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 都内の路地裏に『黒猫カフェ』というこじんまりとした知る人ぞ知る隠れ家的カフェがあった。そのカフェは、都会の喧騒を避けるように今日もひっそりと営業している。黒猫カフェの店主は意外にも若い男性。何にも染まらない艶のある黒髪に細身の体。たまに見せる笑顔はいたずらだ。  そんなカフェの若き主人は午後八時に店を閉めると、どこかへ出かけていく。すると、カフェの裏側から小さな客人が現れた。路地裏に出ると、サラリーマン二人組の横を軽やかに歩き、渡り切った後は歩くのに疲れたのか室外機の上で体を丸めてふて寝している。にやりと口角上げる表情はまるで、彼のよくするいたずらの笑顔のようだった。月の光の瞳に、深夜の空を覆う黒色の毛は、怪しく、妖艶に路地裏で佇む。  毎晩深夜になると現れる黒猫は、カフェの主人だった。  日中は黒猫カフェの店主として働き、深夜になると本来の姿で路地裏を練り歩く。  人と黒猫の二つの姿を持つ化け猫の可笑しな日常の物語。 『黒猫カフェ』 第一話   現在、午後三時。都内の大学に通う《九重鷺那|ここのえさぎな》は授業終了後の帰り道途中、本一冊を片手に人気があまりない場所をぶらぶらと散歩するのが好きだった。今日もなんとなく都会にしては寂しく思える道を無心でたどっていた。過ごしやすい天気の今日は散歩にうってつけだ。日差しは強くなく、青空が鮮やかだ。心も軽やかになる。ふと左手にある路地裏を見つけるとその方向へ進路を変え、薄暗くひっそりとした雰囲気を物珍しく見渡す。二、三本通りを横切った先の突き当りにあったのは意外にも趣のある、こじんまりとしたカフェだった。  店の名前は『黒猫カフェ』。黒猫のシルエットをかたどった影絵のイラストと猫のしっぽのような曲線が特徴のフォントで店の名前が地面に置かれた二面看板に記されている。読書好きな彼はよくカフェ巡りも暇なときにしたりするが、『黒猫カフェ』というカフェは知らないし聞いたこともない。なんとなく散歩をしていたとはいえ、無意識に入った薄暗い路地裏に少し不安を覚えるが、入り口のガラスからはすでに店内にいる客の姿が見える。大学からそこまで離れている場所ではないし、もう先に来店したお客もいるから見ず知らずでも大丈夫だろうと彼はやっと黒猫カフェの入口の扉に手をかけた。入った先は懐かしさを感じるシックな空間。明かりは橙色の電球が使われ、優しく客を包み込む。 「いらっしゃい」  予想より平成以前のカフェの内装・雰囲気と似ていて驚いていた僕に、肩の力が抜けるような低くゆったりとした声が掛けられる。 声の方へ視線を向けると僕と同い年くらいの青年が笑いかけてくれた。何にも染まらそうなほど黒く艶のある短髪に陶器のような白く透明な肌、細身で白いシャツに髪の色と同じ色のエプロンを身に着けている。やわらかい表情にある切れ目のキャビアの瞳が僕をまっすぐ見つめている。 急に声をかけられたので僕は慌ててしまい言葉の代わりにお辞儀をして、座る席を探そうと店内の奥の方に行こうとした。 「迷っているなら、ここに座りませんか?」  店員と思われる青年は自分の目の前にあるカウンターを手の指をそろえて指し示し、カウンター席を僕に勧めてくれた。この時の表情も印象のいい笑顔で、僕はその提案を受け入れ勧められた通りに青年の前まで移動し、カウンター席でこのカフェでのひと時を過ごすことにした。  まさか初めて来たカフェでこんなにも話しかけられるとは思わなかった。僕は読書をするのに相性のいい場所というのは、自分の家の中と落ち着きのある雰囲気のカフェだと思っている。なので、ここら辺なら数十件のカフェを訪れたことがある。カフェといっても様々な個性のあるお店が存在する。それでも、ある程度傾向というか共通する部分が出てくる。僕の記憶上、カフェを営む方は気さくな店主の方もいるが、だいたいはお客さんの邪魔にならないようほとんど言葉を発することはなく口を閉ざしていることが多かった。訪れるお客さんの中には日頃の都会特有の音から逃げたくて来店している人も数多くいる。それに、カフェを利用するお客さんは誰しも集中して『自分の時間』を使いたい人たちだ。勉強も読書も、珈琲一杯を飲むだけの時間も、理由は同じだ。話しかけられることが悪いことでも嫌でもないのだが、なかなか経験が少ないので珍しいと思った。 