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[*label_img*]  エクリア村を出立してから二時間。ようやくエクリア村のあるヒース領とディヴァーン領の境街に到着した。  田舎の街だが、そこそこ発展しており、書店があることが大きい。エレインは品揃えを確認するため、書店に入ることにした。  二階建てのレンガ造りの建物の中は吹き抜けになっており、天井まで届く本棚にはびっしりと本が詰め込まれている。意外と識字勉強用の本の需要があるらしく、子供用の絵本も揃っていた。擬似魔法の書物はというと——やはりというか、一切なかった。自宅や王都で、大量の擬似魔法の書物を買いあさってきたことは間違いではなかった。  次に向かったのは、市場だ。朝市はもう終わっていたが、青果店や肉屋など何店舗か営業しているのを確認した。物価はかなり安い。塩漬け肉がおよそ一キロ(エレインの目で見た感覚だが)当たり王都の半額以下の値段で流通している。内陸部のため、魚屋がないことだけが残念だったが、仕方がない。  アラステアにこの街の物価について尋ねてみると、田舎では高いほう、らしい。ここまで格差が酷いとは思わなかった。ディヴァーン領に入れば、もっと酷くなるかもしれない。屋台でローストビーフのサンドイッチを三つ買い、御者とアラステアに渡す。  エレインたちは馬車に戻り、ディヴァーン領へ向けて出発した。  アラステアはエレインの行動が不可解らしく、こう尋ねてきた。 「どうして魚屋を探していたのですか?」 「ええと……干し魚は肥料になるんですよ」 「ええっ!? そんなこと聞いたことありませんよ!」 「昔、自宅の図書室で農業関係の本を読んだことがありまして、そこに書いてあったんです。でも、干し魚が大量に取れないならその方法も取れませんから、家畜の骨粉を土に混ぜるくらいしかできませんね。擬似魔法で土壌を豊かにしてもいいんですが、書物の数にも限りがありますから」 「なるほど」  アラステアは納得したのか、腕を組む。 「でもまずは、現ディヴァーン領の領主代理に話を聞かないことには始まりませんね。前領主は病気でお亡くなりになって半年経っているそうですから」  領主の急逝によって、その家の人間が領主代理となり、国王の承認を受けて領主に就任することは珍しくないのだが、前領主は親族がいなかったらしく、家令が領主代理を務めていると聞く。普通そういう場合は近隣の領に併合されるものなのだが、ディヴァーン領は貧しいため、どこの隣接した領も引き受けたがらなかったらしい。  特段特産品もなく、栽培しているのは小麦、大麦程度で、家畜の数は他の隣接する領との放牧地の争いで敗訴したため縮小傾向にあるという。家畜の数を減らすことは、人口を減らすことにも等しいため、何とかしなければならない。  昼頃になって、ようやくディヴァーン領クルナという街に到着した。  街を見るのは後回しにして、エレインたちはクルナの郊外にある館へ行く。  いかにもお化け屋敷、という雰囲気の館は、見る者の正気度を削いでいくかのようだった。  主人がいなくなった屋敷を家令一人で切り盛りしている、と聞いていたが、どうやら庭の手入れまでは手が行き届いておらず、壁も蔦が生え、近くの墓地の森から来たカラスがカーカー鳴いている。 「アルさん、先に行ってください」 「エルさん、こんなときだけ頼るのやめてくださいよ」 「だって怖いじゃないですか!」 「僕だって怖いですよ!」 「勇者なんだから行ってください!」  門前で二人でぎゃあぎゃあ言い合いをしていると、館の扉がギィ、と開く。  二人はギョッとした。骸骨のような老人が燕尾服を着て立っていた。 「遠路はるばるようこそいらっしゃいました、エレイン・ディクスン様。私、家令のヘドウィグと申す者でございます。以後お見知り置きを」  老人は深々とお辞儀をする。  二人は顔を見合わせ、せーので一緒に館へ入ることで合意した。  館の中は打って変わって綺麗なものだった。少し薄暗いが、蝋燭が足りていないせいだろう。  家令のヘドウィグは前領主についてエレインに問われると、こう答えた。 「旦那様は長い間病を患っておられまして、つい半年前、先立たれた奥方様やご子息が迎えに来た、とおっしゃってこの世を去られました。