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 もうやだ。ほんとにもうやだよ。母さんの正しさを信じられなくなっちゃった。気づいてないと思うけど、母さんはぜんぶがうそ。なんでもそれでぬりかためちゃうんだ。  それに母さんはいま、すごくひどい顔してる。人の顔じゃない。ほら、かがみで見てよ、自分の顔。きっとびっくりするから。ぼくはなれてるけどね。ずっと見てきてるから。  ごめんね、母さん。ほんとにごめんね。ぼく、口ごたえしたことないよね。はむかったこともないよね。ただのいちどだって母さんにそんなことしてこなかったよね。でも今日はいうよ。足がびっこになっても、目がつぶれてもね。うん、ころされてもいう。ころされるまでね。 〔どうして母さんの気持ちがわからないの〕  ぼくはサーカスのくまやライオンじゃないよ、母さん。そんなものでたたかれなくてもわかるよ。 〔お腹を痛めてお前を産んで、ここまで育ててきたのに〕  ありがとう。ほんとにかんしゃしてるよ。でも母さんにけとばされたおなかもすごくいたいよ。 〔母さんだって好きでこんな暮らししてるわけじゃない〕  そうだよね。だけどぼくだって好きで手からやきにくのにおいをさせてるわけじゃないよ。 〔母さんはお前の父さんのせいでぼろぼろだ〕  それはちがうよ。母さんはぼろぼろじゃないよ。ぼろぼろなのはぼくだよ。ぼくの心だよ。ねえ、母さん。ちゃんとぼくを見てよ、母さん、母さん。 お前なんか産むんじゃなかった。 ――ほら、またうそいったよ、母さん。  §  鎖がじゃらじゃら鳴る音で目が覚めた。大量の空気を鼻から吸いこみ、吐きだす。頭のなかに残っていたろくでもない夢も一緒にそうした。  鎖の音はまだ続いていた。動きに落ち着きがないハナコ。おそらくハツのせいだろう。あんなもの、戻ってこなきゃいいのに。  体を起こした。ひとつしかない小窓に目をやる――闇が映っているだけだった。そのまま目玉だけを動かし、床へ置いてある目覚まし時計で時間を確認した。黄緑色に光る針が十の少し手前で重なっている。 「妙だな」  伊勢乃へ出かけていったハツがその日のうちに戻ってきたことなど、今までに一度だってなかったはず。たまたまなのか――いやな予感が眠けを吹き飛ばしていく。  虫たちが一斉に鳴きやむ=ニュースを読みあげるアナウンサーの声だけになったトタン小屋。ちぎれっこない鎖をぶっちぎろうとしている音とハナコの唸り声がそいつに重なり、さらに砂利を噛むタイヤの音も上塗りされると、唸り声は吠え声に変わった。  はずれてほしいときに限って当たるおれの予感。トタン小屋に向かってまっすぐ近づいてくるふたり分の足音が、せっかく温まった体を一気に冷やしていく。死ぬのは大嫌いだったが、今なら即死してもいいと思った。 「今日は《天中殺|てんちゅうさつ》だな……」  何年か前に《流行|はや》った言葉を口にする。おれは全身の筋肉に力をこめた。  殴るか蹴るかして開けられた扉。人が入ってくる前になにかが飛んできた。せんべい布団をとっさにかぶる。右肘にそいつが当たった――まともに食らっていたらやばい威力。ベニヤの床で金属バットが軽やかな音を立てた。 「《てんめえ|てめえ》……」  靴のまま小屋へあがりこんでくる般若の顔をした女=静恵の左膝があがり、踵がおれの右肩へまっすぐ飛んできた。衝撃で体がねじれる――まだ耐えられる痛み。誰かのおしゃべりを流していたラジオは裏底の硬いサンダルの踵でこっぱみじんにされた。 「《くらしあげんきゃ|ぶん殴らないと》、《わかねか|わからないのか》!」  千葉にいたとき、静恵は普通の言葉づかいをしていた。