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 仕事から帰ってくると、娘がなにやらがさごそと台所周りで動いている気配がした。料理はたしかに彼女の役割として振っているし、というよりも私自身が料理はからきしだからと任せきりにしている部分はあれど、とはいってもそれは普段のものとは異なっていた。  靴を脱いで台所の入り口から覗いてみれば、調味料類をひっくり返して臨戦態勢が長引いているらしい里香の姿。ひよこのパッチワークのあしらわれたエプロン姿が自分の娘ながら可愛らしくて良い、などと考えてながらも、視界に入ったのは戸棚に張られた紙っぺら。 「お母さん、おかえり」  火元とタイマーとの間で視線を彷徨わせつつ出迎えの挨拶をかけてくれる娘に、「どうしたの、これ」と不躾にきいてしまう。土鍋と、横にもうひとつ、重たい大鍋。 「早く帰ってこれたから、ちょっと掃除しようと思ったら、出てきて。お父さんのメモ帳」  レシピメモみたいのがガリガリ書いてあったから、コピー取って真似しちゃおうと思って──そういった里香の表情は、嬉しいとも懐かしいとも違う、厳しく凛々しい、鋭いもの。  お父さんの、レシピ。それは里香にとって、たしかに超えたくても、超えられないもの。それはもちろん、私にとっても。  お父さんってば、変なところで隠し事する人だったんだねー、なんて里香の言葉が、すこし遠くに聞こえる。夫の話を娘とするのは、そういえば、十年以上ぶりだった。 「あとは時間と火加減だけだから、お母さんははやく着替えて。食器とお箸を並べてくれると、里香は嬉しいなー」  これではどっちが娘でどっちが母だか──わからない、なんて思いながら、部屋に下がる。けれど夫が居る頃もそうだった。どちらが妻で、どちらが夫で、というのは、きっと世間評では真逆のことだったろうと思う。私が働いて、夫も働くけれど、稼ぎ頭は私。夫は家事を私に代わって引き受けてくれて、だから里香を妊娠して、出産するまでも、ずいぶんと任せきりにして、わがままも聞いてもらっていた。  リビングに戻ると、味見をしている里香の姿が遠目に見えた。その表情は、ちょうどコピーされた紙に隠れて、見えない。ただ、小皿を片付けてお玉で盛り付けを始めたところをみると、どうやら。 「お母さん? 見てないで、食器、はやく」  ──本当に、どっちが親で子かわからない。  苦笑がみられないように食器棚へ。なんだかんだと、こうなるように育てたのは自分で、こう育つように仕向けてしまったのは自分で。……そう考えると、しっかりした大人に育ったのではないか、と自画自賛していいやら、自分が情けないやら。  台所のほうが一段落ついて、お互いにテーブルにつくころには、白飯に焼鮭、たくあんと、肉じゃがが並べられていた。もう一品作るのは面倒になっちゃった、と里香が謝るのに、私はただただお礼しか言えなかった。土鍋で炊いた白飯なんて、それこそ、夫が作っていた頃以来ではないかと考えると、それ以外は憚られた。  いただきます、と互いに手を合わせて一礼、箸を取って、まずは白飯。照明にあたってツヤの出ているそれを口に含むと、噛んだとたんに甘みが口に柔らかく広がるのがわかる。どれだけ電気炊飯器が進化していっても、発展していっても、もしかしたら、これにはかなわないのかもしれないと思うほど。鮭も箸でほぐして一口。塩のきいていて、米の甘さが更に引き立つのがわかった。  私のほほが緩んでいるのがわかるのか、里香が小さく笑うのを、私は叱るに叱れない。だって美味しいんだもの。それがわかっているのだろう、はやくこっちも、と肉じゃがに視線を向けて言ってくる。言われるがまま、箸を芋に通して、口に運ぶ。  芋の甘さと、それと違う、漬け込まれたたれの甘さも同時に襲い来る。すこししょっぱいはずのそれが、それでもしっかりと甘さを主張してくる。もう十年以上、出会えていなかった味。 「懐かしいよね」  里香の言葉が耳に届く。でも、けれど、……娘の表情を、いまはみられない。  あの人が、私達の中に帰ってきたのが、わかる。わかってしまう。もう二度と会えないと思っていたのに。もう一度、会えたならと思っていた、彼に。 「このメモ帳、わたしがもらっていくね。お母さん、料理できないでしょ」  うん、うん──きちんと言葉になっているだろうか、きちんと娘に届いているだろうか。わからない。けれど、今だけは、この喜びに、浸らせてほしい。
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