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 『四』  少々、いや大分、厄介なことになった。エルの計らいのせいで、牧野に転生ゲームや僕の力のことがバレてしまった。さすがにあの状況では、ごまかせはしなかった。  それから、僕と牧野はじっくりと話し合った。これからのことについて。僕は一部を伏せつつも、自分の能力と、転生ゲームにより半年後死んでしまうことを告げた。さすがに牧野の死を逃れるために参加したとは言えなかった。だってそんなの、かっこ悪いだろ? そして、牧野の返答は既に決まっていた。彼女は、なら私が死ぬ時期と一緒だね、と笑った。  どうにもならないのか、と僕は訊いた。どうにもならないよ、と牧野は困ったような顔をした。それならせめて、全部試してからにしよう、と僕は提案した。最後まであがいてやろう、と。僕が牧野を殺すその時まで、待ってくれはしないかと。牧野は、しょうがないなあ、なんて言いながらうなずいてくれた。全く、自分の身体のことなのに。  そして、二人で決めたのだ。別れの前に、できる限りを尽くして、全てを終わりにしようと。  僕らはその日、心中の日程を決めたのだった。  僕は半年後、死を迎える。これは決定事項だ。あんな超常の存在のゲーム、覆せるとは思えない。ならば僕にできることは、できる限りの治療を牧野にして、彼女の希望を見つけることだ。やっぱり僕は、好きな人には幸せで居て欲しいから。 ……その幸せが本当に死にしかないのなら、僕の手でそれをもたらすのだ。 ――僕の死まで、あと三ヶ月。  季節はめぐり、いつの間にか残暑も消えて冷え込む日が多くなっていた。  僕らがまず始めたのは、医者探しだった。別に冬川さんがダメってわけじゃない。精神科でできることは全てやったのだから、改めて他の科を回ってみようという話だ。  牧野の抱える線維筋痛症には様々なアプローチから病状を改善しようとしている、所謂専門のスーパードクターが存在する。日本でも五人ほどしかいないが、それでも診てもらって損はないだろう。今までは牧野の気力がなかったために来訪することはなかったのだが。  彼女は人生のほとんどを病院に捧げている。それに、次の冬に死ぬと決めている彼女にとって、それは徒労以外の何物でもなかったことだろう。だけど、付き合ってくれた。  僕の治療ごっこのような旅行に、付き合ってくれた。僕らはとにかくあらゆることを試した。ほとんど何が書いてあるか分からない医学書も、冬川さんと共に読み込んだ。いくつもいくつも病院を巡った。そのほとんどでは、異常なしと答えられてしまったが。  そのためのお金は、僕の貯金をほぼ使い込むことになったが、有意義な使い道と言えるだろう。  世界中の線維筋痛症に関する事例も集めた。その中には、自殺によって病気が発覚したものもあった。とにかく症状も治療成功と言う例もあべこべで、まるで参考にはならなかった。だが、こんな手探りでも、未来に向かって頑張るというのは悪い気分じゃなかった。例えその未来が、死に繋がっていたとしても。 「牧野、この病院はどうだ? 最新鋭の医療器具がそろってるらしいぜ。お前の病気の治療に特化した病院だって」 「うーん……ちょっと遠いね。でも、大島さんが言うなら、行ってみるよ」  その信頼は重たくはあっても、嬉しくないわけがなかった。幸い、その病院は車を走らせて一時間ほど走った場所にあり、通院も苦にはならなかった程度の場所だった。 「……痛い。なに、あのマッサージ器。怖すぎたんだけど……」 「なんか、工事現場のドリルと同じ原理とか言ってたね。僕、あの音聞いてるだけで身震いが……」  二時間後、治療を終えた僕らはぐったりとしていた。赤外線がどうとか、このマッサージ器がどうだとか色々説明は受けたけれど、詳しくは分からなかった。とりあえず、今までしたことのないアプローチなのは確かだ。冬川さん曰く、そんな病院があることも知らなかったとのことだしな。 「身体の調子はどう?」 「触って確かめてみる?」  なんてね、と牧野は舌を出して上目遣いに僕を見る。わざわざ腰をかがめてそうするくらいだから、きっとわざとだ。 僕の能力を明かした後、牧野はしばしこういう態度を取るようになった。 「ああ、そうしようか」  僕はその冗談に乗っかって、わざといやらしい手つきで彼女の腕を撫でてみせた。もちろん、服越しなので痛みが伝わるわけもない。 「あっ……」  そのむき出しの手先にそっと手を重ねる。こうしてみると、身長こそ牧野の方が高いものの、手の大きさは僕の方が上だった。  僕をからかうそぶりは見せるくせに、実際に触れると彼女はなんとも言いがたい、申し訳なさそうな表情を浮かべるのだ。これはこれでやりづらい。 「……なんか、筋肉がちぎれちゃいそうな痛みだね。これって今まではなかったろ?」 「うんー……。強烈なマッサージを受けたからかな。揉み返しってやつかも」  普通のマッサージでも起こりうることだ。これも治療のためなら、仕方ないのかもしれない。だが、それよりもそんな痛みを受け入れてくれていることが僕は嬉しかった。 「えひひっ」 その時、牧野が妙な笑い声を上げた。 「どうした?」 「ううん。なーんでもない。いやあ、まさか私が今更治療に前向きになるなんて、って思ったの」  そういえば。牧野はもうすっかり治療は諦めて死を選んだはずだった。それを押しとどめたのが僕で、その牧野を諦めたのも、また僕だ。そして今度は、心中を決めた僕と牧野二人で新しい治療法を探しているなんて……。確かにちょっと笑える話かもしれない。 「人間、追い込まれないと必死になれないもんなんだな」 「ね。あと四ヶ月、ん、三ヶ月? 分かんないけど、そんなもんだもんね。死ぬくらいなら、死ぬ気でやったるわー! って思えちゃう」  帰りの運転中、牧野はいつまでもにやにやと僕の顔を見つめていた。気になって事故でも起こしたらどうするつもりなんだか。 「ねえ、大島さん。どっか連れてってよ」 「どっかって、どこだよ。もう結構な時間だぜ?」  そうは言ってもまだ六時かそこらではあるのだが。これから飯でも行くとしたら、帰りは随分遅くなってしまう。 「いーじゃん。たくさん病院巡りも頑張ったんだから。せっかく車椅子もあるしさ」  そう、牧野はもう車椅子で補助してやらなければ歩けないほどの痛みを抱えていた。牧野は気候のせいだよー、なんて軽い調子で言っていたが、直接痛みを吸い取っている僕にそのごまかしは通用しない。確実に牧野の病状は悪化していた。  しかし、だからこそ気分転換をしたいという牧野の言葉も分からないわけではない。病院に行っては寝て、また病院では気が滅入ることだろうしな。 「よし、今日は僕が奢ってやるよ」 「やったー! でも大島さん、お金持ってるの?」 「大人を馬鹿にすんな。バイト代くらいはもらってるさ」  それが空元気であることは、二人とも分かっていた。分かった上で、そんな茶番を続けている。それは決して悪い気分ではなかった。まるで何かの劇を演じているかのようで、心が躍った。 「何が食べたい? リクエストにはなんでも応えてやるよ」 「んー。それじゃあね、私……お酒が飲みたい」 おっと、それは予想外だった。 「だって私、成人を待たずに死んじゃうんだもん。最期にお酒くらい飲んでみたいよ」 「……そんな欲があるなら、成人まで生きてみりゃいいじゃないか」 「でもその時には、もう大島さんはいないんでしょ? それじゃ、意味がないよ」 ……。僕は何も言えなくなってしまった。それに、彼女の言うことならなんでも叶えてあげたいという気持ちは本当だ。 「この不良め」 「大島さんのせいだかんね。一回くらい私も悪いことしてみたっていいでしょ?」  まあ……僕の部屋で飲み過ぎないように注意していれば別にそれくらいはいいかな。彼女の言うとおり、僕らにはもう時間がないのだから。  車を無理矢理右折レーンに走らせ、僕は病院に向かって走り始めた。 「途中で酒屋にでも寄るか……好きなもの買って良いぞ」 「やたっ! 大島さん、話が分かるね」 「みんなには内緒だぜ? あと、遅くなるって親御さんにちゃんと言うこと」  僕の言葉に、牧野は若干顔を歪ませた。 「別に何も言われないと思うよ。あの人、私のこと爆弾か何かだと思ってるから。外泊したって、怒られないよ」  親をあの人だなんて呼ぶ彼女の気持ちは、全く分からなかった。そこで、そもそも僕には親がいた記憶がほとんどないことを思い出し、考えるのをやめた。 「何が美味しいのかも分かんないし、大島さん適当に見繕ってよ」 「僕、酒には強いんだよね。知識面じゃなくて肝臓的な意味で。女の子でも飲めそうなものかあ……」 「おっと、馬鹿にするんじゃないよ。私、学校のアルコール検査では酒に強いって出たんだから」  むん、と胸を張る牧野に僕は苦笑して、ノンアルコールからちょっと刺激の強いものまでそろえてみよう、と密かに思った。 「わー、すご。酒、酒だっ!」 「そんなアル中みたいな反応すんなよな」  結局、酒を選んでいる間に一時間は経ってしまった。そして、自室にたどり着いたのが午後八時。今から飲み始めるとなると、終電には注意しないとな。飲んでしまったら運転もできないし。  牧野はそんな僕の心配を知ってか知らずか立ち並んだ酒の缶を見てほえー、と息を吐いていた。 「ね、ね。どれが美味しいの?」 「まずはチューハイだろ。ジュースみたいなもんだけどな」 「えー、もっとこう、ガツン! ってくる奴でもいいんだよ?」 「だめだめ。危ないから。もっと飲めそうならガツンとやってやるよ」  二人きりだというのに騒がしい中、乾杯の音頭が取られた。カシュ、とプルタブを開けるだけで牧野のテンションは最高潮に達していた。  僕もつられるように大きな一口でビールを飲み込んだ。ああ、この最初の心地よさはタバコに通ずるものがあるな。 「ねえ、ゲームしよう。ゲーム。前からやりたかったワードゲームがあるんだ」 「へえ、アナログゲームか。それなら僕にもできそうだ」 「大島さん、オッサンだもんね?」 「うるさいな、早くルールを教えろよ」  そう催促すると、牧野はまた一口酒を飲みながら言葉を続けた。 「互いに、似たような、でもちょっと違うワードを持つの。で、それを先に言い当てられたほうの負け!」 「……それ、僕でも知ってるぞ。本来もっと大人数でやる奴だろ? 例えば、五人はハンバーガーについて話すけど、一人だけサンドウィッチについて話してて、その矛盾を……」  直接、ハンバーガーって美味いよね、なんて発言はタブーのゲームだ。本来ならその一人を見つけたらゲームはクリアなのだが、大逆転ルールというものも存在する。その一人が両者のキーワードを言い当てられたら、少数派の勝ちという奴だ。そのルールを使って、二人でプレイしようということだろう。 「もう、いいのそういうのは! 二人でも楽しいもん……」  いつもの空元気ではなく、牧野は心底楽しそうな表情で、しかしさみしげな声を出す。僕は分かった分かった、と取りなした。 「やろうぜ。道具は何かいるのか?」 「もうそのアプリ持ってるよ! 私ずっとやりたかったんだー。くう、ついにこの日が来たかあ」  そんなゲームも今やスマホでやる時代なのか。まあ、そう複雑な操作は要求されないだろう。 「はい、大島さんの分」  まだ真新しい、ピンク色のスマホを受け取る。 「スマホ、買い換えたのか?」 「うん。あの地震の時に壊れちゃったからね」 ああ、そういえばそうだったか。さて、僕のお題は……鼻毛の出ているおじさんか。 「これ、このまま押していいのか?」 「わー、ダメダメ! 私の番!」  僕は素直に彼女にスマホを返した。 「私はー、ほほう。なるほどなるほど」 「そういうのいいから。そういえば、負けた方はどうなるんだ?」  僕はそのとき彼女の目に宿った光を見て、余計なことを言ってしまったかと不安になった。 「んっふー、じゃあね。私が勝ったら、三分間私を抱っこして。大島さんが勝ったら、私の髪の毛を三分間触ってもいいことにしてあげよう。あ、ゲーム中はお酒を飲むのやめたらダメだよ。こういう飲み会ゲームみたいなことがしたいんだから」 「おい、その条件じゃ僕にうまみがないぞ。僕が痛いことになる」  その二つの違いといえば、髪の毛に触れても痛みを感じないことくらいだ。 「あれ、そう? こんなチャンス、めったにないよ? 女子高生の生肌だよ? うるおいたっぷりの天然の金髪だよ? 