「ご注文はいかがなさいますか?」  やわらかい表情を保ったまま、店員の青年は僕の注文を取る。僕は初めて来店したカフェに来たら、頼むものはあらかじめ決まっている。間髪入れずにすぐ伝える。 「じゃあ、オリジナルの普通の珈琲ください」 「はい。かしこまりました。少々お待ちください」  僕からの注文を受けて、店員の青年は背を向けてミルで細かくした珈琲豆にお湯を注ぎ、ドリップをする。湯気が見えると同時にコーヒー豆の芳醇な香りが鼻に入り、贅沢な感覚に魅了される。そうそう、これこれ。内心、待ってましたと喜ぶ。数分後、珈琲が完成し、カウンターに白いコーヒーカップが置かれる。出来立ての珈琲は見るだけで心が温まり、安心感が得られる。僕のために入れられたこの店自慢であろうオリジナルの普通の珈琲はとても見た目がよく、色も香りもよさそうだ。 「いただきます」 「はい。どうぞ」  お手並み拝見という気持ちでゆっくりと味わうように飲んだ。音を立てずにコーヒーカップをソーサーに置いて、僕はまだ残ったコーヒーを見つめた。  美味しい。苦みが強めで少し酸味もある珈琲だ。しかし、程よいコクがあり、じんわりと口の中を広がっていく。アクセントの酸味が後味を爽やかに演出している。とろけるようなコクがあることによって、苦みが強くても飲みやすい珈琲に仕上がっている。それでも好みは分かれるが、何回か飲めば慣れそうな気がする。いずれかその味に惚れてしまいそうな魅力がある一杯だ。これまでに訪れた他の店とはかぶらない個性があって、やっぱりオリジナルの珈琲を一番最初に頼んでよかったと幸せを得た。 「ありがとうございます」  どうやら味の感想が聞こえていたようで目を丸くしてしまった。まさか声に出ていたとは……。自分の心の内が聞こえてしまって恥ずかしい気持ちと店員の青年に感謝されたことの嬉しい気持ちが混ざって、あははと誤魔化すように笑った。店員も笑い返してくれた。和やかな空気が流れる。僕はまだ恥ずかしいままだけど、いいか。あまりみんなは好きじゃないかもしれないけれど、カフェの主人とかと話せるのはいいな。こうやって何回かのやり取りでも、手をかけてこだわって珈琲を提供してくれているのが分かるから。この一杯の珈琲にいろんな思いを込めいているのがとても伝わってくるから。お店の人の前でコーヒーを楽しむことは初めてで緊張するが、とてもいい気分だ。好きなものを共有できて嬉しいからなのだろう。カウンター席に座るのも案外いい席だな。 「普段から珈琲はよく飲まれるんですか?」 「え…あ、はい。カフェはよく行きますから」 「そうなんですか。いつもそのお店のオリジナルの珈琲を?」 「そうです。どれを選ぶか迷いますし、やっぱりせっかくですからお店のこだわりの珈琲をいただきたいと思って。お店によって、かなり違うので」 「へぇ…。なかなか通なんですね。珈琲をお好きでいらっしゃる」 「いやいや、通なんかじゃないですよ。お店のこだわりの珈琲を飲みたいだけです」 「通というよりは、とても珈琲がお好きなんだと思いまして。幸せそうに一杯を楽しんでいらっしゃる。そんな顔を見られるとこちらもとても幸せな気分になりますし、励みになりますよ」 「いや…! 僕もとても美味しい珈琲を飲めて嬉しいです。ありがとうございます」 「いいえ。こちらこそ、ありがとうございます」  気さくな店員と会話が続き、お互いに笑みがこぼれる。店員が意外と僕に話しかけてくれて、一人で来ているのを忘れてしましそうだ。この店員さんは積極的に会話をするタイプなのかな。優しい笑顔で話題を振ってきてくれる。実は以前からカフェの人と話をしてみたいと思っていた僕はそれを緊張しながら受け答えしていた。珈琲好きなのが飲んでいるだけで分かるだなんて流石だな。なんだか認められたみたいで嬉しいな。カウンター席ならではの過ごし方を満喫し、僕はカフェの魅力をまた発見し取りつかれた。先ほどの会話からしばらく経ち、珈琲カップの中身もあと半分というところに店員はまた話しかけてくれる。 「普段はどんなご用でカフェに来られるんですか?」 「そうですね…。コーヒーが好きで来ているのもありますが、僕は読書が好きで、落ち着いた雰囲気のカフェで読むのが好きなんです。だいたいは本を読みに来ています」 「そうですか。今日も読書のために来られたんですね」 「今日は行ったことのないカフェを探してて、たまたま来ました。なので、珈琲がメインですかね」 「そうでしたか。