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「この街で暮らす人達は、一体何を食べているのだろう?」  メルエーナがこのナイムの街に来て、最初に思ったのはそんな疑問だった。  流通と言うものがあることは分かっていた。月に二回だけ村にやって来る行商人を、他の村の人たちと同じように、メルエーナも心待ちにしていたのだから。  けれど、行商人が販売する商品の量などたかが知れていた。村の人々は自給自足が基本であり、行商人から購入するものの多くが嗜好品や装飾品などの生きていく上で必ずしも必要のないものばかりだった。  だから理解できなかった。この大きな街の人々全員に行き渡るほどの食料が、この畑一つ無い石畳の敷き詰められた街にあるとは思えなかった。  この街で生まれ育った人が、メルエーナのそんな疑問を聞いたのならば、きっとそんな疑問持った彼女のことを笑うだろう。少なくともこの街での生活を半年間体験した彼女自身は、以前の自分を無知だったと理解している。 「……もう、半年以上になるんですよね。私がこのナイムの街に来て……」  父は反対したが、この街での生活を体験する切っ掛けを作ってくれた母に深く感謝する。小さな田舎の村の生活では体験できなかった様々な事を経験することができた。それも、楽しい事がほとんどだった。 「でも、わからないことはまだまだたくさん。それに知りたいこともいっぱい……」  生まれてから十七年間、メルエーナはその大半を小さな村で過ごしてきた。でも、この半年間は、それに勝るとも劣らない濃密な時間だった。 「お待たせ、メルちゃん。ごめんなさいね。ようやくお財布が見つかったわ」  昼の明るい街並みをみながら、ぼんやりと感慨にふけっていたメルエーナに、一人の女性が笑顔で声をかけてきた。彼女の事をメルちゃんと呼ぶその女性は、この街での彼女の保護者でもあり先生でもある人物だ。 「よかったですね、バルネアさん。でも、お財布は決められた場所にきちんと置いておいた方がいいですよ」 「は~い。でも、ジェノちゃんがいない時でよかったわぁ。また叱られちゃうところだったわ」  バルネアはそう言ってホッと胸を撫で下ろす。その仕草が妙に子供っぽいとメルエーナは思う。  母と五歳しか離れていないはずなので、バルネアは三十代の半ば近くのはずなのだが、子供っぽい仕草や言動と容姿のため、実年齢よりもずっと若く見える。  そしてなにより、この人はみんなの目を引く。顔立ちは整っているものの、ものすごい美人というわけではないと思う。金色の髪はこの街では珍しいわけではないし、髪型も長い髪を編んで後ろでまとめているだけで特段珍しいものではない。服装も周りのみんなと差異はない用に思える。けれど不思議と周囲の注目を集める存在なのだ。もっとも、本人は全くその自覚がないようだが。 「駄目ですよ、バルネアさん。ジェノさんはバルネアさんの事を思って……」 「う~ん。分かっているんだけど、どうしても適当なところに置いちゃうのよね。不意に新しい料理のアイデアが浮かんだりすると特に……」  窘めるメルエーナに、バルネアは苦笑しながらそう答える。ことが料理のこと以外だとこの人はいつもこんな感じだ。 「まぁ、歩きながら話しましょう。早く行かないといい商品が売り切れてしまうかもしれないわ」 「はい。そうですね」  メルエーナは微笑み、商店街に向かって足並みを揃えて歩き出す。思えば二人きりで買い物に出かけるのは久しぶりだ。  ……そう、分からないことはたくさんある。特にこの人のことは分からない。半年以上同じ屋根の下で寝食を共にしているにも関わらず。  天真爛漫な笑顔で「今日は何がお買い得かしらねぇ~」と呑気な事を呟くこの女性が、この国の現国王様から「我が国の誉れである」とまで賞された凄腕の料理人なのだとはどうしても思えなかった。 「ジェノちゃんも美味しいものを食べてくるだろうし、今日は、私達もご馳走にしましょうね」 「はい」  良い食材を買い求めることができて、ほくほく顔のバルネアにつられて、メルエーナもなんだか嬉しくなってくる。  この街に来た当初は行き交う人波の多さに圧倒されて買い物どころではなかったが、さすがに半年も経つとずいぶんと勝手が分かってきた。特に食料品については、先生の指導も相まって、この街の主婦たちに負けないほどの知識をメルエーナは物にしていた。 「香辛料の類も安かったので、もう少し買っておきたかったんですけれど……」 「そうよねぇ。私とメルちゃんの二人だと、買っても持って帰れないからどうしてもね。やっぱり男手がほしいわね」  メルエーナもバルネアも両手が荷物でふさがってしまっている。本当はまだまだ買いたい品がいっぱいあったのだが、諦めて帰路につくしかなかったことが少し悔しい。 「あっ、メルちゃん。『女の価値はスパイス棚で決まる』ってことわざを知っているかしら?」  不意にバルネアが尋ねてきた。「いいえ」とメルエーナが答えると、バルネアは嬉しそうに微笑み、 「女性の価値は料理が上手か下手かで決まるって意味なの。香辛料は肉や魚の臭い消しに使ったり、香りつけや味の引き締めにも使うものだから、何種類ものスパイスを使いこなせてこそ料理上手だということね。  まぁ、最近は女の人も仕事を持って、男の人に負けずに働いている場合もあるから、それが全てだとは言わないけれど、女性の魅力の一つであることには変わりないわ」  そう説明してくれた。 「それと、『新しい料理人はスパイスを使いすぎる』ということわざもあるの。スパイスは適量だから効き目があるのであって、たくさん使えばいいというものではない。経験の足りない新人はその加減がわからずに失敗するという意味ね。いい機会だから、今日は料理を作りながらそのあたりのことを勉強しましょうか?」 「はっ、はい!」  メルエーナが答えると、バルネアは満足気にまた微笑んだ。 「あらっ? なんだか向こうが騒がしいわね」  バルネアの視線の先には人だかりができていた。あの辺りは店がなく、川が流れているだけのはずなのに。 「ったく、いちいち泣いてるんじゃねぇよ! 身投げなんて馬鹿なことをするんなら、この街以外でしやがれ!」  メルエーナの耳に一際大きな怒声が聞こえてきた。 「今の声って……」 「レイちゃんね。間違いないわ」 「あっ、バルネアさん!」  聞き覚えのある声に、バルネアは人だかりを縫うように進んでいく。立ち止まっているわけにも行かず、メルエーナもそれに倣う。 「……あっ、ううっ……」  人だかりを抜けると、地面に腰を落とし、嗚咽を漏らして泣く少女と、憮然と腕組みをして立ち尽くす、白を基調とした自警団の衣服をまとった、金髪で目つきの良くない見知った顔の少年がいた。加えて、二人とも全身ずぶ濡れだった。 「……身投げ?」 「……あんなに若いのになんでまた……」  興味本位で集まっている人たちの遠巻きに聞こえてくる声に少し気分を害しながらも、メルエーナはすぐに自分の上着を一枚脱いで、すすり泣く少女にそれを被せる。こんなに人がいるのに、何故、誰も少女に手を差し伸べないのか理解できなかった。 「メルちゃん、これも掛けてあげて」  バルネアは買い物袋の中から真新しいタオルをメルエーナに手渡し、怒声を上げていた少年に詰め寄った。 「こ~ら、レイちゃん。女の子にそんな言い方はないでしょうが!」  迫力がない声だったが、バルネアの叱責に、レイと呼ばれた少年は狼狽する。 「なっ! ……ばっ、バルネアさん……」 「もう。女の子をいじめている暇があったら、まずは身体を乾かしなさい。風邪を引いてしまうわよ」 「だっ、大丈夫だよ、これくらい。それと、別にいじめていたわけじゃあ……」  バルネアたちのやりとりを聞きながら、メルエーナはタオルを少女に被せて体を隠す。本当は早く服を脱がせた方がいいのだろうが、こんな街中でそんな事をする訳にはいかない。 「まったく。女の子をいつまでもずぶ濡れのままにして置くなんて。この娘のことは私に任せて、お風呂にでも入ってらっしゃい」 「まっ、待ってくれよ、バルネアさん。こういう事件は俺たち自警団の……」  レイが言い訳をするが、こんなデリカシーのない人に女の子を預けては置けないとメルエーナも思った。事情があるのだろうが、年頃の女の子をこんな姿のまま放っておくのはあんまりだ。自警団の人間であるのならば尚更そういった配慮が必要なはずなのに。 「とにかく、話は後で聞くから、とりあえずこの娘は家で預かるわよ。団長さんには私が預かっているって言っておいてくれればいいから」  ピシャリとそう言い、バルネアは話を打ち切る。 「……事情は分かりませんが、まずは体を温めましょう。私達の家はすぐそこですから、ついてきて下さい」  嗚咽を漏らし泣き続ける少女は、何も応えなかったが、メルエーナとバルネアは二人がかりで少女をできるだけ優しく立ち上げると、静かに自分の足で歩き始めた。 「……良かった。なんとか着られたみたいで」  メルエーナが手伝い、少女の体を温めるためにお風呂に入れ、自分の服を貸したのだが、どうにかサイズは合った。  少女の年の頃はメルエーナと同じくらいに思えた。もっとも、少女はほとんど何も喋らないので詳しいことはわからないのだが。 「……なさい……」  ポツリと少女が呟くのを聞き、メルエーナは「気にしないでください」と笑みを浮かべる。 「あらっ、いいタイミングね」  少女を連れてリビングに行くと、エプロン姿のバルネアが声をかけてきた。そして食欲をそそるいい香りがメルエーナの鼻孔をかすめる。  バルネアはニッコリと微笑むと、 「とりあえず、席について。ちょうど美味しいスープが出来上がったところよ」  そう言って少女をテーブルの一席に座るように促す。 「さぁ、どうぞ」  メルエーナも椅子を引いてそこに座るように勧める。  少女はどうしたものかと戸惑っていたが、やがて静かにその椅子に腰を下ろした。 「はい。熱いから気をつけてね」  バルネアは深皿に入ったスープを少女の前に差し出す。金色のそのスープからは芳しい香りが漂う。 「…………」  少女はスープに視線をやり、そしてメルエーナ達を一別して顔を俯けて黙りこんでしまった。だが、 「……あっ……」  くぅ~っと少女のお腹が鳴った。恥ずかしそうに少女は顔を赤面させてまた俯いてしまう。 「……苦しくて、悲しくて、その上お腹まで空いていたら、そんなに辛いことなんてないわ。ほら、冷めてしまう前に一口味をみてちょうだい」  バルネアの言葉に少女は少し顔を上げた。 「はい、どうぞ」  メルエーナが少女にスプーンを差し出すと、少女はおずおずとそれを受け取る。そして静かにスープを一口だけ口に運んだ。 「……美味しい……」  少女はそう呟くと、もう一口スープを口にした。そして、それからはスプーンを忙しなく動かしてスープを味わい続ける。 「……くっ、ううっ……」  スープを食べながら、少女は泣きだした。 「……使ってください」  メルエーナはハンカチを取り出し、笑顔でそれを少女に手渡す。 「ふふっ。おかわりはいかがかしら?」  空になった皿を下げて、バルネアも笑顔で新しいスープ皿を少女の前に差し出した。 「……あっ、うっ……」  少女は堪え切れなくなったように大声を上げて泣き叫んだ。 「…………」  バルネアは何も言わずに優しく少女を抱きしめた。最初こそ少女は抵抗しようとしていたが、やがて自分の意志でバルネアの体を掴んで噎び泣く。  メルエーナもただ静かに少女が落ち着くのを待った。 「……少しは落ち着いたかしら?」  十分近くも少女は泣き続けたが、それもようやく収まった。バルネアの問いかけに、少女はコクリと頷き、バルネアから離れる。 「お水です。よかったら飲んでください」  メルエーナが水の入った木のコップを渡すと、少女は「ありがとうございます」と言ってそれを静かに飲んだ。 「……ごっ、ごめんなさい、迷惑をかけてしまって……」  少女は完全に落ち着きを取り戻したようで、謝罪の言葉を口にする。 「何も謝る必要なんかないわよ。……あっ、自己紹介がまだだったわね。私の名前はバルネア。そして、こっちの子が……」 「メルエーナです。よければメルって呼んでください」  バルネアに促され、メルエーナも名乗る。 「すっ、すみません。私は、リリィと言います。この街の北地区に住んでいます」  少女も自分が名前を告げていないことに気づいたのか、慌てて名乗った。 「そう。リリィちゃんね。わかったわ」  満面の笑顔でバルネアが言うと、リリィと名乗った少女は気恥ずかしくなったのか頬を赤らめて目をそらす。 「……あれっ? この家は何かのお店なんですか?」  少女の視線が、奥の別室の幾つものテーブルと椅子を見ていることに気づき、メルエーナは少女の質問の意図を理解した。  家に入るときは裏口からだったことに加えて、そのままお風呂に入って、この部屋まで連れてこられたのだ。驚くのも無理は無いだろう。 「ふふっ。ここは私のお店なの。パニヨンって名前のお店でね、料理を出しているのよ」 「……パニヨン……。……えっ?」  料理店パニヨン。名前だけなら子供でも知っている。このエルマイラム王国の首都ナイムには数多くの料理店があるが、その中でも屈指の名店と呼ばれる店。そしてその料理人は現エルマイラム国王に『我が国の誉れである』とまで讃えられたという人物なのだ。 「えっ、えっ? あっ、あの有名な……」 「あははっ。有名かどうかは知らないけど、ただの小さな料理店よ。そんなに驚かないで」  驚いて口をパクパクさせるリリィに、バルネアは苦笑交じりに答える。 「ああっ、そういえば、スープが冷めてしまったわね。代わりを持ってくるから、ちょっと待っていて」  バルネアはスープ皿を片手にキッチンの大鍋に向かう。 「……あの、すみません。あまりにもリリィさんがひどい姿をしていたので放っておけなくて。突然のことでびっくりしたと思いますけど、許してください」  メルエーナはそう謝罪の言葉をリリィに述べる。  自覚はあるのだが、自分がおせっかい焼きなのは性分のようで治りそうもない。 「いえ、その、私のほうがご迷惑をかけっぱなしで。そっ、それと、私、お金を全然持っていなくて……。