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「はぁぁぁぁぁぁ」  深いため息が王の口からもれ、彼に仕える書記官……アイは、一瞬びくりと肩を震わせる。  テーベの空は高く、青く広がるが、王の心は暗く沈んでいた。  偉大なる父王……アメンホテプ三世から王位を継いで四年。父王存命中から共同統治という形で国政に多少なりとも関わってはいたが、四十年近く一人で君臨し続けた父から改めて引き継いだ国は、実に豊かであった。が、その豊かさの恩恵に味を占めた神官が、権力を得たばかりの若き王……それも、元来王太子とされていた兄王子が急逝した事から得た、いわゆるタナボタ継承した王に対し、舐めてかかっている現状……それは、王の側に仕える者なら、誰もが知っている。 「王、どちらへ?」  立ち上がった王に、アイはおそるおそる訪ねた。  王とアイは、ただの主従ではない。  アイの両親は、一地方のヒラ……もといあまり地位の高くない神官であった。が、何故かその娘であるアイの妹ティイが先王アメンホテプ三世に見初められ、おまけに寵愛深く、正妃となってしまったことから、アイ一家の運命はひっくり返ってしまった。  妹の息子である現王アメンホテプ四世とアイは、伯父と甥という関係ではあり、また、アイの愛娘を王に輿入れさせた現在では、義理の息子でもある。が。やはり、相手は王だ。  いくら自分が伯父であり義父であったとしても、地位としては相手の方が上である。が、だからといって血気盛んな王が、神殿に殴りこみでもしたら、たまったものではない。  どうやってなだめよう……悩むアイをよそに、王はあっさりと、まったくもって、予想外の場所を答えた。 「後宮」  足早に彼の前を通り過ぎた王を、アイはぽかんと大きく口を開け、唖然としながら見送った。   ◆◇◆  実のところ、王が心を悩ませる原因は、アイが思っている所とは、別の所にあった。  後宮には現在、三人の女主人がいる。もちろん、女官や他国からの政略結婚……人質を含めると、数百単位の女性が生活しているが、王の「妃」とみなされているのは、この三人のみである。  筆頭は、兄が生きていた頃からの妻で、正妃となったアイの娘、ネフェルティティ。  政略結婚で元来父の側室となるはずであったが、父存命中に到着が間に合わず、父の正妃であった母の采配で自分の妻となったミタンニ王トゥシュラッタの王女、キヤ。  そして……。 「いらっしゃいませ! お兄様!」  ドカッと後ろから勢いよく飛びつかれ、王はつんのめって転んだ。王の足から黄金のサンダルがふっとび、石畳にぶつかってカーンッと小気味よい金属音が響く。 「ご……ごめんなさい!」  睨みつけられた娘は、慌てて王から飛び退いた。ここが後宮であり、家臣たちの目がなくてよかった……と、当事者である王は、小さくため息を吐いた。  彼女は、王と両親を同じくする妹、ネベトイアハ。妹ではあるが、れっきとした王の妻でもあった。  先の世において近親婚はタブーなのだが、古代エジプト王朝……特にこの時代において、兄妹および姉弟間、および父娘間での婚姻は、別段珍しい事柄ではなく、よく見られる事例である。  アメンホテプ四世が、この、ちょっと粗忽な妹姫と結婚したのは、兄が死んですぐの事であった。形式的な結婚ではなく、間もなく彼女との間に、一人の男の子が産まれた……のだが。 「スメンクカーラーは?」 「はい! あちらに!」  息子の所在を問われ、ニコニコと微笑みながら向けたネベトイアハの手の先には、人工の池がある。  そこに、数人が乗れる程度の小舟がぽつんと浮かんでおり、舟の上には人影が見えた。が。  その状況に思わず王は顔面が蒼白になった。 「ネフェルティティー!」  王は思わず叫んで、池にバシャバシャと飛び込んだ。王は膝の高さまで水に浸かり、腰布が水を吸ってだんだん重くなる。  舟の上に揺られているのは、子供たちの乳母を含めた複数の侍女たちと、きらびやかな衣装の夫人が二人。そして、三人の小さな女の子。  夫人の一人の腹部は、まるではちきれんばかりに大きく、彼女が産み月間近であることがわかる。 「……一体、なんですの?」 「まぁ……王、顔色が浮かぬようですが……いかがなされました?」  王の存在に気付いた侍女が、急いで小舟を王に近づけた。が、それに対して小舟の上の夫人は、慌てた王とは対照的に、方や実に冷静に、もう一人はのほほんと能天気に王に問いかける。  王のこめかみが、ひくひくと動いた。 「どうしたもこうしたもあるかネフェルティティ! その身体で舟遊びとは……そなた、子が流れたらどうする!」 「今の状態なら、流れる前に、もれなく産まれますわね」  正妃ネフェルティティ……彼女は冷静に淡々と、そしてポンポンっと、軽く自身のお腹を叩く。「さすがに三人目ともなれば、慣れた」……とでも言わんばかりの態度だが、王は「あーッ!」と、再び慌てたように叫んだ。 「やめんか! 大事な体であろう!」 