フォントをダウンロード中
ページの左右でマウスを左クリックします。
または、 キーボードの左右の矢印キーを入力します。
ページ上で指先を左右になぞると、 前/次ページへ移動します。
メニューはページをタッチすると現れます。
× ヘルプを閉じる
 もといた席へ戻るとテーブルの上も、そのまわりも賑やかになっていた。 「シブくなったな。キマってるぜ」  すっかり機嫌のよくなった啓太がいう。 「そうか」  演奏のほうは休憩に入ったのか、レコードかなにかの音楽に切り替わっていた――相変わらずの英語。近づいてきた啓太がおれに耳打ちをする――あの後、オレもギュッてやってもらったぜ。 「よかったな」  実際にはよくない。いや、よくないどころか邪魔くさい。パラダイス男は抱きしめてもらえたことがよっぽど嬉しかったのか、ミジンコともぼうふらともつかない動きをおれに披露しはじめた。 「愛されてるかも、オレ」 「気のせいだろ」 「この調子でいけば今夜はAまでいけ――」 「ないな」 「あ? なんだよ、そのいいぐさ」  おれにとって、ふたりが今以上の関係になるのは具合が悪い。だからAもBもCも全力で阻止する。アパートをなんとかできるまでは啓太の好きにさせるわけにはいかない。 「焦るとろくなことがない。そういう意味の《いいぐさ》だ。嫌われたかったら好きにすればいい」  啓太に、そして自分にいった。 「そ、そっか。そうだよな」  微生物ロックンローラーの肩を叩き、おれは拓也がいるほうへ移動をした。借りたままになっている柳屋を返すためだ。 「あの……」  話しこんでいる、というよりは一方的にものをいわれている拓也。相手は弘毅。話の中身は例のあれ。新入りのガキが口を挟んでいい話じゃない。おれはちょっと離れた位置の、ふたりしか着けない席の椅子へ尻を乗せた。  やばい顔つきをした啓太が便所へ駆けこんでいく。牛乳の飲みすぎだろう。腹を壊しやすいところも兄貴と一緒か。目だけでルカを探す。すぐに見つけられた。拓也たちのテーブルに盛られた料理をいくつもの皿へ取り分けている。  どうするか。アパートうんぬんの前にまずはルカとの距離を詰めなきゃならない。軽くとはいえ、突き飛ばしたり変な女扱いした後でうまくそいつができるかどうか――じゃない。できなきゃだめだ。思った未来へたどり着くためには、どうしたって不動産屋の娘の力がいる。  気づくとルカがおれにほほ笑んでいた。真似しておれも返したが、きっと気味の悪い顔になっているにちがいない。自然な笑顔のために頬や顎の筋肉をほぐしていると今度はウインクが飛んできた。 「熱いうちにどうぞ」  ルカが《ととと》と歩いてきていった。例のかごを足もとへ置き、両手で小皿を差しだしてくる。 「タバスコもお持ちしますか」 「いや、いいよ」  いわれたそれがなんなのかわからないが断った。にこにこ顔を眺める。傷や痣はもちろん、ニキビもそばかすもないきれいな肌。そこに茶色い目玉があって、茶色い眉が伸びて、茶色い髪がふわっとしている。 「亨……さん?」  耳のかたちは真奈美に似ていた。鼻筋は聖香に似ていた。口もとは、昔におれを騙してくちびるを奪っていった女に似ている――今も好きか、一度は好きだった女のよせ集め。その顔は見るほどに作りものめいて見えた。服どころか顔まで人形の女。 「いやです……」 「え?」 「じっと見つめられたら……恥ずかしいです」  人目もなにもおかまいなしに抱きついてきた女がなにをいってるのか。 「それなに?」 「なにといいますと?」 「手に持ってるやつ。パン?」  ハの字の茶色眉=真奈美風味。 「ええっと、あの……ピザです。お嫌い?」  引ったくるようにして小皿を手に取った。こいつがうわさのピザか。焼きトマトが本当に乗っかっていやがる。お得な感じがしないでもない。好き嫌いはこれから食って決めるが、ルカにはとりあえず嫌いじゃないと伝えた。 「全然スパゲティーっぽくないな」 「ふふ、どちらもイタリアンですものね」  イタリアの食いもの、イタリアの血、イタリアの魔女。そいつを《祖母|ばあ》さんに持つスパイ候補生。ルカもそしてまた、そんなふんいきを持っている。 「お味はいかが」  神経を口のなかに集め、顎と舌をしっかりと動かす。駄菓子屋は大うそつきだった。 「チャオチャオ、グラッチェ、デリーシャス」 「まあ、イタリア語がおできになるのね、亨さん」 「誰かがしゃべってたのを真似しただけだ。意味なんてわからない」 「外国語は耳で覚えるといいます。チュオソ・レン・モン・プチ・ファ――今のはフランス語です」  驚いた。フランス女は本当にフランス女だった。 「すごいな、あんた。なんていったんだ?」 「内緒です」  絹の肌に赤みが差す。たぶん、おれのことを褒めたんだろう。 「祖母さんか《祖父|じい》さんがフランス人なのか」 「母がアンドラ人です」  ウルトラ怪獣みたいな名前が出てきた。 「でも、はい。フランス人ですね、ほとんど」  ルカと真奈美が重なって見えたのは、ふたりの体に流れる外国の血のせいかもしれない。 「感じが変わられましたね」  ピザをぱくついているおれにルカが小さく首を傾げる。 「おかしいか」 「いいえ。よくお似合いです。とても凜々しくなられました。髪はご自身で?」  便所でのいきさつを話してやった。 「ところであんた、家はこの近所なんだろ」 「え……あ、はい」 「今度遊びに行ってもいいか? あんたの家」 「ごめんあそばせ」  例の香りのする息が顔にかかる。