自分の生まれ故郷=長野へ戻ってきてからはハツと同じ言葉をしゃべるようになった。 「《こんがきゃは|このがきは》、《なめてけつかって|なめてかかりやがって》!」  意味のわからないなんくせ。静恵はおれの髪を引っつかんで布団から引きずりだそうとした。抵抗しようと思えばできなくもなかったが、それをして結果が変わったためしはない。おれは自分から布団を出た。一緒に引っついてきたせんべい布団は静恵が蹴るようにして剥がした。 「こっちは《忙しいっつうに|忙しいっていうのに》、《まぁず|まったく》」  前のめりになっているおれの体を、今度はデブ=《出脇|いずわき》《慎作|しんさく》が引きずる。派手に蹴飛ばされるみかん箱。闇とほとんど見分けがつかなくなっているベニヤ板だけが目に映った。背中と尻に痛みが走る――金属バット。再婚同士の見事な連係プレイ。慣れた痛みだったが、一瞬だけ呼吸が止まった。  うじ虫のガキはしょせん、うじ虫――後頭部に吐きつけられてきた文句。デブがおれを名前で呼ぶことはない。父さんともども、うじ虫としかいわなかった。  髪を引っぱりまわされた。扉の前で体をベニヤの床へ叩きつけられた――脳みその芯にしびれが走る。デブの力はプロレスラー並みに強い。 「《はあ|さっさと》、《出れ|出ろ》」  小屋から引きずりだされるときに、どこかの髪の毛がまとめて抜けた。まだ抜けていない髪をすぐにつかまれた。くの字のまま歩かされるおれ。足を前へ出していくたびに土の水分が靴下にしみてきた。 「《おめのせいでばあやんに|お前のせいで婆さんに》、《ええかんものいわれたわ|さんざん文句いわれたわ》!」  こいつらはなんでもおれのせいにした。ハツはなんでもこいつらにちくった。おれをいたぶることがなによりも生きがいのふたりにとって、ハツからの電話はプレイボールを宣言する審判の声と同じ意味だった。  じゃが芋とは関係のない穴掘りが招いたろくでもない夜。牙を剥きだしにしたハナコが鎖をギリギリいわせて吠えている。 「うっせんだ、この《犬|えぬ》っころは!」  見える範囲の一番隅っこで金属バットが揺れた。 「やめろ!」  容赦ないバッティング。白い横っ腹が水枕のような音を立てる。 [*label_img*]  一度だけ短い悲鳴をあげたハナコがまた吠えはじめる。  よせ。静恵は――その女はきちがいだ。なにをどうしたところでおとなしくはならない。もげるほど首をひねり、おれはまっすぐにハナコの両目を見つめた。 「《親ぁ向かってなんせった|親に向かつてなんていった》!」  太ももにめりこむ金属バット。歯を食い縛ったぐらいで耐えられる痛みじゃなかった。右足だけで体を支える。 「《つるかってじゃね|ぶら下がってるんじゃない》」  ごつい肘が後頭部を小突く。静恵がおれとデブを小走りで追い越していった。髪をつかんでいたでかい手が後ろ襟に移り、くの字の体がさらに押し下げられる。 「《へえ|おい》、うじ虫」  今度は体をまっすぐにさせられた。《気色|きしょく》悪い薄笑いが顔の前へ迫ってくる。 「今日はおめえ、《まだ飯ぃ食ってねえずに|まだ飯を食ってないだろう》」  晩飯などいつでも食っていない。そういう代わりにぎょろ目を睨みつけてやる――頭突きが飛んできた。 「《今からおごっつぉくれてやらあな|今からご馳走を食わしてやるからな》」  前にこれをいわれたときは赤ん坊のくそを食わされた。その前は土だった。どっちもうまくはない。南京錠を外す音に続き、鎖を解く音、かんぬきをずらす音、重たい鉄の扉を開ける音が順番に聞こえた。こういうことだけは手際のいいきちがいども。心と体を切り離す準備をはじめる。 「おら、《入|へえ》れ」  きちがいどものうさ晴らし。