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 あれから一つ月が過ぎ、師匠は立てるようになったものの、以前のように凛とした静かな武人の出で立ちは失われていた。やつれ、髪には白いものが急に増えた。その姿を見るたびに具合はどうなのかと尋ねたくなってしまう。 「おはよう師匠」  カシは手をあげてサンに応えると、そのまま縁側に腰掛けて、色づきはじめた木の葉を見上げて顎髭を掻いた。すっかり寒くなったというのに、どうしてあんなに薄着なんだ。  カシが顔を上げたまま目だけを動かしてこちらを見てきた。 「なにを見てる。続けないのか?」 「師匠、もう《土季|つちのき》の半ばだよ。もうちょっと厚手のものを重ねた方がいいんじゃないかな。風邪ひくよ」 「なにが言いたい」 「なにが言いたいって、心配なだけだよ」 「心配などいらぬ。拙者もすぐに働ける。いいからつづけよ」  サンはため息をついてから稽古を続けた。  いく日もカシは厳しくサンの動きを指摘し続けた。集中していないことがバレると木刀で軽く叩かれる。それでも、サンは黙って言うことを聞いて稽古に服す。  力を得るために必要なんだ。  ある日の午後、サンは街に繰り出した。目当ての貼り紙仲間の一人を見つけると、せっせと働く同い年の少年に声をかける。 「よっ。最近稼ぎのいい仕事あった?」 「おー、おまえか。そんなのあったら俺がやってるわ。そうだろ?」 「用心棒の仕事とかは?」  少年が眉を吊り上げて、サンの腰に差した二本の木刀をチラリと見てから仕事に戻る。 「あー、そういえば最近増えてるな。なんか、異国の商人がよく襲われてて、それにびびった旅商人とかが安い金で募集してるな。でもあれか、おまえが言ってるのは赤子の子守とかのことだろ?」少年は笑いながら糊の入った桶を肩に担ぎ、他の壁に移動する。 「ちゃかしはいいから」  少年は振り返ると、頭を振って遠くを見るような目で俺を見てくる。 「なにが好きで死に急ぐのかね」だが、少年は雷にでも撃たれたかのように急に笑顔になった。「いや、たしかあったわ。用心棒というよりは雑用に近いけどな」  その依頼は用心棒というよりも、 「いってぇ! 小僧のくせに生意気ったらありゃしねぇ! んだけど、おめつえーな!」  師匠の真似事だった。 〝剣の技、賜りたき候。報酬は後払い〟  四十過ぎた農夫の剣の相手だとは思わないし、剣の技を金でほいほい教えるお人好しは師匠くらいだろう。だいたい、教えてもらうのに金が後払いっていうのも信用できない。  季節外れの麻で織られた袖なし羽織の甚平に、半ズボンの格好をした大人が派手にすっ転び、禿げ上がった頭を掻きながら笑っている姿にサンは木刀を向ける。 「それより、本当にお金払ってくれるんだよね」 「へへっ」  え、なにそれ。 「そんな怖い顔すんなっぺ。この技のおかげさんで〝裏猫〟でがっぽりよ」 「裏猫? 知らないけど」 「なら行ってみるのが一番さ」  その裏猫と呼ばれた場所は、街の外れの一角にある酒場だった。瓦もない木造の二階建てで、真ん中が吹き抜けになった四角い形をしていた。その吹き抜け部分は庭なのだろうと思ったが、そこは踏み固められた土の地面で、相撲と稽古にはちょうど良さそうだった。酒場の中は昼間にもかかわらず、薄汚れていたり擦れた甚平、着物姿のお世辞にも裕福とは言えない大人達が集まっていた。  みんな仕事はどうしたんだ。中には人足のように逞しい体をした者もちらほらといる。乱れた着物姿の女性もいて清潔感はない。ここに好んでくる人間がいることが驚きだった。その気持ちに気づいて自分自身に寒気を覚える。ほんの一年と少し前には、俺だって風呂を知らない少年の中で寝泊まりしていたのに。 「おじさん、俺、ここ嫌だよ」 「んなーに言ってんだおめ、最高じゃねぇの。ほらこっち来いって」  依頼主に引っ張られて受付のようなところに連れていかれる。酒場内は騒がしいが、皆に見られているのがわかる。俺を見ているというより、逆に場違いな俺の身なりを見ているようだ。確かに、ここでそれなりの仕立の着物姿の人間なんていない。それも子供となればなおさらだ。 「おう! また来たっぺ!」  受付の男が依頼主の無邪気な笑顔を見て顔を顰めた。 