今度はこっちが『え?』っとなった。 「瑠佳は亨さんを名前でお呼びしています」 「か、顔が……《近|ちけ》えよ」 「お呼びしています!」  ルカは怒っている。さっぱり怖くないが怒っている。急になれなれしくしすぎたか。 「だからなんだ。悪いけど敬語だったら使えないぞ」 「それは先ほど伺いました」 「じゃあ、なんだよ」 「あんたではありません。名前で呼んでください」 「だから敬語は――」 「瑠佳でかまいません。字はこう書きます」  かごから取りだした紙=バラのかたちをしたそれに、これまた一輪のバラみたいなペンでさらさらと文字を書きこんでいく《冨永瑠佳|とみながるか》。 「《品|ひん》がないのは我慢なりません」  丁寧な文句に面食らうおれ。人形でも怒るときは怒る――またひとつ勉強。 「わかったよ。ごめんな」  突きだされてきたバラのメモ紙を受け取りながらいった。 「呼んでみてください」 「瑠佳」 「はい」  返事をされても困る。特に用があるわけじゃ……いや、あった。今のうちにしとかなきゃならない大事な話が。 「もっとたくさんおしゃべりしましょ」 「そうだな」  小さく《ふふ》と笑いながら、白い手でふとももに触れてくる瑠佳。こういうところも真奈美と似ている。そっちがその気なら話も早い。 「これがなんだかわかるか」  いいながらふとももの手を取り、触らせる。 「なにかしら」  チャックを開いて中身を見せた。灯りは暗いが、ものがなにかはわかるだろう。 「まあ」 「こいつで頼まれてほしいことがある。実はおれ……」  肝心なことを話しだす前に悩みはじめる瑠佳。いきなりすぎたか。 「自信がありませんわ」 「まずは話を聞いてくれ」 「瑠佳で用が足りますかしら」 「あんたに……瑠佳にしかできない」  悩み顔が復活する。 「悪いことでも危ないことでもない。ちょっとだけ力を貸してほしい」 「お金の無心ともちがいますわよね」  言葉の意味を聞いて教わる。 「バッグの中身を見ただろう」 「そうでした。ごめんなさい」  瑠佳は金持ちの家の娘。その手の頼みも多いにちがいない。今のはそいつを予防する盾。裏返せばつまりおれはまだ一ミリも信用されていないということ。 「ひとつお聞きしても?」 「なんでも聞いてくれ」 「亨さんはおひとり?」  またもや意味がわからない。ひとりっ子かどうかを聞かれているんだろうか。 「兄弟ならいない」  口に手を当て、例の《ふふ》笑いをやる瑠佳。読みはどうやらはずれたみたいだ。 「おつきあいをされている方のことです」 「ああ、彼女か。だったらはじめからそういってくれ。今はいない」 「安心しました」  いい流れ。このままいけば話はおれのイメージどおりに進む。悪いな、啓太。 「なんでそんなことを聞く」  念のための確認。 「決まった方がいらっしゃるのに近づいてこられる男性は信用なりませんもの」  みぞおちがひやっとした。ごまかし半分の反撃に出る。 「そっちはどうなんだよ」 「『そっち』ではありません」  瑠佳といいなおし、彼氏がいるのかどうかを聞いた。 「亨さんがなってくださるんですか」 「いるのかいないのか聞いてる」  マネキンになる瑠佳。少しいい方がきつかったか。 「お慕い申しあげている方はおりません」  視線――左斜めから突き刺してくるようなそれ。おれにそんなものを向けてくるのは、ここじゃふたりしかいない。 「どうされます?」  顔を近づけてくる瑠佳。串刺しビームには当然気づいていない。 「どうってなにがさ」 「瑠佳とおつきあいしてみますか」  からかいか。本気か。いたずらな目は装ったようにもそうじゃないようにも見える。どっちだ、瑠佳。実際にはとんでもなく年下のおれに愛だの恋だの好きだの思えるのか。 「お姉さんすぎますか」  もちろんだ。だけどお前にはほかの年上にはない魅力――いや、まったく別の価値がある。そういう、こっちの都合だけで利用させてもらう相手の―― 「年なんて関係ない」  人形顔が嬉しいのか申しわけないのかよくわからない表情を浮かべる。 「信じても?」  おれは頷き、啓太のことはどうするのか聞いた。 「今までどおりお友だちです」 「向こうがそう思ってないのはわかるだろ」 「はい。でもお友だちです」  いろいろと揃ってきた条件。特別な相手には誰もが甘くなる。惚れていれば損得だけで決められないものが出てくる。真奈美はだからおれの泥棒をとがめなかったし、墓場の前から聖香んちへも電話をかけた。 「啓太とは昔からのつきあい。おれとはさっき会ったばかりだ」 「はしたないとお思いですか」  別にどうも思ってやしない。おれは女スパイひと筋だ。ここじゃ都合のいいパターンだけを真似できればいい。 「いや。ただちょっと不思議だなって――」 「てめえ、いつまで瑠佳さんとくっちゃべってんだ!」  踊る微生物のご到着。告白劇場は一旦終了。怒鳴り声に驚いた瑠佳が体をひるがえす。 「啓太さん!?」 「下痢はもういいのか」 「下痢じゃねえし!」  お決まりのポーズ=中指立てに蒸気機関車並みの鼻息。よく怒る男だ。 「さっきから見てりゃ手握ったり変なとこ触らせたり、どういうつもりだ、この野郎!」 「別に変なとこなんて――」 「ちがいます、啓太さん! あれは瑠佳からしたことです!」  蒸気の音が止まる。おれの体を力強く揺すっていた腕も《だらん》となる。 「なんで亨をかばうんすか……」 「悪い。実はおれたち――」 「うるせえ! オレはこの人に聞いてんだよ!」  