おれは鼻がひん曲がりそうなにおいの立ちこめている《農舎|のうしゃ》=処刑場の暗闇へ放りこまれた。  ハツの家はまわりを畑にぐるっと囲まれたところにあった。一番近いよその家でも百メートルは離れている。畑の内側はすべてハツの敷地で、たった今おれがぶちこまれた《農舎|ここ》は敷地のど真ん中にぶっ建てられている。人を痛めつけるのにこれ以上の場所はない。 「《おめはなんでえっつもそうだだ|お前はなんでいつもそうなんだ》!」  灯りがつけられるのと同じタイミングで腹への蹴り。体を折り曲げ、威力を弱める。いつものように縛りつけられていない分、今日はそういう動きができた。手応えのなさに静恵が不満げな表情を浮かべる。 「《やだがってじゃね|いやがってるんじゃない》」  デブに後ろ手をひねりあげられた。髪を引っつかまれた。前後左右に揺すぶられるおれの頭。心と体を切り離すスイッチを入れる。おれはきちがいどもと、おれのかたちをした人形に向かってじゃあな、といった。  足蹴り、膝蹴り、肘打ち、指輪がはまった拳での打撃。それから得意の金属バット。この体の傷は静恵の《左利き|ぎっちょ》のせいで右側に集中している。ただし、顔への攻撃はほとんどない。目立つ傷のせいで、おれをおもちゃにしていることをまわりに知られでもしたら、せっかくの楽しみをきちがいどもはなくすことになるからだ。  さっきからデブがおれの体を固定しているおかげで静恵の攻撃が確実に決まっていた――慣れたやり口。つまり人形もその痛みには慣れている。 「《こん|この》、《ごったくが|ごみが》!」  腹への連続パンチ。これも慣れていた――昔より父さんの体に近づいているおれの体。昔ほどじたばたしなくなったおれの心。顔や頭に派手なバッティングでも食らわない限り、どうということはない。これからどうなるかわからないが、この程度で済んでいる今はまだ序の口だ。 「《へえ|もう》、《どっかえって死ね|どこへでもいって死ね》!」  うんともすんともいわないおれ型の人形に向かって死ねという女。こいつを母親と慕っていた頃の自分を笑い飛ばしたくなった。  発酵した堆肥のにおいが人形の鼻を通じて心に送られてくる――あのときと同じにおい。《顔|かお》なし《女|おんな》が心のなかにこしらえたテレビをつける。古ぼけた映像。けいれんしながら泡を吹く寝巻きの女――目の玉が飛び出そうになっている静恵の顔が画面一杯に映しだされている。 〈きたねー。このおんな、きたねー〉  テレビの前で狂ったようにはしゃぎだす顔のない化けもの。ボリュームは勝手にあがっている。耳障りな音=寝巻きのなかにぶちまけられたくそのそれが耐えがたいほどの爆音になる。 ――やめろ。  おれの声とテレビからのそれが重なった。 〈やめられない、とまらない〉  あのときに息の根を止めることができていれば。邪魔さえ入らなければ。首なんか絞めずにいっそ刺し殺しておけば。いや、そうじゃない。やれるチャンスはもっと昔にもあった。それも一回や二回じゃなかったはず――後の祭り。今夜こんな目にあっているのも、すべてはおれの責任。静恵を――このきちがいをぶち殺すことに踏んぎりをつけられなかった弱い心のせいだ。  デブがぼろアパートで寝泊まりするようになって四日めの朝、ステテコから作業着に着替えたデブはそれまでの三日間と同じ時間に部屋を出ていった。その五分後、おれは殺すつもりで静恵の首を絞めた。  理由は覚えていない。反対に忘れようがないのは殺すのを一ミリか二ミリためらったということ。そのせいできちがいを地獄へ送りそびれた。おれは忘れものを取りに戻ってきたデブに結局取り押さえられたが、そこらへんを差っ引いてもわずかな迷いの影響は大きかった。 