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 ある所に名無しの男がいた。  罪を犯す度に何かを失くした。家族を失い、友を失い、敵を失い、過去も、自分の名すらも。そうして何もかも失くしてしまった。  自分の命の重さもない、だから人の命の重さもない男だった。  その男がとある人物に金で買われた。  人の命を金で計れる人物に。  田楷の援軍として派遣された玄徳は平原国で相に任官された。それは力を持った公孫サンの後ろ盾による官位と言えたが、領民の多くはそれを喜ばしく思った。彼は平原領内の軍を立て直し、兵士を鍛え、賊の跋扈を妨げた。領民を助け、身分に関係なく人に接し、領内の経済も立て直した。元より彼は博打打ちだ、商売も肝を知れば強かったのだ。  そうして彼は多くの人々、士人にも商人にも農民にも心を寄せられた。分け隔てなく友のように接する彼を悪く言う者はほとんどいなかった。  しかし、それでも一部には嫉妬があったのは事実だ。  有る事無い事吹聴する者はいたし、彼が率いる侠集団をゴロツキと揶揄して毛嫌いする者たちも。そんな者たちに対し、彼は怒るでもなく笑い飛ばしていた。 「はっはっは、まあ、しょうがねえよ。連中、いきなり幽州からのこのこやって来た俺が平原の相に収まっちまったのが気に入らねえんだろうさ!」  それでも慕う者の方が多かったし、恩恵に与る領民たちは笑い飛ばす玄徳の代わりに、揶揄する者たちに反抗した。徴兵には彼を慕って若い兵士が集まったし、その調練も地元を守る気概に満ちて熱が篭っていた。兵士全体の士気は高かった。  玄徳の平原相としての政は概ね成功と言えた。  子龍は伯珪の命令通り、玄徳の間近に護衛として付随い、早一年近く経過していた。玄徳の義弟たちはいずれ劣らぬ武侠で、その配下も強靭だ。彼らは平原を守り、賊を倒し、そして袁紹の軍と戦った。  その頃、常山は公孫家の敵である袁家に徐々に取り戻されつつあった。元より常山は冀州に属し、袁紹の影響力が強かったのだ。常山近辺ではそれ以前から袁家に仕官したり従う者の方が多く、若者の多くは袁家の兵士となっていた。  子龍たちのように異民族から領民を守るためとは言え、公孫家の禄を喰む者はどちらかと言えば少数派だったのだ。  已むを得ないことなのだが、戦場で出逢えば敵同士となる。  事実、徐々に両家の戦いが激しくなるに連れて、若い兵士たちは戦場で幼馴染の姿を見つけ、仕方がないことなのだが、士気が下がっていた。だから暗黙のうちに彼らは前線から下げられ、玄徳の護衛に就けられる事が多かったのだった。それはもしかしたら伯珪の想定でもあったのかも知れない。  しかし護衛が楽な仕事かと言えばそうでもなかった。  玄徳はひょっこりと姿を消し、農民たちに混じって畑にいたり、かと思えば裏通りの賭場に入り浸っていたりと、気儘に動き回っていたからだ。とても平原国の相という身分には相応しくない行動を取っていたのだ。  その日もそんな風に彼は気儘に動き回っていた。案じた子龍が玄徳の姿を探していると、彼は見知らぬ男と肩を並べて大通りを歩いていた。 「殿、お探ししましたよ!」子龍は玄徳に歩み寄りながら少し不機嫌を装う。見知らぬ男への警戒もあった。しかし当の本人は笑って、 「心配はいらねえって!」と応じた。子龍は微かに眉をひそめた。 「……そちらの方は……?」  隣を歩いていたのは文官と思しき腰の低そうな男だ。細い目は妙に表情を読ませない、が、怪訝な表情の子龍にも穏やかに応じた。 「初めまして、玄徳殿の義理の弟君ですかな? わたくしは郭伯英と申します、平原の豪族劉氏から、玄徳殿に相就任のお祝いをお持ちしたのです」 「わ、わたしは弟ではありません、その…… 護衛です」と子龍は無難に答えた。 「ええ? 弟でいいじゃねえか、子龍さんよぉ? あ、いや、俺が弟かな? まあ、どっちでもいいか!」  幽州辺りでは気が合えばすぐに義兄弟を名乗る。この玄徳もそうした義兄弟が両手に余るほどいるようだが、子龍は把握しきれてはいなかった。 「……殿……」 「はっはっは!」と玄徳は笑い飛ばし、「まあいいさ、なあ、伯英さんよ、腹が減っただろ、まずは腹ごしらえだ」  玄徳は客人の肩を抱いて自分の屋敷へと案内する。子龍はその背を守りながら、じっと郭伯英を観察した。  おそらくは説客だろう。