まわりの何人かがこっちを気にしはじめた――うまくない流れ。 「とにかく話そう、啓太」  いって、ふたりの間に体を割りこませる。啓太に肩を突き飛ばされた。 「るせっつってんだろ!」  こうなるともう説得は難しい。ご機嫌取りをしながら丸めこんでいくより手はなさそうだ。 「だから落ち着け。今からわけを説明――」  へなちょこパンチ。もらってやってもよかったがそれはしなかった。やられたら二倍三倍でやり返すのがおれのルール。惚れてる女の前でぶざまをさらすほど男として情けないことはない。啓太は恋のライバルだが、その前に友だちだ。 〝あらあら、なんとかの鞘当てってやつ?〟  美希の登場。この女はトラブルのにおいしかしない。火にガソリンは勘弁願いたいところ。 「瑠佳、啓太。席を移ろう」 「てめ、なに呼び捨てしてんだよ!」 「啓太さん、それも瑠佳がお願い――」 「なによ、アタシは邪魔なわけ?」  がなる啓太。弁解する瑠佳。文句をつける美希。まずはトラブルの種から。 「ああ、邪魔だ」 「ほんっとかわいくないわね」 「これでも気を使ってるんだ。あんたにじゃないけど」 「どういう意味よ」 「大事な話をしてる先輩たちからしたら、おれたちのほうが邪魔だ」  拓也たちが着いているテーブルに向かって顎をしゃくる。赤いドクロがおれを睨んできた。 「お待ちになって!」  逃げだすようにして駆けていく啓太を瑠佳が追いかける。止めることはしなかった。代わりにもらったジッポのやすりをまわす。意味はない。プラスチックのライターよりもずっと太い炎が静かにゆらめいた。 「えげつないことするわよね、あんたも」  瑠佳とはちがう髪の香りと油のにおいが混ざりあう。真っ赤なくちびるから伸びた毒棒の先を炎が焼いた。 「なにもしてない」 「いちゃいちゃしてたじゃない」  宙に『O』の字を作る煙。おれは椅子をずるずると降り、テーブルの小皿をずるずると端によせ、置いてきぼりを食らった瑠佳の花かごをそこへ置いた。 「あんたもウチで長くやってくつもりならさ……」  トラブル女を無視をして、ひとり奥の席へ。 「ちょっと! まだ話してんでしょ!」  ハリーとすれちがう。声はかけあわなかった――というより、目を逸らされてそいつをやるタイミングを失った――愛想なし。しょせんはよそのチームのやつだ。このまま知らん顔を通されても問題はない。じきに互いの顔も忘れちまうだろう。 「こんなとこにいたんですか」  今度はちゃんと声をかけた。が、これも結局はひとり言に。半目を開けて背の低い丸テーブルに突っぷしているトサカ頭=村尾の正面へ腰をおろす――尻にぬくもり=誰かが座っていた跡。あたりを見まわすも眠っているシンナー中毒に用があったみたいのはいない。 〈きをつけろ、ちょーきをつけろ〉  頼みごとはおじゃんになった。今さら気をつけることなんてなにもない。あるとすればしばらくあのふたりと顔を合わさないようにすることぐらいか。丸テーブルの上へ置き去りにされたウォークマンを手に取る。啓太のだ。おれはヘッドホンの片側を耳に当てて、再生ボタンを押した。 「誰だよ、これ」  停止ボタン、取り出しボタンと順に押して中身を確かめる――TDKのカセットテープ。AB両面ともラベルはさらのままだったが、夢見る人形どうのといっている歌がミジンコダンス用じゃないことぐらいはおれにだってわかる。これなら《沢田研二|ジュリー》のストリッパーのほうがよっぽど踊れるし、ロカビリーだ。  沸き起こる笑いに上半身をひねる。派手な動きで身振り手振りをする弘毅。でかいテーブルのまわりには座れないやつら=ROCKATSの下っ端どもがいる。おれもそいつらの脇に並んだほうがいいのか。村尾はだけどここにいる。啓太も姿をくらましている。新人のガキがここでぼけっとしていても文句は出ないだろう。 「さて、次の手を考えなくちゃだな」  時間を確認する――十一時四分。今日はずいぶんと頭を使った気がする。後ろの誰かみたいにおれもそろそろ眠りたかった。 「ハロ~ボ~イ」  上半身をもとに――しなびたトサカ。目やにつきの曇った目。甘いにおいに息を止める。 「お目覚めで」  少しなめた口の利き方をした。わざとだ。村尾の表情は変わらない。 「ユ~は風邪? ボイスがベリ~ベリ~ノ~ズ」  半分病人みたいな男に体の具合を心配されるおれ。声が鼻にかかったのは呼吸ゼロでしゃべったせいだ。 「なんでいつも寝てんの」  ずっと気になっていたことを聞いた。 「ユ~はいつからソルジャ~?」  質問に質問で返された。つい最近と答えてやった。村尾の口から『金太郎商会』の名前が出てくる。どうして店を知っているというおれの問いにつけられた答えは『ミ~もよく行く』だった。 「バ~ット、《金太郎商会|キンタ》のマスタ~ときどき客引っかけ~る」 「どういうこと?」 「アウトデ~イト。売れ残りの時代遅れ押しつけてく~る。バ~ット、プライスはリ~ズナブル。ユ~のそれ、全部でハウマ~ッチ?」 「先輩は日本語使えないのか」  村尾の両腕が天秤みたいになる。 「ザッツラ~イト。全然無理~。ジャパニ~ズ、ディフィカ~ルト」 ――前後省略。 「へえ、そう。変わってんね」  金太郎商会のおっさんに払った金=一万八千円という金額に対して、村尾は超バ~ゲ~ンと指を鳴らした。 「ならいいよ。売れ残りだろうがなんだろうが服は服さ。そうだろ、先輩」 「オフコ~ス。ファッションはパッショ~ン。マイセ~ルフ。