。読んでいた月刊誌からゆっくり顔を上げ、葉巻を吹かしながら話しかけてきたのは、恰幅のよい隠居のトーマス老だった。  「やあヴィーゴ、しばらく視えなかったが、忙しかったのかね?」トーマス老はのしかかってくる重力に逆らうかのように間延びした問を発した。  「そういわれると、なんだか皮肉のようにも聴こえますね」ヴィーゴも同様に間延びした返事を返えした。うすうす夢と気づいていながら、なかば夢遊病者のように振舞って今の状況を楽しんだ。  「それは失礼した。ところで、今日はなにか質問でもありそうじゃないか」  「へえー、これは御隠居鋭いね」そういってはみたものの、実際は質問しようにも、UFOに就いては素人同然のヴィーゴには訊きようがなかった。だが、隠居の機嫌を損ねたりしては倶楽部への出入りができなくなる。苦し紛れに適当に訊いてみるのも《術|て》というものだ。  「なんだ、なんなりいってくれ。わしが知ってることならなんでも教えよう。よしんば、わしが知らなくとも、此処にいる誰かが答えられるはずだ。さあ、なんだね?」  そういうと、トーマスは武者震いをした後に葉巻を咥え直した。すると周りにいた隠居連が一斉に重力に逆らいながらゆっくり二人の方に集まりはじめた。かつてはUFO問題で大いに論陣を張った硬骨漢ばかりだ。大勢に取り巻かれてしまってはあとに引けず、想いつくまま適当に訊いてみた。  「ある人物から聞いたのですが、ロシアがソ連と称していた時代、シベリアはトゥングース河流域に正体不明の飛行物体が落下し、大爆発を起こしたといいます。そのことに就いて、できれば詳しく知りたいですね」  隠居連は待ってましたとばかり一斉にヴィーゴの質問に跳びついた。口角泡を跳ばして話す様はそれまでの紳士然とした物腰、振舞からは想像つかない騒ぎようだ。まるで子供にでも還ってしまったかのような賑々しさだ った。それほどトゥングースの事件はマニアの間ではお馴染みの事件だったのだろう。  「四方から同時にいわれたんではまるで分らない、一人ずつ順にお願いしますよ」  そういい終るか終らない中に、ラジオ放送を聴いていたヘンリーが低く落ち着いた口調で話しはじめた。  「現在、『エゼキェルの書』の言及するUFOはいうにおよばず、墜落UFOの記録も活字として相当数が残っている。その中でも瞠目すべきは、ソ連はシベリアのトゥングース河流域で起った事件だな。インターネット上に載っている文献から、信憑性の高そうな部分を拾いだして読んでみた限りは」  すると、あとを引き継ぐかのように長身痩躯のワクスマンが、拾い読みするように話しはじめた。「トゥングースの一件は、あーぅ物体の地球外飛来説を裏づける有力な、うーぉ1908年に起った事件だってことから、おーぁ断言できるね。同年は第一次世界大戦の勃発する、あーぅ6年前だ。第二次世界大戦からは、うーぉ実に31年も前になるってことだ。両大戦に登場した兵器で、おーぁ宇宙空間で使用できるほど強力な兵器は、あーぅ唯の一つもなかった。うーぉゴホゴホゴホ」後半は咳き込んでしまいはっきり聴き取れなかった。  ヴィーゴは痒い処に手の届かぬ、もどかしい話し方に閉口しながらも気長に耳を傾けた。凝っと聴いていられなくなったか、歳の割には元気過ぎるハーディング爺さんが唐突に割り込んできた。  「なにしろトゥングース上空に飛来し転進を繰り返えした挙句に爆発しシベリアの永久凍土に激突した謎の物体は時速2、3千キロメートルの速度で進入してきたんだから地球製の飛行物体でなかったことは確かだなぜなら第二次世界大戦終了後つまり1945年以降我が国や隣国のカナダ欧州各国が実戦配備した戦闘機ですら音速にも到底およばなかったんだから」  せっかちな隠居とは斯くやと想われる話しっぷりに他の隠居は落ち着かなくなった。すかさず恰幅のよいトーマス老が葉巻を左手に持ち変え、痺れてしまった右の掌をヒラヒラさせながら口を開いた。  「当時は隕石説がもっとも有力だった。隕石の進入速度は数万キロメートルもの、猛烈な速度だから桁違いだ。その隕石説の最右翼にいたのが、鉱物学者レオニード・A・クーリックなる人物だ。クーリックは再三再四トゥングースを訪れており、物体が激突したと覚しい中心点にまで足を踏み入れている。そのとき視た光景は核実験後の光景にそっくりだったのだが、クーリック自身は第二次世界大戦時に負傷、ナチの捕虜収容所で1942年に息を引き取ってしまったためにその事実を知らない」  トーマス老は一息入れるかのように、葉巻を吹かしながらふたたび話しはじめた。「また当該物体と隕石の速度に就いて、クーリックがなんらかの知識を得ていたなら、隕石説に固執するような愚は犯さなかったろう。結局のところ弧軍奮闘してはみたものの、時代がかった磁気測定器しか持ち合わせず、クーリックは隕石の痕跡すら発見できなかった」  そこまで話すとトーマス老はまたもや、葉巻を吹かしながら黙り込んでしまった。誰かに後を引き継いで欲しいのだろう。トゥングース上空で大爆発を起こした物体の軌跡を、ヴィーゴはかつて何処かでシミュレーションした映像を視たような気がした。インターネットのサイト、それともジムとホンダが所属するUFO研究組織だったろうか。そのシミュレーション・プログラムが示した軌跡は、隕石と覚しい飛行物体のものだった。しかし、落下地点から地球外飛来の鉱石は発見されず、後年に諸説が飛び交うことになった。トゥングースからそれらしい金属は視つからなかったのだ。当初、隕石説が有力だったのは当然といえた。しかし、それでは辻褄が合わない。物体は最初東進しそれから西進した――そう記録に残っている。つまり、飛行の途中でコースを変 えているのだ。  自然界の彗星が落下しながらコースを変えたりするなど、障害物に打つかったとしても起こりそうもない。彗星になんらかの物体が衝突したのであれば、大気中で爆発を起こして溶解し、散り散りになってしまうだろう。何者かが操らない限り、飛行物体の進路が変わったりするはずはない。知的存在のの意図が作用し転進したということだ。  さらに、トゥングースの爆発の威力は凄じく、ヨーロッパはもちろんアメリカ大陸でも震動を検知したらしいことだ。隕石が落下した程度では、それほど広域に影響がおよぶとは考え難い。しかも爆発から数日間に亙って異常気象や磁気嵐が発生し、真夜中でも写真が撮れるほどに明るかったというのだ。  先刻、月刊誌を熱心に読んでいたホグウッドが甲高い調子で引き継いだ。「ところで、その物体は当時の専門家筋の解析によれば、1908年早朝、地球外からインド洋の上空に進入してきたんだ。目撃者の証言では物体は巨大な円筒形をしていて大気圏に突入後に、大きな弧を描いてアジア大陸を横断し、北方へと急撃に転進した模様だ。同年6月30日、輝く火球が支那のゴビ砂漠上空を横切って行くのを、隊商の一団が目撃していたのだから転進したのは確かだ」  またしても、ハーディング爺さんがまるで何処から翔んでくるか分からない、てんとう虫よろしく唐突に割り込んできた。せかせか動き回って首尾よく獲物を捕らえるや、飛び去ってしまうすばしっこいてんとう虫にそっくりな気紛れ隠居だ。  「物体は空中で大爆発を起こすか激突するかして泥炭地や針葉樹林の生い茂った荒涼としたシベリア台地を揺るがしイルクーツクから千キロメートルほど離れた地震観測所で地震と同規模の震動を記録したに留らずシベ リアから遠く離れたソ連の都市レニングラードやドイツさらに合衆国や南洋諸島でも地震計が振れるほど影響をおよぼしたその範囲の広大なことや規模の大きさから爆発の衝撃が如何に烈しかったかが想像できようってもんだ」  滔々とまくしたてると爺さんはうしろに引っ込んでしまった。よく息が続くものだと感心してしまう。いいたいことだけいっていなくなる処などまさに子供に還った隠居だ。ヴィーゴは老人達の話を聴いているのに《草臥|くたび》れ、椅子の背凭れに背中を預けると束の間だが微睡んだ。顔に何かが触れて通り過ぎる気配を感じ、ヴィーゴはうっすらと眼を開けて辺りを視まわした。  拳大の泡が最初は1、2箇、空中に浮かんでいるのに気づいた。30箇から40箇、やがて無数の泡が床下から続々と出現し、天井を抜けて天空へと舞い上がって行った。その泡は球体ではなく楕円体に近く、顔を近づけて仔細に観察していたヴィーゴは《愕|おどろ》いて椅子から立ち上がり、トーマス老が何かを話そうとしているのを無視して外へ跳びだした。  舗道に立ち止まって視あげたヴィーゴは、驚愕の叫びを上げると前後の見境もなく駆けだした。見知らぬ誰かの記憶にある半透明の海棲生物クラゲが、今や地上から天空に達し、見渡す限り果てしなく空間を埋め尽くし浮遊していた。ヴィーゴは浮遊するクラゲに埋もれ、さらに重力の急激な増大に抗しきれず、その場に倒れ臥すや否や、瞼が重くなって横になったまま眠りの淵に落ちて行った。  かつて飲酒癖のあったヴィーゴにとって睡眠は、覚醒の延長上に位置しているべき精神活動だった。DNA内のプログラムの指令に従っているように想わないでもないが、現実から懸け離れてしまわないよう無意識に自制していた。飲酒に耽ることから得られる軽い酩酊感は、ヴィーゴにとって精神活動の一時的中断あるいは拒絶を意味していた。思考を一時停止して精神を無の状態にする――宗教性を超越し、《只管|ひたすら》おのれを無の世界に置くのだ。 三  ヴィーゴは光が乱舞する中を、UFO狂いのお気楽老人達が屯ろする倶楽部目指して舗道を歩いていた。先刻まで何処で何をしていたのか憶いだせず、なんとなく違和感を抱きながら倶楽部を目指した。目当てのビルデ ィングは直ぐに視つかったので、煙草に火を點け、深々と吸い込むと中に入った。煙草の煙が充満していて誰かを室内で見極めるなどできない相談だった。薄暗い中をソロリソロリ進んで行くと、いがらっぽい煙の充満する中から、何事もないかのように話すトーマス老の話し声が聴こえてきた。  「さて、爆発地点の付近にも目撃者はいた。彼らがいうには――地響きが断続的に起り、ロシア中央部の大地が揺らいだ。そして眩い火柱から発する高温の熱波が、起伏の多い北方針葉樹林地帯を薙ぎ払って何日間も燃 え続けた。それからトゥングース河全域に『黒い雨』が降り注いだ。その後、光輝く一塊りの雲がシベリアやヨーロッパ北部の上空に垂れ込めた。数日間に亙り、広い地域で真夜中に写真が撮れた――それほど夜にもかかわらず非常に明るかったんだな。万華鏡かと見紛う、日没直前の色鮮やかな光景は夜になっても衰えを視せず、天地に光が満ち溢れ、夜明けまで輝き続けた……」  長身痩躯のワクスマンはさりげない断言口調でトーマス老の話を引き継いだ。「ソ連、イギリスおよび合衆国の科学者は――飽くまでも推定らしいんだが――シベリアでの大爆発によるエネルギー放出量を核爆発に匹敵すると考えた。爆発衝撃の凄じさは高空での30メガトン級核爆発に等しいと、数字を挙げてそう主張した科学者さえいたそうだ」  此処でやっとヴィーゴは話に割り込んで質問を投げかけた。「調査に当たったクーリックなる鉱物学者はどの程度調査したんですかね」  それまでずーっと黙り込んでいた、普段は寡黙なグトニコフがボソリといった。「シベリア中央部は地球上で最も人跡未踏の地に属していた。アラスカよりも広大な針葉樹林地帯は、人を視かけることなど滅多にない僻遠の土地だ。未開拓地帯が広域に亙り、どこまでも続く前人未踏の湿原……それがシベリアだ。したがって、調査が難航を極めたのは想像するまでもない」  ヴィーゴは話に加わった。「鉱物学者のクーリックはソ連政府からの任命で調査に赴いたのか、それとも自発的に調査をしようと想い立ったんですかね」  寡黙なグトニコフが再び口を開いた。「クーリックはシベリアのある古い新聞から、1908年に落下した隕石の記事を視つけた。記事の内容に愕いたクーリックは、周辺地域で発行していた新聞を調べ、間もなく12年以上も前の事件を伝える夥しい記事を発見した。それがきっかけとなって調査を想い立ったのではなかろうか。ソ連政府が任命したかどうか……もちろん、任命によって現地に赴いたんだろうとは想うがね」  さらにヴィーゴは疑問を呈した。「隕石でなかったとしたら、大爆発の原因には他に何が考えられますか。1908年に、地球上には存在するはずはなかったと想うが、地球外から進入してきた核ミサイルだった可能性は?」  グトニコフがニヤリと笑うと中断した話を続けた。「イルクーツク地元機関が発行する新聞は、当時の事件を次のように伝えている。『円筒形の物体が落下した直後、巨大な黒煙が発生した。まるで、何千もの砲弾が炸裂したかのような衝撃音が聴こえ、凡ゆる建物は倒壊しかけ、火焔が猛烈な勢いで天空を一刀両断した。ドラゴンが天空を疾駆しながら暴れ回ったら、かくあるかと想えるほどの凄まじさだった。その円筒形の物体は通常の隕石のような音を発してはいなかった』云々……これで満足ですかな」  ヴィーゴは想わずニヤリと笑い、普段は寡黙なグトニコフの方に拇を立てて視せた。すると、グトニコフもまた拇を立てて笑いながら話し続けた。「クーリック率いる調査団は1921年にシベリアへと赴いた。シベリア再訪を果たした1927年にクーリックは、住民から爆発に関連する多くの愕くべき証言を得ている。例えば、地面に激突した隕石から発生する途轍もない高熱だね」  ハーディング爺さんがまたもや突然割り込んできた。テントウ虫の急降下だ。「見渡す限り上流も下流もともに傾斜した土手の上部は大被害を被り根こそぎになった白樺の幹で乱雑きわまりなく明らかに爆発によって粉々になってしまった上に土手の下方は森林がまだ立っていて下生えやらさらに樹幹や折れたり腐ったりした枝で乱れていて雪を被った小さな丘の頂上には一本の木も生えておらず1908年に襲いきたったつむじ風のお蔭でものの見事に丸裸になり惨状は視るも無残だった」  一気に話す威勢のよさには、五月蝿いのは確かだが同時に感じ入ってしまう。爺さんはいいたいだけいうと、満足したのかうしろに隠れてしまった。  ヘンリーが憶いだしたように、一度止ってしまったかかりにくいエンジンさながら、ゆっくりゆっくり話しはじめた。幸いにして、冷え切ったエンジンがなんとか始動し、マシン内温度が上昇しはじめたかのように隠居の話し方は次第に流暢になった。  「調査団一行が進むにしたがって、根こそぎになった樹木の数は増えた。樹木の先端は盡く爆発で散乱してしまったためか南もしくは南東に向けて倒れていた。樹齢数百年にもなる落葉松は殆どが倒れていた。樹木はどれもこれも通常の森林火災などではなく、凡ゆるものを焼き盡くしてしまう一瞬の灼熱の閃光による影響を示していた。落下地点の中心に該当する凍てついた湿原の周囲では、樹木が不揃いの扇のように放射状になって倒れていた。中心から遠ざかるにしたがって樹皮や大枝がなくなり、幹だけが残った樹木が一際目立つようになった。林立する樹木の様子はまるで電柱のようだったという」  ヘンリーが話し終るや否やたちまち辺りに静寂が垂れ込めた。それまで、賑々しい子供の集団のようだった隠居連中が一斉に黙り込んでしまったのだ。銘々、己れの考えに耽ってでもいるのだろう。あまりに静かになってしまい、ヴィーゴは想わず愚問を発した。  「これまでの説明で核爆発の可能性が濃厚になったと想うのですが、結局は鉱物学者クーリックは何も発見できなかったのですかね」  新たに葉巻に火を點けて一服吹かすと、トーマス老は自分の吐きだした煙の行方を追いながら説明しはじめた。  