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 廃校の体育館の二階の手すりから、先端を円にしたロープを垂らしてみる。  すると、ちょうど俺の背丈より少し上くらいの高さで止まる。  俺は一階に戻り、そのロープを引っ張ってみた。うん、頑丈で多少の重さではびくともしない。  体育館の倉庫の隅にあった、運動会などで使う小さな台を持ってきて、ロープの下に置く。  準備は整った。  何とも物静かで、寂寥感に溢れた最期だ。  ここは俺が十五年前に卒業した小学校だ。その時点ですでに在校生は十人足らずになっていて、俺が卒業してまもなく廃校になった、と聞いた。その後活用案もあったようだが、町にそんな予算はなく、以来放ったらかしにされるがままになっていた。とはいえ、小学校というのは元が頑丈に作られているから、そう簡単に崩れたりはしない。  体育館も、一部の床が抜けていたこと以外は、俺の記憶のまま存在していた。  ここで友達と遊んだ記憶が蘇る。同級生はほんの六人、俺を入れて七人。それでも全校学年のうちで一番多かった。下級生とも普通に仲良く遊んで、人数の足りないバスケットボールやサッカーを休み時間は楽しんでいたように思う。 「ははっ……あの頃は楽しかったなぁ」  俺は走馬灯のように巡る思い出に浸る。  別の市内の中学校に受験で合格したとき、皆は町の公立中学校に行くと聞いてがっかりしたこと。  あまりにも勉強漬けの毎日で、小学校の友達から送られてくる手紙にも返事を出さなくなったこと。  県外の高校に受かると、小学校の頃のことなど頭の中からすっかり忘れてしまっていたこと。  そこそこのいい大学に受かって、彼女もできて、キャンパスライフも楽しんでいたこと。  そして、今の会社に入ったことが運の尽きだった。  一年目から研修という名の罵詈雑言を吐きかけられ、一秒たりとも気の抜けない時間を過ごし、時には意味のない仕事をやらされ、どんどん同期が辞めていく中、俺は頑張った。営業の成績も良かった。それが先輩社員の癇に触り、裏でいびりや陰口をされて、朝起きるたびにトイレで吐く毎日。終電間際に家へ帰ってきたら何もする気力も起きず、眠りたいのに眠れない毎日。  ある日、俺はふと、街中のガラス窓で自分の顔を見た。  そこにいたのは、死神に取り憑かれたような、痩せこけた青い顔の自分だった。  俺はぞっとした。このままでは死ぬ。この会社に居続けたら死ぬ。そう考え、退職願を出した。  だが、待っていたのは密室での上司からの責め苦だった。なぜ辞めるのか、責任感というものはないのか、お前が抜けた穴は誰が補填するのか、ここまで育ててやった恩を忘れたのか。  すっかり怯えていた俺は、何も答えられなかった。精神的に追い込まれ、反論する気力も湧かなかった。  その場には先輩社員も同席していた。どうせお前みたいなやつは、どこの会社に行っても辞めることになる。負け犬だ。少し気が滅入ったくらいでいちいち落ち込まれてこちらも迷惑だ。甘ったれるな。そう言われた。  俺は泣きながら、会社を出た。退職願は受け取ってもらえなかった。  その日から、俺は会社に行かなくなった。退職願は郵送で送ったが、送り返されてきた。  どうすればよかったのだろう。ガンガンと玄関のドアを叩く音がする。ドア越しに罵声を浴びせられ、近所の迷惑になると思って、俺は荷物をまとめて車に乗った。  最初は行く宛てなどなかった。ただ、楽しかった思い出に惹きつけられるように、ここへ来た。途中の寂れたホームセンターで縄とカッターを買い、百均で買った手帳に短い遺書と運転免許証を挟み、久しぶりの母校へ。  何も変わらない夜の小学校では、そこいらに生えた雑草から聞こえてくる虫の音や裏山のフクロウの鳴き声が聞こえてきていた。  運よく体育館の扉の鍵はかかっていなかった。というより、錆びて朽ちていた。力任せに開けば、綺麗な床、とはいかないが、あのつるつるの床が出迎えてくれた。  そうこうあって、俺は今、台の上に乗っている。まだ首に縄はかけていない。  もう思い残したことはないだろうか。  そういえば、昔、体育館は幽霊が出るって噂があったな。でも自分も今から幽霊になるんだから、関係ないか。  俺は首に縄をかける。  後ろから、誰かに突かれた。 「!?」  俺は咄嗟に、ぐらぐらと揺れる台の上でバランスを取り、ロープの結び目の上を掴んで、揺れを抑えた。  何だって言うんだ、一体。俺は今さっき自分がやろうとしていたことなど忘れて、後ろへ振り返る。  そこにいたのは、白い髪の女だった。白い日傘を差して、白い服を着て、白い肌をした若い女。  俺はぎょっとした。幽霊だ、とさえ思った。しかし幽霊が何だって出てくるんだ、仲間を増やそうとしているのか。  