大島さん、よく私の髪じっと見てるの知ってるんだから」  ……。言われて、おもわず喉を鳴らしてしまった。言い訳をさせてもらうなら、僕は女子高生という単語に反応したのではない。相手が牧野だからこそ一瞬想像してしまったのだ。だが、それを見逃す牧野ではない。 「あはは! やっぱオッサンだ! セクハラ親父だ!」 「やめろ、やめろその言い方! くそっ、後で文句言うなよ!」  かくして、僕らのなんともしょうもない戦いが始まった。 「んー、それじゃあね……。気になるよね? 見てたら」 お、いきなりぶっこんできたな。こういうのは当たり障りのない話題から入って徐々にその範囲を狭めていくものだが……。 「まあ、気になるな。指摘しづらいけど」 「そうだねー。私もわざわざ言ったりしないな。お父さんでもしないもん」 「でも、毎日鏡を見てるんだ。気がつくとは思わないか?」 よし、僕も攻めたぞ。ここから牧野の持ってるワードを絞り込んでいくのだ。 「えー、そうかなあ。毎日のことだからこそ、ちゃんと気をつけてほしいよ。私、そんな人が隣を歩いてたら気になって買い物どころじゃないもん」  結構潔癖なんだな、という言葉をすんでの所で飲み込んだ。これはきっと相手にヒントを与えることになってしまう。  しばし、停滞。僕らは目を合わせたまま、互いに酒缶を傾けた。 「話題ボタン!」 「うわ、びっくりした」 「話の展開が止まった場合はこれを押してください、だって。押していい?」 「いいんじゃないか?」 なんともまあ、親切なアプリがあるものだ。僕はビールの缶が一本空いたのに気付いて、次にハイボールの缶を手に持った。牧野も同じように、さっきよりアルコール度数の強いものを選んだ。 「えーと、あなたは今大事な取引前です。上司がそうだったら指摘しますか? だって」 「これは難しいなあ……」 「私は、それでも言えないかなあ」  しかし、酒を飲むとタバコがどうしても欲しく……。僕はカラカラとタバコの箱を揺らして牧野に助けを求めると、牧野は仕方ないなあ、と頷いてくれた。 「でも、それによって取引の結果が変わるかもしれないんだぜ?」 「えー、そんなことで変わるかなあ……。でも、そうだったらいっそのこと外したら? って思っちゃう」  鼻毛は外すものではない。僕は牧野の失言をしっかりと捉えた。本来のゲームならここで他の人の意見を聞き、牧野が少数派かどうかを当てる動きになるのだが……。今回はルールが特殊だ。牧野の持っているワードがなんなのか当てなければならない。 だから僕はとりあえずその話に乗ることにする。 「そうだよな。毎日のことだもんな。せめてバレないようにすべきだよな」 「そう! あれ、話合っちゃった……あれ? 違うワード……あれれ?」  牧野の視線がくりくりと動く。首をひねる様を見て、ああ、やっぱり可愛い人だなあと僕はゲームも忘れて笑みがこぼれた。頭を押さえるような仕草もするものだから、僕にはもう答えが分かってしまった。 「牧野は自分のお父さんがそうだったらどうする?」  だけどちょっとした悪戯心で、もう少し彼女の悩む様を楽しもうと思ってしまった。 「私、父親なんかいないから」 「ああ……そうだったっけ? 悪い悪い、いるって前提で頼むよ」  牧野の家族の話は、なんだかんだで避けてこられた節がある。母親の話は比較的よく聞くのに、と思ったのはそういう事情があったか。 「んー、もしお父さんがつけてたらすぐ言うかなあ。みっともないし」 「あれ、牧野それ否定派なんだ」 「そうなったのは仕方ないんだから堂々としてなさい! ってね」  牧野は早くも今の缶を飲み干して、次を物色しつつ言った。牧野はなんというか、正直すぎるな。本当の飲み会ゲームならすぐに負けてあっという間に酔い潰れていそうだ。 いや、見た感じそこそこお酒には強そうだし、そうでもないか。真っ白な頬に朱が差してわずかに目もどこかトロンとしてはいるが、ほろ酔いと言ったところか。  急性アルコール中毒なんかが心配だったけど、この調子なら大丈夫そうだな。 「ふわー、なんか頭がでっかくなったみたい」 「酔ってきたなら控えろよ」 「やだ。最初で最後なんだから……」  別に酒くらい、飲んでも構わないだろうに。だけど牧野は今回で最後にすると決めているようだ。まあ、未成年だしな。無理に飲めと勧めるわけにもいかない。 でも、このぽんやりとした牧野をもう見られないのかと思うと、少し残念だった。 「あ、時間切れだ。えー。もー、分かんない! 大島さん、もう分かったあ?」 「……僕が鼻毛の出ているおじさん。牧野がカツラをかぶったおじさん、だろ?」 「すごい! って、鼻毛って。そんなん分かるわけないじゃん。ズル! ズルだよこんなの。ねー、もう一回」  力が抜けたようにしだれかかってくる牧野。しかし、決して肌は触れないように。そんな気遣いを、僕はさみしく思った。牧野は僕の能力を知っても、意図的に僕に触れて痛みから逃れようとはしなかった。それどころか、なるべく僕の能力の行使を避けるような動きを見せる。  正直に、批判を恐れず言うならば、僕は最初安心してしまった。牧野がずっと抱えている痛み。それはとても僕なんかに耐えられるものじゃない。  だけど僕は、そんな牧野の頬にそっと触れる。牧野は胡乱げに視線を動かし、数度迷いながら僕と目を合わせた。僕はそれに、笑顔を返す。 「ちょっと熱いな。牧野、酒には強いと思うとかなんとか言ってなかったっけ?」 「こんなのまだまだだよ。……ねえ大島さん」 「それなら良かった。じゃ、次のゲームに行こうぜ。負ける気はしないけどな」  その前に、一応勝者の特権として、牧野の髪を撫でた。一本一本が繊細な絹のようで、長く伸ばされているのに痛んでいる所もない。きっと大切に手入れしているのだろう。そう思うとなんだか愛おしくなった。 「……大島さん、痛いの嫌いだって言ってた」 「僕が嫌いなのは痛みの使徒だ。笑いながら人を殴る奴のことだ。懸命に痛みと闘ってる可愛い女の子のことじゃないよ」  無理をしているのが声に出なくて良かった。確かに痛い、痛くてたまらない。だけど、それも牧野のものだと思えば全然苦ではなかった。  僕はきっと、そんな彼女の痛みごと、好きになっていた。 「じゃあー、次は……ジェットコースターと新幹線!」 「言っちゃだめだろ」 「あれ、ほんとだ……へへ。次次!」  その後も牧野は僕の膝の上に寝っ転がったまま、僕は彼女の髪を撫でたりしながら、ゲームは続いていった。僕は一度だって、負けてやらなかった。 それでも肌の触れあいはあって、酒は進んで、もはや何のためのゲームだか分からなくなってしまった。でも、それでいいのだと思う。僕らの求めていたものは、きっとこんなことだっただろうから。  それから二時間ほど経って、牧野が家に帰るための電車の時間も近づいてきた。というか、よく考えてみたら、未成年の彼女を酔っ払ったまま帰してはまずいんじゃないだろうか。 しかし、今更どうすることもできない。牧野はもう完全にできあがっていて、僕の腰に巻き付くようにしてすやすやと寝息を立てている。  すらりとした長い足を床に投げ出して細い腰つきからわずかに水色の布が見えていた。僕はそれを直視しないよう視線をずらすと、今度は無防備に小さく開いた桜色の唇が目に入る。どこを見ても綺麗だなんて、全くズルいのはどちらだ、という話だ。  僕は気を落ち着けるために、そっとタバコをくわえると火を付けようとして……眼下の牧野に灰が落ちたら悪いな、とライターを置いた。なに、くわえているだけでも気分は紛れる。 「おい、起きろ牧野。帰りはどうするんだよ。やばいぞ」  どちらかと言えばやばいのは僕の理性の方だったのだが、それからも目を逸らそうとそんなことを言った。 「……んー、泊まってく……」 「いやいや、まずいだろ。親御さんも心配するだろうし」  牧野は鬱陶しそうに僕の声を振り払うと、ぽんと僕にスマホを渡してきた。それから小さな声で、「電話しといて」なんて言った。  牧野の母親とは過去に数度顔を合わした程度の仲だ。確かカナダ人で、大層美人だったから顔はよく覚えている。 「男からかかってくるのも困るだろうけど……連絡無しよりはマシだよな」  何より、このまま本当に牧野を泊めてしまっては僕の罪悪感がとんでもないものになる。僕は牧野のスマホから自宅の番号を探し出し、コールをかけた。やがて、母親の方が流暢な日本語で電話口に出た。 「あ、もしもし。太陽病院の大島と申します……はい。牧野さんの件についてなんですが。はい。遅い時間に申し訳ありません。彼女、少し疲れていたみたいで、眠ってしまったんです。よろしければ病院で一泊させていきますが……。大丈夫ですか、はい、はい」  この手の適当なでっち上げはお手の物だ。これで最低限の義理は果たしただろうと安心した僕の耳に、こんな言葉が飛び込んできた。 『それじゃ、娘をよろしくお願いします。責任は取ってくださいね。大島浩輝さん』  僕、下の名前は名乗らなかったよな……。全部、バレてるのか? それに責任って、僕はまだ何もしちゃいない! ……いや、まだっていうのもおかしいだろう。なんなんだ僕は。 「えっ……あの、僕のことご存じで?」 『耳にタコができるくらい、娘から聞いてますから』 「いやあ、不甲斐ない話ばかりでしょう。情けないですよね、すみません」 こういうとき、なぜか謝ってしまうよな。 『いいえ、そんなこと……。ずっとあの子の病気のために走り回ってくださっていた方ですもの。本来ならそれは私がすることなのに……』 「いえ、ただ僕がそうしたいからそうしているだけなので。こちらこそ、了解も取らず娘さんを連れ回してしまって……」 『それが、あの子の意思ですから。……特にここ最近は、すごく元気になったんですよ。大島さんにお世話になって以来、あの子はずっと大島さんのおかげだって、そればっかりなんです。妬いちゃいますね』 「うえっ? いえ、そんなことは……」  急にそんなことを言われて妙な声が出てしまった。それを聞いた彼女はふふ、と小さく息を漏らした。 『すみません、冗談です』 妙な所でこの親子は似ているな……。 『今日だって、元々帰ってこないって聞いていたんですよ。私も心配したんですけど、ほら、今はあんな状態でしょう? でも、大島さんの元に行くと聞いて、安心したんですよ』  いくらなんでも、過大評価だと思った。いったいこいつはどんな話を吹き込んだんだ、と僕は膝上で眠る牧野の髪を軽く叩くように撫でた。 『でも律儀に連絡をいただして、ありがとうございます。……大方、話し込んで時間が過ぎてしまったのでしょう?』 「ええ、まあ。ちょっと盛り上がりすぎて。はは」  こんなに信頼してくれているのに、酒のせいで酔い潰れましたとどの口で言えよう。 『そうですか……ぐすっ』  相づちの合間に、湿っぽいすすり泣く声が聞こえた。 『私じゃあね……その子を、笑わせてあげることもできませんで。父親とも、あんなことになってしまって……情けないのはこちらの方です。大島さんには、本当に感謝しているんですよ。一緒にあんな学校にまで通っていただいて。寝ずに勉強もなさっていたと聞いてます』  その声が漏れ聞こえていやしないかと、チラリと牧野を見るが変わらず精巧な人形のような寝顔のままだった。 「いえ、僕も学校は憧れでしたんで。いいキッカケだと思ってます。あの、失礼ですが、お父さんとは」 『……夫はお酒に弱い人でした。あらゆる意味で。桃子が小さな頃からよく暴力を振るっていまして、もうとっくに離婚したんですよ。それから男性の方が苦手だと言っていましたが、大島さんのおかげで、はい。良くなったみたいです』 ……予想外に重たい話だな。牧野の過去にそんなことがあったなんて。 「僕のおかげみたいに言わないでください。みんなの看病があってこそですよ」 『そう言っていただけると……。治療がどれだけ難航しても、日々がどれだけ辛くても、学校にだけはって、毎日言っていたんですよ。実際、特にここ最近は特に楽しそうなんですよ? 帰ってきた時のあの子の顔がすごく晴れやかで。大変なこともありましたけど、ああ、この子が前に進めて良かったって、だから、ありがとうございます』 「そうですか。それなら良かったです。みんな心配して……みんな……?」  その時、僕は、背筋どころか上半身がまるごと凍ってしまったような衝撃を受けた。今まで見てこなかったものが、まだあったのだ。  口の中が急速に乾いていくのを感じる。彼女の礼の言葉など耳を通って抜けていく。 