ですから、その、料理のお金……」  ぼそぼそと小さな声でリリィは呟く。 「……えっ? あっ、ああっ。大丈夫ですよ。リリィさんに飲んでもらっているスープは、今晩の私達の夕食の一品で、お金を頂くつもりなんてありませんから」  初めは言っている意味がわからず困惑したが、メルエーナはリリィの言葉を理解した。泣いている女の子を店に連れ込み、料理を食べさせて料金を請求するような阿漕な真似をするつもりは微塵もない。  改めて顔を突き合わせて、メルエーナはリリィの顔を見つめる。  年はやはり自分と同じくらいだろう。背丈も大差がない。それは服のサイズが合ったことでも明らかだ。タレ目の少し気弱そうな、でも優しそうな瞳。先ほどまでの生気のない目とは大違いだ。肩まで伸びた黒髪。その色が同居人の髪の色と重なり、メルエーナは羨ましいと思う。  ふと気が付くと、リリィも呆然と自分を見つめていることに気づき、メルエーナは彼女の視線の意味を察した。 「……あっ、すみません。名前しか名乗っていませんでしたね。私は、住み込みでこの店のウエイトレスをしているんです。そして、バルネアさんと私ともう一人の三人で暮らしています。もっとも、最後の一人は今日留守にしているんですが……」  バルネアが何故かすぐに戻ってこないため、メルエーナは簡単に自己紹介を続ける。 「……母から、都会での生活と料理を勉強してくるようにと言われまして、半年ほど前にこの街にやってきたんです」 「……私も、田舎の出身です。その、魔法を学びたいと思ってこの街にやってきました……」  リリィも怖ず怖ずとだが簡単な自己紹介をしてくれた。そして、年もメルエーナと同じ十七歳だということを教えてくれた。そのことを告げると、「そうなんですか」と微かだがリリィは微笑んだ。 「は~い、おまたせ。少し熱いから気をつけてね。それと、軽くつまめるものも作ってきたから一緒に食べて」  スープの他にパンを一口大に切り分けたオープンサンドウイッチを乗せたトレーを持ってバルネアが戻ってきた。おそらくそうではないかと思っていたが、料理をしていたようだ。  香ばしいパンの香り。そしてチーズとバジルとトマトソースの濃厚な香りが漂う。ゴクッとリリィの喉が鳴ったのをメルエーナは聞き逃さなかった。 「『スープには五つの徳あり』と言ってね。睡眠、消化、歯によく、お腹を満たして、血色を良くすると言われているのよ。誰も取ったりしないから、ゆっくり召し上がれ」  そう言ってリリィに新しいスプーンを差し出すバルネア。しかしそれを受け取ったリリィだったが、すぐには料理に手を付けようとはしなかった。 「……どうして。どうして見ず知らずの私に、こんなに優しくしてくれるんですか? 私は……」  リリィの問に、メルエーナとバルネアはお互いの顔を見合わせ、二人揃って苦笑した。  「……『他人のスープで唇にやけどするな』って、ことわざを聞いたことがあるかしら? 他人のことにあれこれと余計なおせっかいはするものではない、って意味なの。  でもね、私達の場合は職業柄、人様が飲むスープを作ったり運んだりするのがお仕事だから、ついつい口を出したくなってしまうのよ」  バルネアは冗談めかして応え、言葉を続ける。 「つまり、私もメルちゃんもすごくおせっかいなの。だから、まずはスープを飲んでしっかり体を温めて、お腹を満たして。そして、もしもリリィちゃんが良かったら、私達に話してくれないかしら? どうして川に飛び込んだりしたのか。……誰かに話すだけでも、少しは気持ちが楽になるものよ」  バルネアの言葉に、リリィの瞳が再び涙で歪む。 「……私は……。ただ……」  リリィはぽつりぽつりと、そして堰を切ったように話し始めた。自分のことを。再びこみ上げてきた涙とともに。  ――ただ魔法を学ぶために、リリィはこのナイムの街で暮らしていた。それはひとえに魔法を学ぶ場に、魔法アカデミーに入学するためだった。  決して裕福ではない家だったが、リリィの両親は彼女の夢を応援してくれた。しかし、昨年の試験では合格することができず、また今日発表であった今年の試験でも合格をすることができなかったのだという。  勉強と生活のためのアルバイトだけを繰り返していたため友人をつくることもできず、誰にも相談できなかったらしい。試験の結果に落胆し、街を彷徨い歩き続けて橋から身を投げた。そして溺れているところを自警団の少年――レイに助けられたのだ。 「……今回で二度目だったんです! お父さんとお母さんに無理を言って、今年もチャンスを貰ったのに……。私は……結局合格することができなくて。  ……一生懸命勉強をして、頑張って働いて、やっと試験を受けたのに……。全部、全部終わってしまったんです。もう私には……」 「リリィさん……」  涙とともに心境を吐露するリリィの姿に、メルエーナは胸を締め付けられる思いだった。一生懸命だった事柄であるほど、その思いが報われなかった悲しみが計り知れないであろうことは察するに余りある。 「……そうなの。辛かったわね……」  バルネアは物憂げな表情を浮かべたが、それを笑顔に変えて明るくリリィに声をかける。 「リリィちゃん。とりあえず冷めてしまう前にこれも食べて。さっきも言ったけれど、お腹が空いていたら余計悲しい気持ちになってしまうわ。『悲しみはパンがあれば薄らぐ』ともいうしね」 「えっ、あっ……。いっ、頂きます」  差し出された皿からオープンサンドウイッチを一つ手にし、リリィはそれを静かに口に運んだ。 「…………」  一瞬、リリィは呆然としたまま固まり、そしてもう一口サンドイッチを食べる。 「……おっ、美味しい。すごく美味しいです」 「そう。良かったらもっと食べて」  バルネアは涙ぐみながら答えるリリィの頭を優しく撫でて言い、 「それと、もしもリリィちゃんが良かったら、夕食も食べていってくれないかしら? 今日はジェノちゃ……えっと、一緒にこの家で生活している子が留守なの。だから私とメルちゃんの二人だけで夕食を食べる予定だったから、少し寂しくて。お客さんがいてくれたほうが私も料理の作りがいがあるから。ねっ?」  そう彼女に提案する。 「それがいいですよ。リリィさんの服が乾くまで、まだ時間がかかりますし」  メルエーナもバルネアの提案に同意する。 「……でも、これ以上、ご厚意に甘えるわけには……」 「そんなこと気にしないで。私達が勝手にやっているだけだから。それに、放っておけないのよ、リリィちゃんの事が。……その、あんまりにも昔の私にそっくりだから」  バルネアはそう言い、困ったような笑顔を浮かべる。 「昔のバルネアさんに似ているんですか?」  突然のバルネアの告白に、メルエーナも怪訝そうな顔をする。 「……そうなのよ。私も辛いことがあって、リリィちゃんと同じように川に身を投げようとしたことがあるの」 「えっ? 私と同じように……」  リリィの言葉に頷き、バルネアはリリィの向かいの席に静かに腰を下ろした。メルエーナもそれに倣い、リリィの隣の席に座る。 「ねぇ、リリィちゃん。夕食までまだ時間があるから、よかったら私の話を聞いてくれないかしら?」  リリィが「はい」と頷くと、バルネアは静かに話し始めた。  それは、バルネアがメルエーナ達と同じくらいの年頃の話。彼女自身がリリィと同じような苦しみを抱いていた時の話だった。 『ときには、心休まる休息を』  その店の名は、『銀の旋律』と言う。  料理人の間では知らない者がいないほどの名店中の名店。その店の料理人となることは料理の道を志す者の夢であり、そして一つの到達点である。  だが、その夢を現実のものとすることができるものは数少ない。その理由の一つがこの店の徹底した英才教育にある。  まずこの店で働くことを許されるには血統が必要となる。血統とは、三代以上続く老舗料理店の料理人の血を引いていること。  そして、十歳になるまでに料理の基本を身につけて、その年から『銀の旋律』の別店で働き、見習いから始めて部門料理長以上の役職となることに加え、十六歳までの若手料理人が参加する歴史ある料理コンテストで優勝することが求められる。  そこまでのことを成し遂げて、初めて本店での見習いになることができるのだ。その門戸は極端に狭い。  だが、バルネアはそのほとんどの条件を十五歳の若さでクリアすることができた。……ただひとつ、料理コンテストでの優勝を除いて。  これまでに三回、年に二度行われる料理コンテストに参加したバルネアだったが、その全てが予選こそトップであったものの、本戦では決勝でことごとく敗退という結果で終わってしまっていた。  いつも最後の最後でバルネアは貴重なチャンスを物にできず、残された機会は後一回に迫っていた。 「……駄目だな。こんな料理では、今度のコンテストも危ういぞ」 「……そう、ですか……」  貴重な休みに無理を言って店の初老の料理長に味をみてもらったのだが、返ってきたのはバルネアの望む結果ではなかった。 「……私もコンテストでは一度優勝を逃している。お前の気持ちもわからないでもないが、これがお前にとっての最後のチャンスであることは揺らぎ用もない事実だ。  お前もルーシアと同じように、コンテストまで店に出なくてもいい。僅かな期間でも、もう少しあがいてみろ」  料理長はそう言い残し、店の厨房を後にしていった。  一人そこに残されたバルネアは、重い足取りで料理の後片付けを済ませる。  そしてそれを終わらせると暫く呆然としていたバルネアだったが、少し気分を変えようと思い、戸締まりをして街に繰り出すことにした。 「……どうして、あと一歩のところでうまくいかないんだろう……」  重い溜息をつき、バルネアは歩き慣れた街を歩く。憂鬱なバルネアの気持ちとは正反対のさわやかな春の陽気が街を包んでいた。  このプレリスの街にやってきてもう五年以上が経つ。だが、料理コンテストまで後一週間。その結果次第では、バルネアはこの街を去らねばならなくなってしまう。 「……もう私には時間がない。これが最後のチャンス……」  料理長の言葉を思い出し、今度の料理コンテストに出すメニューを頭のなかで整理しながら街をあてもなく歩きまわる。不安でじっとしていることができないためだ。 「もしも、もしも今回も優勝できなかったら、全てが終わってしまう。今まで積み重ねてきた時間も努力もすべてが無駄になってしまう……」  それを思うと怖くて仕方がなかった。そんなことになってしまっては、家族に合わせる顔もない。 「……料理をするのが怖いなんて初めて……。なんでこうなっちゃったんだろう……」  ふとバルネアは自分の手を見る。年頃の女の子のものとは思えないボロボロの手。物心ついた頃から包丁を片手に食材と格闘を続けてきた手。 「……私から料理を取ったら何も残らない。でも、このままだと……」  不安な気持ちから浮かんでくるのは、最悪のイメージ。夢破れて途方に暮れる自分。料理人という道を閉ざされてしまった自分。……そんなことは耐えられない。  体が震える。いつもこうだ。いつもいつも肝心なところで自分は不安な気持ちに負けて失敗する。あと一歩、ほんの一歩が届かない。 「……これが最後。最後なんだ。もう失敗はできない……」  何度も何度も自分に言い聞かせる。けれどその度にバルネアの心の中に重い何かが生まれてくる。  街を歩いていると聞こえてくる誰かの楽しそうな笑い声。気落ちするバルネアの気持ちなど誰も分かるはずもなく、楽しそうに、嬉しそうに笑っている。それが余計バルネアの鬱屈とした思いをいや増していく。 「……疲れたなぁ……」  歩き疲れた。いや、それ以上に考え続けることに疲れ、バルネアは街の大きな橋の真ん中で足を止めた。 「はぁ~。なんかもう、ここから飛び降りてしまいたい気持ち……」  立ち止まる自分に関心を持たず橋を往来する人々を横目に、バルネアは何気なくそう呟き、川の流れを見る。  雪解け水で激しく流れる川。橋の上からはかなりの距離がある。もしもここから落ちたら助からない……。そう、絶対に助からない。間違いなく死んでしまう。死んでしまったら、もう何も考える必要がなくなる……。 「…………」  川の流れを見ていたはずの体が、バルネア自身も気づかぬうちに前のめりになる。ただ水の流れに誘われるように呆然とバルネアが体を乗り出そうとした瞬間だった。 「……あの。まだ、川の水は冷たいと思うよ……」  そう不意に背中から声をかけられ、バルネアは驚いて振り返る。するとそこには自分と同じくらいの年頃の男の子が立っていた。 「……あっ、突然ごめん。その、橋から飛び降りるって聞こえたから……」  誰にも聞かれないと思っていた自分の呟きを聞いていたことにバルネアは驚く。 「えっ? あっ、ごめんなさい。その、本気で言っていたんじゃないんです……」  そう、ただ冗談のつもりで言っただけのはずだった。だが、もしも今声をかけられなかったら自分は何をしていただろう?   想像するだけで背筋が凍るような気持ちだった。 「えっと……」  バルネアは、命の恩人である眼前の少年を観察する。  年はやはり自分と同じくらいだろう。その年頃の男の子としては小柄で、バルネアと同じくらいの背丈だ。髪型も栗色の髪を短く切りそろえているだけで、一見しただけでは印象に残らずすぐに忘れてしまいそうなパッとしない少年だが、バルネアはその顔に覚えがあった。 「そうなんだ……。よかった……」  少年はそう呟き、安堵の息をつく。 「…………」  バルネアは何も言わずにその少年の顔をまじまじと見て、そして確信する。 「……あっ、ごっ、ごめん」  バルネアの無言の視線に、少年は居た堪れなくなってしまったのか、踵を返してその場を去ろうとする。バルネアは慌ててその背中に声をかけた。 「あの、待ってください。今日もこれから『銅の調べ』に来てくださるつもりなんですか?」 「えっ?」  バルネアの方を振り返り、呆然とするその顔が可笑しくて、バルネアはつい、くすっと笑ってしまった。 「私はバルネア。『銅の調べ』の副料理長をやっています。いつもうちのお店に食べに来てくださっていますよね?」 「……どうして、その事を。……あっ、ええと、僕はティルっていう名前で……」  消え入りそうな声で答える少年に、バルネアはにっこりと微笑んだ。