フォントをダウンロード中
ページの左右でマウスを左クリックします。
または、 キーボードの左右の矢印キーを入力します。
ページ上で指先を左右になぞると、 前/次ページへ移動します。
メニューはページをタッチすると現れます。
× ヘルプを閉じる
「なかなかやるね、あいつも」 「やめて! あんな馬鹿褒めないでよ!」  乱暴な口調で昔の彼氏をなじる《聖香|きよか》。けだもの、ちんぴら、問題児と続き、最後はヘンタイで終わる文句にボクは《ただただ》相づちを打った。 「二度と……ほんとにもう二度とこんなことしないで、お願い」 「わかってるよ」 「約束して」 「うん、絶対しない。約束する」  ボクの旅は昨日で終わった。目的はだけど達成している。パパや聖香には心配を、学校のみんなには迷惑をそれぞれかけちゃったけど、それ以外の人たちはボクに文句なんかいえない。いや、いわせない。職員室での説得をこれっぽっちも聞かず、今も旅を続けている《沢村|さわむら》にしてもそうだ。あいつにはだからふたり分の罪を背負ってもらう。悪いとか気の毒とかそういうことも今は思っていない。 「会いたい」 「ボクも同じ気持ちだよ」 「じゃあ――」 「けど、しばらくは無理かな」 「そうだよね……」  八つ裂きにして《たき火》の燃料にした写真と同じものをポケットから取りだして眺める――今日の昼、《佐東|さとう》に焼き増しさせた写真。最初に目にしたときほどのショックはない。怒りも憎しみも悲しみも今はそれほど感じない。あるのは喜びと、ほんのちょっとの申しわけなさ――パパに対してのそれだけだ。 「あのさ、聖香」 「なに?」 「ちょっと聞いてくれる?」 「うん。どうしたの?」  頭のなかに散らかっている思いを、息を吸って吐く間にまとめる。 「ボクはこれからちゃんと生きようと思う。まじめに勉強してスポーツもがんばって、いつか聖香と結婚して、家族を作って、楽しいことしか起きない暮らしをしたい」  写真をもとの場所へしまいながら電話線に言葉を乗せた。 「わたしも」  きっと一週間――いや、三日もあればボクの暮らしはもとに戻る。いつもの教室でいつもの授業を受け、いつものように給食を食べる。昼休みは《少年野球|リトル》の練習――これは日曜もだけど、中学へあがるまでは続ける。あがってからはバスケットだ。そろばん塾がある日以外の放課後は今までみたいに聖香とのおしゃべり。おしゃべり以外のこともたぶんする。夜は夜でママの作るおいしいご飯を食べながらアラレちゃんを見て、欽どこを見て、《巨人|ジャイアンツ》戦があればそれも見て――と、ここまでは今までと変わらない。 「なんか思ってることいったら急に聖香の顔が見たくなってきた」  変わってくるのはボクとママともうひとりの関係。今日の夕方に決めた『終わることなくずっと続くルール』がこれまでの暮らしからボクを救いあげ、旅する前とはまるでちがう、めちゃんこにすばらしい未来をこのボクに約束する。 「さっきは会いたくなかったの?」 「そうじゃないよ。なんていうかその……気持ちがあふれてきて止まらない感じ」 「ほんとに!? わたしもずっとそういう気持ち――」  部屋の扉が音もなく引かれた。 「ちょっといいか」  重く静かな声が、受話器から垂れ流しになっている愛の言葉に重なる。ボクは『切』と書かれたボタンを叩き、あと二、三分は聞いていたかったそれを電話線のはるかかなたへと追いやった。  パパはボクの手から無線式のおやこ電話を取りあげると、余ったほうの手をげんこつにして、この家の次男坊の頭へ落としてきた。もっとひどい暴力を四日前に受けているボクからすると、今の一発だけじゃちょっと物足りない気もしている。 「きちんと反省できるまで電話は禁止だ」  パパが部屋を出ていく――右手におやこ電話を持って。 「反省なんてできっこないじゃん」  扉が閉まるのを待ってつぶやき、ベッドへ横たわる。右肘がうずいた――《昨夜|ゆうべ》の痛みの残りかす。職員室であいつの振りまわすカッターにやられたところだ。頭突きを食らった鼻のほうはもう痛くない。  気をまぎらすために北極風味のガムを噛む。