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現在編・士官三日目―夕焼け色の中で②  《間宮|まみや》のお屋敷に、初めて行った日のことを思い出していた。  それまで一緒にいた悟と詩織さんがいなくなってから、お屋敷の廊下の端に座って、じっと膝を抱えていた時のことを。  あの時はお爺様が何も言わずに、昼を過ぎて夕方を過ぎて夜になっても動かないわたしの隣に、ずっと隣にいてくれたけれども。  今のわたしは、もうお屋敷を出て、見知らぬ世界を見てみたいと、自分で決めたのだから。  新しい場所で、生きると決めたのだから。  一人で、頑張るって、決めたのだから。  だから、頑張らなきゃ。  一人で、何でも出来るようにならなくちゃ。  今までお世話になってきた人達に、大丈夫だよって、ちゃんと、笑わなきゃ。 「────……」  頭を撫でてくれている気配がする。  お爺様みたいに、何度も何度も優しく。  この手の感触は知らない。誰だろう。  でも、この手もきっと、わたしのことを殴ったり、蹴ったりはしない人の手だ。 「目が覚めたかい、《古月|こつき》」 「…………!」  かなりの近距離で聞こえてきた声に、《古月|こつき》の意識は、急速に現実に引き戻された。  慌てて、横たえていた膝から頭を上げて、上半身を起こす。  視界が揺らいだ時にふらついた身体は、自分ではない腕が支えてくれた。 「まだ右腕の点滴が抜けていないし、糖分も足りていないから、急に激しく動いてはいけないよ」 「……こ、こく」 「はい、《古月|こつき》、口を開けて」  上体を腕で支えられたまま、《古月|こつき》が小さく唇を開けた隙間から、金平糖の粒が押し込まれる。  《夜霧|やぎり》の指先の先端まで口に含んでしまい、ぷちゅ、と音を立ててから、指は離れた。 「良い子だね、《古月|こつき》。では次はこれ」  ついで差し出されたのは小さな盃で、白く濁った中身からは、とても甘い匂いがする。 「《甘露水|かんろすい》という酒でね。子供でも飲める程度の度数しかない。甘酒の亜種だと思って貰えれば。名前の通り、砂糖の塊みたいな酒だから、今の《古月|こつき》には必要だ」  酒を掻き混ぜた《夜霧|やぎり》の指先を口に含まされ、《古月|こつき》は舌先でちろりと舐めてみる。  たしかに、砂糖を舐めたような甘い味しかしない。  再度《古月|こつき》が口を開けると、傾けられた盃の中身が注がれ、匂いや味の甘さとは正反対なまでに、するりと喉元を通り過ぎて行った。  《古月|こつき》が唇横から垂れてしまったものを拭おうとしたら、丹念に《夜霧|やぎり》の指で拭われて、微笑まれてしまう。  《幼子|おさなご》が世話を逐一やかれているような、そんな状態のはずなのに。  自分の知らない、何故か別のそわそわとした、妙ないたたまれなさがあって。  あまりにも近い距離にも変な感じがして、《古月|こつき》は俯くしかなかった。 「…………あ、あの、こ、《国主|こくしゅ》様、わた、わたし、その、あの、」 「うん」  柔らかく微笑まれて、返事を待たれてしまい、《古月|こつき》は更に言葉に詰まる。  既に、金平糖の粒は口中から完全に溶けている。  空になった盃も、いつの間にか下げられてしまっている。  その時、自分の左手が赤い髪紐を握り締めていることに、《古月|こつき》は気がついた。  眠る時の邪魔にならないようにと《解|ほど》かれたのだろうが、手の中にあるそれは、新しいきっかけを自分にくれたもので。  士官してからのこの数日間も、何かある度にずっと握り締めてきた、自分にとっては大切なお守りだ。  何度この紐を握り締めて「大丈夫」と、言い聞かせてきたことだろう。  何度も何度も「そんなことはない」と、脳裏に過ぎることを、否定し続けてきたことだろう。  あの日助けてくれた悟に《縋|すが》ったみたいに、この人の手も取ってしまったのに。  無意識とはいえ、涙を《零|こぼ》してしまったのに。  そして、こんなにもこの人に沢山迷惑をかけて、しかもこの人の前で眠ってしまったのに。  これ以上、この人の前で、何を誤魔化すというの、わたしは。  わたしは、わたしで、わたしだからよいと、面と向かって言ってくれたのは、この人。  新しい世界に来るならおいでと、背中を押してくれたのもこの人。  そんな人にまで、愛想笑いで「大丈夫」と、ここで嘘をついてしまったら、わたしはまた、結局同じことを繰り返すだけ。  あの女の人の所にいた時と同じく、ただ逃避すれば済んでいた日々は、もう選ばないと決めたのは誰だったか、今一度、思い出して。  ──────今はこうなのよって、今のわたしが、認めてあげなくちゃ、いけない。 