バ~ット――」 ――バット、バットうるせえなこいつ。 「ROCKATSには合わな~い」  ハリーにもそれはいわれていた。似たようなことを拓也や啓太にもいわれている。 「そんなのわかってる。けど、気にいってんだよ、この模様。どこにいても目立たないから」  チキチキマシン猛レースの犬みたいな笑い方をする村尾。ぶっ飛ばしてやろうか。 「ユ~、それビッグバッドベイビ~勘ちが~い」 「なんでだよ」 「ノ~バトルフィ~ルド。街中は戦場じゃな~い。逆カモフラ~ジュ」  緑や土よりもコンクリートやアスファルトのほうがはるかに多い東京。自分でも薄々気づいてはいた。目立っちゃいないはずなのに行く先々でじろじろ見られ、誰かとすれちがえば振り返られ、あげく哲にはダサいとまでいわれた。今日ここまでに同じ模様の服を着たやつとも出会っていない――くそ、金太郎のじじいめ。口八丁でおれを引っかけやがって。  村尾が席を立ち、どこかに消えてまたすぐ戻ってきた。手にはグラスが握られている。なかの液体は白くにごっていた。おれの分はなし。 「先輩も牛乳?」 「ノ~。ジスイズ、マッコ~リ。コリアン、リキュ~ル」  どこかから取りだしてきた小粒の青いバファリンみたいなものをまとめて口へ放りこみ、そいつをジスイズマッコリでごくりとやる村尾。やっぱりどこか悪いのか。 「ところでユ~、ミ~にレンタルプリ~ズ、リトルマネ~」  ユーとミーはなんとなくわかる。最後の言葉と手のひらの意味はばっちりわかる。 「やだよ」 「お~シット。じゃ~ブレイクダウン」  差しだされてきたでかいほうの聖徳太子。迷うことなく受け取る。くれるものはもらっておいたほうがいい。礼をいって札を折り、胸のポケットへしまった。 「ノ~ノ~プレゼント! イッツ両替!」 ――なんだ。だったら最初からそういえよ。 「見るな」  ウエストバッグの中身をのぞこうとしてきた村尾にきつい口調でいった――ケンケン笑いが返ってきた。 「ユ~、ラナウェイボ~イ」 「日本語で」 「家出ショ~ネ~ン」  バッグの中身をぶちまけそうになった。 「つまりそれ、デンジャマネ~」 「日本語……で、なに」 「やばい金。ポリス、平気?」  こいつは当てずっぽうをいっておれをからかっている。からかいながらこっちの様子をうかがっている。こんな脳みその溶けちまってるような男におれの正体を見抜けるはずがない。 「シンナーばっか吸ってんじゃねえっていってましたよ」 「ワオ! フ~イズ。誰?」 「ほかの先輩たち」  でたらめ。本当はそんな話、誰もしていない。きわどい話をうやむやにするためのでまかせだった。 「ん~明日はいい日になりそうだ~」  どこにも英語が混じっていない村尾語。意味も今の話とまるで噛みあっていない。 「ユ~のトゥモロ~はナイスデイ? バッドデイ?」  聞かれていることの意味はなんとなくわかる。 「いつもと変わんないよ、たぶん」 「ノ~。ユ~ハブ、ス~パー~バッドデイ。きっと泣きたくなるよ~なノゥベンバー」  ケンケン笑いが炸裂する。 「そんなのわかんないだろ」 「アイノ~。ユ~、そういうフェイスカラ~」  フェイス=顔。カラー=色。つまり顔色占い。ばかばかしい。ケンケン笑いはいつの間にか咳に変わっていた。 〝別にあの野郎を許したわけじゃねえ!〟  虎の声に振り向く。 〝未練たらたらですね、ヒロさん〟 〝《倉野|くらの》。おめえはなんにもわかっちゃいねえ。百恵はな、俺の青春なんだよ〟  またあの話。飽きもせずによくまあ繰り返ししゃべれるもんだ。拓也は苗字をまちがえられても普通にしていた。慣れているんだろう。虎声の持ち主の横にはとんがり口が座っている。 〝南の風に乗って走っちゃってる、どこぞのぶりっ子とはわけがちがうんだよ、わけが〟  前を向く――眠る村尾。結局占いの謎に迫ることはできなかった。 〝新しい青春を見つけたほうがいいと思いますけどね〟 〝ほう。いってくれんじゃねえか、《倉沢|くらさわ》〟  くだらない会話を背中で聞きながら、飲み残しにちょこっと口をつける――甘くてまずい酒。飲んだことはないが、ビールやシャンパンのほうがたぶんマシだ。あっちには炭酸が入っている。 〝そんじゃ、今夜は美希に俺の青春の相手をしてもらうかな〟 〝そこはマジで勘弁してくださいよ〟 〝はあ? なんであんたにいわれなきゃなんないわけ?〟  揉めそうな流れ。あの女は話をこじらせるのが本当にうまい。 〝みろ、《倉本|くらもと》。そういうわけで俺とこいつは生まれる前から赤い絆で結ばっちゃってんのよ。なあ、美希〟 〝そうなのかよ〟  拓也が美希に詰めよる。 〝馬鹿じゃないの、あんた。ヒロさんも冗談やめて〟 「ちょっといいか」  すぐ後ろからの鼻声。 「瑠佳はどうした」  少しだけ減らしてやった飲み残しを見つめながら聞く。返事はない。 「謝れだのけじめだのふざけんなだのいう話なら聞かないぞ」 「そんな話じゃねえ。こっち向け」  椅子ごと半回転。目のまわりを赤くした夢見る人形野郎の顔はなんだかきらきらしていた。その向こうにはまるで逆の表情をした拓也の顔がのぞいている。このままいけば弟分が兄貴分をぶちのめすシーンが見られるかもしれない。 〝日本のどこかで俺を待ってる女は美希じゃなかったか――なんてな。冗談だ、冗談〟  それだけいうと弘毅は皿に載ったアイスクリームをぱくつきだした。腹のほうはもう大丈夫なんだろうか。美希は炭酸のジュースか酒に口をつけている。飲んでいるのかどうかはわからない。 