ここを見つけられるとはすごいですね。奥まったところにあるのでお客さんは常連さんがほとんどなんです。来店されたときは少し驚きました。まあ、意外と迷い込んで来られる方も多いですから、そんなに珍しくもないですが」  確かに午後でも客は少なめで空席が多い。路地裏でも都会なので仕事で忙しい人ばかりなのもありそうだが目立って少ない。でも、そこがこの店のいいところにも思える。人が少なくて、他人の時間を気にせずに自分の時間をより楽しめるから。それに、時代が変わっても昔ながらの趣を大切にする店内が僕はとても好きだ。椅子もテーブルもこだわっているんだろうな。年季が入って、削れて擦れて汚れてもメンテナンスをして一つの物を長く使い続ける。そして今、僕の近くに置かれている。人々に寄り添っている。それってとても素敵だと思う。本みたいで、愛着がある。とても、いい存在だ。  でも、それは僕だけかもしれない。 「どうかされましたか」 「…へ?」 「ああ、すいません。どうやらお悩みのように見えたもので…失礼しました」 「いやいや、悩んでるってことでもないんですけど…」 「お話を聞くのは好きですから、よかったらお聞かせください」 「え? そうですか? うーん…。じゃあ、少しだけ聞いていてくれますか」 「はい」  今日会ったばかりの人にこんな話をすると「そんなことで悩んでいたのか」と言われてしまいそうだけれど、きっと店員さんなら大丈夫だろう。僕の様子を察して話しかけてくれているように思えた。客に対して細やかな気遣いができる人は僕のことを笑ったりしないと思う。ちょっとだけ勇気を使って僕はいろいろ話してみようと決めた。 「僕、同じ好きなことを持っている人がいないんです」 ◇ 「同じ好きなことを持っている人がいないというのは?」 「同じ趣味を持つ人が周りにいないんです」  クラシック音楽のBGMが流れる店内で、上品な空気に似合わない小さい悩み事を口にした。  言い方が多少おかしな表現になってしまったが、僕にとってはこれが一番しっくりくる。  店員は僕の言葉をかみ砕いてこう返した。 「つまり、同じ趣味を持つ方がいないということでしょうか」 「そうなんです。同世代で本好きの人ってなかなかいなくて…。いなくても大丈夫なんですけど、なんか、なんだか寂しいなぁと思ってしまって」  僕が本を好んで読んでいるのは幼い頃からで、小学生の時にはすでに読書家少年だった。周りの同級生は戦隊物やゲームに夢中なのを見て興味の違いにはとっくに気づいていたが特に何も思わなかった。中学生、高校生になっても僕といわゆる世間の興味は重なることはなく、本から得た知識と国語力が身について、月日がたった。大学生になる前、僕は心を躍らせていた。きっと、本について語れる人が必ずいるだろうと。大学生になったら、勉強熱心な人が集まっている場所というイメージだったので、みんな愛読書くらいはあるだろうと踏んでいた。だって、勉強こそ本から学びえるものだと僕の中で決まり切っていたから。本が好きな人たちと大勢出会えるんだろうと期待していた僕はその反動でようやく寂しさを感じ始めていた。ここが今だ。 「そうですかね? あまりいらっしゃらないかとは思いますが、探していればおられるはずかと…」 「僕もそう思ってたんですけど、いなかったんですよね…予想以上に」 「大学なら、サークルなどは…?」 「それもありませんでした。僕も期待してたんですけど」 入学してから大量のサークル紹介のチラシは受け取ったけど、いくら見返しても本や読書に関するサークルは存在しなかった。これで、すべての僕の期待は打ち砕かれた。 「そうですか…そこまでしてなかったのなら、その大学にはなかったんでしょうね」  店員も悲しい顔をした。やっぱり、世間が思っているよりも本が好きな人はいなくなってしまっているんだ。そのことに、また寂しさを感じてならない。どうしてなんだろうか。ここまでになってしまったのは。昔の人は誰だって、よく本を読んでいたのに。時代の変化ってそんなに大きいものなのか。僕がとても好きな本を脇役にすら、させないほど。 「でも、このままでいたくないんですよね?」 「え?」  店員のお門違いのような言葉に思わず聞き返す。 「探しても探してもどこにもいなかったけれど、やっぱり本が好きな人、読書家の人、自分と同じ好きなものを持っている人と出会いたいんですよね?」  