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 明日から十一月だというのにタイルには蚊が止まっていた。おれは人一倍こいつに食われる。もちろん夏の話だ。東京の蚊はいつまで生きているんだろうか。一年中食われ続けるのはちょっと敵わない。  見るものを蚊から鏡に変え、ダメージの確認をする。傷がいくつか増えてはいたが、腫れや痣のほうはそれほどでもなかった。なおりかけていた左目の下を少しまた派手にしたぐらいだ。ケガの目立たない顔は逃亡犯にとっちゃまさに宝ものといえる。  手早く手当てを済ませ、テストをしくじった最大の原因=稲妻のチェックをはじめる――外側は傷だらけ。だが、壊れている様子はない。スパークしなかったのはおそらく電池切れだろう。何万ボルトか知らないが、あれだけの稲妻だ。そりゃ電気も食う。ちょっと考えたらわかることも考えなかったおれは、そのせいで痛い目をみた=自業自得。買える安全は端から買っておけ――肝に強く銘じた。  固くてなかなかスライドしない裏ぶたを手洗い台のふちへぶつけながら開ける。出てきたのは四角い乾電池=九ボルトのそれが二本。取り外してブリキのバケツへ放りこむ――このタイプはセブンイレブンに置いてあっただろうか。  顔をあげる――壁のそこかしこに貼りつけられた紙っぺら。いろんなゲームのハイスコアとそいつを叩き出したやつの名前が、へたくそな字でマジック書きされている。パックマンのそれ=こんな点数があるのかという桁数の横には『《ROCKATS|ロカッツ》 啓太』とあった。 「どこの街のチビもゲームだけはうまいんだな」  帽子を目深にかぶって便所を出る。電子の音と光に包まれるおれ。混んでも《空|す》いてもいない店内を窓側の隅っこに向かって移動し、穴を掘って化けものを生き埋めにするテーブルゲームの椅子へ腰をおろした。目の前にはウォークマン一式と覚えのあるドンブリ。七分めまで入れられた水のなかで長谷川がワカメになっている。 「《長|なげ》え小便だ」 「ついでにでかいほうもしてきた」  赤いドクロが刺しゅうされた背中に向かっていった。 「タコ殴りにされてソッコーくそなんてよくだぜ」  壁一面の窓――外からは鏡でなかが見えなくなっているガラスに目をやる。センター街に人はくそほどいたが、そこに哲の姿はなかった。いいかげん諦めたということか。上半身を百八十度ねじり、黄色い顔なし野郎を黙々と操作するミニ不良=《鏑木|かぶらぎ》《啓太|けいた》に、テーブルの上へ置かれたストローつきの紙パック=グレープフルーツ味のそいつを飲んでもいいのか聞いた。 「おごりだ」  礼をいって、パックにストローを突き刺す。 「ところで啓太くんさ――」 「タメなんだから呼び捨てでいいぜ」  そうだった。おれと啓太はここじゃ――ROCKATSじゃ四十二年生まれの同い年。忠一のときよりもひどいうそだったが、声変わりもしていない、おれよりもちんちくりんな中学二年生のおかげでそいつはまかり通っている。こういうのも運やツキのひとつだろう。 「ここは溜まり場なのか」 「そんなようなもん」 「大人の不良は来るのか」 「なんだ大人の不良って。やくざかよ」 「そこまでいかない不良。《二十才|はたち》ぐらいの」 「よくわかんねえけど、あんま上の人たちは来ねえよ。ゲーセンだぞ、ここ」  やっぱりそうか。どこへ行けばそういうやつらと会えるのか聞きたかったが、知りあって間もないガキが根掘り葉掘りやるのはうまくない。怪しまれるもとだ。逸る気持ちにふたをして、おれはとなりのテーブルに目を落とした。 「それ何面?」 「十二面」  啓太の操作する黄色野郎が迷路のなかを駆けまわる、というか逃げまわる。迫りくる四匹の化けものをジグザグの動きでかわし、それも厳しくなってくると今度はワープトンネルへと逃げこむ。まるで自分の姿を見ている気分だ。 〈どっちもあたしのなかま〉  どっちも=黄色野郎も化けものも。たしかに。 「なんでそんな古いゲームやってんだ」 「安いから」  すぐに納得。この列のゲームにはどれも『一回五十円』のシールが貼られている。  迷路では逆襲の噛みつきが繰り広げられていた。青い顔をしておろおろしだす化けものども。黄色野郎に容赦はない。二百点、四百点、八百点、千六百点。パターンを読んだ見事な噛みつき。目玉だけになった化けものがダッシュで巣へと逃げ帰る。続く逆襲もパーフェクトを決める啓太。相当やりこんでなきゃこうはいかない。 「うまいな」 「先は長いぜ」  画面左上のスコアは六桁。便所のそれにはひと桁多い数字が書かれていた。どう考えても一時間や二時間じゃ終わらない。ゲームの結果を待つより先に店がシャッターをおろしちまう。 「拓也先……ROCKATSのみんなはどうしておれを助けてくれたんだ?」  ゲームの休憩時間を待って聞いた。 「亨に根性があるってわかったからだよ」 「おれはこてんぱんにされた。いわれた条件もクリアできなかった」 「でも、なかなか様になってたぜ」  取ってつけたような慰め。情けない。 