フォントをダウンロード中
ページの左右でマウスを左クリックします。
または、 キーボードの左右の矢印キーを入力します。
ページ上で指先を左右になぞると、 前/次ページへ移動します。
メニューはページをタッチすると現れます。
× ヘルプを閉じる
プロローグ ブルーマウンテンで目覚めを  ゆったりとした音楽の流れる店内に、珈琲の香りと豆を挽く音が響く。カウンター席が五席と、四人組用のテーブル席が三組。そのどれもに人は座っておらず、カウンターの奥に店主らしき男性が一人だけだった。店内の壁際には、人が手を伸ばしても届く程の高さの本棚が並んでおり、中には様々な文庫本が隙間なく入れられていた。  珈琲を挽き終わったのか、今度は自分が飲む分を淹れはじめた。サイフォンのフラスコに一杯分の水を入れ、それを火の点いたアルコールランプの上に設置し、フラスコの中の水を沸騰させる。その間にロートの中に同じく一杯分の珈琲の粉を入れて、沸騰したフラスコにロートを差し込み、お湯が上へを伝わるようにしていた。しばらく伝わるのを待っていたかと思うと、今度は竹べらを取り出してお湯と珈琲粉が馴染むように混ぜ、それから抽出をしてカップに注いで完成となる。 「今日も良い出来だ」  男性は優雅にカップに口を付けて、一言そう溢す。緑の瞳に黒縁眼鏡をかけ、眼鏡と同じ黒の髪は短く整えられており、美形と呼ばれる分類に含まれることがわかる。手足もスラっと伸びており、茶色いワイシャツと黒いズボンがそれを余計に強調させた。その姿から日本人には見えないが、このアンティークな店内に彼はとても馴染んでいた。  珈琲を飲んでいたカップを置いてから、男性は顔を上げて扉の方に視線を向けた。 「こんなところに辿り着くとは…… 今度はどんな悩みを抱えているのやら」  扉にぶら下がっているドアベルが「カラン」と鳴り、ゆっくりと街外れにある喫茶店のドアが押し開けられた。 一杯目 モカの酸味と香り  今になって思えば、私の人生は偽りだらけだったのかもしれない。他人に合わせ、家族に合わせ。自分のことを後回しにしては、やりたいことすら見つけられなかった。その結果無駄に歳だけは重ねていき、夢も持たずにただただ退屈な毎日を貪るだけだった。  《谷中|たなか》《千晴|ち はる》、二十六歳女性。会社やアルバイトの面接に落ち続けて、現在無職。特に取り柄もなく、得意だと胸を張れることも見つけられなくて、今日まで過ごしてきた。それが今の私だった。好きなことと言えば本を読んだり物語を書くことくらいで、他にこれといったものが見つからなかった。 「もし過去に戻れるなら、やりたいことを見つけたいな……」  俯きながら歩いていると、いつの間にか不思議な雰囲気の喫茶店の前にいて「こんなところに喫茶店なんてあっただろうか」と、私は疑問に思い首を傾げた。 「色んな珈琲あり〼 風鈴堂」  店先にはそう書かれた立て看板が出ており、私は誘われるようにその喫茶店へと近づき扉を押し開いた。 「いらっしゃいませ。お好きな席におかけください」  ドアベルが鳴り、店主らしき男性がそう声をかける。店内は落ち着いたアンティークのような雰囲気で、壁に沿って本がいっぱいの本棚が並べられていた。私は壁際のカウンター席に座り、そっと置かれたコーヒーに視線を落とした。 「よかったらどうぞ、お嬢さん」 「ありがとうございます」 「浮かない顔のようですが、何か悩みでもおありで?」 「あ、いえ。対したことではないのですが……」 「良ければ聞かせてくれませんか? 何分お客様もなかなか来ないので」 「実は私……」  スッキリとしたコーヒーを飲みながら私は、今までの生い立ちや悩みを話した。こうやって自分のことをスラスラと話したのは、彼が多分何も知らない他人だからだろうか。私のことを何も知らないからこそ、きっと他の人みたいに変に期待なんかしてこないだろう。 「私、夢もやりたいことも見つけられないで、この歳まできちゃったんです。おかげで、仕事も見つからずに家では厄介者扱いされてて……」 「それはお辛かったですね……」 「こんな自分もう嫌で、だけど死ぬに死ねなくて……」 「そうですか。お客様、良ければここで働きませんか?」 「えっ?」  店主の口から出た意外な言葉に、俯きながら話していた私は顔を上げる。