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 ※プロローグを先に投稿しております。  来世に期待、とはよく聞く言葉だと思う。だが、それを本当に信じて暮らしている人などほとんどいないに違いない。みんな、なんだかんだ上手く生きていくものだ。  ただ僕は、その大勢と同じにはなれなかった。僕はとにかく、痛みに左右されるこの人生が嫌なのだ。今までにも、何人も痛みに耐え切れず死んでいく人を見てきた。そのたび、僕はそれを救おうと思って自分に痛みを課し、耐えきれずその命を諦めてきた。人生とは僕にとっては痛みの象徴だった。苦悩の証だった。痛みそのものを侮蔑しているとすら言っていいかもしれない。  だから終わってくれるならさっさと終われと思っていたし、自ら終えようとしたことも何度かある。しかして僕はまだ生きているわけで、日常は続いていくものだ。  しかし、その事件は唐突にやってきた。  それはなんでもない、とある春の日の出来事だった。いや、なんでもないとは少し違う。僕達はフレッシュスチューデント、通称フレチューという春の合宿に来ていたのだ。高校に入学したんだしみんなで仲良くなりましょう、というなんともおせっかいな趣旨の旅行だ。  自由を掲げる我が白羽高校は入試の際に必要とされる学力が高く、有名な大学への進学実績も高いということで県外からも多くの学生が集まってくる。だから元々の付き合いのある学生の方が数少ないのだ。  だからこそ、早いうちに友達を見つけなさいという学校側の気遣いは多くの学生にとってはありがたいことかもしれない。  宿泊場所に選ばれたそこは学校の場所とも比較的近いが、今時珍しいかもしれない、昭和よりさらに昔を思わせるかやぶき屋根が立ち並ぶ里だった。  呼吸をすれば木の葉の存在を間近に感じられる。視線を上に向ければ絵の具をぶちまけたような星空が広がっていた。しかし、入学して間もない子供達を集めて一晩を過ごせというのは、ある意味拷問にも近いものじゃないだろうか。  そんなことを考えていたのはどうやら僕だけじゃなかったらしく、民宿の裏口を抜けた森の中に広がる広場には、この行事に不満を持った生徒が数人集まっていた。教師の目も届かないそこはまるで秘密基地のようで、生徒達の童心を大いに刺激したのだ。 「うわ、もう……最悪。蚊しかいないじゃん」 「俺が見つけたこのスポットに文句あるなら中に戻れよ。でもって、狭い部屋で探り探りな会話をしてくればいい。あー、サムサム。晩飯の時とか地獄だったぜ? 俺の班の連中だーれも喋んねーの」 「やー、勘弁勘弁。なんかさー、苦手なんだよね。さあお友達を作りなさい! みたいな空間。あ、あたしは別にあんたみたいにハブられた訳じゃないから」  そう言い合う彼らもまた、楽しそうに見える。学校行事の趣旨から外れている自分、そして同じくそれに反抗するように集まった仲間達に心を躍らせているのだろうと思う。きっとこれはこれで正しいのだ。彼らなりに新しい友達を作ることに対して前向きである証拠なのだから。 「アタシはなんか不良認定されちった。ウケない? アタシ怖がられるなんて人生初めてなんですけど」  お、木崎さんの声も聞こえるぞ。ちょっと派手目なメイクで目はキリッとつり上がった背の低い可愛い女の子だ。僕と同じクラスであり、一目ぼれとまでは言わないが気になる存在であった。木崎さんがいるならちょっと会話に加わろうか、としたところだった。 「ねえねえ、木崎ってあの大島さんと同じ班でしょ?」  突然自分の名前が出てきて少し体が跳ねてしまった。 「あー、うん。そだよ。それがどうかした?」 「あの人、ほら、噂じゃん? どう、どんな感じ?」 「うーん……。いい人なんじゃん? すごい落ち着いてるし。でもそこになんか闇が見えちゃってなあ。背小さいし」  うるせえ。お前だってチビだろ! と僕は心中で突っ込んだ。僕は真の男女平等主義者だ。身長の勝ち負けに男女の差を持ち込んだりしないのだ。 僕はそれ以上彼女らの会話に耳をすませるのをやめて深く座り直した。  実際、もう月が僕らに重くのしかかるように真上にそびえている時間だ。本当に心の底からつまらないと感じているならとっとと布団に潜り込んでしまえばいいのだ。  それをせず部屋を抜け出して集まってきてる以上、彼らもまた、彼ら自身が馬鹿にしている連中と何も変わりはないということだ。 「なあ、それくれない?」  例に漏れず僕も知らない人間ばかりとの夜に飽き飽きして逃げてきた一人だった。しかし、目の前の彼らのように仲間はずれ同士で仲良く話すこともなく、ただ漫然と夜闇を食らうばかりだった。そんな中、僕に声をかけてくる男子生徒がいた。  夜の会話もまた一興か、と僕はすっかり重たくなった口を開いた。その拍子に口の中から白い煙が湧き上がってくる。 「子供は吸っちゃだめだろ」 「お前も吸ってるじゃん。ウケる」 「僕はいいんだよ、二十歳超えてるから」  そうキッパリ言ってやると、少年の動きがピタリと止まった。ふと彼を見ると、月の青い光を遮断するような黒いツンツンのショートヘアーが生ぬるい風に揺られていた。  綺麗な顔だな、と思った。悲しいかな僕の身長では見上げるほどのガタイを持った男子だった。力強く通った鼻筋の両脇には女子でもまあ見ることは少ないほどパッチリとした二重の笠を持った瞳が月明かりに輝いている。 「ああ、オッサンってお前か!」 「何だよその失礼なあだ名は。誰だそれを広めてるやつは。僕まだロクに喋ってもないぞ。それに僕はまだお兄さんだ」 「大島浩輝だろ? 二組の。俺も二組なんだよねー。割と有名だぞ。二十歳のオッサンが紛れ込んでるって」  本当に失礼極まりない言い草だった。それに正確に言うなら二十四歳だ。しかし、いちいち食ってかかるのもみっともないので僕は黙り込んで再びタバコに口をつけた。 「オッサンこんなところで何してんの?」  そんな率直な物言いが、なぜか心地よかった。立場は同じ高校一年生だ。いちいち口調に文句をつける気もない。むしろこれまで話してきた生徒達はどこか萎縮してしまっていて、とても会話にならなかった。  そう考えればこの少年の態度は異質ではあれど、不愉快なものではない。 「んー、なんか。つまんねえなって思って」 「へえ。このキャンプが?」 「それもそうだけど……なんかみんなと会話合わないんだよね。ほら僕陰キャだから」  言外に僕と話していても面白くないぞ、と匂わせたつもりだったが、少年はむしろ話に食いつくように僕の隣に腰を下ろした。 「あー、分かる分かる。さっきもさあ、しょうもないことで盛り上がってたから、それ何がおもろいの? って聞いたら場がシーン、と……」 「それはお前が悪いよ」  その現場を想像して、不覚にも笑ってしまった。僕は姿勢を正すように少年に体を向けると尋ねた。 「僕だけ名前を知られているってのも面白いもんじゃない。君の名前は?」 「恋塚」 「こういう時は下の名前も言うべきだと思うよ」 「恋塚智也だよ。これでいいか? じゃあ一本……」  そっとタバコを抜き取ろうとする恋塚の頭を軽く叩いた。恋塚はまだ不満そうに唇をゆがめていたが、タバコは諦めたらしい。ペットボトルの蓋を力強く開けると一息にそれを飲み干した。 「別に僕はみんなを馬鹿にしてるわけじゃないんだよね。僕も同じように楽しめればどんなによかったかと思うよ」 「そう、それ! いやー、分かってるじゃんオッサン」 「大島だ」 「オーサン、言いづら。やっぱオッサンで。なんだろうなあ、俺が思ってた高校生活と違うんだよね」 「恋塚って中学時代にヤンチャしてたクチ?」  下手に成績の良い不良は乗せられるままに進学校に来て後悔すると聞いたことがある。事実、クラスメイトの面々はいい子というか、育ちのいい雰囲気を漂わせた者ばかりだ。僕としても少し居心地の悪い思いをしていないわけじゃない。 「そういうわけじゃないんだけどさ……。なんか前につるんでた奴らとは目の色が違うっていうか」 「目の色?」 「そう、こう……なんかノリがキザぶってるっていうかさ」 「ああー、女子に色目使う男子の話?」 「そう、そうなんだよ! あれ、あんたもエスパーの類?」  当てずっぽうで適当に言ったが的を射ていたようだ。エスパーでもなんでもない。この少年の様子を見ていれば分かることだ。  きっと彼は今まで顔がいいだけに女に苦労したことはないのだろう。だとすれば自ら女を漁りに行くという行為が信じられないに違いない。恋塚自身が彼らの輪にいない理由は、そんなところだろうと見当をつけたのだ。  まあ何より、先ほど僕自身もそんな感じで女子に話しかけに行こうと思っていたのだが。 「まあ確かに見てて気持ちいいもんじゃないよね。高校デビューでもしたのか露骨に慣れてない口調で女子にグイグイいってるのを見ると……」 「いやー、無理だね! 大体女がどうこう言い出してからみんなつまんなくなってさー」  適当に話を合わせていると、その後も恋塚の愚痴は止まらなかった。それはそれで楽しそうにしているから僕も強いて止めようとは思わなかった。むしろちょうど良い話相手ができたといったところだ。 「なあ、オッサンも暇してるならちょっと遊びいかね?」 「遊びって……このあたりで? 石切りでもするか?」 「それはまあまた今度ってことで。それより面白い話を聞いたんだよ」 「なんだよ。ちゃんと話する友達はいるんじゃないか」 「そりゃ会話くらいはしたよ。あれ、もしかしてオッサン話すらできなかったの?」  恋塚の指摘は当たっていた。十代での年齢差はとてつもなく大きな意味を持つ。僕もどうにか仲良くしようとしたが、どうしても子供を相手にしているようで一歩引いてしまっていたのだ。  そんな態度も僕のひとりぼっちの原因だろうと思う。 「言っただろ。僕はコミュニティ障害のぼっち信者なんだ。それよりその面白い話ってのを教えなよ」 「ああ、そうだ。交差する丘って話なんだけど。そこがどうやら異世界に繋がってるらしい」 「……また胡散臭い話を持ってきたね。天使の話と良い勝負だ」  異世界ときた。思わず吹き出してしまう。いくらなんでもそれはない。しかし、こういう話は馬鹿げているからこそ面白いということもある。僕は続きを促した。 「天使、それって転生の話?」 「お、なんだよ。恋塚も知ってんのか。有名な話なんだな」 「この街の人間なら大抵知ってるんじゃね? そう、これもそんな話でさ」  恋塚が早く続きを話したそうにうずうずと上半身を揺らすのを見て、なんだか微笑ましい気持ちになった。 「この町の人間なら一度は来たことある場所らしいぞ。そこで『来世にワンチャン』って唱えたら何でも願い事が叶うとかなんとか」 「あっはは!」  僕にしては珍しく、声を上げて笑ってしまった。だがいい、これはいい。 「いいじゃんか。そのふざけた文句を叫びに行こうぜ」 「オッサンならそう言ってくれると思ってた!」 「他の奴らも誘うか? これを機に仲良くなるかもよ?」 「んー、いいや。あいつらは。ほら、行こう。俺、場所もちゃんと調べて来たんだ」  目を爛々と輝かせながらスマホの地図アプリを立ち上げるのを見て、僕は時代を感じる思いだった。ここで紙の地図なんて出されても僕には読めもしなかっただろうが。  その後、恋塚の案内で僕達は噂の丘へたどり着いた。不自然に木が生えておらずほとんど灯りの落ちた村を見渡すことができる場所だった。視界に映るのはまばらな外灯の弱々しい明かりだけ。星空を見上げた方がまだ明るいのではないかと思った。 「じゃあ、いくぜ?」 「うん。とっととやっちまおう。ここに来るだけで蚊に群がられて……」 「虫除けくらいしとけよな」  恋塚の言葉に僕はふん、と鼻を鳴らして応える。いちいちそんなもの用意しているわけがないだろ。 僕らは恋塚の合図で、同時にその呪文を唱えた。 『来世にワンチャン!』  一瞬、足を崩すほどの突風が巻き起こり、視界を白銀の光が覆い尽くした。 「……やあ、よく来たの」  そんな声と共に、僕は真っ白な空間に立っていることを認識した。 なんだここは、一体何が起こったんだ!? まさか本当に異世界に……? 「ここは次なる生を定める場所。あの場所であんなことを言うなんてことは、君は異世界に行きたいの?」  混乱の極地にある僕を放っておいて、ソイツは話を続ける。  そう、これが始まりだった。後に小さいながらも大切な僕らの人生を変えることになる、ターニングポイントだった。 『三』 「もう落ちついたのん?」 「……ああ、まだぬいぐるみが喋っていることには慣れないですけど」  一体どれだけの時間が過ぎただろう。いや、そもそもこの空間に時間という概念はあるのだろうか。 ソイツからはただただ呆然と突っ立っていただけのように見えたことだろう。しかし、その内では例えようもない感情の濁流があった。  ただ、一度落ち着いてみればなんてことはない。距離感も分からないほどの白一色の部屋にぬいぐるみが置いてあるだけだ。場違いにファンシーな、カエルのような外見をした灰色のぬいぐるみ。  それでいて目はくりんとまん丸で妙にチャーミングな印象も受ける。鈴を鳴らすような可愛らしい声も相まってカエルの着ぐるみを被った女の子と話しているような錯覚も覚える。 「それじゃ、話を進めるとするの。こういう事務的なのはミネルカ好きじゃないの」 「異世界に行けるって話か……ですか?」 「ミネルカはとっても偉いけど、敬語は不要なの。二人きりなんだし、無礼講なの」  言われて、恋塚の姿がどこにもないことに気づいた。あたりを見渡す僕をミネルカとやらは不思議そうに見ていた。 「ミネルカを呼んだのは、君だけなの」 「僕が選ばれたとでも?」 「確かにミネルカは相手を選ぶけど、今回は君しかいなかったの。意味が分からないことを言うのはやめるの。いいからミネルカに仕事をさせるの」  すう、と息を吸って、そういえばカエルって肺呼吸なのだろうか、ミネルカは瞬きもせずに続けた。 「望むままに次の生を目指すなら、この町にいる悪魔を殺すの。これはそう、来世の運命を決める転生ゲームなの」  どうしようか。早速ついていけなくなってきたぞ。天使、異世界と続いて今度は悪魔か。僕はいつの間にそんなファンタジーな世界に迷い込んだのだろうか。 「それができたなら君の思い通りの世界に生まれ変わらせてあげるの。過去、未来、ゲームみたいな世界、恋愛至上主義の国……。どこでも、なの」  それは……人類の夢といっても過言ではないことだ。誰にもが一度は夢見て、諦めていくそのものではないか。いつしか僕はすっかりミネルカの話に聞き入っていた。 「ミネルカは転生を司る神なのん。仕事を手伝ってくれたら特典として記憶や意識も思いのままなの。さらに好きな力を一つだけ授けてあげるの。大盤振る舞いなの。これこそが神なの」  どこかうっとりとした様子のミネルカ。心なしか瞳も潤んでいるように見える。まあそれでもカエルだが。 「好きな力っていうのは?」 「山を絶つほどの腕力、自然現象を自在に操る力、人の心を思い通りに動かす力。なんでもなの。信用できないなら、お試しに何か一つ授けてあげるの」  そう言って先っぽがくるんと丸まった指先で僕を払うように振る。すると光が僕の体を取り巻いて全身を包み込み……不思議な温もりを残したまま消えていった。 「……別に、変わった感じはないけれど」 「ん、あれ……。さては君、もう既に特殊能力を持ってるの。一人に二つは与えられないの」  言われてギクリとした。確かに僕には人とは違う力を持っている。他人の傷を自分に移して治すことができるという、不便な力だが。 「ズルなの。チートなの。貴様みたいな特別な人間に用はないの」 「ま、待ってくれよ。僕だってこの力には飽き飽きしてるんだ。もし君の言うことが本当なら、この力を消して新しい何かを得ることもできるってことか?」 「……。先に力を与えることはできないの。でも君が一度死んで生まれ変わる時なら、可能なの」  これは。なんという僥倖だろうか。こんなものがなければと思っていた忌まわしい力。それが取り払われるという。いや、でも待て。 「僕が死んだ後じゃ、意味がないんだよ……」 「どうしてなの?」 「そりゃ、僕は今を変えたいからさ。自分が死んだ後のことなんて考えてられない」 「相変わらず人間は短い生をちまちまと大事にするの。でも、その力はとても根強いものなの。きっとこのまま死んでもまた同じ力を持って生まれてくるの。それでもいいのん?」  それは嫌かもしれない。意識も記憶もないのなら僕には関係ない話だが、来世の誰かが僕と同じ目に遭うというのはなんというか、忍びない話だ。  ん、待て待て。そういえば前に転生について牧野と話をしたことがあったな……。確か牧野はそれを望んでいたはずだ。死後、という形にはなるがある意味で彼女を救うにはうってつけの方法なんじゃないのか。もう死ぬその日まで決めている彼女には。  ……。それは、まさしく悪魔めいたひらめきでもあった。言外に、今の牧野を見捨てると言っているのと同じだからだ。しかし、僕は既に一度彼女を見捨てた……彼女が苦しむ病の治療から逃げ出した身だ。今更恥じることもないのかもしれない。だが……。  まあ、試しに訊いてみることにしよう。 「なあ、その転生って奴のチャンスは、何も自分に使わなくてもいいのか?」 「……」  僕の問いに対する答えは沈黙だった。ミネルカは大きな頭を左右にゆっくりと振り、どこか寂しそうな眼をして言った。 「人間の業とは、深いものなの。そんなに苦しめたい誰かがいるなんて、生きづらいにも程があるの。誰を地獄に送り込みたいというの?」  いや、別にそんなつもりはなかったのだけれど……。けどそうか、そんな使い道もあるのか。 「敢えて答えるなら、答えは可なの。ミネルカの望みは悪魔の討伐だけ。あとは手に入れた権利をどうしようと人間の自由なの」 「ならまあ、高校生活に支障がない程度にやってやるよ」 「えっ」  ミネルカが何か不思議そうにしながら、といってもカエルなので表情は変わらないが、声をあげた。 「だって漠然と悪魔を殺せって言われても……。僕、残念ながらエクソシストじゃないんだよね」 「大丈夫なの。見つけ方くらいは教えてやるの。悪魔は死期が近づいた人間に近寄り、その魂を奪う瞬間、羽を広げるの」  ……。しばらく待ってみたが、話はそれまでのようだった。 「話にならないよ、それじゃあ」 「どうしてなの? 人間は、異物を見つけるのは得意のはずなの。そして、ここに来られるということは、貴様も異物であるということなの。異物同士つぶし合うの」 「そのゲームとやらには参加条件があるってわけだ」 「この場所に関する噂が流れていることくらい知っているの。その全てを相手するほどミネルカは暇じゃないの。ミネルカが相手するのは、そのままじゃ来世に支障を来すほど強い未練を持っている者だけなの。これは言わば救済サービスなの。生き損なって、無念に死んで悪魔の餌になるくらいなら、希望を胸に持って死ぬべきなの」  大層なことを言っているが、死ぬことには変わりないんじゃないか。それにしても生き損ないとは、妙に上手い言い方をするな。死に損ないの派生か。 「来世があることが希望だって?」 「人間が前に進むのを止める時は生に絶望した時。例え死であっても希望を持つべきなの。なら倒れるとしても前のめりに死ぬべき存在なの」 「そういう勘違いした自己啓発本みたいなことはいいからさ、ほら」  ほれほれ、とこまねくように手を振る。もっと情報をよこせという意思表示のつもりだ。それが通じたのかどうか、しばらくミネルカは頭を悩ませていた。 「悪魔は……」 「悪魔は?」 「美しいの」  しばし、僕らの間に沈黙が流れる。僕は、そこに確かに神とやらと人間の差を垣間見たような気がした。 「人間だって蛆虫なりに死を恐れる生き物。でも死に美しさを求める奇異なる種族でもあるの。悪魔はそこを巧妙に利用して、できるだけ死に近づけようと、それはまるで宝石のように輝く美貌を持っているの。ミネルカの仕事を奪う、ふてえ奴なの」  なるほど、と思ってしまうのは無理な話だろうか。だけど僕は妙に納得できてしまった。黒い襤褸を纏った死神に首を刈られるより、可愛い女の子の腕の中で死ぬほうがそれはいいだろう。要するに、来世云々はこのミネルカの管轄で、そこを荒らす存在を探し出して殺せ、というわけだ。その特典として、思い描く来世を手に入れることができる、と。 「それだけか?」 「うるさいの。万能の神とは言っても全知の神じゃないの。分かってたらさっさとぶち殺して来るの」  怒り出したぞ。神だなんだと言っても中身は見た目通り子供なのだろうか。 「つまるところ、僕は羽の生えた美しいものを探し出せばいいわけだ。それがどこにいるか分からないし、いつ出会えるのかも分からないけど、だ」 「そういうことなの」  話は終わった。いや、話にならないという意味では始まってすらいないのだが。あまりのバカバカしさに、さっきの思いつきなんて消し飛んでしまった。 「じゃあいいや、さっさと僕を元の世界に帰してくれ」 「受けてくれるのん?」 「別に達成できなくても罰則なんかないんだろ? だったらまあ受けるさ」  道端で小銭が落ちていたら拾う、くらいの気持ちでやればいいんだろう。簡単な話だ。実のところ、僕はいつの間にか、この話に興味を失っていた。もしかしたら今の生を疎んでいる牧野に希望を与えられるかもしれないとは思ったが、これでは話にならない。 「いや、見つけ出せなかった者には地獄の苦しみを受けてもらうの」 「……なんだって?」 「本当に地獄へ落とすというわけじゃないの。というかそんなものそもそも存在しないの。少なくともミネルカは知らないの。ただ他の人間よりもひどい死に方をしてもらうというだけのことなの。それはもう、壮絶なの」  そんな罰ゲームがあってたまるか、という思いだった。だが、同時にその制約がこの馬鹿げた話の信憑性を裏付けているとも感じた。 それを聞いた瞬間、何か熱い衝動めいた何かが腹の底から沸きあがるのを感じた。  昔からの悪い癖だ。なるべく怒気も不満も隠すようにしているが、時折それが爆発してしまう。人からはよく短気だと言われるが、口が止まらないのだから仕方ないとしか言いようがない。 「いいじゃないか、達成できれば今の生を捨てて転生、達成できなくても死ぬわけだ。あるかどうかも分からない異世界より、拷問されて殺されるって未来のほうがよっぽど現実味があるぜ。はは、これ実は危ない人達の作った殺し屋ゲームなんじゃないのか?」 「……」 「いつもそうだ。この世は不条理ばかりだ。何故なんて問いは聞いちゃくれない。真っ暗闇の中、救いの一本の糸を見つけ出したかと思えば上りきる寸前で糸を切られる。こんなオカルト話にまでそんな道理が通っているとは思わなかったよ」  笑える。これには笑った。今日は笑顔の多い良い日だ。 「それで、返答は?」  ミネルカの言葉に、もちろん僕は大きく頷いた。意識せずに頬がつり上がるのを感じる。 「ノーだ。こんなゲームを持ちかけるお前こそが悪魔だろう。ほら悪魔を見つけた。とっとと僕を元の場所に帰せ。話は終わりだよ」 「……そうなの。じゃあもう君に用はないの。もし気が変わったら、ミネルカを呼ぶといいの。そんな君も、このゲームの参加資格を持った一人なの。じゃあ、ばいばいなの」  瞬きの間に、僕は数分前までいた丘に戻ってきていた。静寂の空間から戻ってきたからか、葉のこすれる音や風のうなり声が妙に大きく聞こえた。 「おい、オッサン。どうしたんだよ、ボーっとして」 「……ああ、恋塚」 「まさか本当に異世界にでも行ってたの?」  はは、と軽い笑い声をあげる恋塚の台詞に、僕はついさっきまでいた不思議な空間を思った。 「いや……、夢でも見てたみたいだ。どうせならベッドで見るべきだった」 「なんだよ。眠くなったのか? 体力ないなー、オッサンは」 「オッサンだからね。子供は寝る時間だなんていうけど逆だよな。年を取るごとに夜に弱くなっていくよ」  僕の言葉に恋塚はまた大きく笑った。そこでようやく僕は現実に帰ってきたんだと実感できた。思わず頬が綻ぶ。  もうあの死のゲームのことは忘れてしまおう。そしてこの一風変わった新しい友人と共に新しい学園生活を満喫するのだ。  『四』  昼休み開始のベルが鳴った。誰も彼もが絡まっていた網から逃れるように息をつく。少しぼんやりとしている間に教室からは半分ほどの学生がいなくなっていた。残りは各自で机をくっつけながら持参した弁当をつつくようだ。 そんな、どこにでもある普通の食事風景が僕には新鮮で、毎日この時間になるとぼうっと眺めてしまうのだ。 「……」  しかしその日は、僕はじっと一つの席を眺めていた。そこに座るのは、窓から差し込む日差しを浴びて輝く金髪を風になびかせている一人の少女。牧野桃子だ。新学期当初こそ、クラスの大半が物珍しげに注目していたものだ。廊下からも覗きにくる人が多かったのには笑ってしまった。 「オッサン、今日の飯は?」  ガタガタと音を立てながら恋塚が僕のそばへやってくる。 「いい加減自分で弁当くらい持って来いよ。それか購買行け」 「やだね、あんな人の多いとこ。オッサンの飯のがうめーし」  以前、どうしても理科が苦手な僕は恋塚に教鞭を取ってもらったことがある。腹立たしいことにこの男、イケメンであり勉強もできるのだ。それに人に教えるのが抜群に上手い。少しでも引っかかる箇所があると逃さず丁寧に教えてくれるのだ。 