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 とあるビルの屋上に、一人の男の影が見える。  彼の名は、《青川礼|あおかわれい》。茶色の髪に薄茶の瞳を持つ彼は、独特の雰囲気を放っていた。顔立ちが整っていることもあり、この世のものとは思えない儚さがある。  そんな彼の視線の先には、フェンス越しに街を見下ろす一人の女がいた。彼女は《平凡》という言葉が似合いそうな女で、長い黒髪以外に特徴と言える特徴がない。強いて言うならば、その表情だろうか。彼女の表情は《無》であり、空っぽであった。  礼はそんな彼女を寂しそうな顔で見つめている。そして、優しい声で話しかけた。 「苦しく、ない?」  彼女は肩を震わせ、その声がする方を見る。礼を見つめる瞳は綺麗な円を描いており、彼がいることに驚いた様子であった。 「……誰?」  礼は彼女の質問に小さく笑うと、「そうだよね」と自己紹介を始めた。 「僕は、君のヒーローとでも言っておこうかな」 「私の、ヒーロー?」  彼女が不思議そうに首を傾げる。礼はそれに頷いて答えた。 「そう、君のヒーロー。何でも一人で抱え込んで、自分の気持ちを押さえつけて、自分を見失いかけている君を救うヒーロー」  彼女は驚いたように目を丸くする。  まるで、自分の心の中を読まれたような気分であった。彼とは初対面のはずなのに、どうして自分のことを知っているのだろう。  彼女は初めそれを気味悪く思ったが、礼の雰囲気がそれを消し去る。彼ならそういう不思議なことがあってもおかしくない。  彼女は自然と礼のペースに巻き込まれていた。そして、気付いたら、彼なら本当に自分を救ってくれるのではないか、と期待するようになっていた。彼女は半信半疑で、彼に尋ねる。 「……あなたに、私が救えるの?」  彼女の小さな声に、礼は微笑んで肯定を示した。 「もちろん。君に、《感情》を吐き出させてあげる。そして、僕が君の苦しみの半分をもらおう。そうしたら、君の苦しさは半分になる」  礼の言葉に彼女が乾いた笑いを見せる。  彼の言っていることは所詮、綺麗事。苦しみを誰かと分け合えたら、こんなに苦しいわけないじゃないか。結局、彼も、本当の意味で自分を救ってくれるわけではないのだ。誰も、こんな自分を救えるわけがないのだ。  彼女はそう心の中で自分を嘲った。何を期待していたんだろう。 「なに、それ。私のこと何も知らないくせに、そんなの出来るわけないじゃない」  彼女は馬鹿にしたように礼に言う。礼はそれに対し、首を横に振った。 「出来るよ。君のことをよく知らないからこそ、出来る」  礼の言葉に彼女は眉を寄せた。  自分のことをよく知らないのに、どうやって救うというのだろう。  彼は困惑する彼女に言葉を続けた。 「君がどんな人間かは知らない。だから、僕は君をフィルターなしで見ている。そんな僕からは、君が苦しそうに見えるんだ。苦しみを出したくても、周りのフィルターがそれを許さない。違うかい?」  彼女は目を見開く。図星だったのか、言葉が何も出てこない様子であった。  礼はそんな彼女に優しく微笑むと、彼女の横に並んでフェンスへもたれかかり夜景に目を向けた。 「そんな環境で、君は自分の気持ちを表に出すことが出来なくなってしまった。自分が落ち込んでいるのはキャラじゃないから、と自分で自分の感情をごまかし続けた。その結果、君はそれに慣れてしまい、一人の時でも君は感情を吐き出すことが出来なくなってしまったんじゃないかな」  彼女は視線を落とし、何も言わない。  礼はそれを肯定と受け取り、言葉を続ける。その表情は穏やかで、優しいものであった。 「僕は今から、目を閉じて、耳を塞ぐ。何も分からない状態になる。だからね、君が弱音を吐いていても、君が泣いていても、何も、分からない。だから、今、思っていること、苦しいことを吐き出していいよ。誰も、それに気づかないから、大丈夫。ましてや、僕は君のことを何も知らないから、同情も何もしない。それに、どうせ今だけの関係だ。