整った顔立ちをしている彼は、優しそうに笑いながら私を見ていた。 「ここ風鈴堂では、強い後悔を抱えた人が迷い込んでくる人が多いです。あなたもその一人のようですが、どうやら様々なしがらみによって、本当に後悔していることがわからなくなっているようです」 「本当に後悔していること……」  思い付くのは、やりたいことが見つからなかったことや、面接に落ち続けたこと、大学に行けなかったことなど様々だったが、この人はどれも違うというのだろうか。 「ここでは、そういった人達を導くお手伝いのようなこともしています。良ければ、あなたも私と一緒にお手伝いをしませんか? そして、本当に後悔していることを探してみたら良いですよ」 「お願いします、やらせてください!」  勢いよく立ち上がり、カウンターから身を乗り出す。何だっていい。初めて必要とされたから、私はそれに応えたかった。 二杯目 コロンビアのまろやかなコク  街外れにある不思議な喫茶店。名前は「風鈴堂」で、私はここで働くことになった一人のアルバイト店員。カウンターの奥でコーヒーを飲んでいるのは、ここの店主の《月村朔|つきむらはじめ》さん。スラッとしたスタイルをしていて、黒縁眼鏡をかけた長身の男性。イケメンを見たことはなかったが、間違いなくその分類なのだろうとは感じられた。 「《谷中|たなか》さん。そろそろお昼ですし、ランチにしませんか?」 「はい。ちょうどお掃除も終わりましたし」 「それならよかった。サンドイッチでも作ろうと思いまして、一緒に頂きませんか?」 「月村さんがよろしければ、ご一緒したいです」  店主とそんな会話をしていたらカランとドアベルが鳴り、扉の向こうから中年のような男性が入ってきた。 「いらっしゃいませ、お好きな席にお掛けください」  私は男性に声をかけて席を勧め、月村さんはコーヒーを淹れはじめていた。男性は迷いながらも、入り口に近いカウンター席にそっと座った。 「よければどうぞ。珈琲です」 「ありがとうございます……」  月村さんが彼の前にコーヒーを起き、自分達の分も淹れていた。コポコポとお湯が沸く音がしながら、その上に何やら差し込んでコーヒーの粉を入れる。 「何か悩み事ですか?」 「はい……」  ため息を吐きながらコーヒーを飲んでいた男性に、月村さんが話しかける。私は店主の隣で、ゆっくりと器具を回しながらコーヒー豆を挽いていた。 「私は実は、作家なんです…… でも、最近この仕事でいいのかどうか分からなくなっていて。たまたま応募したら賞を取れてしまったので、本当に好きなのかも定かではなくて……」 「そうでしたか」 「もし、過去に戻れるなら…… そんなことを思ったりしててな。そしたら、ここに着いてたんだけど」 「なるほど。ここ風鈴堂では、よくそうした悩みを抱えているお客様がいらっしゃるのですよ」 「そうなんですね……」 「よければ、私達にお手伝いさせてください。あなたの後悔を、少しでも晴らすために」  男性は不思議そうに顔を上げて、月村さんを見た。 「お手伝いですか?」 「はい。ですが、無理にとは言いません」 「わかりました、お願いします」 「ところで、お客様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」 「《藤田誠人|ふじた まこと》といいます」 「わかりました、藤田さん。お手伝いいたしましょう」  その言葉を告げた月村さんか優しそうにだけど、どこか少しだけ怖い笑みを浮かべた。 「それでは、あなたの後悔している過去へと行きましょうか」  唐突に告げられた言葉にその場にいた私と藤田さんは、月村さんが何を言っているのか理解が追い付かなかった。 三杯目 ベネズエラの苦味  月村さんが唐突に告げた言葉により私達三人はいつの間にか、喫茶店ではなく見知らぬところに立っていた。 「ここはこですか、月村さん」 「彼の記憶に関係ある場所ですよ、おそらく」 「おそらくって何ですか……」 「ここは、僕達には知らない場所ですしね」  周り良く見ると、私の地元と似たような雰囲気があり、日本語で書かれた看板も見つけられ。とりあえず、ここが日本であることは間違いなさそうだ。 「地元だ…… どうして……」  小さな声で呟いた藤田さんは、懐かしい感じではなかった。