「なんだよ、今日の数学のヤマも当てたろ? 予想屋だってタダじゃないんだぜ」 「……まあいいけどさ。どうせ多めに作ってきたし」  しかも緊急のテストでも見事に出そうな範囲をピタリと当ててくるのだ。僕の中では恋塚は教師の弱みを握っているか恋塚自身がテストを作っていることになっている。  男二人で一つの弁当箱を食べ終わり、一息ついているときにふと思い出して恋塚に問うてみた。 「そうだ、恋塚。可愛い子探してるって言ったろ」 「あん? ああ……そんなこともあったっけ」 「言ったよ。ほら、フレチューの時さ」  恋塚は若干の間を空けて、ああ、と頷いた。 「オッサンよく覚えてんな。冗談だろあんなの」 「暇なんだよ、学校生活ってさ。だから僕なりに楽しみ方を考えてるってわけさ」 「……で、ストーキングか。すげえなオッサン」 「違うよ!」  失礼な発言に憤慨してみせると、カラカラと楽しそうに恋塚は笑っていた。 「で? 誰かいたわけ?」 「ほら、あそこ」  僕はそっと牧野のほうを目で示す。実際、彼女は誰の目から見ても美少女だ。日本人離れした外見も相まってどこに立っても絵になる。 これをダメだと言われたらもう僕の感性か恋塚の目のどちらかがおかしいということになる。 「あー……。あいつかあ」 「声でけえよ馬鹿」  別に陰口を叩いてるわけじゃないが、噂話が聞こえてくるというのも気持ちのいい話じゃない。幸い牧野の様子に変化は見られなかった。 「まあ、可愛いよな」 「お、今度こそ恋塚さんのお眼鏡にかなったかな?」 「そりゃな。アイドルも顔負けって奴だろ、あいつこそ。流石に俺も降参するわ」 「そうだろう、そうだろう」 「なんでオッサンが得意げなんだよ」 特に理由はない。 「それで? 入学早々、十人切りを達成した恋塚さんとしてはどうですかね?」 「言い方考えろ、言い方」  恋塚の目立つ外見と口の悪さは疾風のごときスピードで校内に広がっていた。それでも、と告白してくる子は既に両手の指では足りないらしい。その全てをバッサリ断ったというのだから、大した話だ。 「なんせあっちは三十人切りだからなあ」  恋塚がポツリとそう呟く。そう、牧野桃子は恋塚以上に目立っていたためか、そういった目的で声をかけにくる男子は大勢いた。手の早い連中はもう軒並み玉砕済みだとか。  そんな話がどう伝わったのか、男子からは不落の巨城、高嶺の花として有名になった。そして、女子からは……オブラートに包んで言うなら、お高い女として距離を置かれてしまっているらしい。  出来上がったのが、窓辺に一人佇む牧野、というわけだ。 「声かけにいってみれば? 恋塚ならいけるかもよ」  だからこれはチャンスだと思ったのだ。似たような境遇にある二人なら、上手くやれるんじゃないかと。 「んー、俺はいいや」  だというのに、恋塚はそんな僕の計らいを一蹴する。思わず体をくの字に曲げてしまった。 「なんでだよ!」 「いや、そう言われても……明らかにやべーだろ」 「何がヤバイんだよ」 「嫌だもん、俺。話しかけに行って無視でもされたら。恋塚智也、牧野桃子に玉砕! とか一面に記事飾っちゃうぜ」 「誰もそんなにお前のこと気にしてねえよ。自意識過剰か」 「自意識過剰!」  何がおかしいのか、恋塚はまたケラケラと笑った。  ふと視線を感じて顔ごと向けると、チラチラと牧野がこっちの様子を窺っているのが見えた。  あちゃあ、さすがに聞こえたか。と僕は肩をすくめると恋塚は何かを思い出したように立ち上がった。 「あー、まだ食いたりねえわ。購買行ってこよっと」  逃げたな、あいつ。僕が呆気に取られている間にさっさと恋塚は教室を出て行ってしまった。 ふう、と軽く息を吐くと僕は牧野の席まで歩いていった。 「……悪かったよ」 「何が?」  声に怒気が乗せられている。やはり本人のいる真後ろでこそこそ喋っているのはよくなかったか。 「別に陰口なんかじゃないんだぜ。ただ友達の一人くらい欲しいだろうと思って、心遣いさ」 「友達って、あのチャラそうな人を? 大島さん、相変わらずお節介。私、別に頼んでないんだけど」  ついに視線まで合わせないように目をつぶってしまった。 「おいおい、見た目で判断するなんてらしくないじゃないか」 「見た目っていうか……あれはどう見ても……。それに男だしなあ……。でも、それはそうだね。そこはごめんだね」  謝りつつも、まだ許す気にはならないらしい。相変わらず、つーんとそっぽを向いたままだ。 「なあ、僕こそごめんって。勝手なことしてさ。頼むから機嫌を直してくれよ」 「大島さんには関係ないことなんじゃなーい? 勝手に私のこと売るくらいなんだから。私ってばヤベー奴なんだから」 「売るって……言い方よ」  思わず小さく噴き出してしまった。それがまた癇にさわったのか、形のいい眉がつり上がる。そして、ヤバイと思った次の瞬間には、牧野は大きく息を吸って虚空に向かって大声を張り上げていた。 「あー、もう! しつこいですね! あなたとお付き合いする気はありません!」  瞬間、周囲の目が僕に突き刺さるのを感じた。そして始まる囁きの連続。 「こいつ!」 「あいたっ!」  僕は大いに焦って、牧野の金髪を撫でるように、いや大分強めに叩いてしまった。 それが余計にまずかったか、囁き声は大きくなる一方だった。 「あーあ、大島さんもこのクラスに居辛くなっちゃったね?」  ぺろ、と真っ赤な舌を唇からのぞかせる牧野。こいつ、憂さ晴らしついでに僕に八つ当たりしやがったな! 「行こ。どっか人のいない所」 「なんでだよ……そんなの勝手に」 「あー! あー! やめてください! 乱暴にしないで!」 「分かった! 分かったから黙ろうか牧野!」  こうなったら言葉通りに乱暴でもいい、一刻も早くこいつを外に連れ出さないと! さもないと僕の評判がまた悪くなってしまう!  握ったのが制服に包まれた二の腕あたりだったことが幸いしてか、能力の発動はなかった。 「きゃー、連れてかれるー」  もはや牧野は楽しそうな様子を隠そうともしない。笑い声を上げながら素直に僕の後ろをついて来た。  その時、ふと思いついて彼女の手にそっと触れてみた。今こんなに笑っているなら、調子はいいのだろうか、というちょっとした思いつきだった。 しかし、返事は骨が割れるような強烈な痛みだった。思わず悲鳴を上げそうになってしまう。 「ん、どうしたの。大島さん」  牧野は気にするそぶりも見せない。だが僕の能力に今まで間違いはなかった。こうしている今も牧野には壮絶な痛みがあるはずなのだ。  なのに、どうしてこの少女は笑っていられるのだろうか。  正直に言おう。その時僕の脳裏によぎったのは、おぞましさだった。心配でもなく、感心でもなく恐怖だった。急に目の前にいる少女が化け物めいて見えた。それはまるで、返り血を浴びたまま白昼堂々と歩いているような。 「……いや、行こう」  牧野桃子。彼女は未だ痛みの中にいる。僕の大嫌いな痛みの中に。確かにヤベー奴かもしれない。極力接触は避けたほうがいいだろうか。  僕のそんな考えも知らず、牧野は鼻歌を歌いながらとことこと歩いていた。目指す先はどこがいいだろうか。やはり、学校の中で人気のない場所といえば、あそこか。 「ふう、やっと人目を気にしなくていい所に……」 「大島さん、こんなとこに女の子を連れてきて何するつもり?」 「お前が連れて行けって言ったんだろうが!」  本当、ニマニマと笑うその顔をぶん殴ってやりたい気分だった。しかし、その美貌はどんなに憎たらしくても、とても壊そうだなんて思えるものじゃない。僕は素直に拳をしまうのだった。  僕らが今いるのは、旧校舎の裏庭だ。旧校舎には、今はもう小規模の文化部の部室しかなくなっているようで、放課後以外には訪れる人もいないらしい。 あまり手入れのされていないそこは緑の繁殖力たくましく、もはや土の見える箇所のほうが少なくなっている。 「大体、学校じゃなるべく話しかけるなって言ったのは牧野だろ」 「だって私一人の力でどこまでやれるか試したかったんだもーん……」  その可愛い顔から笑みが消え、とたんに寂しそうに口をすぼめる。  牧野の言うことも分からない話じゃない。牧野も僕と同様、これまで学校生活を思うように過ごせなかった人間だ。それは長期に亘る病院通いのせいだった。牧野が今孤立しているのも、噂のせいだけじゃなく彼女自身のコミュニケーション能力の不足にも問題があったのかもしれない。 「でも、どうせ大島さんお節介焼くし。別に離れてる意味もないかなって思ったの」 「なんだよ、その言い方……。僕は別にね」 「はいはい、分かってる。大島さんは優しいんだもんね」  そうやってはぐらかすのは、牧野の悪い癖だ。思えばそんなことも分かる程度の付き合いになるのかと、感慨深くもあった。 「……でも、嬉しかったよ。私を連れ出してくれて。教室っていうの、なんだか慣れなくてしんどかったから。どんな顔していればいいのか分からなかったから」 「別に、普通にしていたらいいんじゃないのか」 「私、普通って分からないの」  そういえばそうだった。彼女もまた、平凡ではない人生を送ってきた一人だった。僕は初めて彼女と会ったときのことを思い出そうとして、もう覚えていないことに気がついた。 「そうだな……。もう三年くらいになるのか」 「えっ?」 「僕と牧野が初めて会ってからだよ。そう頻繁に会うわけじゃなかったからそんな感覚はないけど、僕の知り合いの中では長い付き合いだなと思ってさ」 「大島さん、友達いないの?」 「うるさいな、お前もだろ」  ため息と共に、右手をポケットに入れてそこに何もないことに気がついた。そうだ、学校にいるからタバコは持ち歩かないようにしているんだった。ニコチン中毒には辛いが、校則は校則なのだ。  しかし、どこかにしまってあったはずだが……と、胸元をまさぐる僕に牧野はちょんちょん、と肩をつついてきた。 「これ、あげよっか?」  牧野が白い箱を僕に差し出してきた。見てみれば、タバコのようだった。 「ああ、さんきゅ」  もしかして僕のために用意してくれたのだろうか。いや、牧野ではタバコは買えないはずだが……。とりあえず口にくわえてみると、カリッと心地よい感触で口の中で砕けていった。そして遅れてくるラムネのような味。 「あはは、タバコの代わりにこれで我慢だね」 ココアシガレットか。随分懐かしいものを持ってきたものだ。 「……意外と悪くないな」 「あれ、そうなんだ。もしかしてこれで禁煙できちゃう?」 「いや、代替品にはならんけどさ。普通においしい」 「なんだ、つまんないの」  牧野も一本ココアシガレットを取り出してポリポリと食べ始める。こうしてみると牧野も案外タバコが似合うのかもしれないと思った。勧める気は全くないが。  しばし、二人でココアシガレットを味わう無言の間が生まれた。そして、ぽつりと牧野が言う。 「……五年だよ」 「え?」 「私が大島さんを知ってから、もう五年になるよ」 「あれ、そうだっけか。もう時間の感覚分かんなくなってきてるのかな」  いくらなんでも、僕はまだ二十歳ちょっとだ。ボケは始まってないはずだが……。 虚空に視線を泳がせる僕を見て牧野はくすぐったそうに笑った。 「大島さん、有名だったから。あの病院で。あの子に看護してもらうと楽になるってさ」 「ああ……そんなウワサが流れてたのか。別に特別なことはしてないんだけどな」 やって来る患者の関節痛くらいは治したかもしれないが。  そう、僕の能力について一つ注釈を加えるならこれだろう。僕の能力は、触れた相手の痛みを自分に移すというものだが、心の痛みまでは取れないのだ。だから精神科を主とする叔父の病院では能力の発動が少なくて僕も働きやすかった。 訪れる患者は腰が痛いくらいはあるかもしれないが、少なくとも内蔵を削られるような痛みは体感しなくて良かったからだ。  それに、自分の特殊能力で人を治すというのはあまり気持ちのいいものではない。だから僕は自分で努力して患者の助けになろうとしてきた。薬の処方も診察もできやしないからこそ、どうにか他のことで助けになってあげようと奮闘したのだ。 それが今でもあの病院で手伝いを続けている理由でもあった。  ……それでも時々、僕は嫌いなはずのこの力に頼ってしまう。そんな僕の弱さが、僕は嫌いだった。 「あの子だけは、自分の痛みを分かってくれるって。変な先生に当たった人でも、大島さんの看護を受けた人は誰もあの病院に来たことを後悔してなかったよ」 「……なんか、照れくさいな」 「私も、それを聞いてちゃんと病院行くようになったんだもん」  そうか。……そうか。  お腹の奥底がじんわりと熱くなる。叔父さんに拾われて、病院の手伝いを続けて……何を目的としていたかはもう覚えていない。だが、自分のしてきたことが報われたのならそれは本当によかったと思う。 「ま、その牧野のおかげで僕は学校行くようになったんだけどね」 「えへ、じゃあ、おあいこだ」 「そうだな」  さっきまでの怒気などもうどこにも見えない、底抜けに明るい笑顔を見せる牧野。 「ねえ、学校楽しい?」 「まあ……新鮮かな。牧野はどうなんだよ」 「私は、まだ。かな……。友達もできないし……ていうかなんかいつの間にか、みんなグループ作っちゃってるし。はあ……。やっぱフレチュー行きたかったなあ」 「そういえば、なんで来なかったんだ?」 「来なかった、じゃなくて行けなかったの。特別体が痛んでね……。あーあ、あんなイベント一つで決まっちゃうなんてなあ」 正直それだけじゃないぞ、と思ったが口には出さないでおいた。 「それにしては妙に楽しそうだな」 「えー、そうかな」  一輪の花を思わせる瞳も心なしか輝いているように見える。小さくつりあがった目尻が踊っているようだ。 「なんか良いことあったのか?」 「んー、ないしょ」 「……無理、してないか」 「無理してるのはいつものことだから」  ダメだな、この手の話題は。結局いつも肝心なことは教えてもらえずに空気ばかりが重くなっていく。  僕と牧野の学校生活に求めるものは一致していると思っている。それは平凡にも、ただ『楽しい学校生活』だ。しかし、平凡だからこそ、普通とは違う道を歩んでいる僕らには得がたいものだった。  それを、さらに自分たちで暗くしてしまっては元も子もない。 「学校かあ。どうしたら楽しくなるのかね」 「やっぱ友達じゃない?」 「その点で言えば僕はパスしてるな。恋塚がいるし」 「あのチャラい人ね」 「相変わらず男嫌いだな……。それとも牧野、あいつになんか恨みでもあるのか?」 別に、と牧野はそっぽを向いてしまう。 「なあ、ひょっとしてお前、僕にだけ友達ができたからって……」  そうからかおうとした瞬間だった。遠くから男の悲鳴が聞こえてきた。それには牧野も気づいたようで、二人してしばし顔を見合わせた。 「……ちょっと見てくるよ。牧野は先に教室に戻ってな」 「え、危ないよ。大島さん」 「大丈夫だよ。ちらっと見てくるだけさ」  強引に牧野を校舎の方へ押し戻すと、振り返ることなく声のしたほうへ向かった。ここで下手に時間を使って万が一があっては困る。幸い、牧野は僕の言うことを聞いてくれたようで、背後から土を踏む音が聞こえた。 「さて、この平和な学園生活に何があったのか」  冗談めかした一人ナレーションは、ちょっと怖じ気づいた自分を奮い立たせるためのものだった。年を重ねたからといって怖いものが怖くなくなるなんてことはない。悲鳴というものは僕らにとって非日常のものだ。  ……。しかし何故だろう。僕がここで様子を見に行くという決断を下したのは。無視したって良かったはずだ。牧野にいい所を見せたかったから? 確かにそれは否定できない。だが、それ以上に行くべきだという強い気配を感じたのだ。 ――悪魔が近いの。  ふと、そんな幼い声を聞いた気がする。幻聴か、と耳を澄ませたところで、また一際大きな悲鳴が聞こえた。いつの間にかずっと近くまで来ていたようだ。視線の先には。 「うるせえよ。ギャーギャーわめくんじゃねえよ」 「なんか最近生意気なんじゃねえの? なあ武志ちゃん?」  男女混合のグループに囲まれて、一人の男子生徒が地面に這いつくばっているのが見えた。口元に見える赤い血にすっと体の温度が下がるのを感じた。 「ねー、もう飽きたんですけどー。さっさとお昼行こうよー」  そこには、僕がちょっとだけ贔屓に見ていた木崎さんの姿もあった。そこに少なからずショックを覚える。  言ってしまえば、よくある光景だった。きっとイジメだろう。いや、こんなことに値する何かをあの男子生徒がやらかしたのかもしれないが、男女のグループからそういう怒りの感情は見受けられない。  あるのはただ、手慰みに携帯ゲームをするような、冷めた表情のみだ。寒々しい笑みを張り付かせて再び男子生徒の腹を蹴り上げた。 もう悲鳴も上げられないのか、かすかにその肩が震えているのが見えた。 「誰か……助けて」 か細い、今にも消え入りそうなささやきが聞こえてくる。  僕は正義の味方じゃない。その前に現れて連中を成敗するような真似はしない。だが、正義の味方ではないからこそ、殺意にも似た強い怒りを覚えた。  彼らは痛みを知らないのだろうか。人を殴るとどんな痛みが生じるのか想像できないのか。もしやそれを想像した上で喜んでいるのだろうか。だとしたら、それはもう痛みの使徒とも呼ぶべき、僕の侮蔑する存在だ。  痛みは危険のシグナル、という言葉がある。だとするならばそれは喜ぶべきことではないのだ。火災警報器が鳴ることがない方がいいように。警報ブザーを引くことがない方がいいように。  それを許容するならば、彼らはもう放火魔や子供を襲う不審者となんら変わりはない。そのことに気づいているのだろうか。  僕は痛みが嫌いだ。紙で指先を切る程度の痛みも想像したくないほどだ。だから痛みを与えるものは病であれ暴力であれ大嫌いだ。僕の人生の仇と言ってもいいかもしれない。イジメの現場を見過ごすことはできても、簡単に拳を振るう人でなしだけは見過ごすことができなかった。  だから、その一歩を踏み出すのに躊躇いはなかった。向かうのは、もちろんまた実に楽しそうな笑い声をあげる集団だ。 『五』 「おー、こんなとこにいたのかよ。財布クン」  結局、僕が選んだ第一声はそんな言葉だった。あくまで歩調はゆっくりと、そこにいるのが当然という表情を作って歩いていく。 不良に対抗するなら、同じ不良が手っ取り早いだろうと考えたのだ。  タバコにライターで火をつけて、甘美なる一口を不快感と共に吐き出した。 直後に、いくつもの視線が僕に突き刺さるのを感じた。決して気持ちのいいものじゃない。  しかし、だからなんだというのか。自分よりいくつも年の離れた子供のできる威圧などたかが知れている。十分に無視できる範囲内だ。 ……そう自分を奮い立たせなければならなかった。 「なんだ、こいつ」 「あれ、大島じゃね?」 「んだよ、誰だよ」 「ウチのクラスの奴っすよ。話しませんでしたっけ?」  そんないくつかの声。というか先輩までいるのか。子供のグループの広がり方というのは随分早いものだ。  しかし、まだ状況を理解していない様子だ。これを好都合として僕は畳み掛けるように言葉を発した。 「困るなあ、俺が先にツバつけてたのによお。なあ?」  そのまま、倒れてる男子生徒の髪を掴んで持ち上げた。すると、流れてくる彼の痛み。各所の打撲と擦り傷程度のものだが……。涙に濡れたその瞳を見るに、その傷は見た目だけのものじゃない。  痛みが消えていくことに驚いたのか、男子生徒の口がパクパクと動いた。だが結局彼はそれ以上喋ることなく気を失ったように目をつぶった。それは僕の能力の発動に伴うものだろう。能力の発動の際、ちょっとしたリラックス効果でもあるようで、そのまま眠りについてしまう人も多い。まあ、下手に喋ってボロを出されるよりはマシだ。  さてここからだ。背後で殺気めいたものを高めつつある彼らに、この男子を先にイジメていたのは僕だ。と言い張らなければならない。  まだ入学してきて間もない。きっと邪魔が入ってもまだイジメようとするような標的にはなっていないだろうと考えたのだ。しかし、先輩がいるのは予想外だったな。  それに、いかんせんこっちはこういう荒事には慣れていない。どうしたものか。 「おいオッサン。お前には関係ねーだろうが。そこどけよ……うぷっ」  僕の肩を強く掴んできた茶髪の男子生徒に向かって煙を吹きかけると咳き込んだ。意外とタバコには慣れてないのだろうか。いや、そうか。未成年だしな。  よく見れば耳元に銀色のピアスも見える。確かにこの学校は比較的校則にゆるい所があるが、見るのは初めてだ。 「ちょっと、なんなわけ? 急にしゃしゃり出てきて。超ウザいんですけど」 「俺たち楽しくおしゃべりしてただけだぜ?」  白々しい嘲笑に無意識に笑いがこぼれた。そうだ、この程度だ。自分より弱いものに当たることしかできない程度の子供の集まりだ。恐れることなんてなかった。 「だから、俺のが先だったっての。今日の昼もこいつと『楽しく』飯食おうと思ってたんだぜ? なのにどこ探してもいねえからよ。もうお腹ペコペコなわけ。どうしてくれんの、なあ」  ううん、僕も少しは演技の練習でもしておくべきだったかもしれない。そんな迫力だった。 「知るかよ、んなこと。邪魔しないでくれますぅ? センパァイ」  言葉と共に、拳を振りかぶるのが見えた。遅れて、強い衝撃と熱を頬に感じる。それは、痛み。僕の大嫌いな痛みだ。 「ほらほら、痛い思いする前に帰ってくださいよ。センパイ」 「棒立ちじゃん。ウケる」  胸の中を渦巻く怒りを抑えるためにタバコを一吸いした。噛まれたからと言って噛み返すのでは、犬猫と同じだ。何より、自分の侮蔑する暴力にだけは頼らないと決めているのだ。 「ふっ」  一息に、火のついたままのタバコを今殴ってきた男子生徒の顔めがけて飛ばした。 「っ、あっぶね!」 「キャア!」  まあ、威嚇くらいは許してもらおう。 「手ぇ出したな手前。おいコラ覚悟できてんだろうなクソガキ」  ……いや、大分頭にはきていたのかもしれない。今の言葉は演技でもなんでもなかった。 「上等だ。ああ上等じゃねえかこっちが下手に出てりゃデカい態度取りやがって挙句の果てに帰れだ? いい度胸だ今すぐ手前ら全員土に帰してやるよクソ共が」  一体どっちが悪役だという話だ。あまりの大人気なさに涙が出てきそうだ。だが、僕の言葉も一定の効果はあったようで、彼らは互いに目を見合わせて、どうする、こいつ……と相談し合っていた。  いやまあ、その目はどう見ても異常者に出会ったそれなのだが。  とにかく落ちつかなかければ、と二本目のタバコを取り出し火をつけた。しかしその動作にまた自分たちに火を飛ばされると思ったのだろう。一歩ずつ全員が距離を取った。 「まずお前だな。顔覚えたぞコラ。すぐに誰かわかんねえようにしてやるよ。ああそれじゃ意味ねえな、はっ」 「こいつっ……!」  咄嗟に身の危険を感じたのだろう。反射的に彼が拳を振るうのが見えた。だがもう避ける気もなかった。僕はその程度の痛みに負けやしない。好きなだけ殴るといい。 「どーん!」  その時、彼の姿が視界から消えた。代わりに、もう見慣れたニヤけ顔がそこにいる。 「なーにやってんの。オッサン」  笑いをこらえようとして必死な顔もなぜかキマっている、恋塚の姿だった。その足元には僕を殴ろうとした男子生徒が横たわっている。ああ、蹴り倒されたのか。 「いいぞ恋塚そのまま押さえてろ。今すぐこいつの目と舌に根性焼きかましてやる」 「いーっていいって、似合わねえってオッサン」  ついにこらえきれなくなったのか、恋塚は声を上げて笑い出す。人を踏みつけながらの笑みに気圧されたのか、また周囲の距離が開いていった。 「それより、なんかケンカ起こってるって聞いてきてみればお前らかよ! あー、なに?見た感じそこの子イジメてたらオッサンにキレられたって感じ? うわー、まだそんなしょうもないことやってたのお前ら」  なんだ、顔見知りか? と、そこでようやく頭が冷静になった。そうして周囲を見てみれば、どことなく恋塚を恐れているようにも感じられる。  なんだろう、前に何かあったのだろうか。その疑問に恋塚がすぐに答えてくれた。 「ほらオッサン。フレチューでつまんねえ話ばっかしてた奴ら。こいつらだよ。何してんのかと思ったら上級生のケツで弱いものイジメとか。はー、笑えるわ」 「んだよっ、こいつ!」  茶髪少年の横で笑っているだけだった坊主頭の生徒がケラケラと笑う恋塚に殴りかかった。それはあまりにも唐突で、一瞬目の端に涙さえ浮かべているのが見えた。おそらくは突発的に感情が昂ぶったのだろう。  なのに、まるで恋塚は最初から知っていたかのように首の動きだけでそれをかわした。そして、太ももを蹴り上げると坊主頭は体が半回転したように頭から音を立てて地に伏した。 「恋塚……お前強くね?」 驚いて、思わず素のままに言葉を漏らしてしまう。 「オッサンよりかはね。危ないから下がってなよ」  なんだ、この頼れる感じ。イケメンだ。一歩間違えば惚れてしまいそうになる。 「……ええ加減にしろや」  その時、ずっと奥の方で座り込んでいた男が低いがさついた声を発した。ビクンと全員の体がすくみ、場の空気が凍りつくのを察した。  なんだろう、この集団のボスみたいなものか? 雑に切られた黒髪の下にはまるで死人のような青白い肌。黒縁のメガネの奥にはやけにするどい瞳が覗いている。 