「それに増えただろ、途中から」  目の端でなにかが動いた――青いトサカ。ふたつ並べた椅子の上で器用に眠り、寝返りを打っている。どうしていつも寝ているのか。長野で見たシンナー野郎どもとはちょっと様子がちがう。あいつらは目をとろんとさせちゃいたが、寝そべっても眠ってもいなかった。だいたいそんなことをしていたら集会どころの話じゃない。どこか体の具合でも悪いんだろうか。いや、どうだろうが知ったことじゃない。新しい仲間をピンチから救うよりも夢の続きを選ぶ男だ。ろくなもんじゃない。 「あいつら四人とも高二だ。ひとりでもクリアできてりゃ上出来だって」  おれのなかじゃ上出来どころか奇跡に近い内容だったが、今ここでそれをいうのはやめておいた。 「でも助かったよ。あのままやられてたら痣も傷もこんなもんじゃ済まなかった。サンキューな」 「オレなんか大したことしてねえよ。礼ならほかの先輩にいえって」  ほかの先輩も大したことはしていない。あれは拓也がひとりでぶっちめたようなもんだ。 「拓也先輩のケンカ、鬼だったな」 「鬼なんてもんじゃねえって。エンマだよ、エンマ」  加納や《慎作|デブ》なんて目じゃないスピードとパワー。それに技。怪物とでも《五分|ごぶ》かそれ以上で渡りあえそうな強さだった。おれも早いとこあんなケンカができるようになりたいもんだ。 「そういや見ないな、寝てる先輩以外の先輩たち。どうしたんだ?」  啓太が空いているほうの手を天井へ向ける――《二階|うえ》。そこでなにをしているのか聞いたが、わからないといわれた。代わりにちがう質問をする。こっちはちゃんと答えが返ってきた。 「さっきはじゃあ全員いたのか」  岡島亨を入れて十人=ROCKATSのメンバー数。勝手な計算で三十人ぐらいはいると踏んでいたおれ――痛いミス。《ふと》拓也と美希のやり取りを思いだした。 「解散がどうのって話。あれ――」 「オレらが気にすることじゃねえってさ」  おそらく拓也の言葉だろうが、それでも気になるものは気になる。チームが解散になればこっちの段取りもまた最初からだ。根性を証明した袋叩きをよそでもう一度やる気にはなれない。 「気にしなくていいってのは、解散にもならないってことか」 「それはわかんね」  無責任な返事。もう少しまともな答えが欲しかったが、啓太相手に問答を繰り返してもしかたがない。後で拓也に直接聞こう。 「お、出たな」  声につられて画面を見る。迷路のど真ん中に見たこともないなにかが映っていた。 「なんだ、それ」 「鍵だよ」  目を凝らす。普通ならいちごやみかんやメロンが出てくるところに、なぜか鍵。フルーツどころか食いものですらない。黄色野郎がそいつをあぐりとやる――五千点。ギザギザした鉄なんか食ったってうまくもなんともないだろうに。こいつ、顎が丈夫なところまでおれにそっくりだ――と、そんなことはどうでもいい。 「青いジャンバーのやつらもどっかのチームなのか?」 「BBB」 「ビリビリ?」 「電気じゃねえ」  《BAD|バッド》・《BOY|ボーイ》・《BLUE|ブルー》。メンバーが三十人ぐらいの高校生チンピラグループ=啓太の説明。 「数じゃ負けてるな。まずくないのか」 「全然。《澁聯|しぶれん》全体だと三百人ぐらいいるからな」 「三百!?」 「ああ、けっこうすげえだろ」  たしかにすごい。で―― 「シブレンってなんだ」  啓太がどこかの線をコンセントから抜いて差した。迷路も黄色野郎も化けものも画面から消えて、今は変な模様がちかちかしている。 「もったいねえな」 「いいんだよ、こっちのほうが大事な話だからな」  三百人グループの説明に耳を傾ける。ROCKATSは《澁谷聯合會|しぶやれんごうかい》のなかのひとつで、ほかに《黒乱|こくらん》、《JEALOUSY|ジェラシー》、《親不孝|おやふこう》《下北|しもきた》、《華蝶風月|かちょうふうげつ》、《桜龍|チェリードラゴン》、《BABY|ベイビー》・《NIGHTMARE|ナイトメア》、《狼怒弾鎖亞|ロードダンサー》、《蟻|あり》の《拳|こぶし》、《三茶|さんちゃ》ヘブン、《SPEED|スピード》・《MONKEY|モンキー》、《爆狂隊|ばっきょうたい》、《百萬獄|ひゃくまんごく》、《松桐坊主|まつきりぼうず》、《紅鬼威|クッキー》の十四チームがある。ROCKATSを含めた最初の七つがダンスチームで、終わりのふたつを抜かした残りが暴走族。松桐坊主と紅鬼威については啓太もよくわからないらしい。 「ダンスチームって、ROCKATSはなんか踊るのか」 「そりゃ踊るさ。ロカビリーのチームだからな」  まいった。行き当たりばったりはこれだから困る。踊るとかいったってこっちは運動会のときにいやいやフォークダンスをやらされたぐらいで、もちろんちゃんと踊れてもいない。もっといえばラジオ体操第二だって怪しいありさまだ。 「そのロカなんとかの踊りってツイストとかそういうやつか」  武田のミジンコダンスを頭に思い浮かべながら聞いた。 「ああ。そういうやつだけど、ツイストばっかキメてると横っ腹が痛くなってきちまうからな」  バップ、ジルバ、ジャイブ――聞くだけ無駄。