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 とある闇夜。  竹帛青史には残ることなく消え去ってしまう、だが、そこに居合わせた者たちにとっては生死の境、人生の岐路とも言うべき事件が起きていた。  金で雇われた私兵たちが夜陰に乗じて蠢き、相対する豪族の屋敷に向けて今、まさに弓を引き絞り、火矢を射ち込まんとしていた。  徐州下ヒ郡の外れ、とある豪族の屋敷。寝静まり、閉ざされた闇夜を切り裂く鋭い火矢の放たれる音!  兵士たちはどっとばかりに城壁に向けて突き進み、火矢を射られた屋敷では驚きの声が上がった。 「敵襲だ!」 「火を消せ!」 「応戦しろ!」  口々に命令が飛び交い、屋敷の中は混乱に支配された。  地方豪族同士の領有地や農民などを狙った諍い、それはかねてから両家のいがみ合いもあったのだろう、私兵同士をぶつける小競り合いといった形で噴出したのだ。  眠りに落ちていた夜半を狙ったその攻撃によって、守り手である屋敷の住人やその私兵たちは慌て、騒然としている。  燃え上がる炎、そこかしこで上がる怒号、剣戟の音、そして断末魔の叫び。攻め込んでくる兵士たちはまっすぐに頭首である初老の男を狙っている。護衛兵たちが善戦したものの、突然の夜襲の中では反撃もままならない、守り手はぐいぐいと押し込まれ、抑え込まれていく。  とうとう頭首である初老の主は負傷し、護衛兵に担ぎ上げられるようにして避難しようとしていた。 「父上、もう屋敷は持ちませぬ、どうか早くお逃げください!」と戦況を悟った長男が口にする。 「馬鹿者、ここを捨てて行けるものか!」と父親は怒鳴り返す。  しかしその言葉と同時に焼けて脆くなった梁が音を立てて落ちてきた。 「くぅ!」と彼は言葉にならぬ呻きを漏らす。  長男の言う通りだ、先祖代々この地を守ってきた屋敷は直に焼け落ちてしまうことだろう。以前から隣接する他家や、最近頻繁に跋扈する賊徒などを警戒して私兵を雇い入れていたのだが、その一部が裏切りを働いた。他家に通じて襲い掛かってきたのだ。  これはそれを見抜けなかった彼自身の落ち度と言える。言い淀んだ彼を見て、長男は更に続けた。 「順、父上をお守りして逃げろ!」  父親の肩を支えていた次男は、 「いいえ、兄上、わたくしもご一緒に……!」 「駄目だ!」と長男はきっぱりと応じた。「母上と妹たちも……」  次男は激しく首を振る。 「兄上、どうか、わたくしもお役に……!」  しかし兄の言葉は鋭く突きつけられた。 「足手纏だ!」 「うっ……」  弟は思わず唇を結んだ。同年代の若者に比べれば腕が立つといったところで、歳若い彼は兄にしてみればまだまだ未熟だ。それはわかってはいる。それでも…… 彼は更に口を開こうとした、が。 「坊ちゃま、お早く!」  間近に控えた爺やの言葉にようやく少年は頷いた。使用人たちにも彼はまだ子供として扱われているのだ。ここで言い募れば怪我をした父と、母や妹たちを危険に晒してしまう。 「……兄上、どうかお気をつけて……!」  ようやく聞き分けた弟に、兄はかすかに笑みを見せた。 「行け、必ず家族を守ってくれ……!」  折しも敵の本隊が屋敷の間近に迫っていた…… 還魂の章 1  何かが焦げる臭いがする。嫌な臭いだ、と老人は思った。  視線の向こう、林の切れ目に黒々とした煙が立ち昇っている、臭いはその方向からだ。彼は林のはるか上空からそれを眺めていた。彼を背に乗せた妖大烏は黒い翼を羽ばたかせながら空高く飛び、主である男を運んでいる。 「また賊が暴れておるのかのぉ?」と老人。「……最近、賊が増えたようじゃな」 「北方で不作が続いているようですね」と大烏が人語を返す。見た目は巨大な烏だが、その実、人よりも遥かに長く生きているその妖怪は、人語を操るのもうまかった。  久々に人間の住む外界に用事で出かけた帰り道、早々に帰宅して疲れを癒やしたかったのだが。やれやれと肩をすくめた老人は冗談めかした声音で、 「お前も腹が減ったか? 心なしかあの煙に近付いてはいないか?」とにやにやと笑みを見せる。 「バレましたか」と烏は応じた。 「仕方ないのぉ、ちょっと寄ってみるとするか」と烏の背に乗った老人は言った。「生きている者がいたら啄むなよ?」 「心得ております」  大烏はその主と契約した時に、生きた人間は食べないと約束していた。その代わり、骸であれば主は何も言わない。大烏は俄に羽ばたきを早くすると、煙の上がる方向に向けて飛んで行った。  彼らは上空から眺めやり、その有様を目の当たりにした。  