『すみません、取り乱して……。だから今夜も、たんと遊んでやってください。大島さんなら私も安心ですから』  やめてくれ、そんな信頼しきったような笑みを声に滲ませないでくれ! ああ、僕は大変な思い違いをしていた。今更どの口でどういたしましてなぞ言えようか!  僕は今、この人の愛する娘を殺そうとしているというのに。 『すみません、まだ仕事がありまして……明日の昼には帰るよう、言っておいていただけますか?』 「はい……約束します。では、失礼します……」  僕は震える指でその通話を切った。さもないと、罪悪感の刃でその身を一閃されてしまいそうだった。  僕らは何を勝手に心中だなんだと言っていたんだ。恋は盲目というが、まさしく僕は牧野のことしか見えてなかった。人は誰も一人で生きているわけがないのに、その周囲にいる人間のことを全く考えていなかった。  病気で苦しいのは何も本人だけじゃない。支えている周りの人間だってしんどいはずなのだ。僕はそれを知っていたはず……いや、そうか。そうだった。僕はまたしてもこの能力に頼り切った結果、それを知らずに生きてきたんだ。  僕はいつもちっぽけな痛みを治しただけで、まるで自分のノルマは達成したような気になっていた。  病院で看護を続け、その一面で役立ったからその人全てを救ったような気持ちでいたのだ。その後のことなど、その周囲のことなど何も考えていなかった。  もう死ぬしかないなんて一端の口を利いて、厭世家を気取って僕はあまりに軽々しくその生を手放そうとしていた。僕が死んだとき、叔父さんがどんな気持ちになるのか。冬川さんは。安室先生は。恋塚は。そして牧野は。一体僕の墓前で何を思うんだ? 僕が死んで、彼らが傷つかないとでも思っていたのか? 「ん……電話、してくれたの?」  牧野がもぞりと動くと、身体が固まるのを感じた。そんな僕を訝しんだのか、牧野が小首をかしげる。  お前は。牧野、君は最初から分かっていたのか。死を選ぶと泣いていた君の気持ちはどこにあった。両親の間にいたか、医師の正面にいたか。そんなものも見えないほど、暗闇にいたのか? その中から僕を見つけ出してくれたのか? そんな君に、僕は一体何を言った?  そこにどれだけの葛藤があった。僕はそれを聞いただろうか。いや、そんな記憶はない。僕はそんなことも分からない馬鹿だったから。 「大島さん……辛そうな顔してる。お母さんに何か言われた?」  僕の顔を包み込むように牧野は両手を伸ばそうとして、また触れるのを怖がった。だが、痛みより何よりこの孤独な寒気が恐ろしくて、僕はその手を包んで頬に当てた。 温かかった。痛かった。それ以上に心が寒くて、痛かった。  この子がどんな思いで死ぬと言ったかも知らずに。その周囲にどれだけの心配があったかも慮らずに。僕は軽率な死を与えた。彼女の未来を救う? 何を世迷い言を。あの日、その未来を閉ざしたのはまさしく僕自身じゃないか! 「ああ……あああ……!」  こらえきれず、嗚咽がこぼれた。涙がボロボロと零れて止まらなかった。耐えられない。こんな痛み、僕は知らない。二十四年も生きてきて、逃げ続けてきたツケが回ってきた。 ――ええ、妹さんのためにも。  そんな、平井先輩に向けた何気ない言葉が今になって僕に突き刺さる。そんな当たり前のことを、僕は分かっていなかった。人は一人で生きているわけじゃないのだ。  あまつさえ、僕は約束してしまった。彼女と共に死ぬという約束を。それだけが希望だとまで言わせてしまった。本気でそれ以外の解決法を探ろうともせず、あまりに軽率に!  まるでミネルカのあの残酷なゲームだ。牧野を巻き込みたくない? 馬鹿な話だ。僕自身が転生ゲームの主催者のような真似事をしていたというのに! 死に希望を持たせるという、僕が否定したはずのあのゲームの。 「ごめん……ごめんよ、牧野」  きっと謝って済む問題ではなかった。だが、謝らずにはいられなかった。どうか許してくれと頭を下げなければその重みで潰れてしまいそうだった。 「何が? 大島さんが謝ることなんて、何もないんだよ?」  牧野の声はまだ少し眠たげだ。  違うんだ。それがあるんだ。僕にはきっと君の希望になれる道があったはずなんだ。きっとそれはすごく身近にあったと思うんだ。だけど、もう僕の命はあと三ヶ月ほどしかない。三年あって無理だったんだ。きっともう……。 「牧野……お前が死んだ後、みんなはどうすると思う?」  僕の唐突な問いに、牧野は瞬きをして口をすぼめた。しかし、僕の様子から何かを感じ取ったのか、僕の顔を見上げたまま答えてくれる。 「きっと、ママは泣くよね。学校のみんなはどうかな。ちょっとは気にしてくれるかな?冬川さんには謝れないなあ……。エルは、どうだろ。よく分かんない子だから。でももちろん、そんなこと、私は分かってるよ。でも、それでもね。それでも、生きていけないことって、あると思うんだ。どうしても無理なことって、絶対にあると思うんだ。それがたまたま私の所にきた……それだけのことだよ」  重みが違った。死というものをこの子はきっとよく考えていた。考えて考えて、その末に、苦悩の先に出した答えがそれだったのだ。なのに僕はそれをただ安易な逃げ道としか考えていなかった。僕がするべきだったのは、そんな彼女が前を向けるように肩を支えてやることだった。だというのに、目の前に奈落に繋がる落とし穴を掘っていた。  心中なんてものを決めて、僕らが同じ方向に進めたと思っていたのは、僕の勘違いだった。その道の高度がまるで違っていた。こんなので、よく共にあると言えたものだ。 今の僕じゃだめだ。こんな奴と牧野を心中なんてさせられない。彼女のことを愛している僕が、絶対に許さない。  僕は彼女の身体を持ち上げるように抱きかかえ、その重さにひるんだ。彼女にはもう自力で立てる体力すらないのだと、僕の両手に伝わる感覚が告げていた。こんな状態にあってもなお、彼女は僕のワガママに、僕の青春に付き合ってくれていた。その彼女にだけは、報いなければならない。それはもう僕の義務だ。 「牧野……全力で、病気を治そう。どこまでできるか分からないけど、あと三ヶ月、僕が死んでしまうまで。今度こそ本当に一生懸命頑張るから。付き合ってくれないか」 「……大島さん、死ぬのが怖くなったの?」 「ああ……怖い。怖いよ、牧野」  君がいなくなってしまうことが何よりも辛い。それを選択したのが僕だという事実が何より痛い。きっとそういうことを全て分かった上で死を選んだという話だったら、まだ救いはあっただろうに。 「僕は何も分かってなかった。いくつもヒントはあったのに。いつでも気づけたはずなのに。全て先送りにして無視してきたんだ。見ろよ、この震え。君を殺すのが僕だと思うと、怖くてたまらないんだ……僕や君がいなくなった世界が、どうなるのかが、僕は怖くてたまらないよ」  牧野の顔は見ていられなくて、彼女の頭ごと胸に埋めた。僅かに息苦しそうな吐息が聞こえたが、それを離すことはできなかった。だが牧野は、持ち上げるのも辛いだろう腕で僕の頭を抱きしめ返してくれた。 「私、知ってたよ。大島さんが死ぬことをよく考えてないの。大島さん、嘘も隠し事も下手なんだもん。分かっちゃうよ。でもね、それでもいいって思ったんだ。あなたは唯一、私の痛みを疑わなかった人だから。炎症も起こらない、レントゲンも異常のないこの病気の辛さに、真っ先に気付いてくれた人だったから。そして、最初から最後まで懸命に支えてくれようとした人だから。ただ、そういう人に側に居て欲しかっただけなんだ。例え死ぬことになっても、この人の側なら笑顔で死ねるだろうなって、そう思ったんだ。そう思ったら、もう好きになってた」  だから、泣かないで。不意打ちの言葉が、また僕の目から流れて彼女の服にシミを作った。 「笑おうよ。笑って死のうよ。私たちは、その道を同じくした者同士でしょ?」 「違う……そうじゃない。僕は間違えていたんだ。僕に、その道を……君と一緒に歩く資格なんて、ないんだ」 「なんでそんなこと言うの? 私は覚悟してたよ。誰に後ろ指を指されてもやりきってやるって。だって誰も助けてくれなかった。誰にもこの痛みを取り除くことなんてできなかった。それでもここまで頑張れてきたのは、大島さんのおかげなんだよ? 一緒に死んでくれるとまで言ってくれた、大島さんのおかげなんだよ?」  牧野の瞳が潤み始めた。そこから流れる滴は、まるで彼女の心の血だった。 「その大島さんが、間違っていたなんて、言うの? だったら私の信じてきたものって、なんだったの? 私が愛した人は……なんだったの? 大島さんは私のこと、好きでもなんでもないの?」  好きだ。もちろんそれは大好きだ。だからなおさら、僕は僕のことが許せないのだ。愛する人のことを裏切っていた奴に、どうして愛を伝えさせるだろう。 「それじゃあ、大島さんの言葉を信じて生きてきた私も……間違ってたの?」  沈黙が、僕の答えとなった。牧野はゆっくりと僕から身体を離し、涙も拭わないままぽつりと呟く。 「じゃあ、ほんとに終わりだね……」  牧野は寂しそうな笑みを浮かべて、そっと僕の口元からタバコを抜き取った。それをくわえていたことなんて、もうすっかり忘れてしまっていたが。 「ありがと、これまで私の馬鹿に付き合ってくれて」  そっと、唇が塞がれる。カチリと歯がぶつかった。それは一瞬のことで、気がついた時にはもう彼女の顔は遠くにあった。僕は唇にそっと指を這わせるが、その感触がもうなくなっていた。後に残されるのは、ぶつかった歯の痛みのみだ。  こんな、悲しいキスがあるなんて、知らなかった。僕は涙の代わりに言葉を絞り出す。 「……あと三ヶ月、僕は全力を尽くす」 「転生ゲームだっけ、あれのクリア?」 「いや、お前の痛みをできる限り治す方法を探す」 「でも、大島さん、死ぬの怖いんでしょ? だったらダメじゃん。私のことなんかより、自分の未来を気にしなきゃ」  僅かに、嘲るような色。そりゃそうだろう、この期に及んでこの様では、失望されたって仕方ない。 「そうなったら私も死ぬまで暇だから、手伝ってあげるよ。これまで私を支えてくれたお礼。私はもう、私のことより大島さんに死んで欲しくないから。だから、悪魔を探すよ。そうだね、まずはあの天使様なんて探すのがいいかも」  嬉しくない。僕を生かす手伝いをしてくれるという言葉がこれっぽっちも嬉しくなかった。 「……僕がいなくても、お前は死ぬのか?」 「死ぬよ。それが大切な人との約束だったからね。私にはもう、それしかなくなっちゃったから」  過去形の言葉が、胸に刺さる。ああ、確かに終わりだな。僕らの青春は、今この瞬間に終わってしまったのだ。  誰も笑顔にならない、余韻一つ残さない、あっけない終わりだった。 「僕は、お前の病気を少しでも楽にしてから死んでやる」 「今更そんな、大島さんの自己満足に付き合ってられないよ。私は大島さんのゲームクリアを目指すからね」  話し合いは、決裂した。何もかもがちぎれてしまった僕らの間に、もう会話は必要なかった。 「ごめんね、眠くなっちゃった。酔っちゃったのかな。あはは、これが酔うってことなんだね」  本当なら、もっと楽しい酒の味を教えたかった。だが、彼女の心の扉が閉まる音を聞いた僕はただ彼女が僕から離れていくのを見守ることしかできなかった。 「……布団、使っていいぞ」 「ううん、いいよ。私割りとどこでも寝られるから。じゃあ、おやすみ」  牧野は僕の布団をむしろ厭うように見て、カーペットの上に横になった。僕もそれ以上、彼女にかける言葉がなかった。  体が、いや心もひどく疲れていた。ここ最近走り回っていた疲れが一気に出たような気がした。僕は最悪の気分のまま、浅い眠りへと落ちていった。  そして、朝起きると、彼女の姿はどこにもなかった。車椅子もなくなっていて、どうやら自力で帰ったらしかった。  たった一人になった僕は、まるで僕らの青春の残骸のような空き缶たちを眺めて、一つ一つゴミ袋に詰めていく。捨てるたび、僕の心からも何かが零れていくようだった。  牧野がなんと言おうと、僕は探す。彼女の希望たるものを。それになり損なった僕に残されているのは新たな希望を探すことくらいだ。  その後の一ヶ月は、死に向かって進んでいたこれまでが嘘のように静かで、つまらなくて、さみしいものだった。僕は彼女を生かすために動き始めたというのに、まるであべこべだった。  『五』 ――僕の死まで、あと二ヶ月  そして、僕は九州まで来ていた。牧野の病気のスーパードクターと呼ばれる人が鹿児島にいたからだ。