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「あそこしかないけど……」  昨日よりだいぶ早い大学からの帰り道、叶は肩を落としていると自然とため息が出てしまった。  ため息を吐いてはいけないときつく言われていたもので、出してしまった自分が情けなくなる。  今朝いつものように大学に行こうとしたところ、鞄の中に定期がなかった。  家の中をひっくり返……すほどの物があるわけでなかったし、叶は大体失くした場所の当たりはつけることができていた。  昨日倒れたときに、きっと鞄から転がり出てしまったと考えるのが自然だ。  それに、夜できっと助けてくれた咲来も気が付かないのも当然かもしれない。  財布と定期は分けていたので、大学には行くことはできたがまた定期を買うお金などない。 (親に言うわけには絶対いかないよ。仕送りから交通費は出せるから、なんとかしよう)  まさか大学に行かなかったら、親から何を言われるか分からない。  それに、行かなければ授業で訳が分からないことが増えてしまう。  英語や数学の一般教養と呼ばれるものは、問題なくついていける。  いや、レベル的には余裕があるくらいだ。  他にも問題ない授業もあるのだが、中身によってはさっぱり分からないものがある。  でも、止めるわけには当然いかないので、通わなければいかない。 (しっかり大学いって、就職しないといけないのに……)  まだ入学して1ヶ月とはいえ、授業についていけないという不安は重なっていく。  今までこんなに授業についていけなかったことは無かったし、内容が分からないことが重なったこともない。 (あたし、やっぱりダメなんだ。だから、もっと、勉強しないといけないのに)  不安を思って、かばんから一冊の本を取り出す。  教科書といわれて買ったものだが、教科書とは思えない内容でまったく分からないに近い。 「こんなの、教科書じゃないよ……でも、分からないあたしが悪いんだ」  もっと勉強を、しないといけないはずだ。  もっと、もっとしっかりしないと、就職もできないはずだし、親に申し訳ない。  資格試験と同時に学校の勉強も、もう少し時間を増やさないといけない。 「睡眠時間、まだ削れるよね」  今までの睡眠時間が4時間なので、あと1時間は削れるような気がした。  少し寝るだけで、体力は回復してる気がするし一番寝ないときで2時間を続けたこともある。  だから、入学したということで余裕を持ちすぎだったかもしれない。  もっとしっかりしなければ、もっとしないといけない。 「やらなきゃ。うん、今日からやろう」  ぐっと、かばんを肩にかけなおして家路を急ぐ。  大学から数駅から離れた静かな住宅街の中に、叶の住処はある。  大学から近いほうが勉強もできるのにと叶は思ったのだが、近くだと家に誰かがよく来ることになって生活が乱れるからよくないと親に言われたのでそのとおりにした。  確かに誰かいたら、勉強にも集中できなくなってしまいそうなので納得できた。  親の言うことはいつも正しくて、そのとおりにしてきたから今の叶があると思っている。  だから、今回も言うことをしっかり聞いていけばきっと大丈夫だろうと思う。  歩いてると、ふとカレーのような香りが香ってきた。  おそらく、どこなの家で夕食でも作っているのだろう。  住宅街では何の珍しい香りでもないはずだが、その香りを叶は感じた途端息が一気に詰まった 「うっ!?」  気持ち悪さが一気に押し寄せる。  お腹から何かが、のど元にあがってくるような感覚だ。 (やばい、これ……吐いちゃう?)  だが、こんな道路で吐くなんてことは叶はできなかった。  口元抑えて、嘔吐感をこらえつつ歩みを進める。  息が詰まり、呼吸すら満足にできない。 (どうしちゃったの……?あたし……)  昨日倒れたことも初めてだし、こんな風に気持ち悪くなったのも初めてだ。  何が起こったのかと理解もできないまま、叶はふらつきながら家に向かう。  病院に行くことも考えないといけないなんて思いながら、頭の中は身体の奥から出てきそうになるものを押さえるので精いっぱいだった。  だが、カレーだけではない。  この夕食時になると、各家庭から晩御飯の香りが漂っている。  昨日までは何も感じないものだったのに、どれもこれもが吐き気を催す感覚になってしまっている。 「うぇ……うっ……」  誰にも見られたくないと必死に思いながら、家への道を叶は歩いた。 「はぁ……はぁ……もう、少し」  ふらふらになりながら、叶はなんとか家にたどり着いた。  戻さないのは幸いだったし、叶の家の周りは料理の香りはほとんどしなくなっていたので状態は落ち着いていた。 「大丈夫、もう大丈夫だから……」  家に帰ればきっともっと落ち着くだろうし、そうすればちゃんと勉強に取り組めるかもしれない。 (今日も、しっかりしなきゃ。復習もちゃんとしないと……資格だけじゃなくて……)  気持ちを入れなおして顔を上げると、叶の家である建物の階段に一人の女性が座っていた。 「来栖さん。やほー」 「え?」  その声を聴いて、闇の中の階段に座っている女性をまじまじと見る。  その女性は、袴のような服を着ていて、軽く手を振っていた。 「西ノ宮、さん?あの、どうして……?」  そんな特徴で知っている女性も、第一にこの街で自分のの名前を呼んでくれる人の心当たりなど一人しかいなかった。  西ノ宮咲来、その人だ。 「これこれ。困ってたんじゃないかなって」  叶の姿を見ると、咲来は黄檗色の巾着から一枚のカードを取り出した。  