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 劉玄徳とその一味、いや、もとい配下の兵士たちはほとんどが幽州の出身者であり、彼らはそのまま公孫家に客将として仕えることとなった。とは言え公孫サンの学友である劉備はこまごまと優遇されているようだった。  生真面目な子龍は時折馬鹿騒ぎをする彼らとは交わらず、淡々と賊の討伐に明け暮れていた。  畑での収穫が最盛期を迎える頃、彼らは州南部の荒野にその陣を敷いていた。夜が深まり焚き火に兵士が集まる頃、宵の徒然に語るのは法螺まがいの戦功やら、人の噂話やら。いつの間にか話の流れで、彼らは玄徳の噂を話題にしていた。 「……いやぁ、主公の学友というから、どんな人物かと思っていたよ」と誰ともなしに口をついて出た。 「ああ、あの劉備とかいう人かい?」と子龍の隣で焚き火に当っていた子実。彼が苦笑交じりに枯れ枝で焚き木を突くと、ぱちぱちと俄に火の粉が舞い上がった。「噂によると侠の親分らしいけど……?」  彼らはちらちらと仲間と顔を見合わせた。少々疑わしく思っているようだ。 「主公といえば有名な盧子幹先生の門下だっただろう?」と兵士の一人が言った。「あの、なんというか、砕けた連中と主公が机を並べていたっていうのがねえ……」  誰ともなく、くすくすと鼻先で笑う声がする。誰も真に受けてはいない、彼らを単なるゴロツキと思い込んでいる様子だ。 「しかし他の隊の兵士の話では……」と焚き火にあたっていた兵士が言葉を挟む。「あの親分、アレでなかなか切れ者らしいぜ? 幽州の侠組織の頭領に収まって、闘犬なんかの博打の元締めになって、その儲けを主公に回して、それを元に主公もそれなりの役職を狙えたらしい、なんて聞いたが。だから頭が上がらないって……」 「なるほど、そいつぁ、頭が上がらなくなるよな」と兵士たちが頷いている。  子龍はそういった金を回して役職を云々するような話が、単なる噂に過ぎないとしても、あまり好きではなかった。 「さて、そろそろ歩哨の交代の時間だ。他の連中は体を休めておけ」と言いながら立ち上がった。  翌朝、伝令役の兵士が来ると、公孫サンの隊と合流するようにとの命令が下った。主は南東の戦線の視察に出ていたらしい。早速陣を払い、彼らは隊列を組んで合流地点へと急いだ。  丘陵地のそこここには忍び寄る秋の気配に立ち枯れた草が生え、馬の脚をくすぐる。藪を進み木立を抜けると、やがて灌木の向こうに主の隊らしきものが見えてきた。土の色、藪の緑、その中にまるで輝くかのように見える白馬の騎馬軍団、その兵士たちはよく鍛えられ、乗馬にも長けていた。その姿を見るだけで、異民族は畏れて逃げるという噂もあったほどに。  しかし反面、あまりにも目立ち過ぎるのだ。  子龍たちがその隊を見つけるよりも先に、他の者たちがそれを見つけ、忍び寄りつつあった、それは藪に身を潜めていた敵兵だ。主の隊はまだ敵が忍び寄ってくるのに気付いてはいない。起伏の陰で視界が届かないのだ。少し離れた、丘陵の上の子龍たちだからこそ気付いたようなものだ。 「子龍兄貴、伏兵が主公の隊に……!」子実の声に子龍は即、反応した。 「おう! 行くぞ!」と返すと、馬の尻を叩き、どっと走り始めた。  敵はまだ丘陵地の上にいる子龍隊に気付いてはいない。しかし彼ら自身にも、林に身を潜める敵の全容はまだわからない、公孫家の白馬を見つけて襲い掛かってくる辺り、おそらくは数での優位があると見たのだろう。  しばらく前の界橋での戦いの勝利以降、元より名家として名高かった袁家は力を付けてきており、協力する豪族も増え、兵士も充実している。対する公孫家はその一戦での敗北が裏目に出て、協力者も手を引いてしまった。伯珪が子龍を疑いの目で見つつも、兵力として頼らざるを得ないのはそのためだ。  ならばその疑念を払拭しようではないか。  