どうやら賊が暴れたのではなさそうだ、豪族同士の小競り合いといったところだろうか、屋敷に火がかけられ、すっかり焼け落ちてしまっている。生き残っている者の姿は見えない。乱兵に荒らされてめぼしいものは既に略奪されている様子で、兵士の骸が折り重なるばかり。  大烏が着地すると主はその背から降り、辺りを見回した。 「これはまた、周到に攻められたようじゃの。どれ、一通り見て回るとするか。お前は屋敷の向こう側で好きにするが良い」 「はい」  烏の無表情な目が瞬間、らんらんと輝いたような気がした。主は烏の食生活には興味がない。さっさと背を向けると、崩れかけた屋敷の塀の中へと入っていった。  塀の内側はひどい有様だった。建物はすっかり焼け落ち、あるいは荒らされ、従者やその子供と思しき者に至るまで殺されている。女たちはもっと酷い扱いを受けており、目を覆いたくなった。家畜の姿も残ってはおらず、僅かに残った穀物の殻が足元に点々と落ち、盥や籠などが散乱している。  私兵らしき男たちの骸もそこここに打ち捨てられ、折られた棍は転がってはいるものの、刀などは見当たらない。おそらくは賊が持ち去った後なのだろう。炎の勢いの強かった場所には男とも女とも判別のつかない焦げた骸が、いまだ燻った煙を残していた。  彼は血に塗れた死体の近くを通り過ぎ、やれやれと肩を落とす。賊は念入りにとどめを刺して回った様子で、やはり生存者の姿はないようだ。 「やれやれ、ひどいものじゃ。奴の食事が終わったら退散するかのぉ」と言いつつ、焼け落ちた壁を回り込む、と……  足元に若い男の骸があった。その手には折られた槍棹が握られたままになっている。敵に対して防戦したのだろう、が、それもあえなく潰えたようだ。その若者の服装は多少乱れてはいたものの、かなり上質な物のようだ。屋敷の主か、あるいはその息子か。 「この屋敷の御曹司と言ったところかのう? さっさと逃げれば良かったのに、逃げ遅れたか? それとも孝を履き違えたかの?」  言いながら彼は手にしていた杖で若い男の骸を軽く突付いてみた。衣服の上からでも、その若者が武の鍛錬に明け暮れていたのが見て取れる、その体付きは研ぎ澄まされていた。敵はおそらく手こずったに違いない。その周囲に倒れている敵兵と思しき骸を見ても頷ける。しかし多勢に無勢、敵に囲まれて斃れたのだろう。死後硬直の始まってはいない骸には、まだ柔らかさと弾力が残っている。 「ほお? 生きのいい死体じゃのう」 「……」  驚いたことに、男はまだ完全に死んでいるとは言えなかった。体中に傷を負い、血に塗れているというのに、まだ微かに息がある。それはひとえに鍛え抜かれた肉体によるものだろう、だが、それも長くは持つまい。 「ううむ、持ち帰ったところで、生きてはいまいなあ……」と呟いてから、はた、と表情を変える。「鴉!」と彼は大烏を呼ばわった。 「これにおります」と羽ばたきの音を立て、慌てて大烏が飛んできた。その嘴には血がついている辺り、宴も酣だったのだろうが…… 「これを持ち帰るぞ」と死にかけの男を示した。  鴉は明らかに嫌そうに、 「はぁ、ですが、持ちますまい。途中で死にますよ?」 「構わぬ。使えぬようになったら、お前にくれてやる」 「そういうことでしたら」と鴉は背を低くして、主が骸を乗せやすくした。「ああ、でも、女の方がいいですね。若いのよりも、少しぽっちゃりした、子供を産んだことがあるような……」 「お前、年増好きか?」 「程よく脂が乗っているのですよ」と鴉は答えた。「子供を獲って食うのはまだガキの妖怪です」 「そんな講釈は垂れんでよろしい」と主は鴉の言葉を遮った。「帰るぞ」 「はい」  少々おしゃべりが過ぎたのかもしれない、大烏は思い、黙々と翼を広げた。彼の怪力は主と死にかけの若者の重さくらいでは、びくともしない。空へと飛び立ち、彼ら人外しか知らない間隙をすり抜け、やがて蓬莱の国へと至る。広大な林を飛んで抜けると、その片隅、古びた草庵の間近に降り立った。 「裏に運ぶぞ」と主は急かし、妖怪は慌てて人間の姿へと変化した。その方が手が使えて便利だからだ。彼は男を肩に担ぎ上げ、先を進んでいく主に続いた。  草庵の裏手には小さな洞があり、奥には氷室が設えてあった。進むにつれて、肌に当たる大気はひんやりと冷たくなっていく。奥に辿り着くと、彼は死にかけの男の体を台の上に横たえた。 「もうほとんど息がないようですが……」 「構わぬ」主は短く応えて、低く呪文を唱え始めた。  人型の妖怪は数歩下がると、その成り行きを見守った。
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