おれは完全に入るチームをまちがえた。頭を抱えそうになる手をとりあえず膝へ乗せる。 「ひょっとしてそこらへんも知らないでウチへ入れてくれとかいってきたわけ?」  返す言葉もない。頷いた。 「おいおいおい……」  どうせ解散の危機もあることだ。しらばっくれて新しいところへ入りなおすか――いや、でもどうだろう。親せきグループが十四もあったんじゃ、どこでおれのことがバレるかわからない。不良のルールじゃ仲間から抜けるのは裏切りも同じ。それなら七つある暴走族のうちのどれかへ引っ越しさせてくれと頼むほうがまだマシな気がする。 「しょうがねえな。後で踊りの本とカセット貸してやるよ。ラジカセぐらい持ってんだろ」 「ない」 「マジかよ」 「悪いな、貧乏なんだおれ」 「亀、飼ってんのにか?」  亀は金持ちのペットなのか。考えてもわからなかった。 「まあいいや。そしたら明日から特訓だぜ。あんまりうまくねえけどオレが教えてやる」  アパートをなんとかするのに踊りまで覚えるはめになったおれ。ついてない。 「いいよ」 「いいや、よくねえ……あ」  啓太が椅子を弾いて立ちあがり、誰かに頭を下げる――知らない顔。親せきチームの先輩か。同じことをするのがいやなおれは、座ったままずっとそっぽを向いていた。 「愛想はよくしといたほうがいいぞ、亨」  啓太が画数の多い漢字の書かれた背中を見送りながらいう。 「踊りだけでも大変なのに、おべっかまで使ってられるか」 「上から睨まれるとやりづらいぜ」  揺れる心。アパート作戦には年上の不良の力がどうしたって必要だ。チームやグループの問題を抜きにしても、まずは近くの年上と仲よくなるところからはじめなきゃならない。自由な暮らしへの道はなかなか険しい。  脱走を図ろうとしている長谷川を龍の模様のプールへ突き落としてやる。人に乱暴はしても動物にはそれをするなと啓太に叱られた。 「亀のドンブリ、どうしたんだ?」 「ドンブリ? ああ、《張|チャン》のおっさんに借りてきたんだよ。近所だからな。なんでそんなこと聞くんだ?」  長谷川をドンブリからすくいあげる。突き落としておいてなんだが、長風呂をさせて風邪なんかひかれても敵わない。 「啓太たちと会うちょっと前に、そこの店のチャーハンと餃子を食った」 「《宝龍苑|パオロンウェン》でか!? よく食えたな、あんなの」 「やっぱりまずいと思うか」 「まずいとかってレベルじゃねえだろ。ありゃ、豚の餌だぜ」  きちがいどもに変なものを食わされ続けたせいで馬鹿になったおれの舌。便利なのかもしれないが、ちょっと悲しい気分にもなった。 「拭いたほうがいいか? 亀」 「そうだな」  啓太がどこからか取りだしてきた鼻紙で長谷川をやさしく包んだ。 「かわいいよな、こいつ」 「よかったらやるよ」 「なにいってんだ。自分のペットだろ」 「もらったんだよ、実は」 「誰に」 「友だちにさ。断れなくてな。今日の昼間の話だ」 「引き受けたんならちゃんと飼えよ」 「そりゃそうなんだろうけど、正直いっちまうとこいつの面倒みてやる暇もつもりもあんまりないんだ。踊りだって覚えなきゃならなくなっちまったし」 「んじゃ、なんで――」 「だから、断れなかったっていってんだろ」  長谷川と二回めのにらめっこをする啓太。考えていることはわかる――あとひと押し。 「啓太はやさしそうだ。行き場のない亀を放っておけるようには見えない」  心のなかで揺れている天秤にそっと重りを乗せてやる。 「やめろよ。だいたい急にそんな話されても飼い方だってわかんねえし」 「飼い方か。そうだな……餌はゆで玉子とか梅干しとか新しい消しゴムとか、とにかくなんでも食う」 「消しゴムは食わねえだろ」 「……まあ、好物じゃないとは思う。あとはなんだ、毎日朝風呂へ入れてやるぐらいか」  アッシぁそんなにお荷物ですかい――勝手に聞こえてきたセリフ。 「沸かすのか? 風呂を」 「いや、さっきと同じことをしてやればいいだけだ」  三回めのにらめっこが開始される――慎重な啓太。考えなしに生きているように見えてなかなか手ごわい。 「そいつみたいにポケットへ放りこんでどこへでも持ち歩けるし、あと首輪も鎖もいらない。便利だぞ」  テーブルに置かれているウォークマンを指差しながらいった。 「機械じゃねえし、便利とかそういう問題でもねえだろ」  亀にしては速い動きで首を振り、おれと啓太の顔を見比べる手のひらの長谷川。どっちが自分の飼い主としてふさわしいのか。そいつを確かめているような振るまいだ。 「名前はなんていうんだ、こいつ」 「《哲|てつ》」  とっさに口を突いて出てきた名前。いった後で吹きだしそうになったが堪えた。 「鉄?」 「ちがう。『折』れるの下に『口』って書く哲だ。苗字は長谷川」 「なんか人間みたいだな」 「人間だと思って面倒みてやってくれ」  啓太の顔に笑顔が弾ける。ガキくささがさらにアップする――世話係からの解放。悪いな、Q。逃げ隠れしながらの亀育てなんておれには無理だ。だからこれで勘弁してくれ。