リモコンでテレビをつける。黄緑色の数字を読む──六。ブラウン管のなかでは空手使いのGメンが香港麻薬シンジケートの殺し屋=筋肉ムキムキのそいつを港かどこかの倉庫に追い詰めていた──実際には起こりそうもない事件。起きたとしてもボクには関係ない。どうでもいい。知ったことじゃない。ボクと沢村も今じゃお互いのことをそう思っている。  つまらないテレビを消して天井のポスターを眺めていると、庭先で人の声がした。エンジンをかける音もしている。ボクはベッドの上に膝立ちをして、レースのカーテン越しに窓の下――玄関脇のカーポートに目をやった。パパの車にライトが灯る。 「お泊まり塾の日だっけか、今日は」  ボクよりほんのちょっと先にママから生まれたやつが、光を人型に切り抜きながら助手席のほうへとまわりこんでいく。クリーム色のセドリックがりんご畑の向こうに消えるのを待って、それからボクはママを呼んだ。 「どうしたの、《亨|とおる》ちゃん……」 「ふたりきりだね。パパが戻るまで一時間ぐらいかな」 「そ、そうね」 「貸して、それ」  二階へあがってくるとき、一緒に持ってきてといっておいたものをママの手から取りあげる。 「……こんな晩くにどこへ電話するの」 「決まってるじゃん。何番だっけ? 番号」 「亨ちゃん……」  困り顔のママから無理やり聞きだした数字六桁をプッシュする。相手とはすぐにつながった。 「ボクだけど」  無言のまま二秒、三秒と過ぎていく。後ろのほうで拳銃の音が聞こえた。 「もしかしてGメン見てる?」 「あ、いや……つけてあるだけで見てはいない。どうしたんだ、こんな時間に」 「別に。ママとおしゃべりがしたいんじゃないかと思って」  スピーカーのマークが描かれたボタンを押し、受話器をボクとママの間に置いた。こうしておけば三人で話ができる。 「ちょっと待ってくれ、《松本|まつもと》……」 「いいから遠慮しないで話しなよ。パパだってせっかくいないんだし。愛してるとかいっても怒らないよ、ボクは」  もじもじしながら受話器に向かって謝りだすママ。それを聞いてお返しのように謝ってくる馬鹿な先生――いや、馬鹿な佐東。《らっちょもない|くだらない》やり取りだ。 「ボクがいたら話しづらい?」 「いや、だからその……今、これといって話すことは……」  返事をしてきたのは佐東だけだった。 「ママは?」 「特に先生とお話しは……」 「《先生》ね」  つまらない。おもしろくない。これじゃふたりのことを秘密にしてあげた意味がない。言葉なんか交さなくてもわかりあえるぐらい、ママと佐東は愛しあってるとでもいうのか。くそ。 「ねえ。ママたちは何回裸で抱きあったの? パパとそうしたのとどっちが多い?」 「亨ちゃん……お願いだからそういうこと――」  お願いという逃げゼリフに同じ質問をかぶせると、今度は『ごめんなさい』が繰り返された。ママはそれを五回かそこら口にしたところで鼻をすすりだし、そして涙をこぼしはじめた。スピーカーマークのボタンを押す。普通の状態に戻した受話器を耳に当て、ボクは話す相手を佐東ひとりに変えた。 「ママを泣かさない約束だろ。もう破るのか」 「松本、お前の気持ちは先生にも痛いほど――」 「わかってたら、はじめからしてないよ。ちがう?」  なにがボクの気持ちだ。痛いほどだ。ふざけるな、佐東。 「まあ、どうでもいいんだよ。そんなことは。それよりボクの質問にちゃんと答えて。このままママを泣かし続けるつもりならこっちにも考えがあるよ」  強い口調でいうと、佐東はボクが予想していた以上の数字を暗く低い声で伝えてきた。 「ふぅん。よくそんな時間あったね。さっぱり気づけなかったよ、ボク」 「すまない……本当にすまないことをしたと思ってる。だからあんまりお母さんを――」 「それもママへの愛情? さすがだね」 「もう許して、亨ちゃん……」  気にいらない。ママのことは今だって大好きだけど、許してあげる気はこれっぽっちもない。ボクは味の薄くなったガムを、足もとに唾をするようにしてくずかごへ吐き捨てた。 「『もう』ってどういう意味? ふたりのことがボクにバレてまだいくらも経ってないよ。