「そいつとお昼したいって言ってるだけやろが。んなもん一々食ってかかるなや。みっともない」 「宮代先輩……」 「あんた話分かるじゃん」  恋塚は本当に物怖じしないな。この男……宮代の妙な迫力に気圧されることなくあっけらかんと言い放つ。そのおかげか、僕もかろうじて平静を保つことができた。 「……俺は二年や。目上には敬語使えクソガキ」 「なら僕にも敬語よろしくな。お前よりずっと年上だから。よろしくな、ミヤシロとやら」  すっと剃刀のような鋭さを持つ眼がレンズ越しに僕を射抜いた。だが、まあ、所詮は猿山のボスだ。恋塚がいなければどうだったか分からないが、対抗できないほど怖くはない。  人類史上始まってから、視線で人を殺した例は一つとしてないのだ。睨まれる程度、どうってことはない。だからそう、この震えはただの武者震いだ。 「なあ、大島さんって言いましたっけ?」 「あ、やっぱ敬語いいや。気持ち悪い」 「……」  宮代はさすがに怒ったのか、僕に向かって腕を振り上げる。しかして僕に攻撃はなく、まだ地面で焦げくすぶっていたタバコを、すっと取り上げただけだった。 「これ、くれな。そんくらい別にええやろ。それじゃあ、楽しいお昼を。ほなな」  宮代が去っていくと、他の生徒たちもそれに続いていく。後には倒れた男子生徒と恋塚と僕だけが残された。去り際、木崎さんがぽつりとささやくように耳元に残していった言葉が気にかかる。 「やるじゃん、オッサン……でも、これから気をつけなよ」  これから? 木崎さんは何のことを言っているのだろう。いや、彼女もまたイジメグループの一員ではなかったか? それが僕にどうしろと……。  勢いで割り込んできてしまったが、これでこの件は終わりでいいのだろうか。不安は残るが。 「で、どーすんの? オッサン」 「……とりあえずこいつを保健室に運ぼう。転がしたまんまじゃまずいだろ」  恋塚に男子生徒を背負わせて、僕らもその場を後にするのだった。  そして、男子生徒を保健室まで送り届けた僕らを待っていたのは、やけに日焼けしたロングヘアの女保険医だった。前髪は目を覆い隠すほどで、打って変わってすっと通った鼻筋が爽やかなのが印象的だ。 「あの宮代に一発カマしたんだって? そりゃいい」 「かますって……別にケンカしたわけじゃないですよ」  ちょっとした騒動ではあったが、俗にいう喧嘩ではなかった。 「それになんで知ってるんですか? 今さっきのことですよ?」 「この子、二年の平井だろう? いつも宮代に泣かされて保健室に来るからね。覚えてしまったよ。傷が見当たらないということは君たちが助けたんだろう。そのくらいは察しがつく」 「それを先生は黙って見てるってわけだ」 「……そうは言うがね、では私にできることはなんだろうね。平井はそうだね、言わば宮代のライバルでいるつもりなのさ」 「ライバル?」 「先に手を出したのがどっちかは知らないけど……顔を突き合わせればケンカしているらしいよ。そしていつも負けて帰ってくるのさ。事情が事情だからどちらが学校に報告することもなくてね。宮代も表立って何かしているわけじゃない」  それは。イジメというのもひどい勘違いだったのか。ならば、ならば僕の敵は……。  さて、と保険医は机から僕らに体を向ける。膨らんだ胸にある教員証から、佐々木という名前が見て取れた。 「子供のケンカに大人が首を突っ込むのはどうかと思うがね。これが一方的ないわゆるイジメなら話は別だが。どっちにしろ、私は怪我をしたり具合の悪い子の相手で手一杯なんだ。青少年の主張はよそでやってくれないかね」  事情を知らない僕から、それ以上言えることはなかった。 「なあオッサン。あんたって正義の味方かなんかなの?」 「え、あ……いや。違うけど」 「だったらいいじゃん。もう善良な一市民としての義務は果たしたって。さっさと帰ろうぜ」  眠たげな目で言う恋塚に、少し気分が落ち着いた。  確かに、それもそうだ。僕に平井先輩を助ける義理はないし、自分たちに害が及ばないなら学園の風紀だってどうでもいい。  そう、いいじゃないか。別に。そもそも、ケンカだなんだなんて僕の求めていた学園生活には不要のものだ。ああ、そういえば恋塚には礼を言わないとな。 「恋塚、さっきはありがとうな。助けに来てくれて」 「あ? 別にいーって。何したわけでもないし。それならあの子に礼言っとけよ」 「あの子?」 「オッサンが推してたあの可愛い子。すごい形相で俺のとこまで走ってきたんだぜ」 「牧野……そんなことを」  足を一歩動かすだけで苦痛を感じるはずの牧野。その彼女が走って助けを呼んでくれたのなら、確かに頭を下げなければならない。 「おや、牧野ってあの金髪の新入生かい?」 「先生知ってるんですか?」 「そりゃね。何しろ新学期が始まってから早くも常連になった子だからね」 「あれ、じゃあ先生は牧野の病気のことも……」  っと、いけない。口を滑らしたか? 恐る恐る恋塚のほうを見るが、退屈そうに欠伸をしていた。もう目の前の出来事に興味を失っている様子だった。 「ああ、まあ。ね。難儀な話だよ」  佐々木先生は、ふうと一息を漏らすと腰のポケットを探る。そして何かに気がついたように小さく舌打ちを漏らした。 「私も医者の端くれだが、そんな病気があるなんて聞いたことがなかった。実際、診察もしたが彼女には何の問題もなかった。だからサボるならもっと上手くやれと言ってやったのさ。暇潰しに催眠術にでもかけてやろうと言ったら、断られたね。はは」 「……先生、本当にそんなことを?」  無意識に、言葉に棘が刺さってしまった。 「催眠術かい? こう見えても私は正式な資格も持ってるんだぞ」 「違います! 牧野のことをサボり魔だなんて、そんなことを言ったんですか!?」 「仕方ないだろう。こっちも仕事なんだ。どこにも異常のない生徒をベッドで寝かせる、それをサボりと呼ばずなんと言う?」  ……これが、これが線維筋痛症の今のあり方だ。誰にも理解を示されず、仮にも医の道を歩いている先生にまでこう言われる始末だ。僕はそんな現実に、怒りを抑えられなかった。 「あいつはっ、そういう病気なんです! 先生のそんな態度があいつを苦しめているというのに……!」  再び燃え上がってしまった僕を、佐々木先生はどうどう、といさめた。 「今は悪かったと思っているよ。本当に知らなかったんだ。とにかく、君も彼女のことを知っているなら少しでも力になってやるといい。そっちの子の言う通り、こんな荒事にいつまでもかまけていないでな。それじゃあそろそろ戻りなさい。授業が始まるよ。君たち、安室先生のとこの子だろ。新人教師に迷惑をかけるもんじゃない」 「はあ……まあ、そうですね。そうします」  行くぞ、と恋塚に声をかけようとして、恋塚が目を閉じて船を漕いでいるのが見えた。 「おい、恋塚……」 「眠いならここのベッドを使うといい。事情がどうあれケンカを諫めてくれたんだろう。そのくらいは構わないさ」 「先生も、妙なこと言わないでください」  僕が強引にでも恋塚を連れ出そうとすると、か細い声が漂ってきた。 「……ま、待ってくれ。君、僕を助けてくれた奴だろう」  もう気絶から目覚めたのか、そこには細めの一重から怪訝そうな光を見せる平井先輩の姿があった。 「平井、大丈夫か? どこか痛んだり吐き気はないか?」 「え、ああ……先生。いつもすみません。大丈夫です」  そう答えられると、佐々木先生はこれから会議があるから、と部屋を後にしてしまった。保険医がこの有様でこの学校は大丈夫なのだろうか。 場の空気が荒れたままなのをなんとなく感じたまま、僕は平井先輩に尋ねた。 「それで、平井先輩はなんでケンカ売ってまわってるんですか?」 「まだ続けんの? オッサン……俺もう帰っちまうぜ」  恋塚が不満そうな声を漏らすが気にしない。どうしてもそれが気になって仕方なかったのだ。何しろ、今や彼こそが僕の敵に他ならなかったからだ。 「それも、多人数相手の勝ち目のない勝負とも呼べない行為を。今回は助けられましたけどいつもはやられっぱなしなワケでしょう」 「それは……」  平井先輩は細い目を流して僕から視線を逸らす。 「ひょっとして、マゾかなんかですか?」 「ち、違うわい!」 ナマったな。この人もどこかの地方出身なんだろうか。 「だったら、どうしてなんです」 「俺は……負けるわけにはいかないからだ」 「何に対してです。まさか宮代先輩に? それに何の意味があると?」 「……」  彼はそれ以上、何も語ってくれなかった。仮にも恩人であろうと、初対面の相手に話すことでもないみたいだ。まあ、それならそれでいい。 「あなたの体は、悲鳴を上げていましたよ」 「……?」 「助けてと、そう語っていました。僕はその声を無視する人間が大嫌いです。その叫びを無視してまで、あなたは何に勝ちたいと言うんです?」 「俺の体が、悲鳴を……」  自らの両腕を見下ろす彼の目は見えなかった。見えたところで、何を思っているかなんて読心術を持たない僕には察することもできない。  だが、僕の言いたいことは言った。もう用はない。 「とにかく、これで懲りてくださいね。次からはもう助けませんから」 「俺は! 誰の助けも……」 「先輩にも何か事情があるんでしょう。それは咎めませんよ。でも僕は、痛みを無視することが許せなくてあの場に立ったんです。決してあなたを哀れんだからではありません」 「な、何が痛みだ……何が同情だ! 俺のことを何も知らないくせに……! 俺はあいつのためにも、誰より強くないと!」  見ず知らずの後輩にいきなりこんなことを言われて憤ったのだろうか。平井先輩は勢いよく立ち上がると声を張り上げた。思ったより背が高く、僕はそれを微かに見上げる形になる。  僕は確かに何も知らない。知ったこっちゃない。誰にどんな事情があろうと、僕には許せないものがあるのだ。 「あんたのやってる事は無駄だ。痛み以外何も生み出しやしない。そのあいつとやらだって、きっと歓迎していないぜ。暴力の理由に他人を使うなよ。胸糞悪い」  ぐっと平井先輩が拳を握るのが見えた。悔しいだろう、何も知らない他人からこんな風に言われるのは。しかし、それほど馬鹿げていることをやっているのだと知って欲しかった。 ……そして、僕だけが知っている。彼の痛みを。 「あんなに痛いと感じていたんじゃないか……。なんでわざわざ自分でそんなことをするんですか、先輩。僕にはそれが分からない」 「……お前は、俺の何を知ってるんだ」 「何も知りませんよ。あなたのことなんて。ただ、痛みを知っているだけです」  そっと彼の腕に触れる。抵抗したのだろう、一番多く打撲の跡があった場所だ。 「そうでしょう、平井先輩。……痛かったでしょうに。僕は、それが許せない」 「僕は……」 ――悪魔が近いの。  また、この声だ。一体なんなんだ。この期に及んで悪魔だなんだと……。 「あっ……」  俯いて肩を震わせる平井先輩の影に、銀色の風のようなものがちらつくのが見えた。僕の目が確かなら、こんなものが見えてる時点で確かではないと思うが、そいつは真っ白な翼を広げていた。 「ひ、平井先輩」 「……なんだよ。まだ何かあるのか」 「いえ、これが最後です。もうこれ以上言いたいこともありません。だからもし心当たりがなかったら無視して下さい」  口の中が急速に乾いていくのを感じた。その時になってようやく、不思議な声の主がミネルカのものだと気付いたからだ。転生ゲームなんていうふざけたゲームを持ち出してきたあいつの。  そのミネルカはこうも言ってなかっただろうか。悪魔は翼を持っていて。死期が近づいた者に悪魔は接触してくると。 「その……死のうとか、思っていたりはしませんか」 「なんだ? そんなこと……思うわけがないだろ」 「では……悪魔を、知っていますか」  変化は急激だった。平井先輩の顔が真っ赤から真っ青へと変わり、強い力で僕の肩を掴んでくる。その目は今まで見たどれよりも必死なものだった。 「き、君もあのゲームの参加者なのか?」 「ちょ、先輩近いです」 「教えてくれ! 悪魔はどこなんだ! いや、それよりどこに行けば参加できるんだ!」  僕はその圧に押されて、思わずフレチューでの宿泊先を告げてしまった。いや、だって本気で怖かった。教えなければすぐに首をねじ切られてしまうのではないかと思ったほどだ。恋塚が後ろで静かに身構えたのが分かった。 「あそこ、あそこか! ありがとう……ええと」 「僕は大島。一年ですよ」 「大島、ありがとう! これで僕も……!」  止める間もなく、平井先輩は保健室を出てしまった。まるで嵐が過ぎ去った後のような静けさが僕らの間に停滞する。 「……なんだったんだ、あれ」 恋塚の言葉に、僕は首を左右に振った。 「ワケわかんないよ。いや、それよりヤバいかも……」 「ヤバいって何が?」 「あの平井って奴、死ぬかも」  僕のそんな物騒なセリフに、恋塚が眉をひそめた。 「また変なこと言い出したな、オッサン」 「……恋塚。これ真面目な話なんだけど。聞いてくれる?」  その時、授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。僕と恋塚は顔を見合わせて視線で会話する。 「フけるか。午後は」 「そうだね……。ちょっと色々疲れたし」  息を大きく吹き出して、僕は恋塚に悪魔の影のことを伝える決意をした。なんだかんだで頼りになる奴だと分かったし、他に相談相手なんていないからな。 『六』 「それで、保健室から出て行った平井先輩を見送って僕は恋塚に……」  後日、僕はいつものように病院の裏手にある喫煙所にいた。診察終わりの牧野も一緒だ。  しかし、一緒なのがまずかった。あの日、恋塚と共に午後の授業を抜け出して、転生ゲーム……については話せなかったが、都市伝説の一つとして悪魔の話をしていた僕は、牧野に無事を伝えるのをすっかり忘れていたのだ。  それに気付いた時にはもう手遅れで、メールを送っても電話をかけても彼女からの返事は一切なかった。  ようやく今日、牧野を直接捕まえることに成功したのだった。それからしたことと言えば、報告という形の言い訳大会だ。  牧野には、なんとなく転生ゲームのことは話したくなかった。もしそうしたら、きっと飛びついてくるだろうから。僕は彼女の、そんな姿を、死に急ぐような様を見たくなかった。  だから、例の悪魔の影のことは伏せて、ただ沈黙を嫌って話し続けていたのだが。牧野は一度も返事することがなかった。それでもまだこの場にいてくれているということは、情状酌量の余地有り、といった所だろうか。 「なあ、悪かったって」 「二回目」 そう短く、突き放すように言う牧野の目はどこか虚空を漂っていた。 「やっと口を利く」 「大島さん、暴力とか嫌いだって言ってた」 「そりゃ、大嫌いさ。だからほとんどそれには頼ってないぞ」  それも恋塚の助けがなければ危ない所だったけど。まあ、僕の誓いなんてその程度のもの、という話だ。漫画の主人公のように絶対に人を殴らないと決めているわけではない。 「根性なし、甲斐性無し」 「いや、まあ。悪かったって」 「三回目。……私、ずっと心配してたんだから。あんな形でほっぽり出されて、あのチャラい人に助けを求めて。周りではケンカだなんだって騒ぎになってたし。二人からは何の連絡もないし……!」 「いや、ごめん。忘れてたワケじゃ……」 「大島さん、嘘も嫌いだったよね」  もう、言い逃れはできそうにない。僕は観念して両手を挙げた。 「ごめん、忘れてた。それ所じゃない緊急の用事があったんだ」 「ふーん。それってどんな?」 「……人の生死に関わる問題だった。助けなくちゃいけなかったんだ」  しばし、牧野は僕の瞳を覗き込むように顔を近づけてきた。しかし、その美貌はこの距離では少し眩しすぎて、つい目を逸らしてしまった。 「……ぷっ、大島さん。本当にウソが下手だね」 「い、いや。嘘じゃないんだぞ?」 「はいはい。そうだよね。そうなんだろうね」 牧野はようやく見せた笑顔を空に向ける。 「もしそんな、物語の主役みたいな人だったら。きっと私のことも救ってくれたもんね」  えっ? 頭の中に空っぽのハンマーが振り下ろされたような。衝撃とも呼べない、しかし足元はまるで宙に浮いているようで。牧野は今、なんと言った?  しかし、それ以上牧野は語ることはなかった。代わりに、流し目で意地悪な笑みを浮かべる。 「それで、その後は男二人で仲良くやってたわけですか。私は好奇心からおっかなびっくり近づいてくる人の対処に追われて。授業中も囁き声が止まらなくて先生出てっちゃったほどなのに。この不良生徒め」 「そ、そんな大事になってるのか?」  まるで地元の村のような噂の広がり方に僅かな戦慄をおぼえる。入学早々不良認定なんて冗談じゃないぞ。 「あはは、ウソウソ。騒ぎになってたのは本当だけど、暴行を止めるためのものだったって、みんな言ってたよ。大島さんの名前は……出てこなかったんじゃないかな?」 言われて、ほっと胸を撫で下ろした。 「相変わらず肝が小さいねえ、大島さんは」 「これ以上変な目立ち方をしたくないんだよ。楽しい青春だろ? 僕らが求めているのは」 「そうだねー……。そういう意味じゃ、大島さんは楽しそう。こんな事件の中心にいるって、そうそうないよ?」  それもいいことなのか悪いことなのか。そう呟きながら僕はタバコを取り出した。牧野に睨まれている中、一服する余裕は流石になかったのだ。 「クサ……タバコも、バレたらまずいよ?」 「大丈夫だって。なるべくガマンするようにしてるんだから」 「でも、今回人前で吸っちゃったんでしょ? びびらせるためだかなんだか知らないけど」 「学生服でタバコ吸ってる奴って怖くないか? 大事な演出だと思ったんだけど」 「別に。ただかっこ悪いだけだよ」  そうか……。もうそういう考え方が古いというか、僕の小心を表しているのかもしれない。 「本当に大島さんはダメダメなんだから」 「うるさいな……。それが一番いいと思ったんだよ」 「もし退学にでもなったらどうするつもりなの?」 「それならそれでいいと思ってるよ」  僕の言葉に、びくんと牧野の体が跳ねた。しまった、失言だったか? 「どういうこと? 大島さん」  短い台詞の中にも、確かな怒気を感じる。そこにあるのは、さっきの比じゃない熱量だ。 「いや、言葉のあやだよ。別に行きたくないと思ってるわけじゃない」 「そうだよね。私たち、同じ願いを持った戦友のはずだもんね」 「ああそうだ。だからちょっと、その、離れろ。牧野」 「私に学校に行けって言ったのは大島さんなのに。なんでそう言うこと言うの? 一緒に通ってくれるって、そう言ったじゃん」 「あれ、学校に行くことになったのは牧野のせいじゃ……」 「今せいって言った?」  ダメだ。言葉を重ねれば重ねるほど悪い方向へ向かっていく。徐々に牧野の顔も近づいてくる。こうなってくると、なまじ顔立ちが綺麗なだけに怖すぎる。 「ほんとに……忘れちゃってるの?」  何より、その寂しそうな表情が心に刺さる。 「いや、待て。あの話をしたのは……二年くらい前だろ? 夏ごろの……そうだ、夏休みの終わり頃だ」  自分で言って思い出してきた。忘れようとしていたわけではないが、決して思い出したい話でもなかった。僕のトラウマたる、悲劇そのものだったから。  あの時はとにかく何もかもが目まぐるしくて仕方なかった。素人でただの子供だった僕が、曲がりなりにも医者のお手伝いをやっとできるようになった頃の話だ。  意識が徐々に過去へ向かっていく。あれはそうだ、いつか牧野に天使の話を聞いた場所だ。別にそうと決めたわけじゃないが、二人でゆっくり話す時はあの場所でしようということになっていた。  あの、遠くに走る電車しか見えない、僕らだけの場所。 『大島さん、私もう生きていく自信がないよ……』  あの時はそうだ。牧野はそんなことを言っていた。長年の投薬生活の果てに、もう試す薬がなくなったのだ。主治医に、もう痛みに耐えて生きるしかないかもしれないと告げられ、彼女は絶望していた。  彼女の抱える病、線維筋痛症は命に関わる病ではなかった。だからこそ彼女は立ち上がれなくなったのだ。それは真綿で首を絞められるように日々を病に食い散らかされながら、病に死ぬことも許されず、重い病であることも理解されず、生き地獄を過ごすことに他ならなかったから。  牧野は強い子だ。長い闘病生活の間も悲観したような風はあまり見て取れなかった。きっと気丈にふるまっていたのだろう。  心配している家族のために。懸命に治療しようとしている医者や僕らのために。何より、きっと自分が希望を保つためだった。そう、いつかは、と。いつか治るその時だけを希望に牧野は生きてきた。その希望が、なくなってしまったのだ。 『こんなに痛いのに、一生続くなんて……耐えられないよ。私には。ねえ、大島さん……』  僕と年齢が近いこともあって、僕は彼女を熱心に看護をしていた。そんな彼女の口から、最も聞きたくなかった言葉を初めて聞いた。  僕はその日、初めて彼女の涙を見た。強い子だった。決してそれまで、涙を見せることなんてなかった。 『大島さんは、みんなを助けてくれるんでしょ。辛い人の味方なんでしょ。じゃあ、私を……』  僕はその時、どう思っていただろう。同情を覚えただろうか。どうにかしてやろうと思っただろうか。いや、正直に言おう。僕は泣いている彼女を見て、本当に綺麗だと見とれていた。まるで映画でも見ているかのように、ただ呆然と彼女を見つめていた。  そんな僕と、治療を諦めた主治医とどんな差があるというのか。こんな風に彼女に助けを求められる資格すら、ないような気がした。  だが、彼女が求めてくれるのなら、何にでも応えようと思っていた。 『私を、殺して。この苦しみから、助け出して……』  分かった、と。言ったと思う。僕はその最低な望みを叶えると約束した。だって、そうするしかなかった。現代の医療では彼女の痛みを取り除くことはできなかった。 超常の力を持つ僕でさえ、それは叶わなかった。なら、他にどんな手があるというのか。 『だけどその前に、僕の願いも聞いて欲しい』 『……なに?』 『君に死なれると困るんだ。僕を困らせるわけだから、一つくらい願い事を聞いてくれたっていいだろ?』  それは咄嗟の思いつきだったが、以前から心の底でくすぶっていたものでもあった。 『……私が死んだって、何も変わらないよ』 『牧野が死んだって、確かに世界は何も変わらない。でも僕の人生が変わるんだ』 あの時の牧野の呆気に取られた顔は、可愛かったな。 『僕がお願いしたいのはね、それに値するだけの代償さ』 『代償って……?』 『……君と同じ病気で苦しんでる人がどれだけいるか知ってる?』 『約、二百万人でしょ。でもそんなの関係ない。症状だってバラバラなんだから。大島さんまでそんなことを言うの? 同じように苦しんでる人がいるんだから生きろだなんて!私はそんなのとはワケが違うの! 痛みのレベルが違うんだよ!? ねえ今、こうしてる今だって、立っていられないくらいなのに……!』 『違うよ。そんな残酷なことを、僕は言わない。君も言ったように、その二百万人の内訳は様々だ。中には自分が病気だと気付いていない人もいる』  だからね、と僕は続けた。とにかくその時は、言葉を続けるのに必死だった記憶がある。どうにかして彼女の目を死から逸らそうとしていた。 『一人でもいい。できる限りでいいから、牧野が苦しんでるってことを多くの人に伝えてからにして欲しいんだ』  まだ顔立ちに幼さもあった牧野。それを見て、やっぱりこの子は何も知らないんだ、と思ったのを覚えている。 『辛いと正直に言うのは案外難しいことだ。でも牧野がその一歩を踏み出せば、そこの地形に変化が生まれるかもしれない。その変化は、同じように苦しんでる人達に光をもたらすかもしれない。どうせ死ぬなら、何かを遺して死にたいだろう?』  あの時も僕は、タバコを吸っていたっけ。まだ始めたての頃だったかもしれない。叔父の吸う姿に影響されて、いや、ストレスから逃げようとも吸っていたかな。もう覚えてはいないけれど。 『同じ病気の人達からすれば、死にたくなるほどこの病気と向き合ってる牧野は、希望なんじゃないかな』  僕はそんな気がするよ、と締めくくったような気がする。 『私が……希望?』 『日本の人口の約一・六%。僅かな人数かもしれないけど、無視していい数字でもない。知ってるだろ。この病気の患者は、泣き寝入りをすることが多いことを。そんな人たちに、助けを求めてもいいんだ、逃げてもいいんだって教えてあげることは、牧野にしかできないことだと思うんだ。それができたなら、僕が君を殺してあげるよ』  牧野はしばらく乱れた呼吸を押さえるように深く深呼吸し、涙に濡れた瞳で僕を見返した。僕はあくまで平静を保って、なんてことはないんだよ、と言外に告げた。 『だからさ、まずは学校に行こうよ。最期くらい、楽しもうぜ』 『……無理だよ。こんな体じゃ』 『でも、いつかは、と思って勉強を続けてきたんだろ。それで、いい学校に入って少しでも良い思いをしてから死ねばいいんじゃないかな?』  沈黙の時間は妙に長く感じた。後から思い返してもそう思うのだから、実際はもっと長かったことだろう。 『私、自信ないよ……これ以上、生きていける自信がない。学校なんかじゃ、私の希望にはなれないよ』 『大丈夫さ。なんなら僕も一緒に行ってもいい』 『大島さんが……? でも、もう高校生なんて年じゃないじゃん』 『それで少しでも牧野が楽になるなら、そのくらいなんでもないさ。