飛行機とレンタカーを乗り継いでの、これまでで一番の長旅だった。 同時にこれが最後の行く宛てだった。自作した牧野のカルテを見せるだけで、どの医者も首を横に振ったのだ。  その度、僕の心は荒んでいった。そんな看板をあげているくせに何も手がないとはどういうことか。運動させろと言えば彼女はもう車椅子生活なんだ、と怒鳴った。薬を試せと言われれば、これまで飲ませてきた薬のリストを顔に叩きつけてやった。  内科も外科も整形外科も、西洋医学も全て回った。叔父さんのコネをフル活用して助言を求めたが、有益なものは何一つなかった。 「……あいつは人生のほとんどを使って病院を回っていたんだ。今更こんなことしても、な……」  曇天の下、力ない独り言が冷たい風に乗って流れていく。見知らぬ土地だが、観光などしている暇はない。僕はやけにこじんまりとしたその病院の中に入っていった。 「……ここまで処置をしても効果がないようですと、どうしようもありませんな」  小太りで禿げ上がった頭の医師は、僕の持ってきた資料を眺めて開口一番そう言った。 「いきなりそれはないでしょう……!」 「……本人を診てみないことには、と、言いたいところですが、それも無駄でしょうね。実際に診察したとしても、特定の箇所を押すと痛いか? と訊くことしかできないんですよ。私がこれまで多くの患者にしてきた処置も、とっくに済ませていらっしゃる様子。それに今は時期が悪い。冷え込むと痛みがひどくなる傾向がありますからな。暖かくなるのを待って、それまではこれまで通りの対症療法でしのぐしか……」  カッと頭に血が上るのを感じる。もはやそれを抑える余裕も、今の僕にはなかった。 「時間がないんです! あいつは今年の冬死ぬと、そう言っている! 対症療法? そんなもので痛みがしのげるならこんなとこまで来ない!」  先生はそんな僕の激高を何でも無いような風で受け流し、机の上のモニターに視線を移した。 「でしたら、まずは精神面のケアの方を先にした方がよろしいでしょうな。ご存じかとも思いますが、この病気の自殺者は非常に多い。病気そのものよりも、併発する他の病の処置を優先した方が快復に向かうこともあるんですよ」 「精神科にはもう三年も通わせてるんです。それでもダメだった! 何か、何かないんですか……? 全部を一発で解決できるような、逆転の一手は……」  言葉も尻すぼみに、震える僕の肩を先生はぽん、と叩いた。 「そんな都合のいいもの、ありません。気長に診ていくしかないんですよ。この病気は」  病院に来てそうそう声を荒げた僕に、先生は優しくそう諭してくれた。 「これだけ熱心に治療に寄り添ってくれる人。それこそが一番の特効薬だと、私は思いますがね」  そんな言葉も、今では素直に喜べない。つい先月、僕は彼女に見放されてしまったからだ。そんな慰めなど、欲しくはなかった。 「……これなら、ずっと牧野に触れて痛みを吸い取ってやっているほうが、よっぽど良かったな」  僕は失意のままに、地元まで帰ってきた。いつの間にか道並みは冬を迎える準備をし始めていて、こんな景色も僕は見ていなかったんだなあ、と苦笑した。 「浩輝、帰ったのか」 「冬川さん……」  家で僕を迎えてくれたのは、冬川さんだった。その表情は険しい。まあ当然だろう。叔父さんの知り合いの医者に押しかけてはことごとく失礼な態度を取っては帰ってきているのだから。 「お前、分かってるんだろう?」 「分かってますよ……。後でいくらでも土下座して回りますよ。でも、もう本当に、時間がないんです」 「……そんなこと、勝手にすればいい。そうじゃなくて……。なあ、変だと思わないでほしいんだが、お前、死んじまったりしねえだろうな」  想定外の言葉に、身体が跳ねる。不意に僕は喉の乾きを思い出して声がかすれてしまう。 「……ははっ、なんでそんなことを?」 「なんだか、死に急いでいるように見えてな……。自殺する前に身辺整理をする人間と同じような気迫を感じる」  なんともまあ、鋭い人だ。いや、それだけ僕のことを見てくれていたのかもしれない。そのことも僕は気付いていなかったんだな。 「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。急いだりなんてしません」  慌てなくてもその時はやってくるのだから。 「……桃子もか?」 「っ、何か、変なところがありましたか?」 「ちょっとな……いや、勘みたいなものだから、気にしないで欲しいだが……」  いつもズバズバと言って欲しくないことまで口にする冬川さんにしては珍しい。何かを言いよどむように口を小さく開閉させていた。 「悪い意味で吹っ切れているというか、もうこちらの言葉がどれも届いていないような気がしてな……。元気すぎるんだ。もしかしたら空元気なんじゃないかと思って。あいつの様子がおかしくなるのは、決まってお前がらみのことだからな」  今となってはそんな言葉は的外れも良いところだ。いや、あの日の牧野の様子を見ていればそうでもないのかもしれないな。 「それって、どんな話でしたか?」 「妙に真剣な様子だったな。あと数ヶ月で死んでしまう人がいる。その人を助けたいって言ってた。自分の痛みとかの話はなくて、ずっとその話ばかりしていたな。この街の都市伝説を調べてるとかなんとか……いまいち要領を得なくて全て分かったわけじゃないが……。それでも、あんな桃子の姿は初めて見た」  そうか。桃子がそんなことを。どうやら本気で僕を救う道を探してくれているらしいな。同じ道を進もうと約束した僕らが、今はまるで真逆のことをしている。そんなことがなんだか可笑しかった。 「それとは別件なんだが……牧野の病気の根源を、見つけた」 「えっ?」  一瞬、言葉を失った。 「線維筋痛症に陥る患者は、過去に大きな痛みを感じたことが多いらしい。それも長期間、強い痛みに晒されている患者が多いことが分かった」  それじゃあ、その痛みを取り除くことができれば。それは言わば痛みの元凶に他ならない。牧野の今の痛みもきっと……! 「牧野の痛みの根源は……」 「幼少期の頃のことだが、父親に虐待を受けていたらしい。そんな話を昔母親から聞いた。知ってたか?」  つい最近のことではあるが、確かにそんな話を聞いた。僕はうなずく。 「おそらくその時の痛みを、身体が覚えているんだ」 「……確かに、今まで痛みの対処ばかりに追われてきましたけど、その原因まで深く踏み込んだことはなかったですね。原因は不明とされているからって、軽視してましたけど……」 「外から見て何も異常のない病気なんだ。もっと早く内側を診てやるべきだった……言い訳になるが、鬱症状やなんやで精神面もケアに追われて後手後手に回っていたんだ。でもこの情報も、浩輝のおかげでつかめたんだ」  まるでそんな覚えはない。僕のあっけにとられた様子がおかしかったのか、冬川さんは短い笑いを漏らした。 「お前、あちこちの病院で怒鳴り散らかしてきただろ? そのうちの何人かが、独自に調べて色々と情報を回してくれていたんだ。だが、これは言わば痛みのPTSDだ。トラウマってやつだな。その方面で考えてみると、まだ試していない治療法がある」 「それは……?」 「PTSDの治療の一種に、ショック療法というものがある。トラウマになっている当時と同じ状況において、その上で安心させてやることだ。もう大丈夫だと教えてやることで、過去のトラウマから逃れるってやつだな。その理論でいくと、当時の痛みの記憶を取り除いてやることができれば、もしかしたら身体がその痛みを忘れるんじゃないかと思ってな……だが、そんな方法はなかった」  一瞬の希望だったな、と冬川さんは自嘲気味に笑った。 「タイムマシンでもあれば、話は違ったんだけどな……。いや、それでも現実に今の彼女は痛みを感じているんだ。例え今、昔の痛みを思い出させてもそれを取り除いてやる手段がないんじゃ、どうしようもない」  僕はその話を聞く度、徐々に鼓動が早まっていくのを感じた。確かに話自体は夢物語そのものだ。  そう、魔法でもなければ、そんなことは不可能だ。 「……もし、そんなことが可能だとしたら。牧野は痛みから解放されると思いますか?」 「うん? さあ、どうだろうな。誰も試したことのない……試せるわけのない方法だ。こんなもの、戯れ言だと思って聞き流してくれと言われたほどだ。医者同士がこんな話をする日が来るとはな」  冬川さんは自嘲気味に笑った。だが、今の僕にそれに付き合ってる暇はない。もし本当にそうならば……たった一つ、取れる手段があるかもしれない。 「冬川さん」 「なんだ?」 「情報、ありがとうございます。一つ、選択肢が増えました」 「どうにかできるってのか?」 「どうにかしますよ……どうにもならなかったら、冬川さん。あいつの希望になってやってくれますか?」  冬川さんは僕が知る中で最も牧野に寄り添ってくれた人だ。そういう意味では、信頼できる。  ……悔しくはあるが、悔いはない。だが、そんな僕の言葉を冬川さんは不愉快そうに手で払った。 「馬鹿野郎、お前がそうなるんだろうが」 「ま、努力はしてみますけどね……ちょっと話、聞いてくれますか?」 「悪いが、だめだ。ま、悩みがあるなら、友達にでも言ってみたらどうだ? お前のその顔を見るに、悪いことを思いついたわけでもないんだろ」 「……冬川さんは聞いてくれないんですか?」 「俺はお前の担当医じゃないからな。今は自分の仕事で手一杯だ。悪いな……それに、俺から与えられる情報は本当にそれだけなんだ。散々考えて……それっぽっちさ」  冬川さんはそう言い残すと、病院の中に戻っていった。タバコの匂いもしなかったことを思うと、本当に僅かな情報でも僕に渡そうと待っていてくれたのかもしれない。 そういう人だから、後のことを任せられるんだ。  僕はスマホを取り出すと、とある番号に通話をかける。 「……あ、もしもし。恋塚か? ちょっと話があるんだけど……いいか?」  『六』 「そういうことだから、エル。天使様として、大島さんにゲームを課してる悪魔から助けてくれないかな?」  私、牧野桃子は安室先生主催……という言い方もおかしいか、とにかく、特別学校に来ていた。教室からはすごし外れた東のほとりで、喧噪から離れて小川が大きな流れに飲み込まれていくのを眺めながらエルと話していた。 「ん、無理」  相変わらず、物言いが率直な子だ。私は車椅子に背を預けるとエルをのぞき込むようにして口をすぼめた。 「えー、なんでー? エル、私のことは助けてくれたじゃん。街のみんなを助ける天使なんでしょ?」  とても天使様に対する物言いじゃないな、と言いながら思った。そして笑った。この奇妙な友人は、そんな言葉を真剣に飲み込んで困っていたからだ。 「大島浩輝に憑いている悪魔は……。私よりも。偉い。手を出せない場所にいる」 「エルは天使なのに?」 「そういう問題じゃない。正確に言うなら。今の私は死神。未練ある死を浄化して。綺麗にして来世に送り出す存在。来世を好きに決められる権利を。持っているミネルカには。敵わない」  そういう難しいことはよく分からない。 「ふーん、ミネルカっていうんだ。その悪魔」 「正確に言うなら。悪魔じゃない。あの子も私と同じ、天使だったもの。人間の在り方が変わるように。私たちも変わった」  ちゃぷちゃぷと、変わることのない流れに魚が飛び跳ねるのを見た。あの魚は何を思って泳いでいくんだろうか。このまま海へ出て、漁師に釣られてしまうのか。それともまた飛び跳ねて空を泳ぐのだろうか。私には分からなかった。 「桃子は。自分の転生を願い出てくると。そう思ってた」 「あー、うん。私もそう思ってた」 エルが首をかしげたのだろう。さらりと髪が揺れる音がした。 「エルの髪ってどうなってるの? 最初見た時は銀色だったよね。綺麗だったのに、染めちゃったの?」 「死神としての力を使う時に。ああなる。自分の意思じゃない」  それでも、髪を撫でる仕草がどこか得意げだった。悔しいけれど、同じ女の私から見ても綺麗な髪だ。 「……大島さんに褒められてちょっと気分良かったくせに」 「そんなこと……ない」 「あ、今言いよどんだ! よどんだよこの子!」  エルは騒ぐ私から視線を外して知らんぷりを決め込んでいる。こういう時、つい視線の先に顔を出してやりたくなるが、今の私にはそれもできそうにない。 「私、お父さんに虐待されてたんだ」 「……」  突然始めた独白に、エルは耳を傾けてくれているようだった。