いくら店の奥で調理しているとは言っても、お客様の顔は頻繁に確認している。このティルという少年が自分の店の常連であることは間違いなかった。  周りに人気がないことを確認し、バルネアは裏口からティルと二人で店の中に入る。悪いことをしている背徳感もあったが、それ以上に好奇心を優先する。 「ちょっと待っていて。今、用意をするから」 「あっ、その、うっ、うん……」  コックコートに着替える時間は惜しいが、流石に外着のまま調理をする訳にはいかない。バルネアはティルに客席に座って待っているように言うと、更衣室に行って手早く服を着替えてエプロンを身に付ける。 「調理時間は二十分てところね。ふっふっふっ、気合が入ってきたぁ!」  バルネアはパンパンと軽く自分の頬を叩き、グッと拳を握ったまま厨房に戻った。 「あっ、あの、今日はお店は休みなんじゃあ……」  自分しか居ない広い店内で、落ち着かない様子でティルが尋ねてきた。 「気にしない、気にしない。それに、今日は私がお店を自由に使っていいって許可をもらっているから、大丈夫よ」  もっとも部外者を連れ込むのは不味いだろうが、これも常連客を離さないためだと自分に言い訳をして、バルネアは調理に取り掛かる。 「ええと、昨日のランチメニューは、ルーシアのお得意の魚料理だったから……。よ~し、それならちょっと変わった鶏肉料理にしましょうか。あっ、他に何かリクエストはあるかしら?」  満面の笑顔でバルネアが尋ねると、ティルは「いや、その、おまかせで……」と答えた。 「了解。すぐにできるから待っていて」  先ほど料理長に味見をしてもらった料理の残った材料で、バルネアは手際よく料理を仕上げていく。 「ここ最近はコース料理ばかり作っていたから、こういう楽しい料理をつくるのは久しぶりだわ」  バルネアは楽しそうに、けれど無駄のない動きで料理を続ける。  ぶつ切りにして塩コショウを馴染ませておいた鶏肉から水気を切って小麦粉を軽くまぶす。そして熱していたフライパンにそれを投入する。 「さてさて、いい焼き色がついたらお酒を入れて蒸し焼きにしてっと」  バルネアは水を得た魚のように活き活きと動く。先ほどまでの鬱屈とした感情などどこかに行ってしまったかのように。 「あっ、ちょっと変わったソースにするけど、美味しいことは保証するから安心してね」 「うっ、うん……」  バルネアの動きを何とか目で追いながら、少しだけ心配そうにティルは頷く。  バルネアは自覚していないが、あまりにも手際が良すぎて素人目には何をしているのかわからないのだ。 「そして後はこのソースにとろみが付いてきたら……」  蜂蜜とマスタード、それに醤油と水を加えたものを蒸し焼きにした鶏肉に絡めていく。 「たしか、パンよりライスのほうが好きだったはずよね?」 「あっ、うっ、うん……」  ティルの返事を聞く前に皿にライスを盛りつけ、バルネアはティルの席の前にそれを置いたかと思うと、次の瞬間には、香ばしさとほのかに甘い香りがする鶏肉料理を彼の前に差し出した。 「はい、お待たせ。バルネア特製、『チキンのハニーマスタードソース和え』よ。熱いうちに食べてしまってね」  そう言って満面の笑みを浮かべるバルネアに気負されながら、ティルは「すっ、すごいね」とあっけにとられて感想を述べる。 「もう。料理の評価は食べてからにして。はい、どうぞ」  バルネアはフォークとナイフの入った専用の小さな籠をティルの前に給仕する。 「あっ、ありがとう……」  呆然としながらも、ティルはその籠からナイフとフォークを取り出し、バルネアの期待の眼差しを受けながら、チキンを口に運び咀嚼する。 「ふふっ。お味はいかが?」  悪戯っぽくバルネアが尋ねると、ティルは少しの間呆然としていたが、 「……うん」  そう呟いて満面の笑顔をバルネアに向けた。それは、心からの笑顔。百の言葉よりも雄弁に、その表情がバルネアの料理を絶賛していた。 「……すっ、すごい笑顔をするのね、貴方……」  思わずその笑顔に見とれていたバルネアは、気恥ずかしそうに頬を染める。 「そうかな? だけど、こんなに美味しい料理を食べたのは、本当に初めてだったから……」  ティルはそう言い、もう一度満面の笑みをバルネアに向けた。 「そっ、そう? ライスにも合うと思うから、試してみて」  朱に染まった頬が熱くなるのを感じ、バルネアは戸惑いながら視線をティルから逸らす。何故かは分からないが、この少年に笑顔を向けられるのがひどく恥ずかしい。 「……うん。本当だ。ライスが一緒だと、一層美味しく食べられる気がする。……そっ、その、言葉では上手く言えないんだけど……。すごく美味しいよ」  そう言ってまた微笑むティルに、つい視線を向けてしまい、バルネアは再び頬が熱くなってくるのを感じる。 「このソースも本当に美味しい。鶏肉にはちみつのソースがこんなに合うなんて……。いつもこのお店の料理は美味しいと思っていたけど、これは特別に美味しいよ」 「もっ、もう。褒めすぎよ。『空腹は最高のソースである』ってことわざを知っている? ソースは料理の味を引き立てるものだけど、空腹こそがソースにも劣らない優れた調味料であるって意味なの。だから、貴方がそんなに美味しそうに食べているのは……」 「えっ、ええと、たしかにお腹は空いているけど、それを差し引いても美味しいよ」  そう言って微笑むティルに、バルネアは返す言葉が見つからなかった。  思えば誰か一人のために料理を作ったのも、そしてその感想を聞いたのも久しぶりだ。 「……うん。ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ。あっ、食後の紅茶もサービスしてあげるから、ゆっくり楽しんでね」 「あっ、うん……。でも、休憩時間が決まっているから……」  ティルはそう残念そうに呟いて、食事を再開する。少しだけ早めに、でも美味しそうに味わって自分の料理を食べてくれる姿に、バルネアは笑みを浮かべてそれを見守っていた。 「そう言えば、貴方のお仕事ってなんなの?」 「……船乗りだよ。その、まだ見習いだけどね……」  少し恥ずかしそうにティルは答えた。 「……船乗りなの? あっ、だからうちのお店に頻繁に来ていたと思ったら、暫くの間、全く来ない時期もあるのね」  小柄で線が細いティルの姿と屈強な海の男のイメージは結びつかないが、船乗りだというのであれば来店頻度がばらつくのも納得だとバルネアは思った。 「うん。ここの港を起点にすることが多いから、月の大部分はこの街にいるんだけどね。もう暫くはそんな生活が続くと思う」 「そうなんだ。そういえば、どれくらい前から、この街に来ているの?」 「……四年前かな? ちょうど船に乗り出したのが十二歳の頃だから……」 「ということは、私と同い年? 年は近そうだと思っていたけど……」  そんな取り留めのない会話をしていると、時間はあっという間に過ぎていった。  ティルは綺麗にバルネアの料理を平らげ、食後の紅茶を飲み終えると、静かに立ち上がり、 「えっと、ご馳走様。その、お代はいくら払えばいいのかな?」  そうバルネアに尋ねて来る。 「お代? いいわよ、そんなの。私も気晴らしで料理を作って、誰かに食べてもらいたかっただけなんだから」  本当は命を救ってくれたお礼もあるのだが、バルネアはその事は口にしなかった。 「そっ、そういう訳にはいかないよ。こんな美味しい料理にお金を払わないなんて……」 「いいの、いいの。今回は特別サービスよ。いつもうちのお店に食べに来てくれているお礼よ」  そう言いながら、バルネアは少しだけ憂いを含んだ笑みを浮かべる。  コンテストの結果がどうであれ、自分は近いうちにこの店を辞めることになるのだ。店で働く後輩たちのためにはなるかもしれないが、自分がこの笑顔を見るのはこれで最後。そう思うと何故か寂しかった。 「でも、やっぱり……」 「……それなら、こういうのはどう? ミリシ通りの広場の近くに『白の子鹿亭』ってお店があるんだけど、そこに明日、昼食を食べに来て。その、私が料理を作るから……」  バルネアは自分でも何を言っているのか理解できなかった。 「えっ……。うっ、うん。それぐらいはなんてことないけど……。でも、その、このお店は……」 「明日から暫くの間、私は休みをもらっているの。その間に料理の研究をしないといけないんだけど、料理を食べてくれる人が居たほうが私も気合が入るから……。その、駄目かしら?」  我ながら突飛な提案だと思ったが、考えるよりも先に口が動いてしまった。 「いっ、いや、駄目じゃないよ! その、僕で良ければ……」  ティルはそう言い、頬を紅潮させて俯く。 「ふふっ、ありがとう。しっかりお腹を減らしてきてね」 「あっ、うん……」  満面の笑みを返すバルネアに、ティルは顔をいっそう真っ赤にして頷いた。  太陽がそろそろ西の空に沈む頃になって、バルネアはようやくその考えに行き着く。 「……何をやっているんだろう、私は……」  バルネアはようやく完成したメニュー表を見ながら、頭痛をこらえるように頭を片手で抑えて嘆息する。  これが今度の料理コンテストのものであればなんの問題もないのだが、昼過ぎから今までの時間を掛けて懸命に作り上げたこのメニュー表は、明日、ティルという少年に食べてもらうためのものだった。 「今日がうちのお店を使える最後の日だったのに……。ううっ、どうしよう。コンテストのメニューをまるで考えないで終わっちゃった……」  もうコンテストまで間がない。今日は料理長にダメ出しをされたメニューの改良をしなければいけなかったはずなのに。 「……そもそも、どうしてあんな約束をしちゃったんだろう? 明日からもコンテストに向けて頑張らなくちゃいけないのに……」  あまりにも自分の作った料理を美味しそうに、幸せそうに食べるものだから。そしていい笑顔をするものだから、それが嬉しくてもう一度その顔を見たいと思ってしまった。 「……現実逃避をしたいのかな? ……でも、ダメよ。今回が最後のチャンスなんだから!」  そう自分に気合を入れようとしたバルネアだったが、不意に店の裏口から聞こえてきた猫の鳴き声に気を取られてしまう。 「あっ、ニャン達のご飯の用意もしてなかったわ!」  バルネアは大慌てで昼前に作った料理の残りを持って裏口に向かう。  裏口の扉を開けると、猫が二匹、店のドアを引っ掻いていた。 「お待たせ。ニャン、ニャー。今日はいつもよりも豪勢だから許してね」  丸々と太った二匹の猫――真っ白な毛並みの猫と薄茶色と白の混ざった毛並みの猫に謝罪をし、バルネアは二匹専用のエサ入れに持ってきた料理を配膳する。  この二匹の猫は野良猫なのだが、バルネアがこの店で働く前から、こうやって定期的に店にやってきては店の残飯を催促するようになっていた。店の先輩が餌付けしたのが原因らしい。  スンスンとバルネアの料理の匂いをかぎ、二匹の猫は満足気にそれを口にする。バルネアはほっと胸を撫で下ろす。料理長にはだめだと言われたが、猫達はバルネアの料理を認めてくれたのだ。 「みんなが残り物をあげるものだから、すっかり舌が肥えちゃったのよね、ニャンとニャーは」  この二匹が影の料理長だと言われているのはそんな理由があるからだ。 「こぉ~ら。美味しいのなら美味しいって言ってよ。……って、言えるわけないわよね」  バルネアは苦笑して小さく嘆息する。 「ニャンたちには喜んでもらえているけど、料理長にはダメだって言われてしまったのよね。……まったく、いったい何が足りないのかしら……」  バルネアは膝を曲げて、美味しそうに自分の料理を味わう猫の頭を撫でる。フワフワとした毛並みが心地いい。 「……そっか。今日で最後なんだね。あなた達にご飯をあげるのも……」  しんみりとした気持ちで猫を撫でていたバルネアだったが、不意に人の気配を感じてそちらに視線を移す。 「……あれって……」  店の向かいの道路を歩く、ランプと何かの包みを片手に歩く小柄で線の細い少年。先ほどまでバルネアがその顔を思い浮かべながらメニュー作りをしていた人物だった。  「ティ~ル。こんな時間に何しているの?」  駆け寄って声をかけると、彼は驚いて小さくすくみあがった。 「わっ! ……あっ、ああっ。きっ、君は、バルネア……さん……」 「もう、バルネアでいいわよ。同い年なんだし、私も貴方のこと『ティル』って呼びたいし。ねっ、いいでしょう?」  相手の意志を無視して、バルネアは強引に呼び捨てで呼び合うことを決める。 「あっ、うん。君がいいのなら……」 「そんなの、いいに決まってるわよ。……それで、何をしているの?」  ティルは何かの包みを両手で抱えて歩いていた。こんな時間にどこかに届け物を運んでいるということはないだろう。 「……今日もいい天気だから、星を見ようと思って……」 「星? 星を見てどうするの?」 「……いろいろと勉強しないといけないことがあるんだ。僕は航海士見習いだからね」  そう言ってティルは苦笑する。 「それと、僕は星を見るのが好きなんだ。だから、天気が良い日は毎晩、星を見て過ごしているんだよ。……さすがに明日も仕事があるから、それに差し支えがない時間には戻って休むけどね」  ティルの行動はバルネアの予想だにしないことだった。しかし、夜遅くまで星を見るというのはどういう楽しみがあるのだろうかと興味を惹かれる。 「うん。思わぬことが料理のアイデアになるかも分からないし……」  バルネアはそう思い、無茶な提案をティルに持ちかける。 「ねぇ、ティル。私にも貴方の見ている景色を見せてくれないかしら? 今日はもう家に戻ろうとしてたところだから、店の戸締まりをしたら時間が取れるから」 「えっ? だっ、だめだよ! 女の子が夜道を出歩くなんて危険だよ……」 「大丈夫よ。料理作りに熱中しすぎて、夜道を一人で歩いて帰るなんてザラなんだから。それに、いざというときの逃げ足にも自信があるし。ねっ? いいでしょう?」  バルネアはティルにそう頼み込み、強引に同行を迫る。 「でっ、でも……」 「それに、どっちにしろこれから一人で夜道を帰らなくちゃいけないのは変わらないわよ。すぐに戸締まりをしてくるから少しだけ待っていて」  ティルの反対を押し切り、バルネアは店に戻って後片付けを手早く終えて戸締まりをし、律儀に店の前で待っていたティルと一緒に星を見るために二人で歩き出した。  