事情が分かってるんだから、ちょっとした手助けくらいはできるよ』  牧野の目が悲しげに伏せられる。その拍子にまた涙が頬を伝った。  『あ、今僕には何もできないだろ、と思ったろ』 『……うん。大島さんの他の誰も、私の痛みなんて分かってくれなかった。ましてや、和らげることもできやしなかった』 『それじゃあ、僕が取っておきのおまじないをしてやるよ。いつでもできることじゃない、特別だぜ?』  そう言って、僕は牧野の涙を素手でぬぐう。瞬間、僕の能力が発動した。頭が割れるような痛み、まるで関節が砕け散ったかのような衝撃、鼓動にあわせて上下する痛み、呼吸のたびに突き刺すような痛み。ガラス片が血管を切り裂くような痛み。痛み。痛み。 これだけ長く、強く触れるのは、実は初めてだった。できるだけ能力の行使を避けてきた僕だが、この時ばかりはそういうわけにもいかなかったのだ。  なるほど、これは死を考えても不思議じゃない。そんな拷問のようなひと時だった。こんな思いをしても……彼女に触れている間しか、痛みを忘れさせることができないなんて。まったく、不便な超能力である。  どれほどか、ひどく長い時間そうしていた気がする。その時、牧野はハッと目を見開いた。 『……不思議。ちょっとだけ、ううん、すごく楽になった。あれ、なんで? どうして?』 『っ……。は、はは。すごいだろ? 良く効くんだ。これが。泣いてる子にしか使えないんだけどな』 『大島さんは……魔法でも使えるの?』 『そんな大層なもんじゃないけどな。でもどうだい、これなら、そうだな……一年目の冬くらいまで、頑張れないか? 一年間、思い切り楽しんで、そこで終わりにしよう。目標は、それまでにたくさんの人に痛いと伝えること。それでも誰も、何も助けが来なかったら、もう仕方ないよな。僕がお前を殺してやるよ。なるべく楽に、笑顔のままに』  もちろん、その時の僕にそんなつもりはなかった。だが、道も目標も見失って暗闇にいる彼女には、例え死という形であってもゴールが必要だと思ったのだ。  牧野はその時、未だ自分の身に起こったことが信じられないのか、全身を見渡してまた涙に潤んだ瞳で僕を見返した。それはまるで紫陽花のような。雨に打たれて咲き誇る、かの小さな美しい花を思わせた。 『冬まで……か。長いね』  牧野はそうぽつりと呟いた。 『それができたなら、僕は何だって願いを聞いてやるよ』 『それじゃあ……どうにもならなかったら、本当に誰も助けてくれなかったら、一緒に死んでくれる?』  きっとそれは、牧野の宣戦布告だった。お前にそれだけの覚悟があるのか、という脅し文句だった。 『ああ……いいよ。君一人も救えない人生になんて、価値はない』  僕はその時、本当にそう思っていた。僕は他に取り柄のない、『触れた者の痛みを吸い取る』という超能力だけの男だった。その超能力でさえ失敗するようなら、僕の未来に意味はないとそう思っていた。……そして、今でもそう思っている。 『でも約束だぜ。それまで、精一杯頑張ってみよう。一緒にさ。この生き地獄を、二人で乗り切って終わりにしよう。僕らの青春は、それまでさ。これまで頑張れた牧野なんだ。あと少しだけ、頑張ってみないか』  そっと牧野が自分の頬を触っていた僕の手を軽く握った。ああ、こんな痛みの中にあっても、彼女の手は温かかった。 『……うん。それじゃあ、一緒だよ。離れてっちゃ、嫌だよ? それなら、頑張れるから……。もし、また私が泣いちゃった時は、おまじないかけてね』  そんな言葉で、会話は終わっていたように思う。  脳内で急速に時間は巡り、現在の世界に帰ってきた。思い返せば、確かになぜ忘れたと詰め寄られてもおかしくない出来事だった。まあ別に忘れていたわけではない。思い出したくなかった、という方が正しい。だってそこにあるのは敗北の記憶だ。病に苦しむ彼女についに死を許してしまった、寂しい瞬間だったからだ。  今にして思えば、ミネルカの話を蹴ったのは、あの瞬間の約束のせいかもしれないな。生き損なった人に来世という希望を見せる神と、絶望し死を選ぼうとする牧野に延長戦を申し込んだ僕。そこに同族嫌悪めいたものを感じたのかもしれない。 「そうだなあ、だから牧野が一緒に学校行こうって言ってくれた時は、僕は嬉しかったな。あの時の可愛い笑顔が忘れらんないよ」 「っ、大島さん。ごまかそうとしてる?」 「いや、別に。合ってるだろ? ちゃんと思い出したってば」  牧野の目はまだうろんげに細められていたが、つい、とようやく僕から視線を逸らした。蛇に睨まれたカエルのように縮こまっていた僕も、ようやく一息だ。  そして、思い出話をしている間ずっとほぼ密着していたことに気付き、顔に血が昇るのを感じた。 「わ、っと。ごめんな。なんか夢中になってた」 「ふ、ふふーん。それって、私の体に?」  きめ細かい絹のような肌に化粧っ気のない清楚な顔立ち。ツンと上を向いた鼻がチャーミングだ。いや、綺麗だとは思っていた。顔立ちが整っているのは確かに分かっていた。 だが、わずかに紅潮したその表情は、なんというか、ずるかった。 「そうだよ。大事な体なんだから、もっと気を遣えよな」 「……そう正直に言われると、なんか、もにょる……」  ふん、と小さく鼻息を漏らすと、牧野は少しずつ姿勢を元に戻した。それに僅かながら残念な気持ちになる。 「私を生かしたのは大島さんの責任。本当なら、あの時私は死んでいたんだもの。今まで耐えてきたのだって、大島さんが与えてくれた目標と期限のおかげなの」  だから、と牧野は目を伏せた。もういつも通りの距離感なのに、随分彼女を遠く感じる。 「退学になってもいいなんて、言わないで。大島さんが約束を破るなら、私にだって考えがあるんだからね」  そんな警告を受けた、とある日のことだった。僕の脳裏に、いつまでも眼前に迫った牧野の顔が焼きついて離れなくなった。  僕はその時、何か決定的なことを間違えた気がした。だけど、その正体は全く分からなくて、思考がまとまることはなかった。  だから訊けなかった。牧野、今お前は学校にいて辛くはないのか、なんて。 『七』  僕らの学園生活はうまくいっていた、そう思っていた。だが、それは僕の思い込みだったらしい。僕は今まさに非常事態にあった。 「大島、黙ってないでなんとか言え。その歳だからって許されると思うなよ!」 「大島君……その、ちゃんと理由があるのよね? 何かの間違いなのよね?」  勘違いしないで欲しいが、ここは取調室でもなんでもない。犯罪を起こしたわけでもない。ただちょっと面倒なことになったのだ。 その原因は……、と視線を壁際に向ける。そこには、目を閉じた宮代先輩と、僕を怯えたような瞳で見つめる平井先輩が立っている。 「こわあ、先生。大島が僕を睨んでますう」  どこから出しているんだ、と思うような猫なで声だった。もっとも、それは宮代先輩の本来の声を知っているから分かることなのだが。 「お前の相手は今こっちじゃろがい! 人を脅すな!」  ぐりん、と強引に首を回されて僕は厳つい顔と対面する。骨格のあちこちがゴツゴツとしていて、まるで岩石のような顔だった。今僕がこうなったのは宮代先輩のせい……というだけではない。確実に、僕の不注意もあった。  話を遡ると、放課後直後にまで時間は戻る。授業を終え帰宅しようとした僕を、見知らぬ先生が呼び止めたのだ。例の岩石顔の先生だ。その時、僕はああ、確か生徒指導の教員か、くらいにしか思っていなかった。 それが突然僕の胸倉を掴みあげ、胸元に顔を押し付けてきたものだからそれは驚いた。 『匂いはないなあ……。おい、これ、見覚えあるだろ?』  岩石先生がそう言って差し出してきたのは、一本のタバコだった。中途半端に吸った後のある吸い殻だった。そして、見覚えがあるも何も、僕が好んで吸っているものと同じ銘柄だった。  その察知を気取られたのか、岩石先生はそのまま僕の腕に手を回すと容疑者よろしく生徒指導室へと連行していったのだ。抗議も抗弁もする余地はなかった。  そして、連れてこられた部屋には宮代先輩と平井先輩、担任の安室先生、確か今年赴任したばかりの女の先生だ、それと朝礼でくらいしか顔を見たことのない校長先生がいた。  満を持して、暴行及び喫煙裁判が始まった、というわけだ。  二人の先輩の顔をみた瞬間、僕は全てを察していた。きっとあの時持って行かれたタバコをチクられた、というわけだ。いや、それだけだったらまだいい。 「お前なあ、人を傷つけるなんて最低だぞ。しかも年齢を盾にとって先輩を殴るなんて。年長なら年長なりの振る舞いがあるんじゃないのか!?」  どうやら、平井先輩に行った暴行も僕のせいにされているらしかった。曰く。 「僕と平井が旧校舎を散歩してたら、突然そいつがタバコをくわえながら殴りかかってきたんですわ。僕らもびびりあがっちゃって、一方的に殴られ蹴られ……」  全く、どの口が言うんだ、という話だ。上手いのが、完璧に嘘ではない所だ。確かに僕は脅しのためにタバコをふかしながら二人の前に出て行ったし、暴力沙汰一歩手前まで事は進んだ。  だが、それだけならまだ弁解の余地はあった。しかし、今ではもうそれもできない。 「なあ、平井。怖かったなあ」 「……うん」  正真正銘の被害者である平井先輩まで僕の敵となっているとは思わなかった。二人の言い分は嫌なくらい一致していて、僕の暴行容疑はもう確定してしまったようなものだった。 「ごめんな、二人とも。もう顔も見たくないかもしれんが、ちょっとの間、勇気を出してくれ。それと、旧校舎への立ち入りは今禁じているんだから、その件についてはちゃんと叱るんだからな」 「ほーい」 「……はい」  さて、と再び岩石先生は僕に向き直る。 「いい加減白状しろよ。お前がやったんだろ? このタバコも! 校則違反のオンパレードだ。これは退学も考えてもらわなきゃならん。お前はそれを分かってるのか?」  僕のこの一件に限って言うなら間違いではないが、そういう叱り方はよくないと思った。生徒の言い分も聞かずに頭ごなしに怒鳴るだけではただ相手を怯えさせるだけだ。今までがどうだったのかは知らないが、古い考え方の人なんだろうな、となんとなく感じた。  しかし、まずいことになった。これでもし退学なんてことになったら、僕の将来はともかく、牧野がどうなるか分からない。どうにかして言い逃れをしなければ。 「で、ですから、タバコに関しては心当たりがありますけど、暴力は振るっていません。そちらの先輩の言うことはめちゃくちゃです。僕の意見は変わりません」  ひどく久しぶりに口を開いた気がする。口の中が妙に乾燥しているのはきっとそのせいだった。気持ち、早口になっていたかもしれない。 「認めるんだな!?」 「タバコは、持っているってだけですよ。当然見たことはありますし、僕も年齢が年齢ですから、興味がなかったわけじゃありません。でも宮代先輩の手にあるのは分かりませんね」  頭を下げようとした僕の髪を掴みあげ、強引に目を合わせようとしてくる。くそっ、これだから脳筋は理不尽で嫌いなんだ! 「ちょ、ちょっと石見先生。いけませんよ、暴力は。それをしてはいけないって今教えてるばかりじゃありませんか!」  いいぞ、安室先生。もっと言ってやれ。 「甘いですなあ、安室先生は! これは指導というんですよ。そんなんだから先生は生徒にも親にもナメられるんですよ。聞きましたよ? この間また木崎さんのところの親が怒鳴り込みにきたって……」 「やめてください! 子供たちの前で!」  悲鳴のようなものをあげながら安室先生は僕たちの間に割って入り、僕を抱え込むように両手を回した。軽く陶酔してしまいそうな香水の匂いを感じたのも一瞬のこと。心配するような表情を浮かべる安室先生。くるりとした丸い瞳が可愛らしく揺れている。 「大丈夫よ、大島君。何も心配することなんてない。ただ、真実だけを話して。私はそれを信じる。私がついているんだから、大丈夫よ」 「困りますな。説教中にそんなことを言われたらまるで私が悪人みたいじゃありませんか」  そう言う岩石先生、改め石見先生をきっ、と睨みつける安室先生。というか、その体制で振り返られると……胸、胸が。もうそんな初心な年でもないが、なるべく他人との接触を嫌ってきた僕はこういうことに耐性がないのだ。 「……大丈夫です。僕も先生のことは信じていますから。ありがとうございます」  ありがたく、言い訳のキッカケをもらったので素直に白状する。 「僕は誓って、殴ったりなんかしていない」 「お前はまだそんなことを!」 「じゃあ先生、お尋ねしますが」  おお、早速安室先生の援護が入った。 「宮代君や平井君のどこを殴ったというんですか? 話によればつい最近のことらしいじゃないですか。それも一週間も経ってないと。二人の体には、どこにもそんなアザや傷なんてないじゃないですか!」  実際は、平井先輩の体は傷だらけで僕が治したのだが。情けは他人のためならずとはこのことだ。 「そんなん、服で見えへんとこ狙われたに決まってるやないですか。もしかしてここで脱げってんですか? あむろん、やっらしー」 「ちがっ、違います!」  しかし、宮代はこの返しも予想済みだったらしい。ううん、本当に脱がしてやろうかな。 「とにかく、目撃者もいなければ証拠もタバコ一本。こんなことで一方的に大島君を責めるのは間違っています!」 「安室先生……そりゃ、自分のクラスから問題児を出したくないのは分かりますがねえ」 「両者の話を! ……聞くべきだと、そう言っているだけです。本当なら、大島君を処罰するだけです。こんな、尋問のような形はおかしいです!」  話っていったってねえ、と首をかしげる石見先生。そして、すっと僕の顔を指差す。 「見てみなさいよ、そのすっとぼけた面を。あれはね、まだ教師人生の短い安室先生には分からんかもしれませんが、万引きした品目の前に並べられて素知らぬフリしてる奴の顔なんですよ。自分は関係ありません、興味もありませんって面だ」  言われて、ドキリとした。反射的に言い訳をしようとして、だが言葉が出てこなかった。ただ唇が虚空を噛んだだけだ。  確かにそうかもしれない。いつだって僕は傍観者でいた。それは幼い頃から痛みにさらされて生きてきたことへの防衛本能のようなものだと自認している。例え車に轢かれて死んでしまったとしても、僕は肉体が死ぬ前に魂だけになってその様を呆然と眺めるだろう。  僕が悪いのだろうか。意思を覆い隠して孤独を気取ってきたから、今こんなことになっているのだろうか。だとしたら、ここで退学処分でも決められるのが罰だとでも言うのか。  窓の外では、もう雲が茜色に染まり始めていた。だがその色はどこか褪せているようにも感じられた。 「先生、白熱してるところ悪いんですけど……僕、早く帰りたいんですわ。両者の話をでしたっけ? なら僕らから始めましょうよお」  相変わらずねっとりとした喋り方の宮代先輩。どうにかしてそれを崩してやりたいけれど、僕には取るべき手段がない。 ……当然だ。きっと色々と仕込んできたのであろう宮代先輩と、いきなりワケも分からず連れてこられた僕では、張り巡らされた策略の数が段違いなのだから。 「そうだ、お前から話せや。平井。お前も色々話したいやろ? な?」  瞬間、あの剃刀のような鋭さが宮代先輩の目に宿る。平井先輩は、ビクリと体を震わせ、小刻みに揺れる指で僕を指差した。 「お、俺は……」 「決定的な証拠があるやろ。それだけや、頑張れ、平井」  その細枝のような指の向く先は……僕の、ズボンの左ポケットだ。その瞬間、さっと血の気が引くのを感じた。そして、何かの勝ちを確信したような石見先生の顔。固唾を飲んで両手を合わせて見守っている安室先生。  そう、そこには未だタバコが入っている。何度も牧野に忠告を受けたにも関わらず、だ。だって僕にとってこれは精神安定剤のようなもので、常にそこにないと落ち着かないのだ。……もはやそんな言い訳に、何の意味もないが。  今僕にかけられている嫌疑は二つ。暴行と校内喫煙だ。その片方でもバレてしまえば、きっと僕の発言なんて何の信用度もなくなってしまう。  どうする。どうすればいい。 ――それじゃあ、一緒だよ。離れていっちゃ、嫌だよ。絶対に二人で学校、卒業しようね。  脳裏に牧野の言葉がよみがえる。そうだ、こんなことで退学になんてなるわけにはいかない。あの子の笑顔は、死ぬまで守ると決めたんじゃなかっか。それとも、これが、今まで僕が逃げてきたツケとでも言うつもりか? ふざけるな、何かあるはずだ。この局面を乗り切るための一手が……! 「その、ポケットに……」  しかし、現実は無慈悲に、平等に、事は進む。平井先輩の潤んだ瞳が、僕の心に突き刺さる。触れていなくても、その痛みを感じ取れたような気がした。  その瞬間。生徒指導室の扉が強引に開かれた。 「やあ、ここでやっていたのかい。探したよ」  果たして、そこにいたのはあの褐色の保険医、佐々木先生だった。真っ白な白衣を風になびかせて、しかし揺れもしない長い前髪のせいで表情は読み取れない。 「佐々木先生……今指導中でしてね。用があるなら後にしてもらえませんかね」  それに明らかに難色を示したのはのは石見先生だ。いや、宮代先輩も若干顔をゆがめているな。 「いやいや、私のせいで何か問題が起こっていると聞いてね。いてもたってもいられなくなったのさ。ええと、そっちの子。悪かったね。私のせいで」  飄々とそう言って僕に近づいてくる佐々木先生。はて、面識はあったはずだが……と首をかしげている間にぎゅっと両腕で抱かれてしまった。ついさっき吸ってきたばかりなのだろうか、僕のとは少し違うタバコの匂いがした。臭くはなく、むしろそれがひとつの香水のような匂いをかもし出していた。 「ちょっと、佐々木先生!?」  安室先生の慌てたような声。いや、あなたもさっき同じようなことはしていましたけどね。 「すまなかった。まさか私の不注意がこんなことになるとは思わなかったんだ……。これは、この間の詫びだ」  後半は囁くように、僕にしか聞こえていないような声だった。詫びってなんだろう。僕が何か佐々木先生にされたことがあっただろうか……。 そして、僕の体は解放される。同時に、ズボンのポケットから何かが抜き去られた。 「石見先生、今議論されてるタバコって、これじゃないかな」 「えっ、えっと……すまん、私はタバコに関しては明るくないもので」 「フィルターの先に銘柄が書いてあるだろう。一致していないか?」  予想外の展開に石見先生も慌てていた。僕らも何一つ口を挟むことができない。よく分からないがこの先生、僕のことを庇うつもりらしい。 「あっ……同じもの、ですね」 「私が喫煙家なのは知っているだろう。以前、廊下で宮代とぶつかった時にタバコをばらまいてしまったことがあったんだ。それはきっとその時のものじゃないかと思うんだが、どうだろうね」 「違いますよう……先生、めちゃくちゃ言わんといてください」 「では聞こう。その暴行があった日時はいつだ?」  宮代先輩は口ごもりながらも、僕がケンカの現場に出て行った日のことを正直に言った。ここで嘘をつかないのは流石だな、と僕は場違いに感心した。  嘘は嘘を呼び、絶対にどこかで破綻する。嘘をつくなら大量の真実の中に一つだけ。それを彼は知っていたのだろう。 「その日、平井はそこの一年生に連れられて保健室にやってきたよ。原因は宮代と平井のケンカだってことも分かっている。中身はあまり部外者には見せられないのだがね。保険室来室記録も持ってきている。お見せしようか?」 「いえ、それはまずいでしょう……となると、ええ、いや、どうなるんだ。宮代」  話を振られた宮代先輩はもう口を開くことはなかった。代わりに、後ろ手に平井先輩をつついているのが見えた。 「妙な話じゃないか。ケンカしていたはずの二人が揃って無関係の人間にやられたと言う。私にはむしろ、宮代が今までタバコを所持していたことのほうを問題にしたいんですがねえ。吸った跡もあるんでしょう?」 「いや、それは! ……まずいですよ。分かるでしょう、佐々木先生」 「私は一介の保険医だ。お上の言う難しいことは分からなくてね。それで、どうなんだい。平井。君は本当にあの日彼に襲われたのかい? そして、そのままその本人に保健室まで運ばれてきたと?」  いつの間にか話が佐々木先生を中心に進んでいる。何かをしたわけでもないのに、誰もが彼女を立てている。ただの不良教師かと思っていたら……一体何者なんだ。この先生。 「それは……」 「そうやんなあ、平井」 「君の話は後で聞くよ、宮代。それはもうたっぷりとね。だから今は黙っていたまえ」  佐々木先生がぴしゃりと言い放つと、宮代は再び口をつぐんだ。 「それより今は、君の話を聞こうと思ってね。平井。日ごろから言っていたじゃないか。今を変えたいと。その変えたい今は、この瞬間にあるんじゃないのか?」  平井先輩も俯いたまま何も言わない。 「ねえ、平井君。怖がらないで。ただ私は、真実を聞きたいだけよ。やられたなら素直にそう言いなさい。でも、もし違うなら……私の生徒を陥れるための片棒を担いでいるなら、それを下ろして頂戴。私の生徒を……そしてあなた自身を、助けてあげて。お願いします」 「ちょっと先生、そんな言い方ではまるで平井が悪いみたいじゃあないですか」 「違います。私は、平井君の痛みが分かるんです。彼の良心の痛みが。それを楽にする手助けをしたいと思うのは、教師として間違っていますか? 石見先生」 しばしの間。そして、平井先輩の口は開かれる。 「俺は……僕は、暴行を、受けました」 「それは誰にだい?」 「……」  平井先輩はまた黙り込んでしまう。僕にはその理由が分かっていた。隣にいる宮代先輩が恐ろしいのだ。裏でどんなやりとりがあったかは知らないが、何か脅しを受けているのだろう。  だが迷っている。迷ってくれている。僕の目を見つめながら、深い考えに沈んでいるような様子だった。 そして、何かを告げようとして、隣の宮代先輩に小突かれてまた口を閉ざしてしまう。しかしその顔つきは先ほどとは違う必死さを湛えていた。  誰もが言葉を飲み込み、落ち着かない沈黙が部屋に降りかかる。思えば、こんなに静かな部屋だった。 「……ふう、平井。全然関係ない話なのだけどね、強さとはなんだろう、と私は思う時があるのだよ」  ツカツカと平井先輩に歩み寄る佐々木先生。僕から見える横顔からも、彼女の目は見えなかった。 「大きな存在に立ち向かう勇気、何に押されても折れることのない柳のごとき精神、色々あるだろう。しかし、沙羅ちゃんの求めていた強さとは、一体なんなのだろうね」 「っ! ……沙羅が、求めていた強さ」  その言葉は、平井先輩のどこか深い部分に突き刺さったらしい。少なくとも、はたから見ていた僕にはそう見えた。 「僕は、暴行を受けました」  そして始まる、平井先輩の陳述。しかし、もうそこに迷いやためらいはなく、静かな口調だった。それはまるで津波の前に潮が引いていくような、物騒なものだった。 「それは、宮代とのケンカによるものです。大島は関係ありません!」 「……っ、てめえ!」 「タバコだって、宮代が持っていたものを持ってきただけです! 大島のものではありません!」  そう叫んだ平井先輩は、ひどく晴れやかな顔をしていた。そして、すぐ隣にいた宮代先輩に胸倉を掴まれる。 「ぐあっ、ああ……!」  危ない! と小声で叫んだのもつかの間、宮代先輩は瞬きの間に地に伏していた。その腕を握っているのは、佐々木先生だ。 「暴行の現行犯……ってことでよろしいかな?」  誰も異を唱えるものはいない。あわあわと手を震わせている安室先生くらいしか、動けている者はいなかった。  『八』 「で、結局どうなったの?」 「ああ……そのまま、今度こそ真実の証言が始まって、事態は解決。宮代先輩は停学処分になったらしいよ。平井先輩は厳重注意と反省文」 「それなら、どうして大島さんは学校来られないの?」  あの騒動から数日後、よく晴れた金曜日の午後、僕はとある病室にいた。とはいっても、僕が何か体調を崩したわけではない。学校を休んで診察を受けにきた牧野が気分が悪いと倒れてしまったため、別室で寝かせているのだ。僕はその付き添い、といった所だ。 「それはね、校内でタバコを吸ってたのがバレた。というか自分で言ったからだよ。二週間の停学だってさ」 「でも、佐々木先生が助けてくれたんじゃないの?」  病室で一人、というのはひどく心を沈ませる。だからなるべくこうして話しかけながら意識を逸らせるのが有効だ。もちろん、会話もままならないほど苦しんでいれば別だが。 「それがね、安室先生の話が引っかかってね。あの人は真実を話せば自分はそれを信用するって、断言してくれたんだ。今時珍しい熱血教師じゃないか。そんな人の前でバレなかった、ラッキーって逃げるのはなんだか違う気がしてさ。喫煙自体は認めたんだ」 「馬鹿正直だねえ、自分で罰を受けにいくなんて」 「佐々木先生にもそう言われたよ。でも悪いことばかりじゃないんだぜ。今度からどうしてもガマンできなくなったら自分の部屋に来いって言われたんだ。何か、秘密の部屋みたいなのがあるらしいよ。その時は電話してくれ、だってさ」  ふーん、不良だあ、と牧野はあいまいな返事をしながら目を閉じた。これはまたどこか痛んでいるのかもしれないな。実は、牧野が病院で不調を訴えるのは珍しい。まるで事務報告のように痛みの推移と薬の効き具合を報告して帰っていく。それがいつもの牧野の診察だった。  