首をかしげて僕に尋ねる店員が先ほどとは別人に見えるのは、僕が弱気になっているからなのか。それとも、本音を暴かれたと思ったのか。でも、雰囲気が一気に変わった気がする。やわらかく穏やかな人柄から、思考が読めないミステリアスな謎の紳士へ、様変わりしたような。気さくで大人しい店員の雰囲気の変化に動揺するが、ずっと見つめられているので答えなければ。見つめられていると、どうしても不気味なオーラがあると錯覚する。 「そ、そうですね…たぶん」  なぜかほんのちょっと怯えながら僕は店員の方を見ると、店員はふわっと笑う。 「そうですよね。だから、寂しく思われるんでしょう。本当にお好きなのが珈琲と同じで伝わってきますから」  幻覚から解放されたようにさっきの不気味さはなくなり、自分を疑いたくなる。笑顔で迎えてくれた表情が今そこにあるのに、わけのわからないことを思うなんて。 やっぱりそんなはずないな。店員さんは優しい人だ。変なオーラとか性格は変わらないよ。何が見えていたんだろう、僕は…。 「そうですかね…! いつも小説の新刊や話題作、文学賞の受賞作や作家さんのインタビューは専門雑誌を毎月買ってチェックしてますから、それなりに好きですし、詳しいとは思ってます」 「専門雑誌も買われてるんですね。やはり情報収集は欠かせませんか」 「そうですね。さっき言った情報もそうですけど、文学賞の受賞作が読めたりもするので必ず買ってます」 「え、受賞作読めるんですか? その本を買わなくても?」 「実はそうなんですよ。文学賞の受賞作なので毎回掲載されてはいませんが…読めますよ」 「へぇ~、それはいいですね! 今、注目されている新作の小説が読めるのは。 意外と知らない人、多いんじゃないですか?」 「そうなんですよ! 本が好きな人はみんな知ってますけど、それ以外の人は知らないんです! こんなにも簡単にあの小説が読めるのに…もったいないですよ!!」  内に秘めていた気持ちを爆発させてしまい、声を張ってしまった。しかし、申し訳ない気持ちはなかった。 「せっかく気軽に読める方法があるのに、それを見逃してしまっているのは惜しいですよね」 「その通りです! 本当、みんな知らないだけなんです…」  勝手に盛り上がって、静かなカフェの店内なのに体力を短時間に使った僕はカウンターに突っ伏した。頭が冷えてきて、そういえば他のお客さんもいるんだから静かにしていないといけないことを思い出し、一人こっぱずかしく顔を赤くした。 「大丈夫ですよ。今は常連さんしかいませんから」  僕の筒抜けの心情を店員さんは華麗にカバーしてくれて、とても助かった。本当にすいません…。  まだ顔の赤みが引かない僕とそれを気にしないでくれている店員さんはしばらくの時間、本について会話を交わした。本の魅力や最近好きな作家さんの話、小説が一番読むこと、よく本屋に通い文学賞の受賞作は必ず読んでいること。幼い頃に本について友達との会話で話題にしたことがあったが興味を持たれなかったこと、同じ本が好きな人がいなくてもよかったけど本を避ける・嫌う人が多くいると知ったこと、本が好きな自分を物珍しく思われることがしばしばあったことなど、以前から周りには隠していた本心を話した。はっきり言って僕のわがままを吐き出した。だって、仕方ない。僕にはこんなこと言ってスルーされる話題を言える人はいなかった。わざわざ親に言うようなことでもないし、こんなことで悩んでるなんて知られたくない。 「二か月前までは『そんなに僕の趣味は変わってるのか?』と自問自答するくらい悩んでました。でも、時間が解決してくれて今は大して気にしてはいないですけど、どうしても心の隅で引っかかるんです」 「どうしてそんなに本が好きじゃないんだろう? ドラマ化や映画化がたくさんされていて、誰もが知っている作品もあるのに、高い評価を得ているのに。いい作品は世の中に溢れかえっているのに。どうしたら本を好きになってもらえる? みんなと何が違う?」  一口にもならないコーヒーカップに残っている珈琲を見つめながら純粋な疑問をこぼした。ずっと、僕の中にあって、僕とともに育っていった疑問だ。こんなこと言うとおかしいが、付き合いは長いと思う。  他人のことが分からなかった。本を毛嫌いする人のことが。何も読まないで、本を無視をし続ける人たちのことが。  もちろんその人も僕のことは分からなかっただろうけど、でも、なんか、違うと思う。その人と僕は同じ立場じゃない。  