それは、叶の名前が入った定期券だった。 「あっ!」 「よかったー。今日の朝、歩いてたら拾ったの。はい」  驚いた表情を見た咲来は笑顔で、その定期券を手渡してきた。 「ありがとうございます。西ノ宮さん」  こうやって無事に定期が返ってきたのだから感謝しなければならない。 「うん。はー、んーっ。まだ春だから、夜は少し寒いねー。身体固まっちゃったよ」  受け取ったのを確認すると、咲来はぐーっと背筋を伸ばした。 「え?あの、西ノ宮さん、何時からここに?」 「え?えっと、3時ぐらい?朝でもよかったんだけど、ごめん、部屋どこか分からないし、大学に行くわけにもいかなくって。午後時間空いた時間から待ってたんだけどね。大学生って聞いたから、それくらいには帰ってるかなって」 「は、はぁ……」  3時と言えば授業の真っ最中だったし、今は7時過ぎ。  4時間もこんな階段前で座って待っていたのかと思うと、なんとなく罪悪感が湧き上がってくる。 「あの、よかったら休んでいきます?お礼、したいですし」  ちゃんと何かしてもらった時はお礼をしなさいと、親にはずっと言われてきた。  昨日は時間もあったし、あまりしっかりとしたお礼も言えなかったのはどこか叶の心に引っかかっていた。 「うん、じゃあ。お言葉に甘えようかな」  咲来は、叶の言葉に笑顔で頷いてくれたので、一安心。  よくわからないが咲来なら、家にあげてもきっと大丈夫だろうと思ってしまった。 「では、こちらへ」 「すいません、これしかなくって」 「うんん。大丈夫」  一応と言う感じである折り畳みテーブルに、叶はインスタントコーヒー置いた。  自分の眠気覚まし以外では使ったことのないコーヒーだが、説明書を見れば何とか淹れることができた。  ただカップはいつも自分が使っているマグカップだけしかなかったが。  きっとりと正座をして、咲来は一口コーヒーを飲んでくれた。 「西ノ宮さん、昨日から重ね重ねありがとうございました」 「そんなに気にしなくていいよ。特別なこと、したつもりじゃないから」  深く頭を下げた叶に笑顔で咲来は首を振っていた。 「それより、身体大丈夫?」 「あ……」 「何かあったんだね。よかったら聞くよ?少しだったら、アドバイスできると思うし」  言葉が詰まったのを見て、咲来はふぅと息を吐いた。  真剣なまなざしのせいか、それともあまりよく知らない相手だからということかもしれない。  だが、叶は今日のことを話してみる気になった。  何にしろ、自分一人では訳も分からない状態で不安ではあったからだ。 「今日、なんですけど。吐き気がすごかったんです。頑張って帰っては来たんですけど、どうしちゃったのかなって」 「えっと、なんか原因分かる?」 「カレーのにおいがしたら、急に……」  その言葉を聞いた、咲来が深いため息を吐いた。 「あのさ、来栖さん。もう限界だよ、それ」 「な、何が限界なんですか?あたしは、別に何も苦しくもなんとも……身体だって……」  吐き気が出たくらいだし、別に死にそうになっているほど苦しいわけではない。  もっと限界なんて、遠くにあると叶は思っていた。 「うんん。身体はもう悲鳴上げてる。それだけの香りで吐き気だなんて、相当だよ。まともな食事もとってない、ストレスだって溢れそうなくらい溜まってる。あたしの本職はお医者さんでもないけど、たぶん相当まずいよ」 「そんな……」  ストレス。  その言葉に、叶の心が締め付けられる。  そんなものに負けてしまうような弱い存在だったのかと、そんな思いが頭の中をめぐってくる。 「来栖さん、部屋ちょっと見たんだけど。遊んでる?休んでる?」 「え?そんなことしてる暇、無いです……。ちゃんと勉強しなきゃ、ダメだって……」  ショックを受けたまま、咲来の言葉に叶は首を振る。  授業で分からないことはしっかり復習しなければ、単位もとれないかもしれないし、就職の準備だって進めなければいけないと言われている。  そんななのに、遊んだり休んでる暇などない。 「だろうと思った。生活用品は最低限しかないのに、勉強机の周りだけはやたらしっかりしてるもん。ちゃんと勉強してるんだなって」  だがその咲来の口調は褒める口調ではなかった。  淡々と、感情をあえて抑えているような口調だった。 「来栖さん、人はずっとは走りづづけられないんだよ。時にはちゃんと休むこともしないと……壊れちゃうよ。壊れても、いいの?よくないよね?」 「そんなことないです!あたしは、あたしはっ!」  諭すような口調に、叶の声は珍しく大きくなってしまっていた。  こんなことで壊れるはずがないという否定の思いと、実際に壊れてしまうのではないかと言う恐怖。  そして壊れてしまったらどうなるのか、親に何と言われてしまうのか。  それを考えるだけで、身体には恐怖が湧き上がってきていた。 「じゃあ、休もう。心も、身体も。それとも……」  ふっと間があって、咲来はある言葉を口にした。 「休ませかた、分からない?」  その咲来の言葉は、叶の心にヒビを入れるには十分なものだった。 「はい……」  そう、わからない。  今までそんな事を言われたこともなかったので、どうしていいかわからないのだ。  自分の中の何かが、ボロボロになっていっている。  こんな感覚は、初めてだった。 「じゃあ、まずは……」  咲来は安心させるように今日初めて、優しい笑顔を叶に向けてきた。 「ごはん、食べようね」
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