「《なんだら|なんだ》、《その目つきぁ|その目つきは》!」  死に損なったきちがいはその日を境に変わった。近くにデブがいるときだけおれで遊び、そうじゃないときはこっちを警戒するようになった。おもちゃをいじるにはデブの助けがいる。助けがないときは遊べない=くそを漏らしながら決めた静恵のルール。今夜もそれにならってこの女は遊んでいる。きちがいどもが暮らしている場所をおれにいわないのは遊ぶためのおもちゃに遊ばれないため。今となってはだから、殺すチャンスなどほとんどない。 「《文句あんだらせってみ|文句があるならいってみろ》、《ほう|ほら》!」  一向に終わる気配を見せないきちがいどものうさ晴らし。いつもの倍はやられている。おれの得意技もそろそろ限界に近づいていた。 「いしゃらなわけえぬら!」  静恵が意味のわからない言葉を叫ぶ――脇腹にフルスイング。心が特急で体へ吸いこまれる。とんでもない痛みと息苦しさに死にたくなった。口と鼻の穴からゲロが勝手に噴きだしてくる。 「おい、《あんましやっと死んじまうに|あんまりやると死んじまうぞ》」 「《かまわね|かまわない》! 《こんなはおっちんじめばいいだ|こいつなんか死んじまえばいいんだ》!」  金属バットを《避|よ》けているうちに農舎の隅へ追い詰められた=まずい状況。袖のあたりが壁の釘かなにかに引っかかった。無理やりに引っぱり戻す。ぶっちぎれた紫色のひも=聖香の髪留めが静恵の顔に当たって落ちた。かまっている暇はない。金切り声――人のものとは思えないそれが農舎の空気を震わせる。 「《静|しず》っ! 落ち着け!」 「らああああああっ!」  きちがい女が喚き散らす。デブの言葉もその耳には届かない。でたらめに宙を舞う金属バットをかわしながら武器になるものを探した。 「《逃げっだら|逃げるんじゃない》!」  ゲロが止まらなかった。そいつを吐くたびに目で見える範囲が狭くなる――いらついた。いつものくせで舌打ちしそうになるが、口のなかは次のゲロでそれどころじゃなかった。顎の先を金属バットがかすめる。  腹がねじ切れるんじゃないかと思える痛みが一秒おきにきていた。喉から鼻へ流れていくゲロを手の甲で拭う――血が混じっていた。もしかするとおれの胃や腸はやばいのかもしれない。だが、今はそんなことを気にしてる場合じゃなかった。金属バットの先を目で追う。おれの頭を狙っている動き――来る。 「《ようでもねえがきゃ|ろくでもないがきは》、《死にさらしゃ|死にやがれ》!」  空気を切り裂く音=パワー全開のフルスイング。屈みながら一旦下がる。頭の真上で豪快に振りきられていく金属バット。まともに食らっていたら、この頭は砂浜のスイカと同じ運命だった。 〈ぶき、ぶき、そこ、ぶき!〉  誰かが叫ぶ――あいつに決まっていた。すぐさま腰を浮かせ、壁に立てかけてあった農具=《鋤|すき》を引っつかんだ。両手に構え、空振りに終わった金属バットへ振りおろす――手が《じん》とした。 「《なんの真似だら|なんの真似だ》!」  金属バットが二度バウンドして地面へ転がった。鋤を構えなおし、きちがい女に立ち向かう。 〈ぶっころせー、ぶっころせー〉  顔なし女がまたいった。従うことに文句はない。きちがい女の額に狙いを定める。今度こそ―― 「くたばれ!」  一歩踏みこんで鋤を振りおろす――振りおろせなかった。 「てめは親ぁ殺す気か!」  怒鳴り声と一緒に飛んできた脇腹への蹴り=デブの攻撃。顔中の穴からゲロが噴きだしてきそうだった。鋤の柄を握る手に力をこめる――馬鹿力が反対側を固定していた。すかさず背中への蹴り。握りこんでいた鋤の柄がすっぽ抜け、農薬の入ったドラム缶へ体ごと叩きつけられた。 〈しっぱい。どれいにぎゃくもどり〉 「うるさい!」 