「どうした。気味悪い顔して」  拓也の動きを気に留めながら、逃亡野郎の相手をする。 「Aをした。瑠佳と」  いきなりの呼び捨て。しかもキスまでしたとほざいていやがる。 「へえ。驚いた」 「ほっぺにだけどな」 ――ガキかよ、お前は。 「これからは勝負だぜ、亨」 「なんの」 「瑠佳がオレとお前のどっちを選ぶかに決まってんだろ」  おれはなにがなんでもあの女を彼女にしたかったわけじゃない。そういうかたちを取れば誰にも邪魔されずに不動産屋の娘を利用できると考えただけだ。 「キスしてもらったんだろ。勝負ついてんじゃねえか」 「潔いな。んじゃ、亨の負けでいいのか」 「負けでもなんでもいいからとっととつきあっちまえ」 〝おい、大将〟  弘毅の横でずっと黙っていた新見のとがり口が動く。誰が大将なのか。啓太もでかいテーブルのほうに体を向けている。 〝あ?〟  大将は拓也だった。 〝あ、じゃねえだろうが。なにぼけっとしてやがんだ〟 「なんかやばくねえか」 「さっきからずっとあんな感じだ」  目が離せなかった。相手は変わっちまったが、こっちのほうが断然いいカードだ。互いを嫌いあっているふたりの対決におれは唾を飲んだ。 〝《盲|めくら》かよ、てめえは。火だろうが、火〟 〝ああ、いいんだ《里見|さとみ》。《倉敷|くらしき》は――〟 〝そっちこそ、こんな店でなにやってんだ〟 〝やめなよ、ちょっと〟  タバコをくわえた弘毅を真ん中にして、新見ががなり、拓也が返し、美希がそれをたしなめた。 〝誰に口利いてんだ、こら〟  巻き舌を使う新見。そんなちゃちな脅しが拓也に効くとでも思っているのか。馬鹿な野郎だ。 〝最近じゃ愚連隊も踊っちゃったりすんのか〟 〝いいかげんにしなよ、拓也〟 〝女は黙ってろ〟  美希が口を閉じる。そうさせたのは弘毅だった。 〝俺は会長のタバコに火をつけてさしあげろっていってんだ〟  テーブルの上へ身を乗りだし、拓也が新見に顔を近づける。 〝な、なんだ、てめえ……〟  目尻のあたりをひくつかせる新見。年は上かもしれないが、気迫じゃ拓也に負けている。 〝悪りいな、先輩。あいにくとヤニはやらねんだよ、俺。だから火は持ってねえ。あんたが代わりにつけてさしあげろや〟  睨みあうふたり。キスしちまうぐらいに顔が近い。 「貫禄がちがうな」 「え?」  口を突いて出た言葉。啓太にいったわけじゃない。 〝……ったく、吸わなくたって火ぐらい……〟 「新見の野郎、完全にビビってやがる」 「新見ってお前……」 〝ごちゃごちゃ抜かしてねえで、とっととつけてさしあげろや! 朝んなっちまうだろうが!〟  椅子から転げ落ちる新見――ここからが本当の勝負。地獄を見ろ。地獄で拓也の強さを思い知れ。 「賭けるか、啓太。おれは拓也先輩に十万円だ」 「十万だあ!?」 「なんならもっと賭けたっていい」 「ば、馬鹿いうな。そんなのオレだって拓也先輩に十万だ」 「賭けにならねえよ、それじゃ」 〝おいおい、ケンカはよしてくれ。勝負するならダンスでいこうぜ!〟  脳天気なことをほざくトサカバンドのやつら。水を差すな、水を。 〝倉持、てめえ!〟 〝うるせえよ。こっちはてめえに説教ぶたれる筋合いじゃねんだ!〟  肉を打つ音が聞こえた。椅子が倒れ、グラスが割れ、『やめろ』と『やれ』が重なりあう。あっという間にふくれあがる人だかり。後れを取りながらおれもその群れに加わった。 「よし、そこまでだ。お前ら」  虎の声で弘毅がいう。なんだよ。はじまってまだ三十秒も経ってないだろうが――舌打ちをするおれ。ほかにも十人は同じことをしたにちがいない。拓也だけがすっと立ちあがった。 「よかったな、先輩。タオル投げてもらってよ」 「待てや、おい……」 「別に逃げちゃいねえよ」 「こら、おめえら。何度も同じこといわせんじゃねえ」 「……会長は黙っててもらえませんかね」  弘毅に楯突く新見――静まり返る店のなか。 「おめえ今なんつったよ」 「生意気な口利いてすいません。後できっちり詫び入れます。けどこの野郎だけは――」 「いいから、黙っとけ」 「続きやんならまず立てや、《新|にい》――」  金髪が乱れた――威力のありそうなタイガーパンチ。拓也は屁でもないという顔をしている。さすがだ。 「ここらで《矛を|ほこ》収めとけ。店に迷惑だ」 「甘すぎますよ、会長は……」  ようやく立ちあがってきた新見。顔の左にだいぶダメージを負っている。 「いいかげんに――」 「どうしていつもこの野郎の肩持つんですか!」 「別に肩なんか持っちゃいねえだろう」 「特別扱いしてるでしょうが!」  誰もが黙りこくる。澁聯のやつらはもちろん、トサカバンドも店のやつらも全員。新見だけがただひとり、暗く湿った笑い声をあげている。 「なあ、《新沼|にいぬま》よ」 「会長。俺は新見です。松桐坊主の新見アキラですよ」 「おう、それな。でよ、《新野|にいの》――」  逆の意味で筋金入りの記憶力。いや、想像力か。 「俺ぁおめえらのことみんな家族だと思ってる。誰かひとりが特別だなんて《考|かんげ》えたこともねえ」 「そういうと思いましたよ」 「あ? なんだ。気にいらねえか」 「いいえ。安心しました、会長」 「そうか。なら問題はねえな」 「ええ、問題ないですよ。会長はここにいる全員のことを考えてくれてる。自分も倉持も弟さんもそこのくそガキも、みんな同じ。そういうことですよね」 「たりめえだろうが」 「なら、倉持にもみんなと同じにやってもらいましょうや」  新見がどこからか引っぱり出してきたなにかをテーブルの上へどんと置く。 