いい大人がそう簡単に弱音を吐いちゃだめだって」  うな垂れるママ。なにもいってこない受話器。そんなことなどおかまいなしに更けていく土曜の夜。  一階から別の電話=黒いそれのベルが聞こえた。誰だろう。ママはぼくがなにかいうよりも早くそれを取りにいった。 「沢村はどうなったの」  役者が欠けて暇になったボクはどうでもいいことを佐東に聞いた。 「あいつのことは警察に任せてある。先生にはもうわからない」 「どっかで捕まったって話は?」 「それもわからない。なあ、松――」 「おまわりさんと一緒に探してきなよ」 「……いや、それは無理だ」 「どうして?」  あいつひとりのためにこれ以上学校やお前たちに迷惑をかけるわけにはいかない――佐東の答え。吐きけがするほどつまらない男だ。 「いいよ、もう電話切って」 「そ、そうか」 「とりあえず月曜日、学校終わったらうち来てよ。いろいろ話もあるし」 「……わかった。それじゃ今夜はゆっくり休んで――」  最後まで聞かずに電話を切った。ママが部屋の外から顔だけをのぞかせる。 「電話、亨ちゃんにみたい。女の子よ」  聖香だ。こっちの電話がずっと話し中だったから、有線放送電話のほうにかけてきたんだろう。ボクはママを押しのけて階段を下りた。 「ごめんごめん、さっきは急にパ……お父さんが部屋へ入ってきちゃってさ」 「こっちもごめんね。《聖|きよ》ちゃんじゃなくて」  驚いた。ボクはそしてこの子とあまりしゃべりたくなかった。 「早かったね。もう解放されたの?」 「おかげさまで」 「武田は?」 「そんなことよくわたしに聞けるね。馬鹿なの?」  いわれた意味は理解できる。 「沢村のことならなにも知らないよ」 「ふぅん。誰に聞いたの?」 「聞いたってなにを?」 「わたしと《怜二|れいじ》の関係」  そこのところはさっきの電話で聖香からはじめて聞いた話。ついこないだまでわたしに夢中だったくせに、の続きで知った情報だ。 「誰だったかな。忘れた。ごめん」 「口、軽くないね。全然」 「沢村がそういってたの?」 「忘れちゃった」  なんなのか。ボクをからかうために電話をしてきてるのなら、特につきあってあげる理由もない。 「用がないなら切るよ。あんまり暇じゃないんだ」 「裏切り者」 「それも沢村が?」 「ううん。わたしがそう思ってるの」  沢村の名前を気にしたのか、心配顔と迷惑顔を足して割ったような顔をして近づいてくるママに、ボクは手ぶりで大丈夫、とやった。 「別にどう思われてもいいけどさ。捕まっちゃったんだからしょうがないじゃん。そうならなかったら今も一緒に旅を続けてたよ」 「うそ」 「どうして?」 「わたし見てたもん。《昨夜|ゆうべ》の職員室で起きたいろいろ。捕虜は逃げなかったじゃない」  捕虜? まあ、この話しの流れで考えたらそれはボクのことだろう。変わった言葉を持ちだしてくる女子だ。 「普通だったらあんな絶体絶命のところへ助けにいかないよ」 「沢村は普通じゃないよ」  そう。あのときは誰もが普通じゃなかった。あいつもボクもママも佐東も、あの場にいた全員が狂っていた。ボクたちふたりでやらかした泥棒にしたって普通じゃない。だからあれが普通かそうじゃないかなんて判断は誰にもできない。 「それに助けてくれとも頼んでない」 「またうそ。職員室へ乗りこむ前、怜二わたしにこういったの。『とにかく助ける。そういう約束なんだ』って」 「おしゃべりだな、あいつは」 「仲間を売るよりマシじゃない。捕虜は怜二だけじゃなくて《武田|たけだ》くんのこともそうしたんだから」 「捕虜、捕虜、うるさいんだよ、さっきから。そっちだって武田のこと裏切ってんじゃん。自分のこと棚にあげてボクばっかり責めてくるな」  電話を切ろうとするママの手をつかみ、茶の間にいろと命令した。 「《世津代|せつよ》さんだっけ? 捕虜のお母さん。元気?」  ふい打ちに面食らった。同級生の親の名前なんて普通は知らないはず。聖香のママどころか、長いことおとなりの《和宏|かず》んちの親にしたってボクはその名前を知らない。 「家族の話は今関係ないだろ。