「あの、その」 「うん」 「お仕事は、とっても、楽しいです。えっと、あの、まだ研修中ですけれども、知らないことも沢山教えて貰って、その、担当の人も優しいし、それから、えっと、部署の人も、あの、面と向かって、わたしのことを何か言う人は、まだいません」 「うん」 「でも、わたし、その、あの、ええと、上手く自分からはお話し出来ないし、だから、あの、その、わたしが話しかけて、何か迷惑かけてないかなとか、何か嫌がられてないかとかって、お屋敷にいた時と変わらずに思ってしまっていて、それで、その、えっと、あの、部署内の人とも、まだ、皆みたいには、その、あの、上手く、お話し出来ないです」 「うん」 「あの、あの、わたし、あの、変わりたい、とは思っています。でも、わたし、心のどこかで、怖いって思っちゃうんです。だって、わたし、こんなだから、わたしだけ、あんまりにも皆と違うから。その、あの、えっと、初めて一人で外に出たあの日みたいに、変なものを見る目で見られたり、ひそひそ話されたりしたら、その、あの、しょんぼりした気持ちになっちゃうんです。えっと、あの、だから、ご飯もお風呂も、皆がなるべくいない、遅い時間にすることにしていて」 「うん」 「でも、やっぱり、その、あの、わたしのこと、好きじゃない人は、いる、みたいです。えっと、その、あの、わたしのご飯はずっと捨てられているし、今朝は勤怠表のわたしの名前だけ綺麗に塗り潰されていました。だから、きっと、わたしのこと、いなくなればいいんだなって、あの、その、そう思っている人が、いるのかなって、思」  って、と続けようとするよりも早く、またもや涙がじんわりと《滲|にじ》んできて、《古月|こつき》は慌てて袖口で涙を拭う。  ごしごしと《擦|こす》るように拭っている《最中|さいちゅう》。 「そんな事をしたら余計に腫れてしまうから、優しくしないと駄目だよ」と言われ、手が外されて。  涙が《滲|にじ》んだままの《古月|こつき》の視界で、変わらずに傍にいる《夜霧|やぎり》は、微笑んで続きを待っていた。  言葉より先に涙が出てしまうのは、自分の一番弱い所。  泣いてしまえば、黙れるから。  涙が隠してくれて、話さなくて済むから。  そうやって、逃げようとしてきた。  でも、ちゃんと、自分の口で、言わなくちゃ。  この人には、ちゃんと、全部、言わなくちゃ。  怖いのも、しょんぼりしてしまうのも、それから自分が『こうしたい』って思っていることも。  口にしなくちゃ、始まらない。  変わるって、決めたんだもの。  せめて、せめて。  この人には。  自分の口で、伝えなくちゃ。  士官すると決めたことを、きちんと言えた時みたいに。 「あの、その、ご飯が捨てられているのを見て、その、ごめんなさいって思いました。えっと、あの、折角作ってくれたのに、あの、食べてあげられなくて、作ってくれた人にも、食事になった元のものにも、ごめんなさいって思いました」 「うん」 「士官してから、その、あの、今日のお昼まで、ずっとわたしのご飯は捨てられています。誰が捨てているかは分かりません。えっと、あの、今朝の勤怠表もそうです」 「うん」 「でもわたし、ずっと、自分が、そんなひどいことをされているなんて思いたくなくて。あの、その、いなくなれなんて願う人がいるなんて思いたくなくて。わたしのことを好きじゃないって、面と向かって言わなくても、影では言ってる人がいることを分かりたくなくて。だから、その、全部見ないふりをしようとしました」 「うん」 「だって、その、あの、わたしだけが我慢すれば良いことだから。あの、その、わたしだけが我慢して、ご飯だって我慢して、お義父様にも悟にも詩織さんにも黙って笑っていれば、それで良いと思っていました。でも」  ぎゅうと握り絞めた赤い髪紐を手に、《古月|こつき》は長く息を吐き出すと、真正面から《夜霧|やぎり》を見た。 「あの、それじゃ、何も解決しないって思いました。えっと、それだと、わたしのことを好きじゃない人は、今のままじゃ、ずっとわたしのことを好きじゃないままだと思います。これからもっと、酷いことをされるかもしれないです。その、あの、わたしは、お仕事を続けたいし、此処にいたいです。だから、わたしは、わたしのことを好きじゃないって思ってる人とも、出来るなら、ちゃんと面と向かってお話しなくちゃいけないと思います。わたしはこうしたいって、自分の口からお話して、それでも駄目だったら、仕方ないと、諦めるしかないかもしれないんですけれども。でも今のまま、わたしがずっと黙っていても、何も変わらないと思ったんです。あと、それから、その」 「うん」 「わたし、お友達って呼べる人がまだ、いたことがないんです。だって、悟も詩織さんもお友達より大切な人だし、《間宮|まみや》の人達もそうです。