「だーいじょうぶですよぅ。王ってば心配性なんですからぁ」  花のような笑顔を浮かべ、もう一人の婦人……キヤが、のほほんと王に答える。 「私に、まぁーかせてください!」  能天気すぎて、一気に不安が押し寄せた。  女が三人集まれば姦しい……それは、国や、時代を変えても同じこと。  この三人は、王の寵愛を巡って争うこともなければ、産まれた子どもの後継者争いを始めることもない、非常に仲がよろしい関係であった。  が、仲がよろしすぎるがために、王は別の意味で胃を痛めている。  男勝りで行動力のあるネフェルティティ。  楽観的で能天気なキヤ。  そして天然でお転婆なネベトイアハ。  生まれも育ちも三者三様。その三人が揃って起こすトラブルは、日に一つや二つではおさまらない。  さらに、ただでさえそのような状態の中、加えて王の心労の原因は、これ一つにとどまらず。  はぁ……と、王が深いため息を吐いた。見下ろす視線の先に、その原因……小舟から降りる一人の子どもが目に入った。  王の視線にびくり……と、その小さな子どもは震える。王を見上げる大きな瞳には、うっすらと涙を浮かべていた。 「あ、あの……」  何か言おうと、小さな口を開く。震えるような声が漏れたが、その子はさっと、ネフェルティティの後ろに隠れてしまう。 「………………」  王は思わず目頭を押さえ、がっくりとうなだれた。  美しい「女物」の薄衣を纏った、どこからどう見ても可憐で華奢な「王女」。  しかしてその実態は、アメンホテプ四世唯一の男児、王子スメンクカーラーその人である。  ……無駄に似合っているところが、父として余計悲しい。  王は生母であるネベトイアハを、ジトッと無言で見つめた。 「だって……本人が、男物よりコッチがいいって言うから……つい……ネ!」  ちょっとした悪戯を咎められた時のような、実に軽いリアクションで、ネベトイアハはゴメンね! と笑う。  もちろん、本心としては、ちっとも悪いとは思っていないだろう。  そんな二人に、ネフェルティティが口をはさんだ。 「大人げない奴だな。幼な子を泣かせて」  よしよしと、自身の衣装の裾を掴み、小さく泣きじゃくる幼い王子を、慣れた手つきでなだめる。 「それに、似合う物を着せて、何が悪い」 「本心はそっちだろう」  すかさず、王がツッコミを入れた。そんな彼に、まぁまぁ……と、例によってキヤがのほほんと一言。 「ハトシェプスト様も男装されてるわけですし、一緒ですよぉ」 「一緒にするな!」  自分の五世代前の男装の女王と一緒にされ、王は怒鳴る。確かに、過去にそういう人物がいたことは確かだが、彼女は別に男装が趣味でも性癖でもなかった筈だ。……たぶん。……きっと。  だんだん不安になってきっところで、急に膝裏を蹴り飛ばされた。再びつんのめって転んだところに、ネフェルティティとの間に生まれた二人の娘……メリトアメンとメケトアメンが、王の耳元で、大声で叫んだ。 「スメンクカーラーや、おかあさまたちを、いじめるなッ!」  もうやだこいつらッ! 鼓膜がしびれてクラクラする中、王は後宮を退散するほか無かった。   ◆◇◆ 「アイ! アイはいるか!」 「は!」  こちらに……。日も高いうちから後宮へ向かったと思いきや、早々に戻ってきた王に対し、アイは内心騒然としつつも、冷静に対応する。 「どうか、なされましたか……?」 「……宗教改革だ。宗教改革をするぞ!」 「………………はい?」  突然の言葉に、アイは開いた口がふさがらない。 「王たる我が願いを叶えぬ#神――アメン――#なぞ要るかッ! こっちから願い下げだ!」  とばっちりにもほどがある……呆れるアイをよそに、王は神に対して怒りをぶつけ続ける。  かくして、アメンホテプ四世こと、後のアクエンアテン王による、前代未聞の宗教改革は、こうして幕を開けたのであった。  1907年、王家の谷にて、奇妙な墓が発見される。  女性の人型棺に納められ、片腕を下した「王妃」のポーズで納棺されたそのミイラは、鑑定の結果「男性」であることが判明した。  また、後に発見された……「アクエンアテン王の弟または息子」、「ツタンカーメン王の叔父または兄」とされる、彼の遺物の数々に、考古学者は混乱する。  女性のように胸部の膨らんだ頭像、あたかも「女性」であるかのようにあつかわれたような記録や遺品の数々……。  ある者は共同統治者であった父王アクエンアテンと「同性愛」の関係であったと言い、また、ある者はアクエンアテンの妻ネフェルティティ、あるいはその二人の間に生まれた娘、メリトアテンの別名である……と、存在自体を否定する。  スメンクカーラーが記録に残る最初のオネェ……もとい、女装のファラオ説を唱え、父王アクエンアテンの暴走……ではなく、歴史に残る宗教革命のそもそもの原因が、彼にある……といった説をとなえる学者は、現時点ではまだいない。  ……たぶん。
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