それよりボクの質問に答えろよ、《児島|こじま》」  頭にふと佐東の顔が浮かんだ。同時にボクを出し抜くためのあれこれを、教え子に話して聞かせる様子も浮かぶ。だけどそれはまずあり得ないパターンだ。聖香の話だと児島は今日の昼に武田と一緒のところを捕まっている。秘密のアパートにおまわりたちを案内したのは佐東と岩倉先生らしいが、そこでそんな話はできないだろうし、警察署でもそのへんは同じだろう。  そうなるとこの電話の狙いはどこにあるのかって話だ。なにをたくらんでいるのか。いろんな情報を漏らしたボクに対して文句をいう、ただそのためにかけてきているのなら問題ない。いくらでもいわれてやる。でもそうじゃないとしたら――沢村や武田がなにかしかけてきているんだとしたら、ちょっとうまくない。 「そうだったね。うん、わたしスパイなの」 「はい?」 「知らないの? えっと、日本語だとなんていうのかなあ、諜報――」 「それぐらいわかるよ」  おかしなことをいって、こっちの話をうやむやにしてこようとする児島。そうはいくか。 「スパイはいいから話を戻して」 「どこまで?」 「ボクは児島が武田を裏切ったことについて聞いてる」 「さっきからその話しかしてないよ」 「ばかばかしい」 「じゃあそう思いながらでいいから聞いて。スパイはね、人を騙すの。それが仕事だから。ターゲットに接近するためなら、好きじゃない人とつきあうぐらい朝飯前なんだよ」  でたらめをまるで正しいみたいにいってくる児島。とんちんかんにもほどがある。 「話にならないな。切るよ」 「切らないほうが身のためなんだけどなあ」 「いいかげんにしてくれ! なにが身のためだ! スパイごっこがしたいなら――」 「だって最初に旅の計画を立てたのは捕虜でしょ」  それがどうした。だったらなんだ。今じゃ沢村ひとりの旅になってるじゃないか。いいがかりもたいがいにしてくれ。 「だから?」 「責任取ってほしいんだけど」 「昨日からめちゃんこ取らされてるよ、自分の分はね」 「そうでもないんじゃない?」 「なにがいいたいんだ」 「それだけじゃだめっていってるの。わかんないかな」 「わからないね。わかりたくもない」 「そう。じゃあこれからわたしがいうことに、うんっていってくれればいいよ」  どんな話でも首を縦に振るつもりはない。児島に協力する筋合いでもない。 「あんまりボクをなめないほうがいい」  電話の向こうでけらけらやられた。 「ごめんね。それはでもこっちのセリフ。捕虜はこれからわたしがいう話を断れないの。もしそんなことしたら、聖ちゃんにこの世で一番嫌われる男の子になっちゃうけど、それはいやでしょ?」  意味不明。いってることにも、妙な自信をちらつかせてきているその態度にもいらっときた。聖香にとってボクは特別な存在だし、それはボクにも同じことがいえる。嫌われる理由なんてどこにもない。沢村がいなくなった今じゃなおさらだ。 「脅しにもなにもなってないよ、それ」 「そう? だって目がつまようじみたいに細い子のお姉さんと仲良しなんでしょ」  目がつまようじ? お姉さん? 誰のことを…… 「ちょ、ちょっと待ってよ! なんの話してんのか……わかんないから」 「うそばっかり」  まずい。やばい。屁ぐらいじゃ突っぱりきれない、めちゃんこなピンチ。児島はつかんでいる。あのことを知っている。誰にも知られちゃいけないボクの秘密をこのいんちきスパイはいったいどこから……いや、ちがう。そんなの考えるまでもない。黒幕はあいつだ。 「……沢村の話、もしかして信用してんの?」  あんな話はするべきじゃなかった。写真のせいで、雨のせいで、めちゃんこ不安だった夜の闇のせいで、ボクはまるでボクらしくないミスを犯してしまった。 「それって怜二の影響?」 「影響? なんの?」 「悪あがき」 「いや、だからそういうことじゃなくてさ。あいつ、めちゃんこうそつきなんだって。児島はそれ知らないじゃん」  一応の抵抗。通用するとは思っていない。だけど降参するわけにもいかない。 「ううん、まあまあ知ってるよ。でもそれはやさしさから生まれてくるうそなの。