これはエルと知り合ってから、いつものこととなった。一方的に私が話して、エルがうなずいてくれる。そんな距離感が、なんだか楽しかった。その正体が天使だとか死神だとか、人外のものだったとしても嬉しかった。 「それ以来、殴られた痛みが消えなくて……どこもおかしくないのにね。アザも傷も消えちゃったのに、いつまでも痛かったんだ。お父さんがいなくなっても、お母さんが抱きしめてくれても、痛みは消えなかった。それ以来、男の人が苦手になったんだ。そんな生活が十年も続いて、ついにあの病院にたどり着いた。担当医は男の人で、また原因は分からないって言われてガッカリしたけど……お母さんの手前、病院には通い続けた。精神が参ってたのは本当だったからね。そこで……私は大島さんと出会ったんだ」 「大島浩輝は、何をしていたの」  エルの問いに、当時の光景が脳裏に浮かび上がってくる。それを思うと笑いを抑えきれなかった。 「ふふ、電話の取り次ぎを間違えて、怒られてた。大島さんチビだったし、まさか年上の人とは思わなかったな。それで、病室を出た私に話しかけてきたの。この先生の診察はどうですかって。まだ本人がいるのに! 当然、また殴られてたなあ。だから私は正直に言ったの。全然満足できませんって。冬川さん、困った顔してた……大島さんは私の真正面に立って改めて話を聞いてくれて、そして私の手に触れた……。その瞬間、すうっと痛みが楽になって、大島さんは飛び上がって冬川さんに迫ったの。思えば、あれも大島さんの能力だったんだろうね。でも当時の私はそんなこと知らなくて。とってもびっくりした。初めてだったから。私の痛みを理解してくれる人は。そして、少し時間が経って……私の病気のことも分かったんだよ。お母さんも大慌てで、でも原因が分かってホッとしたのか、泣いてたなあ。もう大丈夫だよ、治るからって、大島さん偉そうに言ってて、可愛かったなあ……。その夜、私、ワンワン泣いたんだよ。自分は病気なんだって分かって。え、違う違う。悲しかったんじゃないの。嬉しかったんだ。もう虚構の痛みにおびえなくていいんだって。それは確かにあるもので、私は苦しんでいいんだって、そう思えたから」  ふう、と一息つく。なんだか話しすぎて喉が渇いてきちゃった。でも、どうしてか口は止まらない。 「きっと大島さん、そんなこと覚えてないんだろうな……。いつの間にかよく話すようになってたって感じだったから。でも、私は必死だったんだよ。私の理解者はとっても貴重だったから。どんなに辛くても病院にはちゃんと行って、彼の一言一言を噛み締めてた。彼が私のことを訊いてくる度に、私も彼のことを訊いた。難しかったよ。自分のことより私のことを話そうとするから。だから余計に気になったんだ。この人はどんな人なんだろう。なんで私のこと気にかけてくれるんだろう。何をしている人なんだろう。それもね、少しずつ分かってきた。彼は誰にだって優しくて、みんなにとってのいい人だった。ガッカリしたかって? うん、したね。正直こんちくしょーと思った。でも、それで気付いたんだ。私は、彼が私にとっての特別であって欲しかったんだって。ああ、この人のことを好きになったんだなって」  ねえ、分かる? とエルに向かって言った。その声は僅かに震えていた。 「これ、愚痴だよ。フラれちゃったことの、愚痴。大島さんはきっと勘違いしてるだろうけど。自分が私を殺すようなものだなんて思ってるだろうけど。そんな大層な話じゃないでしょ? でも、エルに聞いて欲しかったんだ……私、友達とこんな風に話すの、夢だったからさ」 「桃子は、大島浩輝のことを怒っていると思ってた。でも、そうは聞こえない」 「あは、だって好きなんだもん。どんなことがあっても、嫌いになんかなれないよ。楽しかったものが、憎くはならないもん。それに確かに怒ったよ。私の期待に応えてくれないことに、自分勝手に怒った。でもそれってフラれた負け惜しみみたいなものでね。でも、もしあの人が謝ってくれるようなことがあったら……誤ってるのにそれでも謝ってきてくれたら、私は許そうと思うんだ。って、何様だって話だね。でも、あの人は優しすぎるから。他人のことを考えすぎるんだよ。そんな人に、私なんかの死を背負わせるのは、かわいそうだよ。どう間違っても、私なんかと一緒に死んでいい人間じゃなかった。でも、だからさ、最期くらいは、なんかしたいじゃん。彼にとっての特別なことをして、死にたいじゃん。だからさ、お願い。そのミネルカって悪魔……天使だっけ、とにかくそいつから、大島さんを助けてあげて。他人を救うことしか頭にないあの優しすぎる人を、救ってあげて」  私にはもう、きっと何もできないから。 「桃子は、生きようとは思わないの?」 「ほんとはね、大島さんとだったら生きていけると思ってた。一緒に死んでくれるって言ってくれたあの人なら、きっとずっと私の側に居てくれるんだろうなって。でも違ったみたいだから……私じゃ、ダメだったみたいだから。ま、そうだよね。心中を迫る女とか、重いよね。頭おかしいもんね。でも、ダメだったなら……やっぱり私は、これ以上この病とは闘えないよ」 「……自殺は、崇高にして甘美なる大罪。かじれば甘く、たやすく多くの人を殺す果実」  エルは私の頼みに首を縦にも横にも振らず、そんなことをぽつりと言った。 「だから、大島浩輝の態度は正しい。うろたえ、悩み、苦しみ、転げ落ちていくように。その先に待つのが、死というもの。大島浩輝の言っていることは、正しい。死に臨む人の在り方として、とても正しい姿。間違っているのは、桃子の方」 「……そーだね。きっと私は間違えてるんだろうね。でも」 「桃子は、どうして大島浩輝を信じようと思ったのか。思い出すべき」  思っていたような正論は来なかった。代わりに不意打ちのようにそんな言葉が脳を叩く。 「私が、大島さんを……?」 「大島浩輝は。能力に頼って生きてきただけの人じゃないはず。周りを見ていなかったらと言うなら。周りも見えないほど桃子のことを考えていたということ。周りも見えないほど桃子に正面から向き合っていたということ。周りの誰よりも、桃子を優先していたということを。桃子は忘れている。それが当たり前だと思って。忘れてる。だから、桃子は間違っている」  頭の空洞にすこんと衝撃を加えられたような、そんな気がした。エルにしては珍しい長台詞の意味が徐々に私の体に浸透してくる。それって、つまり……。  ざあざあと、音を立てて落ちていく水の方に視線を向けた。私が海に繋がっていると思っていたその先は滝だった。きっとあの魚は大空へ飛びだった。なぜか、そんな気がした。 「桃子、顔赤い」 「うるさい、エル……大島さんを、助けてくれるの、どうなの」 「それは、人の子が決めること。人の願いによって、天使は行動を起こすもの。それに……」 「それに?」 「大島浩輝も、何かまだしたいことがあるはず。未練があるはず。私はそれを見定めるのが。役目」  ……大島さん、もしまた会えたなら……。私のこと、許してくれるかな。もし許してくれるなら、今度こそあんな不意打ちじゃなくて、ちゃんとキスしたいな……。  私は、自分が死ぬことより大島さんのことばかり考えているのに気付いて、また顔が赤くなっていくのを感じた。 「桃子。もしそれが成ったなら、悪魔の、ミネルカの殺し方を。教えてあげる」  僕は特別学校に登校していた恋塚を連れ出し、川の西のほとりで一服していた。その時も恋塚はタバコを求めてきたが、すっぱり断った。  清流は大きな流れからいくつもの小川に分かたれ、重複するせせらぎが耳に心地よかった。僕らは最初、いつか言っていた石切をしようとしたがすぐに砂利の中に石が飛び込んでいてしまうため、勝負にすらならなかった。 「で、結局なんの話なわけ? 悩み相談なら他でやれって言ったよな?」 どこかすねたような恋塚の姿に苦笑が漏れる。 「まず、一つ嘘を吐いてたことがあるんだ」 「なんだよ。オッサンが嘘なんて珍しい」 「あのフレチューの時、ああ……もう半年くらい前になるのか。交差する丘に行ったろ?実はあの時、僕、異世界に行ってたんだ。いつか話したろ。悪魔の影が見えるって話。あれ、都市伝説じゃなくて実はその時に知ったことなんだ」  僕としては決死の告白だった。しかし、これをまず信じてもらわないとなんの相談もできない。だからここはどうにかして恋塚を説き伏せなければならない。僕はそう構えた。 「知ってんよ」 「ああ、信じられないだろ? でもさ……えっ?」  今、恋塚は何と言った? 僕はまじまじと彼を見つめるが、彼は悪びれた風もなく、ぽんと小石を川に投げ込んでいた。 「ミネルカと会ったんだろ? 俺もゲームの参加者だからさ」 「……でもお前、あの時あの場所にいなかったじゃないか」 「そりゃ、もう参加済みだったからね。ミネルカと会えるのはゲームの開始時のみなんだよ。知らなかったのか?」 「えっ……待て。待ってくれ。ちょっと頭を整理したい」  恋塚がゲームの参加者だった……? でもこいつ、今まで全然そんなそぶり……。 と、そこで一つひらめいた。 「お前、相手の頭の中を覗いてるみたいなことをよく……」 「そっ、それが俺の特殊能力。びっくりしたか?」 「……いや、なんか妙に納得できる。そうか……でも、言ってくれても良かったじゃねえか。僕、右往左往してて馬鹿みたいだ」  せっかくできた友達に、もう一月もしない間に別れてしまうことをなんて説明しようか必死に考えていたというのに。 「俺はゲームクリアに興味なかったからなあ……。死ぬ時なんてどれも悲惨だろ? それより、オッサンがゲームに参加してねえのに特殊能力を持ってるみたいだったから、放り込んでみたらどうなるかな、と思って参加させたんだ」 「そんなゲームセンター感覚で人をデスゲームに巻き込むな!」 「はは、ごめんごめん」  恋塚は相変わらずヘラヘラと笑っていて、なんだか怒るのも馬鹿らしくなってしまった。これがきっと暖簾に腕押しという奴だろう。 「……じゃあ、話は早いな。というかもう僕の言いたいことをくみ取ってくれよ」 「あー、それ無理。無条件に覗けるわけじゃなくてさ。正確には言ってることが嘘か真実かを見極める力なんだ。その課程で思考が覗けるってわけ。だから言葉にしてくんねえと分かんねえよ」  なるほどな。そういう力か。そういえばミネルカも全知などないと言っていたし、そんな力はさすがに授けられないか。 「……じゃあ、最初から話すぞ」 「どーぞー」  それから僕は、この春から冬にかけての物語を話した。かいつまみながら、だけど丁寧に語った。その間も小川からは稚魚が飛び出し、流れ、生命のオーケストラを奏でていた。 「……それで、この間、僕はとんでもない間違いをしていたことに気付いたってわけさ。救いの一手の尻尾は捕まえたけど……。今更僕に、そんな資格があるのかなって」  長く喋ったせいで、喉がカラカラだ。この川の水って飲んでも大丈夫だろうか。 「よーするに、フラれ話か?」 「お前! 僕のストーリーをそんな簡単に片付けるな!」 「なーにがストーリー。ただ女の尻を追っかけすぎて顔を見てなかっただけだろ。よくあるじゃん。後ろ姿は美人なのに顔はブサイクなこと。そんな感じ」 「牧野は可愛いだろうが」  つい言い返してしまった僕に、恋塚はニヤついた笑みを見せた。くそっ、こいつの方が年下なのに、あしらわれてる感が拭えない。やがて恋塚はその表情のまま、しかし柔らかい口調で続けた。 「……でも俺は、オッサンのそういうとこを買ってるんだ。みんながみんな、自分のために必死こいてる中、あんたは四六時中他人のことばっかりだ。嘘や打算なんて滅多に見せない。たとえそれをする時でも、あんたは誰かを想っていた」  これって案外すげえことなんだぜ、と恋塚は照れくさそうに笑った。 「……あの子、牧野のために自分の未来を捨てることなんて、確実に死ぬと分かっているのに、そんなこと、そうそうできない。それだけじゃない。お前はずっとそれだけのために生きてきた。俺みたいに降ってわいた力じゃない、生まれ持った能力を忌み嫌いながらも、目的のために手段は選ばなかった。そういう所を『視て』。俺はオッサンと仲良くしようと思ったんだ」 「全部、自己満足のためだよ。牧野のためってことは、つまりは自分のためさ」 「そう、そこがすごい!」  恋塚は珍しく興奮した様子で息を荒げて僕を指さした。 「オッサンは本気でそう思ってる。まるで特撮のヒーローみたいだ。素直にすげえって思った。そんな人間いるわけがねえって思ってたけど、いた。