街の入口から少し外れた高台で、ティルは足を止めた。どうやらここが目的の場所のようだ。 「うわぁ~。こんなに綺麗に星が見える場所があったのね」  空を見上げると満天の星空が広がっていて、バルネアは感嘆の声を上げる。 「うっ、うん。照明用の松明の明かりも近いから、危険も少ないし、星を観測するにはもってこいの場所なんだ。……町の入口の警備に見つかりにくいっていうのもあるんだけど……」  「あっ、もしかして、秘密の場所だったの?」 「いや。秘密でも何でもないよ。ただ夜は僕以外の人がいるところを見たことはないけどね」  ティルは苦笑し、手にしていた包みを開いて望遠鏡と何かを取り出した。 「……これは六分儀だよ。天体の高度測定や自分の位置の割り出しなどに利用されるものなんだ」  バルネアの視線の先にあるものをみて、ティルはその器具の名前を教えてくれた。 「ろくぶんぎ? へぇ、聞いたこともないわね。どうやって使うものなの?」 「あっ、うん。陸の上で使うものじゃないんだけどだけど、いつも持っているようにって先輩に言われているんだ。えっと、これは海の上で……」  ひと通りその道具の説明を聞いたが、バルネアにはよくわからないものだった。ただ、説明するティルの顔が嬉しそうで、バルネアは笑顔で話を聞き続ける。 「……あっ、ごめん。僕ばかり一方的に話してしまって……」 「いいわよ、そんなことを謝らないで。でも、本当に星を見るのが好きなのね、貴方は」  昼間はバルネアが質問するばかりで、ティルが自分から発言することは殆どなかった。弁に熱がこもるほどに、彼にとって星の観察は重要な事なのだろう。 「ははっ……。変な趣味だってよく言われるけどね……」  ティルはそう言って苦笑する。その笑顔が少し淋しげに思えて、バルネアは口を開く。 「……毎日、一人で朝まで星を見ているの?」 「うん。僕はお酒は飲めないし、他に特にこれといった趣味はないから……。いつもここで星を見ているんだ……」  一層淋しげにティルは微笑む。昼間の自分に向けてくれた笑顔とあまりにも違うその笑みに、バルネアの心が傷んだ。 「……ティル。あなたには夢はないの? 私にはあるわよ。世界一の料理人になるって夢が。そのために毎日頑張っているんだから」 「……すごいね、君は……。僕には夢なんてないから、少し羨ましいよ」  ティルはそう言って顔を俯ける。 「……ねぇ、ティル。『瓜を蒔けば瓜が取れ、豆を蒔けば豆が取れる』ということわざを知っているかしら?」  不意にバルネアはそんな話題をティルに振る。 「いや、知らないよ。……でも、それって当たり前のことなんじゃあ……」 「うん。そのとおり。当たり前のことよ。つまり、物事には原因があるから結果があるっていう意味ね。だから、何事もまずはやってみなくちゃ始まらないの。何かを得ようと思ったらそのための努力をしなくちゃだめってことよ。  趣味がないのなら、なにかを始めてみたらいいんじゃないかしら? 結果としてそれが趣味や夢に変わっていくかもしれないじゃない」 「ははっ、そうかもしれないね……」  バルネアの叱咤にも、ティルはやはり淋しげに微笑むだけだった。それに釣られて、バルネアは小さく息を吐いた。 「……なんて偉そうなこと言ったけど、私も貴方のことをどうこういう資格なんてないのよね……」 「えっ? どういうこと?」 「……私ね、今度の料理コンテストに参加するんだけど、優勝できなかったら夢を失ってしまうの。世界一の料理人になるって夢を……。だから頑張らなくちゃいけないんだけど……」  ティルに話しても仕方がないことだというのに、バルネアは自分の身の上話を始めてしまう。  ティルを励まそうとしていたのに、これでは逆効果だと思ったが後の祭りだった。だが、ティルはそれを黙って聞いていてくれた。 「……『世界一の料理人』って、世界で一番料理で人を笑顔にする事が出来る人のことだと私は思うの。そして、料理を食べてくれる人を笑顔にするためには、心をこめて最高の料理を作らないといけない。  でも、そのためにはどうしても技術が必要なの。自分の思いを形にするための力が…‥。だから私はどうしても『銀の旋律』に入らなくちゃいけない。……そして、今回が最後のチャンスなの……」  自分に言い聞かせるようにバルネアは言葉を紡いだが、そこで今まで黙って話を聞いていたティルが口を開いた。 「……どうして、最後のチャンスなのかな? 他にも料理店はいくつもあるよね? 僕もたくさんの国に行ったことがあるわけじゃないけど、世界って広いと思うよ」  きょとんとした顔で、ティルは尋ね返してくる。 「もう、分かってないわね。『銀の旋律』よ、『銀の旋律』! 世界でも指折りの名店! そのお店に入ってもっと腕を磨いていかないと、私の夢はかなわないんだから」 「……僕から見れば、君も十分すごい料理人なんだけど、『銀の旋律』ってお店の料理はそんなに違うのかな?」  バルネアが説明しても、ティルはいまいち『銀の旋律』という店の凄さを、そこで働けるということの重大さが分からないようだ。 「『銀の旋律』で食事をしたことがないのね。あの店で料理を食べたらすぐに分かるわよ。今の私なんか比較にならないわ。あの店の料理は特別なの。だから、どうしてもそこに入って腕を磨かないといけないのよ!」  幼い頃、一度だけ両親に連れて行って貰って、『銀の旋律』で食事をした。  それは夢の様なひとときだった。  すべてが計算尽くされた完璧な料理の数々。その美しさも味もすべてが初めての経験で、バルネアはそれに魅入られた。こんな料理を作れるようになりたい。このお店で働きたい。それがバルネアの目標になった。 「……だから、頑張らなくちゃいけない。もしも今度のコンテストで優勝できなかったら全てを失ってしまう。でも、なんだか……疲れちゃって……」  小さくバルネアは息を吐く。 「……そうなんだ。君も大変なんだね。羨ましいだなんて言って、ごめん……」 「いいわよ、謝らないで。私の方こそごめんなさい。変な話を聞かせちゃって……」  そう言って二人の会話が少しの間途切れる。だが、またティルがその沈黙を破って口を開いた。 「……その、僕は君がどれほど大変な思いをしているのかわからないから、こんなことしか言えないけれど……」  ティルは申し訳無さそうに言い、静かに言葉を続けようとする。その言葉を聞くまでもなく、バルネアは彼が自分に何を言おうとしているのか予想がついた。 「きっと、『がんばって』とかよね……」  毎日毎日、自分ができるかぎり精一杯頑張っていることをティルは知らない。それに、今日話すようになったばかりの他人のことだ。そんなことを気遣ってくれるはずがない。  だが、ティルの口から発せられた言葉はバルネアの予想とは異なっていた。 「……疲れたのなら、少し休んだらいいんじゃないかな? 努力をすることが大事なのはわかるけれど、ときには休息も必要だと思うよ」  そう言ってティルは微笑んだ。その微笑みは憂いを含まない笑顔。昼間に自分に向けてくれた満面の笑顔だった。 「…………」  予想外の言葉に、バルネアはどう反応していいのか分からなかった。 「……僕の実家は小さな料理屋でね。だから、君がすごい料理人だということは分かるんだ。そしてそこまでの腕を身につけるには、きっと僕なんかが想像もつかないような努力をしたからだと思う。さっき、君自身が言っていたように、ずっと頑張ってきたんだよね、きっと……」 「……ティル……」  バルネアはティルの名前を呼ぶ。だが、二の句がつながらない。何を言えばいいのかわからない。ただ、バルネアの瞳から涙が一滴こぼれ落ちた。 「……あっ、その、ごめん。勝手なことを言って……」 「……ううん。違うの。これは、その、嬉しかったから……。おっ、おかしいわよね。今日話すようになったばかりなのに、なんだか貴方と話していると……ずっと前からの知り合いだったような気がするわ……」 「……うん。僕もだよ。……でも、僕は以前から……えっと、君の事は知っていたんだ」 「えっ?」  ティルの告白に、バルネアは驚く。 「前にも、猫に餌をあげているのを通りがかりに何度か見かけた事があったんだ。いつも、嬉しそうに笑顔で猫に餌をやっていたよね。それに、厨房にいる君の姿を客席から見かけた時も君はいつも笑顔で元気に料理を作っていた。  でも、今日、街中で出会った君はひどく思いつめた顔をしていたから、思わず声をかけてしまったんだ……」 「……そっか。私のことを知っていたんだ。ふふっ、もしかして気にかけていてくれたのかしら?」 「あっ、いや、その……。……分からないんだ、こんな気持ちは初めてで……」  冗談で言ったはずだったのだが、そう言って顔を赤くするティルにつられてバルネアも恥ずかしくなって赤面する。   なんとも気まずい空気が流れたが、なんとか話題を変えようとバルネアは強引に話を切り替えることにする。 「そっ、そう言えば、貴方のお家も料理屋さんだと言っていたわよね? どうしてお店を継ごうとは思わなかったの?」 「……僕は男だからだよ。僕の故郷は小さな島でね。そこでは男は船乗りになる人がほとんどなんだ。だから周りのみんなに言われるままに僕も船乗りになったんだ。まぁ、他に特にやりたいことがあったわけじゃないから、特に後悔はしていないけど……」 「……もったいない。もったいないわよ、それって! 料理人って素敵な職業なのよ」  他人のことながら心底そう思い、バルネアは声を荒げる。だが、ティルは笑顔でそれを受け止めた。 「ははっ。君は本当に料理が大好きなんだね。だから、あんなふうに楽しそうに料理をするんだ。  ……うん。大丈夫だよ。今の君は疲れているだけだよ、きっと。少し休んだらまた元気を取り戻せる。そこまで思いつめるほどに大好きなものが君にはあるんだから」  ティルは嘆息し、 「……やっぱり君が羨ましいな。僕も何か君のように……」  そう言葉を続ける。 「だから、それはこれからいくらでも探す事ができるでしょうが! まずは自分の好きなことを見つけることよ。そしてそれを見つけたら、一生懸命頑張るの!」 「うん。そうだね。でも、たまには休息も必要だよ、バルネア。君の場合は特に注意が必要みたいだ」 「っ……」  初めてティルの口から名前で呼ばれて、満面の笑顔を向けられて、バルネアは言葉に詰まる。どうしてこんなに顔が熱くなるのかバルネア自身にも分からない。 「わっ、分かったようなこと言わないでよ。……そっ、その、正直当たっていると自分でも思うけど……」  バルネアの言葉に、ティルはただ黙って微笑む。それがまるで自分を見抜かれてしまっているようでバルネアは不満そうに口を尖らせる。 「むぅ、なんだか私ばかり貴方に見透かされていく感じがするわ。不公平よ、そんなの。……そうだ、ティル。貴方の好きな料理って何かしら? いろいろな国に行った事があるんでしょう? 貴方が食べて美味しいと感じた料理のことを教えて!」  足がつかれてきたので、バルネアは芝生の上に静かに腰を下ろし、ティルにも隣に座るように手招きする。 「えっ? そっ、そう言われても……。うっ、う~ん、何が美味しかったかな……」  そう言いながら遠慮がちにティルはバルネアの隣に腰を下ろす。その時のティルの顔が赤く見えたのは松明の明かりのせいだけではないだろう。バルネアは少しだけ溜飲が下がる思いだった。  ティルは暫く悩んでなかなか答えを出せないでいたので、バルネアが助け舟を出す。 「ここの近くなら、ビラッセ共和国に行ったことはあるわよね? そこの魚介料理は食べたことがあるでしょう?」 「あっ、うん。そういえば、チーズも有名だよね。……えっと、僕が行くのは大衆料理屋で、『潮風のささやき』っていうお店で食べていたんだけど……」  バルネアが話を振るとティルもそれに乗ってきた。 「おっ、有名どころね。あのお店の料理も美味しいわよね。でっ、貴方のお気に入りの料理ってなんだったのかしら?」 「えっ、え~と、魚介類も美味しいんだけど、やっぱり海での生活が長いと、肉料理のほうが食べたいって思ってしまうんだ。だから……」 「……ふむふむ。たしかにあのお店は牛肉料理も美味しいわよね。チーズを使っても肉の味が濃厚でチーズの味に負けないのよね。あっ、そういえば、チーズといえば……」  バルネアは笑顔でティルと料理談義を続ける。ティルも嬉しそうにそれに付き合ってくれた。バルネアは話に熱中しながらも、ティルの話を元に明日の昼食のメニューを一度白紙に戻して、頭のなかで再構築して行く。 「……後は、ええと、どこで食べたかな……。あっ、そうだ、たしか……」 「あらっ? そこは行ったことがないわ。でっ、どんな料理が出てきたの? たしかあそこの名産は……」 「あっ、うん。いつも日替わりの定食を食べていたんだけど、先輩が給料日に……」  話をしているうちにティルの表情から硬さが抜けて笑顔が増えてきた。バルネアは満足気に微笑む。 「えっと、どうしたの?」  不意にバルネアが満面の笑顔を浮かべたことを怪訝に思ったのだろう。ティルがそう尋ねてきた。 「ティル。私、貴方の趣味を一つ見つけたわよ。貴方は美味しい料理を食べることが好きなのよ」 「……えっ? でっ、でも、それは趣味って言わないんじゃあ……」  ティルの言葉に、バルネアは「えい」と冗談で彼の頭を叩く真似をする。 「何を言っているのよ。食事は生きていく上で欠かすことができない大切なことよ。『医者より料理人を召し抱えよ』ってことわざもあるくらいだしね。そんな重要な事を楽しいと思えることって、とても素敵なことよ」  バルネアは得意気にそう言うが、ティルは釈然としないのか、なんとも複雑な顔をする。 「でっ、でも、人間だったら、だれでもおいしい食事には興味があるんじゃあ……」 「そんなことないわよ。食事に興味が薄い人だっているもの。それに、貴方は普通の人よりも食事に感心を持っているわよ。だって、私と料理の話を色々としてくれたじゃない。食事に興味を持ってない人なら、こんなに話が続くわけがないわ。  更に付け加えるのなら、うちのお店に頻繁に食べに来てくれていたことも理由の一つよ。『銅の調べ』は大衆向けの料理店だけど、他のお店よりも少々割高だもの。