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 左手薬指につけられた指輪が、重荷に感じることがある。  十年前。職場同僚の結婚ラッシュにかこつけて、当時まだ彼氏だった夫と結婚して、こどもも産んで、育てて──それ自体に、不幸だと思う要素はない。ないのに、どこか物足りなさを感じていた。寿退社をして、運良く夫の稼ぎだけでこども一人は育てられそうで、家事に育児に、専念することができている。ファッションだって、趣味のテニスだって、頻度こそ減ったけど、ときどきは打ち込みにいける。  なんの不満もない、はず、なのに。  夫に任されていること。旦那に任せていること。こどものこと。私のこと。毎日が違うはずなのに、毎日が同じように感じてしまう。同じことの繰り返し。ルーチンワーク。  週に一回、二週に一回……その程度しか行けないテニスコートじゃ、満足なんてできない。  コートのなかだと、嘘をついていてもわかってしまうらしい。コーチ見習いの高崎さんが、いつもと球筋が違うと、練習後に声をかけてくれた。きっと動きも、いつもより悪かったんだろう。ジムじゃ話しづらいでしょうから、クールダウンのあとにお茶でも、と心配されてしまった。  たまには、いいのかな──なんて、こどものことを任せる旨のメールを夫に送って、高崎さんと二人でジムを出る。ジムでみる引き締まった肢体は衣服に包まれればすっかりと息を潜めて、当たり前にどこにでも居る物腰の柔らかい大人の女性になっていた。チュニックもスカートが柔らかくふわりと彼女の全身を包んでいて……テニスウェアを着ているときの、太く鋭い喚起の声がどこ吹く風だった。  高崎さんの要望で駅近くのカフェに入って、彼女がミルクティーとチーズケーキのセット、私がブレンドコーヒーを注文。土曜の昼間ということもあって、人の入りは多いはずだけど、そんなことを感じさせない落ち着いた雰囲気があった。  いいところでしょ、と高崎さんが言うのを、私は首を縦に振る。もうすこし駅に寄ると、全国展開してるカフェ・チェーン店があるから、どうもお客はそっちに流れるらしい。へぇと感心しきりで相槌をうつ。 「……それで、どうしたんですか、今日は。ご家庭で、なにか?」  オーダーがテーブルに到着しないうちに、高崎さんは本題に入ってくれた。氷水の入ったコップを両手で持って、彼女は私の目をみている。 「どうということは、ないんです。夫と喧嘩したとか、子育てが嫌になったとか、……世間でよくきく、嫁姑問題とか、そういうのも、ない。……はずなんですけど、ねぇ」  我ながら、歯切れの悪い語り口だと思うけれど、実際のところ、私自身に心当たりがないのだから、仕方ない。それがわかるのか、高崎さんも曖昧な表情をみせる。コートの周りでは、一度もみたことのない、苦いような、渋いような。  んー、とカップを支える親指をするりするりと動かして、言葉を選んでいるのか、それとも。 「岡江さんは、」  視線を下にずらして──私と目を合わさずに──高崎さんは切り出した。 「生活していて、楽しい、ですか」  頭を、硬いもので殴られたような気が、した。 「わたしは……つらいな、しんどいな、苦しいな、なんでこんなことやってるんだろう、って、思うことがあります。でも、それ以上に、楽しいことが多くて……その楽しいのために、わたしは頑張れてるんだ、って。岡江さんは……どうですか」  それは、と、声を漏らしたような気がする。私の声なのに、私の声じゃない、勝手に動いて、音が出てしまった、ような。  べらべらと、舌が、顎が、唇が、声帯が、動いて、震えて。矢継ぎ早に、どんどんと。夫が元気で、お金に不自由していない、こどももいる、自分の趣味でテニススクールにだって通えているし、それでも、夫も子も、それに不満を言わない。順風満帆、幸せな、家庭を築けている。  ……はず、なのに。 「でも、それは……不満がない、だけで、幸福では、ない、ですよね」  もう一度、頭をがつんと殴られた。同じところを、もう一度、しっかりと。 「家事も育児もやって、家計簿つけて……ご家庭の範囲とはいえ、経理のお仕事だってしてる。でもそれが全部『夫婦の妻として当然の責務』なんて思われて、労われたこと、ないんじゃないですか。それって、仕事して怒られるより、きっとつらいです」  高崎さんが続けようとして、給仕担当のスタッフがオーダーを届けにきて、悪いとは思うけれど、申し訳なく思うけれど、一息いれられてほっとしている自分を認めてしまう。ブレンドコーヒーの香りの向こうに、ミルクティーの柔らかいにおいを感じて、向かい合う彼女からの衝撃を、すこしだけ軟化できた、気がした。  冷めないうちにいただきましょう、とはっきり切り取られて、私はそうですねとしか返せない。味は美味しいし、匂いも良いとわかるけれど、それと別に、先の高崎さんの言葉が、私の中で渦巻いていた。  よかったら食べますか、と高崎さんのチーズケーキの最初のひとくちを、何度かの問答の末にいただいてしまって、コーヒーの苦味と相まってほどよい甘さとまろやかさが口の中に広がるのに頬が緩むのを自覚する。美味しいですよねと嬉しそうに語る彼女の言葉に、私はええ、ええ、としか言えない。 「そういうふうに、手放しで食べ物が美味しいと思えたのは、いつぶりですか」  ぐ、と喉から音が漏れた。  思い出していくと、専門学校時代に同期とお昼を食べていた頃まで遡ってしまった。十年以上も前。就職活動を経て、就職をして、結婚をして……ご飯が美味しい、飲み物が美味しいと、考える時間が全然なくなっていた。栄養こそ気にしていたけれど、結婚して、こどもを産んでからはとくに、自分の好みの味に調理したこともなかったような気がする。  