いてくれた。それが俺にとっての希望だった」  恋塚の口は止まらない。今まで黙っていた分、たまっていた分が一気にあふれ出るように。いつの間にか、小川のせせらぎは聞こえなくなっていた。 「そんなオッサンが、あと一ヶ月の命もないだって? まさか、そんなことあるわけねえだろ。お前はきっとなんとかするよ。俺はそう信じてる」 「馬鹿かよ。今更悪魔なんか探してる暇はねえよ。僕は死んでもいい、とにかく牧野の病を治すんだ」  そのための相談を、今始めようとしているところだ。 「いやー、惜しいね。そんなオッサンがあと少しで死ぬなんて。俺、こんな能力持ってっからさ、滅多に友達なんかできないんだぞ? せっかくできた友達を捨てるなんてねえ……。ま、その件はいいさ。なんとかしてみるよ」 「いいのかよ?」  まさか、恋塚がゲームのクリアを目指してくれると? 僕はそれを意外に思った。というより、そこまで僕のことを高値で買うのは恋塚くらいのものじゃないだろうか。 「良いも何も、これは俺の自己満足さ。オッサンとはもっと一緒にいたいしな」 ……じんわりと、胸が熱くなる。 「で、オッサンは間違えたって言ったけどさ」 そんな僕の感動もよそに、恋塚は話を戻した。こいつは本当にマイペースだな。 「それって、ホントに間違いだったのかね」 「え? そうだろ。僕は周りのことも考えずに……」 「そりゃあ確かに間違いだと思う。ちったあ考えろって話だな。でも、地震の日に牧野を助けたことも、自殺を考えてる牧野を引き留めたのも、牧野と出会ったことさえ……間違いだったって言うつもりか?」  僕は、胸を突かれたような衝撃を受けた。 「俺は、オッサンのしてきたこと聞いただけだけどさ、大抵は間違えてなかったと思うんだよね。言ってしまえば偽善独善だろうさ。でも、そんな独善野郎が死ぬまで、特別な意思を持ってあがいたなら、それは希望と呼んでいいんじゃないか。そんな気がするけどね」 「僕は……間違えて、なかったのか?」 「そもそも、いちいちそんなこと考えてる方が俺からしたら妙だね。俺バカだからよく分かんねえけど、一度間違えたらダメなわけ? やり直しきかないの? そんなゲーム、今時誰もやってくれないぜ?」  恋塚は最後に茶化すように、僕の口調を真似して言った。でも、確かにそうだ。間違えたら終わりだなんて誰も決めてやしない。僕はまだ生きてる。牧野も生きてる。なら、できることがあるはずだ。  そしてそれはきっと、今からでも遅くないはずだ。今度こそ本当に、僕は彼女のために、そして自分のために動く。僕は確かに間違えたけど、その全てが間違っていたわけじゃない。あれだけ必死になったのだから、それは正しかったはずだ。大事なのは、ここからだ。 「……恋塚、お前案外、悩み相談向いてるかもよ?」 「えー、もう勘弁。オッサンだから聞いたんだぞ。他の奴なんか知るかっての」 「そういうなよ、今度牧野を紹介してやるからさ。あいつも良い奴だぜ? なんせ僕が惚れた女だからな」  恋塚は僕の言葉の内を探っているのだろうか。しばし黙り込んで、そして唇の端をつり上げた。きっとそれは、本心からの笑みだった。 「期待しとくよ。で、どーするわけ?」 「牧野に痛みの追体験をさせたい。大元になった痛みを、僕が吸い取るんだ。そうしたら、きっと牧野の痛みは消える、はずだ……」  確証はないけれど。僕にできることと言えばそれしかない。他のことは他の人がやってくれることだろう。僕はただ、自分にできることを精一杯やるだけだ。これまでも、これからも。 「でも、その記憶を呼び起こす方法がないんだ……。恋塚、お前の能力もそんなことはできないよな?」 「なんだ、そんなことか」  恋塚はなんでもないように鼻を鳴らす。 「催眠術を使えばいいじゃん? ほら、最近聞くだろ。過去の記憶を追体験できるとかなんとかさ」 「……ヒプノセラピーか!」  確かそんな話をどこかで聞いた気がする。あれはどこだったか。くそ、思考が焦るばかりで思い出せない! 「でもそんなことできる奴なんて……」 「これからデッカいことやろうって奴が、でも、だって、はよくねえな。それならほら、あの保険の先生に頼めばいいじゃん。ほら、前に催眠術がどうとか言ってたろ。あれで過去の体験を思い出させることはできるんじゃねえの? 資格まで持ってるとか吹いてたじゃん」  まるで天恵のようなそれを、僕は返事するのも忘れて即座に実行した。保険医、佐々木先生の番号は以前に教えてもらっていたからだ。 『……何を言ってるのかよく分からんが、理論上は可能だ』  その言葉に、僕は喜びという喜びを顔中にちりばめて顔を上げた。 「恋塚!」 「お、なになに。俺もしかして良いこと言っちゃった系?」 「お前、最高だよ! 今度酒でも飲むぞ!」 「お、おおう……。なんだよ、急に……タバコも?」 「いくらでも吸え! 未成年喫煙飲酒上等だ! ああ、最高の友達を持ったよ、僕は!」  善は急げ、だ。もしもまた牧野と会えたなら。そして、僕を許してくれるなら。今度こそ僕は彼女の希望となろう。そして今度こそ自信を持って、好きだと耳元で叫んでやろう。 ……ついでに、今度こそちゃんとキスでもできたら、最高だな。  『七』 ――僕の死まで、一ヶ月  遠く、電車が今日も同じ速度で走っている。他になんの音もないこの場所では、列車の車輪がレールの継ぎ目を越えていく音がよく聞こえる。 時刻は夕暮れ。山を覆うほど大きくなった夕日が街に茜の影を落としている。  車輪がコロコロと回る、電車のそれより軽い音を聞いた。車椅子の動く音だ。 「……牧野」  僕は、その場所で彼女と待ち合わせをしていた。焦るでもなく、紫煙をくゆらせながら彼女を迎える。来てくれた。それだけで僕は満足だった。もしこれからのことが上手くいかなくても……いや、やるんだ。最後まであがくと、そう決めたのだから。 「大島さん」  そんな声は、いつかのあの日を思わせる。この場所で牧野と転生について語った、あの日のことを。 だが、僕はもうあの頃の僕じゃない。精一杯頑張った。同じ数だけ間違えた。しかし、僕も彼女も未だこの場所に立っている。その事実を、神に感謝した。  すう、と息を吸ったのは同時だった。 「あの時はごめん。でも、お前を助ける策が見つかった」 「この間はごめんなさい。でも、大島さんを助ける策があったよ」  また、声を発したのも同時のことだった。一息にそれを言った僕らはお互いの顔をしばし見合わせた。  そして、吹き出すタイミングまで同じだった。それがまたおかしくて、僕らは笑い合った。 「おい、僕はもうちょっと湿っぽい感じで謝ろうとしたんだぞ!」 「わ、私だって! もっと大切にしようと思ってたよ。この一瞬を……」  きっと以前と何も変わっていない。僕は牧野と心中をするつもりはないし、これまで間違っていたことも確かだ。お互いが全く逆のことをしているのも同じだ。 なのに、雰囲気だけが違った。まるで二人で酒を飲んだあの夜の、楽しかったあの一時がまだ続いているような空気だった。 「謝って! もっとちゃんと謝って! 私、心の準備できてなかったよー」 「ああ、ごめんごめん」 「軽い!」  いやいけない。ここはちゃんとしないといけない場面だ。なのに、笑いは止まらなかった。だってそうだろ。好きな人と、互いに気持ちが向き合っていたのだ。こんなに嬉しいことって、ないだろ? 「まあ……こんなのも、僕ららしくて、いいんじゃないか?」 「もう……。魔法の言葉だよね、私たちらしい」  そう、これは僕らの、僕らだけの物語だった。最初から最後までそうだったんだ。誰が見ているわけでもない、何も恥じることはない。 「人間、言葉だけで魔法って使えるもんだな」 「それじゃ、大島さんは私にどんな魔法をかけてくれるの?」 「おっと、僕のは本物だぜ? 種も仕掛けもありませんってな……でも、その前に」  やっぱり、言うべきことはちゃんと言わないとな。 「牧野、ごめんな。やっぱり僕は、ちゃんとお前のことを僕は見てなかった。僕の自己満足のために、随分お前を振り回した。でも、もう間違えないから。もう死んでもいいなんて言わない。心中してやるなんて言えねえ。だけど、死ぬ時まで一緒にいるから。それだけは、本当だから。僕にもう一度、チャンスをくれ」  牧野は怒るでもなく、優しい笑みを浮かべるでもなく、顔面がとろけたように妙な笑みを浮かばせる。 「あは……やっぱ、私、間違えてたんだ。エルの言うとおりだ……。うん、やっぱり、大島さんを好きになって。そこだけは間違ってなかったよ」  牧野はそのまま、深く頭を下げた。金髪がオレンジ色の陽光に照らされて赤く染まってきらめきをまとっていた。 「ごめんね、たくさんひどいことを言った。重たい女だったよね。それでも、今まで一緒にいてくれて、ありがとう。できることなら、これからも一緒にいてください」  ああ、良かった。ちゃんと会おうと思って、本当に良かったと思う。 「ああ、よろしくな。牧野」 「うん……大島さん」  彼女はそっと車椅子を前に動かすと、その体を僕の方へ寄せてくる。僕もそれを受け入れるように腕を広げる。もういつかのような距離感はそこにはなかった。肌と肌が触れあい、柔らかな感触と身をつんざくような痛み。肌寒い風の中で僕らはいつまでもお互いの体温だけを感じていた。 「……牧野、これから僕はお前に催眠術をかける」 「うん? なに、それ」 「お前の痛みの元凶は、過去に受けた暴力だって聞いてさ。その時の記憶を追体験させるんだ」  牧野はえっ、と声を漏らし、身じろぎをした。そんな彼女を離さないようにぐっと強く抱きしめる。 「そんなの……怖いよ」 「大丈夫だ。僕がいる。牧野を助けるために僕は今ここにいるんだ。過去の君も、今の君も、君の未来さえ、僕が守ってみせる。だから、僕を信じてくれ」  佐々木先生から、催眠術に必要なのは患者との信頼関係が大切だと聞いていた。だから、佐々木先生がするより僕が術をかけた方が成功率が高いと言われたのだ。そのために一ヶ月間、僕は佐々木先生の元で修行のようなものをしていた。 「……ふふっ、昔の私さえ、助けてくれるんだね。やっぱすごいや、大島さんは」 「受けてくれるか?」 「うん。大島さんなら……身も心も、捧げます、よ?」  牧野の耳は真っ赤に染まっていた。それがなんだか愛おしくて、僕はその長い金髪を撫でた。 「それじゃ、深呼吸しよう。なに、そう大変なことはしない。牧野はただ、僕の言うことに従ってくれればいい」  やることはそう難しいことではない。要は記憶の奥底に眠っている彼女の痛みを思い出させてやるだけだ。それを片っ端から僕が食らって、もう痛くないんだよ、と牧野の体に教えてやる、というわけだ。  大事なのは、牧野が僕を信じてくれるか、という一点のみだった。僕は信じている。牧野を救おうと駆け回ってきたこれまでの自分を信じている。そんな僕に、彼女は全てを捧げると言ってくれた。ならば、成功しなければ、嘘だろう。  さあ始めようか。僕の一世一代の超能力ショーの開幕だ。 「そう、僕に全てを預けて。指先に意識を向ける、すると力が抜けていく。足、腹、胸……顔の筋肉から、力が抜けていく」  言葉を進めていく度に、牧野の体の重みは増していく。まずは順調な滑り出しに安心した。催眠誘導を続けていくうちに、ついに牧野はひざまずいた僕の腕の中で目を閉じて眠っているような様になった。だが、深い眠りにまでは落とさない。  夢と現の間に、僕の求めるものがある。ここにきて、痛みを吸い取る時にちょっとしたトランス状態に陥るという僕の能力の特性が役に立った。 「あなたの意識は過去に向かっていく。幼い頃、まだ父親がいたその日まで戻る……」  痛みが徐々に強くなっていく。内部からの痛みだけではない、ハッキリとした外部から殴られるような痛みを僕は感じ取った。そいつが全ての元凶だ。僕はその感覚を手放すまいとより強く彼女の体を自分の体に押しつける。 「うっ……」  そして、聞こえ始める牧野の嗚咽。恐怖から逃れようと暴れる体を僕は必死に押さえつけて、指を絡ませ、顔を押しつけ、全身で彼女の感触を感じた。  まるで僕自身が遠い世界に連れて行かれたように感じた。そこには痛みしかない。全身にもう痛くない場所など存在しない。だというのに痛みは群れとなってさらに襲いかかってくる。  上等だ、かかってこい。そして消えて無くなれ、僕と彼女を引き裂く痛みよ。他の何に負けたって、お前ら痛みの使徒にだけは、負けられない。お前らなんかに、殺されたりはしない。  