お金を多少多く払っても美味しいものを食べたいって思っているのよ、貴方は」  呆気にとられるティルにバルネアは微笑みながらそう断言する。 「でっ、でも、それが趣味になっても、夢にはならな……」  バルネアはティルの口の前に右手の人差し指を立てて、彼の言葉を遮る。 「そんなわけないでしょうが。私の『世界一の料理人になる』っていう夢だって、私が美味しいものを食べたいからっていう理由もあるのよ。つまり、美味しいものを食べるのが好きっていうのは、私の夢の原動力の一つなのよ」  バルネアは呆然とするティルを尻目に言葉を続ける。 「……そうね、ティル。貴方の場合は『世界中の美味しいものを食べつくす』なんて夢はどうかしら? お金も時間も掛かるから生半可な気持ちで叶う夢じゃないわよ。でも、やりがいがありそうだとは思わない?」  真摯な表情で言うバルネアに、ティルは暫く呆然としていたが、不意に、ぷっと吹き出し、声を上げて笑い出した。 「なっ、なによ。そんなに笑わなくてもいいじゃない……」 「ごっ、ごめん。でっ、でも、可笑しくて。……そっ、そうだね。確かにやりがいはありそうだ」  ティルは笑い声を何とか堪えてそう呟くと、ふぅ、と小さく嘆息する。 「ははっ。こんなに笑ったのはいつ以来かな。すごいね、やっぱり君は……」 「むぅ~。私の事バカにしているでしょう?」  ジト目でティルを見るバルネア。ティルは「そんなことはないよ」と言い、微笑む。 「……ずるいなぁ、その笑顔……」  ティルの笑顔に、文句の言葉もかき消されてしまった。どうしてこの人の笑顔はこんなにも眩しいのだろうとバルネアは不思議に思う。 「えっと、どうしたの?」 「もう、なんでもないわよ。……そうだ、ティル。今までは貴方の好きな料理を話してもらったけど、今度は逆に貴方の苦手な食べ物の話を聞かせてくれないかしら? どうしても食べられないものとかも知っておきたいから。ねっ、いいでしょう?」 「えっ、あっ、うっ、うん……。特に苦手なものはないんだけど……えっと、そうだな……」  バルネアの笑顔の問に、ティルは頬を紅潮させて懸命に頭を抱えながら答えを探す。 「ふふふっ、悪く無いわね。ティルが私のことを意識してくれるのって」  バルネアは悪戯っぽい笑みを浮かべながら心の中で呟く。少々意地が悪いなとは自分自身でも思わないでもないが、それはお互い様だろう。もっとも、ティル自身はバルネアが彼の笑顔に惹かれていることをはっきりとは分かっていないようだが。  懸命に考えるティルを見つめながらバルネアは微笑む。そして二人で夜が更けるまで、いろいろなことを話し合ったのだった。  夜もすっかり更けこんだこともあり、バルネアは家路につくことにしたのだが、ティルが同行を申し出てくれた。そして二人で道すがら会話をし続けるとあっという間に家の前についた。 「あっ、ここが私の家よ。とはいっても部屋の一室にすぎないけどね」  バルネアの家は、何度も改修工事がされているとはいえお世辞にも立派とはいえない集合住宅だ。名のしれた店で副料理長を任されている者の住まいとは思えないだろう。もっとも、ティルは特に気にした様子もなく、「そうなんだ」と呟いただけだった。 「ありがとう、送ってくれて……」 「いや、大したことじゃないよ」  明かりを片手にティルはそう言って微笑む。 「あっ、ティル。暗いからわかりにくいだろうけど、この家の向かいが私の言っていた『白の子鹿亭』よ。明日の約束、忘れたらだめだからね」 「……うん。楽しみにしているよ。……その、おやすみ、バルネア」 「ええ、おやすみなさい。また明日ね」  去っていくティルに手を振り、その明かりが見えなくなるまでバルネアはただその姿を見ていたが、やがてそれが見えなくなると住み慣れた家に戻ることにする。 「……厨房に明かりがついてるわね。ルーシア、まだ頑張っているんだ」  部屋に戻ろうかとも思ったが、バルネアはなんとはなしに家の入口近くの厨房に足を運ぶ。そこにはバルネアの想像通りの人物が立っていた。  特に物音を立てたつもりはないのだが、気配で察したのだろうか、厨房の中にいたその人物が静かにこちらに向かって歩み寄ってきた。 「帰りが遅いと思ったら、男と一緒に帰ってくるなんて……。ずいぶん余裕が有るのね、あなたは」  コックコートを身にまとった、肩まで伸びた紫色の髪の少女。少し釣り目がちながら均衡の取れた美しいその少女は、開口一番そう言うと鋭い目つきをバルネアに向ける。  もっとも、バルネアにとってはいつものことなので気にすることなく笑顔のまま話を続ける。 「頑張るわね、ルーシア。こんな遅くまで試作していたの?」 「……当たり前でしょう。コンテストまでもう時間がない。少しでも完成度を高めておかないと。って、そんなことはどうでもいいわ。どういうつもりなの? あなたに男がいたなんて初耳だけど、そんなことにうつつを抜かしている場合じゃないことくらいは、あなたも分かっているでしょう?」  ルーシアの声は低い。その声には明らかに怒気が篭っている。だが、バルネアは気にした様子もなく、 「……男って、ティルのこと? あの人とは今日初めてお話したんだけど?」  あっけらかんとそう答える。すると、ルーシアの顔が僅かにひきつった。 「あっ、あなたね。嘘を言うのならもう少し真実味があることを言いなさい」 「嘘でもなんでもないわよ。ルーシアも知ってる顔でしょう? うちのお店の常連さんだもの。  あの人は私達と同い年で、ティルって言う名前なの。今日のお昼に声をかけられて、昼食をごちそうして、さっきまで二人で星を見ながらお喋りしてきただけよ」 「……お……やって……」  笑顔で応えるバルネアに、ルーシアは体を小刻みに震わせて何かを断片的に呟く。 「んっ? どうしたの、ルーシア?」 「何をやっているのよあんたは! 少しは身の危険を感じなさいよ! どこに出会ったばかりの男にホイホイついていく女がいるのよ!」 「えっ? 身の危険? どういうこと?」  訳がわからないといった顔で尋ね返すバルネアに、ルーシアは頭を片手で抑えながら「ああっ、もう、この天然は!」と愚痴を漏らす。 「あんたがどこでどんな目にあおうと私の知ったことじゃないけど、今度の料理コンテストが私にとってもあんたにとっても最後のチャンスだってことを忘れるんじゃないわよ! そして、今回こそは私があんたを負かして優勝させてもらうわ。だから、あんたも全力で、ベストコンディションで来なさい。その上で今までの借りをまとめて返してやるわ!」  ルーシアの言葉に、バルネアは冷水を頭から被されたような気持ちになった。  そうだ、もう料理コンテストまで時間がないのだ。ティルとの話で浮かれていた気持ちが急速に冷めていくのを感じる。 「……そっか。そうよね……」  料理コンテストの内容は予選は参加者全員によるコース料理の品評審査だが、本戦に選ばれた八人からは、それぞれその場で課題が与えられての一対一の料理勝負になる。  騎士の決闘に端を発していると言われているその試合内容だが、現実にはそのほうが観客が盛り上がり集客が良いからだろう。だが、実際に参加する側としては堪ったものではない。優勝するためには、予選で上位八名に残り、その上で三回も当日に発表される課題に対応しなければならないのだから。  過去に三度、バルネアとルーシアはそのコンテストに参加し、本戦で対決している。そして僅差ではあったが結果として全てバルネアが勝利していた。だがバルネアは決勝で全て敗退している。ルーシアにとってはバルネアは目の上のたんこぶのような煩わしい存在のはずだ。  しかし、彼女はその相手に、全力で向かってくるようにと言っているのだ。 「……やっと現実を理解したようね」  バルネアの表情が緊迫感を持ったものに変わったことを確認し、 「浮かれてあんたが自滅してくれたほうが正直楽だけど、そんなことじゃあ、私の気がすまないわ。今回は必ず私が勝つ。そして、『銀の旋律』に入ってみせるわ」  ルーシアはそう宣言すると、話は終わりだと言わんばかりにバルネアに背を向ける。 「……ありがとう、ルーシア」  バルネアは自分を鼓舞してくれた友人に礼を言う。 「……勝つのは私。そう言ったはずよ」  ルーシアはただそれだけ呟き調理に戻って行った。  バルネアもそれ以上は何も言わずに調理場を後にした。 「……最後のチャンス。うん、ルーシアの言うとおりだわ。私も頑張らないと……。でも……」  部屋に戻ろうと足を進めながら、焦燥感に駆られた。だが、バルネアはふと浮かんだティルの笑顔を思い出す。そして、 『……疲れたのなら、少し休んだらいいんじゃないかな? 努力をすることが大事なのはわかるけれど、ときには休息も必要だと思うよ』   そんな言葉を思い出す。 「……今日は休もう。明日のティルとの約束を破る訳にはいかないもの」  ティルを言い訳に、逃げ道に使っているようで罪悪感を覚えたが、バルネアは彼の言葉に甘える事にした。 「……うん、我ながら良い味だわ……」  料理のベーススープの味を確認し、バルネアは満足気に微笑む。  バルネア達の住居の向かいにある『白の子鹿亭』は、彼女達『銅の調べ』の料理人たちにとっては第二の厨房とされている場所である。  閉店した料理店をそのまま改修した場所で、普段は『銅の調べ』の関係者以外が足を踏み入れることはない。だが、今日は特別だ。 「ティルって格式張った料理って苦手そうだから、簡素な料理のほうが良いわよね」  内心の焦りがないといえば嘘になる。昨日はルーシアの言葉を思い出し、あまり眠れなかった。  今すぐにでもコンテストにむけて料理の試作を開始したいという気持ちはある。だが、バルネアはその気持ちをなんとか抑えて、たった一人のために料理を作り上げていく。 「さてと、これで下準備は終了。後はティルが来てくれるのを待つだけね」  そう呟いて時計を確認すると、想定の時間通りになっていた。 「……お昼まで後三十分。どうしようかな。せっかくだから、もう一品作ろうかな……」  もしもティルがお昼の時間前に店を訪ねてきても良いように時間に余裕を持って料理をしていたが、どうやら必要なかったようだ。バルネアは少し考えると、食材の保管庫に向かって足を進めていった。 「うん、もう一品サービスしちゃおう! このまま料理を作らないでいたらまた余計なことを考えてしまいそうだし……」  バルネアは保管庫でめぼしい材料を確認する。 「そう言えば、お肉が好きだって言ってたわよね。よーし、定番中の定番だけど、ステーキの一枚でも焼いてあげよう。……となると、ソースは……」  牛肉の塊を手にし、それを調理台の上においた時点でバルネアの動きが止まった。 「……考えてみたら、去年のコンテストの決勝も、『牛肉料理』がお題だったのよね……」  バルネアはそう呟くと、暫く沈黙し、 「……でも、今の私は去年の私とは違うわ」  ぐっと両手を握りしめて気合を入れる。 「……ステーキは単純な料理。だからこそ、難しく、料理人の腕が顕著に現れる」  バルネアは真剣な眼差しで素早く調理にかかる。 「…………」  言葉一つ発することなく、バルネアは肉の下処理を終えると、ステーキのソースを作り上げていく。何百回としてきた作業。だが、今は普段以上に集中し、ただ料理を完成させることだけを考える。  焼き加減はミディアムレア。そう決めると全神経を集中して牛肉を焼き上げていく。  そして肉が食するのに最高のタイミングで皿に移して……。 「……あの、バルネア?」  不意にそんな声が聞こえて、バルネアは慌てて声のした方に顔を向ける。 「……ティル? ……あっ、いらっしゃいませ……」  バルネアはカウンター越しに突然現れたティルに、半ば反射的に来店者に対する向かえの挨拶を口にする。 「あっ、うん。……ごめん。今日は早めにお昼休みが取れたものだから少し早く来てしまったんだ。その、何度か声をかけたんだけど、料理することに夢中になっていて聞こえていなかったみたいだったから……」 「えっ、いえ、悪いのは私の方よ」  あまりに調理に集中しすぎていてティルが店に来たことに気づかなかった。バルネアは慌てて仕込んでおいた食材を料理しようとするが、ふと眼前のステーキが目に入った。 「あっ、ちょうど良かったわ。ティル。とりあえずこれを食べていて。すぐに他の料理を用意するから。ほら、とにかく座って」 「あっ、うん」  状況が理解できないのだろう。ティルが少し怪訝な顔をして頷き、カウンター越しにバルネアの真向かいの席に座る。  期せずしてジャストタイミングで出来上がったステーキを、バルネアはティルに給仕する。 「あっ、このステーキはオマケだから食べ過ぎないでね。まだまだ料理は続くから」 「うっ、うん。分かったよ」  ティルはバルネアの言葉に頷き、「いただきます」と言ってステーキを口に運ぶ。そして、それを咀嚼して飲み込むと、ティルの口からバルネアの予想通りの言葉が発せられた。 「……うん。その、すごく美味しいよ」  ティルは笑顔でバルネアのステーキを評した。 「ふふっ、良かった。待っていて、すぐに他の料理を作るから」  バルネアは満足気に微笑むと、素早く他の料理の調理に取り掛かる。ティルのための特別な料理の。 「まずは前菜から、と行きたいところだけど、格式張ったコース料理をお昼から食べるのはちょっと堅苦しいし、時間も掛かるから、私の特選メニュー構成で行くわね」  バルネアは口を動かしながらもあっという間に一品目を用意する。 「最初はサラダね。肉料理の後だから口直しも兼ねて。とはいっても、ただのサラダじゃないのよ」 「ええと、これって、サラダ……なのかな?」  バルネアが差し出した更には、透明なゼリーに包まれた物体だった。よく見ると細かくさいの目に切られた人参やグリンピースやコーンが見える。 「ええ、そうよ。ゼラチンで野菜とスープを固めた特製サラダ。食べてみて」  笑顔で促すと、ティルは嬉しそうに料理にナイフを入れる。そしてそれを一口大に切り分けると、ティルはフォーク越しにその感触を確かめ、プルプルとゼリーが動くさまを目で楽しみ、期待を込めた眼差しでそれを口に運ぶ。 「おっ、美味しい! すっ、すごいよ。口の中でゼリーが溶けていって、でも野菜はすごく歯ごたえがあって……。