何もしていない人たちと一緒にされたくない。その嫌悪感に似た強い感情が、譲れないくらい固かった。  大学生になった今でも、全く理解できていない。どうして、とひたすら思うだけ。心で唱えるだけで。 「どうしてなんだろう…」  誰にも聞こえないくらい弱々しい声量で呟いた。  おそらく、今まで悩まなかったのは、「もう少し大きくなったら、同じ趣味の人と出会える」とか「大人になったら分かるんだろう」と思ってたからなんじゃないかと思う。時が経つにつれ、解決されることなんだと思ってたんだ。だから、解決策を見つけようとしなかった。時間の経過に身を任せて、本を読み続けていた。  でも、違った。そんな未来は来なかった。誰も悪いわけじゃないけど、傷つけられた気分だった。  どうしたらいいんだろうか。何を求めていたのかもわからなくて、何も見つけられない。 「もう飲み終わってたんですね。気づかなくて、すみません。ちょうどいいタイミングですし、珈琲をもう一杯いかがですか? サービスしますから」  落ち込み気味な僕に店員さんは無料で最初に頼んだ珈琲と同じものを一杯淹れてくれた。慎重に腕を動かし、魔法をかけるように丁寧に珈琲をに淹れていた。芳醇な香りが僕の心を温めて、口に運べば、特徴の一つである深いコクが暗い感情を溶かしてくれる。カウンターを挟んで立つ店員の彼はなんだか本棚みたいだ。そこにあるのはきちんとわかっているけれど、存在が空間に溶けていて一体化している。見えるけど、見えない何か良さがあるような気がする。  そんな彼へお礼にやっぱり美味しいですねと言うと、ありがとうございますと口角を上げていた。 「はぁ…どうしてなんだろう」  店員さんの気遣いもよそに、僕はまた同じことを繰り返す。どうしてもわからない。どうして、という言葉だけが反逆する。  せっかく心が回復したのに逆戻りになりかけた時、店員さんの声がやけに響いた。 「あの、お名前聞かせてもらっていいですか?」  不意に投げられた質問に、はいと僕は答えた。今、自分がいるのか掴めない、宇宙のような浮遊感がある。 「九重鷺那です」  そういえば、こんなに話を聞いてもらっていたのにまだ名乗っていなかった。礼儀もできないなんて駄目だな。気を付けないと。 「ここのえ君…」  そう僕の名字を確認すると、伏し目がちだった切れ目がしっかりと開いて僕を捉える。 「九重君、実は僕は敬語が苦手でね。ここからは、年齢近いみたいだし、普段の僕の感じで話してもいいかな?」  僕は突然のラフなしゃべり方に驚かされたが黙って頷く。 「じゃあ、僕も自己紹介をしよう。僕は《清川蛍|きよかわほたる》。ここ、黒猫カフェの店主だよ。よろしくね」  別人に見えたあの時が嘘じゃなかったとハッとさせられ、彼の雰囲気に飲まれそうなほど不思議なオーラが漂っていた。優しい印象は揺らいでないのに何でこんなに違和感を感じるんだろう。  実は店主だった彼のしようとしていることが、考えていることが、何一つ予想できなかった。  僕は謎の緊張感に襲われて、彼の次の言葉を待った。 ◇  暖色電球の明かりに包まれるこの空間に似つかわしくないように思えてしまった。  突然店員の彼に名前を尋ねられて答えただけ、きっかけはそれだけのはずだ。なのに、店主であった彼の眼は僕の内面をすべて暴いてしまおうと語る目だ。僕の勘違いなら何も言えないが、彼の変わりようは鳥肌が立ちそうなくらい僕を驚愕させた。でも、怖いとは思わないのが不思議だ。優しい青年から謎の紳士に姿を変えたのに、マイナスな印象を受けないとは。謎の紳士は完全なる僕のイメージに基づいてだが、なんていうんだろうか、僕よりも多くのことを知っていて、何事も動じずさらりと避ける冷静さと器の広さを持ち合わせている。大人の中の大人のイメージが強く植え付けて抜けない。そして、こちらをきちんと視界に入れ、微笑んでいる。本当に不思議という言葉がしっくりくる人だ。  どうしたんだろう。急に喋り方も変えて、表情も一枚剥がしたように異なる。声も若干低くなっているような…。もしかして怒っているのかもしれない。理由は限られている。  僕の話が長かっただろうか。長時間付き合わせたのでしびれを切らしてしまったか。それとも内容がよくなかったか。確かに「共通の趣味を持つ人がいない」というなんてことない悩みだし、呆れられるのも面倒がられるのも仕方のない。