「1928年にクーリックはさらに探検隊を率いて、トゥングース河流域に向い、衝突地点の周囲で磁気測定を行なった。しかし、ガラクタ同然の測定器では隕石らしいものは小片すら発見できなかった。その後、トゥングース河流域の爆発はTNT火薬3千万トンに匹敵することが判明した。これは、ノーベル賞受賞化学者ウィラード・F・リビーの説だ。つまり、どう考えても核爆発説を捨て切れない。戦後、合衆国やソ連は度々核実験を行なっている。核実験から得られたデータは膨大なものだが、どのデータにも共通性が視つかっている。つまり、爆心地から数百メートルの範囲内に葉が一枚もなく、黒焦げになった樹木が電柱のように垂直に立っていたのだ。その様はまるで電柱の森のようだったというんだ」  爆心地周辺は原爆の炸裂によって形成された光景――樹木が爆発地点の中心部では放射状に倒れ、外側では葉が一枚も残らない枝、幹のみになって直立――に酷似していたことから原子力エンジンを塔載した飛行物 体が、空中で爆発し、地面に激突したとする説が有力だった。  1908年当時、地球上には原子力エンジンはおろか原爆そのものも存在してはいなかった。トゥングースの爆心地の光景が原爆炸裂後の、光景にそっくりだと判明したのは第二次世界大戦終結後だ。  此処でヴィーゴは最後の愚問を発した。  「これまでに伺った説明だと、クーリックは何も発見できなかったようですが、ガラクタ同然の測定器とはいえ鉱物の《欠片|かけら》さえ発見できなかったのですか。当時、ソ連の科学技術水準が低かったにしろ、鉱物学者クーリックは何度もトゥングースを訪れているんだし、なんらかの欠片ぐらいは発見したのではないですかね」  「そこなんだヴィーゴ」といいながらグトニコフが語りはじめた。いつもは寡黙なグトニコフ、今回は珍しく口数が多い。「ビー玉のような小さな輝く球体が何千個となく、トゥングースの土中や樹木の中に埋っているのが視つかった。もちろんクーリックが発見したのじゃないことは明らかだ。クーリックの死後何年、あるいは何十年か経ってからのことだろう。そのビー玉のような物体の分布状態は衝撃波が影響した方向と符合している。それらの球体は昼夜を分かたず地球の地表に衝突する、ありふれた小隕石の欠片とはまったく異なっていた。さらに精密な分析により、球体から少量のコバルトやニッケルそれに微量の銅やゲルマニウムが出てきた。それらは器械の一部や電線と覚しい銅線、またゲルマニウムを含む半導体の混在したものだ。以上の事実から、視つかった物質は円筒形の物体の一部、つまりわずかな残骸と推測できた。核燃料を搭載した非起爆性容器の遮蔽板が、なんらかの原因で溶融し爆発したのではないか」  さらにグトニコフは続ける。「物体は、『南東から北東』あるいは『南東から北西』に動いたとする二通りの目撃証言があった。後世の研究では両者ともに間違いではなかったことになっている。すなわち、調査した結果から、物体はシベリア上空で方向転換をしたことが判明した……弾道および爆風の重複衝撃を受けたにも拘わらず直立する樹木が証拠になった。最終降下に入る直前、東方から地上に接近し、爆発直前に西方へ転進したんだろう」  一同、グトニコフの明解な説明に大きく頷いたのはいうまでもない。グトニコフが話し終るや否や、一同はそれまでの浮わついた態度など、何処へか押し込めてしまっていつもの紳士に戻っていた。  ヴィーゴは、隠居身分のお気楽老人らの屯ろする倶楽部を出、煙草を咥えてライターを入れてある上着の胸ポケットをまさぐりながら何処かを目指した。なんとなく浮遊しながら前進しているような感覚が襲ってきて睡眠と覚醒の間を往来した。街中を彷徨い、足下に舗道がなくなったのを不審に想いつつ歩き続けた。ヴィーゴには現在地はおろか、これから何処に行こうとしてるのか分からなかった。  舗道を歩いているつもりがいつの間にか、海中を漂っているのに気づいて愕き、前方に眼を凝らした。汐の流れに逆らって揺れ動く黒い影――長い黒髪がまるで触手を延ばすかのように蠢くのが視えた。東洋人と想える少 女がうなだれ、海中に直立した姿勢で沈んでいるのだった。ギョッとしてその場から離れようと藻掻くが身動きがとれなかった。  濃度の高い液体の中で重い足を引き摺り、人混みを掻き分けて強引に歩んでいるような感覚が襲ってきた。巨大な単細胞生物のように、増大する重力の中を、四肢を前後に動かしながら前進し続けた。遠のく意識を引き戻そうとしながらも態勢を維持しきれず、全身に浸透してくる寒気に顫えながら底知れぬ昏睡の深みへと落ちて行った。 四  ヴィーゴの全身は、宇宙の深奥から加速しながら伝わってくる震動に共鳴し、ゆっくり揺れはじめた。震動の齎す激甚な耳鳴りに堪えきれずに頭を抱え、足下に出現した巨大な光の渦が、猛烈な速度で襲いかかってくるのを察知して飛び退いた途端に転倒した。肉体を襲う激しい痙攣に抗って跳ね起きた拍子に、想いっきりキャノピーに額を打つけたヴィーゴは、異世界から生還できたのに気づいた。  「探偵さん、大丈夫?」  聴き覚えのある話し方をする女の声にヴィーゴは想わず眼を瞠った。それは、500年前に交際っていたアルゴンキン・ポスト紙の記者シモーヌの声だった。キャノピー越しに左手を見遣れば、そこにはアンドロイド風の、若い女がなにやら分厚い書籍を小脇に抱えて佇んでいた。キャノピーが開き、女が差し出すハードカヴァー本を視たヴィーゴは、遙かな昔の膨大な量の記憶の中に分け入り、霞み古びた憶い出の中からその本に纏わる情景をありありと憶いだした。  「君がシモーヌだとしたら、確かにそれは私が君に進呈した限定本だな」  「わたしを愛してくれたヴィーゴなのね……あなたは」聴こえるか聴こえない小声でシモーヌはそう呟くと涙ぐんだ。  声はシモーヌだが、姿には微妙な差異があった。第一印象が信頼できるなら、眼前にいる女はアンドロイドに違いない。やはり、シモーヌもまた同様に未来社会で何者かの手によって「蘇った」のだろう。シモーヌは、自身で運転していた車の中から炭化した姿で発見された。当時の報道では、悲惨な状態で死んでいたことになっている。  「声から、君が誰であるかは察しがつく。しかし現在の容姿には昔の君とは、微妙な違いがあるように想えるんだが……」  「そうなの、わたし自身なんとなく違和感があるわ」そう応えながらシモーヌはちょっぴり悲しげな表情を視せて頷いた。  ヴィーゴは看護婦がいないのを幸いにカプセルから抜けだし、シモーヌをがっしりした両腕で抱き締めた。男の抱擁に応えるかのように、女が華奢な腕で相手の身体を《緊|ひし》と抱きしめた。二人の間に一瞬だが激しい情感が沸き起こり、高電圧の電気が体内を一周したかに想うと同時に、互いの身体に接触している掌に相手の懐かしい温もりが伝わってくるのを覚えた。  二人は互いの記憶内をまさぐり、光の大渦の中心部にむかって落下しつつ、500年前の世界へと遡って行った。ヴィーゴはいつしかノートンのモータサイクルを操り、後部座席にシモーヌを乗せて空間を疾駆していた。膨大なデータが脳内に流れ込み、映像がめまぐるしい変転を繰り返えした。ヴィーゴもシモーヌも特定の映像に融合してしまったかのような感覚に囚われ、自分達の占有している領域が仮想なのか幻覚の世界なのかを怪しんだ。  絶えず変転する映像は靄がかかったように薄れ、その中を突っ切る二人の耳に何人かの話し声が聴こえてきた。声の大きさに比例するかのように映像が鮮明になったり霞んだりして視えた。どうやら、軍事基地と覚しい内部に迷い込んでしまったらしい。二人はその不鮮明な映像の中に漂いながら聴き耳をたてた。  東洋風な風貌にがっしりした体格のムロトなる戦略空軍伍長がなにやらいい、ムロトの同僚ガルシアが威勢よく応えているところにマッケルロイ軍曹が割り込んだ。年長の古参兵ニコルズ曹長がムロトの意見を《窘|たしな》め、ムロトに助け舟でもだすかのように新参のピアッツァ上等兵が何かをいうと天を仰いで十字を切る仕種をした。ピアッツァが十字を切り終るか終らない中に、他の隊員は一斉に頭上を警戒しながら見渡すと、耳をすますような素振りを示した。  「おい、上の方から何万匹もの蜂の翔んでいるような音が聴こえてくるぞ」好奇心旺盛なガルシアとムロトが、同時に風を斬るような鋭い音のする方向に移動しはじめた。  「落ち着け、モータサイクルのエンジン音だ」マッケルロイが豪胆な軍曹らしく悠然と構え、恐怖を募らせている輩下の隊員を鎮めようとするが、当人自身すくなからず神経過敏になっているのに気づいていた。  「何者かが我々を観察しているような気配がします、軍曹」今にも撃鉄を起こして、銃撃戦に移ろうと身構えながらガルシアが叫んだ。途端に隊員は互いに相手を確認しながら戦闘隊形を取りはじめた。  「結界を張り、即応態勢を維持したまま待機しろ、急げ」ニコルズは動揺をおくびにもださず、指揮官らしくてきぱきと命令を下した。  突如として眼前に凡ゆる物体を呑み込もうとする、エネルギーの渦が出現し、ヴィーゴとシモーヌは愕いた。ヴィーゴは得体の知れない力に抵抗するかのように、モーターサイクルのエンジン出力を上げ、シモーヌを後部席に乗せてその場から急発進した。強大な重力が脱出を図る二人をモータサイクル諸共に捕獲し、磨り潰してしまいそうな勢いで迫ってきた。ヴィーゴはエンジンが悲鳴を上げ、エネルギーの渦に呑み込まれそうになるのを振り切るべくアクセルを吹かし続けた。  周囲の映像がめまぐるしく変転して時空が歪曲しはじめ、金属を引き裂くような鋭い音をたてて何機もの飛翔体が二人の眼前を斜めに横切って行った。二人は衛星からの光を反射させて微風に揺れる木々の葉を眺め、そ の幻想的な光景に別の世界にいるような錯覚に陥った。時間の存在しない異世界に漂う帆船の中で、生き残った二人が息を潜めて次に何が起こるか待ち構えているのだ。しかし、それも束の間に過ぎなかった。  光が交錯する空間に暗黒が割り込んできて激しく入れ替わり、二人を乗せたモータサイクルは光の中を闇から闇へと突入、離脱を繰り返えした。ヴィーゴもシモーヌも時間の観念が薄れ、自分自身の存在すら意識できなく なり、無の世界に陥って行った。二人は周囲の空間と融合してしまったかのような、奇妙な感覚に囚われながら、存在感を維持しようと足掻いた。  遙か彼方にピンホール大の光点が視え、やがて点が面に拡大、輝くオーロラの真っ只中に突入したかに想った。だが、それはオーロラではなく、自ら発光する六角塔の納骨堂を想わせる巨大な構築物だった。二人は、眼 前に迫り来る構築物に眼を瞠り、なんとか窮状から抜け出そうとするがままならない。  もはや激突は時間の問題、視る間に大きくなってくる物体に為す術もなく最期を覚悟した直後、カプセルが眼前に現れた。そのとき二人は抱きついたまま床に横たわっているのに気づいて帰還できたのを悟った。異変に 気づいたのはシモーヌの方が数秒ほど早かったか、起き上がって眉間に手をやると軽く頭を左右に振り動かし、まだ横たわってボンヤリしているヴィーゴにむかって話しかけた。  「なあ杏子、此処は何処なんだろな。死んだと想っていたのに妙だぞ」  シモーヌは男の人格と入れ変わり、声が低音に、しかも口調がぞんざいになっていた。愕いたのはヴィーゴの方だが、ヴィーゴもまたいつの間にか人格が入れ変わり甲高い女の声で応えた。  「秀一さん、愕いてるのはわたしの方も同じよ」  「びっくりなさいました?」  傍で突然、中性の甲高い声がしたために秀一、杏子の二人は飛び上がって愕いた。話しかけてきたのは、看護婦のアンディ12号だった。  「あなた方にはそれぞれ、ヴィーゴ、シモーヌご両人と肉体を共有していただくことになりました」  「何故このようなことに?私も杏子も死んだはずなのに。いったい此処は何処なんです」  「前のお二人にもお話した通りあなた方が生きていた時代より570年ほど未来の世界になります」  「ああー、なんてことを」同時に看護婦に話しかけたその声も話し方も、まるでアンドロイドのように中性に変わっているのに二人は眼を瞠った。ショックが強烈だったか、軽いヒステリー性のクスクス笑いをしてしまった。  「君と同様われわれ二人も最初は愕いた」杏子と入れ変わったヴィーゴが、シモーヌの痕跡を残す中途半端な肉体を纏ったままの秀一に話しかけた。  以前に何処かで会ったことがあるような……こんなのを既視感というのだろうか、そう想いつつ秀一はヴィーゴに訊いた。「貴方は?」  「私は、500年前にカナダはハーストで私立探偵をしていた。ひょんなことから良からぬ連中を追跡中に、断崖からモータサイクルごと転落し、事故死したヴィーゴ・オストロスキだ」そう応えながらヴィーゴも以前に何処かで会ったような想いに囚われていた。  「そうですか、不思議なことはあるものですね。私も同様に妖しい女を愛車で追跡中に、高速道路から転落して命を落とした前嶋秀一です」  そう秀一が話し終るや否や、二人は同時にアッと声を上げると息を呑んだ。金属を引き裂くようなエンジン音を放ちながら炎上し、断崖を落下して行くモータサイクルとそのライダーの姿が眼前にちらついた。次いで、折り重なるようにして転落しつつ燃え上がる乗用車と、苦痛に歪んだ表情を視せる運転者――その二重露出した映像が二人の脳裏にありありと浮かび上がってきた。  「私たちには共通項があるようだな」とヴィーゴ。  「世の中には理性だけでは説明できないことが、数えきれないほどあるものですね」そう秀一は応えた。  「あなた方にとっては大変な衝撃でしょうけど、慣れてしまえば却って快適かも知れません。わたしはご覧の通りの看護婦ですが、それはほんの一面にしか過ぎないのです。わたしの中には複数の人格が存在してますわ」と看護婦姿のアンディ12号。  同時に二人は問いを発した。「きみは、多重人格者なのか?」  「そういうことになりましょうか、あなた方が生きていた世界では異常なのでしたね」むしろ誇らしげに胸を張ってアンディ12号は応えた。  「シモーヌ、杏子」二人の口から同時に相手を呼ぶ金切り声が衝いて出るか出ないかに、ヴィーゴも秀一も姿を隠してシモーヌと杏子が現れた。  新たに現れた二人の人格にむかってアンディ12号は話しかけた。「お二人にはとてもショッキングなことのようですわね」  「ええ、そうでしょうね」と中性の声がシモーヌと杏子の口から二重唱になって出た。音程が微妙に異なり、まるでア・カペラのように聴こえた。二人は眼を見合わせ肩をすくめるとアンディ12号の方に向いてニコリと微笑んだ。アンディ12号はホッと胸をなでおろすかのように軽くため息をつき微笑み返えした。  「あなたがたの方が殿方よりも適応力は卓れているようですね。どうか、ご両人を宥め、冷静になるよう説得してくださいな」そこまでいうと看護婦は二人の前からそそくさと去って行った。 五  一度死んだ人間が如何にしたら別の肉体に入り込めるのか、杏子、秀一の二人には奇っ怪すぎて想像つかなかった。とにかく、彼らは新しい世界に蘇生し、4人で肉体2体を共有、怪しげな実験室から何の変哲もなさそうな居室に移動した。しかし、移動先は今まで慣れ親しんだ救命カプセル型の私的居住環境とは異なっていた。  