何というか、忘れたかったものを思い出したような、そんな感じに近いと感じた。 「ここ、藤田さんの地元なのですか?」 「はい…… 高校生の時まで、ここにいました」  そう答える藤田さんは、どこか悲しそうだった。 「まずは、あなたの家に行ってみましょうか? 何か分かるかもしれませんから」 「わかりました。私の家はこっちです」 「ありがとうございます」  先を行く男性二人の後をついていき、町を歩いていく。都会とは程遠い、田んぼの多いのどかな田舎町の風景。それが、私の地元とよく似ていた。 「ここが、私の実家です」  藤田さんの言葉を聞いて前を向くとそこには、一件のあばら屋に近い平屋の家があった。 「古くさい家ですよね…… 結構貧乏だったんですよ、私の家は」  そう言う彼の顔は、どこか悲しそうだった。 「さてと、お邪魔しましょうか?」 「ちょっと待て、勝手に入って大丈夫なのか? 仮にも私達は部外者ですよ?」  確かに私達は部外者で、ここが彼の実家であっても勝手に入ってしまえば、通報されて警察に連れていかれるだろう。 「大丈夫ですよ。過去の世界では、未来の人は干渉出来ないようになっているのです。ある一定条件を除いて」 「ある一定条件?」 「その条件って何ですか、月村さん」 「それは、教えられませんね。さあ、行きましょうか」  私達二人が止める間もなく月村さんは、藤田さんのご実家へと向かっていく。玄関の扉を開けて入るのかと思いきや、そのまま通り抜けていき、それを見た私は背筋がゾッとした。 「どういうことだ……」 「いや、私にもわかりません……」  どういった顔をしたら良いのかわからないまま、互いの顔を見る私と藤田さん。「どうしたんですか」と、なかなかついてこない私達を心配してなのか、月村さんが玄関のドアから首を覗かせた。それが残念なことに生首に見えてしまい、もしもこの場に幽霊とかが見える人がいて彼が幽霊だったら、即到してもおかしくないだろう。私だったら即到してると思う。怖いの苦手なので。 「行きますか……」 「そうですね」  藤田さんに声をかけられ、二人で店主の後に続いて中へと入っていった。 四杯目 マンデリンの風味  家の中へと入って直ぐのとこには居間があり、右側に一部屋と居間の奥に台所や浴室といった水周りで、その右側に一部屋という構造になっていた。彼は四人家族の長男で、五つ離れた弟がいるそうだ。だが、弟のには個人の部屋があるのに、藤田さんには無かったのだという。 「高校生にもなって、今どき親と一緒に寝るのもどうかと思ってたんですけどね。まあ、私よりも弟の方が可愛がられてたからですね……」  その言葉が私の胸に刺さった。姉より可愛がられる弟。それが、私の家での生活だった。藤田さんの話を聞いて、彼と自分の家庭とが重なり余計に苦しかった。 「誰もいないということは、多分平日なのでしょうか?」 「多分そうだと思う」  台所に掛けてあった時計に日付が表示されていたので、今日の日付と曜日を確認することができた。月村さんの予想通り平日で、お昼くらいになろうとしていた。私達は藤田さんが普段作業しているという、家族の寝室へと入ってみることにした。 「ここが私の作業していた場所です」  六畳ほどの寝室の端の方に置かれたローテーブルに、その奥に並ぶ四段の本棚が二つ。テーブルの上にはノートパソコンとノートがいくつか置かれており、そこが作業場の全部なんだと私は思った。 「いつも床に座って、パソコンにひたすら文章を打ち込んでいたり、本を読んでいたりしました」 「それは大変でしたね」 「はい」 「ところで、このカレンダーに付けられている赤い印は何でしょうか?」 「この日は…… あっ」  月村さんに言われて確認した藤田さんは、印の付いている日を確認して何かを思い出したようだった。「どうかしました?」と月村さんが尋ねるとハッとしてから、私達に印の意味を教えてくれた。赤い印は結果発表の日だったらしく、忘れないようにそういう風にしていたのだという。 「今日は、初めて応募した小説の大賞の結果の出る日だった」 「なるほど。そうでしたか」 「応募するのも長編を書いたのも、全部初めてだったんです。それまでは、何となく頭の中に出てくる文章をまとめるだけで、形にすることはあまりなかったので」 「何であなたは、ペンを握ろうと思ったのですか?」  