《長谷川|おまえ》もそのへんにぶん投げられなかっただけありがたいと思えよ。 「今日からお前は鏑木哲だ」  まるで結婚式。誰かの苗字もいつか沢村にしてやりたい。そう思ってすぐにやめた。叶いそうもないことを考えてもしかたがない。もと長谷川=死んだ人間長谷川の生きた形見がドンブリへと戻される。 「あと、そいつなんとなく悲しい運命背負ってる気がするからさ、なんていうかその……大事にしてやってくれ」 「ああ、わかったよ」  少しの寂しさと大きなせいせい――達者でな。おれはこれでまた自由に動きまわれる。 「ほい」  啓太がお祝いだといって二度めの紙パックをよこしてきた。味は牛乳。さっきも同じものを飲んでいた啓太。理由を聞くと背がやばいからだと答えてきた。 「亨はタバコ吸うのか」 「吸わない。啓太は」 「まさかだろ」 ――なんだ。 「不良っぽくないな。なんで吸わないんだ」  啓太の牛乳好きには毒消し対策もセットされている――勝手にあたりをつけていたおれ。 「背が伸びなくなる。あれは成長の敵だ。カルシウムもビタミンもみんな殺す。骨なんかセメントみてえにかためちまう。牛乳の無駄だ。それに――」  まくしたてる啓太。あのガキに聞かせてやったらどんな顔をするだろうか。 「相当な毒なんだな、タバコは」 「ああ、猛毒だぜあんなもの」  いって車のゲーム=百円かかるテーブルに着く啓太。反対側へ座るようにいわれた。おれもやれという意味か。 「無駄づかいはしたくない」 「任せろ。そのへんはこいつがすべて解決してくれる」  尻のポケットから取りだされてきたのはガット。テニスやバドミントンのラケットに張ってあるあれをコイン投入口の細い隙間へ滑りこませていく啓太。やろうとしていることはすぐにわかった。 「見つかったらやばいぞ」  いってる間に増えていく投入コインの数字。六、七、八、九、十。そんなに増やしたらやってる途中でも疑われる。パックマンは安いからやっているとさっきはいっていたが、この手口でいくなら金額もなにも関係ない。おれは紙パックの中身を一気に吸いあげた。 〝おい、啓太ともうひとり〟  口のなかのものを吹きだしそうになった。 「《二階|うえ》へあがれ。続きは俺様がやっといてやる」 「うぃす」  啓太がROCKATSの誰か――顔に覚えはあるが名前をまだ知らない、えらさでいけば下から数えたほうが早いやつに答える。 「行くぞ、亨」 「なにしに行くんだ」 「行きゃわかる」  ドンブリを右手に、牛乳パックを左手に歩いていく啓太――まるで出前持ち。舌打ちをしておれもドクロの背中に続いた。 「舌なんか鳴らしてんじゃねえよ。なんだ」 「あのゲーム、得意だったんだよ」 「へえ。そりゃちょっと見てみたかったな。けどしょうがない」 「ああ、しょうがない」  裏口扉から外へ。建物に沿って左へ進む――狭くて湿っぽくて薄暗い、ビルとビルの隙間。 「二階じゃないのか」 「二階だよ」  モルタル塗りの壁が迷彩模様をこする。角に沿って曲がると鉄柵で囲まれた階段があった。こっちもこっちで幅がない。慣れた足取りで上っていく啓太。鉄を打つ踵の音――おれたちのとは別のそれが頭の上に聞こえていた。踊り場で体を横にする――鼻先をかすめていく整髪料のにおい。 「なにいわれても気にすんなよ」  すれちがいざまに拓也がいってきた。誰になにをいわれるのか。解散についてはどうなのか。踊れなくてもメンバーでいられるのか。どれも聞くことはできなかった。    §  ここにも蚊がいた――啓太の耳たぶの上。たぶん血を吸っている。 「派手なケンカするらしいじゃねえか」 『澁谷聯合會《總|なんちゃら》本部』『《喧嘩|なんちゃら》上等』『天下《布武|なんちゃら》』『《唯我|なんちゃら》《独尊|かんちゃら》』『一日一善』――《額|がく》へ入れられた筆書きの文字たちに取り囲まれた厳めしい部屋。山口百恵のポスターはどう見ても浮いていた。 「おい、亨」  気をつけ立ちをしている啓太からのささやき声。 「聞かれたことにちゃんと答えろ」  拓也にはなにいわれても気にするなといわれている。だからなにも聞いちゃいない。耳の記憶も当然ゼロ。帽子を取り、聞きなおそうか考えていると啓太が代わりになにかを答えた。 「なかなかいい《根性|たま》だな」  武田の何十倍も低い声。話しかけてきたでかい男=高そうな机にぶっとい足を投げだし、ソフトクリームをなめ、肘かけのついた椅子でふんぞり返っているそいつをわずかに見おろす――ひと目で不良とわかる顔。首の内側になんかいるんじゃないかと思うぐらい、喉仏がごりごり動いていた。 「取っとけ」  机の上をでかい聖徳太子が滑ってくる。 「こんなのもらえませんよ」  手に取らなくてもわかる枚数――十枚。 「足りねえか」 「そうじゃなくてその、もらう意味がちょっと……」  たぶんこいつが《澁谷聯合會|ここ》のボスだろう。ヒゲなんか生やしてるぐらいだから、もしかしたらもう大人なのかもしれない。 「ファミリー。わかるか?」 「家族……ですよね」 「そうだ。今日からおめえは俺の家族だ。