体を裂くような痛みの連続を、僕は初めて意識して消していった。ただ漫然と吸い取るだけじゃない、かき集め、叩き潰し、消滅させていく。そうか、これこそが僕の能力の真価だったのか。  いつまでそうしていたか、もう分からない。周囲の景色など目に入らない。僕はただずっと、牧野の痛みと向かい合ってきた。ならば今この瞬間、立ち向かわなくてどうする。痛みを拒絶する本能を押さえつけ、もっともっとと痛みを求めた。  腕がちぎれてもこの手は離さない。足がもげても僕は牧野の側に立っている。そうして彼女の過去から今に至るまでの全ての痛みを感じながら、僕はその果てに見た。 どす黒い、渦巻く深淵のような痛みの塊を。 「……こいつが、最後か」  それは確かに、父親の顔をしていた。痛みの子と呼ぶべき牧野の父に相応しい姿だった。 ゆっくりと手を伸ばし、それに触れる。途端。痛みが。今まで味わったどれよりも強烈な痛みが、炎のように渦巻いて。 「消えろよ……消えろおおおおおお!」  僕はその奔流に飲み込まれて、その核を突き破った。聞こえるはずのない、ガラスの割れるような音が確かにした気がした。  そして、全ての痛みが、波が引くように消えていった……。  温かい、何かに包まれていた。まどろみのような感覚の中、それにすがりつくように触れた。柔らかく、それでいて芯を感じるような、妙な感触だった。 「……大島さん」  やがて、フィルターを通しているように遠くから聞こえる声。ああ、確か大好きな人の声だった。 「目を覚まして。大島さん」  ああ、聞こえてるよ。だからそう怒鳴らないでくれ。こんな穏やかな気持ちは、ひどく久しぶりなんだ。痛みのない世界。そんな当たり前のことが、そんな当たり前じゃないことが、とても幸せなんだ。 「起きろっての! この!」  瞬間、ぱあん、と空間が弾ける音が聞こえた。遅れてやってくる頬へのじんわりとした痛み。 「はっ……牧野?」  眼前に、牧野の顔。いつの間にか時刻は夜を迎えたらしい。相変わらずとても整った顔だ。月明かりを浴びて照り輝いているように美しく、一種のまぶしささえ感じられる。 まっすぐ僕を見つめる瞳は、まるで今咲いたような生き生きとした光を見せている。 「……成功、したのか」  僕は牧野の手に触れていることに気付く。だが、そこにもうかつての痛みはない。そうか、今まで感じていたのが、人の肌に触れているということなのか。僕はそんなことに今初めて気がついた。 「やった、んだよな? おい、痛みがないぞ! やった、やった!」 「……」  僕は打ち勝ったのだ。彼女の抱える痛みに。牧野と腕を組んで、頬を撫でて、強く抱きしめた。そこにあるのはただ、彼女の温もりのみだ。もう、何の痛みも感じられない。 「おい、もっと喜べよ! ついにやり遂げたんだ。なあ、もう大丈夫だろう?」  牧野は僕にされるがまま、車椅子に座り込んだまま、笑っていた。寂しそうに、嬉しそうに、いくつもの感情を込めた笑みを浮かべていた。 「……大島さん、嘘、嫌いだったよね?」 「あ、ああ。そうだな。どうだ、今の気持ちは?」  言葉が急いているのを感じた。僕は一体何を焦っているというんだ? 牧野はふるふると、首をゆっくり横に振って再び僕を見据えた。その視線が、なぜか重たく感じられた。 「痛み……消えてないよ」  それはなによりもの宣告だった。僕はカラカラになった喉を必死に動かして、言葉を紡ぐ。そう意識しないと、何かが崩れていってしまいそうだったのだ。 「う、嘘はやめろよ。だって、ほら。これだけ触れているのに、痛みなんて!」 「それはきっと……大島さんの力が、無くなったんじゃないかな。私の中で、すごく大きなものが消えていく気配がしたんだ」  ……僕の力が? 無くなってしまえとずっと思っていた、ミネルカにも魂に強く結びついていると言われた能力が、このタイミングで消えただって? 「そんなの……ないだろ」  あんまりだ。あんまりすぎる。一番大切なタイミングで、どの瞬間よりもその力を頼った瞬間消えていくなんて。 「もう……僕には、何も」  何もできない。希望は潰えたのだ。あまりに残酷な現実を目の前にして、ファンタジーの力は負けたのだ。 「大島さん、もう私に触れても痛くないんだよね?」 「……何も、感じない」 「そっか」  牧野は瞳を閉じて、ゆっくりと顔を近づけてくる。それの意味が分からないほど僕も野暮じゃない。だけど、それを受け取る権利なんて、僕には。  だけど、堪えられず、その唇を奪った。二回目のキスは、しょっぱかった。だがその感触は今度こそハッキリとしていて、あまりに甘美だった。 「あは……ちゃんとできた。言っとくけど、これはお礼なんかのキスじゃないからね」 「……どういうことだよ。だって僕は、お前を……」  失敗してしまったという後悔が津波のように襲いかかってくる。だってもう取れる手段は全て取った。現代の医学、催眠術、超能力、その全てを持ってしても彼女の病には敵わなかったのだ。  ならこれ以上取れる手段なんて、もう本当に存在しないじゃないか。この世の何者も、彼女を助けることなんてできなかったんじゃないか。  僕は負けたのだ。牧野にとって、そして僕にとっての痛みの使徒に。ならば、僕のするべきこととは。 ……唯一、できることなんて。 「牧野……僕は」  言葉を紡ぐのがやっとだ。いつの間にか流れていた涙が、何度もその一言を邪魔する。だが言わなければならなかった。残酷な真実を、告げなければならなかった。 膝から力が抜け、もう僕はとても立って居られなかった、 「僕は、お前を……治せない」 「……うん」  どうして、こうなってしまったのだろう。何が悪かったというのだろうか。だがそれを考えてる時間さえ、もう僕にはないのだ。あの力を失ってしまった僕など、もう生き損なっただけのガキだ。いや、力を持っていてもそうだったのだ。だったら、なおさら。  だけど牧野は笑った。いいんだよ、と優しく笑った。その優しさが、僕には辛かった。 「わからないんだ。どれだけ考えたって。お前を救うための策が、まるで見つからないんだ。これだと思ったものは全てダメだった。でもついに見つけたと思った。だからもうこれしかないと思った。これで全てを終わらせようって、そう思ったのに……後悔が、まるで止まらないんだ。でも、もう僕には……時間が無い。僕は、もう、お前を、救えない」 「……じゃあ、やっぱ私、間違えてたんだね」  その一言に、心臓が止まりそうになる。やはり、そうだったのか? 僕らはずっと間違ったままだったのか? 「なんでもないただの患者に、ここまでしてくれるわけないよね。私、いつの間にか大島さんを随分美化してたみたい。大島さんなんて、チビでヘタレで誰にでも優しいお人好しな……」 「……そこまで言うかよ」 「でも、私のために全身全霊を尽くしてくれた人。私の人生に寄り添って、支えてくれた愛しい人。辛かったよね、痛かったよね、でも、頑張ってくれたんだよね。だったら……あ、やだ」  泣いているのは、僕ばかりではなかった。牧野もぽろぽろと、熱い滴をこぼし始めた。 「私は、病気を治してくれるヒーローを探していたんじゃなかった。共に死んでくれる相方を探していたわけじゃなかった。ただ、一緒に……頑張ってくれる人を、求めていたんだ」  ひどい間違いだったね、これでおあいこだ。と牧野は笑った。 「ほんとはね、文句言ってやろうと思ったの。大島さんが気を失った時、また痛みが私の中に戻ってきたから。やっぱだめだったじゃんかって、もう本当に死んでやるからって、そう言ってやろうって。でも、大島さんの顔を見てたら……なんか、満足しちゃった。喜んじゃった。ああ、この人は本当に頑張ってくれたんだなあ、って。私の中で闘ってくれた感覚を思い出したら、泣けてきちゃった。私は、痛みを癒やす力を持ったあなたと触れている間だけ痛みから逃れられた。それが救いだと思ってたんだ。でも違った……。真剣に私を支えようとしてくれるあなたと触れていること自体が、幸せだったんだ」  ひざまずいてしまった僕を、牧野はそっと抱き寄せる。もうそんなことをしても、彼女の痛みは無くならないというのに。それでも僕の頭を抱えて、涙に濡れた吐息を漏らした。 「ありがとう、私を受け止めてくれて。きっとそれだけで私は、もうとっくに救われてたんだ。あなたと一緒なら……そう思えた」 「……僕なんかで、いいのか。何もできやしなかった、僕なんかで」 「大島さんがいいんだよ。何かをしようとしてくれた、あなたがいいの」  ああ、報われた。僕は彼女の言葉に、そう感じた。 これまでの全てが、無駄ではなかった。間違えていたかもしれない、現実には何も変わっていないのかもしれない。だけど、その全てが彼女の心に何かを残せたのだ。 「僕も、なんだか、それを聞くと、満足だ」  なんだか、笑える話だ。灯台下暗しとはこのことか。僕らの間にずっとその答えは転がっていただろうに、左右違う方向をさまよっていたとは。 「でも、僕はもう死んじまう」 「そのための策を見つけてきたって……言ったはずだよ。私の大事な友達が、見つけてくれたんだ」  その言葉に、僕はエルという少女の姿を思い出す。やはり、そういうことだったか。なんだか笑ってしまう。僕も鈍いな、あんなにそっくりだったというのに、髑髏の仮面一つで気づけないなんて。 「じゃあ、新しい約束をしようぜ。僕が、僕と牧野が生きていけた先の話のさ」 「どんな?」 「どうか、僕と一緒に、これからの人生を歩んで欲しい。僕がいることが助けになると言うのなら、一緒に死ぬんじゃなくて、一緒に生きていきたい」  僕の一世一代のプロポーズに、牧野はずず、と鼻をすすって、大きく頷いてくれた。 「ありがとう。こちらこそ、こんな私だけど、よろしくね」 「ありがとう、どうか、末永く……」 「でもその前に、一言欲しいなあ」 「なんだよ?」  牧野はいつものように、僕をからかう目つきになった。そして、少し気恥ずかしそうに言う。 「私のこと、好き?」 ああ、やっと言えるのだ。 「この世の誰よりも、愛してるよ」  『八』 ――僕が死ぬその日  随分惑わされた。本当に色んなことがあった一年だった。だが思い返せば、やはり全てはここから始まっていたように思う。  かやぶき屋根の立ち並ぶ、田舎の風景。田んぼばかりのその道をゆっくりと歩き、僕は恋塚と共に来た記憶を頼りにその場所までたどり着いた。  大きな樹木に覆われた、不自然に開けたその丘。木々の合間から月と星の光が漏れ出ているのが見える。 「じゃあ、行ってくるよ」  僕は共についてきていた牧野、そしてエルに告げた。 「エル、本当に大丈夫なんだろうな」 「ミネルカのいるあの空間、あれさえ壊してしまえば。全ては終わる」 「私の友達の言葉を信じてあげてよ。大島さん」  牧野は笑みと共に言う。エルもそれに深く頷いていた。エルが、普通の少女ではないことはもうなんとなく察しがついていた。それでも、僕は彼女を殺そうとは思わなかった。僕らが今やろうとしてるのは、そんなことよりもっと大きなことだからだ。  それならまあ、と僕は正面に向き直る。 「……ミネルカ。約束の日だぜ」  もう、あんなふざけた文句を叫びはしない。僕は好きにできる来世など望まない。今ある人生を大好きな人と共に歩むと決めたのだ。  瞬間、入れ替わる世界。樹木は遠く、空が落ちてくる。やがて僕の眼前に現れたのは、あの真っ白な世界だった。  その中央に鎮座するように置いてあるカエルのぬいぐるみ。どうやら、やはりこの場には僕とミネルカしかいないらしい。 「自分から死にに来るなんて、良い度胸なの。君を捜し回る手間が省けたの」  もはや懐かしい、ミネルカの声。僕はそれを笑いながら迎え入れた。 「神様の手を煩わせるわけにはいかないからな……いや、元天使様の、悪魔だっけ?」  僕の言葉に、ミネルカは無反応。だが閉じられることのない瞳に僕は確かに動揺を見いだした。 「すっかり騙されてたよ。お前はまさに神と呼ぶべき力を持っていたからな。まさか本当に……あの時、冗談で言った言葉が真実だったとはね」 「……」  これは牧野が仕入れてくれた情報だ。この街に伝わる都市伝説には二つあった。交差する丘の異世界転生の噂と、人の死を看取る天使の噂だ。その話はまさに表裏一体。ミネルカこそが魂の穢れを濯ぐ天使であり、人に希望の死を魅せる悪魔だったのだ。 「ゲームマスターが真の目標だったなんてな。いやらしいゲームを作るよな、お前も……。それじゃ、あの時の言葉をそのまま言うぜ。