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 翌日、早朝からまたもや子龍は玄徳を探し回っていた。登庁しないどころか、屋敷のどこにもいないのだ。しかも客人の姿もない。彼はやきもきしながら外出の宛を探しに屋敷の門を出ようとしたところで、ばったりと簡雍に出くわした。 「憲和殿! 今からお邪魔しようと思っていたところです」と開口一番。彼は常々玄徳とよく出歩いていたからだ。一緒にいるか、さもなければ出かけた先を知っているのではないかと子龍は思ったのだ。  しかし憲和の表情は妙に渋い。 「そいつぁまずいぜ、子龍の旦那!」  憲和の表情に彼は思わず眉根を寄せた。 「何かあったのですか?」と尋ねて返す。 「実は…… 国境を哨戒していた雲長兄貴から使いが来てな……」と憲和は顔を顰めたまま語り始めた。  さて、当の本人はどこ吹く風の様相で、長夏の終わりの気配が深まる農村地帯をぶらぶらと歩いていた。その背後には客人の郭伯英、各々の手にはそこまで走ってきた馬の手綱が握られていた。日差しの心地よさに馬を降り、ゆっくりと散策を楽しんでいたのだ。どこからか収穫を終えた農夫たちが穏やかに歌を歌っているのが聞こえてきた。黄金色の陽光、歌声、ゆるゆると続く畦道。それはどことなく眠気を催させた。  郭伯英は農村の生まれだった。  元々それなりの家柄の豪族だったが、数代前には落ちぶれ、農業を営むようになっていた。若い頃にはそれを嫌って親不孝をしたものだったが。名を売り、世間に自分の存在を認めさせたかった。まるで渇望のように。若い頃には理解してはいなかったのだ、大業で名を讃えられることと、後ろ指をさされることの違いというものを。  数歩前を歩く劉備の後ろ姿をぼんやりと眺めながら馬を引く伯英の目には、その侠の親玉は妙に他愛なく見えた。人を信じ、笑顔を向ける。その相手が常に善人だとでも思っているのだろうか……?  この男は善人たちの中でだけ、突っ走ってきたのだろうか? 彼に対して警戒の欠片もなく接するその姿に、彼は玄徳という男がどんな人生を歩んで来たのか興味を持った。  そんなことを思っていると、前を歩いていた玄徳がはたと歩を止めた。伯英は自分の考えを読まれたような気がして、一瞬、身を強張らせた。が。  玄徳は何とも愛想の良い顔で彼を振り返った。 「よお、その木の根元で一休みしようぜ?」  目前に一本の大木が涼し気な木陰を作っている、それはあたかも収穫をほぼ終えた畑の中の孤島のようにも見えた。 「え? あ、はい、そうですね」と彼は穏やかな声音で応じる。彼らは馬を引きながらゆるゆると木に歩み寄っていった。  木陰には既に先客がいた。近隣の農夫と思しき男とその息子だ。 「やあ、こんにちは! いい天気だなあ」と玄徳は農夫に声を掛けた。 「こ、これは殿様!」と男は慌てて畏まろうとするのだが、玄徳は笑いながら男の肩を軽く叩く。 「木陰に入るにゃ、殿様も何も関係ねえよ。どれ、ちょいと一休みさせてやってくれよ」 「は、はい、その、このようなむさ苦しいところですが……」と男。 「はっはっは! 男三人も集まりゃ、そりゃあ、むさ苦しくもならぁな」と言って父親の背に隠れた子供に目を向ける。「坊主、いくつだい?」  農夫の息子は突然現れた見知らぬ男に目を丸くしていたが、そっと手を上げて指を広げた。 「おぉ、五つかい? やんちゃ盛りじゃねえかい?」言いながら彼は伯英と共に木の根元に腰を下ろした。収穫を終えた時期だと言うのに、昼前の日差しは思いの外強く、歩いていた彼らは汗ばんでいた。木陰に腰を下ろすと畑を過る風が心地よく感じた。 「……いい風が抜けますなあ……」と無意識に伯英は溜息を漏らした。  畑仕事を嫌って家を飛び出したと言うのに、畑で感じる風を心地よいと思ってしまう。それはどこか、自分に染み付いたものなのかもしれない、そんなことをふと思った。 「今年の作柄もまあまあだったと聞いたが?」と玄徳が農夫に話しかけた。  農夫は顔を綻ばせ、 「はい、お陰様で。ここいらじゃ稗がよく穫れましたよ」と答えた。「それもこれも、殿様が賊から畑を守って下すったおかげで……」 「俺は何もしちゃいねえよ、ここらの村の若ぇ連中が力を合わせて守ったんだ」と言って目を下に向けた。