「おい、なにおっぱじめようってんだ」 「明日会長にいくらつけられんだ、倉持」  無視される弘毅。ざわめく下っ端ども。 「再来週の話になったの、横で聞いてただろうが」 「都合のいい耳してやがんな、おい。そりゃこっちのセリフだ。たった今、てめえだけ特別ってわけにゃいかなくなったんだよ」 「そっちが決めることじゃねえだろう。とにかく再来週には――」 「それじゃ不公平だっていってんだ! ボケが!」 「ボケだあ? おい、新――」 「ああ、大ボケ野郎だよ、てめえは。そう思ってんのは俺だけじゃねえ――おい、《五十嵐|いがらし》、《槇村|まきむら》。お前らからもいってやれ」  五十嵐=黒乱。槇村=《JEALOUSY|ジェラシー》のそれぞれアタマ――啓太の耳打ち。テーブルの黒いバッグのなかから新見が色のちがう二種類の束を取りだした。 「会長、早めですけど今回分です。来月もよろしくお願いします」  見物人の首が伸びる。おれはつま先立ちをした。銀色をした束の脇=札の束に吸いよせられる目玉――かなりの厚み。どこからともなく低い声が響く。あれがすべてえらいほうの聖徳太子なら五十……いや、六十万はある。 「なにもおめえ、こんなとこで――」 「せっかく会長がいらっしゃるんだ。五十嵐、牧村。お前らも詰めちまえ」  新見に名指しされた男ふたりがおずおずと前に出る。札の厚みはどっちも新見のそれより薄かった。 「よし。五十嵐はそっから三十枚持ってけ。牧村は九枚だ――おい、ほかはどうだ? 器量見せられるやつはいるか」  五十嵐たちにつられてなのか、新見のあおりに乗ってなのか、よそのチームのリーダーも続々と集まってきた。弘毅の前に札の山が築かれ、代わりに銀色の束が減っていく。 「後はてめんとこだけだぞ、大将」 「金はねえよ」 「はあ? てめえ今なに見てたんだ。みんな気持ちよくつけてきただろうが」  くちびるを噛む拓也。殴りあいじゃ敵わないと踏んだ新見は金の力で反撃に出てきた。汚いやつだ。 「《松桐坊主|うち》の六分の一だぞ。それっぽっちが詰めらんなくて、よくアタマだのちょうちんだのいってられんな。ほら、てめんとこの分だ」  黒いバッグの中身=銀色に黒い文字で『澁谷聯合會』と書かれたステッカーの束が拓也の前に放られた。 「だからさっきから金はねえって――」 「そうか。じゃあ土下座しろや、倉持。《会費|あがり》詰めた連中全員にだ」 「俺とそっちの話だろうが」 「馬鹿いえ。てめえと澁聯の話だ」  そこはたしかに。テーブルに積まれている札束は澁谷聯合會の会費だ。 「お山の大将はなんにもわかってねえみてえだから教えといてやるけどよ、腕っぷしだけでどうにかなんのはいいとこ中学までだ。分別のあるやつはそういう馬鹿を相手にしねえ。金がねえやつはくそだって知ってるからな」 「金があったってなくたってくそはくそだ。てめえがそうじゃねえか」  拓也のいうとおり新見はくそだ。だが、そのくそと同じ考えがおれの頭のなかにもある。 「どんだけくそまみれだろうが金は金。ちがいますかね、会長」  弘毅は答えない。下痢を堪えているような顔つきでタバコをふかしているだけだ。 「倉持よお。そうやって人のこと睨みつけてる暇があんなら、ちったあまわりを見てみろ。てめえの肩持ってやろうなんてのはここには誰もいねえぞ」  そんなことはない。おれがいる。啓太がいる。美希が、村尾が、ナンバー二、三、四、五、六がいる。 「自分の突っ立たされてる状況が理解できたら、そこで土下座しろ。俺がてめえに金貸してやる」 「誰がてめえみてえなくそに――」 「んじゃ、今すぐ耳揃えて詰めろや。あれもこれもできませんじゃ話になんねえぞ、腰振り大将」  目を閉じ、腕組みをしはじめる弘毅。虎のひと声にはもう期待できなかった。 「啓太」 「な、なんだよ」 「ROCKATSが澁聯に払う会費。正確にいくらだ」 「そんなの聞いてどうすんだ」 「いいから教えろ。おれに考えがある。知らねえとかいうなよ」  拓也に――《ROCKATS|うち》のアタマに、土下座なんてみっともない真似はさせられない。 「……十万」  割る、十人。イコール、メンバーひとり頭の会費は一万。おれをチームに拾わなきゃ、拓也が澁聯に払う金は四万五千円で済んだ――五万五千円分の迷惑。そいつがおれの今の価値だ。 「啓太の友だちにジッポのライター欲しがってるやついたよな」 「いねえわ、そんなの」 「いることにしとけよ、今日のところは」  拓也に近づいていく。ハリーの脇を抜け、ナンバー五、六を押しのけ、五十嵐と牧村にどいてくれといった。 「……詰めりゃいいのかよ」 「さっきからそういってんだろうが。耳まで足んねえのか、てめえは」 「時間をくれ」 「だめだ。今すぐだ。そうじゃねえとてめえは逃げる」 「そんな真似――」  新見の蹴りが拓也の腹にめりこんだ。 「ガキじゃねんだぞ、こら! さっさと決めろや!」  右、左、右、左、右、右、右――七連続のパンチ。拓也は《避|よ》けもよろけもしない。反撃もしない。黙ってただ新見を睨んでいる。 「余裕かましてんじゃねえぞ、倉持、こら!」  八発めのへっぽこパンチを拓也の左手が飲みこむ。できることなら新見の後ろへまわりこんで、うなじに電気のかたまりをプレゼントしてやりたかったが、おれがそんな真似をしたところで払う金が減るわけでもない。拓也もそれを喜んじゃくれないだろう。 「先輩」  新見の顔がゆがむ。