僕にどう思われるか、なんて気にしないでいいよ」  礼はそう言うと、彼女の顔を見て優しく微笑んだ。彼の雰囲気や声色もあるのか、彼女は自分の中で封じていた感情が沸き上がるのを感じた。  ダメ、泣いてはダメだ。  彼女はそう自分に言い聞かせ、無理に笑顔を作った。もう、笑顔を作るのには慣れている。 「ふふ。何、言っているの。別に、私は苦しくなんてないし、大丈夫よ」    礼はそんな彼女にもう一度微笑むと、何も言わず夜景へと視線を戻す。そして、目を閉じて、耳を塞いだ。 「大丈夫だって言っているのに……どうしてっ……変な人っ……」  彼女はそう笑いながらも、その目からは涙が零れていた。  そして何も言わず、その場にしゃがみ込む。手で顔を覆いながら、彼女は自分を苦しめる言葉を思い出していた。 「君って、何も悩み事なさそうでいいよね」 「あたしも君みたいな能天気に生まれたかったー」  友人や同僚の言葉が脳内をめぐる。  そんなわけないでしょう。私にだって悩み事はあるし、ずっと能天気なわけじゃない。君達に笑っていてほしいから、私はいつも笑顔で能天気なフリをしているんだ。私のこと何も知らないくせに、分かったようなことを言うな。  友人達には言えやしないような言葉が次々と思い浮かぶ。  私だって将来のことが不安だし、仕事が上手くいかなくて悩むことだってある。それを誰にも言えないことの苦しみが、君達に分かるの?相談が出来る人間がいる君達にはきっと、分からない。  彼女はもう、自分の感情が抑えられなくなり、声を出して泣き始めた。 「……本当はっ……私だって……助けてほしいよ。苦しい時に、苦しいって言いたいよ。でも……でも、それを言ってしまったら皆心配する。皆が笑顔でいるためには、私が我慢しないとっ……」 「ほら、今、言えたじゃん」  不意に礼の声が聞こえて、彼女は彼の方を見上げる。彼は綺麗な笑みを浮かべていた。 「苦しい。助けて。って、言えたじゃん。一人の時くらい、僕といる時くらい、我慢しなくていいんじゃない?君に同情したり心配したりする人も、ここにはいないんだし」  礼の言葉に、彼女は再び温かい雫が頬を伝うのを感じた。  そして、笑いながら彼に言う。 「……何も見ないし、聞かないって言ったじゃない」  礼は「あ、そうだった」と舌を出して笑う。彼女はその様子を見て笑うと、涙をぬぐって立ち上がった。 「あーあ。なんだか、悩んでいることとかどうでもよくなっちゃった」  そんな彼女に礼は笑って応える。 「言葉にするだけで、大分心が軽くなるでしょ?これからも、苦しくなったら言葉にしな。誰かの前じゃなくてもいい。一人の時でも、言葉にするだけで違うから。どうしても誰かに聞いてほしい時は、僕が駆けつける。僕が、君の苦しみを取ってあげる。だから、あんまり我慢しすぎないようにね。ほどほどが大事だよ」  彼女は何も言わず頷く。その瞳にはまだ潤いがあったが、彼女の表情はどこかすっきりとしたもので、礼と出会う前の《無》ではなくなっていた。 「無理して笑うより、今の笑顔の方がずっといいよ。泣いても、その後、今みたいに笑えたら、それでいい。それだけで、君は前に進める」  礼はそう言うとフェンスから体を起こした。  彼女は黙ってその様子を見守る。礼はそんな彼女の方へと向いて、優しく微笑んだ。彼を照らす月明かりが、彼を儚い存在のように感じさせる。 「それじゃ、君の心も軽くなったみたいだし、僕はもう行くね。また君がどうしようもなく苦しくなった時、僕が助けてあげる。だから、遠慮なく前へ進め。何も怖くなんてないから」  礼はそう言うと、彼女に背を向けて屋上の扉へと向かう。彼女は驚いて彼を引き留めた。 「待って。せめて、名前だけでも……」 「最初に名乗った通り、僕は君のヒーローだよ。ヒーローは自分の本当の名を名のならないものさ」  礼は背を向けたままそう告げると、扉の奥へと姿を消す。  彼女は茫然と、しかしどこか幸せそうな顔で、彼の消えた扉を見ていた。
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