特筆すべきなのは床から壁を経て天井に到る各境界部分に継ぎ目がなく、さらに部屋全体がくすんだ中間色を発色しながら、絶えず色彩を変えるために、その広さを把握できないことだろう。壁にむかって歩いていて、い つの間にか床と天井が入れ替わり、壁が反対側に出現しているのに気づくのが関の山だった。永遠に到達しない壁に向かい、歩き続けた挙句に息絶えるか、潔く断念して無駄死を避けるしかなかった。  就寝直前に、システムが四人の挙動を感知して床を迫り上げ、親切にもベッドを形成してくれた。壁にしろベッドにしろ、一見したところありふれたテクノロジーの産物に視えた。しかし、居住者に発想の転換を迫ってくるのは奇妙奇天烈以外のなにものでもなかった。彼らはベッドに馴染めずに輾転反側し、睡眠、覚醒間を行きつ戻りつしながら、銘々潜在意識の広大かつ底なしの深淵へと降下して行った。  身体が仰臥状態のままベッドから徐々に浮きはじめ、やがて天蓋を抜けて宇宙空間に到達した。暗黒の天空に輝き、動き続ける恒星や惑星それに衛星は、記憶する星座とは異なる配列を形成して夫々の軌道を回ってい た。月によく似た衛星が猛烈な勢いで接近してきて、激突寸前に軌道を変えると遠ざかって行った。無数の発光体を辛うじて躱しながら、火星そっくりの惑星に接近し、一瞬後に傍をすり抜けた。暗黒星系を越えた先には、光量子の縦横に飛びかう天空が、遥かな彼方にまで拡がっていた。  浮遊感覚を楽しみながらも、四人はまるで海の中にいるようだと気づいた。辺りを見渡し、下方に皿を二枚合わせにしたような、無数の物体が光を放ちながら漂っているのを発見した。一見したところUFOの大編隊が音も立てずに移動しているかのようだった。それらの物体の下部には、触手の類が無数に垂れ下がり、ユラユラ揺れていた。透明なクラゲの大群が目眩く光に乗って移動する様は、超光速で航行するUFOにも似て不気味であるとともに壮観だった。  群生するクラゲの中を様々な種類の色鮮やかな生物が、四方八方に悠然と泳いだり敏捷に泳いでいた。クラゲ同様、海に棲息する魚類に属する生物だ。宇宙空間にどうして海棲生物が?そう訝しみながらも敏捷に動き回る魚を掴まえようとして追い駈け回した。だが、それらの生物は実体が其処に存在しないのか手から擦り抜けて行った。そのうちに、全身から活力が失せてしまい、手足が酷く重くなってきた。動けそうにないほどの脱力感を覚え、呼吸が苦しくなり窒息しかけた。  光が揺れて視える頭上に海藻が漂っているのを発見、溺れている自分に気づき、慌てて水中から出ようとして手足をばたつかせ、もがく中に身体が海面に出た。肺が空気を求めて大きく膨張、収縮を繰り返えし、鋭い陽光が眼を刺すあまりの眩しさに自己の存在感を失いながら、光が次から次へと襲いかかってきて身体に貼り付くのを取り払おうと足掻いた。  四人の意識が幽界から雷鳴と閃光の交錯する冥界に転移し、紺碧の天空を恰もドラゴンの如く疾駆し、上昇下降を繰り返えした。黒っぽい偵察機が、彼らの眼前を掠め、漆黒の闇に紛れ込んだ。合衆国戦略空軍の戦略 偵察機ルシファーの異名をとるSR939だった。その戦略偵察機に、それを遥かに上回る1機の巨大なUFOが接近しつつあった。  「スコルツェニ大佐、方位030からUFOが接近してきます」操縦席の上官に報告する航法士の悲鳴に近い声が四人の脳内で谺した。  「了解だ、ラスムッセン」大佐が後部席の軍曹に落ち着いた低い声で応答した。  「隠れん坊作戦で行くぞ、軍曹」そういいながら大佐は透明なカヴァーを開け、中にある釦を押した。  ラスムッセンが「了解」と応える前にSR939は、闇に紛れ込んで暫くは何事も起こらず、大佐はしてやったりとほくそ笑んだ。しかし、軍曹が前席に向けて拇を立てて視せたのも束の間、機体に微かな振動が伝わり始めた。地球製の最新鋭機SR939ですら、UFOにはまるで歯が立たないヒョっ子のようなものだった。  「大佐、奴らに感づかれました」後席に陣取る航法士は今にも脱出レヴァーを引いて逃げだしそうな勢いだ。  「慌てるな軍曹、本番はこれからだ。舌を噛まないよう気をつけろ」そういうと大佐は機体を鋭角ターンさせた。が、此処で音声は途切れて静寂が闇に浸透して行き、SR939はUFOと共に忽然と消えてしまった。  UFOに遭遇した合衆国戦略空軍のスコルツェニ大佐、ラスムッセン軍曹はその後どうなったのか。彼らの記憶を辿ることで何かが判るかも知れない。そう考えた四人は、潜在意識の中で彼らの記憶に接触すると精神内を精査した。だが精神操作による記憶喪失が原因か、UFOとの遭遇から数時間に亙る両人の記憶が抜け落ちているのが判明した。  どのような理由から精神操作をする必要があったのだろうか。公開を憚るような重大な事件が起こったのかも知れない。軍上層部の連中が二人の口封じを画策したのは、国家存亡の危機に触れるほどの重大事件であったか らだろう。インターネット上の然るべきサイトにはそれらしい情報が無数に載っている。中に、UFOを扱った900年以上も前の記事がある。それは弁護士サミュエル・カートランドを代表とする「UFOの隠蔽政策に反対する市民組織」なる団体の活躍を紹介している。その市民組織は情報自由公開法を楯に時の政府を相手に訴訟を起こし、国家機関の秘匿するUFOに関する資料を大量に公開させた。  公開資料の中には当時、NSAなる機関の公開した一千ページ近い大部な資料をも含んでいた。しかし肝心な内容は判読不可能なほどに殆んど塗り潰してあった。その時代の政府によれば人類存亡に係わる重大問題は公開できないとのことだった。重大問題とは何を指していたのだろうか。その後、当該市民組織が国家機密全文を公開させることに成功したかどうかは不明だ。  また他のサイトには、やはり900年以上も前の記事が載っている。それによると――「UFOがまたしても地球に大挙襲来してきた。これには一体どんな意味があるのか、そもそも物質界にやってくる彼らの真の目的は何なのか。400年前も今も、科学者はこの疑問に対する明確な解答を持ってはいない。かつて、UFO研究家グレッグ・C・モートンは異星人を称して、我々の宇宙に平行して存在する異次元世界の住人だと唱えた。  モートンの説によれば、連中は我が宇宙への侵入回廊を知っており、我々を精神的混乱に陥れ、翻弄するためにやって来るのだ。気掛りなのは、連中がUFOに乗って現われた直後、周囲に硫黄の臭いが漂うことだ。硫黄の臭いは地獄を連想させる。悪い異星人と戦う地球人類などといった図式は漫画もいい処だ」とあった。  閃光が走ると同時に脳内が、瞬時にして暗黒に閉ざされ、四人は面喰らって凍りついた。存在感が皆無になり、まるで死を飛び超えて、無の世界に到達したような気分になった。誰かの記憶をなぞっているのか、四人の脳内に、不鮮明ながら慄然とさせる映像が流れ込んできた。  褐色の肌をした男が深紅のガウンを纏い、空間の隙間から吹き晒しの凍てついた氷原に忽然と現れた。その男は黒魔術の導師さながら、頭髪と眉毛そして髭から黄金色の光を放ち、さらに両眼からは深紅の光を放って いた。男は吹き晒しの凍土上に仁王立ちになり、腕組をして天を睨むとなにやら呟やいて消え去った。  またしても一瞬間、電荷ゼロの状態が起こり、四人はその場で無に陥った。天空が白一色に染まって距離感を喪失し、それと同時に存在感が皆無になった。だが、数億分の1秒後、データが怒涛の如く押し寄せてきた。床に落下したグラスが衝撃で割れる鋭い音を発し、周囲にウイスキーの飛沫を飛び散らした。カウンターに凭れていた戦略空軍大佐スコルツェニは、アルコール臭い吐息を漏らしたのちに態勢を立て直し、傍の伍代と名乗るフリー・ジャーナリストに話しかけるような仕種をした。SR939が輪郭だけ視せて暗黒の天体を瞬時に掠めた。  東洋人らしい中年の男が梯子の最上段から、分厚い書物を手にしたアイリーンと名乗る魅力的な中年女性の膝の上に落下してきた。アイリーンは、甲高い悲鳴を上げ、左膝を押さえてその場に倒れ込んだ。男の名は伍代、 かつては天体物理学界で独自の理論を展開する、異色の科学者として勇名を馳せていた人物だった。このときの出逢いがきっかけでその後、二人は親密な間柄になった。  ヴィーゴ、杏子とシモーヌ、秀一は各々、潜在意識の中でさらに仲間を発見したことになるが、目覚めるまでは一人もその事実には気づかなかった。前者のグループには伍代、後者のグループにはアイリーンが加わり、夫 々が三人一組のトリオを形成することになった。  それにしてもなぜ三人一組なのか。刑事が捜査活動をする場合は二人一組というペアで行動するのが常道だった。宇宙探査では同一のマシンを3基搭載する。1基を稼働させ、2基はバックアップ用として待機させておく。1基を稼働用にして、残り1基をバックアップ用に待機させておくだけでは心許ない。ペアでは宇宙空間で任務を完遂できる可能性は非常に低くなる。重量が嵩んでも3基用意するのにはれっきとした理由があるのだ。死人を蘇生させた連中の意識の根底に「三位一体」の考えがあるなら、「父と子と精霊」の裏返えしにもなりかねない途轍もなく悪い冗談だ。  「神は死んだ」――そうツァラトゥストラに語らせたニーチェは神の正体を識っていたのだろうか。聖書に登場する神は本来の神なのか、それとも神を装った別の存在なのか。神の存在を否定した、ある生物学者はダーウィンの進化論で、生物の進化を完全に説明できるとの間違った考えに囚われ、己れの構築した理論の誤謬に気づかなかった。神の非存在を科学が証明したなどと唱えた似非学者は、死後の世界でどのような苦難に遭っているのだろうか。  神の存在を否定する連中にはなんらかの意図があるのではないか。科学万能の時代に生きる人類にとって神の存在など煩わしいだけ、己れの精神を束縛から解放して、自由気儘に行動するのが理にかなっているとでもい いたいらしい。黒魔術の世界でいうところの「魂の解放」には、人類を堕落させ、悪い霊の仲間に引き摺り込む意図が垣間見える。  神を否定する連中が次に唱える説は凡そ察しがつく。如何にも現在の苦境から抜け出せ、何事にも因われずに楽な生き方ができる、と主張するがそれこそが陥穽なのだ。六人の意識内には膨大な映像に加え、果てしのな い問いかけや、自問自答がめまぐるしく去来し、混乱の中に埋没してしまいそうだった。彼らに認識できるのは如何なる世界で、その世界を取り仕切っている連中は如何なる存在なのか彼らには知る由もなかった。 六  かつて若いユーザの間では、インターネットを通じてドラゴンネットに接続し、異星の高等生物と交信するのが流行りだった。インターネットなるシステムは、猫も杓子もの様相を呈していて今更の感が強かったが、ドラゴンネットとなると殆どのユーザが知らないだけになにやら胡散臭さが《憑|つ》きまとったものだ。専門家の中にはドラゴンネットなぞ実在するはずがない、仮想現実世界の産物にすぎない――そう主張する者もいた。仮想現実となれば話は別なのか、現実と虚構のいずれが危険なのか、そもそも簡単に影響を受けてしまうような、柔な頭脳ではいずれにしろ危険なことに変りはないだろう――インターネット上で交される議論は紛糾する一方だった。  クラッカーと称するお騒がせユーザが出てきてネットワークの様相は一変した。それまでは、システムの解析に純粋な喜びを見出していたハッカーがコンピュータ界をリードしていた。だが、クラッカーがネットワークを破壊するに及び、ハッカーの発言権は大幅に低下した。パーソナル・コンピュータを碌に使いこなせないジャーナリストや、一般ユーザがハッカーをクラッカーと混同したのが原因だ。迷惑を蒙ったのはハッカーだった。  ネットワークの破壊は日常化していた。こうなると悪いのはハッカーだ、奴らをネットワークから締め出せ、いや悪いのはハッカーだけじゃない、異星人がネットワークに侵入し、破壊行為を繰り返えしているんだ。連中は、地球に人類が出現する以前の早い段階にやってきていたろうから、地球の言語を知り尽くしている可能性を否定できない。したがって、最も怪しいのはハッカーよりも異星人だ――そういった意見が連日ネット上を飛び交っていた。  だが世の中には、コンピュータなるマシンが如何なるものか考えたことも視たことも、まして触ったこともない人々もまた少なからず存在した。そういった人達は、コンピュータなんて無くても日常生活に不便はないといっていたものだ。人間の精神はまだまだ幼稚なままだし、機械に頼って生きるなど愚の骨頂の極みだ。キーを叩いたりマウスを操作する暇があるなら冥想でもした方が有益ってものだろう。そういった意見には侮りがたいところがあった。  そうとも、人間はもっと精神面を鍛えなくては次の世紀を迎えられずに滅んでしまう。この不景気な時世にパーソナル・コンピュータやら電気自動車やら贅沢なものは必要ない。健康な四肢があれば大抵の用は足りる。これまた、昔はなかなか侮りがたい意見と受け取られていた。  ドラゴンネットなんて得体の知れないネットワークなぞ、齷齪生きている人々には想像もつかない。なにしろ世界は天災、人災、そのほか諸々の災害のスーパーマーケットそこのけだ。なんでもござれ、満身創痍の末期患者も同然だ。責任の持って行場がないほど世界を汚染しておきながら、それでも気づかなかったのだから人間の愚かしさには果しがない。  3012年の現代、ドラゴンネットはどうなっているのか。ヴィーゴや秀一にとってはもちろんシモーヌや杏子にとっても、ドラゴンネットのゆく末は大いに気になるところだった。また、UFOとドラゴンネットの関わりについて、彼らの誰もが大いに関心を抱いていた。しかし、現在六人が生存しているこの世界に、類似したネットワーク・システムが存在するのか、そいつは大いに疑問だと秀一は考える。  それどころか、個人で使用できるマシンさえもこの世界には存在していそうもない。なぜなら連中は、500年前の精神構造のまま蘇生してしまった六人とは、全く異なった手法で互いに通信し合っているに違いないからだ。念のためアンディ12号がやってきたら、似たようなマシンがあるかどうか訊いてみることに6人の結論は落ち着き、またしてもUFOの話題に戻った。  ヴィーゴは回想する――500年前、UFO研究組織にはUFOに取り憑かれた連中がゴマンといた。ヴィーゴの友人にもそういったUFOマニアが何人かいた。実証不可能な目撃情報や拉致被害体験談、実写かどうか不 明な映像ばかりとあっては、いくら探求した処で何の足しにもなるまいに、UFOマニアどころか科学者までもが夢中とあっては呆れるほかない。ジム・ウエイバリーもまたそういった科学者の一人だった。ジムは好人物だが、自己の才能をつまらない研究に注ぎ込み、長くもない人生を浪費していた。少なくともヴィーゴにはそう想えた。UFO研究家が、未確認飛翔体のそれらしい映像や目撃証言を収集し分析しているうちに、異星人は地球人になりすまして街中を徘徊き、人間の知能程度を天秤にかけていたかも知れないのだ。  UFOの飛来元に関する議論は何世紀も前から行なわれていた。月面を基地とする説が定着してからでさえ、いつの時代も議論は沸騰した。UFOの存在を信じない連中の根拠は、太陽系外飛来否定論に基いていた。何光年もの距離を航行し、銀河系の辺境にこなければならない必然性などあるはずがないというのだ。しかし、UFO否定論が論拠薄弱、稚拙なのは否定すべくもなく、月面基地説を論外としたのは否定論者側の想像力の貧困が原因か、あるいは否定しなければならない理由があったのだろう。  