足元には農夫が寄せていたのだろう、藁の小山があった。それは日差しに焙られて懐かしい香りを漂わせている。 「少しもらうぜ?」と言って玄徳は藁を一束、手に取った。 「え? へえ、どうぞ」と農夫。「どうなさるんで、殿様?」 「まあ、見てなって!」  応じながら玄徳は手を動かし始めた。その指は意外なほどに器用で、慣れた手付きで何かを編んでいく。農夫と伯英が見守る中、玄徳はあっという間に藁の馬を編み上げた。 「おうまさん……」と農夫の影に隠れていた子供が興味津々な表情で呟く。 「おう、おうまさんだ! 待ってろよ、たてがみを揃えてやるからな!」  言いながら彼は懐から短刀を取り出し、藁の馬のたてがみをざっと整えた。砕けた格好で武装らしい武装もしていないかと思えば、懐に短刀は隠している。伯英はぼんやりと玄徳の手並みを見ていた。玄徳はたてがみを揃えると短刀を鞘に収め、また懐に戻した。 「ひひーん!」と彼は子供の前で藁の馬を踊らせた。「坊主、お前の馬だ、走らせてやんな!」  子供はぱっと表情を明るくすると、藁の馬を受け取った。手元の玩具に夢中になっているのか、二の句が継げない。 「こ、これはこれは、ありがとうございます、殿様! ほれ、阿端、お礼を……」 「おうま!」と子供は藁の馬を手にしたまま走り出した。 「阿端……」  伯英は微笑み、農夫は玄徳に畏まった。 「申し訳ありません、殿様……」 「いいって! あの歳の坊主なんて、みんなああだよ、オモチャに夢中だ。……それよりも、肥溜めに落ちたりしねえかい?」  玄徳の言葉に父親ははっとして畑の向こうを見やる。 「おおい、阿端! ……まったく……」 「行ってやんな」と玄徳は笑みかけると、農夫は慌てて立ち上がって会釈し、畑の向こうの子供を追い駆けて走って行った。 「はっはっは、元気な坊主だ!」と笑いながら玄徳は更に足元の藁を一束手に取り、また何かを編み始める。玄徳は驚くほど器用だ、伯英はその手元をじっと眺めた。 「……器用なものですなあ……」と穏やかな声で感想を述べた。 「ええ? そうかい? へへ、昔取った杵柄ってやつだな」と彼は応じた。「……俺の家は貧しくてさ。おふくろと藁で筵やら草履やらを編んで行商してたんだよ」  伯英はまさか平原相の劉玄徳が、かつてそんな暮らしをしていたとは知らなかった。幽州から来た公孫サン配下の客将が、駐屯のために平原を治めている、その程度の認識だったし、それ以上の重さを感じてはいなかった。  警戒の欠片もなく郭伯英という説客を、近隣の豪族劉氏からの使者として迎え入れ、一番肥えた豚を共に食べ、盃を傾けた。その酒は客人持参の物。毒味もしようとはしない。これは愚か者の所業なのか、それとも……  玄徳は手を器用に動かし、藁の馬をもう一頭、編み上げていく。その姿には警戒心は見えない。彼は懐から短刀をまた取り出すと、編み上がった馬のたてがみを切り揃えた。今度は短刀を鞘には収めず、そのまま手近の木の根に突き立てた。  先程鞘に収めたのはただ単に、近くに子供がいたからなのだろう。刀はよく手入れがされており、その刃は白銀に輝いている。  伯英が手を伸ばせば、難なく取ることが出来る位置に。 「これはアンタの分だ」と言って玄徳は藁の馬を伯英に手渡した。 「あ、はい?」と素っ頓狂な声を漏らして、伯英は馬を受け取ってしまった。 「いやぁ、面白そうに見てたからさぁ。アンタにもやるよ。っと、この藁、俺のじゃあねぇけど!」  言いながら玄徳は小さく笑い、さらに藁を手に取った。 「俺はさぁ、こういうの、嫌いじゃなくてなあ。賊討伐をするのは弟たちに任せて、畑仕事やら筵織りやらも悪くぁねえかなって、時々思うよ」  その言葉に伯英はちらりと苦笑を見せた。 「相ともあろう方が……?」 「はは、俺はさぁ、別に偉ぇ殿様になるために、この平原に来たわけじゃねえ。俺は元々が農民の出だ、世の中ってぇやつは、農民が楽に暮らしていけるようになるのが一番だと思うんだよ。農民が楽なら作物も豊富、商いも巡って、殿様も兵士も潤う。そうすりゃあ、国も基盤がしっかりするんじゃねえかって……」 「……」 「だから平原の兵士を鍛えたんだ。畑を賊から守って、農民が安心して畑を耕してさ…… そうすりゃ、誰も飢えねえだろう?」 「……はい」  伯英は小さく頷いた。玄徳は藁を編みながらまた口を開く。 