伯珪の隊はようやく伏兵に気付き、隊を乱さずに移動し始めた。どうやら丘陵の高みを取るつもりらしい。対する袁家の兵士たちは次から次へと木立の陰から姿を現している。馬の蹄が上げる土埃に気付いたのか、敵も子龍たちを迎え打つ構えで兵士たちを展開し始めているのが見て取れた。 「急げ!」と彼は馬に鞭をくれ、配下の兵士たちにも檄を飛ばす。  敵兵たちは規律よく隊を展開し、その先鋒が既に伯珪たちに迫りつつあった。丘陵の高みを目指していた主の隊は敵に追い縋られ、その速さは鈍っている。速度の落ちた隊列に絡みつくように敵の歩兵が近付いていた。  子龍たちは更に馬を急がせたが、途中、敵の一団に阻まれてしまった。彼は槍を構え、馬を寄せてくる敵に突撃した。 「うおぉおお!」  怒号、そして馬の蹄の音、剣戟の鋭い金属音。すべての音が怒涛のように彼の周囲に充満する。 「兄貴!」と子実が呼ばわった。「ここは俺達が遮る、先に主公の元へ……!」 「助かる!」子龍は応じて自分の隊の兵士に合図した。「主公のもとへ行くぞ!」 「おう!」と兵士たちが呼応し、子龍に続いた。  子実は自分の隊の兵士たちを配置し、敵が従兄の隊に続かないように行く手を遮った。  子龍は従弟に対しては絶対の信頼があった。共に戦い、背を預けてきたのだ。配下の兵士たちも顔を見知っており、その実力を知っている。だからこそ振り返らずに一気に主の率いる一団へと向かっていった。  伯珪は丘の近くで敵に阻まれ、速度を落としていた。その周囲に精鋭部隊を率いているとは言え、袁家の兵士は数が多かった。主は敵の歩兵も含んだ乱戦に護衛兵と引き離されている。子龍はさらに馬を駆け、孤立しかかっている伯珪の間近に躍り出た。 「主公!」  伯珪は刀を振るい、肉迫していた歩兵たちを引き剥がそうとしていた。子龍は走り寄ると同時に槍を一閃、その敵兵を屠った。 「助かったぞ!」と伯珪。 「こちらへ!」  彼は他の味方の兵士たちがいる方へと主を導き、自分の配下に守らせた。敵兵は新たに加わった子龍とその配下たちにも容赦はない、どんどんと攻め寄ってくると、大刀や戟、槍などを鋭く突き込んで来る。子龍は主の逃走路を確保するためにその場に立ちふさがり、仲間の兵士たちと共に大いに槍を奮った。  その間に伯珪は精鋭部隊と共に丘の上を目指す。子龍は敵の騎馬兵と武器を交えながら、主が丘にこだわっていた理由を知った、援軍だ、別働隊の旗がちらりと見えた。  別働隊は丘の上に陣を築き、主の無事を確認するや、ずらりと並べた弩隊で攻撃を開始する。その矢はまっすぐに敵兵目がけて放たれた。数多の矢が風を切る音、怒号。子龍は追い縋ってきた歩兵を蹴り飛ばして排除すると、味方に告げた。 「丘まで駆け上がれ!」  兵士たちは隊列を乱すことなく彼に続いた。ここまで来れば一安心、そんな安堵からふと、子龍は子実隊を振り返った……  弩の矢の雨に退いた敵兵たちは、別の獲物を見つけていた。後方に残され孤立した形になってしまった子実隊へとその矛先を向けていたのだ! 「子実!」  子龍は思わず叫んだが、遥か遠くにいる従弟に聞こえようはずはなかった。子龍隊を先行させるために奮戦し、孤立してしまった彼らを、敵は包み込むように兵士を展開し、激しく攻め立てている。 「……!」  子龍は思わず従弟の隊の方向へと轡を転じた。気付いた配下の兵士たちも慌ててそれに続く。しかし距離はかなりある上、途中には敵兵も群れている、多勢に無勢、敵兵に包み込まれた子実たちは善戦してはいるものの、その壊滅は避けられない状況に見えた。それでも彼らは力の限り馬を走らせ、子実隊への道を切り進んだ。  と、その乱戦の中心に近いところで、見憶えのある斑の馬が敵兵に引き倒されるのが目に映った。 「子実!」  遠目にもかろうじてわかる、それは従弟の愛馬だ。乗っていた子実は落馬し、それに目がけて敵の歩兵がわらわらと集まる。 「子実ゥ!」  子龍は悲鳴のような声で従弟を呼ばわった。