確か少し不思議だ。今までも小説として何かしらの形にする機会はあったはずだが、彼はそれをしなかった。なのに、公募に小説送った。 「小説が大好きだった、祖父が病に倒れたのです。家族の中では唯一、話の合う人でした。だから、私は祖父に何か送りたかった」 「それで、小説を書くことにしたのですね」 「はい」  大好きな祖父への贈り物としての小説。きっと彼は、自分が書いたものを祖父と一緒に沢山話し合いたかったのだろう。藤田さんの寂しそうな横顔が、私にはそう語っている気がしていた。 五杯目 コスタリカでカプチーノ  そういえば、藤田さんのお爺さんはどうなったのだろう。彼は、孫の小説を読めただろうか。考え事をしていると私達以外は皆いない家に、電話の呼び出し音が鳴り響いた。 「こんな時に電話?」 「出ると良いと思いますよ」 「どうしてですか、月村さん」 「それは、出ればわかります」  含み笑いを浮かべる月村さんは質問に答えるつもりはないらしく、藤田さんは仕方なく言われた通りに電話に出ることにした。 「はい、藤田です」  電話の内容は私達には聞こえないが、何やら話し込んでいるようだった。 「じいちゃん。俺、作家になったんだ……」  藤田さんのそんな言葉が聞こえてきて、私は察した。彼のお爺さんは、孫からの知らせを聞く前に亡くなってしまった。多分、この電話がそういった内容なのだろう。 「うん。ありがとう、じいちゃん……」  それからいくつか言葉を交わしてから藤田さんは受話器を置き、その場に膝から崩れ落ちた。彼はただ泣いていた。今まで堰き止めていた栓が取れたかのように、声を上げて涙を流していた。 「よければ、使ってください」  私は泣いている彼に、持っていたハンカチを差し出した。 「ありがとうございます……」  そのハンカチを受け取り、彼は目元を拭いた。 「祖父の命日は、丁度この日だったんです…… 私が賞を取った、この日……」 「そうだったんですね……」 「帰ってきたときには、もう祖父は亡くなっていました…… 両親は仕事で連絡が付かず、病院の電話に出たときにはもう……」  その時私は、月村さんの言葉を思い出した。「本当に後悔していること」藤田さんは作家の仕事に自信が持てなくて、本当に好きなのか知りたいと言っていた。作家は孤独だと、聞いたことがある。恐らく、彼もそうだったのだろう。 「昔から物語を書くのが好きで、出来上がったものをよく祖父に読んでもらっていたんです。両親には公務員を目指せと言われてましたが、祖父だけは違ってました。私の作った物語を誉めてくれて、私なら作家になれると応援してくれました」  やっぱり作家は孤独なのだと思った。自分の両親にすら理解されない職なのだと。そんな彼の支えは、応援してくれていた祖父だっただろう。だけども、その祖父は公募の結果が出た日に亡くなってしまった。 「辛かったですよ、祖父が亡くなって。だけど、後にも戻れなくて。それからは大変でした……」  高校生で作家となった藤田さん。勉強と執筆とに追われ、親からも色々と小言を言われたと話してくれた。 「話している途中で申し訳ないのですが、続きは店に戻ってからにしましょうか」  月村さんに声をかけられ辺りを見回すと、景色が若干揺らいでいた。元の場所に戻るようだと、私は自然と感じていた。 六杯目 ハイチとグアテマラのブレンド  周りが光に包まれて眩しくて瞼を閉じてから再び開けるとそこは、アンティークを基調とした風鈴堂の店内だった。出た時と変わらず藤田さんはカウンター席に座っていて、店主の月村さんはその向こうに立っていた。 「あれ、何で私はここに? そうだ、息抜きに丁度いいと思って来たんだった」 「お疲れのようで、寝てしまっていましたよ」 「それは、悪いことをした。長居してしまっては悪いので、私はこれで帰ることにするよ」  そう言って何事も無かったかのように席から立ちあがり、お会計を済ませて外に出て行こうとする藤田さん。引き留めて覚えていないのかを聞こうとした私を、月村さんが静かに制して彼を見送った。 「どうして止めたんですか!」 「彼は本当に、今までの出来事を覚えていないからだよ」 「何でですか……」 「過去に干渉するって、そういうことですよ谷中さん」  その後、月村さんは色々と説明してくれた。