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 衛星五〇-Z。  特別公安警察本部による管理タグにはそう記されているが、ここにはもっと明快な通称がある。人類の生息圏の中でも、その治安は最下層に分類される巨大人工衛星であり、最も〈繭〉から遠い星に与えられた名が。 「〈末端衛星〉とは……いつも思うけど、もうちょい住んでる奴に気ぃ遣ってやれってんだよな」  はふ、と生欠伸を噛み殺して一人ごちる。およそ観光にも産業にも向かない土地に末端とは、この上なくとびきりの駄目押しだ。  しかしそう呼ばれても文句を言えないのが、この星も不幸が極まれりというか。 「人身売買、麻薬取引、テロ屋の本拠地――すげえな、犯罪の見本市だわ」  のんびりとした足取りで表通りを歩きながら、俺は手の平に収まる小さな携帯端末を弄っていた。そこに列挙されているのは、この〈末端衛星〉にまつわる大小様々の情報で、治安の指標ともなる犯罪率は、ささやかながらも斜体で全衛星中最高値だと自己主張している。  曰く、人身売買の温床。  曰く、麻薬栽培の隠れ蓑。  ただの噂とは一蹴できないほどに集まった状況証拠の存在は、中央の〈繭〉にまで伝わっている。 「……一斉検挙ってのも、ただの噂じゃなかったか」  ぼそりと呟いて、上着のフードを目深に被る。今の所は後ろめたいことなど無いが、後々になって面倒事に巻き込まれるのは御免被りたい、という防衛本能に近い。 「まあ、何だ。そういう危ない所に近寄んなきゃ良い話だろ」  金目の物は上着の内側に仕舞い込み、いかにも薄幸な若者を装いながら。  俺は、言い聞かせるようにそう宣言し、枯れた雑踏の中に紛れ込んだ。    *  それから一時間半後。  数少ない衛星の行政施設からも遥か遠く。開発途中で投げ出されたように雑多なビルが立ち並ぶ、入り組んだ一角で事件は起きていた。 「やられた……!」  がつん、とコンクリートの壁を殴りながらそう搾り出す。両目から血涙が出ていないのが不思議な程だった。  こんな事ってあるのか。いやさあったとしても俺の身に降りかかるのか。限りなく天文学的な数字の話ではないのか。  などと、あちこちで拾い聞いた安っぽい絶望は置いておくとしてもだ。俺の今現在の所持金はゼロ。携帯端末も奪われ、何とも身軽になってしまった。懐を暖めるのは、革の分厚いジャケットだけという惨状。 「今の〈末端〉舐めてたぜ……。まさか強引に裏路地に引きずり込まれるとは思わんかった」  犯罪率最高値は伊達ではないという事か。宝籤の一等を当てるような確率さえ引き寄せると、そういう事なのか。  人目のある所を選べば大丈夫、などと見通しが甘いにも程がある。連絡ターミナルを出て半日足らずで無一文になってしまった。これでは目的地に行き着くことはおろか、合流場所を確認することも出来ない。  町中に申し訳程度に設置された公衆電話は、どちらかと言えば不法占拠によって誰かの家と化している。仮に生き残りを発見しても現在の俺は小銭一枚さえ持っていない。 「やっべー……連絡手段も何もかも、ってのは参ったな。どこか店の電話借りるとかしねえと」  それも謝礼無しで。店の売り上げに貢献しないわ電話料金は踏み倒すわ、では警察のご厄介になりかねない。ここがそういう星だ、というのはもう十分すぎるほど身に沁みた。 「まあ、最悪それはそれで」  仕方あるまい。盗られたものが返ってくることは無いのだから、さっさと問題解決に意識を向けるべきだ。 「何だったら、皿洗いでも何でもさせて貰えれば良いんだよな。賭場でボロ負けしたみたいで気は進まんけど、贅沢は言えねえ」  わざと一人言を大きく口にして、ひとまず路地裏から撤退、もとい脱出する。羽交い絞めにされながら引きずられてきたので、通った道のりははっきりと覚えていた。  野良猫だって敬遠しそうな、目を刺すような汚水と腐臭に満ちた行程。皮肉なのは、人の手さえ入らなければこの星だってそう酷い土地ではなかっただろうという事だ。  いかに末端といえども、最低限の景観整備は行われているのが宇宙開発の共通項だ。