ああっ、なんて言えばいいんだろう……」 「ふふふっ。良いわよ、気の利いた表現を探さなくても。『美味しい』って言ってくれることが、料理人に取っては何より嬉しい事なんだから」  バルネアは笑顔でそう答え、しかし、何か違和感を覚えた。 「それじゃあ、次は魚料理。定番のムニエルね。とは言ってもちょっと変わっているのよ。ティル。貴方にこの魚が何か当てられるかしら?」 「ははっ、僕はそこまで味の違いが分かるわけじゃないから、自信がないけど……」 「別に外れてもなんにもないから気楽に答えてみて。ヒントを一つだけあげるわ。この魚はきちんと処理すると生臭くないから、魚嫌いな人でも食べられるのよ」  バルネアのヒントがあっても結局ティルはその魚を当てることはできなかった。もっとも、満面の笑顔で「美味しい」と言ってくれたことでバルネアは大満足だった。 「ふふ~ん。やっぱり当てられなかったわね。一般的に川や沼の魚よりも、海の魚のほうが味がいいと言われているけど、こうして食べてみると海以外の魚も美味しいものなのよ」 「海以外の魚?」 「うん。このムニエルは、ナマズのムニエルよ」 「なっ、ナマズ? これがナマズなんだ。はっ、初めて食べたよ……。でも、君の言うとおりとても美味しい魚なんだね」  ティルの驚く声に、バルネアは「ふふっ、驚いた?」としてやったりと言わんばかりの笑顔を浮かべる。 「魚は食べ飽きているって言っていたけれど、こうして食べてみると魚料理も悪く無いでしょう?」 「うん。すごく美味しい」  満面の笑みを浮かべるティル。 「ふふっ、ありがとう。さて、次は……」  バルネアは笑顔で次の料理をティルの前に給仕し、料理の空皿を片付けようとして、ふとその手を止めた。 「……これは……、煮込み料理なのかな?」  ティルの問に、バルネアは慌てて笑顔を作って彼の方を向く。 「そうよ。そしてこの皿がメインディッシュなの。この料理はねぇ……」  ティルに料理の説明をしながら、バルネアは皿を片付けて、カウンター席から厨房に戻る。その皿の一番上には、最初に出したステーキが殆ど残ったままの状態で置かれていた。 「……へぇ、そんな由来があるんだ。それじゃあ、いただききます」  ティルはそう言って料理を口に運んで、 「うっ、うん。これもすごく美味しい。その、酸味のあるソースがすごく肉の美味しさと玉葱の甘さに合って……その、とにかく美味しいよ」  先程までと同じように満面の笑みを浮かべた。そして、バルネアはそこで先ほど自分が覚えた違和感の正体に気づいた。 「…………」 「……どうかしたのかな、バルネア?」  自分の感想にも何も反応を示さなかった事に、ティルは不思議そうにこちらを見てくる。 「……後は、デザートでお終いなんだけど、その前に一つだけ教えて。ティル、私の作ったステーキ、貴方の口に合わなかったみたいね。一体何がいけなかったのかしら?」  バルネアはなんとか笑顔を作って尋ねる。 「えっ、いや、そんなことないよ。ステーキも十分美味しかったよ。ただ、あまり食べ過ぎないようにって言われたから……」 「……嘘ね。貴方は私の料理を食べた時にいつも笑顔を浮かべていたけれど、最初のステーキを食べた時の笑顔がなんだかぎこちなかったわ。  ……お願い。私に気を使わないでいいから本当のことを言って。もしかしたら私に欠けているものが見つかるかもしれないから」  最初に作ったステーキは、バルネアが自身の持つ技術を注ぎ込んで作ったものだった。肉の焼き加減もこの上なかったはずだし、ソースにも気を使って最高のものを作り上げたつもりだ。なのに、それがたった一切れしか食べてもらえなかったのだ。バルネアの受けたショックは軽いものではない。 「……ごめん、気分を害させてしまったみたいで……。でも、嘘は言っていないよ。本当に君の焼いてくれたステーキは美味しかったんだ。……ただ……」 「……ただ、何かしら?」  バルネアは真剣な表情でティルの次の言葉を待った。 「……ええと、昨日、君が作ってくれた鶏肉料理を思い出してしまって、それと比較するとなんだか物足りないように思えたんだ。……でも、他の料理は全部美味しかった。昨日の料理にも負けていなかった。いや、それ以上に美味しかったよ。だから、その……」  ティルの言葉に、一瞬バルネアは呆然としたが、はたととあることに気がついた。 「……そっか。そういうことだったんだ……」  バルネアはそう呟くと、 「ティル、ありがとう!」  突然の感謝の言葉とともにカウンター越しにティルの両手を握りしめて、それをブンブンと上下にふる。 「えっ、ええと、怒っているんじゃないのかな?」  おかしなことを聞いてくるティルに、バルネアは笑顔で言葉を返す。 「なんで怒ったりするのよ。逆よ逆。ありがとう。私、すごく大事なことを忘れていたの。そしてそのことにようやく気づいたわ。貴方のお陰でね」 「そっ、その、どういうこと?」  訳がわからないといった顔で説明を求めるティルに、バルネアは微笑み、 「ふふふっ、まぁ、それは置いといて、すぐにデザートを出すから食べて。お昼休み終わっちゃうでしょう?」  そう言って最後の皿の準備を始める。 「あっ、あの、バルネア? 僕には何がなんだかさっぱりなんだけど?」 「気にしない、気にしない。とにかくこれを食べてみて」  バルネアは笑顔でデザートをティルの前に差し出す。怪訝な顔を浮かべながらもそのデザートを一口食べて、ティルは驚きながらもまた満面の笑顔を見せてくれた。 「やっぱりそう。私に足りなかったものは……」  その笑顔でバルネアは確信した。自分に欠けていたものを。大切なことを。  春になったとは言っても、まだまだ夜は肌寒い。特に今晩は昨日よりも冷えるようだ。そんな寒くて暗い夜道をバルネアはランプを片手に笑顔で歩いていた。 「おっ、いたわね」  目的地近くの松明の灯のそばに、もう一つ小さな灯りが灯っている。あれはティルのランプに違いない。 「ティル、良かったら少し休憩にしない?」  近づいてそう声をかけると、ティルの方も足音と明かりでこちらのことを認識していたようで、望遠鏡から目を離してこちらを向いた。 「……バルネア……。君一人でここまで来たのかい?」 「ええ。料理の試作も一段落したから、差し入れを持ってきたのよ」  困り顔のティルに、バルネアは笑顔で答え、風呂敷に包んでいたフタ付きの木製の容器を彼に手渡す。 「その、差し入れをしてくれるのはものすごく嬉しいのだけど、やっぱり、女の子がこんな時間に一人で出歩くのは危険だよ」 「大丈夫よ。逃げ足には自信があるって言ったでしょう。まぁ、そんな事はいいから冷めてしまう前に食べて。言っておくけど、試作の残りなんかじゃないわよ。自信作なんだから」  ティルの注意をサラッと受け流し、バルネアはティルに料理を食べるように言う。 「……わかったよ。ちょうど小腹が空いていたところだったんだ。ありがたくいただくよ」  苦笑してティルは芝生に腰を下ろす。バルネアもそれに倣って彼の隣に座った。 「……これは何かのスープだね。うん、すごくいい香りだ。それに温かいね」 「ええ。できたてを持ってきたんだもの。ほらほら、食べて感想をきかせて」  バルネアはスプーンをティルに手渡して早く食べるように急かす。 「うん。いただきます」  ティルは早速一口スープを口に運び、 「……これはそら豆のスープってだけじゃないね。すごく複雑に味が重なっている。でも、後味は軽い。ははっ、すごい。すごいなぁ。すごく美味しいよ」  そう言って満面の笑みを浮かべた。 「うん。ありがとう。そう言ってもらえて、とても嬉しいわ」  バルネアも笑顔でティルにお礼を言う。  ティルは暫くスープを堪能し、バルネアは笑顔でそれを眺めていた。そしてその容器が空になると、ティルは満足そうに「ごちそうさまでした」と感謝の言葉を述べる。 「はい、お粗末さまでした」  バルネアは笑顔でティルから容器とスプーンを受け取り、それを風呂敷で縛って手早く片付ける。 「……その、すごく美味しかったけど、いいのかい? 料理コンテストまでもうあまり時間がないんだよね? 料理のメニューを考えないといけないんじゃないのかな?」 「……うん。もちろんコンテストには全力で取り組むわよ。でも、コンテストで美味しい料理を作るためにも、貴方に食べてもらいたかったのよ」 「……どういうこと? 僕はただ美味しいとしか言えないよ」 「ええ。それでいいのよ。その言葉を聞きたいの」  バルネアは怪訝な顔をするティルに笑みを向ける。 「ティル、お昼に私の焼いたステーキが物足りないって言っていたわよね。私、どうして貴方がそう思ったのか理由が分かったの」 「……そういえば、そう言っていたよね」 「ええ。貴方のおかげで気づくことができたわ。私の料理に欠けてしまっていたものを。  ……今回が最後のチャンスだってことに焦って、私は自分の料理を見失いかけていたわ。技術だけを求めていた。それが一朝一夕で身につくものではないと分かっていたのに、そればかりを求めていた。そして出来上がっていたのが料理長にダメ出しをされた料理。そして、貴方に一口しか食べてもらえなかったステーキなの」  バルネアは小さく嘆息し、話を続ける。 「私ね、今まで料理をするのが楽しくて仕方がなかった。もちろん、うまくいかないこともたくさんあって悔しい思いや悲しい思いをしたこともたくさんあったけど、それらも含めて楽しかったわ。  でも、ここ最近は料理をすることが怖かった。もしも自分の料理が評価されなかったらどうしようって、コンテストで高評価を取れなかったらどうしようかってことばっかり考えていたわ。  そして、一番大切なことを、食べてくれる人に喜んでもらおう、笑顔になってもらおうって気持ちを忘れてしまっていたの」 「……バルネア……。でも、君が昨日、僕に作ってくれた料理は……。いや、今日の料理だって……」 「うん。昨日は久しぶりに料理が楽しいって思えた。食べてくれる人に喜んでもらおうって気持ちで料理をつくることができたの。  今日の料理もそう。あのステーキ以外は、全て貴方に喜んでもらいたい、喜ばせたいって思って作ったわ。だから、貴方に笑ってもらうことができたんだと思うの」  さきほどティルが食べてくれたスープも、ただ彼に喜んで欲しくて作った。だから、ティルは心から笑ってくれたのだとバルネアは思う。 「……料理の技術を上げれば、確かな腕があれば、決められた手順を淡々とこなしていくだけで美味しい料理はできるのかもしれないわ。でも、今の私にはそんな腕はないし、そもそもそれは私の料理じゃない。  食べてくれる人のことを考えて、喜んでもらおうという気持ちがこもった料理。それが私の作りたい料理なんだって。そしてそんな料理を誰よりもおいしく作れるのが、私の目指す世界一の料理人だってことに気づくことができたの」  バルネアはそこまで言うと満面の笑みをティルに向けた。 「ありがとう、ティル。全部貴方のおかげよ。貴方のおかげで私は自分を取り戻せたわ。料理コンテストも精一杯頑張ってみせるわ」 「……ははっ。僕がどれほどのことができたかは分からないけれど、君が笑顔になってくれるのなら何よりも嬉しいよ。でも、くれぐれも無理はしないでね……」  ティルはそう言うと静かに夜空を指差し、 「バルネア。晴れた日には、たまに夜空を見上げてみるといいよ。そして、そこに浮かんでいる星を見て確認してみて」  不意にそう言った。 「……ティル?」 「僕みたいに毎日、星を見ている人間にはあまり変わりはしないんだけど、そういう習慣がない人には星明かりが綺麗に見えたり、そうは見えなかったりする事があるらしいんだ。そしてそれは、心が疲れているかどうかで変わってくる……みたいなんだ。……僕の父さんの受け売りだけどね」  ティルは呆然とするバルネアに、困ったような笑顔を浮かべた。 「僕は、星を見ること以外にあまり物事に深く関心がないんだ。だから、君みたいに一生懸命に何かを頑張っている人がすごく羨ましく思える。眩しく見える。  でも、そういう人たちは一生懸命になりすぎて、時々周りが見えなくなってしまうみたいなんだ。ほんの少し距離をとってみてみれば、ほんの少し足を止めてみれば、簡単に見えるはずのことが時々見えなくなってしまうみたいなんだ」  ティルはそう言ってまた微笑む。けれどその笑顔はどこか寂しげなものだった。 「……どうか、僕が今言ったことを忘れないでくれないかな? そして疲れた時は休むことを忘れないで。そうすれば大丈夫。君はこれからも笑顔で料理をつくることができるはずだよ。君は自分の力で進むべき道を選ぶことができる人だからね……」  そこまで言われて、ようやくバルネアはティルの言葉の意味が分かった。ティルはバルネアにもう会うのはやめようと言っているのだ。 「……ティル。どうして……」  バルネアの言葉に、ティルは苦笑する。 「……君はこれから料理コンテストに出て優勝する。そうしたら、『銀の旋律』と言うお店で働くことができるんだよね? でも、新しい店で働くことになったら、きっと今以上に大忙しで働かなくちゃあいけない。  そして、僕もそのうち故郷に帰る。またこの街に来ることもあるだろうけど、それがどれだけ先になるかわからない。……ちょうどいい機会だと思う。君が元気になる手助けができたのならば、僕はそれで満足なんだ」  ティルはそういってまた寂しげに微笑む。その笑顔に、バルネアはギュッと拳を握りしめ、そして行動に出た。 「……ティル、あそこの星のことで、ちょっと教えてほしいんだけど」  バルネアは不意にティルの真横を指差して尋ねる。 「えっ? 急にどうしたの? えっと、どの星の事か……」  横を向いたティルの言葉が途切れた。それは、不意にバルネアが彼の頬に自分の唇を合わせたからだった。 「……えっ? あっ……」  バルネアは唇を離すと、暫く呆然としていたティルの顔が真っ赤になる。そしてバルネアがキスをした箇所に手をやって、一層真っ赤になって何も言えなくなってしまった。 「もう、それ以上言ったら本気で怒るわよ! これだけ私のことを助けくれたのに、今更さようならなんてあんまりじゃない。それに、私はまだまだ貴方と話し足りないわ。