それが今日は帰宅もままならないほど痛むという。これは尋常ではないと思い、僕は能力の行使を決めた。  さりげなく点滴の針を確認するフリをして彼女の腕に触れる。じりじりと炎に手を置いているような感覚だ。あまりに強い痛みは熱とほとんど変わりはない。それはすぐに全身の骨に伝達して、今にも体を崩そうとしているような。今日の牧野の痛みはいつもより数段ひどい。ああ、辛い。彼女と触れ合うこの瞬間だけは、いつも本当に辛い。  僕は痛みをなるべく表情に出さないよう気をつけつつ、彼女に言った。 「ご飯、ちゃんと食べたほうがいいぞ。いちいち点滴打たれるのも面倒だろ」 「食べても吐いちゃうんだもーん……。最近湿気が多いからかなあ、ちょっとしんどいや。でも、大島さんといると、なんだか痛みが抜けていくみたい、ふふ」  まあ、実際に痛みを吸い取っているのだが。しかし、そんなことまで関係するのか。確かに常人でも湿気や天候しだいで体調は変わる。牧野の場合はそれが顕著なのかもしれないな。 「……でも、ちゃんと言って良かったと思うよ。よく言ってくれたねって褒められさえしたからな。あの安室先生の嬉しそうな顔見ただけで、間違ってなかったと思うんだ」 「うん。そうだねー。正直なのはいいことだよね」  そこで、一度話が途切れる。ここで僕の説明タイムは終わりだ。だが、牧野にはまだ言いたいことがあるらしく、口に出すのを躊躇っているような雰囲気があった。だから僕も黙ってそれを待っていた。 「ねえ、大島さん。いなくなっちゃったり、しないよね」 「ただの停学だって。少ししたら戻れるさ。ま、今後はちょっといい子にしてないとだけどさ」  牧野はよく学校を休む。それは春からずっとのことだった。当然だ、元々まともに学校に来られる体ではないのだ。保健室登校のような形でも出てこられるだけ上等だろう。しかし、そんな登校頻度の少なさが牧野に友達がいないことの一因であることを知っている僕としては、言葉を濁したいところだった。 「……学校に普通に行くのって、こんなに難しいことだったんだね。ねえ、私も大島さんも、もう通えなくなったら、どうする?」  笑いをにじませながら牧野はそんなことを言った。それはいつものようなおふざけめいた口調ではあったけれど、その奥に本気の心配を見たような気がした。 「大丈夫さ。きっとすぐいつもどおりになる。僕も牧野も。そんな大事じゃない」  僕はいつものように一歩引いて答える。いつからだろう、牧野と話す時のこの距離感が出来上がってしまったのは。牧野もその返答を聞いて眉をひそめたから、きっと彼女にも伝わってしまっていることだろう。  だが、牧野はそんな僕を許してくれるらしく、話を変えてくれた。 「どうしてあの時、こんな問題になるかもしれなかったのに、出て行ったの? 普通に助けを呼びに行くだけでよかったのに……」 それは、どうして僕がこんな目にあわなければいけなかったのか、という質問だろうか。 「僕の信条のために、かな」 「信条? 大島さんにしては大層なことを言うね」 「うるさいな。僕にだってそのくらいはあるんだよ。僕はさ、痛みが嫌いなんだよね」  ピクリと、牧野が体ごと僕のほうへ寝返りをした。僕が腕に触れたままなので、その距離感に少し戸惑う。 「大島さん、病院の人なのに血がだめなの? それで精神科に?」 「よく間違われるけど、僕はただの雑用係だからね。痛みが嫌いっていうのは……そうだな、今回の件で言うなら、僕は誰かが襲われていたことに怒りや正義感を覚えたわけじゃないんだ」 「ふうん?」 「人を襲おうという精神が許せなかった。痛みを人に与える心理が分からない、というか、理解したくもないんだ。だってそうだろ? 平気で人を傷つける奴なんて、僕は理性ある人間だと認めない。嫌われて当たり前だ」  牧野の表情は変わらない。だから何の感情も読み取れなかった。もう平静を保つには限界だ、と僕は牧野の腕から手を離した。やがて訪れる平穏な感覚。痛みを吸い取りすぎただろうか、少しめまいがする。  代わりに、牧野に痛みが戻ってしまったのだろう、かすかに顔をしかめて身じろぎをした。 「……でも、その人だってそうしたくてしてるわけじゃないかもしれないよ? 仕方なく、誰かを傷つけることなんて、誰にでもあるんじゃないの?」 「そんな状況になったら、おとなしくバンザイして降参すればいい話さ。正当防衛だって、復讐だって、同じことさ。まあ……僕自身、それを堪えられるわけじゃないんだけどさ。だから、そんな僕も、僕は嫌いだ」 「……大島さんが、そんなことを言うんだ」 そうぽつりと牧野がつぶやいたのが聞こえた。しかし、それは僕宛の言葉ではなかったらしく、牧野は違う言葉で問いかけてきた。 「自分が嫌い……そんな時、大島さんはどうするの?」  その口調には珍しく真剣みが帯びていた。僕らの会話では珍しいことだ。いつも重たい空気にならないよう、牧野が気を遣ってくれているのもあるが、こんな風に互いに踏み込むことは控えていたはずなのだが。 「……分からない」  僕はあの時、確かに反撃しようとした。それは僕の最も嫌う行動のはずだった。それをしてしまう短気が、本当に嫌いだ。でもそれも自分だ。切っても切り離せるものではない。 じゃあどうするか。 「きっと、そんな自分も自分なんだって、納得するしか。好きになってあげるしかないんじゃないかな」 「……そっか。痛みは、嫌いか……」  牧野は薄く笑みを作った。だが、その目は悲しげな光に揺れている。 「私は好きだよ、大島さんのこと」  そんな台詞を、どうして彼女は切なげに、心底悲しそうに言うのだろうか。 「そりゃ……ありがとう。僕も牧野は嫌いじゃないぜ」 「素直に好きって言えよー」  そう言って、伸ばされた腕。それを僕は思わず避けてしまった。しまった、とは思った。でも、もう痛みの許容量がいっぱいいっぱいだったのだ。痛みを避ける本能が、体を動かしてしまった。  恐る恐る牧野の顔をうかがうと、きょとんとした目と目が合った。 「今のは、違う。急にくるからさ、びっくりしちゃったんだ」  言い訳もやや早口になってしまい、説得力がない。だが、能力のことを説明するわけにもいかず僕はそれ以上何も言えなかった。 「……大島さんは、私に触れるとき、いつも辛そうな顔をするんだね」  それはいつかも聞いた、あの言葉だった。 「そ、そんなことない! ただ、僕は」  言っている最中に、牧野の綺麗な目じりに涙がにじんだ。それを見て、僕は言葉を間違えたことを悟った。きっと今のは牧野なりのフォローだったのだ。茶化して全てを流そうとしてくれたのに、僕はムキになってしまった。  それでは牧野に触れるのが嫌だと言外に認めているようなものではないか!  狭い室内に二人の沈黙が沈殿する。だがそれはただの沈黙ではない。火のついた導火線をじっと見つめているような間だった。そして爆弾は、破裂する。 「そうだよね、大島さんは痛いのが嫌いなんだもんね」 「違う、牧野。僕が言ってるのはそういうことじゃない」 「違わないよ! だから私を嫌ってるんでしょ。私なんて、痛みの固まりみたいなもんだもんね! 人間じゃないんだもんね! だったら! ……だったら、こんな風に優しくなんて、しないでよ。自己満足のためだかなんだか知らないけど、私に触れないでよ……!」  それは的を射た言葉ではなかった。しかし、ある意味で僕を固まらせた。自己満足。確かにそうかもしれない。僕は生まれ持った能力を嫌いだなんだと言いつつも、人を治していい気分にならなかったかと言えば、完全に否定することはできない。  だってこの今でさえ、僕はしんどそうな彼女を見てまさしく自己満足のために痛みを吸い取っていたのだから。自分はこれだけの処置をしました、という言い訳のカルテ作りでもしているかのように。あまりに自分勝手に。  病気とは痛みだけが全てではない。痛みが与える心へのダメージもじっくりと慮るべきなのだ。僕はそこを、誤った。  そんな深読みのための時間さえ、火に油を注ぐだけのものだった。 「何だったの……? 私の希望も絶望も、なんだったんだろう。大島さんは家族よりも私に寄り添ってきてくれてたのに。私の、希望だったのに。いつか言ってくれたよね。私も誰かの希望だって。じゃあ、大島さんにとってはなんだったの? 私は所詮、ただの患者でしかなかったの? 一緒に高校に来てくれたのも、ただの気まぐれ?」  牧野の言葉は止まらない。止められない。 「……一緒に死んでくれるなんて約束も、きっと嘘だったんだ。そんな人、いるわけなかったんだ……。お父さんと同じ、嘘つきだ……」  彼女が感情を押し殺す人間だということは分かっていた。それが爆発しないよう心がけてきたつもりだった。だが、まさかこんな所で爆発してしまうとは。  ……。なんだ、本当に何なんだ僕は。何故こんなときにまで冷静な傍観者になろうとしているんだ。彼女はここまで自分を見せてくれているのに、何故向き合おうとしないんだ! 「……何も、言ってくれないんだね。大島さん。辛い時は辛いと言えと言ったのは、大島さんなのに」 「……。ごめん」 「謝って欲しいんじゃないんだよ。私は。ねえ、大島さんが私と一緒にいて辛そうなことくらい、知ってるよ。何年も前から知ってるよ! それでも一緒にいてくれたってことは……ねえ、それは私の、勘違いだったのかな」  言葉を終えた途端、彼女の目からぽろりと雫がこぼれた。僕が彼女の涙を見たのは、二度目のことだった。それも、今回は僕が泣かした。 「ごめん……ごめんね、大島さん。今日の私、なんだか変みたい。今言ったの、忘れて。怒鳴ったりしてごめん。ごめんね……」  今回ばかりは、泣いている子にだけ使える『おまじない』も、使えそうにない。だって、きっと痛んでいるのは彼女の心だ。僕には、その痛みを消してあげることができない。 「私だって、痛みを強いるこの体が、私自身が大嫌いだよ。好きになんてなれないよ。でも……だったら、せめて誰かには、好きでいて欲しかっただけなの……。誰に理解されなくても、大島さんならって、そう……」  激しく動いたせいか、点滴のチューブには血が逆流してしまっていた。僕の視線を牧野が追って、そっとナースコールのボタンを押す。 「牧野……僕は、お前が」 「いや。やめて……お願いだから、今そんなこと言わないで。私本当に、大島さんのこと信用できなくなっちゃうよ」  確かに、今そう言った所で欺瞞以外のなにものでもない。 「あは、あはは。今日は本当に私、ダメみたい。ありがとね、一緒にいてくれて。もう大丈夫だから、帰っていいよ」  ダメだ、その笑顔はダメだ。それは全てを受け入れて我慢するときに浮かべるものだ。つまり、今爆発するほどに感じている彼女の痛みを無視するものだ。  その感情を飲み込むな。せめて全て僕にぶつけてくれ。お前のために、そして僕のためにそうしてくれ。そんなに僕から離れないでくれ。  僕はそんなことを言いたかった。 だが、今まで他人から距離を取った会話しかしていなかったせいか、声にならない。どうでもいいことならスラスラと言えるくせに、こんな大事な時僕は何も言えないのだ。だがせめて、これだけは伝えたかった。 「牧野……僕は、お前のこと、嫌ったりなんてしてない」 「うん。ありがとう。じゃあね、大島さん」  病室のドアが開き、看護師が入ってくる。僕らの時間は、終わりを迎えてしまった。 「さよなら」  牧野は、またね、とは言ってくれなかった。  さっきまであんなに晴れていたのに、今空は青みを帯びた鉛色に染まっていた。かなたに見えるオレンジ色の夕日などほとんど積み重なった雲にまぎれて見えなくなっている。 屋上から見る町はまるで灰色の大きな獣が横たわっているかのように暗い影を落としていた。 「……あっつ!」  指先に強い衝撃にも似た熱を感じてタバコを取り落とす。今日でもう何度目のことだろうか。足元には既に少なくない本数のタバコが死んだように転がっている。 「何を僕は間違えたんだ?」  さっきから、僕はそのことをずっと考え込んでいた。牧野の感情が爆発した、すぐ後に病院の屋上までやってきた。ここは一般の人は立ち入り禁止とされているため、考え事をするには都合のいい場所なのだ。  僕は何度も何度も牧野の言葉を反芻する。そのたびに心が折れそうになり、うめき声と共に紫煙を揺らした。  彼女は一体僕の何に失望し、何を求めていたのか。いつまで考えていても僕には分からなかった。  まず、触れられるのを僕が咄嗟に嫌がったのが起爆点なのは分かる。その理由は僕以外には説明しても分かってもらえないことだが。 「いっそのこと、本当のことを話しちまうか? 僕には特別な力があるって、そのせいなんだって……」  いや、それは悪手だろう。到底信じてもらえるとは思えないし、信じてくれたところで、彼女の言う、ただの患者扱いをしていることになってしまうかもしれない。  それに……僕と触れている間は安心できると、そう言ってくれた彼女の喜びを踏みにじってしまうような気がした。まるでクリスマスに靴下をかざる子供に、サンタなんていないんだよと告げてしまうような。 「嫌われた……んだろうな。牧野に」  僕が全てを後回しにしたせいで、牧野に無理を強いてしまった。その結果がこれである。そりゃあ牧野としては文句の一つも言いたくなることだろう。 「牧野は、本当に自分の体が憎かったんだ」  だけど自分である。きっと、だからこそ悩んでいた。それを僕が突き放したんだ。自覚がどうあれ、彼女を否定するようなことを言った。自分の病気で自分の体を傷つけている彼女を、痛みの使徒だと言って罵ってしまったのだ。  そのことを思うと、気持ちが深く沈んでいく。少しでも気を紛らわそうと、また新しいタバコに火をつけた。  僕には何も直せない。骨折を治す力がある。癌の進行を止める超能力がある。そんな力が嫌で逃げてきた。それなしで人の助けになろうと努力もしてきた。でも、何年もかけても女の子一人の心も救えない。能力がなければ絡まった糸さえ解くことのできない、そんなちっぽけな存在だ。 「挙句の果てに、力に頼って人を救った気になって、しっぺ返しを食らうなんてな……情けなくて涙が出るぜ」  我ながら、同情の余地もない。結局僕は、牧野桃子という人間を見ていなかった。病にばかり目が行って、痛みを感じ取れるからといって、何もかも分かったような気持ちでいた。なんてことはない、自分を格好良く見せたかっただけのことだ。  彼女の悩みを、不安を、辛さを、何一つとして考えていなかった。地図の上からマジックで島を塗りつぶして、本当にその島を消した気になっていたのだ。  それが彼女に苦しみを、痛みを与えていた。ならば、今件における痛みの使徒は、間違いなく僕だ。むしろ僕以外の誰が悪かったのか、という話だ。  そこまで考えが行き着いた頃には、夕日は沈み辺りはすっかり暗くなっていた。喉もカラカラで、手持ちのタバコの箱も空になってしまっている。  その時、ガチャリと扉が開く音がした。 「……冬川さん」 「おう……。何やってんだ。こんな場所で」  それは、牧野の主治医である冬川先生だった。風貌は陰のあるイケメン、といった感じで、髪は綺麗な七三分けだ。あまり口数の多い方ではないが、人から話を引き出すのが上手い、いわゆる聞き上手と評判の先生である。  牧野の治療に携わっているから、僕らは病院内でもよく話をすることが多かった。過去形なのは、今ではもう僕らは根本の治療を諦めてしまっているからだ。少なくとも、僕はそう思っている。  だから医療的な対処を冬川さんが、私生活のフォローを僕がと担当がなんとなく決まっているため、会うことは他の先生より多かったが、普段接触はなんとなく僕の方から避けてきた。だって治療を諦めた彼はまるで敗残者で。それは僕の鏡合わせのような存在だったから。 「今日、桃子が来てな。ひどく落ち込んだ風だった。お前、何かやらかしたんだ」  桃子と、彼は下の名前で牧野を呼んだ。それだけの仲にあるということだ。僕が彼を避けてきた理由はそんな嫉妬だけでなく、この冬川先生の踏み込み方にもある。触れられたくない場所をあっさりとなんてことはないというように突いてくる。 「ええ、まあ、ちょっと。ケンカのようなものです」 「そんな風には見えなかったけどな。彼女に怒ってるような様子はなかった」 「牧野はその辺が上手いんですよ。そう……だから僕にも、分からなかった」 「それは言い訳か?」  彼は決して、なあなあで許してはくれない。五年前、僕がこの病院に来てからの付き合いで、雑用係を始めたばかりの僕にはひどく厳しかった。どんな些細なミスも許されはしなかった。  最初はそれが苦手だったが、医療に携わる者はどんな形であれミスは許されない、という話を聞いてからは納得できるようになった。冬川さんは恨み辛みで動くような人ではない。至極冷静で、本当に患者のことを大切に思ってくれる人なのだ。だからこそ、こと牧野の件に関しては余計に苦手なのだが。  蛇足だが、彼自身ミスは多い。その度にしっかり反省し同じミスはしなくなるのだが、やはりどこか抜けている。そんな所にかつては愛嬌を感じたものだ。 「……言い訳ですよ。悪いですか。ええ、悪いでしょうね。謝りにもいけずにこんなところでタバコふかして頭を抱えてるだけですよ。そりゃあ冬川さんは牧野からよおく話を聞いて一発ぶん殴ってやりたいことでしょうねえ」  少しでも皮肉を言ってやろうと思ったが、まるで形になっていなかった。 「大した話は聞いてない……聞くことができなかった。五年経ってもまだ、あいつは上辺の話しかしてくれない」 「冬川さんで信用されてないなら、僕なんて……」 「お前のことばかりだ。ここ数年、あいつが話すのは。……悪い、火くれるか」  僕は手持ちのライターをそっと彼の口元に差し出す。身長差がかなりあるので、大きく腕を上げる形になってしまう。 「冬川さん、何年か前に禁煙したって言ってませんでしたっけ?」 「さんきゅ……ああ、やっぱこれだな。いや、そうなんだがな、今日の話を聞いていると吸わずにはいられなくてな」 「……なんの、話をしたんです?」  訊くのに、少し、いや大きな勇気を必要とした。冬川さんはまた一吸いして暗くなり始めた空に向かって煙を吐き出した。それはきっと、ため息を隠すためのものだった。 「ひどいことがあって、大切な人を傷つけて、傷ついた……そんな話だ。当たり障りのないことで俺との会話を拒んできたあいつが、珍しく弱っていたよ。落ち込み方で言うと、もう試す薬がないと告げたあの日以来かもしれん」  その話は……僕と冬川さんの禁忌にも近い話だ。僕と彼が諦めてしまったあの日。そういえば、彼はあの日どんな気持ちで彼女に絶望を突きつけたのだろうか。ふと、そんなことが気になった。 「なあ、浩輝」  随分久しぶりに下の名前で呼ばれた気がする。 「この間、学生の時のツレと飲んだんだけどよ。こんな話をした。ガン告知をする時の医者の気持ちについてさ。もう治る見通しはなくて、延命処置しかできないと告げる時、どうすればいいと思う? そんな話だった。『お前は精神科医だからそんなことなくていいよな』なんて言われたよ」  僕の返事を待たずに始まったその話は、まるで彼の独白だった。 「確かに精神病には死に至る病気ってのは少ない。だが同時に、理解されずに希望を失って自殺していく患者を何人も見てきた。病気によって死ぬのと、絶望によって死ぬこと。そこにどんな違いがあるんだろうなって思うんだよ」 「それは……やっぱり、別物じゃないんですか? 本人の意思がどう、というか……」 「そうだな。同じ病気にかかってもちゃんと生きていく奴は生きていくし、死ぬ奴は死ぬ。そういう意味じゃ外科の奴らの言うことも分かるんだ。だがな、他の病気が肉体を殺すものなら、精神病は意思を殺すものだと思うんだ。当人次第と言われたって、病気であることに違いはないんだが、仕方ないと思えるさ」  冬川さんはクールな人だ。普段はあまり感情を露にすることはない。だが今、彼の指に挟まったタバコは震えていた。久しぶりに話したが、随分溜まるものも溜まっていたようだ。 「だがな……桃子の病、線維筋痛症は別だ。あれはバケモノだ。外科医や整形医の目をすりぬけ、患者の肉体も精神をむさぼり食らう、バケモノだ。確実な治療薬も治療法もなく、その素性さえ未知とされている。今後の研究に期待? ふざけるな、今磨り減りつつある命があるんだぞ!」  屋上の格子をガンッ、と殴りつける冬川さん。その背になんだか哀愁めいたものを覚える。その拍子に、かすかな酒の匂いを感じ取った。 「ちょ、ちょっと冬川さん。もしかしてあんた酒飲んでます?」 「だから! 懸命な対症療法と周囲の理解、心のケアが大事なんだ! 俺にやれることは全部やった! お前はどうだ、浩輝!」 「いや、だから火! あんた今火持ってんですよ!」 「それでも、諦めるしかなかった……もう治せない患者に、俺たち医者がやれることはなんだ? 患者に嘘をつくことか? 真実を伝え絶望に落とすことか? 俺は今でも夢に見る。あの日、全てに絶望したような空っぽな瞳を。だが、そんなあいつがお前といる時だけは楽しそうに笑っていた。それなのに……何、あいつを傷つけてんだ!」  頭に強い衝撃と遅れてくるじんわりとした痛み。殴られたのだ、とやや遅れて気がついた。 「お前は、俺たちの希望なんだ! 俺が諦め、桃子もきっと諦めちまった未来を実現できるかもしれない、希望なんだよ……。そのお前が、あいつを追い詰めるなんて、どういう了見だ、ああ!?」  宮代先輩グループの時とはまるで違う、肉体よりも心をえぐるような一撃だった。だから僕は立ち上がることもできずに、酩酊した冬川さんを見上げた。曇天を背中に纏った冬川さんは、まるで自分が殴られているような顔をしていた。 「あいつはっ……。もう、生きている意味がない。そんなことを言いやがった。今までありがとうございました、もう終わりにします、だってよ! 俺は……俺は、そんな言葉のために頑張ってきたんじゃない。あいつに光を与えてやりたかった。それをお前は……最も光に近いお前が!」  がつ、がつ、と硬い革で作られた靴が僕のお腹を、足を、何度も蹴り上げる。彼の皮膚に触れていない僕には、彼にどんな痛みがあるのか、どんな気持ちなのか。察することもできない。そうだ、そうすることができなかったから、今回失敗したんじゃなかったか? 「あの目は、死人の目だった……。たかが学生の恋愛ごときで、そう言ってやりたかった。だがちげえ。あいつにとって生きてる意味は、本当にお前だけだったんだ。そのお前が、どうして一緒に学校行ってねえんだよ……なんで、あいつを助けてやらなかったんだ」 「いっつ……学校で……? あの、牧野に何かあったんですか?」 「何もなきゃあいつがあんなこと言うわけねえだろうが! くそっ……頭いてえ……」  牧野の身に何かあったのか? 今日のあの痛みようは、そのせいなのか? だとしたら僕は、とんでもないタイミングでとんでもないことをしてしまったことになる。 焦りのままに、立ち上がり様に冬川さんの服の襟を掴みあげた。まるで必死にすがりついているようにも見えたことだろうが、同じようなものだ。 「教えてください。今だけは患者のプライバシーなんて言ってる場合じゃない。分かってるでしょう!?」 「それは……うぷっ」  急激に冬川さんの顔が青くなり、頬が膨らんだ。いや、これもしかして……。 「うおおおええっ!」 「うわっ!」  ほぼ液体状の吐瀉物が降りかかってくる。深酒とタバコを併飲した冬川さんはすっかり目をまわしてしまい、そのまま動かなくなった。 「ちょっ、くそっ! 誰か……宿直の先生! もしかして冬川さんだけじゃないだろうな……!」  結局その日は、酔いつぶれた冬川さんの対処に追われて終わってしまった。久しぶりだが、なんというかまあ、相変わらずな人だった。 「ちくしょう……お前は、桃子のこと、好きじゃないのかよ……」  僕に肩を借りて歩く冬川さんは、そんなことを何度も何度も、繰り返し言っていた。 『九』  大島さんが停学になってから、ちょうど一週間になる。私が大島さんにヒステリーを起こしてしまった、数日後だ。  いつもなら私の後ろの席で、恋塚君と大島さんが馬鹿みたいな話をして、私の休み時間にちょっとした安らぎをくれるはずだった。だけど今はそれもなく、恋塚君もどこか退屈そうにしている。私は変わらず、ひとりぼっちだった。  その間に、事件らしい事件といえば、まあ、起こっていた。 それは告白だ。大切な想いを伝え、上手くいけば幸せを掴むことができる、学生における大イベントだ。  だけど私は既にそれを数十回繰り返していて、正直、またか、という感想だった。知り合って……というか知り合ってすらいないようなものでも、彼らはやってくる。  そんな私だけど、その日に受けた告白もなんでもないようなものだった。好きです、付き合ってください。彼らの貧相なレパートリーには、苦笑するしかない。しかし彼は本気だった。本当に私のことを好いてくれているんだな、とはなんとなく感じた。  だけどそれも断ってしまった。私は男の人が苦手だし、そもそも、私のようなメンヘラと上手く付き合ってくれる人なんて……少なくとも高校生には無理だと思っていた。もしそれができる人がいるならば、それはきっと……。  頭の中に浮かんだピンク色の妄想を首を振って霧散させる。彼にはもう嫌われてしまっただろうから。 「ねえ、牧野さん。ちょっと話があるんだけどいい?」  