啓太も《倉田|くらた》も美希も百恵も――」 ――ん? クラタって誰だ。 「みんなかわいい弟や妹たちってわけよ」  たしかに仲間にはなったが、その考えはしっくりこない。もしROCKATSのほかのメンバーも同じような感覚を持っているんだとしたら、おれにはちょっと合わないチームかもしれない。 「納得いってねえって面だな。まあいい。そのうち俺のいってることもわかるようになる。気張れや」  でかい男はいうと聖徳太子たちを引っこめて、おれに名前を聞いてきた。 「岡島です。岡島亨」  今じゃ本当の名前よりもこっちのほうがすらりと出てくる。慣れというのはつくづく怖い。おれは持っていた帽子を尻ポケットへねじこんだ。 「いい名前だ。《家|うち》はどこだ、《岡村|おかむら》」  残り少ないソフトクリームをヒゲのボスがコーンごと飲みこむ。 「岡島です」  啓太に足を蹴られた。 「おお、そうか。で、どっから来たんだ」 「上野です」  聞かれたらいおうと思っていたセリフを口にする。 「マジか、亨」  おれの答えのどこに驚けるポイントがあったのか気になったが、今は不良三百人のボスに集中。怒らせたら痛い目を見そうだ。 「上野のどこだ」 ――どこ? そんなの上野は上野だ。駅の西とか東とかそういうことを聞かれているんだろうか。床へ置かれたドンブリに目をやる――知らん顔のもと長谷川。どう答えればいいのかちょっとわからない。 「オレたちも昔そっちにいたんだぜ。不忍池のほうな」  疑問が解けて脳みそがかたまる。おれはどうしてこうも運が悪いのか……いや、待て。オレたちってなんだ? ここには二個めをなめだしたヒゲのボスと啓太とおれの三人しかいないぞ。 「兄貴、あのへんの中学全部シメてたんだぜ。ていうか、亨はどこ中だよ」  質問が増えた。名前も年もなにもでたらめなガキの家と通っている中学校。乳製品が好きなだけで、あとは似ても似つかない兄弟ぶりに驚いている暇はない。 「《上野中学校|うえちゅう》か」 「《蓬莱|ほうらい》だろ。上野って面じゃねえ」 「そっちのほうがもっとちがうって。ずばり、《蔵前|くらまえ》!」 「いいや、蓬莱だ」  おれの通う中学校当てクイズに白熱する鏑木兄弟。正解が明かされる前に、どうして渋谷へ来たのかと兄貴が聞いてきた。なんで上野のやつらとつるまねんだと弟が聞いてきた。どっちの問いにも正直には返せない。汗に濡れる手のひら。指なし手袋を左だけ外した。ここからどうするか。待ったもいいなおしもきかないこの状況を無理なく、自然に、さりげなく軌道修正するには…… 「はあ? なにいってんだ、亨」 「てめえんちがわからねえってのは変わってんな」  実はまだよくわからない――そう答えたことに対しての反応。つじつまに気を配りながら説明を続ける。 「埼玉の大宮から三日前に引っ越してきたばっかで、なんていうかその……家のまわりもさっぱりだし、学校へもまだ顔出してないんですよ」  記憶に新しいところでこしらえた特急のうそ=高木のときにも使った手口。まさかそこにもいたとはいってこないだろう。いくらなんでも。 「《岡田|おかだ》」 「『《田|だ》じゃなくて『《島|じま》』』です」  またしてもちょい蹴り。 「そうだったな。で、なに? 大宮だって?」 「はい。東京から三十キロも四十キロも離れた大宮です」 「ああ、知ってるぞ。あのーだかそのーだかいうガキが調子こいてるとこだろう」 ――あのーそのー=おそらく、加納。 「《岡野|おかの》はやつと知りあいか」  まさかのまさかに泣きたくなるおれ。話がどんどん追い詰まってきた。苗字なんかどうでもいい。だからもう勘弁してくれ、鏑木兄弟。 「顔と名前ぐらいは知ってますけど、知りあいってほどでもなくて……ボスは仲いいんですか」  会長っていえ=啓太からのアドバイス。 「おいおい、あんなハナタレと俺がなんでつきあいしなくちゃなんねんだ」  そこそこ強かった加納をハナタレ扱いするヒゲの会長。まあ、こっちもやつには勝ってるから、おれにも同じ扱いをする権利はある。< 「ですよね」  外の気配に振り向く――開いた扉の内側にとんがり口の知らない男。 「どうも、会長」 「おう、どうだったあっちは」  冷蔵庫から三個めのソフトクリームが取り出される。 「渋いですわ」 「そうか。まあ、座れや」  おれにはわからない話を応接セットのほうではじめるふたり――印刷屋がどうの渋谷署がどうの会費がどうの。脇腹を突いてくる肘。小声でなんだと聞く。< 「兄貴は人の名前をよくまちがえる」 「みたいだな。覚えたよ。頭に『岡』ってついたらおれなんだろ」  姿勢を休めのそれに切り替える。啓太は気をつけのまま顔を前に向けていた。 「そういうこと。でもたまにそれが下のときもある。亨の場合だと『島』のほうな」  そんな人間はいない。いたとしたらわざとか馬鹿のどっちかだ。 「やってらんねえな。それよりなんで兄貴のこと隠してた」 「いうの忘れてた。隠してたとかそんなんじゃねえよ」 「兄貴がえらいとでかい顔してられるだろ」  黙りこむ啓太。怒ったか。 「まあな。でもオレは拓也先輩に惚れてる。