貴方の夢だってまだ決まっていないでしょうが!」  バルネアは怒りを露わにして、ティルに文句を言う。 「……あっ、あの、でも、バルネア。僕は、その、つまらない人間なんだ。僕なんかじゃあ、君と……」 「ていっ!」  バルネアはティルの頭を本気で叩く。 「なによそれ。貴方がどんな人かは私が判断することでしょうが。勝手に結論を出さないでよ!」 「でっ、でも……」 「どこの誰が貴方のことをつまらないと言ったのか知らないけど、私は貴方に心から感謝しているし、……その、笑顔が素敵な人だと思っているわよ。なによ、それじゃ不満なの?」  バルネアは真っ赤な顔でそう言うと、睨むような目つきでじっとティルの目を見る。 「あっ……。いや、その……」  ティルは真っ赤な顔を俯けて言葉を失った。 「とりあえず、そんな将来の話は後よ。貴方も暫くはこの街に要られるんでしょう? とにかく今は料理コンテストのことを考えないと。   ……私、精一杯頑張ってみるわ。でも、貴方が言っていたようにたまには休息も必要だと思うの。だから、晴れた日の晩には、これからも毎日貴方に差し入れを持ってこさせて。そして私と話をしてちょうだい」 「……バルネア。でも……」 「ああっ、もう、ときには休むことも必要だって言ったのは貴方なんだから、黙って責任を取りなさい!」  バルネア自身、無茶なことを言っているのは自覚している。だが、このままティルと別れたくなかった。その感情がなんなのかはもう答えが出ていた。 「……うん。その、分かったよ」  ティルがそう承諾したのを確認し、バルネアは満足気に微笑んだ。 「……なんてことがあってね」  それまで饒舌に話していたバルネアは、不意にそこで話を区切ってしまった。 「それで、バルネアさん。料理コンテストの結果はどうなったんですか? ルーシアさんとの勝負は? それになにより、ティルさんとは……」  続きが気になり、バルネアに話を続けてくれるように促すメルエーナ。隣りでは同じような表情でリリィもバルネアに無言で訴える。 「ふふっ、気になるかしら? でも、大したことじゃないのよね。  料理コンテストは、ティルのお陰で、それまでとは違ってリラックスして望むことができたわ。……でも、だめだったの。予選はまたトップで勝ち残って決勝までは進めたのだけど、結局、ルーシアが優勝してね。また準優勝だったわ」 「……そうなんですか……」  落胆の色を隠せないリリィ。きっとバルネアが優勝したものだと思っていたのだろう。強い気持ちを持って、けれど適度な休息を挟んで物事に取り組めば結果は出るのだと思いたかったのだろう。  メルエーナ自身もそういう話の展開を予想していた。  落胆するメルエーナ達にかまわず、バルネアは話を続ける。 「それでね、結局『銀の旋律』に入ることはできなくて、今まで務めていたお店もやめなくちゃいけなくなってしまった私は、無理やりティルに頼み込んで、彼の家の料理屋さんで働かせてもらうことにしたのよ」 「「えっ?」」  メルエーナとリリィの驚く声が重なりあった。 「いえね、家族に合わせる顔もなくてね、どうしたものかと落ち込んでいたんだけど、ティルが自分のことのように心配してくれてね。そして、なにか力になれることはないかなって言うものだから、その言葉に甘えちゃったのよ。  ……私はその時にはもう、完全にティルと別れたくないって思っていたのよね。うん、若気の至りとはいえ、あそこまで自分が惚れっぽいとは思わなかったわ」  バルネアは恥ずかしそうに頬を掻く。 「そっ、それじゃあ、バルネアさんはティルさんと……」 「ええ。そうよ。周りのみんなに囃し立てられたのもあるけど、ティルの故郷の島に着く前にお互いの気持ちを確認して、一緒になることにしたの。ふふっ、ティルも私に好意を持ってくれていたのは分かっていたしね」  メルエーナにそう答え、バルネアは、ふぅ、と嘆息し苦笑する。 「……今思い返しても親不孝な娘よね。ようやく入れた店をクビになったかと思ったら、突然結婚するなんて言い出したんだから」 「えっ、ええっと、その、なんと言えばいいのか分かりません……」  メルエーナは正直に思ったままのことを口にする。あまりにも破天荒な昔のバルネアの行動に、頭がついていかない。 「あっ、これは悪い例よ。メルちゃんもリリィちゃんも私の真似はしちゃ駄目。たまたま私の知り合った人が悪い人じゃなかったからよかったものの、年頃の女の子がほいほいと他人についていったら危険だわ」  バルネアはそう言うが、ことをなした張本人に言われても説得力は皆無だ。 「……その、でも、羨ましいです……。そんな風に自分のことを理解してくれる素敵な男の人に出会えるなんて……。私にはそんな素敵な人どころか、友達もいないから……」  過去のバルネアと自分を比較して落胆したのか、リリィは力なく呟く。 「リリィさん……」  バルネアがどうしてリリィに自分の過去の話をしたのか分からない。これではかえってリリィを悲しませるだけではないだろうか。そうメルエーナは思ったが、それは早計だった。 「……素敵な男の人か……。でも、ティルはそんなに素敵な人じゃなかったのよ。結婚してから十年も経たないうちに、私一人を残して死んじゃったんだから……」 「…………」  メルエーナもリリィも言葉を発することができずに沈黙する。  メルエーナがこの家にやってきてから半年の間、今日まで一度もティルという人物の名前を聞いたことがなかった。そのことから、きっと何かしらの別れがあったのだとメルエーナも思っていたが、それは死別だったのだ。 「もう、そんな顔しないで。昔の話なんだから」  悲しげな顔を浮かべたまま言葉に詰まるメルエーナ達に、バルネアは苦笑して明るく声をかける。 「……船の事故だったの。他のみんなは助かったんだけど、ティルは一人だけ助からなかった。……運がなかったのね。ちょうどこのお店を始める直前の事だったわ……」  バルネアは静かに瞳を閉じ、僅かの間沈黙してから言葉を続ける。 「……辛かった、と言うよりは実感がなかったわ。遠い海の向こうで突然あの人が死んだって聞かされた時には。そして、あの人がもう帰ってこない、私と話をすることもできないと理解した時には生きる気力を失ってしまったわ。……後を追おうかな、なんて馬鹿なことを考えたこともあったわね。  でも、少し時間がかかったけど、私は何とか立ち直ることができたの。それからもいろいろなことがあったわ。楽しいことも苦しいこともたくさん。でも、その度に一生懸命頑張って、疲れた時にはあの人の言葉を思い出して少し休んで、また頑張ったわ。……正直、大変だったわね」  バルネアは静かに息をつき、リリィと視線を合わせる。 「でもね、リリィちゃん。今の私は幸せなのよ。小さいけど自分の店を持つことができて、そしてたくさんのお客様が私の料理を美味しいって言って食べてくれるんだもの。それに、メルちゃんたちみたいな可愛い子達と一緒に楽しい日々を過ごしているんだから」  バルネアはリリィに笑顔を向け、やさしく諭すように言葉を続ける。 「リリィちゃん。これからのリリィちゃんの人生が楽しいことばかりだなんていい加減なことは言わないわ。辛いことも苦しいこともあると思う。けれど、きっと楽しい事や嬉しい事だってたくさんあるはずよ。それなのに、こんなところで自分の人生を終わらせたりしたら勿体無いじゃないの」 「……勿体無い、ですか?」  思いもかけない言葉だったのだろう。リリィは驚きながらオウム返しに尋ねる。 「ええ、そうよ。女の子は強くなくちゃね。それに、リリィちゃんは昔の私なんかよりもずっと強いわ。私は結果が出る前にそこから逃げ出そうとしてしまった。でも、リリィちゃんは違うでしょう?  一生懸命努力をして、自分の力で試験を受けるところまでいけたんでしょう?」 「……私が……強い? ……そんなこと、そんなことはないです。私は弱くて、頭も良くないから試験に合格することもできなくて……。そして、皆さんに迷惑をかけてしまって……」 「弱い人はそこまで一途に物事に取り組めないはずよ。そして、今のリリィちゃんは疲れているだけよ。少し休めばまた元気を取り戻せるわ」  泣き出しそうなリリィに、バルネアは満面の笑顔で断言する。 「……でも、でも、私にはもうチャンスが……」 「そんなことはないわ。貴女の人生は始まったばかりよ。……私だって、まだまだ諦めていないんだから。世界一の料理人になるって夢をね」  片目をつぶって悪戯っぽい笑みを浮かべると、バルネアは静かに立ち上がった。 「さてと。それでは、未だに世界一の料理人には程遠いけれど、ずっとその夢に向かって頑張り続ける私の修業の成果を見てもらおうかしらね。  メルちゃん、スパイスの使い方はまた今度にさせてね。今日は全身全霊を込めて、全力で料理をしちゃうから」 「はい、分かりました」  バルネアに料理を習っているとはいっても、まだまだその手伝いにもならないことをメルエーナは理解している。それに、普段から料理上手なバルネアの全力の料理というものが気になって仕方がない。 「リリィちゃん、苦手なものとかあるかしら?」 「あっ、いえ、特にはありません。でも、私なんかのために……」 「ふふふっ、そんなこと言わないで。今日は今まで頑張り続けたリリィちゃんのために少しでも元気になれるような料理をフルコースで作るから楽しみにしていてね」  そう言ってバルネアは部屋を出て行ったかと思うと、純白のコックコートに着替えて戻ってきた。 「見ていてね、リリィちゃん。私は『銀の旋律』で働くことはできなかったけど、一生懸命に努力をしたらね、これくらいのことはできるようになったのよ」  そう言うが早いか、バルネアは調理にとりかかった。 「…………」  言葉を発することができずに。呆然とバルネアの動きを目で追うリリィ。たった一人でコース料理をつくり上げるということの意味を知らなくても、バルネアの動きが尋常なものではないことは素人目にも明らかだった。 「……まるで、バルネアさんが何人もいるみたいですよね」  メルエーナもバルネアの人間技とは思えない調理速度と技術に驚きながらも、呆然としたまま固まるリリィに言葉をかける。  「……すごいですよね。ずっと一生懸命に頑張ってきた人の力というのは」  メルエーナの言葉に、リリィは静かに頷いた。 「……これが、ずっと努力を続けてきた人の力……」 「ええっ、そうですね。でも、さっきバルネアさんが言っていたように、ときには休息も必要だと思いますよ。一生懸命に頑張って、時には休息をしてまた頑張る。  ……口で言うのは簡単ですけど、すごく難しいことですよね。でも、その努力は決して無駄にならない。バルネアさんがその証拠ですよね」  リリィから相槌の言葉はなかったが、メルエーナはリリィに語りかける。 「リリィさん。私もいつかはバルネアさんのような料理人になりたいと思っているんです。……大それた夢ですけどね。でも、その夢に向かって毎日頑張っています。  ……魔法の勉強がどれほど大変なものかは私には分かりません。でも、私もリリィさんもまだ夢の途中で、まだまだこれからなんじゃないでしょうか?」 「……私も、バルネアさんのようになれるのかな……。夢をあきらめないで頑張れば、私も……」  誰にとなくリリィは呟き、瞳から涙を流す。けれど、その涙は悲しさからくるものではないことは明らかだった。 「……リリィさん、道は違いますけど、良ければ一緒に頑張りませんか?」 「……えっ?」  驚いてこちらに顔を向けたリリィに、メルエーナは笑顔で言った。 「リリィさん、私とお友だちになって下さい」  背中まで伸びた美しい栗毛色の髪。一目見ただけで淑やかな印象を受ける整った優しい顔立ち。微かに微笑みを浮かべるだけで、花が咲き誇るかのように輝く、瑞々しく美しい少女。だが、今その少女の顔に浮かんでいるのは、大きな不安と少しの苛立ちだ。 「メルちゃん。時計をそんなに見つめても、時間は早く進んだりはしないわよ。……気長に待ちましょう」  バルネアが声をかけると、メルエーナは不安げな顔をこちらに向ける。 「でも、バルネアさん。本当なら、一つ前の乗合馬車で帰ってくるはずだったんですよ。……ジェノさんは時間はきちんと守るはずなのに……」  そう言うと、メルエーナは胸元の2つに別れたペンダントに手をやる。それはメルエーナがジェノのことを心配している時の癖だということをバルネアは知っている。 「最終の馬車で帰ってくるんじゃないかしら? ジェノちゃんには私のおすすめのお店を紹介しておいたんだけど、結構人気のお店だから、そこで時間をくって遅くなったのかもしれないわね」  そんなバルネアの言葉に頷きながらも、やはりメルエーナは心配そうに時計を頻繁に確認する。 「ふふふっ。昔、お義母さんに言われた言葉の意味が分かるわね」  バルネアは心のうちでそう呟き、ふと昔を思い出す。  船の入港が遅れることは頻繁にあった。そんな時にはいつもバルネアは義母と一緒に、夫の、ティルの帰りを心配していた。今の自分とメルエーナと同じように。 『ありがとう、バルネア。貴女が私の分まで心配してくれるから、私は冷静でいられるわ』  夫を病で早くに亡くした義母の言葉。バルネアが嫁ぐ前までは、いつも一人で息子の安否を心配し続けていた。誰か自分の他にも自分と同様に、その人を心配してくれている人がいるというのはとても心強いものだということが今になってよく分かる。 「そう言えば、久しぶりにお義母さんに手紙でも書こうかしらね。あっ、実家の方にも暫く連絡していなかったから一緒に書こうかしら」  そんなことを考えていると、静かにドアをノックする音が聞こえた。 「あらっ、帰ってきたみたいね」  バルネアがそう言い終わるよりも早くに、メルエーナはドアに向かって走り寄った。 「ジェノさん?」 「……メルエーナか。俺だ……」  聞き慣れた若い男の子の声。メルエーナは静かにドアの鍵を外して迎え入れる。  家に入ってきた――いや戻ってきたのは、メルエーナと同い年で、彼女と同じようにバルネアが知人から預かっている少年。この家の家族の一人のジェノだった。  やや長身で眉目秀麗と言う言葉がぴったりくるほど非常に整った顔立ちをしている。それは、この店で料理の他に女性客の楽しみになっているほどだ。