わたしもうそつきだから、そのへんはよくわかっちゃう」 「だ、だったら――」 「でも残念。捕虜の推理ははずれよ。ことわざは得意?」 「え?」 「得意ならヒントあげるけど」  与えられたそれは『灯台もと暗し』。意味はわかる。わかった意味を今の状況に当てはめる。 「……か、和宏?」 「正解。次の生理が来たらわたしの使ったナプキンあげるっていったの。そしたら晴れた朝の小鳥みたいにしゃべってくれたわ。こっちの知りたいこと以外まで」  クラクラきた。膝が折れそうになった。最近じゃタバコを吸ってもこうはならない。ボクの心は今、相当なダメージを受けている。 「聖香はそれを……信じるかな」  悪あがき、その二。 「捕虜のあそこ、怜二よりちっちゃいね。ふふふ」 「ちくしょう!」  茶の間からの気配。山猫に襲われ、あと五分もしたら死んでしまう小鳥のような声で『そろそろパパが帰ってくる』とママがささやく。ボクは普通の電話の番号を児島に伝えて二階へとあがった。    § 「ボクになにをさせたい」  電話に出るのと同時にいった。 「今回の泥棒騒ぎ、捕虜にほとんどの罪をかぶってもらいたいの。怜二が捕まった後で」  冗談じゃない!――喉まで出かかった文句を飲みこみ、代わりに別のことを聞く。 「児島は沢村が捕まると思ってるんだ」 「うん。心のどこかでは逃げきってほしいとも思ってるけどね。でもできれば捕まってもらいたいの。なにかに巻きこまれて死んじゃう前に」  ボクは逆のことを思っている、というより願っている。 「死なずに逃げきっちゃったときは?」 「ほとぼりが冷めた頃に怜二探しの旅に出る」  ボクがもし沢村の立場だったら、聖香は今のセリフを口にしてくれるだろうか。 「それより罪をかぶるほうの話はわかった?」  ベッドに腰をおろす。靴下を脱ぐ。あいつとボクのちがいについて考える。 「児島が持ってる《写真|それ》はいつこっちに渡してくれる」  沢村みたいなやつは高い確率で損をする。痛い目をみて、傷だらけになって、いつかどこかで悲しい、そして納得のいかない最後を迎える。ボクのようなタイプの人間にはそのどれもが起こらない。 「一生渡さないつもりだけど」  人生を野球にたとえるなら、それは攻撃力だけで勝利し続けることが難しいのと同じだ。守りを固め、相手を読み、裏をかき、表もかく。そうやって静かに勝ちを狙いにいくことが戦いに負けないための秘訣なんだとボクはずっと思っていた。ママたちのことを秘密にしたのだって、そういう計算を働かせたからだ。 「……ふざけんなよ」  それがどうだ。なんなんだこのざまは。同い年の、それもスパイだのなんだのいってくる女子に、ボク自身が使おうとしていた手口をそっくりそのまま真似され、あげくママや佐東とおんなじ立場にボクは今追い詰められている。 「ここから聖ちゃんちまで五分ぐらいかな、だいたい」  心のスクリーンには沢村に続いて窓を破る《にせ》中学生の姿が映しだされている。ボクは旅をやめたことを後悔しながら、電話に向かって降参だといった。 「グラッチェよ、《TMHR|ティー・エム・エイチ・アール》」 「ティーエム……なに?」 「捕虜のコードネーム。長いから《H|エイチ》でいいわね。わたしのことはミスKと呼んで」  いかれている。となりの姉と弟もおかしいけど、児島もたいがい負けていない。 「了解?」 「ああ、了解だよ。それでボクはなにをすればいい」 「そうね。シナリオはもう決めてあるから、Hはそれをそのままおまわりさんや先生たちに話してくれたらいいよ。簡単でしょ」 「簡単じゃないよ」 「どうして?」 「その前に沢村は今どこにいるの?」 「教えられない」 ――まあ、それはそうか。 「わかった。じゃあ簡単じゃないことについてパターンを分けていうよ。ボクは昨日の昼過ぎに捕まって自分ちにいる。沢村はそうじゃない。今もどこかを旅して――」 「昨日の昼過ぎを境にして、その前と後じゃHのかぶれる罪が変わってくる。そのへんをいいたいんでしょ」  意外と理解の早い児島。 「そうだよ。捕まる前のことはボクのせいにできても、沢村がこれからひとりで起こす騒ぎの身代わりは、たとえボクにその気があってもできない。