「……劉大人とやらが同じことをしてくれるなら、別に俺が殿様である必要はねえしなあ……」 「……」  伯英は口を噤んだ。この男は悟っていたのだ、劉平という人物が思惑なしに就任祝などを寄越したのではないことを。  玄徳は手元の藁を編むことに夢中になっているように見える。伯英の手の届く場所には抜き身の短刀。もしも……  もしも彼が刺客ならば、その短刀を奪い、玄徳を刺し貫くことは容易だろう。だが、容易ではない。何故なら。  何故なら、彼には殺意を抱く事が出来なくなっていたからだ。 「……ご存知でしたか」と小さく伯英は囁いた。 「アンタは見事過ぎたんだ」と玄徳。「俺は博打打ちだ。人読みじゃあ、ちっとぁこなれてる。でも、アンタは読めなさ過ぎた。たかが説客がそこまで読ませない、そいつは逆に少々危ねえんじゃねえかと……」  伯英はちらりと木の根に突き立てたままの短刀を見やった。 「お見逸れ致しました。わたくしにはあなたの警戒心が読めませんでした」とあっさりと伯英は応じた。  認めてしまうと妙に安堵してしまった。まるで流れるかのように、彼は続ける。 「わたくしは劉平に雇われた刺客です、あなたの暗殺を依頼されて、ここまで来たのです」  警戒され、疑われていれば、むしろ狩りやすい。そんな素振りを見せない相手には、たとえ彼のような玄人であっても良心の呵責のようなものはある。玄徳はそれを知ってか知らずか逆手に取ったのだ。親しげに家に迎え入れ、特上の料理でもてなし、共に盃を傾ける。  そんな男を殺めると思った瞬間、伯英は気後れしてしまったのだ。 「……」玄徳は藁を編む手元からちらりと目を上げた。「昨日の友が今日の敵なんてザラだし。その都度、警戒なんぞしちゃいねぇよ。もしもアンタにグサっとやられりゃ、それはそれ。俺はアンタを恨みもしねえし、次の平原相が劉平になろうが、まあ、それはそれだ」  伯英は困ったような目で玄徳を一瞥し、静かな声で続けた。 「昨日、街中であなたをお見かけしたとき、そのまま暗殺することも出来るかと思いました。忍び寄ろうとしましたら、あなたはわたくしを見て挨拶をしましたよね……」 「……」 「まるで知古のように。わたくしはこの汚れ仕事で友も親も、そして過去さえも失いました。それなのに、あなたは旧友を見つけたかのように、わたくしに声を掛けてくださいましたね? ……瞬間、わたくしはかつてあなたに会ったことがあったような錯覚を覚えました」  伯英は目をまっすぐに玄徳に向けた。 「劉玄徳という人間に興味を感じたのです。……誤算でした」 「うん?」 「人の命に重みを感じたことのないわたくしが、あなたに重みを感じるようになってしまった」  玄徳は肩をすくめて首を振った。 「重みかぁ? 吹けば飛ぶような、ただの筵織りの小倅だぜ?」  伯英は笑んで、 「わたくしの家も裕福ではありませんでした。畑作業が面白くなくて、家を飛び出し、碌でもない連中と遊び歩いたものでした……」  畑の上を風が過ぎていく。伯英は微かに目を細めた。畑の向こう側で農夫が息子を肩に載せ、悠々と飛び交う蜻蛉を追わせている。微かに子供の笑い声が耳に届いた。 「……畑の匂いが懐かしい。年老いた両親はどうしているのだろうかと…… 郭伯英というのは偽名です、今まで名さえ忘れたと自分に言い聞かせていましたが、あなたはわたくしに過去を思い出させてくださいました。……楽しいばかりの過去とは言い難いのですが……」  玄徳はしばし言葉を返さず、手元の藁を編み続けた。伯英はじっとその手元を眺める。その手の器用さには嘘がない。かつて筵を織って生計を立てていたというのは偽りではない。  それに引き換え、この平原相を殺せと命じた男はどうだろうか。民を案じ、兵士を鍛えただろうか? 同姓の人物が権力を得たことを嫉妬し、従うことを拒み、刺客を立てた。そしてこの劉備なる人物に出会うまで、伯英自身も人の命に重みを見出せなかった。その重みを知らなかったから、罪の重さも知らなかった。  罪の重さを感じたとき、彼には玄徳が殺せなくなった。過去も名もすべて失った、言わば人非人から、彼は人になったのだ。その重みがずっしりと彼に圧しかかってくる。  彼が感じたことのない重みを。  玄徳は手近の短刀を取ると、編み上げた馬のたてがみを綺麗に整えた。その姿を見ながら伯英は穏やかに笑みを見せる。 