だが、腰に下げた長剣がこの少年が只の優男ではないことを物語っていた。 「もう。心配したんですよ。いつも時間に正確なジェノさんが遅くなるなんて……」 「心配? ……ああっ、明日の朝の厨房の掃除の事か。安心しろ、きちんと俺が……」  ジェノの言葉に、メルエーナはむっと顔色を変えた。 「誰もそんな心配はしていません! 帰りが遅いのを心配していたんです! それと、明日の朝の掃除は私がやりますからジェノさんはゆっくり休んでいて下さい。長時間馬車に揺られて疲れているんですから」 「そんなやわな鍛え方はしていない。待たせてしまったのは申し訳なかったが、もう休んだほうがいい」  淡々とそう言うと、ジェノはメルエーナの横を通り過ぎ、バルネアの元にやってくると軽く頭を下げた。 「すみません、遅くなりました。頼まれていた注文はつつがなく終わりました。これが伝票です。後で確認をお願いします」  バルネアは苦笑し、ジェノから伝票を受け取る。いつもこの少年はこんな事務的な素っ気ない喋り方をする。本当はとても優しい性格なのにわざと無関心を装おうとするのだ。 「ジェノちゃん。少しくらい遅くなるのは構わないわよ。……でもね、必ず帰ってこないと駄目よ。それだけは約束して」  バルネアはそう言って微笑む。もう帰っては来ない大切な人の姿をその少年に重ねあわせて。 「……はい」  バルネアがその言葉に込めた想いがどれほど伝わっているのかは分からないが、不思議そうな顔をしながらもジェノはそう答えて頷いた。 「うん、よろしい。そうだ、ジェノちゃん。お風呂を沸かしておいたから寝る前に汗を流してきなさい」 「ありがとうございます。それと後で少し厨房を貸して下さい」 「あらっ? ジェノちゃん、もしかして夕食を食べてないの?」  バルネアがいくつもおすすめの料理店を教えておいたはずなのに、ジェノは仕事先の街で食事をしてこなかったようだ。時間が時間だ。お腹が空いただろうに。 「……情けない事ですが、道に迷ってしまって、最終の馬車に乗るのがやっとだったので」  ジェノがそう言うと、メルエーナが彼に声をかける。 「ジェノさん、よければ私が何か……」 「いや、結構だ。自分でどうにかする。メルエーナ、さっきも言ったがもう休んだほうがいい。明日に差し支えるぞ」  せっかくメルエーナがなにか手料理を振る舞ってくれようとしたのに、ジェノはそれをそっけなく断る。メルエーナの体調を心配しての言葉だが、もう少し柔らかな言い方をすればいいのにとバルネアは思う。 「ですけれど……」  メルエーナが食い下がろうとするが、ジェノは肩に掛けていた荷物入れの鞄から紙袋を一つ取り出し、それを丁寧に開いて中身の本をメルエーナに手渡す。 「……頼まれていたものだ。それでも読んで今日は休んでおけ」  そう言ってメルエーナに背を向けると、ジェノはバルネアに顔を向け、また鞄から紙袋を取り出してそれを開く。その中から出されたのは、バルネアがもしも書店で見かけたらでいいからと頼んでおいた本だった。 「すみません、渡し忘れていました。バルネアさんにもこれを」  ジェノはバルネアにも本を手渡すと、紙袋を丁寧に四つ折りにしてゴミ箱に捨てる。無意識下での行動ほど育ちの良さが分かるものだ。それに……。 「ありがとう、ジェノちゃん。でも、こういう場合は、メルちゃんに頼まれていた本だけを優先してもいいのよ」 「……言っている意味がわからないんですが?」  ジェノの言葉に、バルネアは困ったように笑い、 「まぁ、とりあえずお風呂に入ってきなさい。厨房はその後で自由に使っていいから」  そう言って半ば強引にジェノに風呂に入るように勧める。ジェノはまた怪訝な顔をしながらもその言葉にしたがって浴室に向かって行った。 「……ジェノさん」  手渡された本を抱えて物憂げな顔をするメルエーナ。彼女はずっとジェノのことを憎からず想っているのに、その気持ちはなかなか伝わらない。  バルネアはそんな彼女に優しく声をかける。 「メルちゃん。相変わらず素直じゃないわよね、ジェノちゃんてば。でも、やっぱり優しいのよ、ジェノちゃんって。これを見てくれないかしら?」  バルネアはゴミ箱から紙袋を取り出して、それを2つテーブルの上に置いた。 「……こっちの袋がメルちゃんが頼んだ本が入っていた袋。こっちのが私の頼んだ本が入っていた袋ね。どうして柄の違う袋が2つもあるのか分かるかしら?」  バルネアの問に、メルエーナは、はっとした顔をする。聡い娘だ。バルネアの言わんとしていることをすぐに察したようだ。 「……まったく、ジェノちゃんには、おいそれと頼み事はできないわね」  ジェノはこのナイムの街に勝るとも劣らない大きな街の生まれだ。それに旅慣れている。そして時間にルーズなタイプではない。そんな彼が馬車に乗り遅れるほど道に迷うとは考えにくい。 「私達の頼んだ本を探しまわってくれていたんですね……」 「ええ。そうに違いないわ」  バルネアの言葉に、メルエーナは抱えていた本をギュッと抱きしめる。 「後で、もう一度お礼を言っておかないといけないわね」 「いいえ、その必要ありませんよ。ジェノさんのことだから、きっと『道に迷って、たまたま通りかかった本屋に置いてあっただけです』とか言ってとぼけるに決まっていますから」  メルエーナは少し怒ったような顔でそう言うと、しかしすぐに笑顔になってエプロンを身に付ける。 「バルネアさん、厨房を借りてもいいですか?」  「ええっ、もちろん。明日の仕込みも終わっているから、余っている食材はなんでも自由に使っていいわよ。お腹が空いているでしょうから美味しい料理を作ってあげてね」  バルネアが満面の笑みで快諾すると、メルエーナは「はい」と笑顔で答えて厨房に向かう。 「……ジェノちゃんはお風呂にゆっくり入る方だけど、あまり時間はないわよ。さてさて、メルちゃんはどんな料理をつくるのかしらね?」  残った食材をひと通り確認して、目を閉じてどんな料理を作ろうか考えるメルエーナに、バルネアは優しい笑みを浮かべて心の中でエールを送る。 「ふふっ。お義母さんの目には、昔の私もこんなふうに写っていたのかしらね」  昔の自分の姿を、料理のメニューを考えるメルエーナの後ろ姿に重ね合わせて、バルネアは静かに目を閉じる。そうして浮かび上がってくるのは最愛の人の顔。 「……ティル。今日、私達とリリィちゃんを巡り会わせたのって貴方の仕業でしょう?」  心のうちでそう尋ねると、バルネアの脳裏に浮かぶティルの顔が申し訳無さそうな表情に変わる。 「やっぱりね。できすぎているもの、あんなに昔の私とそっくりな境遇の女の子と出会うなんて」  もしかするとただの偶然かも知れない。だが、バルネアには今日のリリィとの出会いは、亡き夫がそうなるように仕向けたように思えてならなかった。  リリィはバルネアが作った料理を食べて大層喜んでいた。「わたし、この料理の味を決して忘れません」と涙を流しながら美味しそうに食べる姿に、バルネアは料理人冥利に尽きる想いだった。 「……まだ、どうするかはわからないですけど、父と母に相談をして、これからのことを決めたいと思います」  別れ際にそう言い残してリリィは帰っていったが、そのときには笑顔をみせてくれた。きっとあの娘は大丈夫だろう。 「ふふっ、ティル。最近、私が貴方のことを思い出さないでいたから寂しかったの? それとも、いい加減そっちに一人でいるのが耐え切れないのかしら? でも、駄目よ。私にはまだまだこっちでやらなくちゃいけないことがたくさんあるんだから……」  寂しげな顔をするティルにそう言い聞かせ、バルネアは静かに瞼を開ける。 「よし、まずはお米を使って……」  バルネアの眼に写るのは、大好きな人のために一生懸命料理を作ろうと頑張る女の子。  その年頃の普通の女の子の中では料理上手とはいっても、本職のバルネアから見ればなんとも危なっかしい手つきだが。 「……頑張って、メルちゃん」  心のうちでもう一度エールを送り、バルネアはそれ以上のことは何もしない。手を貸すことは簡単だ。だが、今のメルエーナに自分があれこれと指示をするのは野暮というものだろう。  メルエーナは懸命に、でも笑顔で料理をする。それは自分の料理を食べてくれる人の笑顔を思い浮かべているからだ。技術的には拙くてもそれは料理をする上で何よりも大切なことで、決して忘れてはいけないこと。  トントントンという小気味のいい包丁の音を聞きながら、バルネアは再び目を閉じて、今度は昔の自分を思い浮かべる。  遠方から船が戻ってきた時には祝いの宴が毎回開催されたものだ。バルネア達の作る料理は宴に欠かせないものだったので、バルネアは義母と二人で目が回るような忙しさの中で、船員達とその家族のための料理を作り続けた。だがそれは本当に楽しい仕事だった。けれど……。 「……メルちゃんに私と同じ思いをさせてはだめよ、ジェノちゃん……」  バルネアがそんな思い出に浸っていると、やがて風呂あがりのジェノが居間に戻ってきた。 「……メルエーナが料理を作っているんですか?」  厨房から漂ってくる香りに、ジェノはメルエーナが料理を作っていることを察したようだ。 「メルエーナ、料理は俺が……」 「はい、ストップよ、ジェノちゃん。せっかくメルちゃんがジェノちゃんのために美味しい料理を作ってくれているんだから、今回は素直にメルちゃんの厚意に甘えておきなさい」  厨房に行こうとしたジェノを止めて、バルネアは自分の前の席に座るように促す。その席はジェノのいつもの指定席なのだ。 「……わかりました」  ジェノは小さく息を吐き、静かに椅子に腰を下ろす。 「普通、女の子の手料理って言ったら、男の子は喜ぶはずなんでしょうけど……」  ジェノの趣味もメルエーナの趣味も料理作りなのだが、ジェノのほうが料理のセンスに優れているのだ。メルエーナが料理でアピールしてもその思いはジェノに伝わりにくいのはそれが原因だ。 「そうだ、ジェノちゃん。改めてお礼を言わせてちょうだい。私とメルちゃんの頼んだ本をかなり無理をして探してくれたんでしょう? 本当にありがとう」  バルネアの感謝の言葉に、しかしジェノは顔色一つ変えずに、 「感謝されるほどのことはしていません。……その、道に迷って、たまたま通りかかった本屋に置いてあっただけです」  そう答えた。その直後に、バルネアは堪え切れずに、ぷっと吹き出して笑った。 「……バルネアさん?」  怪訝な顔でこちらを見るジェノ。バルネアは、 「ごめんなさい。いやぁ、でもやっぱりメルちゃんはよく分かっているわね」  と言ってまた笑う。  先ほどのメルエーナとバルネアの会話を知らないジェノにはなんのことだか分からず、彼はバルネアが笑い止むまでずっと怪訝な顔をするしかなかった。 「うん、でも、やっぱりジェノちゃんもいい子よね。これは私からもご褒美をあげないといけないわね」  ひとしきり笑った後に、バルネアはそう言って立ち上がると、戸棚の隅から白い包み紙を一つ取り出してジェノにそれを手渡した。 「はい。これは私からのお礼よ。お金だとジェノちゃんは受け取ってくれないから実用的なものにしたわ」 「……これは?」  手の上に置かれた包みを不思議そうに見つめるジェノに、 「これは、とってもよく効く胃薬よ。どうせすぐに必要になるでしょうから持っていて」  バルネアは笑顔で答える。 「……さっきから、何を言っているのか分からな……」 「お待たせしました!」  ジェノの言葉は最後まで続かなかった。それは、満面の笑みを浮かべたメルエーナがトレイを片手にバルネアとジェノの前にやってきたからだった。 「ジェノさん、お夜食を作りましたんで、召し上がって下さい」  そう言ってメルエーナは満面の笑顔でピラフの入った容器をトレイからテーブルに移すと、それを皮切りに、合計五品をジェノの前に配膳した。 「……メルエーナ。……何だ、これは……」  テーブルの上に所狭しと言わんばかりに置かれた料理の数々に、ジェノは片手で頭を抑えながら尋ねる。 「はい。ジェノさんの好物を作りました」  満面の笑みを浮かべたまま答えるメルエーナ。 「……そういうことを聞いているんじゃない。何だ、この量は……」  ジェノの前に置かれた五品は全て大盛りで、三人前以上はありそうだ。バルネアはクスッと微笑み、 「ジェノちゃん。お残しは駄目よ」  ジェノの退路を塞ぐ。メルエーナの気持ちがたっぷり篭った料理なのだ。多少無理はしても全部食べなければ失礼だ。 「ジェノさん、冷めてしまう前に食べて下さい」  笑顔で食べるように促すメルエーナ。ジェノは観念したのか小さくため息を付いて、「いただこう……」と言ってピラフに匙を伸ばして口に運ぶ。 「…………」  メルエーナは不安げな、そして期待に満ちた視線をジェノに向ける。 「ジェノちゃん、お味はどう? そこはキチンと伝えないと駄目よ」  更にそれをバルネアが後押しする。 「……腕を上げたな、メルエーナ」  ジェノが発した、控えめな賛辞の言葉。だが、メルエーナにはそれで十分だったようで心から嬉しそうに笑う。 「よかったです。あっ、こっちの皿も食べてみてください」 「わかった。だから、少しは落ち着け……」  珍しく喜び全開のハイテンションなメルエーナに、ジェノは呆れ気味に釘を刺す。だが、その表情は無愛想ながらもどこか嬉しそうに見えるのはバルネアの気のせいではないだろう。 「ジェノさん、今日、私、新しいお友達ができたんです」  バルネアの隣の席に座り、ジェノに話を振るメルエーナ。その表情はとても嬉しそうだ。 「……休むつもりはないようだな。まったく。……それで、何が合ったんだ?」  ジェノはもはや諦めたかのように、メルエーナに話の続きを促す。  バルネアはそんな二人のやり取りを微笑ましげに見ていた。 「……ティル、やっぱりしばらくは貴方のところにはいけないわ。まだまだ私はここで頑張らないといけないもの。だから、私のことを見守っていて。貴方が言ってくれたことを、貴方と過ごした日々のことは決して忘れたりなんかしないから」  バルネアは心の中でそう呟き、席を立って窓に近づいて夜空を眺める。そこには綺麗な星空が広がっていた。
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