そんな時、私はクラスの女の子に話しかけられた。悲しいことに、私にとってはそうやって普通に話してくれることの方が大イベントなのだ。むしろ、告白よりもテンションがあがっていたかもしれない。  呼び出された先は、今はもう使われていない旧校舎だった。埃の匂いが充満したそこには、五、六人の女の子の集まりがあった。 私は友達が少ない故に、彼女たちの素性を知らなかった。むしろこれをキッカケに友達になれるんじゃないかなんて、そんな夢まで見ていた。  そんな私を迎え入れたのは、嘲笑だった。私としては、またか、という感想しか持てなかった。なんだか最近、こういうの増えたなあ、なんて。いいんだ。囲まれることになんてもう慣れた。そういうものなんだと納得できた。ただ、そういう日はひどく体が痛むから、勘弁してほしいんだけど。  ついこの間も別の先輩に殴られたばかりだ。あの時は特に辛くて、つい冬川先生に愚痴を漏らしてしまった。そして、その後は大島さんと……だめだ、今思い出すことじゃない。 「うーわ、まじで来ちゃったよ」 「ウケるー。ねえ、とりあえずトイレにでもいかない?」  声をかけられたという昂ぶりのままに来てしまったが、彼女らは私を歓迎するつもりはないようだ。それでも私は受け入れる。こんなの、いつものことだから。ただ、心を殺す。 「ねえ、あんたさあ。森田先輩をフったんだっけ?」 「サッカー部のエースが玉砕したって、噂になってるよー?」 サッカー部のエース……確かそんな人もいたと思う。自信はないけれど。 「ちょっと……趣味が合わなかったていうか」 「趣味! あの先輩から告られてまだ求めるの? ていうかー、私も先輩なんだけど。敬語は?」 「あっ、ええと……すみません」  名前も知らない少女は高笑いをした。その陰に隠れ見えした悪意に気付かないほど、私は鈍感じゃない。 「ねえあんたさ、なんか調子に乗ってない? アメリカ人でもカナダ人でも何でもいいけどさあー」 「えっと、私はハーフで……」 「んなことどうでもいいっつってんの。ちょっと目立つ格好してるからっていい気になってんじゃねえっつってんの。分かる?」  壁際まで追い込まれて、どん、彼女は私の頬を殴るように腕を突き出した。それは髪を撫でて背後の壁に強い衝撃を与えた。  殴られてもいないはずの肩がズキリと痛んだ。それを後押しするように全身に痛みが広がっていって、もうどうにもできなくなってしまった。 ああ、これ終わったら保健室にでも行こうかな。でもあの先生、私のことよく分かってないみたいだったしな……。 「聞いてんの? あんた」  私より少し背の低い、派手なメイクですごんでくる彼女。私はこういう濃いメイクが苦手だった。まるで仮面を被っているようで、その内にある感情が見えない気がするのだ。  心が見えない人は怖い。愛想笑いは嫌い。心の底で馬鹿にされているような気がするから。病気持ちだって同情されているような気がするから。勝手に私を品定めして失望されるのが怖いから。私を……理解しようとなど、してくれないから。 「何とか言ったらどうなのさ。ほら、謝って。知ってる? この子、森田先輩に憧れてたんだよ。それをあんた、アッサリふっちゃって、悪いと思わないの?」  しかし、それより怖いのはそもそも相手を見ようとしない人だ。自分の言い分しか持たず、理解を示そうとしない。そんな人はきっと、私を見てはくれないから。 「はい、水責めの刑ー」  突然、それまでニマニマと笑って見ているだけだった先輩の一人がバケツになみなみと注がれた薄汚れた水を私にむかって振りかぶせた。全く予想もしていなかったために私はもろにそれを被ってしまい、へたり込んでしまった。 「ちょっと、あんたやりすぎ!」 「ウケるー! 綺麗な顔も台無しね」 ああ、最悪。鼻に入った。なんか、臭いし……。一体私が何をしたっていうの。  ……なんて、言いはしない。この程度の理不尽、私は散々味わってきた。毎日続く拷問のような痛みと、私を殺そうとする私と戦ってきた。何を今更、この程度で怯むことがあろうか。だが、身体は変わらず痛みを訴えてくる。 「……うっ……くっ……!」 「あーあー、泣いちゃった?」  違う、私は違う。お前らなんかに負けたわけじゃない。ただ、この体が……。くそう、動いてよ。私の体! そう強く念じても、私は立ち上がることができない。それだけの痛み、苦しみだった。 「どうせ今まで顔だけでちやほやされてきたんでしょ? 言っとくけど、うちらの間じゃそんなの、通用しないから」  ケラケラと笑う彼女たち。大島さん曰く、痛みの使徒たち。そんな姿に、かつての父の姿を思わせる。私を殴って、蹴って、母と喧嘩ばかりして家を出てしまった父と。 「……大島さん」  無自覚にその名前を呼んでしまった。いつだって私の隣にいてくれた人。受け入れて、私のために頑張ってくれた人。男の人なのに、なぜか安心できてしまう人。 そして、私に愛想を尽かしてしまった人。つい先日彼にひどい言葉を浴びせたというのに、この期に及んで私は彼に助けを求めてしまっていた。  だが、ここは旧校舎の女子トイレ。停学処分中の彼が来てくれるわけがない。そうだ、大島さんだ。彼は言っていた。辛い時に辛いと叫べと言ってくれた。ならば、それは今じゃないのか。  私は大きく息を吸い込んで、トイレの外へ向けて勢い良く吐き出した。 「誰か! 助けて!」 「なっ」 ぽかんと、先輩の口が開かれる。怯んだ隙を逃さず私はトイレの外へ向かって痛む体に鞭打って駆け出した。 「襲われてるの! 誰か!!」 「てめえ、ふざけんなよ。戻れよ!」 「きゃあっ!」  しかし、いくらなんでも複数人の力には敵わない。私はあっさりとまたトイレの床に投げ出された。 「本当、いい根性してるよね。でも残念だったね。こんなとこ誰も来やしねえよ!」  長い棒が振るわれるのを視界の隅でとらえた。それはきっと、掃除用のモップか何かだった。しかしそれが分かったところでどうしようもない。私はただそれが私の体を打ち付けるのを待つばかりで……。  だが、いつまで経ってもその瞬間は訪れなかった。私は恐る恐る目を開ける。 「……そんなことない。聞こえた」  鈴を転がしたような、綺麗な声だった。その声を聞いただけで、私は今暴行を受けているという現実を一瞬忘れてしまったほどだ。 「な、なんだよこいつ」 「これ以上やるなら。私が相手になる」  視界に大きく広がったまばゆいほどの銀髪。後姿しか見えなかったからよく分からないが、先輩の打撃を止めてくれたのはその女の子らしい。背丈もそう大きくは見えないのに、立っているだけで他を圧倒する不思議な雰囲気があった。 「あんたには関係ないでしょ。どこの誰だか知らないけど。ちょっとそこどいてよ」  あからさまに気分を害したような女生徒が彼女の肩を押そうとしたその瞬間、何かに弾かれたように跳ね飛ばされた。 「痛みの使徒を。私は許さない」  静かな、だけど確かに怒りの感情がこもった声だった。明らかに異常な事態に混乱したのは先輩たちだけではない。助けられたらしい私でさえも、怯えてしまっていた。 「ワケ分かんないこと言ってんじゃないよ!」  震えた口調で、また殴りかかる別の生徒。でも私から見れば、まるで猛獣を噛みにいくような蛮行だった。  その先輩も、同じように強い衝撃を受けたように後ろに跳ね飛ばされ、体をくの字にまげてうめくことになった。 「ま、待って。もういい、もういいから!」  私はようやく自我を取り戻し、慌てて立ち上がって恐る恐る彼女の肩に手を置いた。何が起こってるのか分からないけど、私は弾かれもせず触れることができた。 制服越しにも感じる体温。その温かさになんだかホッとしてしまった。 「ん……。牧野桃子がそういうなら」  えっ、私の名前を知ってる? でも、こんな目立つ……私が言うのもなんだけれど、こんな子なら一度見たら忘れるはずはないんだけどな。 「お前たち。今後牧野桃子に手出ししたら。私が許さない。覚えておいて」 「な、なんなのよあんたは!」 「ん。私は、エル。牧野桃子の友達」 やっぱり、聞いたこともない名前だ。どこの国の名前だろう……。 「名前なんか聞いてないわよ! こんなことして、絶対に後悔させてやるんだから……!」  もう、先輩たちも意地になっているのだろうか。若干の涙をたたえた瞳で一歩後ずさりをした。その瞬間、この場における勝敗は決まったような気がした。 「ん。何度でもくればいい。そのたびに叩きのめす」  その言葉にさっと顔を青くした先輩は、倒れてる仲間を引きずりながらトイレから去っていった。後には、遠くグラウンドから野球をしている音が空間内に漂ってくるのみだった。 「牧野桃子。大丈夫?」 「え、うん……ありがとう。でも、えっと、私はあなたのこと、知らないん、だけど」  振り返った彼女はまるで精巧なお人形のような顔立ちをしていた。きゅっと結ばれた口元が小動物めいていて、まっすぐ私を見つめる大きな双眸は髪の色と同じ、シルバーだった。 「私は天使。あなたの声を聞いて、やってきた」 「天使……?」 「もう死にたいという、あなたの叫びを聞いた。その魂を救うのが、私の役目」  その日、私は天使と出会った。それは今まで見た何よりも美しい、白銀の少女だった。そして、まるで地震のような衝動が私を襲う。ぐらぐら、ゆらゆらと視界が歪み……って、嫌、本当に地震!?  立っていられないほどの揺れの中、天井や床が軋む音を聞いた気がした。 「もしもの時は……楽に、逝かせてあげる」  声は遠く、私は足場を失って宙へ投げ出された。全てがコンマ刻みに動いているような、じれったいほどゆっくりと岩盤が落ちてくる。周囲が崩れていく音がやけにうるさくて、私は耳をふさいだ。  そして、一際大きな岩盤が落ちてくる。ああ、ちょうど私の真上だ。あれはダメだろう。きっと助からない。この異常事態だからか、普段付きまとっていた痛みなんて感じる暇はなかった。  走馬灯なんてものはなく、私は地面に叩きつけられるより先に、意識が遠のいていくのを感じた。 「……大島さんに、ごめんって、言ってないや」  そこに慈悲はなく、強烈な振動と共に意識が覆い隠された。  『十』 「おっと、地震か……」  最近では珍しいレベルの揺れ方だった。僕の部屋には物が少ないが、本棚からは大量の本がなだれ落ちてきて椅子などは部屋の端まで移動している。 「速報……震度五か。結構な地震だな。みんな大丈夫かな……」  時刻は夕暮れ、もうとっくに授業が終わってそれぞれ帰路についている頃だろう。電車通学の人はどうだろうかとスマホでニュースを見ていたが、電車が止まりこそすれ脱線やらの大事故は起こっていないようだ。  別に特別誰かを心配しているわけじゃないが、こういうものは被害がなければないほどいいものだ。  その時、僕のスマホが緊急速報とは違う通知を受け取った。それは恋塚からのメッセージだった。 『すげー揺れだったな。オッサン生きてる?』 「あいつは……生きてるよっと」  その後、既読のマークがついて話はぶった切られた。相変わらずだな、あいつとのやりとりは。基本的に別れの挨拶はなく、話が曖昧なまま終わることも珍しくない。  むしろ、この緊急時に真っ先に連絡をくれたのはありがたいことだ。 「牧野は……大丈夫かな」  あいつの家は確か数駅は離れていたはずだ。無事に帰り着いていればいいが……。しかし、牧野を怒らせて以来まだ連絡はついていない。僕は返事を期待せずに、無事か? と一言だけメッセージを送っておいた。 ……数分待ってみたが、やはり返事は返ってこない。 「家にまで行ったら、嫌がられるだろうなあ……あいつ、家族の話とかもあんまりしないし」  独り言が多くなるのは、この部屋にいる時だけだ。よく人は文章を書いて考えをまとめると言うが、僕の場合はじっと考え込むか喋って話を整理するかのどちらかだった。  じっとスマホの画面を眺める。自動スリープ機能が働いていてもう真っ暗だが、そこに映る自分の顔を眺めていた。 「告白されることが多すぎて、女子のやっかみにねえ……」  僕は冬川さんに教えてもらったことを思い出していた。牧野の容姿については理解しているつもりだった。それが何を引き起こすのかなんて、ちょっと考えれば分かりそうなものだ。なのに僕は自分のことばかりで一人でいた牧野を放置してしまった。  そりゃ、一発ぶん殴られても文句は言えないな。むしろ、牧野にこそ、そうして欲しかった。 「いや、もうぶん殴られたか……はは」  あれは効いた。数日経った今現在に至っても僕の胸をえぐり続けている。これがいわゆる、心の痛みってやつだ。僕がこれまで見てこなかった、逃げ続けてきた痛み。こんなものをずっと牧野も感じていたのだろうか。あれだけの肉体的な痛みも抱えた上で。 「やっぱりあいつはすげえよ……ヤベー奴だよ」 ――お前は、桃子のこと、好きじゃないのかよ……。  そんな冬川さんの呟きを思い出す。どうなんだろう。僕は彼女のことを大切に思ってる。それは間違いない。そうでもなきゃ、必死に希望の道を探そうとはしないし、嫌な能力の行使をそう何度もしたりはしない。……殺してやるなんて、言いはしない。  牧野のことは好きだ。ハッキリそう言える。だけど、冬川さんが言った好きの意味くらいは分かってる。それが今の感情と合致しないことも。 「顔は可愛いよな。一緒にいて楽しいし、守ってあげたいとも思う。世間一般の言う好きの条件はクリアしてる」  ……ダメだ、分からない。それでも、好きでも嫌いでも彼女のことを救いたいのは本当だ。これだけは何があっても真実だ。  だけど、どうしても彼女の病が付きまとう。痛みに支配された彼女の体と、僕のこの能力はどうしても相反するものだと思う。だって、例え付き合ったとしてキスも満足にできない関係なんて、いつか破綻してしまうに決まっている。 「……ってなんで僕付き合える前提で考えてるんだ! この前怒らせたばかりなのに」 はあ、力が抜ける。  と、その時またスマホが通知を拾った。今度は二件続けてだ。自慢じゃないが、僕は機械の扱いに弱い。だからあまり複雑なことは強いてほしくないのだが、情報社会化の進んだ今ではスマホの一つも扱えないのではやっていけない。世知辛い世の中だ。 「えっと……病院からか。入院棟、本棟被害なし……。よかった」  少し操作に迷いながらもう一件の通知を探していると、先に着信がきてしまった。いや、でも登録していない番号だな……。僕のこのスマホの番号を知ってる奴なんて数えるほどしかいないのに。  まあいいか。出るとしよう。 「もしもし?」 『オッサン? これオッサンの番号だよね!?』 きいん、と耳の奥まで突き抜けそうな高い大声だった。思わずスマホを耳元から離してしまう。 「そうだよ、大島の携帯ですよ。どちらさん?」 『悠長なこと言ってないで、ねえ、学校からのお知らせは読んだの!?』  徐々に霧が晴れるようにその声の持ち主を思い出した。そうだこれは、木崎さんの声だ。しかし、一体何故彼女が僕に電話を……? 「木崎さん、どうして僕の番号を?」 『智也君から聞いた! そんなことより、早くして!』 「ちょっと待ってくれよ……電話しながら通知って見れるもんなのか?」 『はあ? そんなこともわかんないの? ほんとおっさんなんだから! とにかく、非常事態なの!』 そうか、ここをスライドすればいいのか。えーと、何々……。 「以前から耐久不足を危惧されていた旧校舎の一部が、今の地震によって倒壊……避難誘導……えっ?」  つい先日まで僕も利用していた旧校舎だ。あの雑草だらけの校舎裏……本校舎から追い出された部活や生徒が集まっていたというあの場所だ。そういえば、あの校舎は確かに随分ボロい木造だったことを思い出す。 『見た? 見たよね? 本当に一角だけが崩れたらしいんだけど……私、大変なことしちゃったかも……』 「木崎さん? 確かに大変なことだけど……それがどうしたっていうんだ?」 『旧校舎に、今牧野さんがいるかもしれないの!』  スコン、と頭の中に空白が響いた。今、何と言った? 『友達に、牧野さんを呼び出す橋を作れって言われて、一発シメてやるとか言ってて……私、関わりたくないから断ったの。でも結局呼び出されたみたいで……。ねえ、オッサン聞いてる!?』 「木崎、その友達とやらと連絡は?」 『それがないからわざわざオッサンに連絡したんじゃん! ねえ、牧野さんと連絡ついてないの?』 「分かった、ありがとう」  僕は返事も聞かずに電話を切った。まだ何かわめいていた気がするが、そんなの待っていられやしない。即座に別の番号へ僕は電話をかける。 「もしもし、叔父さん?」 『おお、浩輝。随分久しぶりじゃないか。今の地震、大丈夫だったか?』 「まだ病院にいるよね? 車借りるよ」 『……おう、壊すなよ』  ありがたい。今だけは不干渉を貫いてくれる叔父さんが本当にありがたかった。 本当なら車やバイクでの通学は認められていないが、そんなことは言ってられない。元々校則違反で停学中の身だ。一つや二つ罪が増えたところで何も変わりはしない。 「牧野……帰っててくれよ」  車道のあちこちに、余震を警戒してか車両が放置されているのが鬱陶しかった。途中、何台かにぶつけてしまったが、まあ地震で潰れるよりはマシだと思っていただきたい。後で当て逃げでもなんでも罰は受けるから。  外にはあちこちで混乱が見られた。誰も彼もが家から出てきて周囲を見渡している。学校に向かうまでに、傾いた電柱や崩れた木造の小屋を何軒か見た。それによって焦りはさらに拡大していく。頼むから、頼むから最悪の事態にはならないでくれ……!  車で走ること二十分、僕はようやく学校へたどり着いた。中には少ないがまだ何人か残っていたようで、校門からも人だかりが見えた。 「あっちは……やっぱり、旧校舎か!」 僕は車を止める場所もそこそこに、外へ飛び出す。幸い、火災の気配は感じられなかった。  余震も建物の崩落にも気をつけなければならない。だが、もしも牧野がそこにいたら。そう思うと躊躇うことなんてできなかった。  僕は人目を避けるようにして旧校舎の中に入った。一番大きな入り口は何本か柱が折れたらしく、軋みを上げながら崩れつつあったから、反対側の西口の方から探索を始める。  明かりのついていない廊下はどれだけ歩いても先が見えないような気がする。一つ一つ教室を確認するが、人影は全く見えなかった。 「いてくれよ、牧野……いや、いない方がいいのか? ああ、くそっ、とにかく無事でいてくれ!」  しかし、探すにしても情報がなさ過ぎる。このまま闇雲に探していても埒が明かない。牧野のいそうな場所……いや、牧野は先輩に呼び出されたって言ってた。なら、どこにいるかなんて推察しようがない。  ……。熟考している間にも、焦りが出たのか足が速くなっている。教室もいくつか見落としているかもしれない。一度そう思うともう自分の現在位置すら分からなくなってくる。  そんなことをしていたから、スマホの着信に気付くのが遅れてしまった。こんなときに、誰だろう。 「っ、牧野!」 僕は慌てて電話に出る。通話ボタンを何度も押しそこなってしまった。落ち着け、きっとこれは無事を伝える連絡だ。だから焦るな、僕! 「もしもし、もしもしっ! 牧野、無事なのか!?」 『――』  ひどいノイズが聞こえる。その奥から微かなうめき声のようなものが聞こえてくる。それと……なんだ、何か跳ねるような音も聞こえる。ああ、くそ、木崎さんのキンキン声のせいで音量を下げていたんだった。最大にまで音量を上げて耳を潰すほど強くスマホを押し付けた。 『――痛い……寒いよ、大島さん――あはっ……ちゃんと、言えた……』 「牧野、どこだ! 今どこにいる!」 『ああ、大島さんの声だ――……――ごめんね、約束、守れな――でも、こうなってよかったのかも……』  馬鹿が! この期に及んで何を言ってるんだ! そんな今にも死にそうな声で……。待て、死にそうな? そんな話を最近聞かなかったか? 『――』  また、ノイズしか聞こえなくなる。その奥で牧野の吐息が聞こえる。それと、なんだ、この音は……。 ――ピチョン、ピチョン 「水の音……水道……トイレ、か?」 『だから……ごめんねって。言えた……良かった。聞こえてるかな、大島さん……』 「聞こえてる、聞こえてるぞ! 今すぐに行く! だから堪えるんだ、牧野!」  耳にスマホを押し付けたまま、僕は階段を駆け下りる。建物が崩落したのなら、きっと一階に牧野はいるはずだ。  そして、僕は見た。銀色の風をまとった白い翼を。あれこそ悪魔、牧野の魂を奪っていこうとする存在……! その背を逃すまいと僕は速度を上げた。 『死にたいって言ってたの――様が、叶えてくれたのかな。なら、これも当然なのかな……』  お前はそれでいいのか。知るか、知ったことか、僕がそれじゃよくないんだ! 『あ……もう何も……ばい、ばい』  無情にも、声が途絶えた。そして、スマホが落下して滑っていくノイズ。その瞬間、僕はスマホから何かの温もりのようなものが抜け落ちていくのを感じた。僕は今まで感じたことのないほどの激情が湧き上がってくるのを感じた。それはもちろん、牧野に対してだ。  何が、何が神だ! この世界の神様なんてくそったればっかりだ! そんなものに殺されるな。どうしても死にたいのなら。 「僕が殺してやるって、そう言っただろ……! それまでに、勝手に死んでんじゃねえよ……!」  やがて、旧校舎最後のトイレにたどり着いた。もう銀色の風は見えないが、中に入るまでもない。入り口が半分瓦礫で埋まり、二階の床が三割ほど抜け落ちてるのが分かった。  そして、その端に、彼女の姿はあった。 「牧野!」  落ちてきた瓦礫に押しつぶされたのだろう、彼女の体に食い込むほど強く、下半身全体に覆い被さっていた。その周囲は見てるだけでめまいがしてきそうな程の量の血に濡れている。  牧野の肌は土や血にまみれてなお、美しいほどに白かった。上半身が細かく上下していて、目はつぶられていた。額から流れる血に濡れた顔からは、常の笑顔なんて欠片も感じ取れない。 「牧野……」  これが、こんなものがお前の求めた幸せだったのか? 僕は、そっと彼女の隣でしゃがみこむ。というより、力が抜けてしまってそうせざるを得なかった。まだ牧野は生きている。だが、どう見ても……。もう。何も。できることはなかった。  こんな傷、治したことはない。僕の能力の最大の欠点として、治せる傷に限りがあるということだ。例えば体を真っ二つにされた人間を治せるか、という話だが、おそらくその傷口をつなげている間に僕自身が痛みに耐え切れなくて死んでしまうだろう。  牧野は死ぬ。僕の目の前で。僕は何もできないまま、彼女が絶望のまま死ぬ様を見ていることになる。こんなはずじゃなかった。僕は約束したのに。笑顔のまま殺してやるって、そう約束したはずなのに。 「お前の救いは、本当に死だけだったのか……? 僕じゃ、ダメだったのか?」  ああ、こんな時になって僕はやっと確信した。僕は彼女のことが好きだった。彼女だけの特別になりたいと、そう思っていたのだ。 視界がぐにゃりと歪み、ボロボロとこぼれて来る涙を止めることができなかった。  そんな時に、僕はあの約束を思い出す。誰も牧野を助けてくれなかったら、一緒に死んでやるという心中の約束を。それは今じゃないのか。もう、彼女のためにできることなんて、僕にはそれくらいしかないんじゃないのか。 ……本当に、そうなのか?  ――これで終わりだ。僕らの物語はここで終わる。絶望のまま、死にゆく彼女を抱えて、僕は自分の無力さを思い知った後悔に呑まれて、彼女が骸となるのを見届けるだけだ。  そう、あの冬に牧野と来世への転生について話をしたのを思い出したのは、こんな局面だからだ。魔法がどうとか、牧野はそんなことを言っていたな。もう今の体が嫌で仕方ない、殺してやりたいと。それなら、今のこの状況は確かに彼女の望み通りとも言える。 ……本当の本当に、そうなのか? そうじゃないはずだ。違うはずだ! 「……ぁだ」  それは僕の願望が生んだ幻聴だったのだろうか。だが、確かに聞こえた。 「いやだ……死にたくないよう。私は、楽に……幸せに、なりたかった……だけ……」  その瞬間、ぷちりと何かが切れた音を聞いた気がした。僕は迷いなく、彼女の体を力強く抱きしめた。 足がちぎれた。背骨が砕けた。頭に破裂しそうな熱量を感じるのに、全身にぞっとするほど冷たい悪寒がはしる。  それは全て幻覚、しかし、真実彼女の痛みだった。やはり無理だったのだ。こんな傷を治すなんて。ここで僕も牧野も死んでしまう。 「……」  目の前に、灰褐色の髑髏をかぶり、身の丈ほどの大鎌を持った銀髪の少女の姿を見た。まるで僕らが死ぬのを待っているような佇まい。ああ、ようやく姿を見ることができた。 こいつが悪魔。人の死をすすり食らう悪魔なのか。 そこで僕が思い出したのは……あの、くそったれなゲームの話だった。あの救いのない、奇妙な転生ゲームとやら。  誰かに助けなんて、甘えていた。口を開けて待っていれば訪れるなんてどの嘘つきの言葉だ。誰かが、じゃない。僕が牧野を助けるんだ! 例え死んでしまったとしても……! 死か……そうだ。どうせ、死ぬのなら。 「ミネルカアアアアアアアアア!!!」  来世にワンチャン、かけてみようか。そのふざけた力で、このふざけた現実を変えられるならば。僕は喉も千切れよとばかりに叫んだ。声が裏返ろうと枯れ果てようと、僕は叫びを止めなかった。 「悪魔だってマフィアだって総理大臣だって殺してやる! 