もはや無尽蔵に近い資源に物を言わせて、集合住宅地を形成するのと同じ無感動さで建物とライフラインが整備される。  問題はその後、土地を広げすぎて人手が間に合わなくなったことにある。  管理を放棄された土地に居つく者など、後ろ暗い職か来歴の持ち主と相場が決まっていて、そういう連中が居心地の良いように好き勝手をしても抑止できるだけの権力がおよそ足りない。  荒くれたちが好きなように仕上げを担当した星の末路が、打ち捨てられた後の文明のような、この星の現状だ。完成を待たずして成長を止めたビルは、その本来の役目を果たすことも出来ずに、人工の空すらも人の目から隠すだけ。他の土地を知っている人間にとっては、息が詰まるの一言だ。  ――しかし、それにしても。 「聞いてたよりも、これは」  ブーツの踵が反響する小気味良い音。それとは裏腹に、沈思すべきことが重くのしかかってきた。 「……何というか」  想像以上に想像以上だなあ、と。  ゆるゆると歩みを遅らせる。そうすれば自分の足音に遅れて聞こえる、別の足音。 「――……」  黙ってすぐ近くの角を曲がり、わざと音高く踵を鳴らす。その段々と遠ざかる気配に自信をつけたのだろう。大股ながらもまた、見事に足音を重ねて跡を追い―― 「――!」 「惜しかったな」  俺の足音に紛れさせたところまでは褒めよう。だが甘い。  角を曲がってすぐに待ち構えていた俺を見て、追跡者はびくりと身を竦ませる。うろうろと視線が揺れるが、その二度の迷いは致命的だ。来た道を駆け戻ろうとしたその腕をひっ捕まえて、足元を払う。  指が余るほど細い腕と、手応えを疑うほどの軽さ。知らず、眉根が寄った。 「うあ……!」  しかし、その感慨は後に回すべきだろう。判断力の鈍さこそ頂けなかったものの、不届き者の抵抗の意思は凄まじかった。じたばたと暴れる四肢を避けながら、とどめとばかりにコンクリートへ押さえ込みにかからねば、その身軽さで抜け出されてしまいそうだ。 「こらこら、逃げんな。何だお前、さっきのチンピラの仲間か?」 「し、知らないっ。離せよっ」 「あーあー、自分が尾けてきたくせして、生意気な坊主だこと」  じたばたと暴れる尾行者――小汚い少年は、とにかく俺の制圧から逃れようと必死だ。しかし、俺の手の平に収まってしまうほどの、女のように細い腕の力では、それは叶わない。 「まず、そんな暴れるなよ。別に取って食おうって訳じゃ」 「――っ、そんなこと言って、お前、本当は人売りだな! 騙されるもんか、そうやって姉ちゃんも連れていったくせにっ」 「はあ? 今度は濡れ衣か! とことんツイてないぞ俺!」  今日だけで生涯の不運を大幅に更新できそうで、多分に筋違いだろうがこの星のせいにもしたくなった。 「とにかくお前はいっぺん俺に謝れ。そうした方が良い。表通りから尾けてたくせして、獲物の危機にはだんまりたぁ、俺は悲しさで枕を濡らさずにはいられないね」  びくり、と。また一際大きく身を震わせると、嘘のように少年は抵抗をやめた。  そうなのだ。要は全部こいつが悪いのだ。  二十二歳にもなって聞き分けの無い、とか同僚に足蹴にされようが射撃の的にされようが致し方ない言い分かもしれない。けれども、無関係とは言わせない。  この少年が俺を尾行し始めたのは、実のところ俺をここまで連れて来てくれたチンピラ連中よりも早かった。ターミナルを出て間もなくのことで、おそらくはそこで標的を漁るのが常なのだろう。そしていつものように、適当なカモを見繕って隙を窺うところまでは良かった。  ただ、今回こいつが狙いを定めたのは、面白半分にやって来る観光客でも、軽犯罪を繰り返して大物気取りの小悪党でもなかった。  仕事で少なからず気を張り詰めている俺が、そんな小悪党にたかる悪ガキを見落とす訳もなかったのだ。そして俺の選択は、食堂で定食を肉にするか魚にするかよりも速かったことだろう。  ただでさえ楽しい旅路ではない上、これから荒事に向かうという時に付きまとわれるのも面倒で、さっさと撒いてしまうことにしたのだ。職業柄、そうして未来ある子供が道を踏み外しているならばそっと改心を説いてやるべきなのだが、それは白状しよう、面倒だった。  ――今回は見逃してやるから、相手が悪かったと諦めてくれ。  そのつもりで、予定よりも人通りの多い雑踏へ繰り出したのだったが。  ここで俺が見落としたのは、〈末端衛星〉の繁華街が他所のそれとは少々、いやかなり趣を異にするという、何とも初歩的な注意だった。  おい、と後ろから肩を掴まれてからは速かった。  ぶつかっただろ、俺が誰だか分かってんのか。  昔、講習でこんな分かりやすい絡みがあるかよと噴き出したのと全く同じ台詞、展開だった。有無を言わせない大男数人に引きずられながら、その後の対処法を聞き逃したことを心底後悔した。市街地で複数人を相手にした制圧は、と記憶の抽斗を引っ繰り返すよりも、男たちに路地裏へ引きずりこまれるほうが早い。  せめてもの恨み節で、獲物を横取りされた少年を睨みつけたのが、表通りから消える最後だったのだが。 「まさか、ここまで追っかけてくるとはな。かといって連中に挑戦するつもりじゃなかったろ?」  何しに来た、と付け足したのは、責めたつもりはない。  ただ率直に心配した。  俺の直感が正しければ、きっとこいつは。 「……あいつ、ら」  不意に、少年の声が湿る。  長いこと汚い路地裏で引き倒しているのも悪いので退いてやるのだが、少年はそのまま顔を隠すようにして身体を丸めた。  その弱々しさが、俺の勘が正しいことを証明していた。  ひとしきり泣いた後、少年の呼吸が正常なリズムを取り戻した頃に、俺は彼の手を取った。細い枯れ枝のような腕は抵抗せず、すんなりと立ち上がると、顔を隠しながらも小さく礼を口にした。  純真さと自尊心。  その両方がない交ぜになった年頃にしては、なかなか気持ちの良い態度だった。 「家まで送る。今日の食い扶持は諦めろ」  甘やかしすぎかもしれないが、一応いたいけな子供を容赦なく制圧したというのは負い目だった。文無しは俺とて同じだし、やらなければいけないことはむしろ増えた。  それでも、ここを譲ってはいけないと。  譲ったが最後、どうしようもなく取り零す気がするのだ。 「……ああ、そうだ。なあ、この辺りで電話使えるとこ知らないか? 外部回線が使える機種で」 「電話……」  少年の腫れた目が中空をさまよう。本気で当てにしていた訳ではないのだが、いよいよお先真っ暗だ。  せめて現状の連絡を入れたい。比較的軽装で、奪われたものが仕事の難易度を上げる結果にならなかったのは幸いだ。  ただ、携帯端末は話が別。あれが手元にないと仕事にならない、というのが偽らざる本音だ。何せ身分証名も出来ない。あれ一つで現場に赴けるのは楽だが、まとめすぎるのもいかがなものか、なんて思う。  まあ、最後の手としてはターミナルに引き返して本部に戻ってしまう、というのも充分に―― 「うん?」  くい、と。  上着の裾を引かれ、振り返る。少年はこうして互いに立って向き合ってもちっぽけで、しっかりとした顔つきのわりに身長は、俺のへそより少し上くらいといったところだった。  しかし、その目元が赤いのは相変わらずにせよ、その眼差しは芯を湛えて俺を見ている。  天然の星空みたいだ、と。  柄にもなく詩的な感想を抱く俺に、少年は小さく口を開いた。 「前は、あった」 「あった?」 「電話。もう追い出されたけど」  少年の短い言葉を繋ぎ合わせる。それはたどたどしいというより、躊躇っている風だったが、今の俺には聞き逃せない話だった。 「元の家にってことか?」  推察を確認すれば、こくりと頷く。その仕草が、惰性で試算を弾いていた脳細胞を叩き起こした。  ああ、と口元を覆う。  こういう時、嫌になるほど自分の本性を知る。いや、俺みたいなイキモノの本質と言うべきか。 「……そういう言い方をするって事は、厄介事も込みだな?」  想像は導火線だ。そんな、昔に同僚が使った喩えが脳裏をちらつく。  目に見えて、危ない代物に直結していると分かっていても。  さっさと火を点けて、爆弾ごとぶち撒けてやった方が、おっかなびっくりに扱うより手っ取り早いと。  ――まったく、その通りだ。  再び頷く少年の頭を見下ろしながら、きっと俺の口元は孤を描いていただろう。    *  その男には元々、大した取り柄はなかった。  いや、大柄な体躯なり顔中に入った刺青なり、特筆すべき特徴はあるかもしれないが、〈末端衛星〉という蔑称を戴くこの生まれ故郷では、それも大した差異にはなりえない。  安酒に溺れる父親と、連れ合いと別の男を咥え込んでは姿を消す母親。まともな職にありつけるだけの学が無いことと、手違いのように生まれた一人息子を顧みないくらいしか、気の合いそうなところを見つけるのが難しい親だ。  そんな男も、幼い頃こそ理不尽に虐げられる日々を泣き暮らしたが、成長期を経て、自分の体格が父親を越してからは一滴も目元が濡れることはなかった。  後は力のある集団にすり寄れば簡単だった。  驚くほどあっさりと、欲しいものが手に入る。  自分が所属する集団の名前を出すだけで、幼い自分を蹴飛ばした父親が怯えた目で引き下がる。  母親の愛人をぶちのめした時は、これまで生きてきた中で一番気分が良かった。  だがまあ悲しいまでに、こんな血なまぐさい話はこの星では日常茶飯事だ。それでも男は、自分がその中で数少ない『権利』を手に入れた側だと考える。  搾取するかされるか、その二つしかない此処で、する側に回ったのだから。 「……ん、もう時間か」  ――そんな、感傷の欠片もない夢から、男は目覚める。軋む身体を起こせば、昨夜ベッドに引きずり込んだはずの女の姿は無かった。  逃げたか、と舌打ちをしながらも、心は動いていない。  アレは代わりが利く。そして誰も文句は言わない。  バネの飛び出したベッドから出て、手狭な室内を闊歩する。水道も満足に通っていない部屋だが、一晩限りの相手とやらかすには充分だった。我が者顔で振る舞おうが、何も咎め立てするものなどない。  こうして、女と子供が身を寄せ合ってなんとか暮らしていたような一室を占拠しようが。  泣いて額を床に擦り付ける女を引きずって、商品にしようが。  足に齧りついて追いすがる子供を蹴飛ばそうが。  自分が父親と同じ道を辿ったところで、誰も口出しはしない。通りすがりの観光客に難癖をつけて金品を撒き上げようが、誰も―― 「――あ?」  ふと。  胸を掠める違和感に、足を止める。  そこは玄関の正面。元々、寝起きするためのベッドしか家具が無いような有様の部屋だ、些細な変化がいやに引っ掛かる。食いさした店屋物のごみ、脱ぎ捨てた服の山、それ以外にも死角となっているような物陰。例えるなら、その物蔭で誰かが息を潜めているのではないかという、漠然とした予感だ。  どうせ、昨晩の女が意趣返しとばかりに漁ったか荒らしたか、その程度の変化だろうがと一歩、玄関の扉に距離を詰めた時。 「おいおい、パンツくらい履けよ」  小馬鹿にしたような男の声。  その内容と声の両方に沸点を突破した男は、出所と思しき背後を振り返り。 「汚いモン見せんなや」  やけに晴れ晴れとした笑顔の男が繰り出した拳の衝撃に、意識を飛ばした。 「張り合いねえなあ。やっぱ下っ端はこんなもんか」  巨漢の顔面を殴り飛ばし、昏倒するのを見守りながらも拳を検分する。当たり所が良かったのか、こちらには傷一つない。若干脂ぎっていたのは愛嬌ということで見逃してやることにする。 「おーい、出てきて良いぞ」  その手で招けば、少年――ウィータと名乗った――が、玄関の脇に放り出された服の山の下から現れた。明らかに成長が遅れている体躯は心配だが、今回ばかりは役立った。そんなウィータは、目を剥いて倒れている男と俺とを見比べて、信じられないといった表情をしているのが子供らしい。 「悪かったな。そんな臭そうな所に隠れさせて」 「ううん……こいつ、死んでるの?」 「まさか。放っといたって風邪か感染症で済む」  まあ後者については保証しかねる格好をなさっているものの、俺はいたってにこやかに誤解を解いてやった。この爽快な笑顔と荒事との組み合わせが怖がられているのは承知しているのだが、もう笑いが止まらない。  たかが拳一発で仕事に戻れるなら、路地裏で囲まれた時に大人しくしていたのも却ってお得だ。  知人に言っても全く信じてもらえないのだが、俺は人一倍の平和主義者だという自負がある。 