月面から飛来すると仮定するなら、頻繁に目撃する理由が成立つことになる。それでは、否定論者にとって都合が悪いのだろう。恐らく否定論者こそ実は肯定論者なのかも知れないのだ。連中の目的は否定論のキャンペーンを張ることでUFOから人々の注視の的を、他に向けさせる……否定することでなんらかの利益を得ていることになる。  特定の機関が故意に偽のUFO情報を流していたのではないだろうか。理解し難いのはそれによって如何なる利益が得られたのかなのだ。不可解な現象の殆どは目撃者の想い込みや誤認に過ぎないのだろう。幽霊の正体視たり枯れ尾花だ。しかし、UFOに関する限りそのような譬えは通用しない。いまだにUFOが最大の謎であることに変りはない。  謎に満ちた宇宙の解明に挑む、人類の欲求が衰えることはないだろうが、たとえ探求できたところで、我々が如何に無知であるかを想い知るだけで終るのかも知れない。結局のところ我々人類は広大な宇宙はもちろん、我々自身が住んでいる世界についてさえ知らないに等しく、宇宙は我々の貧弱な想像など寄せつけないほどに複雑怪奇な世界なのだろう。  それはそうだが、「はたしてこの世界に、われわれの考え通りの未確認飛翔体なる概念があるかどうか」と秀一。「彼ら自身がUFOを操る連中なのかも知れない。なにしろ、ご覧のとおりの肉体を提供してくれたんだから」  「やつらが、UFOを乗り回している連中だとするなら、我々に明かすはずはないだろ」憮然とした面持ちでヴィーゴは応える。旺盛な知識欲を満たしてくれる手段が、この世界に存在するのかどうか、それを確認するのでさえ不可能に近いのではないか。  かつて精悍だった私立探偵にしては、些か弱気に過ぎる考え方だ。連中が我々のDNAに手を加え、人格を修正したのかも知れない――そうヴィーゴは懸念する。  正体は依然として不明だとして、ならばUFOはどのようにして航行するのだろうか。如何なる原理によって空間移動をやってのけるのか、それが判れば動力開発の可能性は一気に高まるに違いない。昔、多数の科学者が星間を航行する宇宙船の動力について論じていた。最も古典的なアイディアは原子力、続いて反重力や逆重力といった重力を利用する考えだ。さらに、量子力学の研究が活発になるにしたがって、場の理論を応用した推進方式が有力になった。  電磁流体力学から派生した《電磁場推進|M H D》は秀逸な理論であり、実現可能だとして世の注目を浴びたが実現しなかった。インターネット上には、この手の信じられない理論を公開しているサイトが算え切れないほど存在した。大抵は昔のしかるべき月刊誌から引用した内容に過ぎないが、中にはかなり信憑性の高い理論を紹介しているサイトもあった。  場共鳴推進システムなる原理は、天体物理学者アラン・ホルトの提唱する原理として有名だった。電磁場を形成し、プリズム効果によって別時空の1点と同期、共鳴させ、次にトンネル効果なる法則により一瞬にして移動する――それなら、確かに移動に際しては動力は不要だ。しかし、残念ながら電磁場を形成するには、なんらかの途方もなく莫大なエネルギーが必要になる。結局は、既存理論に基く移動手段では化石燃料の束縛から逃れることはできない。  意識だけで飛翔体を操作、航行させることができるなら化石燃料など必要ない。しかし、それでは科学の領域を逸脱しオカルティズム領域の話になってしまう。人類にはUFOに類似した飛翔体を航行させる工学技術も知能もない――そう結論し、諦めてしまってよいのか。  夜間はもとより昼間でさえ堂々と飛び回り、誰もが目撃していながら、それに就いて理解できないのは人間の知識欲に限界があったためか。UFOを乗り回していた連中は機体を目撃させることで、人類に何らかのメッセージを伝えようとしていたとは考えられないだろうか。  聖書の中にすでに記述があるにも拘らず、人類はそれに気づくこともなく争いごとにドップリ浸かり、愚かしくも破滅への道を驀進してきた。秀一は記憶の遥かな深淵を《放浪|さまよ》いつつ探索を試み、二十代の頃に読んだことのある旧約聖書「エゼキエルの書」に辿り着いた。  未確認飛行物体UFOは旧約聖書の時代から、地球の上空を自由に飛び回り、人目に触れていながら正体不明だった。ところが、旧約聖書「エゼキエルの書」にはUFOについて愕くほど克明な描写が載っている。昔、NASAに在籍していた科学者ヨーゼフ・ブルームリッヒは、エゼキェルの書を読んでその記述を詳細に分析した結果、当時NASAが月にパイロットを送り込むべく、開発を進めていた月着陸船にそっくりなのに気づいた。  現在から2150年以上前の西暦紀元前に、聖者エゼキェルは火の玉が北の方角から飛来してくるのを目撃――その火の玉は烈しい風と雲を伴って出現した。大気圏への突入時、機体表面は高温のために大気がイオン化 し、白熱を発していたに違いない。  いよいよ眼前に接近してくる着陸船船体の四面に、エゼキェルは生物の顔に模した何かを目撃することになる。それらは、エゼキェルの眼には人間や獅子あるいは牛や鷲に映ったのだろう。機体の表面には様々な突起物や装置があり、それらを生物と見間違えたのかも知れないし、あるいは実際に機体表面にそれらしい絵が描いてあったのかも知れない。四面から成る機体だとしても四角形ではなかっただろう。なぜなら、角張っていては大気中では抵抗が大きすぎて飛行に適さないからだ。  ブルームリッヒはマーキュリー計画で使用した、帰還用のカプセルを《逆|さかさ》にしたような形状を想像している。ということは、大気圏外から地球に進入できるような設計になっていたのだろう。マーキュリー計画時の月着陸船と決定的に異なるのは、機体上部に4基の回転翼が付いていたことだ。さらに方向転換や高速飛行に使用するジェット・エンジンもしくはロケット・エンジンをも装備していた。これはロケット・エンジンしか装備していない月着陸船とは全く異なり、大気中をも飛行できる設計になっていたからだろう。ロケット・エンジンは例外にしろ回転翼やジェット・エンジンは、大気の存在しない惑星上では全く役立たない代物だ。  「しっかりしてっ、昔の癖が出てきたようね、秀一さん」  杏子の悲鳴に近い声に、秀一は吾に還った。杏子と同居していた30代の頃、車を運転しながら考えごとに耽り、助手席の杏子を不安にさせたものだ。また、昔のビョーキが出てきた所為でどうやら考えごとをしてしまったらしいと気づいた。  だがUFOは、一星系内でしか通用しない思考では理解は困難だし、人類がこれまで構築してきた既存の科学理論では説明不可能だ。目撃件数の多さでは幽霊や亡霊の類に匹敵するにも拘らず依然として正体は不明 だ。 七  天空に、錯綜する光が満ち溢れ、それに続いて雷鳴が轟いた。さらに、烈風が山岳地帯を揺さぶり、天空は紺碧から暗黒に豹変した。荒れ狂う強風の中、巨大な光の渦が疾駆して天空を引き裂き、森林地帯に密生する樹 木の太い樹幹を《刳|えぐ》り取って行った。光の渦は莫大なエネルギーを放射しながら、醜悪なドラゴンに変貌して漆黒の闇の中を縦横無尽に駆け、天空に凄まじい破壊の傷跡を残して彼方へと飛び去った。  「みなさん、お目覚めになる時刻ですわ。恒星は天空の真上に来てますよ、さあ起きてください」頭上から、涼風にそよぐ風鈴の爽やかにして心地よい響きの声が聴こえた。トリオを組む二組の人間は自分達がドラゴンに変身し、天空を疾駆していないのを知って安堵のためか、ベッドの上で大きな伸びをしながらアンディ12号を視あげた。  「やあアンディ、パーソナル・コンピュータかそれに類するマシンがあったら、此処へ持ってきてはくれまいか。掌に乗るパームトップPCでもよいし、それが無理なら、それらしいマシンのある場処に案内でもしてくれないかな」  そうヴィーゴはアンディ12号に頼んだ。やっと眠りから覚めた秀一が自分を指さし、同様の要望を相手に伝える仕種をした。  「あなた方が想像するようなマシンは、この世界には存在しませんが、どうしてもと仰言るなら、のちほど然るべきマシンルームにご案内いたしますわ」アンディ12号は当惑顔に笑みを浮かべて頷くとその場から立ち去った。  しばらくして、アンディ12号が剣闘士の頭部を《象|かたど》った彫像のように、いかつい相貌の若い男を引き連れてきた。焦げ茶色の繋ぎを身に着け、濃紺のベルトを締めたその男はアンディ12号よりさらに上背があった。一見したところエンジニアのようだが、風貌からそれらしさを読み取ることはできない。  「みなさん、担当者をお連れしました。技術的なことに関しては、なんなりとこのラムダ4号にお申し付けください。では、あとをよろしくね」最後の部分を、傍に直立しているラムダ4号にむかって囁き、アンディ12号は長身の身体をいとも軽々と操ってその場から立ち去った。  「では、マシンルームにご案内いたします」天から響いてくるかのような荘厳な低音が聴こえ、六人は唖然としながらも感心した。我々を撹乱状態に陥れようとしている、まるで天使か悪魔のようだな――それがヴィーゴと秀一の新参者に抱いた第一印象だった。  通路を歩くこと数分、突き当たりに頑丈なドアがあり、ラムダ4号がなにやらドアの把手位置にある丸みを帯び、鈍い輝きを放つ金属部分に手をかざした瞬間、全員がマシンルーム内の真っ赤な絨毯の上に移動していた。 ヴィーゴはドアの把手部分に見覚えがあるように想い、振り向いたが、淡い青みがかった光を全体から放つ壁があるのみだった。  「あなた方には、多少の違和感があるかも知れません。しかし、それも束の間、マシンの方であなた方に合わせてくれます。では、お楽しみください、わたしはこれで失礼します」そういって、ラムダ4号は立ち去った。  ヴィーゴと秀一は奇妙な形をしたマシンに近づき、十字を切って互いに眼を見合わせて笑った。だが、その笑いは忽ち凍りつき、巨大な光の渦が押し寄せてくるのを只おどろきの眼で眺めていた。海の真っ暗闇の圧倒的な 水圧下で上方からうっすらと差す、光の当たる方向に視えるものに全員が眼を瞠った。水深は約40メートル、累々と重なり山をなして人骨らしい骨が見渡すかぎりの海底に拡がっていたのだ。何層にも積み重なった様は恰も珊瑚礁のようだが、中に虚ろな眼で睨んでいる髑髏が点在しており、人骨の山なのは確かだった。  深淵から、全長4メートルは超えていそうな数匹の黒っぽい深海生物がゆっくり接近してきた。それらの深海生物は上から差す微かな光の中で化物じみた烏賊のように視えた。烏賊もどきがゆっくり接近してくる様はまるでスローモーションの映像を観ているようだ。足下から得体の知れない生物がズグヮッズグヮッと躙り寄ってくる感覚が恐怖感をさらに増大させた。  「秀一さんおねがい、ここから助けだして」ヴィーゴはいつの間にか奥の方へ退避してしまって杏子が現れた。精神的な動揺が起こる度に人格が入れ替わる仕組みなのか、秀一は以前にも同様な経験をしたことがあったように想った。  「杏子おちつけ。実感はあるが、単なる映像に過ぎないんだ」そういいながら、秀一は杏子を抱き寄せて一緒に水面にむかって浮上を開始した。  淡い光が差していた海中に光が満ちてきて、上昇しているのは確かなはずだった。だが次の瞬間、ヴィーゴはシモーヌと手を繋いでとある珈琲店の、店内にある曲がりくねった階段を上がって行くところだった。この珈琲店を遠くから眺め遣れば、十九世紀後半に活躍したスペインの建築家、ガウディが設計したアパートメントにそっくりなのに気づいたはずだ。だが店内の造りに漠然とした郷愁を感じながらも、3階を目指す二人は、動作を繰り返えすのに熱中していてそれどころではなかった。  紺碧の天空が俄かに漆黒の闇に変貌し、雷鳴が轟いて雨が降りはじめた。さらに追随するかのように最初は微風に始まり、やがて強風が吹き荒れ、巨木を根こそぎ薙ぎ倒した。嵐の中を一人の女が厚手のコートに身を包み、ビルディングの中へと吸い込まれるように入って行った。  「伍代、あなたから頼まれたデータを調べてみたわ。回答は『当該データは末梢された』ですって」アイリーンがそういうと、伍代は眼をショボつかせ、横に腰掛けているアイリーンを引き寄せた。アイリーンの膝の上に伍代は頭を乗せて微睡み、表現しようのない奇妙な夢に《魘|うな》された。  天から種々の鳥が凍りついて落下し、通行人を愕かすが、その通行人すら歩きながらその場に凍りついた。直立したままの凍死者は通りを埋め尽くし、やがて樹氷の森を形成、その森はトゥングースの爆心地にまで続いていた。海水も凍結、膨張を繰り返えしながら陸地にのしかかってきていた。伍代は大気そのものが凍りつき、天から落下してきそうな極寒の中で、己れの身体が足許から上に向けて凍りはじめたのを感じていた。  吹き晒しのツンドラ地帯に一陣の突風が襲来し、天空が深紅の不気味な色に染まった。雷鳴が轟くと同時に振動が地面を揺さ振り、宇宙の深部から発した光の渦が天空を分断した。マシンに凭れながらめまぐるしく変転する映像に視とれていた六人は、広大かつ深遠な宇宙から帰還したかのようにしばらくは呆然自失の態だった。  記憶喪失から回復でもしたかのように周囲を視まわし、ベッドの上に横たわっている己れを発見した六人は愕きのあまり声も出なかった。六人の意識は錯綜し《縺|もつ》れながら互いに相手の識閾を侵触した。表面に現れる人格は激しく入れ替わり、混乱が極限に達した挙句に一斉に体験を語りはじめた。  「深紅に染まった天空なんてこれまでに視たことがあったかしら、夕景色とは大違いだわ」金切り声に近い杏子の声が室内全体に反響した。  「寒気が身体全体に沁みわたってくる感触があまりにも生々しくって」アイリーンはそれだけいうと黙り込んでしまった。  「海底に積み重なっていた人骨の山には今もって驚愕するよ、若い頃の体験なんで記憶は薄らいでいたはずなんだがなあ」遠くを視るような表情で秀一はボソリといった。  「あの珈琲店の珈琲は極上だったな、シモーヌ」ヴィーゴは旨い珈琲を味わった昔を懐かしむかのようにシモーヌに語りかけた。  「でもわたしにとっては曲がりくねった階段を上がったときの記憶の方が新鮮よ、探偵さん」からかうような口調でシモーヌ。  「シベリアの寒風はこの世の終焉を想起させるんだ」遠い昔の、アイリーンとの別離を憶いだしながら、伍代は噛みしめるかのようにゆっくり呟いた。  不審な面持ちで、「ところで、あのマシンルームのマシンはインターネットに接続できないのかな。なぜ、銘々の記憶を映像化して視せるのかそこが解せない」そうヴィーゴはいった。  「あの映像は、あなた方の生涯の記録を保管した然るべき書庫にアクセスし、お視せしたものですわ」アンディ12号の、頭上から突然降りかかってきた中性に近い声に一同ギクリとした。  六人の反応にどこか面白がっているような看護婦の表情に、これまでとは異質なものがあるのに気づいたヴィーゴは、アンディ12号の正体に微かながら不審の念を抱いた。連中は果たして視かけ通りのアンドロイドなのか、以前に抱いた疑惑がまたしてもヴィーゴの脳裏に浮上してきた。アンドロイドを装ってはいるが実は人型高等生物、ヒューマノイドではなかろうか、ヴィーゴの疑惑は徐々に確信に近づいていた。  「もし同じ映像を何度となく繰り返えして視るようなら、我々は物質世界に再生したのではなく、やはり死んでいると想わざるをえない。