ほら、悪魔を見つけた。こんなゲームを持ちかけてくるお前こそが悪魔だろう?」 「……あの死神、余計なことを吹き込んでくれたものなの。こんなのルール違反なの。人間のゲームに、そんな存在が紛れ込んだらダメなの」 「負け惜しみか? ミネルカ、僕はもう死ぬ気はないぜ。お前を殺してでも……ゲームをクリアして、約束通り人を癒やす奴隷になってやるさ。牧野桃子という少女の生涯を支えるつもりだ」 「ミネルカを殺しても、貴様の来世はもう確定してしまっているの。おじいさんになってから死んでも、来世は必ず癒やしの奴隷になってもらうの」  僕はそんな脅し文句を笑い飛ばす。なんだ、そんなことか。 「僕にはもうそんな力、残ってないぜ? ま、構わないさ。むしろ大歓迎さ。だってそれって、また来世でも誰かの支えになれるってことだろ? こんな幸せ、他にないね」 だが、それまでは。この人生だけは。 「この一生を、牧野に捧げる。僕に全てを捧げてくれたあの子に捧げる。それだけは、譲れないな」 「……ミネルカは全知ではないけれど、貴様のことはずっと見てきたの。なぜ貴様は、そうまでして他人のために動けるの。どうしてそこまで他人のことを想えるの」  ミネルカは僅かに顔を伏せ、深々と息を吐いた。 「君は異常だったの。本当に心の底から他人のためだけに行動できる人間なんて、存在しないはずなの。君は一体……何者だったというの」 「ははっ、なんだ。ミネルカ、もしかして僕のことを特別だとか思ってるのか? そんなわけないだろ? 僕を見てたというなら、知ってるはずだ。僕は結局何もできない、ちっぽけな人間そのものだったってことをな」  僕を特別たらしめていた能力も、もう存在しない。随分あの力にも振り回されてきたが、そのくらいの障害、きっと誰にだってあるものだ。 「誰にでもできることさ。苦しんでいる子に肩を貸して、そっと背中を押した。僕のしたことなんて、そのくらいのことだ。救うだなんだって、ただの人間が言うべきことじゃなかったんだよ。だから僕は間違えたんだ」  救わなくていいと言ってくれた人がいるから、報われたと言ってくれた人がいたから。だからこそ僕も気づけたことなのだが。 「……きっと良い気分なの。ズルをしてゲームをクリアしようと……今殺そうとしているこのミネルカに上からそんなことを言うのは、さぞかしいい気分なのん」 「なんだ、本当に全知じゃないんだな。僕は今すごく、お前に感謝してるんだぜ」  ミネルカが首をかしげる。そんな様がなんだか笑えた。 遠く、天上から重たい音が響いてくる。どうやら僕の計画は順調に進んでいるらしい。 「お前に期間を決めてもらわなきゃ、きっと僕はここまで必死になれはしなかった。いつまでも逃げ続けて、大事なものから目を背け続けてきた。死ぬ気でこの半年間を生きなきゃ、まさに生き損なっていた。特別な力なんてなくても、誰かのためになれるんだって、分からないままだった。だから、ありがとう。ミネルカ。僕が今こんなに良い気分なのは、お前のおかげだ」  僕は深く、頭を下げる。全くもって本心からの言葉だった。 「……何人もの人間がミネルカの前で死んでいったの。でもその内の誰一人として、ミネルカにお礼なんて言わなかったの」 「それは、きっとミネルカが間違えていたからだな。お前の全能の力は人を殺すために使うべきじゃなかった。人を救うためにこそ輝くものだったっていうのに」 「……違うの。ミネルカの仕事は絶望した人間に救いを与えることなの。だったら、どうしようもない現実にできることなんてなかったの。死に希望を与えることしか……まあ今更、そんなことを言っても仕方ないの。でも、忘れているの。どうやってこのミネルカを殺そうと言うの? 今この瞬間にだって、ミネルカには貴様程度の命なら散らせるの」 「いや、もう間に合わないんじゃないか?」  僕がそう言った瞬間、轟音と共に世界が割れた。僕の発言の内容は真実そのものだったが、その真意はただの時間稼ぎだった。  そして、視界に開ける、さっきまでいた丘の景色。そして、喜色に顔を彩った牧野。 「エル、間に合ってくれたか!」 「な、なんなのこれは!」  ミネルカの動揺なんて、随分貴重なものが見られたもんだ。 「あり得ないの。ここはミネルカだけの空間……何者にも破られることなんてないはずなの!」 「何言ってるんだ、お前が殺したいと思ってた……それでも殺せなかった奴の力だろ? だったら、現実とこの世界の境界くらい、破れないはずがないじゃないか」  恋塚に全てを話して得た策はこれだった。ゲームをクリアしても死に、できなくても死んでしまうなら、ゲームそのものを破壊してしまう。これこそ恋塚の考える僕の死を免れる唯一の方法だった。 「お前は全能だなんて言ってたけど……おそらく、あの空間にいる時だけなんじゃないか?だから決まってお前は僕らに一度だけ、それもあの空間でしか会おうとしかしなかった」 「……」  目を見開いたミネルカが、瞬きの間に距離を詰め、僕を押し倒す。何も言わず、感情のない顔で僕の喉を締めかかる。  だが沈黙は肯定の表れだ。神を名乗る者を出し抜けたのだ。上等だろう。 「やって、くれたの……。ミネルカのゲームを、よくも台無しにしてくれたの。その代償は、もはや貴様一人の命じゃ済まさないの」 「くっ……はっ、それはルール違反だろ?」  そのゲームを破壊した僕が、よくもまあ言えたものだという話だ。 「あなたが、ミネルカね」  牧野にとっては初対面か。しかし、ミネルカの方は牧野を知っていたはずだ。そのミネルカが忌々しげに牧野を見やる。 「ミネルカは、君のような人間の味方なの。どうしてこんなことをしたの?」 「……エルに聞いた。あなたもかつては人の魂を救う天使だったんでしょ? どうして人を殺すようなゲームを開くようになってしまったの?」 それは、きっと牧野の内にしかなかった言葉だ。少なくとも僕の予定にはなかった。 「……人間ごときに理解できる話じゃないの」 「ううん。私には分かる。あなたは人間の味方であったはず。じゃなきゃ、来世を約束する……死に希望を与えるゲームなんて、開くはずがないもの。もっと残酷なゲームを開いていたはず」  ミネルカは僕から視線を外さないまま、感情を殺した声で返す。 「神は間違えたりなんてしないの。人間には必要なことだったの」 「でも、あなたは神じゃない」  だから、と牧野はミネルカに向き直る。 「あなたは間違っている。大島さんの死を望むゲームなんて、あなたの本懐とは違うはず」 「人間ごときが、よく喋るの」 「人間じゃない、ちょっと変な友達と話をしたからね。ねえ、もうやめよう? 悪魔のフリをするのは……あなたが望んでいたのは、エルと同じ、未練のない死なんでしょう? みんなを救うはずの存在だったんでしょう? ただありがとうの言葉を欲して、生まれたはずでしょう」  僕は呆気にとられてその会話を聞いていた。だが、これでどうしてもと牧野がついてきた理由も分かった。 「だから……どうか、その手を離して。もう私の希望は死にはない。その人と共に歩く未来にこそあるの」 「……来世は、必要ないと言うの。ミネルカも、必要ないの……?」 「欲しくない。私は、今ある人生を精一杯生きるって決めたの。……きっと、誰もがそうなんだ。文句を垂れながら、それでも明日を向いて生きるのが、正しいことなの」  そう教えてくれた人がいるから、と牧野は僕を見下ろす。僕は相変わらず強すぎる力で押さえつけられたままだが、それに笑い返した。 「……それでも、ゲームはゲームなの。悪魔を殺せなかった大島浩輝には、罰を受けてもらうの」 「やってみろよ。それで後悔するのはお前だぜ」 「どいつもこいつもっ……!?」  ミネルカが僕を殺そうと、両腕を振り上げた瞬間のことだった。銀色の風がミネルカを取り囲み、吹き荒れ……それが静まる頃には、ミネルカの腹には大きな鎌が突き刺さっていた。 「貴様……エル……!」 「……もう。人間に。私たちみたいな存在は必要ない」  優しく諭すような、それでいて長年の友人に話しかけるような声の調子だった。 「そんなことないの……! 人間には、死に希望が必要なの。ミネルカはまだ、死ぬわけには……!」 「人間は。もう一人で……お互いに支え合って、生きて、死んでいける。神の手による魂の救済なんて。もう望まれていない。その一生を懸命に生きたなら。来世を迎えることに迷いはなくなる。望まれた転生なんてもの、必要なくなる」 「……ここでミネルカが死んでも、ゲームは消えて無くなったりしないの」 「それも問題ない。だって私は。大島浩輝と牧野桃子の物語を見てきて、消えることを決意したから。私……私たち、悪魔の死は。その二人によってもたらされる」  ミネルカの体がビクリと震えるのが見て取れた。って、ちょっと待て。 「おい、エル。そんな話は聞いてないぞ。ミネルカを説得するって、そう言ったじゃないか。お前……」 「そ、そうだよエル! 死ぬなんて聞いてない!」 「ん……。約束を違えてはいない。浩輝を助けて。ミネルカを殺すと言ったはず。ゲームのクリアのために。必要なことだった。私は人の心の叫びに応える存在。でも、人の子はもうそんな存在を必要としなくなった。その叫びを誰かが聞き届けて助けてくれる。そんな時代になったから。だから消える。それだけの話」 「エル……」  牧野にとって、初めてできた友達だった。その彼女が消えてしまうという今、彼女は何を思うのだろうか。ふと、ある夕方エルが牧野に全てを伝えようと僕を出し抜いたことがあったのを思い出す。あれは、そうか。きっとあれ、エルにとっての、遺言のようなものだった。 「……桃子。あなたの助けを求める声は。確かに私に届いた。あなたの叫びが、私をその気にさせた。どうかその意思を、大切に。それはきっと、誰かのためになる」  牧野は声も出せないように涙を堪えて、何度も頷く。 「それじゃあ、ミネルカ。私たちも。一緒に逝こう……」  ミネルカとエルを取り囲むように、淡い光の玉がいくつも舞い上がっていく。 「いや、いやなの! ミネルカは、人に希望を……!」 「ミネルカ」  僕を殺すと脅していたミネルカが、死の恐怖におびえている。そんな様を、なんだか見ていられなくなった。 「さっきの言葉は、本当だ。僕の希望はお前にもらった。お前は、その役目を……ちゃんとこなしていたよ。お前の開いてくれたゲームに参加していたこの僕の言葉だぜ? 信じろよ」 ミネルカは、僕と出会ってから初めて表情を変えた。その大きな瞳から、一滴。 「……人間は、もう。一人で希望を持てるの……?」 「一人で、じゃないさ。大事な誰かとなら、ね」  ミネルカは分かってくれただろうか。それは分からない。二人を取り囲む光の玉は徐々に大きくなり、やがて、本当に全て消えてしまったから。 「……あなたたちの生という希望を、大切に」  それがどちらの言葉だったか、分からないことだけが、小さなしこりとなって残った。  『零』 「ねえ、大島さん」 「なんだよ?」 「転生って信じてる?」 「……いや、信じないな。だってもう、それをする存在はいなくなったんだからさ」 「そうだね」 「牧野はまだしたいわけ?」 「ううん……私は、もういいや。でも、どこかの誰かは必要としてるのかなって。たまに思うんだ」 「……だったら、そんな奴らに希望を示すことをしようぜ。もっとたくさんの奴と知り合ってさ。そんな誰かの助けを求める声を受け取ることが大事って、学んだろ?」 「うん……。私も、今度こそ大島さんとの約束を守るよ。痛かったら痛いと言っていいんだよって、みんなに伝えることをするよ。まずは本なんてどうだろ。もしも、たくさんの人に読んでもらえたらだけどね」 「そうだな……いいんじゃないか。タイトルはどんなにする?」 「じゃ、前を向けなかった私に宛てて。何もかもを見失ってしまった人に読んでもらえるように、明日の見えない君へ、とか」 「はは、いいじゃないか。それでいこうぜ」 「ふふ、いいね。じゃあ、行こうか」 「ああ、恋塚の奴、待たせると怒るんだよ。それより、ちゃんと喋れるか?」 「大丈夫だよ。大島さんの悪口で盛り上がればいいんでしょ?」 「こら」 「ふふ。ねえ、大島さんはもしも転生の権利を使えたらどうしてた?」 「そんなの、決まってるだろ?」 「なになに?」 「また、牧野と出会えますように……ってね」 ――僕らの死までの未来、無限大
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