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 翌日、彼は野営地の管理を義弟たちに任せると、外出の準備をして馬の手綱を手にしていた。そこを目敏く子龍が見つけると、 「玄徳殿、お出かけでしたらお供いたします」と申し出た。  玄徳は軽く肩をすくめて、 「いや、ちょっとばかり本隊に顔を出してくるだけだぜ?」  子龍は顔を強張らせる。 「でしたら、尚の事…… 近隣は追い剥ぎも多いのですよ?」 「へいへい」と玄徳は応じた。  子龍は子実と配下の兵士数名を伴い、玄徳の供として陣を出た。草原には枯れかけた丈高い芒が群生し、馬が過ぎるたびにゆらゆらと揺れた。  幾つかの季節を子龍は玄徳と過ごしていたが、未だその人物が何を考えているのかわからなかった。前日には袁紹からの使者なども訪れ、密談をしていた。  馬に揺られる玄徳の背を見ながら、使者と何を話していたのだろうか、と子龍は訝しんだ。この男が伯珪を裏切るかどうか、それは子龍にとっては大きな問題ではなかった。領民を裏切ることは許せなかったが。しかしそれは考えにくい、だから彼は玄徳に従っているのだ。  やがてタン城が見えてきた。陶謙は現在、その城に本隊を置いていた。城に辿り着くと子龍たちは控えの間に置かれた。  玄徳は衛兵に用向きを伝えたが陶謙は姿を現さなかった。その代わりに彼を出迎えたのは曹豹という人物だった。 「すまぬなあ、主公は忙しくしておいでで……」と彼は玄徳を迎えると、建前臭い理由を述べる。玄徳は慣れたもので、 「いやいや、殿様が忙しいのはわかっていたさ、俺は一度アンタと話をしてみてぇと思ってたんだよ」と応じる。「長らく殿様に仕えてるんだろう、その信も篤いと聞いたぜ?」  そうくすぐられてしまえば悪い気もしない、同軍のよしみもあり、曹豹は俄に緊張を緩めた。玄徳は曹豹の部屋に通されると、軽く戦況の報告をしてから、いざ、本題に取り掛かる。 「……そう言やぁ、曹操の親父を殺した張ガイとかって野郎の話はあまり聞かねえが、一体、どんな奴だったんで?」  曹豹は軽く首をひねり、 「さぁて、徐州生まれらしい、というくらいしか私も知らないのだ。曹操の父親と家族の護衛についたが、仲間と共謀し、他の護衛兵たちを殺して金品を強奪したのだ」  そのあたりの流れは玄徳も耳にしてはいる、彼が聞きたかったのはもっと細かい事柄だ。 「ふむ、するってぇと、曹操の家族は皆殺しかい?」  曹豹は首を振った。 「いいや、側室と幼子は無事だったようだ。護衛兵の一部が無事に泰山に送り届けたのだ、途中まで泰山太守の応氏が兵士を出して事なきを得た」 「……じゃあ、遺体は?」と玄徳が尋ねた。 「異変を知らされて我々はすぐに動いたが、何分にも野犬が多くてなあ……」と曹豹は不快気な顔をした。 「判別はつかなかった、と?」 「ああ」と彼は頷き、「しかし生き残りの護衛兵たちの話では曹巨高殿は従者もろとも殺されてしまったそうだ……」 「……そして張ガイも見つからなかったと」 「その通りだ」と曹豹は頷く。 「……女と子供は泰山のどこにいるんで?」  曹豹は苦笑をちらりと見せて、 「いや、応太守に保護されたが、余程、愛妾だったのだろうな、すぐさま使いが来て曹操のもとに連れ戻されたらしいぞ。まあ、元芸妓で相当な美人らしいからなあ……」 「へっへっへ、奴さん、噂通りの好き者なんだなあ」と玄徳も笑みを見せる。「……なるほどな」 「うん?」と曹豹は玄徳の顔を見やる。  玄徳はゆるりと立ち上がりながら、 「陶牧に伝えてくれ。絶対ぇ、この城を守り抜いてくれ、と」  曹豹は不審を感じたものの、 「無論、この城は死守するつもりだ」と応じた。  さて、曹豹の元を下がると玄徳は更にタン城内にいる田楷を訪ねた。玄徳と子龍たちを迎えた田楷は親しげに彼らを自分の幕舎に招いた。 「久しぶりだなあ、田兄貴! 戦況はどうだい?」 「どうにもこうにも。城に篭っているが、曹操は気長に攻めるつもりなのか、ちくちくと突きに来る、兵士たちも皆、参りかけてるぞ」 「あの野郎、おそらくは他所の援助を受けているだろうな」  応じながら彼は田楷が勧める胡床に尻を据えた。 「むう、おそらくは袁家の支援でも受けているのだろうが…… 憶測に過ぎぬ」と田楷は頷いた。「……でなければあの大軍をこの長期間維持できるとは思えぬからなあ」 「曹操め、先の小競り合いで一旦、引きかけたようだったのになあ」と玄徳。  初平四年の前半、曹操の治めるエン州に対し、袁術が侵攻した。その袁術と同盟を結んでいたのが彼らの主でもある公孫サン、陶謙、そして孫堅らであった。対する曹操と同盟を結んでいたのが袁紹、劉表らであり、その戦はかなり熾烈なものとなった。袁術は敗れて寿春まで敗走し、同盟者にも少なからず被害が出た。  無論、陶謙にも。  