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 そうこうしているうちに陶謙は更に城を失い、兵士たちの士気は下がっていた。領民は曹操を恐れて徐州を捨て、荊州などを目指して大移動し、そしてそれを狙う追い剥ぎたちも徐州内を闊歩していた。徐州はすっかり乱れきっていたのだ。  そんな乱れた徐州をある男が数名の護衛兵とともに馬で進んでいた。その身なりは文官のもので、華美ではないものの決して貧素でもない。若いが一目で才気に溢れているのが見て取れる。男は徐州兵の誰何を受け、自分の名と用向きとを伝えた。兵士は胡散臭い表情でその男に行くべき道を示した。 「やれやれ、賢いことだ。一歩引いたところで戦の大局を見極めようとは」と馬に揺られながら男は呟いた。 「はい?」と近くにいた護衛兵が聞き返す。 「いや、何でもない」と彼は答えた。  だが、自然と口の端が上がる。彼がこれから会おうとしているのは一筋縄では行かない人物だろう、それを思うと嬉しくなったのだ。  彼には王佐の才があるなどと噂されていた。人物見の先生とやらが口にした言葉だが、彼はそれを宛てにはしていなかった。彼は王を補佐するのではなく、彼が王を作るのだという自負があったからだ。しかしまだ年若い彼がそれを口にするのは憚られる、だから敢えて何も語りはしなかったが。  彼は袁紹に仕えていたが、誠心誠意というわけではなかった。袁紹は王に足る人物ではなかったからだ。しかしそれでも彼を含む一族の者たちは袁家の禄を食み、それなりの肩書を得ていた。敵地に使者として乗り込むのに、護衛兵を就けてもらえる程度には。  使者とは言え、彼にもそれなりの軍事的知識はある、いつ敵になっても不思議のない陶謙が治める徐州をしっかりと目に焼き付けていた。  やがて彼らはさほど大きくはない野営地に辿り着いた。張り巡らされた陣壁、そして守備の兵士。その兵士の態を見れば、正規軍ではないことが一目で分かる。彼らは用向きを伝え、門をくぐり、陣に招き入れられた、が……  寄せ集めのような兵士集団を見て、彼は少し期待外れだったかと思った。  世に英雄はどれほどいるものだろう? この乱世に自ら奸雄を名乗れる者は存在するのだろうか? 清らかなだけでは王にはなれない、だから袁紹では力不足なのだ。彼ほどの人間が王を仕立て上げようというのだから、生半可な英雄などでは足りないのだ。  意気揚々と彼を迎え入れたのは侠の親玉だった。派手な身なり、よく笑う口元、そして……  得体の知れない瞳。 「俺が劉玄徳だ」と招き入れた陣の主が告げる。  男は恭しく拱手で頭を下げた。 「お初にお目にかかります、わたくしは荀文若と申します、袁本初殿からの伝言をお持ちしました」 「おう、こりゃ、ご丁寧に! 陣中とあって、大したことぁ出来ねえが、まあ、入ってくれよ」と彼は幕舎を示した。幕舎の中には今しがたまで話し込んでいたのだろうか、数名の将兵がおり、男の姿を認めるとそそくさと地図を仕舞った。 「悪ぃな、お客人と少し話がしてぇ、外に出てくれ」と玄徳は何の遠慮もなく男たちに告げた。 「で、ですが、殿……」と子龍は慌てた。 「いいから、いいから、子龍の旦那、親分に任せておきなって」と憲和が彼の背を推す。ちらりと目を走らせる益徳と雲長、他の兵士たちも続いて幕舎を出ていくと、二人だけが残った。  文若が身を低くしようとしたのを遮って、 「俺は堅苦しいのが嫌ぇだ」と玄徳。それを見て使者はちらりと笑みを見せた。 「……では、早速本題に入らせていただきます」と文若が返す。「まずはこの度の袁家の嫡男の顕思殿のご推挙に厚くお礼申し上げます」  玄徳はにやっと笑って、 「堅苦しいのは嫌いだって言っただろ?」