馬の尻を叩き、急ごうとするのだが、敵兵の一団が彼らの行く手を阻む。  彼は味方の兵士たちと共に遮二無二槍を振るい、敵兵を倒し、辺り一面を血の海と化した。それでも敵兵は次々と突き進んでくる、その波には終わりが無いかとさえ。 「子実……!」  彼は従弟の名を呼びながら、向かってきた敵兵を槍の餌食にした。素早く棹を引き寄せ、また返す手で次の敵を屠る。返り血を浴び、白馬が赤く染まった。  それでも敵は次々と武器を振り被り、子龍に襲い掛かってくる。もう、幾人の敵を倒したのかわからなくなってきた、ただただ、自分に向かって突き込まれて来る刃と、それに付随する敵とを捌き、かわし、突き、蹴倒していく。  と……  敵の動きが俄に鈍った。  仲間の兵士が地平の向こうを指差した、その指が示す先。丘陵地の陰から大軍の上げる土埃がもうもうと空を曇らせていた。 「……!」  子龍はそんな土埃を上げるほどの大軍が合流する話など聞いてはいなかった。だとすれば敵だろうか?  同じ頃、馬を引き倒され、落馬した子実はやっとの思いで身を起こし、槍棹に縋るように立ち上がっていた。周囲は敵兵だらけ、仲間の兵士と引き離され、踊り込んで来た敵の歩兵の攻撃から身をかわしつつ、槍を構え直す。 「くそ!」と毒づいて肉迫してきた歩兵を蹴り込んだ。周囲は敵兵だらけで長物武器はかえって仇となる、彼は槍を捨てると腰の刀を抜き放つや、手前にいた敵に切り込んだ。  敵はそれを交わし、まだ子実が戦意喪失していないことを悟るや、その囲い込みを慎重に狭めていく。敵は盾の陰から長柄の武器で突き込んでくるのだが、子実には身を隠す場所も、長柄を振り回せるほどの余地もない。突き込んで来る槍の穂先を刀で弾き、どうにか活路を見出そうとするのだが、狭まりつつある敵兵の囲みには隙がない。  このまま突き殺されるのかもしれない、初めてそんな絶望が心を過ぎった。  しかしその時…… 「うをおぉおお!」 「……!」  いきなり敵兵の背後から野太い声が上がった。敵兵たちはその声に振り返り、と、同時に撤退の鉦が高らかに打ち鳴らされた。突然の戦況の変化に慌てる敵兵たちを後目に、一頭の馬がどっとばかりに走り込んできた。 「は、はぁ?」  子実は顔を上げ、思わず目をむいた。馬の背にいたのはど派手な薄衣を肩に掛けた偉丈夫だった。絶望の次の瞬間に飛び込んできた華やかな彩りに目を奪われ、子実はすっかり度肝を抜かれてしまった。  男は馬で周囲にいた歩兵を蹴散らすと、 「来い!」と、呆然としていた子実の二の腕を捉え、無理矢理自分の馬の背に持ち上げた。 「あ? ええ?」  驚きのあまり、言葉にもならない。そのまま彼は馬の背に荷物のように積み上げられ、疾駆する馬に揺さ振られる。遅れて同じく派手な出で立ちの兵士たちが続く。 「親分!」 「逃げろ!」と子実を馬の背に抱え込んだ劉備が声高に命じた。 「おうよ!」侠の男たちは野性的に吠えて返した。  玄徳とその一味は武器や服などを派手に振り回しながら敵兵を驚かせ、蹴散らしつつ馬を駆けさせていく。時々敵を威嚇するつもりなのか、野太い叫びを上げながら。その粗雑で荒々しく、そして珍妙で派手な一団は敵の撤退の流れに逆らいつつ、ずんずんと駆け進んでいく。  その様はまるで一本の矢が放たれたかのように。  子実はようやく自分の状況を把握した。突然、どこからともなく現れた劉備に助けられ、馬の背に揺さ振られているのだ。しかし逆に言えば、それしかわからない。どうして劉備たちが敵の背後から現れたのか、そしてどうして自分が助けられているのか……  敵の本隊は既に撤退を始めている。高らかに打ち鳴らされる鉦、両軍は潮が引くかのように別れていく。彼は馬にしがみついたまま、どうにか命永らえたことをようやく噛み締め始めた。  劉備隊は寡兵の遊撃部隊だった。  公孫サンとの合流地点に行く途中で、彼らは敵に見つかる危険を避けるため、木立の中を進む道を取った。