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還魂の章 2  鳥のさえずりが聞こえる。微かに鼻腔をくすぐるのは花の香だろうか。若者は薄目を開けると、その眩しさに驚いた。  まるで随分久し振りに陽の目を拝むかのように。 「……」 「気が付いたようじゃな?」と老人の声がした。若者はまだ朦朧として、その言葉の意味がよくわからなかった。 「……」 「まあ、仕方あるまいて。お主は二月ほど眠っておったのじゃ。どれ、以前のことを憶えておるかのう……?」  ようやく朧げながら焦点を結ぶようになったその視界に、老人が歩み寄ってくるのが見えた。老人は痩せており、髪や髭もすっかり白いものの、その表情は矍鑠とし、眼差しも鋭い。 「……」  若者はその老人をぼんやりと眺めながら、ぼそぼそと小声で何かを囁いた。興味津々の表情の老人が、その小声に首を傾げる。 「うん?」 「腹、減った……」  若者の食欲は凄まじかった。  弼の底を打ち破るほどの勢いで食べ進め、従者が次々と運んで来る皿を、ことごとく舐め尽くすように貪る。その食べっぷりに老人も従者も空いた口が塞がらなかった。  やがてその勢いに翳りが見えてきた頃、老人は呆れながら呟いた。 「二月ほど眠っておっただけあって、よく食べるのぉ……」 「全くで。弼が空になりました」と従者も応じた。  箸を休める暇もなく、若者は怪訝な顔をする。 「ふ、ふたつき……?」 「そうじゃ、二月」と老人が返す。「二月前、お主は一度死んだのじゃ」  若者は羹を啜りながら、 「死んだ者がメシを食えるか! 妙なことを言う爺だ!」と頓着せずに箸を動かす。 「やれやれ……」と老人は肩をすくめた。 「まあ、俄には信じ難いことでしょう」と後ろにいた従者が口を挟む。 「妖怪のお前に言われたくはないぞ、鴉」と老人は苦笑した。「まあ、よかろう。飯くらいゆっくりと食べさせてやるとするか」  言いながらも老人は少し楽しそうだ。鴉は主を見守りながら、良い玩具が出来たものだ、などと思う。若者はまだ脇目も振らず、皿を空けていく作業に勤しんでいる。  彼…… いや、それは正しくはなかった。老人と従者の目の前にいるのはどう見ても若い娘だ。しかし…… 「……まるであの娘が生き返ったようですね?」と小声で鴉が主に耳打ちした。 「うむむ、複雑じゃな。本来のあの娘であれば、もう少しは上品なことじゃろうて」と顎をしゃくって若者を示した。「まあ、あの美しい娘が、あたかも生きているかのように動くのを見るのは、なかなかに喜ばしいことじゃがな」  彼らが見守っているのは男……のはずだった、だが、その姿は男とは言えなかった。年の頃は十五、六歳ほどの娘、誰もが振り向くほどの美貌と言えた。その美少女が野獣のような勢いで食事を続けている。 「あの娘の骸を見つけた時に、あまりに美しく、気の毒に思えてのぉ。持ち帰り、氷室に収めておいたのじゃ。いずれ使い途があるじゃろうと思ってな……」  老人の吐露に鴉はちらりと視線を向ける。 「惚れる、とかいうアレですか?」  そう言葉にされてしまうと、老人は面食らってしまった。 「馬鹿者」と応じ、「この蓬莱に起居するようになってからは、そんな感情も湧かぬわい。……それよりもあの男、自分の姿にまだ気付いてはおらぬようじゃな?」 「はぁ」と鴉は気のない返事を返す。 「仮初の人型のお前にはわかりにくいかも知れぬが、人は慣れ親しんだ自分の姿が違えば、違和感を覚えるものじゃ。それがないということは……」 「何でしょう?」 「どうやらあの若者、還魂術が完全ではなかったのかも知れぬ」  還魂術、とは死んだものの魂を呼び戻し、肉体に入れ、生き返らせる術のことだ。肉体が毀れて死んだ男は魂を呼び戻され、繕われて保存されていた少女の肉体に移された。男としての肉体の記憶が残っていれば、目覚めたときに違和感を感じるはずなのだが。だからこそ、老人は目覚めてすぐの彼に記憶を確認しようとしたのだ。  しかし男は違和感を覚えているような様子がない。他人の、しかも性別も違う肉体に魂が入れられているというのに。違和感どころか、腹が減ったと言って飯を貪り、その肉体を自分の物のように動かし、満たしている。  その様を眺めながら老人はちらりと苦笑を浮かべた。 「……まあ、それでもあれだけ動いていれば、いきなり魂が抜け落ちて迷ってしまうこともあるまいが…… 術の途中で魂の一部が欠けてしまったのかもしれぬ。油断は禁物じゃな」  などと言っている間に若い娘の姿をした男は膳の上の物をすっかり平らげていた。そしておもむろに顔を上げると、何か問いたげな顔を老人に向ける。 「うん?」とようやく話ができると思い込んだ老人は、俄に表情を明るくした。 「厠はどこだ?」  やれやれ、と言いたいのを我慢して老人は部屋の奥の扉を示す。 「あっちじゃ」  若者は立ち上がるとすたすたと厠へと向かっていく。 「ひひひ、奴め、驚くぞ……!」  主のいやらしい笑顔に鴉は困ったような目を向ける。主は否定しているものの、大烏の妖怪である彼の目からすれば、主にはまだまだ色気がある。美少女の骸を惜しんで持ち帰り、修繕してみたり…… それもそのはず、主の道士としての専門のひとつには養生術としての房中術も含まれていた。  若者は用を済ませて厠から出てくると、そのまま奥の寝台へと歩み去っていく。老人は目を瞬き、 「お、おい……?」と声をかけた。  やはり肉体の違和感には気付いていない様子だ。 「どうじゃ? 厠で何か気付かなかったのか? ……おい?」  老人は動揺しつつ若者に歩み寄っていく、が…… 「もう眠っておいでのようですね?」と鴉が言った。  彼は仰向けに倒れ込んだまま、寝込んでしまった様子だ。 「……って、おい! まったく、イマドキの若い者は無感動じゃのう! 思春期少年が少女の肉体を得て、ときめかぬのかぁ? 儂の若い頃には……」 「ぐおおぉ……」  近くで老人が声を上げたのに対抗するかのように、少年が鼾をかき始めた。 「儂のお気に入りのその肉体で、下品な鼾なぞかくな!」  そんな主の背を見ながら、妖怪の従者はやれやれと苦笑を漏らした。
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