それまではずっとお一人で領地経営を行なっておられました」 「そうだったんですか。遺言状や帳簿などは残っていますか?」 「ございます。旦那様の書斎にご案内いたします」  家令のヘドウィグは螺旋階段を二階に昇る。やはり薄暗い。窓が北向きで小さいせいか、昼間でも遠くのほうが見渡せない。 「こちらでございます」  ヘドウィグは恭しく観音開きの扉の片側を開く。  やはり、中は綺麗なものだった。つい先日までたくさんの人が住んでいたかのような空気がある。  エレインは書斎の執務机に向かう。決裁書類と帳簿、遺言状と思しき羊皮紙の束がいくつか、そして女性の小さな肖像画。 「あの、今日は一旦宿に帰ります。ヘドウィグさんも突然押しかけられて迷惑だったでしょう」 「そのようなことは決して。ですが、私ももう歳です。あなた様にお仕えすることは叶わぬでしょう」 「そうですか……無理は言えませんね」 「申し訳ございません。私は今日中にこの館を出てゆきます」 「どこへ行くのですか?」  さすがにエレインも引き止めざるを得ない。領地に詳しく、なおかつ年を取った老人を放り出すような真似はしたくない。 「郊外に家を構えておりますので、そこで隠居生活を、と思いまして。今日のために準備をしておいたのです」 「そう、ですか」 「私にも妻はおりますので、寂しくはございません。旦那様の遺言状を人の好いあなたがたに託せたことは、望外の喜びにございます」  ヘドウィグは微かに笑ってそう言った。そこまで言われては、どうしようもない。  外でフクロウの鳴き声がした。 「今までお疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」  エレインは、そう言うしかなかった。  エレインとアラステアは門の外まで見送られ、鍵を渡される。ヘドウィグは二人の乗った馬車が見えなくなるまで、頭を下げ続けていた。  ホー、ホー、とフクロウが鳴く。まるで惜別を訴えるかのように。 ☆  エレインがまず宿で行ったのは、遺言状の整理だった。  遺言状である羊皮紙には、こう書かれていた。 『私の死後、ディヴァーン領を継ぐ者が現れた場合、必ず最初に租税の免除を行うこと。そして《黒曜館|こくようかん》に住むこと。なお、私の後継者には私の遺産はすべて譲渡する旨、ここに記す』  《黒曜館|こくようかん》とはついさっき行った館のことだ。あそこに住まなければならないのかと思うと気が重いが、遺言なので仕方がない。せめてお化け屋敷を何とかしなければならない。中身はヘドウィグが綺麗にしてくれていたので、人を雇い入れて外見をどうにかしなくては。  遺言状の二枚目、財産目録を見ると、美術品が数点と家財道具しか書いていない。元々豊かな土地ではないから、エレインは期待はしていなかった。美術品は売り払うとして、家財道具は無事かどうかを確かめなくてはならない。明日はアラステアとともに《黒曜館|こくようかん》の中を探索しよう。  コンコンコン、と部屋の扉がノックされる。  アラステアだろうか。 「はい、どうぞ」  エレインはそう答える。  だが、入ってきたのは別人だった。アラステアも微妙な顔をして後ろにいる。  どちら様?  長いストロベリーブロンドの青年は、エレインを見るなり、駆け寄ってきて両手を掴んだ。  ひっ、と思わず声が出る。 「これはこれは! 噂の次代の《大魔道師|マグナス・マギ》殿がこんなにかわいらしいお嬢さんだとは!」 「だっ、誰!?」 「おっと、申し遅れました」  ストロベリーブロンドの青年は貴族風の挨拶をする。 「私の名はクィンシー・グラッドストン。大陸を股にかける大商会、グラッドストン商会の者です。以後お見知りおきを」  そう言ってエレインの右手の甲にキスをしようとしたクィンシーを、エレインは手を引っ張って止める。  クィンシーは目をパチクリさせていたが、ああ、と納得した風に手を叩いた。 「失礼いたしました。《大魔道師|マグナス・マギ》の証にキスをしようなどと」 「え、ええ、まあ」  何か誤解している。エレインは痣を見られるのも嫌だが、キス自体が嫌なのだ。 「お近づきの印として、珍しい品をご用意いたしました。お納めいただければ」 「そんな、受け取れません」 「これから我が商会をご贔屓にしてくださるのなら、喜んで何でもお持ちしますとも! 