兄貴は澁聯をまとめる位置にたまたまいるだけさ。だからケンカになっても鏑木《弘毅|ひろき》の名前は絶対に出さねえ。ROCKATSの啓太で勝負してる……っていても大抵は負けちまうんだけどな」  男が男に惚れる。Qも同じことをいっていた。その意味が今、なんとなく理解できたおれ。啓太がちょっとだけ大人に見えた。 「けど、ROCKATSだっていったら連想ゲームでボス……じゃねえや、会長にたどりついちまうだろ」 「それは誰でも一緒。澁聯のメンバーならな。亨だってこれからはそうなる」  終わりのほうは好きじゃない意見だが、まちがっちゃいない。啓太がおれの顔をふいに見つめてきた。 「なんだよ」 「彼女いそうだよな」 「誰の話してんだ」  にやつく啓太。にやつかれるおれ――どう考えてもこの場の空気に合わない話。 「とぼけるあたり、図星だろ」 「いねえよ、そんなもん」 「好きな女もか」  真奈美と聖香の顔が交互に浮かび、聖香のそれだけが消えた。 「ああ、いない」 「そっか。安心したぜ」 「なんで」 「タメなのにケンカも彼女も負けてたら、チームの先輩として立場ねえじゃん」  どっちもこの男と勝負した覚えはない。 「だけど恋はいいぜ。その人のことを思うと心がパラダイスになる」  そんなことは知っている。ただ、今のおれにそいつは必要ない。  啓太が気をつけをやめて兄貴のほうへと歩いていく。暇になったおれは正面の難しい漢字=澁谷聯合會と一日一善以外の読み方を考えていた。 「《高島|たかしま》もこっち来て座れや」  さっそくパターンその二で呼ばれるおれ。振り向くと啓太が部屋を出ていくところだった。なんだかいやな感じだ。 「さて。おめえのいるチームはなんてとこだ」  そんなの聞かなくたってわかってるだろうに。さっきだって美希だの百恵だの、倉持をクラタだのっていってたぞ。百恵は関係ねえけど。 「ROCKATSです」  馬鹿くさいと思いながらも答え、革張りの低い椅子――とんがり口の右側へ腰をおろす。尻がびっくりするほどふかふかしていた。 「そうだ、《石岡|いしおか》」  上が下の新しいパターン。この分でいくと次は島なんとかか。 「連中とはいつからのつきあいだ」 「二時間ぐらい前からです」 「なんだ、おい」  会長弘毅が左胸のポケットへ手をかける。素早く腰をあげるとんがり口。手にはプラスチックの青いライター。弓のマークの箱から取りだされてきたタバコを弘毅が口へくわえる。ライターに火が灯る。消える。タバコの先が真っ赤になる。 「あそこは《長|なげ》えこと九人でやってた。けどおめえが入ってふた桁所帯になった。めでてえ」  ヒゲの口から勢いよく宙に吐きだされる薄紫=毒の煙。思わず顔をしかめた。弘毅がにやりとする。ふた桁所帯のめでたさについてはよくわからなかった。 「おめえはラッキーだぞ」 「どうしてですか」 「どうしてだ? おいおい、十人もいりゃあいっぱしのチームだろう。澁聯でもでけえ顔ができるってもんだ」 「はあ」 「気のねえ返事してんじゃねえぞ、新入り」  左の耳だけで聞いた文句。気にいらない声だ。 「《新見|にいみ》」 「すいません」  とんがり口=ニイミと呼ばれたそいつが弘毅に頭を垂れながら、横目でおれを睨んでくる。 「《島岡|しまおか》よ」  予想の斜め上――あべこべになった苗字。 「おめえはなんかシノギ持ってんのか」 「なんですかそれ」  ひどく《かん》に障るタイミングで鼻笑いをしてくるとんがり口――無視をした。 「まあ、おめえらの年でいったらこづかい稼ぎってとこか。要はこいつだ」  弘毅が親指と人差し指で作った丸をおれの鼻っつらへ突きだしてくる。拓也が『なにをいわれても気にするな』といっていたのはおそらくこのことだろう。 「金ならないですよ」 「遊ぶ銭はどうしてる」 「それもないです、だからいつもぴいぴいで、さっきも下で啓太にジュースおごってもらいました」  あってもない。たとえ百億万円持っていたとしてもそこは同じ。こいつらにくれてやるぐらいなら、おれは目の前のライターで、腰に巻いた伊藤博文五百人を迷わず火あぶりにしてやる。 「働いちゃいねえのか」 「中学生ですよ、おれ」 「ん? 中坊だと具合悪りいのか? 啓太の野郎は学校帰りに弁当屋で汗流してんぞ」  超のつく目玉情報。その話が本当なら東京での暮らしは今よりもっと鮮やかなバラ色になる。後で詳しいところを啓太に聞こう。 「家が金持ちなら、それはそれでかまわねんだぞ」  そうならどれだけ嬉しいか――顔つきだけで答えてやった。 「大宮に仲間はいるのか」  さらに続く質問。子分は。金ずるは。兄弟姉妹は。スケ=彼女は。 「いません」 「甲斐性なしもいいとこだぜ」  とがった口で器用にものをいうニイミ。弘毅の顔色をうかがっている。 「そいつはちがうな。《岡平|おかひら》は今日まで一匹狼を通してきやがったんだ。目ぇ見りゃわかる。こういう《ぶきっちょ》なやつを俺ぁ正味嫌いじゃねえ」  金、金、金、金。わかっている。生きてる間は聖徳太子の奪いあいだ。誰もが誰もの懐を狙っている。隙を見せたら最後、骨のずいまでしゃぶられる。