全部、夫かこどもの好みに合わせて……外食も、自宅でも、ずっと……? 「食べ物や飲み物だけですか。そうやって、我慢、……してきたの、って」  チーズケーキを切り分けながら、高崎さんは私に聞く。……でも、それは。  私には、わからない── 「結婚も、出産、子育ても……きっと、多くの人には幸せなことに、挙げられるんだと思います。無条件に幸せだと思いこむ人がいると思います。でも、それは……」  高崎さんの声が、尻すぼみに薄くなる。言って、と私は後押しをする。三度と鋭い指摘をされると、もはや開き直るほかない。紅茶を飲んで、その熱を逃がすのとは違う吐息が、彼女の口から漏れて。 「……岡江さんの幸せって、きっと、そういう世間の大多数とは、違うと思うんです。周りみんながそうだから、って、……岡江さんが、その指輪で、自分で縛り付けているみたい。もっと、……岡江さんが幸せになれること、を、しましょ?」  誰かと同じ、だけが幸せじゃ、ないんです──高崎さんの表情は、遠くを見つめるようで、儚げで……すこし、寂しそう。  見当違いだったらごめんなさい、という言葉が、私にはひどく、重たくのしかかった。そんなこと、言わせてしまった私がいけないのに。  私はコーヒーを口に運んで、濁すことしかできない。  すこしだけ、沈黙が私達の間に挟まる。高崎さんの言葉が、私の中でずっと、ぐるぐると渦巻いていて、何も話せない。心当たりが多すぎた。 「わたし、彼氏って、居たことないんです」  沈黙を破ったのは、また高崎さんだった。紅茶をすする彼女の表情は、私を気遣って言葉を選んでいたときのそれよりも、落ち着いている。 「でも、恋人は居たことがあるんです。親には、言ったことありません。いつ結婚するんだ、孫を抱かせてくれ……何度もそう言われて、でもわたしの幸せに、それはないんです」  淡々と話す高崎さんの表情は、明るくない。 「わたしはそれで良いと思ってます。結婚できない、きっと孤独死する。自室で看取ってくれる子も孫も居ない老後。……でも、自分に嘘をついてまで、他人と一緒になりたいとは、思えない。みんながみんな、幸せの形が同じなんて、おかしいのに、誰もそれに疑問をもたない。……きっと、岡江さんも、そうだったんだと思います」  でも、と高崎さんは、フォークをケーキに滑らせ切り分けながら、言葉を紡ぐ。それはきっと、 「でも……岡江さんは、もう気付けました。今日からはきっと、……きっと、幸せになれると思います。たまに指輪外したっていいんですよ。どこにでも居る夫婦の妻、じゃなくて、岡江《紗凪| さ な》個人で居たって」  きっと……誰も悪いことだなんて、言いませんから──言いながら、小さく崩したケーキをフォークでさして、こちらに、 「だから、まずはこれまで頑張ってきたご褒美に、自分を甘やかしましょ、ね」  はい、あーん──わずかに開いてしまっていたらしい口に、チーズケーキを放り込まれてしまう。美味しいのだけれど、学生の頃にもしなかったことで、恥ずかしさが勝ってしまう。それに、同年代ならまだしも……私のほうが、いくぶんかおばさんなのに。  コーヒー冷めますよ、と対面から聞こえてくるのを、認識はできても反応ができない。わからないことと、わかったことの整理が、すこし追いつかない。眉間、しわ、と二言飛んできたのがわかって、それだけ苦渋の表情をしているのだと思わせられる。 「難しいこと考えなくて良いんです。そりゃあ、もう成ってしまったものの責任は、取らないといけませんけど……でも、岡江さんが幸せになるために、何かをする、ってだけですから」  ね、まずは目の前の物を堪能しましょ──優しく諭すように、そう言われて、うん、と諦めがついたような、そうでもないような。でも、きっとそう。目の前のこの、美味しいものたちを楽しまないのは、きっと、もったいない。 「もう一口、貰っても、いいですか」  私の言葉は、もしかしたら、彼女の想像にはなかったのかもしれない。あははと笑って、食べさせてほしいってことですか、と言う彼女に、私は首を何度か横に振る。……そういうことでは、ないのだけれど。  じゃあ、これは岡江さんのってことで──高崎さんが店員さんを呼び止めて、追加でもうひとつチーズケーキを注文するのを、私は呆けた目で見てしまった。見てしまっている、はず。美味しいものはちゃんと食べないといけませんから、と語る対面の女性が、少女のように朗らかなのが、まぶしい。  目の前に持ってこられてしまった、すこし崩れたケーキを、フォークでさらに崩しながら、考える。冷めはじめたコーヒーと、バラバラ殺人の被害者のケーキ。それに私。 「高崎さん、」  言葉が出た。呼びかけていた。わからないのに、わからないまま。……でも、それでいいのかもしれないと、思った。 「……成ってしまった責任、って、言いましたよね。……言いましたよね。それは、……私に気付かせた、責任も、取ってくれるって、こと、ですよね」  かちゃり、とカップが鳴った。すこし伏せられた目に、口元がすこし動いたことだけ見えて、何を言ったのかは、わからない。だから私は、聞こえなかった私は、そのまま続ける。 「私が知らないこと。高崎さんが楽しいとか、面白いとか思うこと……そういうの、教えて下さい。……良い、ですよね」 「……仕方、ないですねぇ。そうまで言われたら」  そう語る女性の表情は、やっぱりすこし、少女のように見えた。  ずるい人──蓋していた気持ちをひらいてくれてしまった女性に、高崎ゆかりは言えなかった。
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