差し当たって、この魔族の細工師が作ったブラッドストーンの指輪をどうぞ」  クィンシーは懐から小さな箱を取り出し、中身を見せる。  そこには、一粒の巨大なブラッドストーンから削り出したであろう精巧な指輪が収められていた。 「この指輪には魔法がかけられておりまして、指輪をつけた者の才能を引き出すという言い伝えがあります。ただし、死ぬまで抜けなくなりますが」 「ダメでしょうそれ!」 「おや、才能が手に入るのなら一生指輪をつけるくらい、お安いものでしょうに」 「要りません! とにかく」  エレインは、さっき見た遺言状に付属していた財産目録を思い出した。  美術品数点。グラッドストン商会とやらは知らなかったが、そこそこ大きな商会だろうから、買い手を探してくれるに違いない。  エレインは事情を話す。 「なるほど、なるほど。では、明日その美術品を見せてください。私が鑑定しましょう」 「ありがとうございます。その、目利きのほうもできるんですね」 「これでもグラッドストン商会の跡取りですので。では、また明日お目にかかりましょう」  クィンシーは一方的に来て、一方的に去っていった。  後ろにいたアラステアは、エレインの疲れた様子を見て、こう呟いた。 「……元気出してください。ああいう手合いは受け流すしかないですよ」  もっともな意見だ。  そして、それができれば苦労しない。 ☆ 「ほほう、これはこれは」  翌日、《黒曜館|こくようかん》に来た三人は、財産目録に書いてあった美術品が収められていた収蔵庫を見つけた。  クィンシーが鑑定を買って出てくれたため、エレインは任せたが——よく考えると、比較相手がいないと買い叩かれるのではないか、と思いはじめていた。しかし先立つ物がないと領地経営もままならない現状、少しでも売って運転資金の足しにしたいのが本音でもある。  クィンシーは絵画を三点、彫刻石像を一点、宝飾品二点を鑑定し終え、一つに束ねていたストロベリーブロンドの長髪を解いた。  エレインは問う。 「いかがですか?」 「大分傷んでいますが、うちの商会で修復すれば売り物になります。なので修復費を差し引いて……」  クィンシーは鞄からインク壺と羽ペン、小切手の束を取り出し、書き込んでいく。  ちらりとエレインが覗き込むと、こう書かれていた。 『美術品四点、宝飾品二点の代金として金貨百五十枚を支払う』、と。  ——金貨百五十枚!  エレインは驚く。金貨百五十枚ということは、大体五人の使用人を一年間雇える額となる。ディヴァーン領ならばもっと安く雇えるくらいだ。  クィンシーは小切手を千切り、エレインに差し出す。 「まあ、妥当な額だと思いますよ。修復も馬鹿になりません、専門の職人を抱えているのはうちの商会くらいなものです。どうでしょうか、レディ」 「……その値段でいいわ。ありがとう」  エレインは平静を装って小切手を受け取る。五人も雇えれば、このお化け屋敷の掃除や維持も相当楽になる。 「とんでもない。これからのお付き合いを考えれば、公正で真っ当な取引をすることは当然のことです」 「これから?」 「ええ、領地経営で必要なものがあれば、ぜひ我が商会へ打診を! 大陸中を駆け回って集めた品々が揃っておりますよ」 「考えておきます。でも、昨日の指輪のようなものは要りませんから」 「これは手厳しい!」  クィンシーは頭を手で打った。 「とりあえず、しばらくは私の手持ちの資金で領地経営を行わざるを得ません。なので、お頼みすることは」 「擬似魔法の書物などはいかがです?」 「!」 「知っていますよ。あなたの国立アカデミアの卒業論文、読ませていただきました。何でも、地方の困窮を改善するためには擬似魔法の使用が欠かせないとか。ならば、擬似魔法の書物の斡旋を我が商会が請け負いますので、ぜひとも検討しておいてください。本日はこれにて、後日商品を取りに伺います」  それだけ言うと、クィンシーはさっさと帰っていった。さすが商人と言うべきか、行動が素早い。  後ろで見ていたアラステアは、疑問を呈した。 「宝飾品は分かりますが、あのボロボロの絵と彫刻に金貨百五十枚も出すなんて、あの男、太っ腹すぎはしませんか」 「うーん……これからの付き合いを考えて、サービスしてくれたんだと思いますけれども」 「怪しいですよ、絶対」  アラステアは力説する。敵愾心すら持っているかのような反応に、エレインは不安を覚えた。  