一度死んだ人間が同一の顕界に転生するなど不可能だ」そういいつつ起き上がって坐禅を組む伍代。  「ならば幽界か。あまり好い気分はしないけど、それもまた良しとしましょうか」如何にも悟りきったような物いいに秀一自身すくなからず愕き、アンディ12号の方に顔を向けるが看護婦はいつの間にか立ち去っていた。  「アンディ嬢に訊いてみたところで納得のゆくような説明をしてくれるかどうか……それより記録庫にアクセスできたのなら、大元のマトリックスにだってアクセスできるのではないかな」ヴィーゴはマトリックスなる用語が、咄嗟に口を衝いて出てきたのにも気づかず、自信たっぷりの表情を浮かべた。  「マトリックスが宇宙のれっきとしたシステムで、しかも我々がいま存在している世界が善なる世界ならアクセスは容易だが、悪なる世界なら諦めた方がよい」伍代が断定口調でいった。  「マトリックスなら何となく分かるわ、けど善なる世界からでないとアクセスできないというのは、どうしてかしら」杏子が少なからず動揺した様子で割り込んできた。  「昔々、ニコラス・カーンなる神秘家が『神秘学原論』なる著書の中で次のように語っていた……『神なる超意識と宇宙を構成する意識との間には、相関関係があり、互いに影響を及ぼし合う。この図式は人間社会にもそのまま当て嵌まる。即ち支配者と被支配者との関係だ。さらに超意識も意識も何階層かに分れ、それぞれ同一レヴェルの階層が対応し、互いに強い結び付きを持っている。それはレヴェルの違う階層からの干渉を防ぐためだ。超意識、意識はまたそれぞれ善と悪とに分断され、その度合に応じて階層を形成すると共に、原則として同一レヴェルの善と悪が対応するようになっている。如何にせん、悪の側を構成する各階層は、必ずしも善の側の各階層に一致してはおらず、雑然とし凡ゆる混沌を生み出す。従って、中レヴェルの善の階層に位置する人類は、悪の全階層に位置する暗黒の力による攻撃、とりわけ誘惑に晒される』……大体そういった内容だ」杏子と入れ替った伍代は、そこまでいうと退いてしまった。  「人間って善であり悪でもあったんじゃなかった、格?いつ頃からそんな考えを受け入れるようになってしまったのよ、あなた」アイリーンは語気を強めて、ヴィーゴと入れ替わろうとしていた伍代に詰め寄った。ヴィーゴが気を利かせ、素早く伍代と入れ替わったのだ。  「確かに生き返える500年前……死ぬ間際は今ほど極端ではなかったさ。死んでる間に宗旨替えしてしまったんだ。どうしてかは分からんし、説明できるような適切な考えが想い浮かばない」そういうと、アイリーンの剣幕に些かタジタジの体で、伍代はすごすごと隠れてしまった。  「まあ穏やかに穏やかに、お互い大人でもあることだし」そういってヴィーゴはアイリーンを宥めた。  かつての敏腕な私立探偵は既成概念の通用しないこの世界では、びっくり箱に愕く感受性の鋭い少年にすぎなかった。思索よりも行動が先の探偵なる職業の世界で生きてきたヴィーゴにとって、今では観察力さえあまり 役に立たないのを痛感した。無能無学な取るに足りない人間の一人になってしまったと認識せざるを得なかった。  「探偵さんのいうとおりだわ、格。お互い500年ぶりの再会なのに、感情的になってはいけないわね」アイリーンはそういい、ヴィーゴの方を盗み視た。  「探偵さんは止めてくれないかな、昔よくシモーヌにはいわれたものだ。今は失業中なんだし、ヴィーゴと呼んでくれたらいい」そう応えてヴィーゴはシモーヌのクスクス笑いが、室内の壁に反響するのを聴きながら塞ぎ込んでしまった。煙草があったら喫いたいし、バーボン・ウイスキーでも一杯ひっかけたいところだが、今のような環境ではどうにもならない。500年前の世界では容疑者を炙り出すのはさほど難しくはなかったが、己れの存在についてはっきり認識するのもままならない世界ではお手上げだ。 八  就寝時刻が近づき、床が迫りだしてベッドを形成すると、それまでの疲労が急激に押し寄せ、六人はベッドに倒れ込んだ。銘々が自分の世界に閉じ籠り、膨大な記憶の中を彷徨いながら、神経の連結叢を辿って遥かな過 去へと降下して行った。最初は朧ろな画像でも眺めているようだったが少しずつ鮮明度を増し、浮遊感覚が薄れて行くにしたがって夢の世界が実在感をもちはじめた。まるで時代を遡り、かつて生きていた現実の世界に舞い戻ったような感触があった。  伍代はパブの前で車を停め、店に入って珈琲を注文した。カウンターに肘をつき、煙草を喫いながら何気なくテレビに眼をやった。鬚を生やした二人の中年男が、《草臥|くたび》れ切った繋ぎを着て椅子にふんぞり返えり、何やらぶつぶつ話している最中だった。対談にしては余り熱気が伝わってこなかった。そもそも服装が妙なばかりか、彼らの態度には視聴者を無視した傍若無人なところがあった。何処かで視たような連中だな……伍代はその二人の鬚面をしげしげと観察した。  両者に共通するのはその外観だ――一見したところはマトモだった。しかし、如何にも残忍そうな顔つきが、闇社会で図太く生きてきた事実を示していた。でっぷり太った方が葉巻を持ち替え、口から煙を吐きだして話しはじめた。  「未来が荒廃した世界かどうかどうして判る。現代から推し測ればその通りかも知れんさ。だが人間はいつだって危機を乗り越えてきたんだ。分かりきったことだが、わしは常識を無視して何ができるかといいたい。常識すら理解できない人間が社会の諸々に就いて四の五の批判したところで問題は何も解決せん。もちろん誰をも非難するつもりはない。むしろわし自身、常識外れの人間じゃなかろうかと恐れてきたし今でもそうだ」 それに応えて別の殺戮を生業にしてきただろう、鋭い眼つきの男――中肉中背、筋肉質の全身から血の匂いを振りまいて威嚇でもしそうな――が同感の意を表するかのように頷いた。床に噛み煙草の葉っぱをペッと吐きだし、曖昧かつ投げやりな聴き取りにくい口調で話しはじめた。  「そのぉ通りぃ。常識すらぁ知らない人間にぃ未来を理解するぅなんて無理だーなぅ。通念なるぅものをとっくとぉ考えてみないことにゃ、俺達の生きてるぅこのぉ社会のぉ規範をぅ超えるなんてこたあぅできないぇ相談だぅ」  煙を勢いよく吐きだした方が反論するように首を横に振る。いくら取り繕っても胡麻化しようのない賤しい顔つきに、勝ち誇ったような表情を視せ、葉巻をふかして煙を辺りに振り撒いた。  「いや違うんだ、わしの考えを誤解しとる。社会的通念とかやらを熟知してるに如くはないが、その通念から脱することはできん。そいつを超えるにゃ勇気が必要だ。殻を破ったらもうそこへは戻れんさ。常識にしがみついてられる方が幸せってもんだ」  二人がダラダラ際限もなく、支離滅裂な持論を展開しているのを無視して、カメラは前の二人同様に繋ぎを着ている解説者を映し出した。そこで伍代は連中が監獄のスタジオ内にいる囚人だと気づいた。解説者は何も語らず、カメラがいきなりあらぬ方向を映し出した。はじめは何なのか分らなかった。仔細に観察し、それが囚人の腕に彫られた見事な刺青と分かるまでに数秒を要した。  画面に次のような内容の文字が流れた―― 「こうして二人の問答は果てしなく続いて行く。気の毒なことに両人とも遂に常識の枠を超えることはできない。一度身についてしまった観念は肉体同様に魂が抜け出てしまわない限り消滅しない。破った殻の中には二度と戻れないとは卓見だが、それはとりもなおさずこの二人が、殻を破ることを非常に恐れている証拠だ」  なんと、解説者は口が利けないのだった。カメラは一旦、焦点がぼけてから、別の老人にズームインすると焦点を合わせた。何処か憎めない愛想のよい老人――悪党そのものといった前の二人とは大違いな――が、グラスに注いだラム酒を煽って口の周りを、太い肘で拭うと《破鐘|われがね》のような声で話しはじめた。  「わしは豪胆なことにかけては誰にもひけをとらないつもりだ。アルファ・ケンタウリ付近を航行中にどえらく大きな獲物に遭遇しよった。手下どもは我勝ちに異形の宇宙船に乗り移ると、血相変えて物色しはじめた。さて侵入してはみたものの生命の欠片さえ視つからず、手に手に武器を構えてすわこそと勢い込んでいたわしらは拍子抜けしてしもうた。内部はなんとも表現しようもない不気味な感じでの、この豪胆なわしでさえ想わず身震いしてしもうた。通路はくねくね曲り、得体の知れない生物の体内にでもいるような落ち着かない気分に陥ったものだ。おまけに壁はヌルッとした感じで、わしは想わずドキッとした。肝が縮み上がるとはああいうことをいうのだろうて。内部は薄暗く、まるで洞窟の中を這い摺り回っているような感じだった。自分がいまどこ におるのかも忘れてしまいそうな、異様としかいいようのない雰囲気が周囲に漂っておった」  ふたたびラム酒を煽って一息いれ、飄々とした語り口で話しを続ける。  「気がついたときには残っているのは三等航宙士とわしの二人きりだった。十四人もいた乗組員の中、生残ったのがわしら二人だけとはのう――。いや、十二人の生存はいまだに不明だ。何やら得体の知れないものがわしら二人を追い出しよったに違いないて。わしらは恐怖に駆られて生命からがら逃げ帰った。それから海賊稼業に見切りをつけ、今じゃこの通り別荘で隠居ぐらしをしておるわい。例の船のことはそれっきりだ。憶えとるのは船体の側面にボンヤリと視えた船名らしいものだけだ。わしの話はこれでお終いだ。さっ、わしを独りにしてもらいましょうわい。老いぼれの相手はアルコールが一番だて」  そういうと老人はカメラの方に背を向けてしまった。腕には先ほど画面に映し出された色鮮やかな刺青があった。元海賊だという老人の話など誰も信じはするまい。だが伍代はその老人の語り口に少なからず感銘を受けた。  異形のものと覚しい宇宙船が、その後どうなったか伍代は大いに興味を覚えた。周囲の連中は店主も客も一人残らず、腕に見事という他ない刺青をしていた。珈琲を飲み、煙草を喫い終った伍代はその店をあとにした。車に乗り込む直前、店の方を振り返ってネオンを眺めた。それさえもが刺青と似た絵柄の鮮やかな色彩を辺りに振り撒いていた。  伍代は視界がぼやけはじめたのに気づきながら、睡魔が襲ってくるのをどうすることもできなかった。ハンドルを握ったまま、伍代は己れの陥っている状況に逆らわず睡眠の中に沈んで行った。睡眠の深度に差異があるものの、誰もが等しく何かに魘され、全身に痙攣を起こしていた。誰がどのような経験を中に秘めているのか――最も親しい相手にも語ることのない経験が、睡眠中に突然アタマを《擡|もた》げてきたりした。  ヴィーゴはいまモニターの前に陣取り、なにやらデータを入力しながら、小瓶からグラスに注いだウイスキーを煽っていた。私立探偵ヴィーゴ・オストロスキは依頼人がこない日には喫煙と飲酒に耽る自堕落な日々を送っていた。ヴィーゴは、常日頃使用しているパーソナル・コンピュータに違和感を抱いたことはなかった。しかし、マウス操作にだけは馴染めず、情報量の乏しいアイコンには嫌悪感を催すことさえあった。マウス操作にしてこうなのだから、増してや時代遅れのタッチパネルなど触れる気にもならなかった。  それでもパーソナル・コンピュータを使い続けるのはやはり便利この上ないからだった。この類のマシンが出現した当時、ヴィーゴはひたすらプログラムを書くことに熱中したものだ。ヴィーゴの若い頃は誰もがコンピュータをプログラミングのための道具と想い込んでいた。  しかし、それも束の間、コンピュータ利用技術開発の波が怒涛のように押し寄せてきた。だが、マシン自体は一向に使い易くはならなかった。業界には、「猿にも使えるコンピュータ」を提唱する人物が何人か現れたが、役にも立たない仕組みを造り出したにすぎなかった。そのようなマシンが人間に使えるはずはなく、そういった連中は欺瞞を承知で唱えていただけなのだ。  ヴィーゴ自身は一時代前のコンピュータに比較して、現代のそれは格段に使い易くなったと想っている。日常使用するのに高度な技術など必要ない。誰もがレーシングカーの運転者になったり、コンピュータの技術者や科学者になる必要はないのだ。  文章を書くことだけに限定しても、コンピュータはユーザに様々な利点を齎した。手書きのように無闇矢鱈に原稿を書き散らさなくとも推敲でき、資源枯渇の時代の真っ只中にいる我々に少なからぬ恩恵を齎している。コンピュータ利用で、一番恩恵を享受できるのは作家のはずだ。ところが、その作家の中に、この便利な道具を危険視する向きが出現してきた。コンピュータは手書きと異なり、書き手の意図を的確に反映しない――そう作家諸氏は不満を述べる。  文章書きのプロが想いのままに文章を書けないのは、たしかに残念だろうし無念に違いない。しかし、書く道具が何であれ、文章は個々人の頭脳から出てくるものだ。道具によって影響を受けるなどと、《苟|いやし》も作家たる者はそのような泣き言を言わぬが好い。尤も、現代のように作家自体が存在感の乏しい時代には、誰も彼らの意見などに耳傾けたりはしないだろうが――。  ヴィーゴはまたしても、誰かの記憶をなぞっている自分に気づきながら、己れの意識から雑念を追い払うことができずに苛立った。単なる幻覚に過ぎないのか、それとも他愛ないコンピュータ狂の自己満足に共感しただけか、夢うつつの中でキーボードに手を載せたまま深淵の中に落ち込んで行った。  無意識の世界に嵌まり、六人は等しく己れを知覚できずに生死の境界を彷徨っていた。天空全体が深紅から漆黒の闇に変貌し、深宇宙から渦巻く強大な電磁波が、星団を破壊しながら星系を一瞬の中に掠めて行った。 闇の中で杏子は孤独感に押し潰され、行く当てのないまま、ただ惰性で左右の脚を交互に前へと進めていた。天にむかって屹立する樹木の鬱蒼と茂る森の中を方角も分からず、気味の悪い毒茸の密生する下生えを踏み しめながら歩んだ。波が海岸の岩場にぶつかる音が遠くから聴こえ、吹き荒れる風に鬱蒼と繁る森林はざわつき、妖怪が跳梁跋扈しているかのようだ。  杏子は悲鳴や嗚咽、また脅迫的な咆哮にも聴こえる風の樹間を吹き抜ける音に、怯えながらそれでも健気に突き進んだ。やがて眼前に色とりどりの花が咲きみだれる草地が現れ、なぜか天空から淡い光がさし、杏子に誘いかけているかのようだった。怯えが愕きから歓喜に変わり、喊声を上げながらその花々の咲き乱れる草地に分け入って、歌を口ずさみながら花を摘んだ。鮮やかな色彩に視とれ、夢中になって花を摘みながら森林の奥へと進んで行く中に、一本の巨木を取り囲むかのように聳える構築物の前に出た。  記憶の奥深く、潜在意識の中から遥かな昔の体験が浮上してきて、想わず甲高い驚愕の叫び声を上げた。その構築物は、死から蘇る以前に住んでいたことのある、六角塔を象ったアパートメントに酷似していた。今や杏子はその構築物の内部にどうあっても、入って行かなければならないという強迫観念にがんじがらめになっていた。中庭に欅と覚しい一本の巨木が生え、周囲を睥睨している様は構築物を支配下に置いているかのようだ。中庭から2階に通じる階段を上り、見覚えのある居室に入って行った。中は一部屋ながら家具や調度、本棚を据えつけても、充分すぎる広さがあり独身者には贅沢に想えるほどだった。  浴室はカーテンで仕切ってあるだけの簡素なものだが、白亜の浴槽は光沢があり、女性好みに合わせたかのように瀟洒な造りだった。