だから、お友達出来たらいいなって、楽しそうに話している人達を見ると、そう思うんです。でも、どうやったらお友達になれるのかも、よく、分からないです」  最後は、言わなくても良かったかもしれない。  勢いあまって言ってしまったが、子供っぽいと思われるかもしれない。  この歳になっても友達が一人もいないなんて、変な子と思われたかもしれない。  《古月|こつき》が頭を抱えようとする前に、その頭に手が置かれて、先程知った感触の手が、優しく頭を撫でてくれた。 「ちゃんと、自分の口から話が出来たね。偉い偉い。  《古月|こつき》、話す事も慣れが必要だし、経験も必要だ。それに本人の《性格気質|せいかくきしつ》も《根本|こんぽん》にある。《古月|こつき》はどちらかというと内向的な側面が強いから、話す前後に色々と相手の事も考えてしまうのだろうと思うしね。  そうだね、《古月|こつき》にも分かりやすく説明するなら、詩織は《古月|こつき》とは逆の外向的気質が強い。誰かと話をして本人も満足するし、それで周りとわいわいやっていける人間。照れ隠ししたがってぶっきらぼうに振舞ってしまう部分はあるけれども、彼女の性格だし。同性で言うなら、千里も奈々も外交型が高いね、特に千里は昔からああだ。《古月|こつき》だって初対面の時から面食らっただろう、千里には。  一番参考にならないと言うと、間違いなく悟だね。完全に言動や感情を自分の意識下で制御して振る舞える、終始盤面を予測して、自分で話す必要だと思う事以外は、無駄口を叩かない割り切り型。根はとてつもない頑固者でもあるし。この境地に行くには、《古月|こつき》には少し難しいだろうね。  ちなみにさっき《古月|こつき》が眠っている時、久々に悟に怒られたよ。普段は俺の口喧嘩になんて、最初から乗る素振りすら滅多に見せないのに。だから、物凄く《古月|こつき》の事を気にかけていたよ」 「…………そう、なんですか」 「友達もそうだ。前も似たような事を言ったけれども、今までいないからといって、これから先もいないままとは決して限らない。《古月|こつき》の言葉で、《古月|こつき》が思った事を話して、それで距離を縮める者も確かにいると、俺は思うよ。なかなか馴染みのない人間とは、最初は距離感が掴みにくいとは思うけれども、それは他の皆も同じ。話をしながら、素振りを見ながら、そうして手探りで、互いにとって良い距離感を探っていく。だから、きっと、《古月|こつき》と気が合う子も出てくると、俺は思うよ」  くすり、と小さく笑われた気がして。  おずおずと目を合わせた先で、《夜霧|やぎり》は《古月|こつき》の頭から自然と手を離した。 「《古月|こつき》、君に害をなした者の身柄は間違いなく確保される。悟の事だ、抜かりなく今日中にやってのけるだろうね。話をしたいという君の気持ちも尊重しよう。加害者側と、君が思うがままに話をしてみたらいい。場はこちらで設けるから。  食事に関しては、《古月|こつき》、士官者達のいる広間には、まだ行きたくない気持ちが大きいんだろう? 今回と同じ事を繰り返す《輩|やから》が出てこないとは限らないから、この部屋の隣室で、前にも来た事のある広間で、俺や千里や奈々と摂ればいい。それぞれに忙しくて時間が合わない可能性もあるけれども、大概朝夜は三人とも顔を揃える。少しは顔も見知って話をしている者しかいないから、そんなに緊張する事もないだろうし。《古月|こつき》さえよければ、食事の手筈は整えるよ。また食事抜きで倒れられたら、今度は詩織が怒鳴り込んできそうだしね」  最後にまた、夕焼け色の中で笑われて。  《古月|こつき》の胸の中で、鐘が一つ、鳴った。 「あ、あの、こ、《国主|こくしゅ》様との、この距離は、その、あの、なんだか、その、とても、近くて、その」 「ああ、ごめん、嫌だった?」 「へんなかんじが、します、あの、いやというより、その、よく、わからないですけれども、へんなかんじが、します」  こんなに至近距離で、微笑まれて、頭を撫でられて。  夕焼けと同じ色の、光が射し込む室内で。  《古月|こつき》はまたもや、ぱっと顔を逸らした。  なんだろう、この気持ち。  顔を見たくないわけじゃないのに。  とってもとっても、こちらの顔を見られたら、恥ずかしい。  恥ずかしさよりも、もっと違う何かで、体温が上がる気がする。  とくんとくんと、静かなはずなのに、身体の中の一部だけが、やけにうるさい。  でも、嫌じゃない感じの、気持ち。  とくんとくんと、今はうるさいけれども。  この気持ちの名前も、その内に、分かる時が、来るんだろうか。
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