それは期せずして、敵の大軍の伏兵を見つけることに成功したのだった。しかし本隊に伝えるには時間もない、だから得意の遊撃を展開することにしたのだ。  隊の一部を丘陵地の陰に向かわせ、そこで木の枝などでわざと大きな土埃を立て、大軍が接近していると敵に思い込ませ、他の者達は木立に身を隠しながら敵本陣の背後に近付いたのだ。  敵はもうもうとあがる土埃に驚き、大軍が公孫軍の援軍として現れたと誤解した。玄徳たちはその隙に乗じて敵の本陣に切り込んだのだ。  大将首は獲れなかったものの、十分に敵を撹乱することに成功し、たまらず袁家は退却の鉦を打ち鳴らした。本陣に切り込んでいた玄徳たちは慌てて逃げる途中で、孤立して潰される寸前だった子実たちを見つけ、助け出したのだ。  だが……  子実隊は壊滅には至らなかったものの、しかしながら配下の兵士を相当数失ってしまった。  分かれていた隊が合流し、全軍が陣を敷いた夜、子実は独り、他の兵士たちとは離れたところに座り込んでいた。兵士たちの喧騒をよそに子実の肩は落ち込み、顔は暗い。  その姿を見つけると子龍はいてもたってもいられず、静かに歩み寄った。その気配に逸早く気付いた子実は顔を上げると、暗かった表情を俄に明るくしようと努めた。 「ああ、兄貴」とその顔に作り笑いを載せる。 「……怪我の様子はどうだ?」と子龍は慎重に尋ねた。  子実はわざと元気に振る舞った。 「大したことないって! ちゃちゃっと手当してもらったよ。それよりも親分、カッコ良かったぜ、こう、ぱあっと現れてさ!」  陽気を装って口早にまくし立てるのは感情の裏返しなのか、傍目には痛々しささえある。しかし子龍はそれに気付かぬふりをした。 「……親分?」 「玄徳さんのことさ! アニキって呼ぼうとしたら、同い年だって言うんで。じゃあ、親分って呼ぶぜって言ったら、笑ってた。ああ見えて一本筋が通った漢だぜ! 颯爽と現れたとき、俺が娘っ子だったら惚れちまいそうになったくらいだったよ!」  子龍はその言葉にちらりと笑みを見せる。 「これからはうまく連携していこうって。同じ幽州の領民を護る仲間だし……」と言いかけ、彼の表情は一変した。 「……? 子実……」  子龍が見守る前で彼の表情はくしゃくしゃと崩れた。 「な、なかま、だから……」  子実はいきなり声を詰まらせ、大粒の涙を溢し始めた。 「子実……!」  従兄を心配させまいと明るく振る舞っていたのだが、その感情を隠し切れなくなってしまったのだ。ひどく不安定なその心は大海の波に弄ばれるかのように激し、止めどもなく涙が溢れては頬を滴り落ちた。 「な、なかま…… 俺、仲間を…… たくさん、死なせちまったよ……!」  彼はとうとう、わっと声を上げて泣き始めた。我慢が出来なくなってしまったのだ。 「お、俺をかばって、仲孝が、仲孝のヤツが……!」と大泣きしながら彼は叫んだ。  子龍は慌てて子実の背を撫でて宥めた。仲孝は徴兵した兵士たちの中で一番、子実と気が合っていた男だった。今日の戦闘からは帰って来てはいない。 「すまねえ、すまねえ、仲孝……! 俺が不甲斐ないばかりに……!」 「違う、責任は隊長の私にある、子実、責めるなら私を責めろ。私の指示でお前たちの隊を孤立させてしまった、だから……!」  若い彼らには敗北の経験はあっても、大敗の経験はなかった。目の前で仲間が敵兵の勢いに呑まれ、流され、訳の分からぬうちに命が奪われていく。そんな戦い方、いや、負け方を、彼らはしたことがなかった。  それが戦なのだと頭ではわかっていても、心ではどうしようもなかった……  そんな敗北の苦さを包み込む夜が明け、彼は薄明の中にあった。東の空は明るく、晴れの予感を漂わせていたが、彼の目の下には隈、従弟と遅くまで繰り言を吐き出し、大して眠ることも出来なかった。  どうしようもない、だが、どうにか出来たのではないか、そんな言葉を数え切れないくらい繰り返した。