だが、即決したことは後悔していない。自分の論文を読んで、需要をきちんと確かめた上で接触を図ってきたのだから、すぐに信用はできずとも無闇に追い払うわけにもいかない。  エレインはとりあえず、執務室に行って持ってきた上質紙にペンを走らせはじめた。 ☆  アラステアが大活躍をしてくれた。  簡単に言うと、勇者がディヴァーン領に領主とともに訪れた、という噂が瞬く間に流れ、郷士たちがこぞって《黒曜館|こくようかん》を訪れるようになったのだ。呼び出す手間が省けた、とエレインは大変喜んだ。  前領主の遺言どおり、初年度の租税は免税する旨を郷士たちに伝え、守らなかった場合はエレインが進める領地経営改革計画から外すことを宣言した。改革の甘い汁を吸いたい郷士たちは、徴税人へきつく伝える、と誓って《黒曜館|こくようかん》を去っていく。  皆、アラステアのレギナスグラディオを見ると、アラステアを伴うエレインが年若い魔道師であることも忘れ、両者に媚を売ってくる。それほどまでに勇者の権威は絶大だった。おそらく、魔法の浸透していない地方では次代の《大魔道師|マグナス・マギ》の肩書きよりも効果がある。  続いて、郷士たちから贈り物が届きはじめた。アラステアとエレイン宛に、毛織物や穀物、中には王都で買ったという宝飾品を送ってくるものさえいた。そしてエレインはクィンシーを呼び出し、換金してもらう。合計で金貨三百枚になった。  クィンシーは美術品と宝飾品を取りに来た後も、何度もエレインの元を訪ねてきた。ただし、必ず不吉な贈り物を携えて。  その贈り物の代わりに融資をしてくれ、とエレインが頼むと、担保がないためそれはできない、と丁重に断られた。考えてみれば、真っ当な答えである。担保さえあれば——擬似魔法の書物が買えるのだが。  エレインは金貨を元手に、五人の使用人を雇った。一人当たり金貨二十枚で一年雇う、と条件を出したところ、応募が殺到した。ディヴァーン領では金貨三十枚で一家五人が一年食べていける額だという。独身なら当然、相当余る。応募してきたのは若い男女や中年の女性が主な層だった。エレインは若い男性を三人、若い女性を一人、中年の女性を一人雇った。まずは男性たちに《黒曜館|こくようかん》の外見を何とかさせ、女性たちはメイドとしてエレインの身の回りの世話と館の管理を任せた。アラステアは相変わらず王都に戻らず、ディヴァーン領の視察を繰り返している。エレインが頼んだのだが、これがなかなか人気で、こぞって皆が領地の状態を教えてくれるそうだ。戻ってきたアラステアから報告を聞くと、エレインは逐一紙に纏めていく。それを二週間繰り返したころ、ようやくディヴァーン領全域の様相が見えてきた。  まず、家畜の数が少ない。羊、牛、豚は放牧地が限られるため、数が思うように増えないのだ。主要生産物は小麦と大麦、一箇所だけエールを作っている街があることも突き止めた。特産品はこれと言ってなく——エールを出荷してみればどうだろうか、とアラステアに提案したところ、王都で需要がある、という返事が返ってきた。それならよかった。  ある日、エレインはアラステアとともに放牧地の視察ついでに、魔法の威力を試しに向かった。貧弱な土壌で近くに共有地の森林があるためこれ以上放牧地を広げられない、という。  エレインは地面に手をかざし、こう唱えた。 「《土よ、大いに実れ|ソリ・グランディス・フルクトゥス》!」  エレインの手から、大地へ光が灯される。大地が揺れた。アラステアや農民たちが怯える中、エレインはじっと土地の様子を見続ける。  すると、徐々に雑草たちが太陽へ向けて伸びていく。続けてエレインは水の魔法を唱えた。 「《水よ、大いに集え|アクア・グランディス・コリゴ》!」  雑草の急激な成長で水分の足りなかった大地に、大雨が降る。雑草はさらに伸び、大人の腰の丈ほどにまで成長した。 「エルさん、これは……すごいですね!」 「ああ疲れた……じゃなくて、これくらい放牧地が豊かなら、羊や牛たちも喜ぶでしょう。あちらのほうの畑まで効果は届いていますから、作物も十分育てられるはずです。どうですか?」  農民の代表者が、驚きとともに感謝を伝えてきた。初めて魔法を見た、という者も少なくはない。皆歓喜の声を上げ、エレインの名を呼ぶ。  悪くはない。人助けは気分がいい。ちょっと疲れたが、やるだけのことはやった。  