だが浴槽の中を覗き込んだ杏子は、恐怖のあまりその場に凍りつき、呼吸を停止してし まった。浴槽の底の方からなにやら黒っぽく得体の知れない異形のものが、複数の触手で辺りを確認するかのように探りながら這い上がってきたのだ。同時に深紅の血が浴槽から溢れだし、杏子の足許から、さらに両脚に絡みつくようにジリジリと躙り寄ってきた。  呼吸停止から数秒後に、恐怖や苦痛に起因する絶叫を上げることもなく、杏子は無意識の奈落の底へと落ちて行った。なぜ、それほどまでに苦痛や恐怖に苛まれながら深淵に落ち行き、あらたな責め苦を受けなければな らないのか。それは、杏子が自身の理解を超えた何かに拘泥し、囚われたために、精神的な奴隷状態に陥ってしまった所以なのか。苦痛も恐怖も乗り越え、精神的な高所に到達して屈託のない、純真で自由な存在になれる日はくるのだろうか。 九  熱風を伴なう猛暑の最中、冷たい海水が心地よく、秀一は沖へむかって泳いでいた。大小様々の、しかも色鮮やかな魚が身軽に身をかわしながら、秀一を取り巻くようにして同じ方向を目指した。二枚合わせの皿によく似た、小ぶりなクラゲが群れをなして漂う中に、秀一は魚と一緒に突入した。群棲するクラゲがまるでUFOのように視えるのに愕き、掴まえようとして腕を伸ばしかけるが慌てて引っ込めた。小ぶりのクラゲの中には猛毒を持った種類もあるのを憶いだしたからだ。  熱帯魚のように一際色鮮やかな魚の群れが、秀一を横目で睨みながら悠然と通りすぎて行った。血気さかんな若い頃に還って追いかけるが、掴まえようとする秀一の手をすり抜けて魚は逃げまわった。水中では、運動神経の発達しているはずの秀一でさえ、動作ののろい魚にも到底かなわなかった。  何気なく底知れぬ深海を視おろした秀一の眼前に、複数の触手を動かしながら浮いてくる黒っぽい生物が現れた。アミーバのような動作を繰り返えして近づいてくるその魔物に、秀一は寒気立つ恐怖を覚え、海面にむかって激しく両腕を振り回した。  疲労感が襲ってきて不覚にも海水を大量に呑み込んで意識を失い、一瞬後に意識を回復して見上げると頭上には海藻が漂っていた。そのときもう一度海水を呑み込み、自分が溺れかけているのに気づき、慌てて海面にむかってがむしゃらに藻掻きながら浮上した。  太陽の強烈な光と押し寄せてくる熱風とに眼が眩み、魚のように大きく口を開けて空気を貪った。だが苦しさは遠退かず、首に何かが巻きついているのに気づいて眼を覚ました。なぜか杏子が秀一の首に腕を巻きつけ、 瞼の縁に涙を浮かべて苦しそうな表情を視せながら眠っていた。  遥かな昔、秀一は今回とよく似た経験をしたのを唐突に憶いだし、早速実行してみることにした。腹筋力を利用して起き上がり、首に絡みついた杏子の腕を解こうというのだ。だが以前とは異なり、今の体力では筋力が劣るためか想うようには行かない。何度か試みたが、どう足掻いても起き上がれず、その中に気が遠くなってしまった。  どれほどの時間、気を失っていたのだろうか、ふと眼を開けて視あげると面前にヴィーゴが腕組みをして立っていた。元私立探偵のヴィーゴは、今や犯罪者と対決する探偵ではなく、科学者が資料を仔細に観察する冷徹な 眼で秀一を凝視していた。  「だいぶ魘されていたようだが、気分はどうかね?どんな夢だろうと夢は夢、楽しむことだ」  「たとえ悪夢だろうと、楽しいとは私も想いますよ。しかし、夢が実際には過去の経験に根ざしていたとなると事態は深刻です。できることなら過去に戻って改変してしまいたいですね」  「誰しも、過去をご破算にしてしまいたいとは考えるだろうな。しかしタイム・パラドックスをどう解決するかだ」  「異世界ではタイム・パラドックスなんて、造作なく解決できるのかも知れません」  「本当にそう想っているのかね」  「そもそも、人間の背負っている原罪やらカルマとは一体なんです」  「君はまるで宗教家のようだな」  「ご冗談を。われわれの祖先が遥かな過去にタイム・パラドックスを、侵害するような行為をしていたとしたらどうです」  「その侵害行為がすなわち原罪だと?」  「そう、まさにそうです。人類は原罪なる負の遺産を背負い、返えしきれずに苦しんでいるのです」  「我々が抱える負の遺産を管理しているのは如何なる連中なんだろう」  「少なくとも神ではないでしょう。神は凡ゆる事どもを認めて動じることのない、真に寛容にして偉大なる存在ではないかと想うのですがね」  「君は、敬虔な信徒以上に信徒らしい人物かもしれないな」  「あなたは神を信じていないのですか」  「ふむ、かつてシモーヌも似たような質問をぶつけてよこしたことがある。『信じようと信じまいと、神は存在する』……それが私の応えだった」  「地獄に堕ちるなんて怖い……わたしそういったの覚えてる?」  天を仰ぎ視ていたヴィーゴが秀一の方に眼をやると、いつの間にか秀一は引っ込んでシモーヌと交替していた。シモーヌの艶然としてベッドの端に腰掛けた姿に、ヴィーゴはシモーヌと過ごした遥かな昔の日々を憶いだ し、突然激越な感情に溺れてその場に倒れこんだ。身体に纏わりつく心地好い感触に気づいて眼を開けると、シモーヌがヴィーゴに抱きついて立ち上がらせようと悪戦苦闘していた。激越な感情は遠のき、ヴィーゴはシモーヌを左手で支えながら右腕に力を入れて起き上がった。  「気絶するなんて、どうかしてしまったようだな」  「まるで空気が抜けて行く風船のように、あなたはその場に崩れてしまったのよ。スローモーションの映像でも観ているような感じだったわ」  「そうか、まあよかろう、我々は何らかの力によって蘇ったんだ。筋肉を想うように制御できないのは、今の肉体を纏うようになってからまだ日が浅いせいだろう。その中に万事良好になるんじゃないかな」  「そうかしら、わたしは逆に、退化に向かってるんじゃないかって想うことがあるわ。いつぞや、自分が原生動物になってしまった夢を視たことがあるし……悪夢としか想えない」そういうとシモーヌは両肩を顫わせて《噎|むせ》び泣いた。  「先ほど秀一と夢について話していたんだが、夢はどんなに酷い夢でも楽しいものだとの結論で一致した。たとえ身の毛もよだつ怖い夢でも楽しむべきだ……些かマゾヒスティックではあるが」  「わたし怖いのも痛いのもいや、みんないやだわ」  「シモーヌ、あなたは自分の観念にがんじがらめになってしまっている。視たまま、在るがままを受け入れてしまえば苦しみは劇的に減少するよ。意識を変革することで誰でも世界観を変えることは可能なんだ」  「ありがとう伍代、ヴィーゴがあなたと交替したのは正解よ。わたしとヴィーゴはあまりにも親密になり過ぎてしまっていたんだわ。わたしの我ままをヴィーゴはもてあましていたのかも知れないわね」  「持て余していたのとは違んだ。ヴィーゴはあなたと感情で余りにも緊密に繋がっていることに危惧を抱いたようだ。感情の激発が問題であり、精神的にバランスを取ることで、不安や苦痛を取り除けるのではないかと考えているよ」  「わたしの許を去って自分の理論を立証しようとした、あなたにそんなこという資格があるのかしら」シモーヌと入れ替わった、アイリーンの鋭い詰問口調に伍代はタジタジの態だ。  「そう言われると返えす言葉もないが、しかしアイリーン、君は了解してくれたのではなかったのか」  「あなたが満足ならわたしも満足、はじめはそう想ってたわ。でも、UFOの船室内で眠りから醒めたわたしにとって、失ったものが如何に大きいかが分かったのよ。わたしはあなたとの間にできた娘を失い天涯孤独だったわ。その後どうなったかなんて説明したくもない」  「そうだったのか、私は半生を費やして構築した理論を立証するために、地球の最期を見届けてやろうと想った。私の行動は如何なる障害をも超越すると、不遜にも自分で想い込んでいたんだ。非は私独りにある」  「想い上がらないで。あなたは優秀な科学者でしょうけど、わたしはこの世で誰よりも一番あなたを愛した女なんですからね。わたしの愛は利己的な愛とは違うわ。昇華した純粋な慈愛とでもいうべき……そう自負しているわ」  「私は地球の最期を見届けようとしていた者として、救いようのない絶対孤独の中で君のことを想っていた。打算が働き純粋ではなかったかも知れないが、天涯孤独の凄まじい精神的地獄に陥りながらも、凡ゆることどもを凌駕する強い愛を君に抱いていた。そのことは解って欲しい」  「だとすると、あなたはわたしよりも遥かに苦しんだのかも知れないわね」  それまでの懊悩から吹っ切れたかのように、アイリーンは伍代に微笑みかけると両手を差し伸べた。二人は抱擁を交わし、遥か遠い昔の激しくも切なく灼熱した感情の、記憶の中に束の間だが埋没してしまった。  気配に気づいてヴィーゴ、秀一の二人が見上げると、そこに彫像のような表情のラムダ4号が焦げ茶色の繋ぎに濃紺のベルトを締め、容器を無造作に小脇に抱えて直立していた。  「ご要望のパーソナル・コンピュータと似て非なる、モバイル型PC似のマシンを3台調達してきました。あなた方の時代より少しのちに現れた機種で、バッテリーは充電不要ですから使い易いでしょう。動作の確認は自己責任でお願いします」そういうと、ラムダ4号は皮肉めいた表情を浮かべ、床の機能が形成した机上に容器を置いて出て行った。  ヴィーゴと秀一は容器を前に、どのようにして中身を引き出すかをあれこれ思案しはじめた。繋ぎ目を捜すが見当たらず、これまでの知識や経験は役立ちそうにもないと分かって、腕組みをしながら暫し黙考する。秀一が何気なく掌をその容器の真上にかざすやいなや、個体だったはずの容器は視る間に気化しはじめ、パーソナル・コンピュータが現れた。  ヴィーゴは難しい顔をして考え込み、秀一は魔法にでもかかってしまったか、掌をかざしたままその場に凍りついた。素材がなんであれ、容器は宛先を識別し、任務を遂行するや否や忽然と消えてしまったのだ。これは幻覚なのか、それとも地球上には存在しなかったテクノロジーの産物なのか。  眼前にある小ぶりのマシンに恐る恐る触れてみたヴィーゴは、なんらかの反応がないか指先で軽く叩いてみた。容器のように消えてしまう懸念もないと判断したヴィーゴは、おもむろに筐体を一方の手でおさえ他方の手を天板にかけて開けた。  従来型のキーボードは付属しておらず、そのうえ天板側はディスプレーらしいのだが、やはり馴染みのパーソナル・コンピュータとは想像以上に違っていた。起動させるにはどのようにするのか――。ヴィーゴが本体を持ち上げ、顔を近づけて仔細に観察をと想ったその瞬間に反応があった。凍りついていた秀一がいつの間にか我に帰り、横からヴィーゴの持ち上げたマシンの画面を覗き込んでいた。  画面にはヴィーゴにとって見慣れたカナダはハーストの街並み、探偵事務所を構えるビルディングや行きつけのパブが映っていた。擦り切れ色褪せたスティル写真を、斜め上から眺めているような妙な感じの風景だ。マシンがヴィーゴの記憶を読み取り、不鮮明な部分を修正したのちに画面に表示したのだろうか。しかしどう細工したにしろ、空間にでも浮いていなければ撮影できない角度だった。  秀一は床が盛り上がってできた椅子に腰掛け、別のマシンを手元に引き寄せて筐体に掌をかざしてみた。天板がゆっくり開き、ディスプレーと対面する恰好になった秀一の前に、生まれ故郷の疑問符を逆さにしたような海岸の風景が現れた。忘れ物ででもあるかのようにポツンと一つの浮き輪が波間に漂い、上空には巨大なUFOが浮いていた。その様はまるで秀一自身の心象風景を、マシンが記憶の奥から抽きだし、映しだしているかのようだった。  だが次の瞬間、秀一は我が眼を疑い、驚愕のあまり椅子から立ち上がった。海中に沈み、溺死した妹の淳子が、上空に浮遊するUFOの放ったビームに乗って船内に入って行ったのだ。愛犬のイッコクを従え、淳子を抱えて帰途に着いた秀一にとって、間違いなく妹は海で溺死したのであり、マシン上に出現した動画は仮想のものにすぎないはずだった。 十  稲妻が脳内を秒速30万キロメートルで縦横に駆けまわり、秀一は感電したときの不快な気分に陥っていた。激しい頭痛の攻撃に思考が想い通りに機能せず、秀一は誰かが話しかけているような気がしながらも、小型マシンを膝に載せたまま頭を抱え込んでしまった。  背後から肩を叩き、話しかけてくる女の聴いたことのある懐かしい声に振り向いた秀一は、驚愕に眼を瞠って立ち上がり、勢いあまって転げてしまった。床に《蹲|うずくま》っている秀一の上に、風にそよぐ風鈴にも似て澄みきった女の声が降り注いだ。  「お元気?久しぶりね秀一」かつて一緒に暮らしたこともある時枝由紀が、腰に手をあて、秀一を見下ろしてニッコリ微笑んだ。  「由紀、なんで此処に?」われながら愚問を発したものだと、妙に感心しながらその場に胡座をかいて由紀を見上げる秀一。  「あら知らなかった?杏子と交替よ。あの娘は伍代という名の男性として転生、あるいはその人と融合したのよ……多分ね」そういいながらもかつては舌鋒鋭かった由紀も、このときばかりは自信なさそうな口調だった。  「どうも不思議なことが矢継ぎ早に起こり、混乱してしまうよ」秀一はそう応えつつ起き上がると、由紀の肩に両手で軽く触れて相手の眼を覗き視た。久しぶりに会うことになった懐かしい想いと、突然行方をくらましてしまった由紀に対する不審の想いが錯綜し、再会にしては自分ながらも冷淡な接し方なのを意識した。  「ね、あなた大丈夫?」そう心配そうに尋ねる由紀には生まれながらに備わった知性美に加え、死後の想像を絶する経験が作用したか、人間性に深みが増していた。  かつての由紀は知性が勝ちすぎ、異性からは敬遠されたが秀一だけは違った。由紀との初対面のときから、いずれは一緒になりそうな予感があったからだ。結局は別れることになったが予感は的中、短い期間ながら二人は同居し、由紀の両親を激怒させたばかりか、いたく失望、落胆させた。  想いがけない再会のしからしむる所以か、あらためて互いに深い愛情を抱くことになった今、二人はなんの抵抗もなく強い抱擁を交わした。それにしても杏子が伍代として転生したとは、秀一はかつて杏子自身からそれらしい夢の話を聞いたことがあるだけに愕いた。杏子が秀一に話した内容――しかも杏子から直に、伍代なる人物名を聞いたのを秀一はいまだに鮮明に憶えている。  「杏子が伍代として生まれ変わったのをどうして知っているんだい?由紀」まだ抱き合ったまま秀一は由紀の耳許に囁いた。  これまで接してきた杏子は実体の伴わない幻だったのだろうか、此処にいる六人の中で、誰よりもいちばん杏子を知っていたのは秀一のはずだった。なぜなら、蘇生する遥か昔、570年前からよく知っていたのだから。  「わたし目撃したのよ、杏子と伍代なる人物とが融合するのを。医学者の立場からは決して口外できないことだわ」そう掠れ声で囁き、自分の相手を確かめるかのように秀一を視て涙ぐんだ。  「吉嵜杏子は実に若く利発で愛すべき娘だった」秀一はそういいながら由紀の方をチラリと盗み視たのち俯いてしまった。再会早々、由紀に誤解を与えてしまったのではないかと懸念したからだ。  「あら秀一、あなたもてもてだったの?杏子ってわたしのような同性から視ても、妹にしたいくらい可愛いらしい娘のようだったわね」からかうかのような口ぶりで応えながら、由紀は眉を大袈裟に釣り上げてニッコリ笑う。