体がくねる。やつの拳の骨は今、軋みに軋みまくっている。 「て、てめえ、馬鹿力を緩めろ!」 「その前に聞かせろや」 「放せっつってんだろうが!」 ――握り潰せ。拳も心もバラバラに砕いてやれ。 「金を今すぐ詰めたら、俺をコケにした落とし前はつけてくれんのか」 「……あ!? 上等だよ、この野郎」 「どう上等なんだよ」 「そんときは……俺がてめえに土下座してやるよ」 「吐いた唾、飲むんじゃねえぞ」  拓也は新見の拳を床へ叩きつけるようにして放した。 「美希」 「な、なに?」 「悪りいんだけど、瑠佳ちゃんに頼んでみてくんねえか」 「アタシが!?」 「ああ、ふたりにはあとで土下座でもなんでもする。だから――」  拓也と新見の間へ躍り出る。 「くそガキがなんの用だ」  右手を宙に振りながら新見ががなる。 「野暮用」 「おい、倉持。このガキなんとかしろ」 「黙れよ、蚊の先輩」 「蚊ぁ?」 「男の話に口挟むもんじゃねえぞ、《岡林|おかばやし》」 「こっち来い、亨」  拓也の命令にだけ従った。 「こいつは上同士の話だ。気持ちはわかっけど、お前の出る幕じゃ――」 「これ返しときます。あとこれも」  柳屋の整髪料と百枚の伊藤博文を拓也の右手に押しつける。 「どうしたんだ、こんな金」 「ちょっとしたこづかいですよ」 「あ? こづかい? んなわけねえだろうが」 「先輩にもらったあのジッポ。啓太の友だちが十万で買ってくれて」 「うそつけ」 「ほんとですよ。けどしばらく使う予定もなくて」 「……ったくてめえってやつは一丁前の口ばかり利きやがる」  札束を握らない拓也。小豆色のポケットに無理やりねじこんでやった。 「問題解決じゃないですか。これで」 「すまねえな」 「おれもROCKATSのメンバーですから」  拓也に礼をいわれた。頭も下げられた。嬉しかった。こそばゆかった。それでも実際に札の束を手渡すまではもったいない気もしていたおれ。みみっちい。 「とりあえずこれで文句ねえだろ。持ってけや」  学年費二十人分の金が新見の腹に押しつけられる。 「あのガキになにやらせやがった」 「ウチの人間がどこでなにしようがてめえには関係ねえ」 「ちっ……くそが」  新見がふんだくるようにして金を受け取り、テーブルの札の山へ重ねる。弘毅の耳になにかをささやくとやつは出入口に向かって歩いていった。 「待てや、こら!」 「もういいじゃん、拓也」 「よかねえだろ」  拓也のいうとおり。新見はやるべきことをまだやっていない。 「くそしてきます」 「いちいちいわなくていいわよ、汚い」  きれいなくそなんてどこにもない。だいたいお前だって毎日そいつを尻の穴からひねり出してるだろうが。    §  便所の窓から外へ。旅をはじめてからこっち、やたらと増えてきたこのパターン。慣れたもんだった。  中華料理屋の裏手へ抜ける。油のにおいの混じった風が柳屋でかためた髪を乱しにかかる。こめかみの後ろを押さえながら走った。平積みされたコーラのボトルケースを飛び越えてケンタウルスの正面へ。店の名前のネオンが迷彩模様をピンクに染める。 「どこ行きやがった」  揺れのひどい車から解放された場所に向かってダッシュ。十字路で足を止めて左右を確認――発見。右方向、白くて平べったい車の先に目標の背中。遠慮なく距離を詰めていく。 「約束守れよ」  オレンジ色の速そうな車――スーパーカーもどきの顔つきをしたそいつに、新見は乗りこもうとしていた。 「約束を守れ!」  混雑した道路は俳優座とかいう大きな建物の向こう側にある。ここはそれほど騒がしい通りじゃない。蚊の鳴くような声ならまだしも、三塁側のベースコーチ並みに張りあげた声が、十メートルかそこら先の耳に届いていないわけがなかった。足立ナンバーを貼りつけた長い鼻づらに、拾った空き缶を投げつけてやる。 「なにしてくれんだ、くそガキ」  後ろを見もしないで《おれ|がき》が犯人だとわかるあたり、蚊の視界はけっこう広いのかもしれない。 「缶をぶち当てた音よりでかい声でいったんだけどな。約束守れって」 「殺すぞ」  ようやくのご対面。新見はサングラスをかけていた。 「好きにしろよ。けどその前に約束を守れ」 「ガキとなにかを約束した覚えはねえ。死にたくなかったら失せろ」  殺すだの死ぬだの、うそつき野郎の分際でなにをほざいてやがる。 「ウチのアタマをさらし者にしといて、自分がやばくなったら逃げるのか」 「おい、岡島」  ガキてめえ以外の呼ばれ方をはじめてされた。あまりの光栄さに吐きけがしてくる。 「てめえがねじこんできてんのは澁聯のナンバーツーだぞ。わかってんのか」  そんな話は誰からも聞いていない。たとえこの先聞くことがあっても、おれはお前なんか認めない。 「さあな。それより早く店に戻って土下座の支度しろよ」 「死にてえらしいな。待ってろ」  服の上から稲妻の位置を確認する。電池はケンタウルスへ行く前に、信じられない時間まで開いている薬屋で買い、今はもうセットしてある。あとはやつをたっぷりしびれさせて、店まで引きずっていけばいいだけだ。 「どうしてそんなに頭悪りいんだ」  車に鍵をかけた新見がその身を焼かれに近づいてくる。 「利口に生んでもらえなかった」  あと五メートルの位置まで迫ってきた新見。鏡のようなサングラスには焼鳥屋のちょうちんが映りこんでいた。 「お前、さっきも俺にぶちのめされてんだぞ」 「やられっぱなしは好きじゃない」  距離が三メートルにまで詰まった。左足に力をこめる。