でも、もとはというと彼がカウンター席に僕を招いたし、話を聞かせてくれと言っていたし、サービスするからと落ち着かせてくれた。僕はその言葉に甘えていただけだ。散々聞いてもらったのに悪いが、僕に非はないと考える。もし、断りずらかったなら、僕のせいだ。 「急にこんなこと言ったのは君の話が長かったとか、内容が大したことなかったと思ったからじゃないから安心して。ただ、君の悩みについて僕自身の言葉で、僕自身の意見を言わせてもらいたいと思ったんだ。そうなると、敬語だとなんだか変というか落ち着かないし、君と話すのは心地がいいと感じたからタメ口で話したかっただけなんだ。ごめんね、驚かせちゃって。初めて来たのに駄目だよね」  またまた僕の考えていることを読んで謝ってくれた彼はエスパーなのか問いたくなったが、雰囲気が変わっても優しく気の使える性格は同じなんだとほっとした。彼は素を出しただけで、別に二重人格やら葉っぱで化けたわけでもないんだ。店主としてではなく、一人の人間として、僕の悩みに真剣に考えてくれてるんだ。答えようにしてくれているんだ。こんなちっぽけな悩みを自分のことのように思ってくれるいい人なんだ。 「いいえ! そんなことないです! 僕の大したことない悩みにこんなに向き合ってくださって本当にありがたいです! まぁ、少し驚きましたけど…僕のことを考えてくれていて嬉しいです」 「そうかな…なら、いいんだけど」 「はい、大丈夫です! 気にしなくていいので、どうぞ、清川さんの意見、聞かせてください」 「じゃあ、言わせてもらおうかな。と言っても、役に立つような素晴らしい意見じゃないけど」  僕の様子を見て、困らせてなかったと不安がなくなった清川さんは店員側のカウンターに両腕をクロスして置き、珈琲に語りかけるみたいに話し始めた。 「確かに今の時代、本が好き・読書が好きな人は少ないよね。特に九重君のくらいの若い年齢の人は特に。自我が生まれた時から電子機器という人類の知恵が詰まった道具が定着してたからね。それが当たり前の時代に生まれてきたんだから仕方ないよ。でも、変えられないことだと、おかしくないことだと分かっていても自分だけ好みが違うのは不安になるよね」  心地よい響きながらも冷静で知的な意見を清川さんは述べてくれている。しっかり僕の思いにも寄り添って話してくれているので、冷静な意見もすんなりと受け入れられる。やっぱりとても大人で何事も動揺しない人だ。 僕と視線を交わすことなく、清川さんは言葉を連ねる。 「別に誰かと似たような人間になりたいわけじゃないけど、同じことがあるって自分一人じゃないし、他の人とも話が合うし、単純に嬉しい。その嬉しいがみんなと同じことを好きになると何倍もの嬉しいになって、幸せだと感じるまでになるんだ。どうしても人間は一人だと寂しいと思うものだ。それを欲するのは当然だよ。何も間違っちゃいない。でも、僕は好きなものがあるだけいいと思うよ」 「あの、すいません。好きなものがあるだけいいってどういうことですか…?」 「いいよ、そんなに控えめにしなくて。質問があればどんどん言ってよ。だって、これはただの僕の意見だから。えっと、どういうことかというと」  意見を話している途中で邪魔を入れてしまったが、そんな僕を大したことないと許してくれる清川さん。先ほどとは違い、僕の方を見て説明をしてくれる。熱い珈琲を飲みながら、聞き耳を立てる。 「例えばさ、この世の中の人はだいたいの人が趣味を持っていると思うんだけど、中には当然趣味がない人もいる。趣味のある・ないでどうこう言うつもりはないけど、ない人よりある人の方がいいと思うんだ。だって、趣味のない人は休日何をしたらいいのか困っちゃう。ストレス発散したいけど大した趣味がなくて辛いって思っている人も多い。そう言って探してみるけど、なかなか自分に合った趣味は見つからないらしい。不思議に見えると思うけどね。それに比べたらマシなんじゃない? 好きなことがあるだけで君の人生、輝いているだろう? なら、それでいいじゃないか。自分を幸せにしてくれるものに出会えたことは素晴らしいことなんだからさ」  確かに自分に趣味がない人だったら休日何をするんだろうと考えてみると、何をしたらいいのか分からないかもしれない。せっかくの有意義な時間を持て余して、むしろ自由な時間が嫌いになってしまうかもな。そのために用事やら詰め込んでしまいそうだ。真っ白な紙みたいに何も彩のない生活を送ることになりそうだ。暇な時間は悪いことじゃないと思う。