空が白み始めた頃、子実は怪我による体力の消耗でうとうとと眠りに落ちた、が、子龍は眠れなかった。だからそのまま日課としている朝の見回りに歩を進めていたのだ。  必ずしも戦の経験が豊富とは言い難い、豪族の次男坊の自分の甘さを悔やんだ。寡兵を分断すれば標的となって潰される。書物の知識ではわかっていても、実地ではすぐには動けない、抜け落ちてしまう。おそらくはどこかで自分たちが標的にされることなどないと、油断していたのだ。  歩哨がまばらに往来する陣をぼんやりと歩き回っているうちに、いつの間にか別の隊の陣の間近まで進んでいたようだ。それはどうやら公孫家直属の隊のようで、仕着せの揃いの戦袍の兵士たちが目立つ。戻ろうとしたところで、ふと、人の話し声が耳に届いてきた。 「……いやいや、もう無理だろう、巻き返しなんて……」  潜めてはいるものの、その声音には悲嘆が混じっていた。 「そうだとも、界橋戦線を守り切れなかったのは痛かった」と他の男の声が続いた。「あの時主公は兵数では絶対有利だった。それなのに、袁家を侮ったばかりに負けてしまった。あれはどう考えてもまずかったぞ」  会話の主たちの姿は見えなかったが、どうやら柵の向こうから聞こえてくるようだった。おそらくは公孫家に仕える将の誰かの配下なのだろう。子龍はそれを話しているのがどんな兵士たちなのか見てみたいと思い、柵の向こう側に周り込もうと歩を進めた。 「それなら、逆にああいう一戦があれば、主公にも巻き返しが出来るということじゃないか?」希望的な意見を述べているのはまだ若い兵士のようだ。「だって、それ以前、袁家は大した兵数ではなかったし、領も渤海辺りだけだっただろう? あの一戦を境に形勢が逆転したのなら、逆のことだって……」 「それを狙って大きく出たとしても、同じ戦果が手に入るとは言えないだろう? 全滅の危険さえあるぞ、何しろ、敵は勢い付いているからな」  たしかにそれは言える、袁家は当初兵数も少なく、支援も足りてはいなかった。苦しい戦いをくぐり抜けてからの大勝で、その後も決して慢心してはいない。数の有利を手に入れた今、恐ろしい敵と言えた。  立場が逆転してしまったのだ。  子龍自身、戦況が袁家有利に傾き始めた頃に公孫家に合流している。だからこそ伯珪は彼の顔を憶えており、志願を喜んでいたのだ。それでも伯珪の内心では子龍を信頼しても良いものかどうか悩んでいる、わざわざ旗色が悪くなってきた側に協力するなど、袁家の間諜である畏れは拭いきれないからだ。  だから配分される兵士は少ないし、外援部隊に回されてしまう。  その事実を今更ながら思い知らされ、子龍は胸の奥が寂しくなるような気がした、配下の兵士を多く失った翌日という心理を差し引いても。  と、そこに子龍とは別の方向から、その兵士たちに歩み寄ってきた者の姿があった。劉備だ、彼は目立つ彩りの戦袍に飾りの付いた具足を身に着けた姿で、長い髪は結わずに垂らしている。いつも通りのどことなく砕けた、無造作な装いなのだが…… 「おいおい、そんな話、若い連中には聞かせてやるなよ」  言葉尻は穏やかだが、その眦にはどことなく凄味があった。会話していた兵士たちは口を噤むと、そそくさとその場を後にしてしまった。  玄徳はそのままぶらぶらと、まるで散歩でもするかのような態で進んでいく。子龍はそれを追った、子実たちを助けてくれた礼を言いたかったのだ。玄徳はそのまま進むと、人気のないところでゆるりと立ち止まった。  何をするのかと思えば…… 用を足し始めた。子龍の気配におそらく気付いているだろうに。  ぞぼぞぼと音を立てて用を足しながら、彼は振り向きもせずに、 「アンタも小便じゃなかったのか?」と背後で立ち止まった子龍に声を掛けてきた。 「い、いえ、あの……」と思わず口篭る。 「そうかい?」彼はぶるっと身を震わせてから、出していたものを仕舞い込む。  