勝負は最初の二秒。狙うのは首筋。だめなら四つの玉=目と股ぐらのそいつをぶっ潰す。それでしまい。強かろうがなんだろうが、玉だけは鍛えようがない。 「見あげた馬鹿だな」 「よくいわれるよ」  ダッシュ。二歩めで左へ小さくジャンプ=フェイント。すぐさま右足で踏みきり、後ろを取る。ここまでで一秒――なぜか脇腹に痛み。かまわず背中へ跳びついた。かわされた――鼻っ面に《刃|やいば》。思っていたのとはちがった二秒後の世界。鼻のない人生が頭にちらつく。 「出てこいや!」  意味がわからなかった。おれからなにが出てくるというのか。 「なんの話だ!」 「こそこそやってんじゃねえぞ、こら!」  腰に蹴りを食らった。ありがたい。これで次の動作に移れる。衝撃を回転に変えながら距離を取った――またしても痛み。脇腹に触れてみた。布地が裂けている。濡れてもいた。破れめから痛みのもとに親指を差しこむ――倍になる痛み。指先はだが、肉の弾力にしっかりと跳ね返されてきた。《腸|はらわた》はまだこの《腹|なか》に納まっている。問題ない。 「おら、ガキがひとり死んじまうぞ!」  まぼろしかなにかに怒鳴っている新見。こいつもシンナー中毒か。だとしても容赦はしない。体を低くして踏みこむ。銀色がきらめく。のけぞってかわす。尻もちをつきそうになりながら焼鳥屋のほうへ後ろ歩きをし、ビールケースから空き瓶を一本抜いた。 「やめとけ」  誰かの声。新見の目線はおれの後ろ。振り向きそうになるのを堪え、軸足を左から右へさりげなく変える。 「聞こえねえのか、亨」  ROCKATSの岡島亨は声の主に逆らうわけにいかなかった。新見の注意も今はもうおれに向いていない。空き瓶を捨てた。 「まわりくどい真似しやがって。最初からてめえだけで来いや」 「今、相手してやんよ――亨、これ持ってろ」  渡されたのは小豆色のジャンバー。シャツ一枚になった拓也が拳の骨を鳴らす。 「土下座するなら今ここでしろ。そのつもりがねえならかかってこい」 「ふん、馬鹿くせえ」  新見は吐き捨てると、手のものを道端へ放り投げた。 「へえ。ステゴロで俺に勝つつもりなんだ、あんた」 「岡島、ちょっと来い」 「行くことねえ」 「とんがるなよ、倉持。ガキにはもうなにもしやしねえ」  拓也を見る。話が見えねえな――そういう顔つき。 「早くしろ。マッポがきちまう」  ジャンバーを拓也に返して歩く。 「なんだよ」  新見の正面に立って聞いた。攻撃がきそうなところには力を入れ、一応の用心はしている。 「大将にはこいつで水に流すようにいってくれ」  渡そうとしてきたのは十枚ぐらいの札。でかい聖徳太子だ。 「土下座はどうした」 「できねえからこうしてる」 「できない約束をなんでする。ウチのアタマは大勢の前で恥かかされたんだぞ」 「要するにそれじゃ足りねえって話か」  そんなもの、百万もらったって足りやしない。 「金の問題じゃない。おれは筋が通ってないっていってんだ」 「この俺に説教か。笑わせんな、ガキが」  蚊は焼き殺すに限ると思った。 「あんまりなめんなよ」  ポケットの縁に指をかけ、半歩後ろへ。 「《手榴弾|パイナップル》でも出してくんのか」 「おれはくだもの屋じゃ――」 〝もういい。店戻んぞ〟 ――ちょっと待ってくれって。 「まだ話ついてないですよ」 〝いいから早くしろ〟  来いだの戻れだの、おれは二塁ランナーじゃねえぞ、くそ。 「アタマがああいってるから戻るけど、あんたにやられた分をおれはまだ返してない」 「しつけえガキだな」 「あんただってカネカネしつこかった」  新見が笑った。敵のおれに歯を見せて笑った――蚊の口で。 「死にたくなったらいつでも来い。相手してやる」 〝なにやってんだ!〟  《ふ》に落ちない決着。そう感じながらも新見に背を向ける。落とし前の札束を握りしめ、おれは金髪オールバックの背中を追いかけた。 〝やるじゃない〟  左からの声――自動販売機の陰にひっつめ髪。足を止めた。 「のぞきかよ」 「見張りとお《守|も》り。拓也がいなきゃ、あんた夕方の二の舞になってたわよ」  知っている。腹が立つほどわかっている。おれは弱い。ハツの畑のあいつと同じかそれ以下だ。勝てるはずもない鉄のスコップ相手に意地だけで挑んでいく芋虫毛虫のミミズ野郎。往生際の悪さにしても同じ。この調子でいけば、いずれくたばっちまうのだって目に見えている。だから強くなりたい。くたばる前に力を手に入れたい。白い背中に小豆色を引っかけて歩いているあの男みたいにおれはなりたい。 「いいけじめ取りやがって――だってさ。拓也」 「けじめ?」 「落とし前とかそういう意味でしょ」  今のそれのどこがいい落とし前なのか。 「おれとしちゃ一ミリも納得いってないけどな」 「生意気」 「あんたには負ける」 「超かわいくない」 「そのへんもあんたには負けるね」 「殺されちゃえばよかったのに」  夜中の突風。ビルの隙間を抜けてきたそいつに聖徳太子どもがざわつく。後ろのほうでは乾いたエンジン音がうなりをあげていた。 〝いちゃついてんじゃねえぞ、こら!〟  拓也の最大の弱点が、頭に生えた馬のしっぽをなびかせながらけらけらとやる。 「もうちょっといちゃついて拓也に殺されてみるとかどう?」  風船に目鼻口をマジック書きされた顔なんて冗談じゃなかった。
1
15
シリーズ一覧
感想を送る
作品を紹介
ブックマーク
しおりを挟む
作品情報
使い方
登録が完了しました!
確認事項
戻る
実行