だいたいこんな話をされるぐらいなら、机の上を滑ってきた十万も遠慮なくもらっちまえばよかった。 「けどな、《岡丘|おかおか》」 ――そんなやつ、この世にいるのかよ。 「どこの世界にもしきたりやルールってもんがある」  薄紫の毒が宙を漂う。顔はしかめない。代わりにどうあってもおれから金をむしり取ろうとしている不届き者の目をまっすぐに見た。 「でもってそいつは守っていかなくちゃなんねえもんだ。《澁聯|うち》みたいな大所帯じゃ特にな」  顎で合図を飛ばす弘毅。それを見たとんがり口が、花札ワッペンつきの上着のどこかからなにかを取りだしてテーブルの上へ置いた――飴色の小瓶。 「わかるように説明してやれ」 「はい」  椅子から腰をあげた弘毅が最初にいた場所へと戻っていく。電話を使うみたいだ。脇ではなにやらぺちゃくちゃはじまっている。 「こら、新入り」 「なんですか」 「人がわざわざ話してやってんのに、そっぽ向いてるっつうのはどういう了見だ」 「耳を向けてたほうがよく聞こえると思って」 「つんぼかてめえは」 「ちゃんと聞こえてますよ」  肩を軽く突き飛ばされた。黙っていた。とんがり口が話を続ける。 「《澁聯|うち》は十五団体、三百人からの連合組織だ。てめえんとこはダンスチームだが、八割方の連中は《暴走族|ぞく》か《愚連隊|ぐれんたい》に籍を置いてる」  グレンタイがなんなのか。気にはなったが質問することはしなかった。こいつにものを教わるのはどうにも我慢ならない。勝手にしゃべってろって感じだ。 「このなかでメンバーが十人を超えてるのは、てめえんとこを入れて五チームだけだ」  ざっと暗算――十人以下のチームが十。仮にひとチーム九人として九十人。そこへROCKATSを足して百人。残りの二百人=全体の三分の二が四チームにかたまっている計算だ。 「ここまででなんか質問あるか」 「ROCKATS以外の四チームってどこですかね。あとメンバーの数とか」  どうせ引っ越すならでかいチームのほうがいい。しゃくだったが、大事なことだと思って聞いた。 「狼怒弾鎖亞、松桐坊主、爆狂隊、黒乱。会長のところで百二十。松桐で六十。爆狂と黒乱で五十だ。俺は松桐のアタマをやってる」  お前のことなんか聞いていない。とがった口で自慢げにいうな。 「つまりはなにがいいてえかって話だけどな、組織がこんだけでけえとまとめていくにも金がかかるってことだ」 「無理にまとめなくてもいいんじゃないですか」 「誰がてめえの意見聞いたよ」  心のなかで舌打ちをした。とんがり口がテーブルの上を指差す。 「こいつがなんだかわかるか」 「オロナミンC」 「飲んでみろ」  飴色の小瓶を手に取り、キャップをひねろうとして気づいた。一度開けられた跡がある。 「毒でも入ってんですか」 「体にいいもんじゃねえな」  中身がまるっきりちがうものだということは、キャップをまわしている途中で鼻が嗅ぎ取った。 「こんなもんやって今より馬鹿になりたくないですから、おれ」  キャップをきっちり締めなおし、元気はつらつにはほど遠い小瓶をもとの位置へ。 「キメろなんていってねえ」  キメろ? 薄め液でおかしくなるのをそういうのか。 「じゃあ、どうすんですか」 「金を作る方法はいくらでもあるっていってんだ。そんぐれえわかれ、タコ」  トルエン、《純度99・9|スリーナイン》、二千円――追加で聞かされたにせオロナミンの説明。 「なにもいわれてないですから」 「だから今、説明してやってんじゃねえか」 「先輩にじゃないですよ」 「あ? てめえと話してんのは俺だろうが」 「シンナー売ってこいなんて話、《拓也先輩|うちのあたま》からは一ミリもされてないっていってんですよ」  とんがり口がとがりにとがる。タコはお前だ。 「ちゃんちきおけさの大将つかまえてウチのアタマってか。笑わせんじゃねえよ、兵隊かぶれが」 「やめねえか!」  弘毅がでかい声をあげる。電話は終わったみたいだ。 「《山崎|やまざき》、おめえはもう少し先輩を敬え」  岡島の面影なんてどこにもない苗字。芸のないパズルにもいいかげん飽きてきた。 「てめえも《若|わけ》えの相手に熱くなってんじゃねえ」 「すいません」  叱られたときの顔だけは絵になるとんがり口。ひょっとこのお面と並んだら、たちまちまちがい探しだ。 「あいつは俺がいくらいっても《銭金|ぜにかね》の話を下のもんにしやがらねえ」  何個めかのソフトクリームをなめまわしながら弘毅がいう。おれの目を見ていってきているあたり、あいつとは拓也のことだろう。 「おめえらからしたらそこがいいって話なんだろうが、そんなものは本当の絆じゃねえ。てめえのことがみんなかわいいもんだから、おんぶに抱っこで喜んでやがる。それじゃあの野郎が潰れちまう」  わかりそうでわからない話。拓也は金に困っているのか。 「今まではそれでもなんとかなってきた……いや、ちがうな。俺の情でかたちをつけさせてやったってとこか」 「ええ。会長はほんとに懐が深い」  とんがり口が難しいことをいう。たぶんおべんちゃらだろう。 「けどこれからはそれができねえ。