かつての由紀は知性の優った女だったが、経験から多くを学ぶことで成長し、美貌に一際かがやきが増していた。  「確かに杏子とは親密には違いなかったが異性間の色恋とは無縁だった。事情あって同居してはいたものの兄妹の関係だったんだ」秀一は杏子が幸せだったろうかと想い、遠くを眺めるかのように眼を細めた。  「ある晩、杏子と二人でビールを呑みながら引っ越し蕎麦の話をしていた。蕎麦を買うことになった動機に就いての話題になり、杏子が、『引っ越してきたがっていたのは由紀さんじゃないの』といったんだ。そこで、J大学医学部研究室に電話したところ、由紀の助手を務めていたという研究員から訃報を聞くことになった。死因はウイルス性肝炎だと」  「ウイルス性肝炎で死ぬなんて、医者の不養生と言われたら反論できないわね。一週間前からなんとなく気だるい感じだったけど体力には自身があったし……忙しさにかまけて受診を怠ったのは不覚だったわ。でも気がついたら杏子が伍代なる男性と融合するのを、目撃することになり、わたしと入れ替わりになった恰好よ。死んだはずなのに生き返えるなんて……でも、秀一に再会できてうれしい」といいつつ涙ぐむ。秀一はめがしらが熱くなるのを隠すかのように、両腕で由紀をひしと抱きしめるとその場に座り込んだ。  「この世界が現実に存在する世界なのかどうか……そう想うと不安になるわね。一体ここは何処なの、いまは何世紀なのかしら」折り重なるように床に転げたまま抱き合い、由紀は不安そうな表情を視せて秀一の耳許に囁いた。  なんの前触れもなく見知らぬ世界にいる自分に、突如として気づいたら不安どころか恐怖を抱くものだ。しかし、由紀にとっては恐怖より先に、漠然した居心地の悪さが気になった。  「アンディ12号なる看護婦によれば3012年になるそうで、我々が死んでから570年は経過していることになる。確かにテクノロジーの進歩の度合いから察すると、彼もしくは彼女の説明は信頼できそうだ」そういいながら秀一は起ち上がると由紀を抱き起こした。  「3012なる数字にしてもそうだけれど、この研究棟もしくは住環境はなにかしら異質な感じがして寛げないわね。それに、あなたが先ほどいってたアンディ12号ってひと、何者なのかしら。彼もしくは彼女とはどういう意味なの」  「会ってみたら分かると想うが外見や発声、さらに言葉使いから性別を特定するには無理がある。しかも我々同様に複数の人間が一箇の肉体を共有しているらしいことだ。それはアンディ12号だけではなくラムダ4号も同様だ」  「二体とでもいった方がいいのかしら……あなた方が知っているのは二人だけなの?もっと大勢いなくてはならないのに少なすぎるわね。この建物の全体像や外部はどんな風なのかしら」  奇怪な形象の巨木が紺碧の天空にむかって互いに絡み、捻くれながら山岳の広大な裾野に密生して森林地帯を形成し、さらに食中植物や毒茸等の下生えが蔓延り、凡ゆる動物の侵入を阻んでいた。強風が魔物の咆哮を 想わせて森林地帯を吹き荒れ、手当たり次第に樹木を薙ぎ倒したり引き裂いて行った。さらに宇宙の彼方まで半透明だった紺碧の天空が、俄かに暗黒世界に一変した瞬間に惑星全体の地殻が褶動し、断崖の聳える山岳地 帯が激しく鳴動した。  大気中を悠然と飛行する六角塔の、小惑星ほどもある飛行物体が、強風の破壊力を無視して悠然と飛行した後に着陸態勢に入った。かつて地球上に点在し、吉嵜杏子が住んだことのある六角塔のアパートメントに酷似し た物体――秀一の眼には納骨堂にしか視えなかった構築物だった。  杏子はそこでの恐怖体験が因で、十日もそのアパートメントに住むことなく秀一の借家に転がり込んできた。アパートメントの浴槽から深紅の血が溢れだし、底の方から複数の触手を動かしながら這い上がってくる黒っぽい原生動物。耳の奥底から聴こえてくる、鉤爪が浴槽の壁面を引っ掻く音に秀一はその場に凍りついた。  「秀一、どうしたの。あら大変、身体が硬直してしまってるわ。秀一、秀一」絶叫にも等しい由紀の声が居室の壁面に反響し、歪み、増幅し、得体の知れない生物の咆哮のように轟いた。  壁面全体が揺らぎ、中間色を発色しながら絶え間なく色彩を変えた。居室の壁面が二人の恐怖感を感知、増幅し、波動として空間に放出しているのだ。抱きかかえようとして、硬直したまま直立している秀一に触れた由紀 は、掌にかすかな痺れを感じた。その直後に強大な振動が、自分の体内に起こりはじめたのに気づいたが為す術はなかった。  二人の肉体は振動を増し、苦痛に歪む口から光となってエネルギーが迸り出たのち、周囲に目眩く光の交錯する異形世界が現出した。エネルギーから光に変換を遂げて膨張、収縮を繰り返えす宇宙の中心に存在するの は、凡ゆる善悪を包含して寸毫も揺るぐことのない唯一神か、際限なく災厄をもたらす有象無象たる悪霊の群れか――。  得体の知れない何者かが、秀一と由紀の意識を、狭い空間に閉じ込めると薄闇で覆い隠した。存在感を喪失してしまったか、二人はその空間で岩石のように微動だにしなかった。太陽系はおろか銀河系宇宙の一方の端から他方の端にまで達するドラゴンが、光の充満した眩い宇宙を秒速30万キロメートルの速度で通り過ぎた。 それまで眩く輝いていた広大な空間は真っ暗闇となり、死神さえも恐れる凍りついた暗黒の世界へと変貌し、岩石のように身じろぎしない二人はまったくの無意識状態に陥った。  宇宙が自ら機能を停止し、存在を否定してしまったか。真っ暗闇の狭い空間で微動もしない二人は死滅し、無に帰してしまったかのようだった。暗黒宇宙の外部では、時間は確実に過去から未来へと流れていたに違いない。それまで漆黒の世界に溶けこんでいた狭く真っ暗な空間、岩石の如く佇立する二人の存在する空間が鮮血のように真っ赤に染まった。  渦巻く眩い光が一閃してこの宇宙空間を分断し、さらに宇宙全体を八つ裂きにでもするかのような激しい震動が襲ってきた。無数の渦巻く光が交錯する中で、天空は轟音をたてて罅割れ、いまにも四分五烈してしまいそうだった。眩い光が渦巻きながら飛び交い、大音響が空間を揺さ振る中で、暗黒宇宙は昼から夜へとめまぐるしい変転を繰り返えした。深紅色に染まる狭い空間に佇立する秀一と由紀は、大音響の轟く世界で、微かながらも自己の存在を意識しはじめた。異世界で岩石のように身じろぎもしなかった二人は、同時に眼を開いて辺りを視まわし、互いにしがみついたまま床に転がっているのに気づいた。  永い無意識状態から回復した両人にとって、自己同一性の認識は容易なことではなかったろう。見慣れた相手の顔を発見し対面することによって、自分が誰だったかを改めて知覚できた。横臥しながら辺りを見回してい た二人は、複数の人物が自分たちを視おろしているのに気づき、愕いて起き上がろうとして蹌踉めいた。力強い腕で支えた男を視た二人はそのがっしりした白人風の大男が、秀一の旧友であり畏友でもあった、北原祐介なのを識って同時に愕きの声をあげた。 十一  眼前に日本人離れした彫の深い相貌に人懐っこい笑みを浮かべ、身長190センチメートルを超えるがっしりした体躯の北原祐介が立っていた。散髪とは無縁のクシャクシャな頭髪に無精髭、傍目にはその姿は冒険家あ るいは探検家に映ったに違いない。  「よっ前嶋、しばらくだな。由紀さんご無沙汰してました」そういうと由紀の方を向き、長身を軽く前掲させて挨拶をした。由紀は北原に、見上げるようにして親しみの篭った笑顔を返えした。  「北原、相変わらずでなにより。それにしても昔のままで、姿形が変わってないのはどういうことだ」秀一はちょっと不審そうな表情を表わし、腕組みをして少し上向き加減に北原を視た。  「まあ、それはお互いさまだろ。銘々が相応しいと想う自分自身のイメージを選択したってことだ。この中には役者はいないだろうから、みんな気に入った身形のままでいたいのではないかな」  「それはそうだが、この世界には解らないことが余りにも多い。現実の世界なのか虚構の世界なのか皆目わからない。ひょっとしたらわれわれは死んでいるのではないかと疑ってしまうな」  「気にすることはないぞ、此処を意識界の一部と認めてみたらいい。とにかく自他を明確に見分けられるんだからそれで好いのではないだろうか」  「ああそうだろな。ところで、傍にいた連中は何処へ行ってしまった。たしか一緒だったろ」  「ああ、彼らは君と由紀さんに興味を抱いたんだな。みんなこの中に引っ込んでしまった」そういいながら北原は二人に笑顔を向け、自分の腹部を掌で軽く叩いてみせた。  「彼らって一緒にいるのは何者なんだ。そんなに大勢集まってるのか」  「それぞれに別の世界からやってきた、似たもの同士ってところかな。銀河系内宇宙の他に外宇宙、たとえばアルファ・ケンタウリ、ゼータ・レティキューリ、イータ・カリーナ等々だ」  「何人が同居してる?我々は広々した……喩えていうなら豪邸に、銘々が個室を所有してる。そっちの居住環境は快適なのか」  「こっちは各自が一軒家とはいえ、日本人にとってはお馴染みの昔ながらの木造家屋ではない」  「ほおー、ではどんな構造だ」  「まず住居かどうかは別として移動可能、しかも光速を超えてテレポートするプラズマ体だ。内部には広大な空間が拡がってるが居心地は頗る好い」  「どうもよく分からんが、つまり体外離脱して意のままに何処へでも行けるってことか」  「まあ大体そんなところだ。しかも時空を瞬時に移動するから、まったく異質の世界に到達したとも咄嗟には気づかないほどだな」  「こっちとはかなり異なっているようだな。そのプラズマ体ってのは個体ではないんだろ。しからば、ガス状のエネルギーを外殻とした乗り物なのか」  「うむ、なかなか鋭い指摘だ。意識が飛躍的に向上しているではないか。自分では気づいてないだろうが」そういいながら北原は無精髭の生えた顎を撫で、大柄な身体を揺すって静かに笑った。表情にはなんの《蟠|わだかま》りもない笑みが溢れていた。  「からかうのはよせ、討論やら議論は昔から苦手だ。知識も経験もそれなりに増えてはいるはずだが、この世界を正確に知覚するなぞ無理ってものだ」  それまで二人のやりとりを聞いていた由紀が優雅な仕種で、小首を傾げるようにして北原に話しかけた。  「なにごとによらず前向きに考え行動する、昔のあなたには誰もが好感を抱いていたようね。でも現在のあなたは、少なくとも私には、昔のあなたとは異なってるのではと想えるわ。加えて、なんとなく居心地の悪さを感じるこの世界に、少なくともわたしは異質な世界を視てしまうの。いけないかしら」そういいながら由紀は傍にいる秀一の腕に、自分の腕を絡めると愛情深い笑みを浮かべた。  「それはもちろんここにいる誰もが、少なからず違和感を抱いてはいるでしょう。しかし、わずかに視点を変えるだけで、それまで受け入れ難かったことが理解できるようになるんです」  学生時代から文献学に没頭していた北原は、活字が人間の思考形成に一役買っているのに気づいていた。言語は自然にではなく人為的に発生、人類が地球に誕生した初期から広まっていた呪術と密接な関係があっ た――それが北原の考えだ。言語を抽象化したのが記号として機能する活字であり、人間はこの活字を用いて思考し通信する。活字なしで思考し通信するのは困難だし、記号としての機能を全く使用しないとなれば精神的向上は望むべくもない。  人類にとって活字は思考の源泉にとどまらず、道徳観および行動を規定する。20世紀後半に年齢の枠を越えて活字離れが急激に起こりはじめた。原因として考えられるのは賛否両論はともかく『ノストラダムスの大予言』の成就だ。ノストラダムスは1999年7の月に大災厄が地球に襲来すると予言した。しかし、予言は表面上は成就していないかに視え、世界中の善人も悪人も密かに胸を撫でおろした。  以前に、北原が秀一に話した通り、予言が成就して未知の力が影響をおよぼし、人類の意識に顕著な変化が起こりはじめたのだ。神の存在を否定し、証明してみせた生物学者の説を信じた結果だろうか、犯罪は凶悪化 するばかりで、誰もが未来に漠然とした不安を抱くようになって行った。  天罰が下ると宣言し、信者を束縛してきたのは既製の宗教で、本物の神は人間に罰を下したりはするまい。森羅万象を監視し、制御して生命の進化を見届けてきたのは、慈愛あふれる唯一絶対神のみで、人類がこれまで に神として崇めてきた、厳格な神の正体は人類を創成した異星人だ。北原祐介の下した大胆な、秀一が恐れをなしてしまいそうな結論はそういうことだった。  「昔、唱えていた『7の月の大災厄』についての自説にいまでも自信をもってるのか」  「もちろんだとも。大災厄というから誤解を招く訳だが、意識の変革と読み替えてみれば、予言者の唱える通りに予言は成就したのは誰にとっても明らかだ」  「しかし我々に何かそれらしい兆候は現れたか、どうだ?」  「蘇生したこの世界で今さら語るまでもなかろうが、だからこそ死んだのちにこうして再会し、予言について議論できるんだ」  「そういえばあの頃、世界に異変が起こりはじめたとかいってたようだが」  「ああ覚えているとも、偶然が何度も起こるようなら偶然ではなく必然だといったよ。世界が変わったなによりの証拠だと」  秀一は由紀にしがみつくと大きく眼を瞠き、唐突に由紀から離れ、床に座り込んで髪を掻きむしった。由紀が心配そうに近寄り、床に膝をついて秀一を抱き寄せた。  「ああ憶いだしてきたぞ……何者かが、警告を発していた。なのにそれを無視して相手を車で追跡し、追い詰めたかに想った瞬間に高速道路から転落して死んだ。転落直前、相手は眼前から忽然と消えてしまった」  「いくら連絡を取ろうとしても徒労に終わったのはそのためか。全ては必然の然らしむるところだな」  「そういう裕介はどうなんだ、死に際の記憶はあるのかないのか」  「ああ、もちろんあるとも。カフェでラム酒のオンザロックを呑んだのをよく覚えているぞ。カフェを出て別れ……それから3箇月後、ロック・クライマー数人と合流して北欧に渡った。ノルウエーのフィヨルドの中でも飛び切り危険な、水面から天辺まで数百メートルはある絶壁の、ロック・クライミングに無謀にも挑戦した。結果は道半ばにして力尽き、残念ながら転落して溺死した。水深は五百メートル以上あったはずだ。溺死しかけながらも光の乱舞する別の世界を垣間見ていた。凍えるような水の冷たさが心地よかったな」  そういうと裕介は肩を揺すって笑いながら周囲を視まわし、一瞬呆然自失の《体|てい》だったが即座に自分を取り戻した。いつの間にか室内から居室の壁が消失し、三人は光が乱舞する中で断崖のほぼ中間にしがみつく恰好になっていた。眼下には逆まく海が広がり、白く泡立つ波が崖下に押し寄せていた。由紀が小さな悲鳴を上げながら秀一に抱きつき、その由紀を支えようとした秀一はもちろん祐介も同時に気づいた。  二人の口からア・カペラの如く微妙に音程の異なる声が湧きでた。「これはイメージの具象化だ。その証拠に我々は床を踏みしめている。感覚がそう訴えている」  血管内で電子が暴れまわっているかのように、三人の身体に凄まじい痙攣が起こりはじめた。宇宙全体が猛烈な勢いで正転、逆転を繰り返えしてでもいるのか、彼らのいる室内を光が縦横無尽に飛び交った。  「我々は、いまオーロラの内部にいる」裕介が身体の痙攣が静まりはじめたのを機にそういうと、秀一と由紀が霞んでいた意識を取り戻すかのように、頭を振り動かして同時に応答した。  