「……かと言って、苦しいばかりの過去ではありませんでした」  そう自分で口にすると、妙に吹っ切れた気がした。家を出て、名を挙げるために汚れ仕事を請け負った。初めて殺した相手のことを思い出し、その時の自分の手の震えをまざまざと感じた。それから幾星霜、彼は罪を犯し続けた。手の震えも忘れ、そして恐れも記憶も感情も……  この男に出会うまで。捨てていた記憶や感情をこの男は揺さ振り、失くしていた過去を掘り起こした。それは確かに苦しみではあったのだが。これが人の苦しみなのだと。  苦しいばかりではなかった、つらいばかりではなかった。思い起こすことの出来るようになったたくさんの記憶、子供の頃の思い出、それは彼の瞼の奥を熱くした。  彼は涙を隠すためにわざと手元に視線を落とした。手元には藁の馬、その日差しの匂いの残る小さな玩具を見ているうちに、隠しようもなく涙が溢れ、思わず掌で目元を覆った。胸が震え、無意識に啜り泣きを漏らしてしまう。 「……申し訳ありません、あなたのような方を殺めようとしていたなど……」 「俺はピンピンしてるぜ?」と玄徳。  しかし罪は罪だ。その重い罪を償うべきときが目前に来たのだろうと彼は思った。 「……もう、思い残すことはございません。……どうか、その短刀でこの罪人のわたくしを……」  この人物に罪を問われ、罰を受けるのであれば本望だ。自分は金のためにこの男を殺そうとしたのだから。一歩間違えていれば平原の民を哀しませていたに違いない、いや、もしかしたら、自分は国士とも言うべき人物を殺めようとしていたのかも知れない。何と畏れ多いことをしようとしていたのだろうか。  自分の首一つくらいで贖えるものではない……  しかし目を上げた玄徳は悪戯な表情で答えた。 「厭なこったァ!」 「……」 「思い出したと言うなら、郷に帰ぇりな。重いと言うなら、償えばいい。首と胴とが生き別れになるのだけが償いってぇ奴じゃあるめぇ? やり方は色々とあらぁな」  そう言って彼は短刀をもう一度木の根に突き立てた。 「さて、もう一頭くらい作ったら終いかな」と藁を一束手に取る。「伯英さんよ、就任祝いは確かに受け取らせてもらった。アンタはただの説客だ、間違いなく仕事をこなした、なんの負い目もねえよ。大手を振って城門をくぐって出て行けばいい」 「……ですが、それでは……」 「言っただろ? アンタは説客、祝いは受け取った。まあ、劉大人にはよろしくとでも伝えておいてもらうかな、まあ、もしも会うことがあればだが」 「……」  どうやらこの男は彼を罰する気はないらしい。それどころか、自分に刺客を差し向けた相手によろしく伝えてくれ、などと付け加える。馬鹿なのか、それとも器が大きいのか、彼にはよくわからなかった。  このままこの男の下に留まり、行く末を見てみたい。  瞬間、伯英はそう思った。しかしそれは顔に出てしまったのだろう、玄徳が機先を制した。 「はは、やめとけよ、侠なんざぁ、まあ、言っちまえば浮草稼業だからな」  伯英はちらりと苦笑を見せる。  友も親も過去も失くした、記憶も感情も……全てを。しかしそれはこの男に出会うまでの話だ。今は全てを取り戻した、だからこそ、この男に読まれてしまう、この友に。 「ご謙遜を。わたくしにはあなたが平原を治めるのが妥当だと思えます。いえ、違いますね…… この国を治めるのが、でしょうか」  玄徳はその言葉に笑った。 「はっはっは、大きく出たな?」  伯英はにっこりと笑み返した。しかしだからこそ玄徳の表情も読めた。彼はここにいいてはいけないのだ。彼を説客として静かに去らせてはくれない者が、直にここにやって来る。玄徳はそれを案じているのだ。心惹かれ、その下に付随いたい、そう思わせる人物に出会えたが、彼の存在がその人物を困らせる。  ならば去るしかない。  折しも玄徳は最後の馬を編み上げるとたてがみを短刀で整え、鞘に収めると懐に戻した。その一連の淀みない動きを最後に目に留め、伯英は旅立ちを決意した。  彼は受け取った藁の馬を懐に収めると、 「あなたの危急には必ず馳せ参じますゆえ……」と言って拱手で深々と一礼し、立ち上がると身軽に本物の馬の背に跨った。
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