エレインはその後三ヶ所の村落を周り、大魔法を使い続けた。  翌日。  筋肉痛ならぬ、魔法痛がエレインの右手の甲を襲った。魔法を使いすぎると痣がショートしたようになり、修復のため痛みが伴うのだ。  それでも書類にサインをしなければならない。エレインは包帯で羽ペンを右手に固定し、書き込んでいく。  その様子を見ていたアラステアは、クィンシーが来たことを申し訳なさそうに伝えてきた。 「何やらまた変なものを持ってきていますよ……どうします、僕が追い払いましょうか?」 「一応、会ったほうがいいでしょうね……こんなときに来るなんて」  エレインは苦々しく思う。包帯を外し、クィンシーに面会する。 「やあやあ、ご機嫌麗しゅう! おや、いかがされましたか?」 「いいえ、何でも。それよりも今日のご用件は何でしょうか?」 「ああ、先日の大魔法のこと、聞きましたよ! 何でも、二回魔法を唱えるだけで、不毛の地を緑豊かな土地に変えてしまったとか。さすが次代の《大魔道師|マグナス・マギ》! ところで、擬似魔法の書物をお持ちしましたので、買っていただけませんか?」  それが本題か。エレインはサンプルを見せてくれ、と頼む。  印刷技術の向上で詳細な魔法の紋様を描けるようになったのはいいが、やはり品質にムラがある。使えない部分が書物の数ページ程度ならまだマシだが、ひどいものになると一割は使えないページとなるケースさえある。  クィンシーは喜んで、と一冊の本を取り出した。  簡易な装丁の、和綴じの本だ。珍しい、紐で綴じる本がこの国にあるなんて、とエレインは思う。 「珍しいでしょう? 何でも、バラジェ魔王国よりも東の国から届いた擬似魔法の書物なのですよ。その国は印刷技術に優れておりまして、一般市民でも簡単に擬似魔法の書物を手に入れられるそうです。なので、うちの商会が大量に輸入してきた、というわけです」  浮世絵のようなものかな、とエレインは思った。刷り技術は当時世界一だっただろうし、ちょうど時代的にも元の世界では元禄文化が花開いたころなので、丁寧な木版印刷が作られているはずだ。  エレインは決断する。 「分かりました、その本すべて買い取ります。お代はいくらですか?」 「おお! この本の価値が分かっていただけるとは望外の喜びですよ! さて、今ご用意できるものは百冊単位で合計八百冊です。代金は……そうですね、金貨四百枚、と言いたいところですが、大サービスで三百枚といたしましょう」 「買った!」  エレインは即金で金貨三百枚を出した。近くにいたアラステアは呆然としていた。  ホクホク顔のクィンシーは、金貨を数える。大マケにマケた以上、一枚たりとも譲らない、という根性だ。  やがて金貨三百枚を数え終えたクィンシーは、深々とお辞儀をして、おまけに、と鞄からから一枚の書状を取り出した。 「これは私の紹介状です。他の領へ行った際、グラッドストン商会の受付でお出しいただければ、すぐに用件を取り次げるでしょう」 「何から何までありがとうございます。大切にしますね」 「いえいえ、お得意様は大事にしなければ。今日はこれで退散いたしますが、次はぜひお食事でも」 「考えておきます」  そのとき、アラステアが渋い顔をしていたのは言うまでもない。 ☆  識字率が低い。  このことが、領地経営にここまで深刻な影響を与えるとは、エレインも予想だにしていなかった。  まず、農民は擬似魔法のことを知らない。必然、擬似魔法の書物を与えても、使用方法が分からない。  かと言って、識字率の高い郷士層に擬似魔法の書物の使用を任せると、影響力が拡大しすぎてしまう。それは何としても抑えたかった。  なので、ここはアラステアと手分けして各村落を回り、農民たちに少しずつ擬似魔法の使い方を教えていくことになった。ついでに大魔法を使って土壌改良もしておく。魔法痛が毎日エレインを蝕んだが、エレインは堪えた。  やがて農民たちの大部分が擬似魔法に親しんできたところで、使い方が限定されている、と嘘を教えて擬似魔法の書物を配った。擬似魔法を使った反乱が起きる可能性を考慮してのことだ。郷士たちにも同じ説明をしておく。  かまどに火を入れたり、ゴミを焼却したり、畑に水を撒いたり、風車を回したり、土壌を改良したり——それだけしかできませんよ、と。  郷士たちもまた、擬似魔法を知らない人々が圧倒的に多かった。