白い髪の女は口を開いた。 「死にたいの?」  俺は不思議そうな表情の女に向けて、何を言おうか迷った。  死にたい。  改めて言葉に出されると、そうではない気がする。  ただ、俺はもう、終わりたいだけだ。こんな馬鹿げた人生から、逃げ出したい。すべてを終わりにしたい。 「別に止めるつもりがあって来たわけじゃないの。ただ、そうね、死にたいわけじゃなさそうだから、つい声をかけてしまって……肩を叩こうと思って」 「……あんた、何でここに来たんだ」  俺は呆れた。死なせるつもりで突いたんじゃなかったのか。 「やっていることは自殺のつもりかな、と思ったけど、あなた、まだ未練があるでしょう?」 「未練? そんなもの」 「小学校の頃って、楽しい思い出ばかりよね。そんなところで、自殺しようだなんて、普通思うかしら」  白い髪の女は、こつこつと足音を立てて、俺の目の前へ回ってくる。 「どちらかと言えば、誰かに止めて欲しくてここへ来たんじゃない?」  俺は、この女、と怒りが首をもたげてきていることに気づいた。  さっきまで何もかもどうでもいいと思っていた自分のことなど、もはや記憶の彼方だ。俺はロープから首を外し、台を降りて白い髪の女の前に立つ。 「いい加減にしろよ。俺は、もうどうだっていいんだ! 毎日毎日、会社で罵倒されて、客に馬鹿にされて、誰も俺のことなんか」 「《黒田輝美|くろだてるみ》よ」 「は?」 「だから、私は黒田輝美。あなたは?」  まあ待て、落ち着け、俺。この女のペースに飲み込まれるな。  とは言え、名乗られて名乗らないのも気が引ける。損な性分だな、と俺は思った。 「《鷲田優|わしだすぐる》」 「そう。鷲田さん、一つ賭けをしましょう」 「賭け?」 「あと十分以内に誰かが来るかどうか」  俺は覚束ない頭を回した。黒田輝美、もしかして、もう誰かを呼んでいるのか。 「そんなこと、賭けにならないだろう。あんたがもう誰かを呼んでいるのなら、とっくに」 「誰も呼んでいないわ。ただ、そうね、こんな田舎の廃校に車が入ってきたら、普通は周りの人たちって、何かおかしいと思うはずよね。あなた、車のライト付けっ放しだったし」  そう言われて、俺は思い出した。小学校があまりにも暗かったから、車のライトを付けっ放しにしておいたのだ。  遠くでサイレンの音がする。誰かが警察か消防にでも通報したのだろう。じきに誰かが来る。  ああ、駄目だったのか。  俺はその場にへたり込んだ。 「もう死ぬ気はない?」 「……あんた、何しに来たんだ」 「別に。それじゃあ、良い人生を」  白い髪の女、黒田輝美は、そう言って体育館から姿を消した。  俺は、駆けつけた消防団の年寄りたちに懇々と説教をされた。俺は憶えていなかったが、向こうからすれば見知った顔だったため、どうしてそんなことを、自殺なんか考えるんじゃない、などと散々っぱら朝方まで説教は続いた。  その消防団の一人に、俺の同級生がいた。まだ町に残っていたらしい、消防団唯一の若い人間だ。 「優ちゃん、俺だよ。憶えてる?」 「……ああ」  ちゃんと憶えている、《滝野一|たきのはじめ》だ。 「何だってこんなことになったのかは知らないけどさ、まだ若いんだから、やり直せるよ。俺も一緒に考えるから、できるかぎり手伝うから、な?」  周りの年寄りも、そうだそうだ、戻ってこい、などと囃し立てる。  俺は涙が止まらなかった。そう言ってくれる人間に出会うなど、何年振りのことだろうか。  たった十分にも満たない、あの黒田輝美との邂逅がなければ、俺はとうに首を吊っていただろう。  だが、町の消防団の誰に聞いても、白髪の若い女、黒田輝美を知らないと言う。そんな目立つ女がいれば、まず気づく、と言われ、確かにそうだと俺は思った。  なら、黒田輝美はあの後、どうやって、どこに去った?  俺はその疑問を、すぐに捨てることにした。考えても、どうしようもないからだ。  俺は町の消防団の一人から紹介された弁護士を介して、会社へ退職届を提出した。流石にそこまでするとは思われていなかったらしく、すぐに退職は認められた。そしてアパートを引き払い、町に戻った。滝野の紹介であっさりと次の就職先は決まり、俺は小さな会社の事務として働くことになった。  今、俺は幸せかどうかは分からないが、満足している。この生活も悪くない、いや、前に比べれば天国のようなものだ。滝野の勧めで心療内科には通っているが、精神も順調に回復していると言われた。  俺は、あのとき——死ななくてよかった 「それならよかった」  どこからか聞こえてきたような、あの声。  幻聴だろう。俺は今日も、会社に向かう。
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