一連の動作を終えて振り向くのを、子龍は辛抱強く待った。ようやく玄徳が彼の方を振り向いた。 「連れションもなかなか乙なものだぜ?」と先ほどとは打って変わって、悪戯な表情。  子龍は困ったように笑みを向けた。彼にはこの男がよくわからない、英雄なのか、ゴロツキなのか、切れ者なのか、はたまたただの愚か者なのか…… 「……あの、昨日は従弟の子実と兵士たちを助けてくださって、ありがとうございました」と子龍は言った。  玄徳はにこっと笑うと、 「気にすんな、仲間だろ?」と応じた。「別のときには俺がアンタたちに助けてもらうことだってあるだろうし」  子龍は少し緊張を緩めた。 「敵の背後を突いて撹乱したと聞きました。臨機応変な作戦に何というか…… お見逸れいたしました」  玄徳はまた笑みを見せる。 「はは、逸らさずに、しっかり見て、そして讃えてくれや!」 「あ、は、はい」  どうにも調子が狂ってしまう、子龍はこの男が全くもって理解不能だ。 「……と、そうも言ってられねえな」と彼は俄に表情を曇らせた。「全員助けられた訳じゃねえ、随分と助からなかった訳だし……」  子龍もその表情を翳らせる。 「……はい…… 従弟は随分と落ち込んでしまって……」 「だろうな……」と玄徳も応じた。  子龍は生真面目で保守的な父親から、士大夫たるものはかくあるべき、といった教育を幼い頃から受けていた。すでに凋落した家柄だったが、綿々と家訓のようなものを受け継いで来ていたのだ。支配者階級の者は兵士を駒として扱えなくてはならない、支配者と民草とは全く別の存在なのだと。  しかし彼自身はその教育をすべて正しいと思っている訳ではなかった。  肩を落とした従弟の姿を思い出して、つい、そんな疑問が言葉となり、口をついて出てしまった。 「子実は…… 優し過ぎるのでしょうか……?」と彼は生真面目に尋ねた。 「うん?」 「やはり士大夫たる者、配下の兵士の死に慣れなくてはならないのかと…… 大丈夫は大義のためには、兵士に死んで来いと言って、送り出さねばならないのでしょうか……?」  玄徳はきょとんとしたまま、子龍を見詰め返している。その表情を見て取った子龍は自分の失敗を悟った。 「は、す、すみません、その…… 主公のご学友に変なことを申し上げてしまって…… あの、どうか、お聞き流しください」  軽はずみなことを言ってしまった、相手は正直言って正体の知れぬ人物の上、主の友人だと言うのに。子龍はそう思い、慌てて詫びるとそそくさとその場を去ろうとした、が。 「士大夫こそ、人の死ってぇものに慣れちまっちゃいけねえよ」と玄徳が言葉を返した。 「……」  返事がもらえるとは思っていなかった子龍は思わず足を止め、意外な言葉に目を瞬く。玄徳は更に続けた。 「兵士に死ねと言わなきゃならねえなら、俺は偉ぇ殿様なんぞになりたくぁねぇや」 「……」  子龍は目を瞬いたまま、じっと玄徳を見詰め返す。 「それでも大一番のときってぇのはあるだろうが…… 俺は…… そうさなぁ、必ず生きて帰って来いって言って送り出すぜ」 「……」  子龍は男の妙に軽く聞こえる言葉に、だが、心を揺さ振られてしまった。凋落したとは言え、それなりに古い豪族の家柄に生まれた彼には、功名も立身出世も望まぬかのように言って放つこの男が不思議に思えた。その言葉は本心なのか、それとも単なる言葉の綾でしかないのか。  その判断が出来なかった。  しかしそんな子龍の心の内も知らぬ玄徳はどこ吹く風の態で、 「なんでぇ、なんでぇ。妙な顔しやがって! 言ったコッチが気恥ずかしくなっちまうだろうが!」といきなり彼の肩をばんばんと叩き、笑い始めた。叩かれた子龍は面食らったが……  目を上げると、折しも日が昇りそめ、玄徳の笑顔を明るく照らし出していた。
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