でも、あまりにも多いと気が滅入ってしまう。家の中に何かないかと探しつくして、結局空っぽで休日を終える。それはとても虚しい。精神的に安らぎたいときは本当に辛いと思うだろう。誰かと一緒にいること以外で休みたいときもある。一人でいたいけど、何か自分を癒してほしい。でも、何も助けてくれない。自分に悲しさと虚しさが積もっていく。空虚な気持ちになる。本が好きな人がいないよりも寂しいことだ。趣味がない人のことに目が向かなかったから、知らなかった世界だ。思い出せば、僕はいつも本に救われていた。迷っているときも、いやな気持に染まっているときも、本を読んで冷静な自分を取り戻していた。  今回のこともそうだ。悩んでいてもしょうがないから、とりあえずこの前買った新刊の小説を読み進めていた。すでに僕は本に救われていた。趣味に助けられていたのだ。僕は趣味のある人の恩恵を受け続けて今日まで来たんだ。  ああ、なんだか納得した。すっきりした。風も吹いてないのに清々しい気分だ。 「もしかしたら、ここまで言ってもどうしても納得しないかもしれない。自分だけおかしいとか、自分だけ異質な人間なんじゃないかって不満が募っていく。勝手に普通の範囲から取り除かれた気分になって」  時々僕の表情を気にして話すスピードを調節しているように見えた。気にしなくていいといったのに清川さんは僕のことを一番に優先している。本当に優しい人だな。こんなに時間をかけてくれて感謝しかない。そして、悪い部分も隠さず指摘してくれる。人間悪い部分を持っていることを肯定しているからこそだろうな。悪いことじゃないと。  清川さんの言うとおり、僕は勝手に普通から追い出された気分でいたと思う。僕は何もおかしい人間ではないのに「変な奴」と指を差されていると。興味の違いで仲間外れにされた子供になっていた。だって、そう思うだろう。本の話をする度に顔をしかめる友人の顔を何回も見れば。やみくもに本の話題を避けられていれば。誰だってそうなるに違いない。僕は好きなものを無視されるのが嫌なだけだったんだ。でも、そのままじゃ、駄目なんだ。 「なら、広めればいい。みんなにも好きになってもらえるように君自分が動くしかないよ。止まっている人に変化はない。不安になることはない。大丈夫だよ。同じ人間だから、良さは伝わるはずさ」  そう言って清川さんは僕に笑いかけて、元気を送ってくれた。頑張って、と背中を押すように。  この世界にあえて声に出されない応援をもらった僕は、それに応えるように笑い返してみせる。 「その通りですね。自分から動くしかないですよね、何事も。ずっと待っていても変わらない」 「そうそう。何かをするのは勇気がいるけど、どうにかなるよ」  他人にはちっぽけだけど僕にはたいそうな悩みが解決し、晴れやかな表情をした僕を見て清川さんはずいぶん嬉しそうな顔をした。  そうか。こんな簡単なことでよかったんだ。考えるのは、見つめるのは内側の感情じゃなくて、周りをどう変えるかだったんだ。  話が終点に着き、今は何時だろうと店内のレトロな壁掛け時計を見つけると、もう十六時を回っていた。一時間もこの話をしてたのか。 「もうこんな時間ですね」 「すみません…!僕の個人的な悩みに時間を取らせてしまって」 「いいんだよ、気にしなくて。ここはカフェだから。のんびり雑談をする場所だよ。むしろ、僕が長々と偉そうに意見してしまったのは悪いなって」 「いやいや、僕が発端なんで! 清川さんは悪くないです。すごく参考になりました」 「そっか。なら、よかったよ」  そろそろ帰らないといけないと思い、カウンター席の椅子から降りると、清川さんは僕の飲み切ったコーヒーカップを片付けてキッチンへ運び、店から出ていく僕をじっと待っていた。そして、出ていく際に声をかける。 「ありがとうございました。ぜひ、またお越しください」 「ありがとうございました!! たくさん話を聞いてくれて。また来ます!!」  こうして僕は悩みや重いもの、いくら考えてもどうしようもないことは全部捨てて明日へ歩き出した。  黒猫カフェの店主の笑顔を思い返して、僕は一人空に向かって笑ってみた。  清川は出て行ったときの九重は顔つきが変わった気がして、洗い終わったコーヒーカップを手に、客に見えないようにくすりといたずらな笑みをした。 ◆  午後二十一時。  すっかり辺りは暗くなり、路地裏であるここはより夜が深まったように感じる。