僕が見つけ出して望みどおり殺してやる! だから今! 僕に奇跡をよこせ! 牧野以外なら誰だってぶっ殺してやる! 僕の命を捧げてもいい! だから頼む……!」  痛みに、涙が止まらない。既に全身の感覚は麻痺しつつあった。ただただ巨大な痛みに押しつぶされるだけだった。 だが、腕の中にある温もりだけは、今もなおそれを失いつつあるその体の感触だけは、手放さない。 「全能の神なんだろう、だったら僕の叫びくらい聞き取れ! 他の何も望まない、何を課されてもいい、今、この傷を治すだけの力をくれ!」  瞬間、全身をのこぎりで切られているような痛みが、消えた。壊れた水道の奏でる音も、遠くに聞こえていたサイレンの音も、全てがかき消された。  そして、浅い呼吸を繰り返す牧野の体を抱いたままの僕は、あの真っ白い空間にいた。 「ふー、神様に出張させるなんて、不届きな人間なの」  現実というものを無視した生命体。カエルのような着ぐるみ。指先が膨らんだ手であたかも疲れました、とでも言いたげに額をかいている。 ああ、これだ。こんな奇跡があるならば。この力さえあれば……! 「それで、君は転生ゲームに参加する、ということでいいの?」 「……ああ、してやるさ。悪魔を殺せばいいんだろ。やってやる、そんなことくらい!」 「で、どうするのん?」 「……牧野の、来世を……痛みも何も無い、幸せなものにしてくれ。報酬の前借りだ。僕は絶対にゲームをクリアするから……。牧野の未来を守るって、約束したんだ……。頼む……」  だが、無情にもミネルカは首を横に振る。 「それはルール違反なの。報酬はゲームクリア者にしか与えられないの。例えその女を今すぐゲームに参加させたとて、数秒後に死んでしまうだけなの。そんな無駄なことを、ミネルカはしないの」  ……ああ、そうか。神だなんだと言ってもやはり彼女を救ってはくれないのか。だったら。やはり僕が牧野を救うしかないではないか。 「それか、今、君の力を使い果たしてその女を生かして……でもそうなると悪魔を殺すことはできないの。君にむごい死に方を与えることもできないの。これは困った事態なの」 ああそうだろう、そうだろうともさ。だったら。 「お前は言ったな。試しに超能力を与えてやると。だけど僕にはもう超能力があるから与えることはできないと」 「そうなの。貴様みたいな選ばれし特別なチート野郎は滅びるといいの」 「だったら……そのチートを、僕の今ある力を、強化しろ」  若干の間が生まれた。ミネルカはその大きな瞳をパチクリと瞬きさせる。 「……それなら、できるの。でも、君が嫌っていたその力は、より強く魂に結びついてしまうの。何度生まれ変わろうと、決して離れることはなくなってしまうの。それじゃあ意味がない、と君は言ったはずなの」 「構わない。たとえ記憶が引き継がれようが、どんな生き地獄に意識を放り込まれようが、もういい。何千回だって繰り返してやる。それで、できるんだな? やれるんだな!?」 「答えはもちろんイエスなの。万能の神に不可能はないの」  だったら。両手は牧野を抱きしめたまま、視線だけでミネルカを貫いた。 「やってくれ。今すぐに……牧野の命が、消えてしまう前に。約束する。僕はどうなってもいい。でも僕が必ず、牧野の未来を幸せなものにする……。だから、お願いだ……。いずれ死んでしまうとしても……こんな終わり方、あんまりだ……」 「……承知したの。言っておくけど、これは例外なの。特別なことなの。だから一度だけ、チャンスをあげるの」  ミネルカの話は続く。未だ牧野から流れる血が、苦痛にうめく声が、今の僕の希望だった。 「君がその子に課した余命、残り半年間。……その子が死ぬと決めた冬まで。その期間だけ君の力を強化してあげるの。人間のちっぽけな痛みの許容量を、大幅に上げてあげるの。そいつが受けている痛み程度、余裕のよっちゃんなの。熊に殴られたって死ななくなるの」  ただし、と僕に向かって指を突きつける。 「君には、間違いなく、漏れはなく、半年後に絶対に死んでもらうことになるの。そして、来世からはただ人を癒すだけの奴隷になってもらうの。人材の浪費はよくないことなの。つまり、好きなように来世を過ごせるという権利を、手放すということになるの。そして半年後、もし悪魔を殺せていなかったら、その瞬間に君には過去の誰よりも、ひどい死に方をしてもらうの。それはもう、大変なことなの」 「その程度、構わないさ」 「これは禁忌とも呼ぶべき奇跡なの。貴様ごときの命で死の痛みを受け入れようというのだから、当然の代償なの」  ああ、そうだろうさ。だがそのくらい、覚悟の上だ。僕は今この瞬間、傍観者であることをやめたのだ。あとはただ、どう転んでも破滅の未来に向かうだけだ。だが、そこに彼女の幸せがあるのなら。僕は迷わず突き進む。 「やってやるさ……死ぬ気で悪魔を見つけ出して、殺してやる。その後はどうなったっていい」 「……ふ、ふふふ。おかしな人間なの。これは本来なら思い描く来世のために頑張るゲームなの。だが君は、それを捨てて今を選択しようとしているの。未来を掴むゲームで、未来を捨てるということになるの。その矛盾した望み、大いに気に入ったの」  そして、満を持してミネルカは言い放つ。 「ここに、大島浩輝の転生ゲームの参加を認めるの。同時に、その矮小なる能力の強化を授けるの」  ふわりと、ミネルカの腕が振るわれる。それはいつかのように僕の中へ光を送り込んできて……やがて、収まった。 「ちなみに、いいことを教えてあげるの」 「……なんだよ」 「今その子を見捨てれば、確実に悪魔が寄ってくるの。死体に群がる蛆虫のように。そうした時点で、君はゲームクリアなの。今ならまだ、生き地獄に放り込むことだけは勘弁してあげるのん」  この世界に来る寸前に見た、銀色の髑髏面を思い出す。だが僕はそんな囁きを、鼻で笑った。そんなことに、なんの意味があるというのか。 「そんなことするもんか……誰にだって、させるもんか。もう絶対に、僕は、牧野を見捨てない……! 僕が、助けるんだ!」  そう、絶対に。もう牧野のためだけじゃない。特殊な能力を持って生まれた使命感などではない。ただ僕のために、そうするのだ。僕が愛した人を救うために、行動を起こす。 そう思うと、いくらでも力が湧いてくるような気がした。なんだってできる、彼女のためなら、どんな無茶でもこなせそうな。そんな気がした。 「じゃあ、せいぜい頑張るの。うーん、これは久しぶりに、退屈しないで済みそうなの」  あまりにあっけなく、ミネルカは消えた。その瞬間、あの猛烈な痛みが帰って来る。それはどこまでも止めどなく、僕は意識を留めておくのに精一杯だった。  だが、耐えられる。まるで四肢が欠損しては再生して、また千切れるのを繰り返しているような感覚だ。これが、寿命の強化。痛みの許容量が増えるということか。  永遠にも感じられる苦痛の濁流の中、僕は必死に牧野の体を抱きしめていた。こんなもの、牧野の感じてきた痛みを思えば、地獄でもなんでもない。 「……っは、残念だったな。悪魔さん」  依然として、そいつはまだそこにいた。仮面越し、しかも身じろぎ一つしない大鎌の少女、悪魔の感情は読み取れない。だが、死から逃れた僕らには手出しできないようだった。 「こいつの魂はお前にはやんねえよ……。僕が、守る。守りきってみせる」  そう言うと、大鎌の少女はさっと後ろに振り返る。その拍子に見えたのだが、彼女はなんと、仮面と長い銀髪、それに大鎌だけが宙に浮いた状態だった。体に値する部分は、夜闇より深い漆黒で覆われている。僕は一体なぜ、彼女を女性だと認識したのだろうか。 「……死は。いずれ訪れる。痛みの使途は、必ずやってくる」  それは、悪魔にはまるで似つかわしくない、鈴を転がしたような綺麗な声だった。痛みの使途? それは僕が勝手にそう呼んでいるだけの造語だ。一体なぜ悪魔が……?  しかし、その疑問を挟む間もなく、大鎌が弧を描いて振るわれた。空気の裂ける音を確かに聞いた気がした。 驚いて目をつぶってしまう……だが、何の衝撃もやってこなかった。  恐る恐る目を開けると、悪魔の姿はもうそこにはなく、牧野に圧し掛かっていた岩盤が綺麗に真っ二つに割れていた。 「助けて……くれたのか」  何故だろう。死を回避したからだろうか。 いや、そんなことはどうでもいい、早くこの場を離れなければ! 「牧野……動かすぞ」  返事はない。当然だ。あれだけの痛みだ、僕の能力の行使で失神していない方がおかしい。しかし、呼吸も平常に戻っているのを見ると、途端に安心してしまった。  僕は彼女を抱き上げると、やっとの思いで背に担ぐことに成功する。ちょうどその瞬間だった。初震ほどではないが強い縦揺れが起きた。 「くっ……重いな」  あまり女性にこういうことを言うもんじゃないが、意識のない、それも自分より背が高い人間一人はやはり重い。こんなことなら、体だけは鍛えておけばよかった。 「……大島さん」 「くっ……牧野、目覚めたのか」 そう思ったが、彼女の声はまだどこか胡乱気だ。 「私、死んでたはずなのに……どうして? なんだか……気持ちいい。ここ、天国なのかな……」 「……ただの夢さ」  僕は口を開くのもやっとだったが、それだけ返した。一歩一歩が本当に重たい。 「そっか、夢か。久しぶりに、とってもいい夢だなあ。大島さんの背中、温かい……。ねえ、聞いて。私、天使に会ったんだ……今度、話を聞かせてあげるね」  そうして、また牧野は口を閉ざした。今もまだ僕の体は牧野の痛みを吸い取り続けている。意識が落ちたのはきっとそのせいだ。そうに違いない。 「次の夢ではきっと……ちゃんと、僕も話してやるからな」  旧校舎を抜けて、僕はとにかく明かりの見える方へと歩いた。一歩進むたびに、痛みは遠のいていく。これが治癒が進んでいるからなのか、僕の体が限界なのかは分からなかった。 「大島君!」 遠く、灰色のスーツ姿の女性の影が見えた。あれは、安室先生か。隣にいるのは、良かった、保険医の佐々木先生だ。 「ひどい血……早くテントに!」 「これは、おい! 急患だ! 布団を一つ空けろ!」  わらわらと、何人もの人が集まってくる。それを見て、ああ助かったんだ、という安堵が生まれた。二人に話しかけようとして、ひどく口が重たいことに気付く。 「僕は……だから……の、を」 「なんだ? いや、いい。喋るな。誰か! 担架を持って来い!」  遠く、サイレンの音が聞こえる。これは、救急車か。いや……なんでもいい。この先生たちがいるなら、後はどうにかしてくれることだろう。 「牧野を、よろしくお願いします……僕は、なんとも、ありま、せ……」 すとん、と意識が落ちていくのをどこかでぼんやりと感じた。騒ぎ立てる周囲の声も段々遠のき、僕は暗闇へ沈んでいく……。 【彼と彼女の終わりと転生ゲームの終結】 『一』  見上げれば、見知らぬ……ではなく、よく知っている部屋の天井だった。僕の部屋だ。横たわっている硬いマットレスはいつものようにちょうど良く僕の体にフィットしていた。軽く目を動かしてみると、皺が擦り寄っているような柄の壁紙、四隅あたりには濃い染みが広がっているのが見えた。 「おう、目覚めたか。浩輝」  頭上から降りかかる一つの声。これは、叔父さんのものだ。なんだか久しぶりだな。 「おはよう、叔父さん」 「もう夜もいいとこだっての。お前、全然寝返り一つしないから心配したぜ」  すぱ、と吸いかけだったらしいタバコを口にくわえる叔父さん。 「やめてよ。人の部屋で」 「俺が貸してやってる部屋だろうが。大体、お前もいっちょ前に吸ってやがるんだからいいじゃねえか。お前もどうだ? 目覚めの一本ほどの至高はないんだぜ?」  関係ない話になるのだが、僕の口調は両親のものよりも叔父さんに似ているとよく言われる。僕自身、確かにそう思っていた。良くも悪くも、僕はこの人に多大なる影響を受けて生きてきたのだ。 「今……何日?」  そんな疑問が湧くほどに、よく寝ていたという感覚があった。 「二十日だ」 「いや……そうじゃなくて。いや、そうなんだけど。僕、どのくらい寝てたの?」 ゆっくりと起き上がろうとすると、肘に釘を打たれたような痛みを感じて、再び僕は布団に倒れこんだ。 「腕、まだ動かすなよ。点滴打ってんだ」 「点滴……」  見れば、確かに僕の肘の内側には大きな針が刺さっていた。そこから伸びるチューブの先には栄養剤と生理食塩水のパックが繋がっていた。  僕は点滴が嫌いだ。長くベッドに拘束されることもそうだが、まるで血管を一つ抜き出されたような感覚がして、気持ち悪くなってしまう。これは幼い頃からのものだ。 「お前、あの地震の日から三日間寝たままだったんだぞ。あちこちのツテを頼って診てもらったが、良かったな。外傷はないらしい。慣れないことして疲れたんだろ、はは」  息子も同然の僕の意識がなくなって、そんな風に笑えるのなんて、僕は叔父さんしか知らない。 「慣れないことって……。ああ、そうか。僕は牧野を抱えたまま……そうだ、牧野は!?」  今度は腕を曲げないように気をつけながら起き上がった。叔父さんと目が合う前に、伸ばされた髭に目が行く。不潔に見えるからしっかり剃れと普段から言ってるのにこの人は、全く。それでいて妙にキマっているからなおさら腹が立つ。 「おいおい、無茶するんじゃねえよ」 「僕が倒れた時、一緒に女の子がいたろ? 知らない? 叔父さん」 「聞いたよ。なんだ、武勇伝か何かか? それに抱えたままって、お前女の子一人支えられずに押しつぶされてたって話題になってるぜ。はっ、情けねえなあ」 「そ、そんなことどうでもいいんだよ! 無事かどうか聞いてるんだ!」 「それが育ての親に対しての言葉遣いか? ったく、誰に似たんだか……」  叔父さんは僕の意図が分かっているだろうに、もったいつけるようにわざとらしく肩をすくめてみせる。 「……あの子なら、うちの外科へ搬送されてきたぜ。お前よりも早く目を覚まして、今日家に帰っていったところだよ」 そうか……良かった。本当に良かった。僕のしたことは、無駄ではなかったのだ。 「何か、言ってた?」 「……」  叔父さんは何も答えない。今回ばかりは悪ふざけじゃなさそうだ。 「俺ぁ担当医じゃないからな。正直、あの子をよく知らん。だからよく分からんと言うしかない。まあ、色々言ってたぜ。面識もほとんどない俺にまでしっかり頭を下げて行ったよ。今時珍しい、礼儀正しい子だな」 「ええと、じゃあ、誰か事情を知ってる人は残ってないの?」 「今日はちょうど冬川の奴が宿直だぜ。歩けるなら行って来い。ま、ここ三日連続だけどな」 「そっか、分かった……って三日連続? 冬川さんなんか悪いことでもしたの?」  叔父さんは露骨に眉をしかめて馬鹿野郎、と僕の頭を小突いた。 「自分から願い出たんだ。お前が目覚めるまで待ってるって、そう言ってたぞ。あいつは。お前ら、仲が良いとは思ってたが。随分心配してたぜ、あいつは」  それを聞いて、僕はすぐにでも彼の元に行こうとしたが、叔父さんに点滴が終わるまでは待て、と止められてしまった。 「点滴くらい、自分で抜けんだろ。俺は帰るわ。ここ数日、働きっぱなしなんだ……。じゃあな、浩輝。ああ、そうだ。俺の車の修理代は、小遣いからさっぴくからな」  ぐ、それは痛い。やはりあの日乱暴な運転をしたからだろうか。車の修理代なんて検討もつかないけど、いくらになるんだろう……。  僕はそれ以上考えないようにして、枕元にあったスマホを手に取った。充電が切れてしまっていたのか、電源はついていなかった。  充電コードにしっかりと差して待つこと数分。見慣れたデフォルメされた熊の待ち受け画面が表示される。待ち受け画面が熊なのについては別に大した理由はない。ただなんとなく、ずっとこの画像を使っている。変えるのも面倒だしな。 「うわー、すげえ通知来てる」  スクロールするのも面倒なほど膨大な量のメッセージや着信が並んでいた。まあ、大きな地震から連絡がつかなければ心配もさせるか。 「牧野からは……何もない。……。えっ、何もない?」  心が動揺するのを感じる。だって、僕としては決死の思いで助けに行って未来を犠牲にしてでもその命を救ったつもりだ。その彼女から、何の連絡もないなんて……。  もしかしたら、彼女はまだそんな状況にないのかも……いや、それはないな。叔父さんも牧野はちゃんと退院して帰っていったって言ってたし。 となると……。もしかして、あの時彼女は本当に意識なんてなくてまだ怒っているままなのだろうか。にわかに不安になってきた。 いや、あのゲームの真相を知らないのはいい。そんなものは知らなくていい。だけど、怒らせたままというのがまずい。  僕はとっとと点滴の針を抜いて、即座に駆け出そうとして……すっころんでしまった。三日間寝たきりだったのなら、体もなまっているか、そりゃ。 反省を踏まえて僕は足元のナイトライトが光っているだけの廊下をゆっくりと歩いた。病院という場所は実にバリアフリーな場所で、僕はありがたく思った。 「冬川さん……」  そして、宿直室へたどりついた頃には数日間眠っていたせいか、僕はすっかりヘトヘトになっていた。冬川さんは僕の顔を見るや否や慌てて椅子を用意してくれた。 「浩輝、もう大丈夫なのか」 「ええ。さっき起きたばかりですけどね。ご心配をおかけしました。なんでも僕のことを心配して残ってくださっていたとか」 「それだけじゃないけどな。あの地震の被災者はまあ少なくなくてな。うちは精神科以外も入ってるから大忙しだったよ」 「まあ、知ってますよ。自分の叔父の病院ですから」 「ああ……そりゃそうか」 やっぱりこの人、どこか抜けているな。だが僕はむしろそのいつもどおりの対処に少し落ち着いた。依然のように酔っ払っていたらどうしようかと思ったのだ。 「それで、牧野ですけど」 「うん……それなんだがな、すまなかった」  振り向き様に、冬川さんは僕に向かって頭を下げる。突然のことに僕は思わず座ったまま飛び跳ねてしまった。 「もしかして、あいつ……」 「ん、ああいや。そうじゃない。この間のことだ。その、あー、俺も酔っててな。よく覚えてないんだが。その、殴ったらしいじゃないか。お前のことを」 「蹴りもいただきましたね」 「すまなかった!」  直前まで叔父さんと話していたせいか、少し意地悪な物言いになってしまった。なんにしろ、年長者に頭を下げられたままというのも落ち着かない。 「いいんです、酒のせいじゃないですか。それに、僕にも非がありましたし、仕方ありませんよ」  そうあっさり許せてしまったことに、僕自身が少し驚いた。彼もまた、僕の大嫌いな痛みの使徒であるはずなのに……。ちっとも憎いなんて感情は湧いてこなかった。  なぜかと問われれば、それはきっと彼が本気だったからだ。僕に痛みを与えるのが目的ではなく、言葉では伝わらない何かを紡ぐためにそうしたのだと直感で分かっていたからだと思う。  実際、いいキッカケだった。彼との問答がなければ、僕はきっと牧野を見捨ててしまっていた。僕の中にあった気持ちに向き合わなければ、あの時僕は動けやしなかっただろうから。 「そうか……相変わらず、懐が広いんだな。お前は」 「そんなことないですよ。僕なんてちっぽけなもんだって、痛感させられる日々ですよ」  そう、どんなに大人ぶっていても、僕はまだまだ周りの見えていない子供のままなのだ。歳を取るだけで大人になっていけるなら、どれだけ良かったか。 「それより、牧野です。冬川さん、あいつは大丈夫だったんですか?」 「彼女なら……検診を受けて帰っていったぞ?」 「検診? 治療じゃなかったんですか?」 「あいつはどこにも怪我なんてしていなかったし、意識もしっかりしていたからな。とは言っても崩落した建物の中で気絶していたって言うんだから、最低限の検査は受けさせたんだ」 「そう、ですか……元気だったんですね」  だったらなおさら、どうして僕に連絡をくれないのだろう。この際だ、僕に引け目を感じているらしい冬川さんの弱みに付け込んでみよう。 「牧野は何か言ってませんでしたか? その、僕がどうだとか、今どんな気持ちだとか」 「えー、ううん……。いくらお前と言っても患者のプライバシーはな……」 「あいた、あいたたた。お腹が痛い! 冬川さんに蹴られた場所が特に痛い!」 「分かった、分かったから……すまなかったよ。じゃあ、一つだけ答えてやろう」  冬川さんは困ったような表情を作りながら、どこか笑みを含ませて言った。 「私は今、最高の不幸せと最低の幸せにいます、だってよ」 「……それだけ、ですか?」 「全部言っちまったらつまら、おっと、プライバシーの侵害だろ。とにかく無事だ。お前のことも心配してたぞ。なんせ自分を庇った奴が倒れたなんて聞いたら、そりゃそうだろうけどな」  庇った……庇ったことになるのだろうか。僕は少しだけ首をかしげた。 「ん? 違ったか? お前が崩れた床に埋まってた桃子を助けてグラウンドまで運んだって聞いているが……。二人とも無傷でよかったよ。ま、桃子の重さで潰れたって話は笑ったがな」 そうか、そういう認識になるのか。それはまあなんというか、確かに非常に情けない話だ。 「さ、俺も仕事があるしお前も寝直せよな。その調子じゃ、しばらくは学校も行けないかもな」 「学校……あんな騒ぎがあったのに、ですか?」 「桃子が言うには、あんな騒ぎがあったからこそ、らしいぞ。詳しいことはお友達に聞くんだな」  冬川さんはそう言うと、僕を追い出そうとして、慌てて「支えはいるか?」と聞いていた。僕は思わず噴き出してしまい、取り繕うように遠慮した。 そうだな……恋塚なら、まだ起きているだろう。電話をかけてみよう。  『二』 「特別授業ねえ……」  僕は朝早くから起きて、だけどのそのそとわざとゆっくり制服に着替えていた。そして、恋塚に聞いた話を思い出す。 『オッサン、ニュース見てないの? 今学校は結構な騒ぎになってるんだぞ。耐久不足を無視した結果の失態ってさ。ま、死者もけが人も大して出てないからすぐに騒ぎは収まるだろうけどさ。旧校舎の取り壊しと本校舎の強度確認が終わるまでは休学だってさ。それで、非常事態の時こそ、平常でいないとかって、安室ちゃんが。来られる奴……っていうか、登校する気のある奴だけ集めて授業をするらしいぞ。あくまで自主学習って形でさ。学校では無理だから、川原の近くの市民館で授業をやるんだとさ』  これが、結構参加者が多いらしい。それだけ、この事態を不安に思ってる人が多いってことだ。  だが、元々普通を求めて学校にやってきた僕のことだ。普通どおりに授業をやるなら出て行くまでだ。まあ、あれだけの能力の行使をしたのだから、僕自身へのダメージも大きかった。体力を取り戻すのに随分かかってしまったが、行かないわけにはいかない。というのも。 『オッサンは絶対顔を見せに来いってさ。安室ちゃん、全然来てくれないって泣きそうになってたぜ』 とのことである。休学中には大量の課題が出されたらしいし、少し早い夏休みのようなものだ。だったらまあ、課題が終わるくらいまでは登校しよう、という生徒も多いらしい。  だから、僕は別に授業自体が嫌でノロノロと着替えているわけじゃない。当然ながら、頭に引っかかっているのは牧野のことだ。 「あいつが来てるかどうか、聞いておけばよかったな……」  意外にも、と言っては失礼だが、恋塚はその青空教室に毎日通っているらしい。つくづく、人は見た目によらないなと思った。いや、僕が勝手に不真面目なレッテルを貼り付けていただけなのだが。  だが、牧野の登校についてはついに触れることはできなかった。何か、彼女のことを気にしているそぶりを見せるのが急に恥ずかしくなったのだ。その理由についても、悩みの種の一つだ。 「課題に悪魔探しに人間関係……学生ってのは大変だねえ」  いや、中の一つはごく個人的な問題だった。  しかし、悪魔探しか……。それはもはや、考えるべきことではないかもしれない。だって僕はもう死を決めた人間だ。牧野の治療をできなければ共に死んでやると、口の上だけだろうとそう約束したのだ。 「……半年後に絶対死ぬ、か。まあ……仕方ないよな。僕がそれを選んだんだから。でも、この半年間……無駄にはしない。それまでに、絶対牧野を……」  僕はこの休んでいた数週間で、これからの方針を決めていた。ミネルカの提示してきた転生ゲームのことは無視して、牧野の本格的な治療を同時にしてしまおうと考えた。不幸中の幸いというべきか、僕は寿命を半年と定められた代わりに僕の超能力を強化されている。今の僕なら、牧野を治療できるんじゃないか。そう思ったのだ。最悪、僕の命などどうなってもいい。あのときミネルカを呼んだ瞬間、いや、もっと言えば牧野の自殺を止めた際に捨てた命だ。惜しくは……ない。  そんなことを考えているうちに、僕は駅まで来ていた。習慣とは怖いものだ。ここまで来て引き下がるわけにはいかない。僕は一人こっそり気合を入れて電車に乗った。  車窓に映る景色には、思ったより変化はなかった。時々木が倒れていたり、小さな小屋が倒壊している程度か。地震の規模に反して、被害は少ないように思える。学校の旧校舎は本当に不運だったというか、確かに耐久度不足にあったのだろう。  そうこう考えているうちに、目的の駅に着いた。人の流れを見ていると、同じ制服を着た生徒を何人か見つけた。あの子たちに着いていくとしよう。 僕はスマホで地図アプリを立ち上げるのも一苦労な、アナログ派なのだ。  そこはこの辺りでは珍しい、浅くはあるが底まで見通せる綺麗な川だった。