田楷はそっと溜息を吐き出すとやや声を潜め、 「領民には罪はあるまいになあ……」と呟いた。 「……全くだ」と玄徳も応じる。「……さっき、小耳に挟んだんだが、件の曹操の父親を殺した野郎、張ガイとかって奴、どこに逃げ込んだかわからねえとか……」  田楷は困ったような顔をちらりと見せた。 「奴には色々な噂があるぞ…… 何しろ、それ以前の経歴が殆どわからぬからなあ……」 「うん?」  田楷は一瞬、周囲に警戒を見せると更に声を潜めて、 「噂では恭祖殿が襲わせたとか……」 「ええ?」と玄徳。 「だが、逆にそんなバレバレなことをするほど、あの老人が馬鹿とも思えぬ、父親を殺されちゃあ、曹操でなくとも怒るだろうに、人の口には戸は立てられぬからなあ…… 恭祖殿が善人とは言わぬが、碌でもない噂ばかり……」  田楷はそれなりに客将としての経験が深い、方々で客将をしている間に人の噂をよく聞いているのだ。その彼が張ガイを知らないと言う。 「奴の名前は偽名かも知れねえなあ?」 「ああ」と田楷が頷いた。「その線はあるだろうな。……でなけりゃ、警備兵が追い剥ぎになるなど、とんだ醜聞だ」 「なあ、田兄貴、ここだけの話だぜ……」  玄徳の言葉に居合わせた子龍は席を外すべきだろうかと思った、が、すぐに玄徳はひそひそと続ける。 「この一連の騒動、言い方は悪ぃが、何もかも曹操の野郎に都合が良過ぎやしねえか……?」  田楷は訝しげに眉をひそめる。 「ええ? 父親を殺されているのだぞ……?」 「ああ、でも、妾とガキは死んじゃいねえよ。女子供が逃げられるのに、どうして多少年寄りとしても、奴さんの親父が逃げ損ねたかねえ……?」 「……」  田楷は口を噤んでしまった。背後にいた子龍も思わず息を呑む。 「曹嵩は死んだふりして、何処かに隠れてるんじゃねえのか?」  玄徳の言葉に田楷は固唾を呑む。 「……つまり、張ガイは……?」 「曹操か、あるいは袁紹か、どっちかに雇われたのさ」」と玄徳。「父親殺しの罪の濡れ衣を陶牧に着せて、曹操は晴れて徐州を攻められる。袁紹は陶謙からの攻撃を気にせずに伯珪と遣り合える」 「……では、曹嵩はどこにいると思う?」 「多分泰山だ。応劭は泰山太守だからな。妾とガキも一旦は応劭に保護されているし。野犬が多くて曹嵩の骸も見つからねえ。こいつは曹操にとっちゃ、好都合だ。親父は泰山で隠居と洒落込むってぇ寸法だよ」 「ぬうう……」  田楷は思わず唸った、もしもそれが本当だとしたら、曹操の侵攻自体が義に叶わぬものとなる。奪われた領民の命もあまりに惜しい。田楷のこめかみに青筋が浮くのを認めた玄徳は、 「でも、全部が全部、曹操の悪巧みってわけじゃねえよ」と彼を留めた。「……領民が殺されているのを見たが…… あの中には相当数の兵士がいたようだ、手を見りゃわかるぜ。俺は農民だからな」 「どういうことだ……?」 「陶牧の戦法だよ」と玄徳。「いや、本人の命令かどうかはわからねえがな。曹操の軍に対して、遊撃するのに領民を盾にしたんじゃねえか? 兵士に領民の扮装をさせて紛れさせ、身を隠しながら攻めたんだよ、おそらく」 「まさか、そんな……」 「まあ、戦は詐術だ。どっちもどっちだよ。だが、背後に不穏分子を残したまま進攻するわけにも行かねえからな。曹操だって配下の兵士を守らなきゃなるめぇ? だが、領民に紛れた兵士はどいつだかわからねえ、だから……」 「だから、皆殺しか……」と田楷は唸るように呟く。「確かに、わからぬではないな。領民に情けをかけて進んだところで背後から攻められては…… 逆にその噂が流布すれば、領民は逃げ出す、結果、殺される者は少なくなるかも知れぬ……」  玄徳は軽く肩をすくめて、 「奴さんがそこまで考えたかどうかはわからねえがな。しかし、少なくとも領民に紛れた遊撃兵に襲われる恐れの芽は摘める」  玄徳のその言葉を聞きながら、背後に立った子龍は曹操という人物に恐れを感じた。いや、恐れだけではない、ある種の尊敬もだ。曹操の考え方は子龍の父親にも似ている。士大夫たる者、民草と人というものの在り方を知らねばならぬ、それが彼の父親の口癖だったからだ。人、とは民草を動かせるものの意であり、民草とは同列のものではないのだと彼は教育されている。  その伝で語るのならば、子龍自身は人、などというものになりたいとは思えない。だが彼がなりたい存在は明らかにある、それは民草を守るものだ。その思いだけで彼は突き進んできた。  だがそれでも、人の情以上の目的を持って民草を動かし、あるいは死なせる”人”なる存在があるのだとすれば、きっとそれは曹操という人間の姿を借りるのだろう、そんな畏敬を感じたのだ。  田楷は思案げな顔をしていたが、やがて尋ねた。 「……で、玄徳殿、どうするつもりだ……?」
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