「またって、おまえさん懲りないな。それで、今日は酒か裏猫かどっちだ」 「裏に壱半!」  受付の男は淡々と依頼主から《銅判|どうばん》硬貨一枚を受け取る。  依頼主はサンの肩を抱き寄せて建物中央の吹き抜けへと進んで行く。サンは曲がってしまいそうな鼻を押さえて顔を背けた。 「照れんなよ小僧。いいけ? 俺が今からこの場で闘うんでぇ。んで勝ったら賭けたぶんを貰うってすんぽうよ!」 「おじさんがさっき出したの壱半だろ? 相手も壱半なのか?」  依頼主がいくつか歯がない顔でにんまりと笑ってみせる。  壱半儲かるのは大きい。人足の一日の稼ぎがだいたい伍半だ。  受付の男が吹き抜けの場に出てきて、依頼主から受け取ったのであろう銅判硬貨を掲げてみせる。 「これから裏猫を始める! 賭けは弐半から、倍賭けありだ!」  依頼主の相手が名乗りでないのか、なかなか出てこない。受付の男が二階に目配せをした。  すると誰かが二階から飛び降りてきて、僅かに地面を振動させて着地した。依頼主と同じように、麻の甚平姿に半ズボンだ。だが、体格は人足のように肩はこんもりとしていて、坊主姿の顔は目が鋭くぼったりとして、暴力をなんとも思わなそうだ。肌は火季の日焼けが残っているのか、赤茶色で健康そうだった。  対戦相手を見て、残念そうな声と共に酒場内の喧騒が鎮まった。店番の女性、奥さんだろうかが、手を挙げた人と短いやり取りをして帳面に何かを書き込んでいく。  サンは、小さく跳ねて絶好調な依頼主を見て腕を組んだ。これは、勝てないだろ。  依頼主が木刀を片手に自分の機動力を見せつけるかのように小刻みに跳ね続ける。  依頼主と対戦相手が向き合い、互いの木刀を交差させてから離れて一礼する。見物人達がやかましく声を立てた。受付の男が掲げていた手をおろしたと同時に、対戦相手が木刀を上段に構えて、突っ込む。  そんな脇の甘い一撃当たるはずがない。これならいける。  だが、依頼主はなぜか木刀を横にしてその一撃を頭上で受け止める。 「あっぶねぇ!」依頼主はにやりとして、歯があったであろう隙間を見せた。  対戦相手が柄頭で依頼主の顎を叩き、続けて上段から肩に重い一撃を打ち込んだ。鈍くずっしりとした音の中に衝撃音が鳴ったかと思うと、依頼主の片腕が不自然に垂れ下がり、続いて地面に崩れ落ちて思い出したかのように甲高い悲鳴を細く漏らし、水に揚げられた魚さながらの様子でじっとしている。  見物人達はその様子を笑って傍観していた。手を挙げた人は苦い飲み物でも飲んだかのような顔で、先ほど帳面に書き込んでいた女性に硬貨を渡していた。女性は集めた硬貨を入れた箱を持って店の裏へ消えてしまった。対戦者は賭けた壱半を受け取り、店の中へと戻って行った。  そうか、観客の人達は店と賭けているんだ。対戦者は対戦者同士で。客が賭ける方は決まっていて、店側が有利になってる。  サンは地面に伏して痛みに耐えている依頼主を見てため息を吐いて歩み寄った。 「おじさん、言いにくいんだけど、依頼料払って欲しい」 「まだだ」  依頼主は土色になった顔で震えながら膝をつくと、自分の腰の帯から何かを取り出し、受付の男の方に投げた。三枚の銅判にも似た楕円型の硬貨が固い土の地面に落ちて鈍い音を立てた。四國の象徴である獣が刻印されたそれは印銅だ。  受付の男は拾い上げ、取り消すように手をひらひらとさせた。 「もう戦えんだろ。やめておけ。三十半なんて全財産だろ? これで治療でもして人足でもやれ」  三十半もあれば一週間は宿を使って暮らせる。サンは屈んで依頼主の汗にまみれてギラつく目を覗き込んだ。 「おじさん、この人の言うとおりだよ」  依頼主は頭でも壊れてしまったのか、唾を垂らし笑う。 「俺が闘うんじゃね。おめが闘うんでぇ!」依頼主は血迷ったのか、目を剥きでんばかりに開いて、動く方の手でサンの肩を強く掴む。「がっでぐれぇ! そんすりゃ払える! ぎょうさんはらうでぇ!」  サンは助けを求めて受付の男の方を見る。受付の男はどうにも止められないと言いたげに同情の目で頭を振った。  やるしかないのか。  先ほどの大男が再び出てこようとしたが、大男を木刀が遮った。遮った男は着流し姿で、あのカゲムネと似た格好だが、清潔さは微塵も感じられなかった。もみあげまである無精髭を掻きながら広間に入ってくる目は、卑しい自信に満ち溢れている。  