小さな飲み屋も近くにあるので陽気に酔ったサラリーマンがちらほらと見受けられる。チラシなど散らかっている通りを千鳥足で歩く彼らはまぶしい光の方へ消えていった。だから人通りが多いとは言えない、この程よい人々の声があちらこちら聞こえてくる路地裏にビルの隙間から一つの影が現れる。その影は路地裏へ出ると軽い足の運びで反対側へ移動し、目当てのビルの室外機を踏み台にして勢いそのまま一気に屋上まで登り切った。ビルの屋上からの景色は東京の夜を一望でき、夜の闇に負けない街灯の輝きが瞬く星のように美しい。影は目的地にこれたことに満足したのか、その場で座り込み、今宵の主役である神々しい満月の月を見上げていた。 『今日も面白い話が聞けたな』  影はけして相手を馬鹿にしているわけではない。興味として、そんなことを思うのかと今日を振り返っていただけなのだ。 『彼は本当にいい人だ。純粋な気持ちが強い。だから、あそこまで抑え込んで、僕が話を聞いたら溢れ出ちゃんたんだ』  もう少し気楽な性格なら、悩みが解決してなくても誰かに明るく話しているだろう。それか、新たな道を自分で見つけている。でも、彼はそれができなかった。いい人である故。真面目な故。 『でも、背中を押してあげれば大丈夫。一番強くて諦めない人になるんだろうな』  真面目だから、やることが定まれば一番強い。だって、真面目な人は努力ができる人だから。目標に向かって走り続け、けしてぶれない人だから。 『きっと上手くいく。そう願おう』  丸めていた背中をぴんと伸ばし、月を真ん前に影は尻尾を揺らした。願いを放つように数秒、月を眺めた後、屋上から立ち去り、路地裏の闇に溶け込んでいなくなった。 ◇  九重の来店から一週間後。  午後三時。今日はとてもいい晴れの日で黒猫カフェの客の入りも幾分よかった。暖かい気温もあって、アイスコーヒーや冷たいデザートの注文が多く入った。黒猫カフェの店主の清川は手を冷やされて困るなと嬉しい反面、困り顔を浮かべた。今日も通常に黒猫カフェは営業している。  いつも通り接客をしていると他の客に呼ばれて、すぐに向かう。注文を受けるため、テーブル席の客の声を聞き逃さないように集中してメモを取る。 「以上でよろしいですか」 「はい。大丈夫です」  注文のメモをエプロンのポケットにしまい、キッチンに行こうとしたとき、客のいる席のテーブルの上に気になるチラシが置いてあるのが見えた。 「それは何のチラシなんですか?」 「ああ、これですか。近くにある大学で学生が考えた企画をイベントとして開催するお祭りみたいなのがあるんだけど、本好きの学生が集まって本の魅力や古本市を開く企画があるらしくて歩いてたらもらったんです」 「へぇ、そうなんですか」 「すごく一生懸命配ってましたよ。最近本は人気がないから寂しいと思ってたので、特別本が好きなわけじゃないですけど、こういうのがあるとなんか嬉しいです」  はつらつとした笑顔で話す男性はそのイベントを心待ちにしているようだった。  それはいいイベントだと清川は同意する。 「特別好きではなくても、馴染み深いですもんね」 「ええ。最初は一人だけで、企画を作れるかどうかも危なかったらしいですけど、必死に声を掛けたら意外と集まって開催に至ったそうです。少し楽しみにしてます」  男性の話を聞いて清川はちょっとばかり誇らしい気持ちになっていたが、黒猫カフェの店主らしく、何も知らない、普通を装って返した。 「そうですか。いいですね、若い人は」 「いや、貴方もお若いでしょう。何を言ってらっしゃる」 「そうでもないですよ」 「そんな分かりきった嘘をおっしゃるなんて。私、困ってしまいますよ。貴方にそんなこと言われたら。どうしたらいいんですか」 「すみません」  冗談ぽく答えると、じゃあ、注文のものをよろしくと言われて、かしこまりましたと客席の通路を通りキッチンへ戻った。  先ほどの話を聞いて機嫌が良くなった清川は一段と珈琲を入れるのに気合を入れ、神経を注いだ。  今日も黒猫カフェはひっそりと営業している。  たどり着きづらい、 こじんまりとした路地裏で、優しく、時にいたずらで妖艶な雰囲気の青年が自慢の珈琲に思いを込めて来客を、貴方を静かに待っている。 「いらっしゃいませ。ご用事はここ、黒猫カフェでお間違えないですか?」
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