「という訳で、目的を達成したら一度退散だ。こいつは……このまま放っぽり出すと世間様に迷惑だから、通信で何とかしておこう」  それで電話は? とウィータに訊けば、弾かれたように動き出した。どうやらベッドの下にあるようで、埃っぽい床をごそごそとまさぐっている。  その間に部屋を見回して、知らず緩んでいた顔の眉間が寄った。  ウィータに案内されながら薄々感じていたことだが、この集合住宅がある区画は〈末端衛星〉の中でも特に札付きで治安が悪い。事前に目を通してきた資料は星全体に関する報告だったが、更にその中で濃淡が分かれるとは思わなかった。  しかも、そんな土地に限って住み着くのは立場の弱い女子供ときている。こんな場所でまともな職など望むべくもないが、かといって表通りに近付けば文字通り法外な使用料を請求される。その点で、全てが粗悪であろうとも、人間らしい生活を送るにはこんなスラムじみた地区の方が勝手が良いのも事実だ。  水道が通っていなくても、コンクリートの割れ目から汲み上げるのは勝手だし。 「あ、あった」  ウィータが掲げてみせる年季の入った電話機。訓練生時代の資料館で見た、という感想は呑みこんだ。  話を戻すが、要はその電源を繋ぐ場所が無くとも、送電線を間借りするくらいは誰だってやることだ。 「よし、それじゃあ付いてこい。次は姉ちゃんとやらだ」  もちろん、いかに無法地帯とはいえ法は法、しっかり遵守すべきルールは存在する。それでも必要悪と割り切れるところは、自分でも嫌いじゃない。  いや、むしろ好きだが。  何だったら鼻歌でも、とウィータの家を後にすると、電話機を抱えた彼から純真な問いが飛んできた。 「おっさん、どこ行くの」  純真すぎて、思わず足が止まる。 「おっ……お前ね、二十そこそこを捕まえてそれは無いだろうが」  それからやや憮然として見下ろせば、悪意のない代わりにどこか拗ねたような表情を返される。  初対面こそ手癖の悪いクソガキだが、こうして付き合うとそれなりに可愛げがあると判る。こんな土地では珍しいくらいに素直で、人を頼ることを知っている。そんな生き方を教えた人間は、一人しかいないだろう。  そいつを救うために手を結んでいる訳だが、しかし今の暴言は見過ごせない。理由を待つと、ウィータはぼそりと呟いた。 「だって、あんたの名前、教えてもらってない」 「……いや、それにしたってお兄さんとか」 「それとも訊いちゃ駄目? 俺がスラムの人間だから」  その返しで、言葉に詰まる。その反応を何と取ったか、ウィータはうつむいた。  ――きっと、これだ。  こんな小さな身体に刷り込まれた負の感情が将来、醜い血肉を手に入れて、過去にされたことを繰り返すのだろう。そう思うと、頭の片隅に残っている数少ないルールが一つ、ひとりでに解れた。 「マオだ」 「……それ、名前?」 「そう。古い言葉では、錨を指すんだ」 「じゃああんた、船乗りだ」 「あいにくと操縦はしないけどな。船に乗って飛び回ってる」  ウィータ、と。子供のくすんだ赤毛を撫ぜて、何とはなしに続けた。 「お前の名前は、もっと良い」 「姉ちゃんが付けてくれた。姉ちゃんも、良い言葉だって」 「そうか。なら、無事に再会したらちゃんと聞いとくんだな。名前ってのは案外、人生の中で馬鹿に出来ないもんだから」  くしゃりと最後の一撫でで手を離すと、ウィータは腕の中の電話機を一層強く抱きしめた。これが今やお互いの生命線で、それを改めて結んで解くまいとするような。  そんな仕草の後、掠れた声がまたその願いを口にした。 「マオ、姉ちゃんを助けて。名前以外にも、聞かなきゃいけないこと。多分だけど、まだ、いっぱいあるんだ」 「おう、任せろ。俺、そういうの得意だ」  じわじわと、仕事が増えている。  この電話で事情を説明すれば、確実に相手は嫌な顔をするだろう。元々、俺を面倒事の集積所と言って憚らないほどだから。  それが分かっていて、この重さがなかなか心地良いのも事実だった。
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