対戦者が受付の男の元に印銅三枚を渡した。受付の男は困ったように眉を寄せる。  サンは唾を飲み込んだ。もし俺が勝てば、三十半は手に入る。  受付の男が近づいてきて、まだ取り消せるぞと気を遣ってくれた。一瞬逃げたくなったが、硬貨を見て腹を決める。 「やるよ」 「だがなぁ、剣に心得があるぐらいじゃあいつは倒せんかもしれんぞ。お前さんの師匠は誰だ」 「カシって言う用心棒だよ」  受付の男は目を丸くして地面に目を落とす。一呼吸の後に笑みを作ると、サンの肩に手を置いて観客達に向かって手を広げた。 「わしはこの小僧に賭ける。拾半!」観客達が静まり返った。「わしと賭ける者はおらんか」  一人が勢いよく名乗りを挙げた。それに連なるように次々と手が挙がり、声を上げなければ話せないほどの喧騒が店を支配した。 「勝てよ小僧」  受付の男の低い声を、サンは震える思いで噛み締めた。俺が負ければ、この人は大損だ。  サンは男と木刀を交差させる。 「ボクちゃん二刀流か。多けりゃ強いって思ってんのは可愛いのぉ。あんまり痛くないようにしてあげるから、少しは粘って観客を楽しませてくれよ」  サンは深呼吸をして落ちる花びらを意識する。俺は舞い落ちるヴィアドラ桜だ。心の中でカシの姿を想像して自分と重ね合わせる。  両者は離れ一礼する。受付の男の腕が振り下ろされた。  木刀を体の前から顔の横にゆっくりと立てて構えた男がジリジリと近づいてくる。さぁ攻撃してこい。こっちは体を落とす準備はできているんだ。  男の腰は沈みすぎている。あんなんじゃ踏み込みが遅くなる。男の木刀が上段から振り下ろされた。そんなのが当たるはずが無い。そう思ったと同時に冷や汗が体の芯に走った。  突如突きに変わった意表の一撃を、サンは無意識に腰を落として右手の木刀でしのぎ、回転して相手の額に打ち込む。  当たった。鈍い感覚が木刀から手に伝わり、男は崩れ落ちる。  はずだった。  男は顔を傾け、体を横に向けただけで掠るようにそれをやりすごしたのだ。  髪の毛を後ろに引っ張られて、サンは呻き声を洩らした。 「驚いてるな、ボクちゃん」  背中の一点が雷にでも撃たれたのだろうかと勘違いする痛みに全身が震えて息が止まった。地面を転がるように距離をとり振り返ると、男が顔に木刀を添わせて突きの形で止まっていた。  あの人の身のこなしは、素人じゃない。  サンは再び吊り劔の構えをとった。背中の痛みに腕が震えた。  男が近づき、突きに見せかけて側頭部を狙ってくる。サンはひらりと腰を落とし、男に突っ込むとぶつかる寸前に足を捻って相手の横に滑り込み、木刀を男の喉元に突き上げる。柔らかそうな喉元に突き刺さるはずの木刀は、ぴたりと寸前で止まった。  サンは止めていた息を吐いた。男は怖気づいた目から一変して怒り湛え、歯の間から鋭い息を刺す。 「やれ!」  誰の声かわからないその声に、男とサンは動いた。  男の剣が横に走る。サンの剣も横に走る。  鈍い音が響き、酒場内は張り詰めた静寂と化す。  サンは手に伝わってきた感触と、今しがた自分の目元を通り過ぎた木刀の風を思い出して腰を抜かした。目の前には木刀を振り切ったまま立つ男の姿があった。片方の目を真っ赤に染め上げ、顔の輪郭が一部不自然に腫れ上がっている。  男の目がゆっくりと上を向いたかと思うと、受け身も取らずに地面に倒れた。  受付の男が、倒れた男の顔を引っ叩く。力なく目を瞑る男は何も反応しない。観客の一人が近づいてきて、杯の中身を男の顔に垂らすと、ようやく目を開けた。  受付の男がサンを振り返り、目を輝かせる。 「小僧の勝ちだ! みな金をだせぃ!」  サンは手の上に置かれた印銅硬貨三枚を、ふわふわとした気持ちで眺めた。  俺は勝ったんだ。勝った。高揚感が感覚という波となって足に打ち寄せてくる。立ち上がると、底の見えない穴を覗いたかのような冷たい笑いが心の中に広がった。それが戦いの高揚感だと気づいたサンは首を振る。  こんなこと師匠に知られたらなんと言われるだろうか。だけど、これで稼げる。  サンは受付の男――店主に軽い別れを告げると、酒場を後にした。
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