俺にも立場ってもんがある。あの野郎だけを特別扱いしてたらほかに示しがつかねえからな」 「おっしゃるとおりですよ、会長」 「でもあいつにゃシノギの才覚がまるでねえ。そいつができる人間を育てることも引っぱってくることもしねえ。人を束ねていく以上、それじゃだめだ」  拓也もつまりこいつらに金をむしられているということか。ただ、そうだとしてもおれには関係ない……いや、ないこともないか。弘毅は今までとこれからはちがってくるみたいなことをいっている。そのちがいというのはROCKATSがおれを拾ったことだろう。 「会長、ちょっといいですか」 「なんだ、《新潟|にいがた》」 「新見です」 「いいからいってみろ」 「はい。自分が思うに倉持は……」  シノギ、示し、特別扱い、立場、おんぶに抱っこ、絆、銭金、ルール、しきたり、二桁所帯…… 「会長のことをなめて――」 「九人と十人の差ってなんですか」  とんがり口の能書きをおれの言葉で塗り潰す。 「いい質問だ、岡島」  苗字をさんざんこねくりまわされてきたせいで、正解と気づくのに何秒かかかった。 「メンバーが十人以上いるチームのアタマは澁聯の理事になる。おめえんとこの大将も今日からそれだ。でもって理事にはもれなく跡目の権利もついてくる。こんなうまい話は……おお、だめだ。腹が痛てえ。あとはおめえから説明しとけ」 「わかりました」  弘毅が部屋を出ていった。 「さて」  とんがり口が腰をあげ、さっきまで弘毅が座っていたひとりがけの椅子へどかっとやる。とんがった口にはいつのまにかタバコが刺さっていた。 「おい」 「なんですか」 「火だよ、火」 「持ってないですよ」 「用意の悪りいガキだな。もっと気ぃきかせろ、気」  舌打ちをされた。こんなのとふたりきりでいたら具合が悪くなる。いや、もうすでに吐きそうだ。いったい啓太の馬鹿はどこへ行っているのか。 「残りの説明ってなんですか」  吐きだされてきた煙をよけながら聞いた。 「若えのひとり頭の会費が倍になるんだよ」 「それって澁聯に払う会費ですか」 「当たりめえだろうが」 「倍になる前の会費っていくら――」 「さあな。それより倉持に話つけてやっから、お前《松桐坊主|うち》へ来い」 「やですよ」 「ああ? おめえ今なんつったよ」  そっぽを向く代わりに顔をまじまじと眺めてやった。なにかに似ている。こけた頬、吊りあがった眉。そしてトレードマークの突き出た口……。 「なんつったって――」  便所のタイルが頭に浮かぶ――黒い点。そうだ、蚊だ。とんがり口の顔は人の大事な血をしらばっくれて吸う《やぶ蚊》にそっくりだった。 「聞いてんだよ」  黙っていた。だけど目だけは逸らさない。 「おい、シカトでガンくれてんのか、小僧」 「先輩の苗字って『ニイミ』で合って――」  蚊男の靴がテーブルででかい音を立てる――床へぶちまけられる吸いがら。舞いあがった灰が粉雪のように降ってきてテーブルの上を白くした。 「口返す前にすいませんだろが!」 「灰皿割れましたよ」 「聞いてんのか、こら!」  火のついたタバコが顔に向かって飛んできた。頭を小さく動かしてかわす。すぐさま次が飛んできた。肩で受けてやる。青いライターが床へ転がった。 「だからつんぼじゃ――」 「片づけろ」  蚊に命令されるおれ。虫の子分になった覚えはない。 「自分でやれよ、それぐらい」  蚊男がバネのスピードで立ちあがる。座り心地のいい椅子をまたぐようにして転がり、距離を取った。勝てっこないのはわかっている。だけどこいつにだけは従いたくない。従えばおれの男はどこかへ消し飛ぶ。  距離はすぐに詰められた。それほど狭い部屋じゃなかったが、学校の教室ほど広いわけじゃない。蚊男の左手には割れなかったほうの灰皿が握られている。こんなもので頭なんかぶっ叩かれた日には正真正銘の馬鹿になっちまう。 [*label_img*] 「あんたの頭」 「てめえのにしとけよ」  おれは金を節約するために不良チームへ入ることを決めた。それまでの考えをねじ曲げ、痛い思いをして、えらいだのえらくないだののしくみにも目をつぶってROCKATSのメンバーになった。だけどもうやめだ。冗談じゃない。いろいろと無駄にするのは惜しいが、計画は一旦中止だ。こいつにできるだけダメージを与えてタコ殴りにされたら、あとはチームから放りだされてしまい。拓也の悩みもそれでなくなる。 「知ってるか、おい。頭ってのは割れると派手に血が出んだよ」 「あんたはその血を吸うのが楽しみなんだろ」  灰皿を握る手に力をこめたのがわかった。体の重心を左へ移した瞬間に蚊男の右をみぞおちに食らった。前に倒れながら足へ抱きつき、赤い革パンの上からその太ももに顎の筋肉百パーセントの力で噛みついてやる――黄色野郎の気分。気絶寸前の痛みが背中全体にずどんときた。 〝ちょ、亨! 新見さん! なにやってんすか〟  慌ただしい靴音。啓太の声が子守歌に聞こえてしょうがなかった。
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