本物の魔法を見たことのある人間さえ数人いるかどうかだ。なので、バレる心配もないし、第一、東の国の文字、漢字に似た文字で書かれた擬似魔法の書物は、万一読まれたとしても詳細な内容が分からないようになっている。そのせいで地水火風の四つの漢字に似た文字をも一文字ずつ教える羽目になった。  ディヴァーン領は広いようで狭いので、この作業は一週間もあれば全域に行き渡った。無論、エレインは一週間ずっと魔法痛に悩まされた。  そして、奇妙なことが起きた。  ある日、《黒曜館|こくようかん》に大量の穀物や毛織物、エールが届いたのだ。  置き場もないほどの大量の荷物に、エレインとアラステアは唖然とした。何でも、届けに来た農民たちによれば、収穫が多すぎて食べていくのに困らないほどになったので、免除と言われていた租税の代わりに領主へ贈り物をしたい、とのことだった。  出来すぎではないか。エレインは最初疑ったが、どうやら彼らは本心からそう言っているらしく、郷士たちの紹介状を携える者すらいた。エレインは慌ててクィンシーを呼びつけ、大量の荷物をすべて買い取ってくれ、と頼んだ。  クィンシーは二つ返事で快諾、翌々日には《黒曜館|こくようかん》を訪れていた。 「いやはや、これだけ集まるとは、領主の人望のなせる業ですよ。多めに馬車を手配しておいて正解でした」  部下に指示を飛ばしながら、クィンシーはエレインにそう言う。 「エールは各王都に、毛織物は北ユーファリアに、穀物はバラジェ魔王国にそれぞれ輸出する予定です。何かご質問はありますか?」 「代金の代わりにまた擬似魔法の書物をいただきたいのですけれども」 「ああー、あれはしばらく入荷予定がないのですよ。急いで手配しますが、半年はかかるかと。国内からかき集めることはできますが、品質に難があれば信用に関わります。ですので」 「無理を言ってすみません。半年でもかまわないので、急ぎ輸入をお願いします。半分は買い取り代金として小切手をください」 「かしこまりました、レディ。そうそう、これを渡しに来たのです」  また何か呪いのアイテムだろう。エレインは身構える。  鞄から取り出されたのは、三通の手紙だった。一通は異様に分厚い。 「あなたのご家族から託されました。一番分厚い手紙が《大魔道師|マグナス・マギ》のものですね。それと、お父上とお母上からの手紙です。今まで遠慮して手紙を出されなかったそうですが、私が《大魔道師|マグナス・マギ》のもとに商談に訪れた際、あなたのことをお伝えしたのですよ。余計なお世話かもしれませんが、どうぞ」  クィンシーはエレインの手に、手紙の束を乗せる。  そこには、『エレインへ』『親愛なる我が孫娘へ』などと書かれた手紙があった。  家族からの手紙。忙しすぎて、もうとっくに忘れてしまっていた。  そもそも、初めてのことだ。前世も今世も、家族から手紙をもらうだなんて——前世はまあ、家族関係が希薄だったからだ。今世は、逆に家族の絆が強くて、こんな手紙をもらえている。  エレインは嬉しかった。クィンシーに礼を述べる。 「ありがとうございます、クィンシーさん」 「いえいえ。今度こそ食事をご一緒させてもらえれば」 「ええ、ぜひ」 「おお! いやあ、次の訪問が待ち遠しいなぁ! イヤッホゥ!」  クィンシーは過剰に喜ぶ。食事だけでここまで喜んでもらえるなら、安いものだ。アラステアがここにいれば、また渋い顔をしていたに違いない。 「ああ、そうだ」  クィンシーはエレインの左手を取り、膝を折って軽くキスをした。 「私のことはどうかクィンとお呼びください、マイ・レディ。そしてどうか、私にもエルと呼ばせていただきたいのです」  エレインは一瞬迷ったが——頷く。 「はい、いいですよ」 「有難き幸せです、マイ・レディ! では、今日はこの辺りで失礼いたします。小切手は後日銀行経由で送付しますので、ご確認ください」  そう言って、クィンシーは大量の馬車隊を引き連れて帰っていった。  後に残されたエレインは、左手のキスの跡を見る。  そう言えば、手の甲とは言え、キスされたのは初めてだな。前世でも男っ気が全くなかったからなぁ、などとしみじみ思っていた。 「……さて、手紙を読んで、もう一仕事しますか」  エレインは執務室へと戻っていった。
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