と肩をすくめて、「適当に座ってくれよ」と質素な胡床を示す。文若は微苦笑を見せ、すぐに隠した。 「いやあ、すまねえなあ、さすがの袁家のご使者にこんなところでさぁ」と言いながら遠慮なく玄徳は胡床に腰を据える。 「いえ、慣れておりますゆえ」と彼は応じながら玄徳に倣った。「わざわざお人払いをしてくださり、ありがとうございます。……子龍殿とやらは冀州のお生まれのようですね?」 「……」 「あ、失礼、冀州の訛がおありでしたので」  玄徳は瞬間文若を値踏むように見やり、 「ははは、侠風情の寄せ集め集団だよ」と自虐的に笑って見せた。「……さて、と。袁の殿様もアンタみたいな頭の良さそうな使者を遣わすくれぇだ、回りくどいことぁ、言いっこナシで行こうぜ。……手を引いてもらいてえ」  文若は目を瞬いた。 「何のお話でしょうか……?」 「曹操の件だよ」と玄徳が返す。 「さて、お話が見えませんなあ?」  玄徳は低く笑った。 「今言ったじゃねえか、回りくどいのはナシってさ?」  文若の表情が微妙に変わる。それは玄徳を観察しているようだった。 「俺は袁の殿様と話をつけたかったんだよ。そのために孝廉を利用させてもらった」と玄徳。「そしてちぃっとばかし、帝と同じ俺の姓も……」  文若はまた笑みを見せる。 「曹操の野郎に裏から支援しているだろう? それを引いて欲しいんだ。無論、タダ、とは言わねえ。俺が徐州にいる限り、背後から袁家を攻撃することぁねえよ。袁家は公孫家と存分に戦してくれ。こっちはこっちで、曹操との片を付けてぇんだよ」  文若はじっと玄徳を眺めやり、やがて小さく笑んだ。 「なるほど、あなたが徐州にいる限り、ですか」 「ああ」 「あなたは伯珪殿のご学友とか。……それを裏切ると?」 「人聞きの悪いことを言うなよ。こいつぁ裏切りじゃねえよ。徐州の領民を守るためだ。伯珪だって、それくらいわかるさね」  しかし文若はまだ腑に落ちない表情をしている。玄徳はやれやれと肩を落として、 「ちっ、憚りながら、この俺は偉ぇ殿様同士の戦よりも、領民の方が気にかかるだけなんだよ。曹操の野郎をどうにかしねえと、徐州から民がいなくなっちまうじゃねえか。農地に塩を撒きやがるし、追い剥ぎは増えるし、あの野郎をどうにか追い返してえ」  玄徳の言葉に耳を傾けていた文若はちらりと彼を見やった。 「……それだけだと?」 「それだけだよ」と玄徳。「どうせエン州からの補給は大したことぁねえんだろう? 袁家の支援がなけりゃ、奴さん、立ち往生だ。この通りだ、支援を断ってくれ」  玄徳は頭を下げて見せるが、その目は文若を捉えたままだ。が、文若は微かに目を泳がせる、玄徳はそれを見逃さなかった。 「……主公にはそうお伝えいたしましょう、ただ、確約は出来ませぬ」 「……ああ」と玄徳は頷いた。「袁の殿様によろしく伝えてくれよ、徐州の民がいなくなっちまう前に」  文若は微かに笑みを見せ、 「承知しました」と応じた。  幕舎の外でやきもきしていた義弟たちは、ややあってから使者と共に玄徳が幕舎の外に出てくる姿を見て俄に安堵した。使者は丁重に頭を下げて陣を去って行ったが、その姿を見送った玄徳の表情には一抹の不快が見えた。  横に立っていた義弟の雲長はその顔を見て、 「如何なされました、兄者?」と尋ねた。 「んん? ……いや、そうさなあ、何と言うか…… 腑に落ちねえ……」  義兄の答えに彼は首を傾げた。 「何がですか?」  しかし玄徳は答えを持たず、小さく肩をすくめるに留めた。
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