「えっ、今なんと?」  「秀一、由紀さん、我々の意識はいまオーロラ内部に存在している。しかも、そのオーロラは銀河系の中心軸から三百万光年離れた惑星ルシファーの大気圏を覆っている」  北原のいうルシファーとはどんな惑星なのか、二人には視えないばかりかまるで想像つかない。恒星の周囲を公転する天体が惑星なら、ルシファーは銀河系の中心に鎮座する如何なる恒星と関係があるのか。  「ルシファーはどのような恒星の周囲を回っているんだ。銀河系の中心にはブラックホールが存在するのではなかったか」  「その通り、大質量のブラックホールだ。そのブラックホール内部の恒星だろ」  「だろって、それでは答えになってはいないぞ」  「まったく」  「禅問答をしている場合じゃないだろ」  「強力な電子機器を装備し、大型励起震動砲で武装した巨大な母船から戦闘艦が一機こっちに向かっている」  「なんだって?どういうことだ。我々を捕虜にでもするつもりか」  「案ずることはない、連中には我々を見分けることなどできるものか」  「なぜだ、奴らには視えないってことか」  「まあ、そういうことになるかな。霊体のレヴェルが違いすぎるんだ」  「そいつらは敵なのか味方なのか、戦闘艦でやってくるとは穏やかではないぞ」  「我々の正体を掴んでいるなら、軍隊を送り込んでくるような真似はしない」  「うーむ、連中から視るなら、我々こそ得体の知れない存在ってことだろ」  「そうとも」  「まるで他人事のようないいっぷりだが連中はどんな奴なんだ」  「全員軍人ってことではなさそうだ。十七人は戦闘要員、東洋人と覚しい中年士官が指揮官だな。それから、高性能かつ強大な装備で武装した、一体のロボットが随行しているし、母船の方には老境に達した一民間人が伍長として乗組み、他に手強いバックアップ要員三人が任務についている」  「その戦闘要員ってのはどんな奴らなんだ?凶悪なのか友好的なのか」  「戦闘要員は十二人の通常戦闘員、五人の電子戦闘員から成り、特務曹長が指揮官だ。それと一基のヒト型ロボット、こいつは色んな意味で想像以上に高度な機能を備えている」  「肝心な質問に応えていないぞ、どうした」  「ロボットに奴らが、三原則を適用してるなら我々にとっては無害だ。しかし、人間の方は暴走したら途轍もなく危険だ」  「さっきからいいにくそうにしてるが何が問題なんだ」  「まだ二十歳にもならない十七人はアブダクションの後遺症に苦しんでいる。しかも肉体レヴェルではなく、霊体レヴェルでのアブダクションを体験しているから深刻だ。それでも指揮官よりは軽度だな」  「UFO絡みのアブダクション?それも霊体レヴェルなんて初耳だ」そういいながら秀一は酔い潰れ、ベンチでごろ寝したまま夜明けを迎えた自身の、数百年前の無鉄砲な体験を憶いだしていた。  「指揮官は輩下の隊員が全員トラウマに苦しんでいるのを、あの母船に残った伍長から報告を受けている。しかし、自分自身の体験に就いては誰にも語ったことはない。最も危うい精神状態にあるのは指揮官だろうな」  ベンチにごろ寝しているつもりがいつの間にか診察台の上にいる自分、その周りを数人の身長1メートルを僅かに超える程度の子供のような異星人が取り巻き、被験体の皮膚からサンプルを採集する――そのような光景が 秀一の頭の中に映像として浮かんできた。 十二  旧約聖書の『エゼキエル書』にはUFOについて詳細な記述が載っている。『エゼキエル書』は聖者エゼキエルの愕くべき観察力、記憶力の賜だ。UFOを操る異星人は地球に生物が出現する以前から度々飛来し、地球の開発計画を練っていたに違いない。しかも、地球に飛来した異星人は一種族ではなく複数だった。  彼らの正体は旧約聖書の中を丹念に精査してみることで輪郭を捉えることができる。およそ神には相応しくない異様とさえ想える教えが聖書の中には散在している。肉体を具え、肉食を好むヒューマノイドのいいそうな内容なのだ。後世の信徒が書き加えた可能性は否定できないが、それにしても神の《宣|のたま》った内容にしては奇っ怪だ。  聖書には迷える子羊――善良な人々を誤った方向に突き進むことのないよう導く崇高な目的があったはずだ。では、中に異様な表現が散在するのはどうしてなのか。祐介は秀一が聞いたら身震いしてしまいそうな結論を導きだしている。異星人は差し迫った事情から地球で労働力を必要とした。その労働に従事させるにはそれ相応の知能を有し、彼らのように2足歩行の生物でなければならない。聖書にある通り、神は人間を神に似せて創ったのだ。  複数の異星人は彼らのDNAを融合し、組み直して複数の異なる地球型種族を創った。言語の違いはもちろん眼の色に始まり、肌や髪の色に至るまで異なるのはそのためだ。異星人は地球での差し迫った事情を解決 後、彼らが創った地球人類を抹殺しようとした。だが、その計画に異議を唱える一派が現れ、人類は幸か不幸か生き永らえ、展望のない未来に向けて増え続けて行くことになった。  由紀が悲鳴を挙げ、こめかみを両手で抑えながらその場に蹲った。足許を激震が走り、秀一と祐介は泥酔でもしたかのようにふらついた。陽イオンに電子が激しく衝突し、数えきれない光束が三人の周囲を縦横無尽に飛び 回り、宇宙全体が痙攣を起こしてでもいるかのようだ。何処からともなく吹いてくる強風が三人を揺さぶり、巨大なドラゴンさながら咆哮を上げて通り過ぎた。  祐介が絶妙に均衡をとりながら落ち着いた口調で秀一に話しかけた。  「いよいよ戦艦を従えた彼らのおでましのようだぞ」  秀一は今にも倒れそうになりながら辛うじて平衡を保ち、それから態勢を立て直すといった。「お出ましって、地球から誰かがやってきたってことか」  祐介は周囲の激しい上下動にも狼狽えることなく、己れの姿勢制御と格闘している秀一に応えた。「そうとも言えるし、そうでないとも言える」  不審そうな面持ちで訊く秀一の表情に緊張が走った。「どうして地球らしいとか、らしくないとか分かる」  「それは、このルシファーから我々のような人間ではない何者かが、強力な念波を太陽系内の何処か恐らく地球に住む、ヒックスなる脳神経学研究家に向けて放ったからだ」  地球がいまなお存在するなら、人類には未来にむかって生存できる可能性がまだ残っていることになる。  「なるほど、地球には今でも人類が生存してるかも知れないってことなんだな」  預言者に近い祐介の表情からは、苦悩と自信が錯綜する複雑な感情が垣間見えた。「そうとも、生存環境は激変してるが人類は滅亡してはいない」  「どういった環境だ、生存に最適かそれとも全く適さないのか」  「地表から30数キロメートルの地下に居住空間がある。しかし、かなり過酷な環境だな」  「地上には誰も住んでいないのか」  「陸地表層の99%は放射性物質による汚染が原因で居住不能だ。地表に居住している人類はウランやプルトニウムに耐性を持つわずかばかりのミュータントだけだ」  地表が居住不可能になるとは核戦争でも起こらない限りありえない。第3次世界大戦が地球上に起こったとして、なぜ核戦争にまで突っ走ってしまうような愚かな真似をしでかしたのか。  「地球上で核戦争でもあったのか、それとも大災害が引き金になって原発事故でも続発したのか」  「おそらく外敵に対する防御から、数百発の核爆弾を自ら炸裂させたかも知れないな。地下基地は予め何百年も費やして造っておいたのだろう」  「かつてカッパドキアには広大な地下都市が、存在したそうだがそういったのとは違うのか」  「カッパドキアには一般の住民も大勢住んでいたからそれとはまったく異なる。現在の地球に生存しているのは兵役に就いている純軍人と、軍に属する科学者および彼らの家族だけだ。地下には軍事基地を除き、非戦闘 員用居住空間は存在しない」  「ならば他の人類は何処へ消えてしまった」  「太陽系から出て行ったのは明らかだ。なぜなら地球から外宇宙にむかって、複数の飛行物体が飛び発ったとの記録が残っている」  「記録って、何処からそんな情報を入手した」  「同居している異星人からだ」  「異星人って信用できる連中なのか」  「かなり気紛れで、そのときの気分で言動をくるくる変えるが概ね信用できる」  「そんな奴らとどうして一緒にいるんだ」  「そうムキになることはないだろ、連中はそんなに邪悪ではない。むしろ無邪気なくらいだ」  「発育不全なヒューマノイドじゃないのか。いい過ぎたかな……すまん」  「静かに……辺りの様子が変だぞ」それまで普通に話していた北原が急に声を潜めた。  「どうした、何か異変でも起こりはじめたのか?」つられて秀一も囁き声になった。  辺りの空間が大きく揺らいで小刻みな震動が起こり、二人の眼前に血のように真っ赤な壁が出現した。壁にドラゴンかヒュドラに視える不気味な黒っぽい影が、のたうちながら這いずり回る姿が映った。何かを捕らえようとするかのように複数の触手を伸ばし、蠢く様は悪夢の世界に現れる魔物さながらだった。  大勢の戦闘服で武装した兵隊が身悶え苦しむ様子を二人は目撃した。中には自分で抑制がきかなくなり、全身を前後左右に顫わせながら独楽のように回転している者もいた。さらに他の隊員は立っていることができず、 硝子化したつるつるな床面を激しく転げ回っていた。  二人の眼前で展開する兵隊の苦しみ悶える様は、ますます激しさを増し、阿鼻叫喚の地獄絵図さながらになった。指揮官らしい男が部下を叱咤して退却をはじめ、確認するように周囲を視まわしながら隊員のあとを追った。  「どうやら、彼らは退却して行くようだな」  「その通り、あの強靭な精神力の持ち主が指揮官だからこそだ」  「そうなのか、普通の軍人にしか視えないが」  「我々に比較したらまだ精神修養は不足だが潜在的能力では卓れた人物だ」  がらんどうになった地下空間に光が交錯し、凡ゆるものを一瞬にして破壊してしまう強風が吹き荒れた。強大なエネルギーが何処から産まれてくるのか秀一には分からない。不可解な惑星の不可解な支配者――神に敵対する存在は何を考え何を行なおうとしているのか。それとも単なるエネルギーの集合体に、宇宙に渦巻く怨念が憑依し、破壊の限りを盡くそうとしているのだろうか。  由紀が秀一にしがみついて周囲を見渡すのと殆ど同時に、ヴィーゴ、伍代、シモーヌ、アイリーンが三人を取り囲むように集まると互いに手を繋いで輪をつくった。祐介の身体が微かに揺れて浮き上がり、秀一に続いて由 紀が、さらに輪をつくっている四人の身体が浮きあがって行った。伍代が繋いでいた手を放して先頭の三人を追い越し、背中の大きな羽根を羽ばたかせると、六人を誘導するように旋回しながら上昇しはじめた。  伍代のあとを追って北原が背中の羽根をはばたかせ、五人の周囲を悠然と旋回しながら上昇して行った。天上から妙なる響きが鳴り渡り、交錯する眩い光が彼らを包みこむように取り囲んだ。秀一は上昇しながら由紀と手に手を取り、眩い光の中にチラつく光景を透かし視た。巨大な烏賊に似た複数のプラズマ体が、別れの挨拶でもするかのように触腕ソックリの器官を振り回したかに視えた。彼らの下方にはかつて秀一が故郷の深海で目撃した、髑髏の山を想わせる星雲の残骸が漂っていた。秀一が深海で眼にした光景は末期を迎えた星々の残滓であり幻影だったのだろうか。してみれば、あの烏賊によく似た存在は、宇宙の番人あるいは星雲の再生者なのに違いない。  頭上から聴こえてくる妙なる響きや、各人の意識内を満たしつつある上昇感覚の伝える通りなら、彼らは安らぎに満ちた天国へとむかっているのだった。それはかつて探偵稼業で身を立てていたヴィーゴ・オストロスキの、自信、皮肉、願望の複雑に入り混じった意見だ。目眩く光の渦巻く中を上昇して行く彼らの全身に純粋な歓喜が満ち溢れた。  秀一と由紀の輪に天空から少女が舞い降りてきて、抱きつくのを視れば、それは妹の淳子だった。躊躇うことなくひしと妹を掻き抱く秀一の心は歓喜に《昂|たか》まった。さらに一人の少女がヴィーゴ、シモーヌ、アイリーンの輪に近づいてきた。生き別れていた娘との再会に、感極まったアイリーンの眼から涙が光かがやく雫となって溢れ出た。  乱舞する光が天上から滝のように降り注ぎ、さらに包み込むように透過し融合して、彼らを新たな存在へと変えはじめた。エネルギーそのものに変貌を遂げた存在は意識の世界「マトリックス」を目指して光速を遥かに超える速度で上昇して行った。行き着く先にいったい何が待ち受けているのか、期待した通りの天国それとも暗澹たる地獄か、それは真の神をのぞいて識ることはない。各自の意識の持ちよう捉えようで、如何ようにでも変わる千変万化の世界――それがマトリックスなのだから。 エピローグ  天空高く昇りくる光球が見渡す限り不毛の荒涼たる大地に、凡ゆる有機物、無機物を等しく灼き尽くす凄まじい光エネルギーを降り注ぐ中、天にむかって屹立する六角塔の巨大な構築物を目指し、百数十億人もの迷える人々の群れが地平線の彼方から続々押しかけていた。門の一方にはアンディ12号、他方にはラムダ4号によく似た数十メートルを超える、丈の高い石像が辺りを見張るかのように聳り立っていた。フードを目深に被って放射光を避けるように、分厚いマントに身を包む人々の群れが、焼け爛れた大地を足取り重く歩み、六角塔の内部へと入って行った。  見知った間柄のような気がしながら、誰も互いに話しかけることはおろか頷き合うことさえしない。土気色した顔にドロンと濁った虚ろな眼を覗かせ、一言も発することなく歩む彼らに、何処にむかっているのか訊いてみたところで無駄なことだろう。誰もが神に罰せられた想いに、今にも押し潰されそうになりながら、叶えられもしない希いにしがみついていた。  これは何かの間違いであり、やがて天から使いが降りてきて、歓喜に満ちた世界に導いてくれるに違いない。一体、何者が導いてくれるというのか。  自ら積極的に求め行動しない限り事態は悪化するだけだ。誰かが救ってくれると儚い期待を抱く憐れにも愚かな人々――怠惰が犯罪なのを気に留めることすらしない。改心しない善人よりも、改心する悪人の方が天国に近づいているのを識らない。  言い訳ではなく実行すること――それがなくては救いは永遠に訪れない。この六角塔の構築物に集う人々は自ら行動せず、他力本願で生きてきた。己れの現在ある境涯は誰の所為でもない。人々の群れは途切れること なく六角塔の構築物内に入って行き、広大な空間を上方へと恰も海中を泳ぐかのように、遥か彼方に視える弱々しい光を目指して藻掻きに藻掻いた。  やがて群れは《犇|ひし》めき《蠢|うごめ》きながら徐々に融合し、巨大なアミーバさながらに触手を伸ばして上方に向かった。この構築物の内部を俯瞰するなら、黒っぽい魔物が鉤爪のついた触手で壁を攀じ登り、深海からやってくるかのように視えるに違いない。かつて、杏子や秀一がアパートメントの浴室の底から這い上がってくる戦慄すべき魔物を目撃した光景に似ている。  改心することもなく物質世界から追い立てを喰らった罪深い人々は、原初形態から進化の階梯を攀じ登るしか選択の余地はないのだ。やがて、漆黒の闇が訪れ、惑星の荒涼たる大地に弔鐘が鳴り響いた。それは、百数十億人もの人々の耳に届かない神の怒りかそれとも哀れみか――。[完]
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