平原の外れに劉平という豪族がいたはずだ、その男に雇われたに違いない。祝いの品などを寄越す辺り、今後の思惑もあるのだろう。同姓のよしみとでも言って、玄徳に取り入る腹積もりか。玄徳は同姓には少々甘い、先日も劉姓の兵士を取り立てて百人隊の隊長に抜擢していた。確かにその兵士は頭の回転もよく、機転が利いたからそれに反対する謂れはないのだが。  それでも続けば甘く見られる、足元を掬われる。子龍としてはそれを警戒する必要があった。  説客として外交をするような人物はやはりどこか気が抜けない、表情を読ませない部分がある。午後の日差しの中、玄徳は物怖じもせず、警戒の欠片もなく男と肩を組んで歩いている。  少しは警戒して欲しいものだが。  しかし、仕方がない。劉玄徳と言うのはこういう男なのだから。  屋敷に戻ると玄徳はそのまま客人を連れて裏手に回り、庭に繋がれていた豚の品定めを始めた。その豚たちは数日後に国境周辺の見回りから戻ってくるはずの義弟たちを労うために置いてあったものだ。厨房にいた厨師が慌てて出てくると、玄徳は伝えた。 「よお、客人だ、この一番デカイ豚を潰して、何か美味い物を作ってくれよ!」と言いながら彼は一番太った豚の尻をぺたぺたと叩く。「コイツぁいいねえ、脂の乗りもちょうどいいじゃねえか」 「あ、はい、殿様」と厨師は頷いた、が、その表情は子龍と同じく、義弟たちのための豚ではなかったのだろうかという不審がある。玄徳はあっさりとそれを流すと客人に向き直り、 「ええと、伯英さんよぉ、勿論、いける口だろう?」と盃を傾ける仕草をして見せる。客人は小さく頷き、 「はぁ、まあその、嗜む程度で……」と応じた。 「何言ってやがる、今日は飲み明かそうぜ? 義弟たちもいないから、寂しかったんだよ。何しろ、子龍の奴、酒が嫌いでなあ」  子龍はその言葉に苦笑をちらりと見せた。酒が嫌いというわけではなかったし、飲めないと言うほど弱くもなかった。ただ、護衛役を仰せつかっているのだから、酔う訳にはいかない。  そこではた、と思い至る、玄徳は子龍を素面にしておきたいのだろうと。つまり、砕けているように見せつつも、完全に郭伯英を信じているのではないと。そう暗に子龍に知らせたのだ。  玄徳はそのまま客人と共に客間へと向かう。客人を上座に座らせると、直に女中が酒を運んできた。 「おぉ、来た来た! ほれ、別嬪さん、お客人に酌をしてくれよ」  女中は愛想笑いを向けながら、酒の準備を始めた。 「これはこれは…… ああ、玄徳殿、まずはわたくしの用向きを……」と伯英は慌てて持参していた包を見せる。子龍は客間の端でその動きを警戒した。 「うん? 就任祝いかぁ…… そんな気を遣って貰っちゃあ、アンタところの殿様にも悪ぃねえ」  言いながら玄徳は警戒の欠片も見せない素振りで包を受け取った。 「いやぁ、俺はそもそも、こういったご立派なものをいただくなんて玉じゃねえんだが」 「何をおっしゃいます、平原国の相ともあろうお方が……」  玄徳はさっさと包みを開き始める、不調法にも程があるのだが、そんな事を気にする男ではない。包の中には高級そうな酒壺があった。 「こいつぁいい! よお、姐さん、この酒を開けようじゃねえか。ウチの酒よりも格段にいい酒だぜ?」  女中は困ったようにまた愛想笑いを浮かべ、主と客人の顔を見比べる。 「これはこれは…… わたくしもご相伴に与ったことは、どうか劉大人にはご内密に」と客人は応じて、困った女中の手を促す。 「はっはっは、内緒、内緒!」  女はいそいそと酒の笏を新たな壺に浸す。と同時にふわりと香りが沸き立った。 「おほぉ、こりゃ、いい香りじゃねえか!」と玄徳は相好を崩す。  女は客人に、次いで玄徳の盃に酒を注いだ。 「では、劉平原相の永き繁栄をお祈り申し上げます」 「ありがてえ!」  言うが早いか玄徳は盃を傾けた。客人も静かに酒を飲む。 「くぅ、美味いねえ! さあ、伯英さんよ、もう一杯、行こうぜ?」  伯英は笑顔を向けた、が、その目は決して笑ってはいない。子龍は目敏くそれを見逃しはしなかった。  この男、表情を作っている。  そうこうしているうちに、従者たちが酒の肴を運んできた。子龍はそっと客人を盗み見る。気を抜けない、今宵は長丁場になるに違いない……
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