不可能だ」 「たとえもその気も関係なし。どう転んでもばっちり可能なの」 「それはおかしい。盗んだお金のほとんどは沢村が持って逃げてるんだよ。ボクも含めてあの晩の職員室にいたやつらは全員、あいつの現行犯を目撃してる」  呼吸の音だけを伝えてくる受話器。小学生の女子が思いつく手なんてしょせんはこんなものだ。 「ほら、手詰まりだろ」 「ううん、Hにどこまで話そうか考えてるの」  はったりに決まっていた。そうじゃなきゃテレビやマンガのなかでしかできない絵空ごとだ。どう転んでも転ばなくてもボクはボクの、沢村は沢村の負うべき責任をそれぞれ取らされるだけで、どちらかひとりを悪者にするとかしないの話じゃない。仮にもしそんな真似ができたとしても、残ったひとりをおとがめなしとは誰もしてくれない。 「盗んだお金をHが全部使ったことにする作戦は完ぺきなんだけどね、とりあえず」 「ちょっと待ってって。ボクはそのお金にほとんど手を着けてないんだよ」 「でもゼロ円じゃないでしょ」 「いや、そりゃちょっとは使ったかもしれないけどさ、沢村がどうにかしちゃったお金までボクのせいにされるのは困るよ」 「となりのお姉さんにあそこをおっきくさせられてるのを見られるよりも?」 ――やめろ、やめろ、やめろ! いや、やめてください。お願いですから。 「だ、だから今その話は勘弁してって。ボクがいいたいのは弁償は誰がするんだって話になったときのことだよ」 「罪をかぶる部分はお金と関係ないとこだけにしてっていってるのね」 「まあ、手早くいえばそういうこと。からくりがどんなにばっちりでも、記憶を消したり作ったりできない以上、ボクに何百万円もの濡れ衣を着せることはできないよ。やばいこともなにもかも、みんな半分ずつって沢村もボクをぶっ飛ばしながらいってたしね」 「殴られて痛かった?」 「当たり前だろ」  部屋の扉が開いて、閉まった。そそくさと階段を降りていく足音。部屋の入口へ置き去りにされたお盆の上にはいちごのショートケーキと紅茶――たぶん蜂蜜たっぷりのそれを注いだティーカップが並んでいる。 「それに大人たちだって馬鹿じゃない。ガキのたくらみなんてすぐに見抜く。甘いよ、考えが」 「どうかしら」  相変わらずの自信。学校で見かける児島とは別人なんじゃないかという気もしてきた。 「大人が馬鹿なことは怜二がよく知ってるわ。わたしにそれを気づかせてもくれた」  ボクも雨のビニールハウスで気づかされたことがある。あいつは大人を怖がっていない。だけどなめてもいない。それと児島の気づきはおそらくどこかでつながってくる。ボクは沢村のそんなところにちょっと嫉妬もしていた。 「へえ。どんな話されたの」 「いろいろよ。おかげですっごい救われた。だから今度はわたしが怜二を救いたいの。愛って無限なんだよって気づかせてあげたいの」  聖香はさっきの電話で沢村と児島は相当愛しあっているといっていた。邪魔するやつらは皆殺しにするとかいう話もされたといっていた。ふたりが一緒にいるところを見たことがないボクからするとまったく想像のできない展開になっているわけだけど、こうして沢村のためにボクが利用されようとしているのはそのなによりの証拠で、つまりそれはぼくの輝かしい人生計画にかげりが射しはじめたということにほかならない。 「とにかくいいかしら、H。この《作戦|ミッション》を失敗するわけにはいかないの。組織は総力を挙げて全力で立ち向かっていく覚――」  部屋のなかにはない光が壁の鏡に反射する。 「ごめん、児島。パ……お父――」 「ミスKよ。なに? トラブル発生?」 「う、うん。そうなんだ、ミスK。続きは明日でいい?」 「モーニングコーヒーを飲んだらかけるわ」  電話が切れた。 「トラブルはお前だよ、児島……」  女スパイの弱みをなんとしても握ってやる――ボクは頭から布団をかぶり、じんじんする右肘を押さえながら、人のあら探しをするための脳みそにターボをかけた。
1
15
シリーズ一覧
感想を送る
作品を紹介
ブックマーク
しおりを挟む
作品情報
使い方
登録が完了しました!
確認事項
戻る
実行