過去の世界でのことやその後のこと、何で戻ってきた後に記憶が無くなってしまう理由も。つまりは、後悔していることを解決すると今いる時間に戻ってきて、過去で改変した記憶は亡くなってしまうということだった。だから、藤田さんも覚えていなかったのだという。 「ここに後悔を癒しに来る人は、誰もが戻ってきた後のことを覚えていないのです」 「じゃあ、藤田さんが後悔していたことはどうなったんですか?」 「大丈夫ですよ、きっと」 「そうか。癒されなければ、ここに帰ってこれませんよね?」 「そういうことです」  月村さんがそういうのなら、きっとそうなのだろう。 「ここには、これまで多くの人が来ては去っていきました。伝えたかった人や何かをやりたかった人、亡くなってからもまだ心残りがあったという人と様々です」 「幽霊も来たんですか?」 「えぇ、何度か」 「しかも、一度じゃないんですね」 「はい」  ここは本当に、後悔を抱えた人が多く来るようだった。まさか、幽霊も来たことがあると言われるとは思わなかったが。 「藤田さん、作家を続けるのでしょうか?」 「きっと近いうちにわかりますよ」  月村さんに見事にはぐらかされたが、このお店から出て行った時の藤田さんを思い出して、なんとなくだが「大丈夫だろう」という気がしていた。 「さあ、ランチの続きでもしましょうか」 「そういえばそうでした。もう、お腹ペコペコです」  時計を見ると、まだお昼時。かなり時間が過ぎたと思ったのだが、実際はほとんど進んでいなかった。月村さんはサンドイッチを作り始めて私は残っていた片付けを終わらせ、カウンター席に二人で並んで食べ始めたのだった。 エピローグ ココアの甘さで一休み  街外れにある小さな喫茶店、風鈴堂。アンティーク調の店内にはゆったりとした音楽が流れ、珈琲豆を挽く音とその香りがしていた。今日はその中に混ざって、甘い香りが漂っていた。冬場の寒いこの時期には、一杯の温かいココアがとても美味しい。私はカウンター席に座りながら、冷えた手を温めるようにカップを持つ。 「この季節のココアは美味しいですね」 「確かにそうですね」 「しかも、月村さんの特製ココア。蜂蜜とシナモンと豆乳でしたっけ?」 「えぇ。なので、家でも簡単に作れますよ」 「今度自分でも作ってみます」  クリスマスも近いのかお客さんはほとんど来なくて、ここ最近は静かに時間が過ぎていた。豆の種類を教えてもらったり、器具の使い方や注意点なども教わった。それでも時間が余った時は「好きに過ごしてもいい」と言われていたので、お店に並んでいる文庫本を読んだりしていた。置かれている文庫の種類は様々で、日本人作家はもちろん外国人作家も置かれていて、聞いたことのある題名も多かった。そしてその中には、つい最近新しく発売された藤田さんの小説も並んでいた。  あの出来事の後、藤田さんは新作の小説を発表し、この風鈴堂にもわざわざ届けに来てくれた。寝てしまったことに対する謝罪と、感謝の言葉を。「はっきりとは覚えていないが、あの日あなた達にお世話になった気がする」と、彼は言い残した。 「それにしても、少しですが覚えてることもあるんですね」 「印象が強いこと程、記憶が消えても潜在意識の方で覚えていることもあるのですよ」 「そうなのですか?」 「たまに聞きませんか? 運転は頭で覚えるものじゃないって」 「私の父もたまに言ってました。免許を取るまではわからなかったのですが、今では本当にそう思います」 「無意識にやってることは、ほとんど覚えていなかったり意図していなかったりします。彼が小説を持ってきたのも、恐らくそうでしょう」 「なるほど。ありがとうございました、月村さん」  藤田さんもはっきりとは覚えていないだけで、無意識では私達のことを覚えていたということなのだろう。そうなのだとしたら、少し嬉しいと思っている私がいた。 「おや、誰か来たようですね」  月村さんがそう呟いて振り向くと、丁度カランというドアベルの音が聞こえた。また誰かが、この街外れの喫茶店に迷い込んできたのだろう。今日はどんな物語が語られるのだろうか。 「いらっしゃいませ。お好きな席におかけください」
1
15
シリーズ一覧
感想を送る
作品を紹介
ブックマーク
しおりを挟む
作品情報
使い方
登録が完了しました!
確認事項
戻る
実行