川辺には大小様々な石が転がり、その奥に小さなプレハブ造りの建物が見える。こういってはなんだが、思っていたよりオンボロな印象を受ける。 「よっ、オッサン。久しぶりじゃん」  どん、と背中に衝撃を受けた。振り返ってみると、そこにいたのはいつものようにニヤニヤと笑っている恋塚だった。 「ああ、久しぶり。地震、大丈夫だったか?」 「それはこっちの台詞っつー。オッサン、最近ちょっとした話題だぜ」 「お、何だ何だ、僕の武勇伝でも語り継がれてるみたいな?」 「おう。果敢に崩落した旧校舎に飛び込んでいって……無傷のまま生還したってさ」 それは、なんというか、ちょっとくすぐったいな。そう笑おうとした。 「そんで、女の子一人抱えきれず重さに潰されたっつって。ははは」  笑えない。ちっとも笑えなかった。僕の憮然とした顔が面白かったのか、恋塚はまた大きな笑い声を上げた。 「まあ、良かったじゃん。結局二人とも無事だったわけだし。学校も工事終わればすぐ戻れるって話だしな」 「まあなー……。思ったより、来てる奴多いんだな」  見れば、建物の前にはもう数十人の生徒が入っているのが見えた。普段の登校時間よりはずっと少ないが、自主参加の授業でこの数は望外のものだろう。 「最初よりは減ったけどな。あの地震騒動で家ごと避難した奴もいるらしいしな。それに、そんな無責任な学校に大事な子供を任せられるか! って突き上げ食らってるとかなんとか」 「分からない話じゃないけどな。子供のためを思うなら、どっちがいいのかねえ」  そんなことを、子供二人で話してることがなんだかおかしくて、僕らは互いに笑いあった。「オッサン相手だと、どの立場から言ってるのか分からなくなるわ」と、恋塚はまた笑っていた。 「なあ、それで恋塚……その、あいつは来てるか?」  なるべく平静を保って、僕は問いかけた。そのせいか、なんだか漠然とした質問になってしまった。 「あいつって?」 案の定、恋塚は首をかしげている。 「だから、牧野、だよ」 なんだ、なんなんだこの気持ちは。声に出すだけでなんだか妙に気恥ずかしい。 「ああ、あいつ。今のところ毎日出席してるみたいだぞ」 「! そうか、来てるのか……」  一瞬、喜びの感情が湧き上がるが、すぐに大きな不安に覆い隠されてしまった。 「その、様子はどうだった?」 「そう言われてもな……俺は直接話すわけじゃねえからな。なんか誰かと楽しそうに喋ってるのを見かけた程度だぞ。ま、気になるか。自分が助けた奴のことだもんな。オッサン前からあいつ推してたみたいだし」 「そう、そうなんだ。やっぱあれだけ頑張ったのに怪我してました、じゃ落ち着かないからさ」  なんだか、言い訳くさくなってしまった。なんだか、言葉を放つ度にアホの子になっていくような気もする。 「そんなに気になるなら、直で訊いたらいいじゃん。オッサン、仲いいんだろ。ほら、あそこ」  恋塚はテントの方を指差す。それにつられて見てみると、即座に牧野の姿を見つけることに成功した。いや、これは違う。あいつは金髪だから目立つんだ、と誰にするでもない言い訳を心の中でこぼした。 「美人姉妹って感じだよなー」 「え、姉妹?」 「言っただろ、最近よく一緒にいる奴がいるって。横の黒髪がそうだよ」  よくよく見てみれば、確かに誰かと一緒に歩いている様子だった。ただ、その様子は普通じゃない。牧野は車椅子に乗っていて、その誰かにそれを押してもらっているようだった。車椅子自体は、過去にもあったことだ。痛みのひどくなる時期が牧野にはあって、その時は叔父さんの病院から車椅子をレンタルすることがあったのだ。  今は体の調子があまりよくないのだろうか。いや、そういえば、「車椅子に乗ってるとみんな優しくしてくれるんだー」なんて言っていたのを思い出す。きっと今回も、そんな理由からだろう。  それより、まず目についたのは後ろにいる女の子の妙に長い髪の毛だった。腰の辺りまで伸びた黒髪はやや青みを帯びていて、柔らかい日差しによく映えている。遠くて顔の細部までは分からなかったが、牧野より頭一つ背の低い少女は牧野の話にじっくりと耳を傾けているようだった。 「あんな子、クラスにいたっけ?」 「さあ……別のクラスの奴なんじゃね? 木崎も言ってたよ。知らない女が牧野に付きまとってるって。でもありゃ普通に友達だな」 「木崎さんか……。木崎さんとはよく話すのか?」 「よくってほどじゃねえけど、まあ。一方的に向こうが話しかけてくるだけだな」  恋塚が特定の女子と仲良くするのは、少なくとも知り合ってから一度もないことだった。 そういえば、地震の時、木崎さんに僕の電話番号を教えたのも恋塚だったな。 「木崎さんもよく分かんない人なんだけどな」 「そうか? 結構分かりやすい奴だと思うけどな」  ふうん、そうなのか。また機会があれば喋りかけてみるとしよう。でも、また宮代先輩のグループに近づくことになると面倒だな。 「ほら、行こう行こう。こんなとこで立ち止まっててもしゃあねえよ。俺早く課題終わらせたいんだよね」 「課題、そっか。みんな課題をやりに来てるんだもんな」 「それも忘れてたって、オッサン、なんか今日変だぞ。いや、変なのはいつも通りだけど」 「どういう意味だよ」 「そのまんまさ。なんか、悩み事でもあんの? 誰かに聞いてもらったら?」 「ああ、恋塚が聞いてくれるわけじゃないんだ……」 「俺はそういうのパスパス。何も言えねえもん」  まあ、恋塚は見るからにそんな感じだな。 だが、強引に僕を引っ張って牧野の元へ連れて行く力強さは彼の長所であると思った。 「ほら、行ってこいよ。ウジウジしやがって、鬱陶しい」 「分かった、分かったから引っ張るな。話してくるからさ」  僕はざっざ、と砂利を踏みつけながら歩いていく。それが僕にできる精一杯の勇気だった。せめて、向こうから僕に気付いてくれないかと。 だが、二人は実に会話に夢中であるようで、目の前に立った僕に気付く様子もない。  この距離で見ればなるほど、華やかな二人だった。鮮やかな金髪と太陽に透けそうな黒髪が並んでいるだけで綺麗なものなのに、両者とも顔立ちが日本人離れしていて、何かに造られたんじゃないかと思うほど整っている。  そんな二人に話しかけようとしているのが周囲に伝わったのか、やや視線が集まるのを感じた。 「あー、ごほん。牧野」 「あっ……お、大島さん」  牧野の表情はまるで悪戯が見つかった子供のようなものだった。その顔をなんだか直視できなくて、僕はとぽとぽと音を奏でる清流に視線を移して牧野の言葉を待った。 「大島さんも、目が覚めたんだね。冬川さんに聞いた」 「そっか。おかげさまで、でもないか。あれ、何言ってるんだろ。はは」  うまく言葉が出てこない。そんな様子を訝しんだのか、牧野が僕の目線の先に飛び込んできて、僕は息を飲んでその美貌に魅入られた。  なんだ、本当に僕はどうしたっていうんだ。こんな顔、もう何年も見てきた。距離感だって普通の友達よりずっと近かったはずだ。それがどうして、こんなに鼓動が落ち着かないんだ! 「大島さん、まだどこか痛むの? 熱もありそう。顔赤いよ」  牧野がそっと僕の額に手を伸ばす。反射的にそれを避けそうになって……以前の反省を思い出し、素直に受け入れた。少しひんやりとした、柔らかな感触。ああ、女の子の手ってどうしてこうもマシュマロのようなんだろう。  そして流れてくる彼女の痛み。地震の日に死にそうな思いをしてその傷を治したというのに、未だ彼女は痛みの中にいた。 いや、でも少し何かが違う。普段より柔らかいような、チクチクと節々が痛む程度のものだということに気がついた。これは、ミネルカの言った痛みの許容量の増加とやらのおかげだろうか。それとも単純に牧野の病状が改善しているのか、もしくはその両方か。 「やっぱ、熱い。まだ調子悪いの?」 「いや、大丈夫。大丈夫だから! ほら、今日はちょっと暑いだろ。そろそろ夏服に替えようかなって、うん、それだけだよ」  それより、と僕はそっと彼女の手を額から外した。急上昇した心拍を悟られたくなかったからだ。 「牧野の方は調子良さそうだね。顔色もいいし」 「車椅子に乗ってるの見て、そう言うのも大島さんくらいだよね。でもま、えへへ、そうなんだよね。地震の後ぐっすり休んだからかな。あれ以来ちょっと元気なんだ。大島さんのおかげだね」  僕はドキリとした。やはり、もしかしてあの時、大きく痛みを吸い取ったことがバレたのか、と心配になった。 「よく覚えてないけど、私を助けてくれたんでしょ。安室先生がそう言ってたよ。崩れそうな旧校舎の中を走り回って見つけ出してくれたって。あは、命の恩人だね」  言われて、ホッとした。どうやら僕とミネルカの会話は聞かれていなかったらしい。もしも聞かれていたら恥ずかしいどころじゃない。それを理由に牧野に重荷を背負わせることになったらどうしようかと思っていたのだ。 「ま、たまたまだよ。牧野の運が良かったんだな」 「照れるなよー。私、大島さんとあの日会ったことだけは覚えてるの。あの必死な顔、ずっと覚えとくかんね。とにかく、本当に感謝してるんだから。ありがとね、大島さん」  その笑顔を見て、照れているのはどっちだ、と言いたくなった。だがそれよりもはにかんだようなその表情が可愛らしくて、僕は眩しい思いだった。  ああ、認めよう。改めて認めよう。僕は牧野が好きだ。この歳になってまで惚れていないなんて強がりを言うつもりはない。素直に大好きだ。  そして、改めて決意した。絶対に彼女の未来は僕が守ろうと。彼女がいつまでもこの笑顔を浮かべていられるよう、力の限りを尽くそうと。  今までのように漠然と、自分に特別な力があるから助けたい、なんて理由ではない。彼女の特別になるためだ。この最期の半年間を、そのために捧げよう。  僕はなるべく自然に見えるように、右手を差し出した。握手の構えだ。 「牧野、いろいろゴタゴタがあったけどさ。これだけはちゃんと言いたかったんだ。牧野のこと、僕ちゃんと見てなかった。下手なことを言って、悪かった。ごめん」 「それって……」 「地震よりもっと前の日、僕、お前を怒らせたろ? 僕は痛みは嫌いだけど、牧野のことを嫌ってるわけじゃない。その、むしろ…。とにかく、あれに関してはちゃんと謝りたかったんだ。どうか、許してほしい」 「そんなの! 私こそ、だよ……。勝手にヒステリー起こして、ごめん」 「いいんだ、牧野からはもう謝ってくれたからさ」 「あれ、そうだっけ……?」 「うん、そうなんだ」  あの日、死に瀕してなお、それが最期の言葉になるかもしれないというのに、彼女は僕へ謝罪してくれた。そうそうできることじゃないと思う。 「じゃあ、仲直り? しとく?」  きゅっと、僕の手を握り返してくれる牧野。僕はもうこの感触を、嫌がったりはしない。彼女の抱える痛みごと、好きになったのだから。 「ん。桃子。私、置いてけぼり」  そこで僕は牧野の隣にいた少女の存在を思い出した。いけない、牧野に夢中になっててすっかり忘れていた。 「わあ! そうだった! ごめんね、エル」 「エル? この子、友達になったのか?」 「そう、大島さんは初めてだよね。この子はエル。ロシアの生まれなんだって!」 「ん。よろしく」  ぺこり、と頭を下げる少女、エル。この学校は確かに国内でも有名なため、様々な場所から人が集まるが……外国人留学生までいたとは驚いた。 「よろしく……ええと、エルさん、でいいのかな?」 「エルでいい。良き友はそう呼ぶ」 「日本語うまいんだね。牧野もそうだけど、日本の生まれなのかな」 「ん。そう。ロシア人だけど、ロシア語は話せない。ごめん」 「謝るようなことじゃないと思うけど……そうなんだ」 「よく、期待される。そして。失望される」  まあ、元々の喋りがそう流暢な方じゃなさそうだし、日本語を勉強中の外国人に見えるしな。周囲のそういった反応は仕方ないのかもしれない。 「エルはね、私がいじめられてた時に助けてくれたんだ。それから仲良しなんだよ」 「いじめ、って大事じゃないか!」 「大丈夫。桃子にはもう手を出せないようにした」  ずいぶん物騒なことを言う子だ。牧野もそう思ったのか、「言い方考えて」とエルの脇腹をつついていた。 「ん……。叱っておいた。から、もう大丈夫」 「そ、そうか。それはなんというか、ありがとう」  蛇が出るとわかっているのにわざわざ藪をつつくことはないだろう。しかし、牧野にこうして話せる友達ができたというのは嬉しいことだ。 「こんなのだけど、いい奴だからさ。末永く仲良くしてやってくれよな」 「ちょっと、こんなのって」 「ん。わかった」 「エル!?」  そんなやりとりに、笑いがこぼれた。エルの表情は硬いままだが、まあそういう人なんだろう。怒っているような雰囲気はない。 しかし、なんだろう。エルとは初対面のはずなのに、どこかで見たような既視感があった。 「エル、僕ら、どこかで出会ったことはないか? なんか見覚えがあるんだよな」 「うそっ、何そのベタベタなナンパ! 大島さん、どうしちゃったの?」 「ち、違う! そういうわけじゃない。本当に前に会ったような気がするんだよ」 「……学校のどこかで、大島浩輝を見かけたかもしれない」 「ああ、そういうわけか……。あれ、僕名乗ったっけ?」 「私が! 教えたの。困った時は大島って人を頼るといいよって」  なんだか牧野が必死な顔をして僕らの会話を遮った。 ああ、そういうことか。しかし、そう丸投げされても僕にできることなんて限られてるんだけどな。 「大島浩輝は……」 「フルネームで呼ばなくてもいいよ、別に。敬称もいらないぜ。同じ一年だろ?」 「浩輝は」 っと、下の名前で来るとは思わなかった。そんなところに僕は文化の違いを感じる。 「私のこと。変に見える?」 「いや、別に。普通の女の子に見えるよ。それに綺麗な髪だ。悪かったな、変な質問をして」 「髪……ん。別に。かまわない」 手ぐしで髪をとく様子になんだか微笑ましい気持ちが生まれた。 「よろしく」  そう言って、エルは右手を差し出してきた。握手か、苦手なんだが……せっかく牧野にできた友達だ。大事にしなければな。 「ああ、よろしくな」 そして触れて、僕はやがて流れ込んでくる痛みに備えた……が、なんの異変もなかった。  こんなこともないわけじゃない。誰も彼もが強い痛みを抱えながら生きてるわけじゃないからな。だが、ここまで何も感じないというのは逆に妙だ。それはつまり、全身の感覚が麻痺しているようなものだからだ。これは一体……。 「じゃ、とりあえず授業だね」  そんな牧野の言葉で、僕はハッと我に返る。 「課題やるだけなんだろ?」 「でも、安室先生の色んな話が聞けて、面白いよ。普段の授業よりも」 「普段からちゃんと授業聞いてやれよ……」  何はともあれ、久しぶりの授業だ。リハビリ代わりにはちょうどいいかもしれない。 それから授業が始まって、そこでは学年も関係ないのかなんと宮代先輩の姿もあった、だが結局平井先輩は現れなかった。  『三』  そんな毎日が続いて、季節は秋を迎えた。学校は復旧の見通しが立ったとのことだが、依然として僕らは仮校舎に通っていた。絶対の安心を得るまでは、ということらしい。 その間、僕は隙あらば牧野に触れてきた。別に嫌らしい意味ではない。ミネルカによって強化された今の僕の超能力なら、牧野の痛みを吸い取りきれるかと思ったのだ。  だがダメだった。いくら痛みを吸い取っても、やはり牧野の痛みは無尽蔵であまりに大きすぎるものだった。  そんな徒労感から、僕は一人で仮校舎の後ろを流れる川を眺めてぼんやりと座っていた。 「命を賭けて得たものがこれか……パッとしない話だな」 「命って、もしかして転生させる天使の話か?」  急に後ろから話しかけられて、ビクリと体が飛び上がった。慌てて振り返ると、そこには平井先輩の姿があった。 「平井先輩……どうも、お久しぶりです」 「いいよ、敬語は。聞いた話だと、お前俺たちより年上なんだろ? むしろ俺が敬語使わないと、か?」 「やめてくださいよ、むずがゆい」  平井先輩は僕の隣に座り込み、夕暮れの空に視線を移す。仮校舎の裏手で、男二人並んで川を眺めながら黄昏るというおかしな形になった。 「聞いたよ。あの地震の日のヒーローだって話」 「先輩までですか? もう勘弁してくださいよ」  あくまで敬語で話す僕。だって、単純に僕は一年生で彼は二年生だ。年上だからといきがるつもりはない。 「すげえよな……俺も、そんなヒーローになりたかったよ」 「……それで、ケンカを売ってまわってたんですか?」  僕の言葉に、平井先輩は乾いた笑いをこぼす。 「そうだよ。そうだった……。今まではな。でも、ほら、お前の喫煙裁判の件があったろ。あの時、佐々木先生に言われて……。ああ、俺は戦い方を間違えてたんだなって気付いたんだ」 「……結局、先輩はなんのためにあんなことを?」 「妹がいたんだ。臆病で、大人しくて、俺の両親もロクでもない奴でさ。だから俺が守らなきゃって思ってた。それで思いついたのが、誰よりも強くなれればって馬鹿な話だったよ。でも、あの件で俺は本当の強さってものが何なのか分かった気がするんだ。だから、いつかその礼を言わなきゃって思ってた」  だからありがとう、と平井先輩は僕に頭を下げる。僕は慌ててしまってその頭を押し上げた。 「それは、先輩自身が見つけた答えです。僕は何もしていません」 「それでもさ……お前が助けてくれたからこそ気付けたと思ってな。ごめんな、あの時は。宮代には逆らえなかった……」  言いたいことはそれだけだ、と平井先輩は腰を上げる。案外、その謝罪をしにきたのかもしれない。なんとも、真面目な人だと思った。 「俺もいつか、俺のために戦ってくれたお前みたいになれるよう、頑張るよ」 「ええ。妹さんのためにも」  最後は照れくさそうに鼻の下をかいて。平井先輩は去っていった。もうその背後に、悪魔の影は見えなかった。  はっ……誰かのために、ね。そんなこと、考えたこともなかった。僕がするのはいつだって僕のわがままだ。痛みの使徒という人生における敵がいるから、傍からはそう見えるかもしれないけど、言ってしまえば自己満足以外の何者でもない。 「この力だって……。結局、誰のためにもなれてない」  少なくとも昔は違ったはずだ。手当たり次第に誰かの傷を治してみせて、ありがとうと言われて満足していたあの頃は。だけど今は、たった一人の女の子のために全力を注いで、それでも何もできてやしない。  自嘲をかみ殺すようにタバコをくわえて火を灯した。授業時間中は吸うことができないため、その一服の美味しさったらない。 「……大島浩輝」  この平坦な声は、エルか。人目を避けて建物の裏手にまで回ってきたというのに、今日は千客万来だな。 さりげなく、を意識してタバコを隠すが、煙から何まではみ出ていた。僕は観念して両手を挙げる。 「悪い、見逃してくれ。もう放課後だし、僕は成人だ。無実なんだ」 「ん。でも。タバコは体によくない」 「体に悪いものほど美味しいってことも、あると思うんだよねえ」  どうやらエルは校則違反者を通報するつもりはないらしい。僕は安心してタバコを口にくわえなおす。その拍子にいくつかの灰がこぼれて川のほうへ流れていった。  それを待たずして、エルは口を開く。 「話をしにきた」 「……お前から話なんて、珍しいな」  知り合いとは言え、あくまでエルは牧野の友達であり、僕のそれではない。だから授業の合間もあまり話す機会などはなかったはずだが……。 「桃子が最近、不思議がってる。大島浩輝に触れていると痛みが薄れていくと」 「フルネームで呼ばなくていいって言ったろ? 牧野がねえ……。それじゃ、エルは病気のことも?」 「ん。聞いてる」  そうか……そうか。牧野にもそういうことを話せる友達ができたのか。 「……能力の行使は。抑えたほうがいい。桃子の容態も決して良くはなっていない。きっとあくまで一時的なもの。あなたの心が磨り減っていくばかり」  ドキリと心臓が跳ねる。だが、僕は学習する男だ。さきほどのように体ごと飛び上がったりはしない。 「……」  飛び上がったりはしないが。どう言葉を返せばいいのか、分からなかった。しかし、そこでピンとくる。 「もしかして、エルもあのゲームの参加者なのか? 話を聞けば、妙な力で牧野をイジメから助けてくれたとかなんとか……」 「ん……そんなところ。超能力というものも。知ってる」  これは、思わぬところで出くわしたものだ。 「おおし……浩輝に、他人の傷を自分に移して治す力があること。タイムリミットがあることも。知ってる」 「なんだって!? そんなことまで……?」  僕はミネルカのゲームの他の参加者なんて知らない。知ろうともしなかった。だが、知らなかったからこそ、その可能性を信じてしまった。僕の状況を知る機会があったのだろうか、と。 「……あなたは、あと数ヶ月で死ぬ」 「……ああ、そうだよ」 「それは、桃子のため?」 「……ああ」  エルの目はあまりにまっすぐで。僕にはごまかすことができなかった。神の像を目の前にしているかのような、嘘を吐いてはいけない空気を感じたのだ。 だが、エルは言う。 「それは嘘。人間は、自分のためにしか力を使わない」 「そこまでお見通しか……。まあ、そうだな。ひいては自分のためさ。あの子を助けたいっていう僕のワガママを通すためさ」  その時、僅かにエルの頬がほころんだ気がした。 「そう。それを聞いたら。満足」  エルの用件は本当にそれだけだったのか、くるりと踵を返して歩いていく。夕日に向かって遠のいていく姿はまるでシルエットのようで。  僕はその背に、大きな翼のようなものを見た気がして、思わずエルを引き止めた。 「お前……もしかして、悪魔に、いや……」  だが、僕の言葉はそこで止めさせられた。それは、その場に現れた第三者によるものだった。 「大島さん……」 「……牧野」  最悪だ。最悪のタイミングの邂逅だった。どこまでだ、どこまで聞いていた、今の話を。 頭を急回転させて考えをめぐらせる。だが、答えは出るはずもなかった。カラカラと、車椅子のタイヤが石を踏む音が聞こえる。  とさっ、と牧野の体が僕の腕の中に落ちてきた。車椅子から飛び出すような形になった彼女を、僕は受け止める。当然、触れる肌も多くて僕の能力は発動してしまった。 「ほんとだ……。大島さんに触れていると、楽になるのは。そういうことだったんだね」 「違う、ただの偶然だよ」 「ダメだよ。大島さん、嘘は嫌いって言っていたもの」 「……」 「全部、私のせいだったんだ。大島さんが辛そうな顔をするのも、私の痛みが楽になるのも……全部、大島さんが請け負ってくれてたからなんだね」 「牧野、僕はそんなつもりじゃ」 「大島さん、言ってくれたよね。あの地震の日」  僕らの未来を大きく分けることになった、あの日。 「夢の続きを話してくれるって……。本当のことを教えてくれるって。じゃあ、今それを教えてよ」  すがるような口調に、僅かに濡れた声に、僕はもう観念した。元々、そう隠し通せるものじゃなかったのだ。 「浩輝の人生は残り少ない。なら、桃子も聞いておくべきだと思った」  そんなエルの声。確かにそうだ。僕らは死を共にした同志なのだから。全てを告げなければならない。 「……少し、長くなる」  牧野は僕を押し出すように、いや、車椅子に座りなおすためか、軽く押して僕から体を離した。 「牧野……転生って、信じるか?」 「……信じるよ、私は。そう言ったでしょ」 「僕は信じない……信じたくなかったよ。それしか希望がないなんて、思いたくなかった。でも僕はもう……」  もう自分の声すら遠く。川の清流の音にまぎれていってしまえ、と僕は悪あがきのように思った。  『――』 「大島さんはずるいよ。私には辛い時には辛いと言えなんて言っておきながら、自分ばっかり無茶して、黙り込んで」 「うん、ごめん」 「もう何回目だろうね。大島さんのごめんは」 「これで最後にするつもりさ」 「ほんとかなー……。ま、いいけど。さっきの話、本当なんだよね。大島さんには、何でも治す力があるって」 「正確に言うとそうじゃない……お前の病の根治にはつながらない。僕は、お前を、今のお前を、助ける手段が分からない。助けてくれ、牧野」 「ふふ、やっと言ってくれた。それも、私を助ける手伝いをしろなんてね」 「どうにかして、この力を使ってでも、君の病を治してやりたいんだ。冬が来てしまう前に。僕が遠くへ行ってしまう前に。もう半年も時間は残されてないんだ」 「じゃあ、こんなのはどう? 私たちもゲームをしようよ。大島さんが死ぬまでに私を治せたら勝ち。私は生きてあげる。できなかった時は、あの日の約束通りだ。大島さんには私を殺してもらう。大島さんも死んじゃうんだから、心中ってとこね。どう?」 「いいね、それ。僕次第じゃ、牧野は生きてくれるわけだ。いいじゃないか」 「でしょでしょ?」 「その頃には……もう冬か」 「うん、冬だね」 「……約束の時期だな」 「そうだね。でも、大島さんはよくやってくれたと思うよ」 「もう終わったみたいに言うなよ。最後にデカい花火打ち上げてやろうぜ?」 「うん。それで……」 「それで、僕らの青春を終えよう。二人で一緒に、終わりにしよう」 「一緒だよ?」 「ああ、一緒だ。ずっと一緒だよ。……死んだ後だって、一緒だよ」  僕と彼女は、そんな新たな約束をした。
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