「《なにがうっせだ|なにがうるさいだ》、《この|こいつ》!」  蹴り、蹴り、蹴り、蹴り、パンチ、パンチ、蹴り=背中や足へしつこく飛んでくる打撃。そいつを食らうたびに口と鼻からゲロが飛びだしてきた。 「《まあで恩も常識も知らねわ|まったく恩も常識も知らねえな》、《こんがきゃ|このがきは》。おい、静。そろそろうじ虫に《飯ぃ|飯を》――」  指をドラム缶のふちにかけ、両足のつま先を農協マークが描かれた横脇の部分で揃える。膝と足首に力をこめ、ひと息に後ろへ跳んだ。 「《食|く》わ……」  反動をたっぷり効かせた後ろ向きの頭突き。背中がデブの体に触れるタイミングでそいつを食らわせる――確かな感触。たぶん、鼻を潰した。が、ガキの頭突き一発でぶっ倒せるほどデブはやわくない。動きを止めるには頭か内臓をめった打ちにする必要があった。おれはきちがい女が拾いあげようとしている金属バットを先につかみ、そのまま体当たりをかました――農舎の壁に顔を打ちつけるきちがい女。ただちに百八十度ターン。左手で顔を押さえているデブの膝を走りながらフルスイングする――ジャストミート。はじめて聞く叫びに笑いがこみあげてきた。 「うじ……れ、《怜二|れいじ》、《俺ぁ別におめのことが|俺は別にお前のことが》――」  憎くてやってるんじゃない――たわ言のすべてを聞くつもりはなかった。宙でパーをしている左手をぶん殴り、返しの右打ちで左の太ももをぶっ飛ばしてやる。尻もちを突くデブ=チャンス。 [*label_img*] 「ぶっ殺してやる」  バットを振りあげ、グリップを握りしめる。 「待て……ちょ、ちょっと待て」  ぎょろ目が一瞬、右へ動いた。振り返りそうになるのを《堪|こら》える。決定的なダメージを与えていないデブから目を離すのは危険。後ろへは耳の神経だけを向けた。ふらつきながらこっちに近づいてくる足音で、きちがい女までの距離を測る。三メートル……二メートル―― 「邪魔だ!」  片手バットで左半回転――空振り。きちがい女はバットの先より向こうにいた。あてにならないおれの耳。そのまま踏みこんで跳び蹴りをする。 「静!」  向きなおる。腰を浮かせちゃいるものの、立つことができないでいるデブ。きちがい女に一秒だけ目をやった。胸を押さえ、夕方、穴の底で運悪くおれに見つかったミミズと同じ動きをしている。 「このきちがいが」  今日こそぶち殺す。この女を地獄へ送る。だが、その前にデブだ。やつさえ始末できちまえば、あとはどうにでもなる――ダッシュ。 「やめれ! 怜二、やめれ!」  きちがい女の叫び――知ったことか。自分たちが不利なときだけまともなふりをするんじゃない。こいつらをこの世から消して、おれはおれの人生を手に入れてやる。 「死ね」  金属バットを振りかぶる。狙いは脳天。振りおろした。背中を丸めたデブが体を左へ倒す。動きを止めずに軌道修正――失敗。腕時計の部品が飛び散っただけだった。ごつい右手が《握り|テーパー》のところまで伸びてくる――つかませない。手早くバットを引き、先の部分でぎょろ目を突く――かわされた。今度はがっちりつかまれた。 「《こん|この》、《くそがきぁ|くそがきが》……」  デブの顔つきが変わる。次の攻撃に入ろうとした瞬間、足払いをされた――後頭部に痛み。首から下は地面と水平。ここで倒れるのはどうにもまずい。おれの後頭部をぶっ叩いた耕運機のハンドルに手を伸ばした――届かなかった。 「こら、うじ虫!」  起きあがろうと両手を地面に突いたとき、おれの体はデブに馬乗りされた。  今までで一番スペシャルな暴力。顔も急所も関係なかった。デブは少なくとも三十発はおれを殴り、きちがい女は十発かそこら蹴ってきた後、右手の甲をいつものようにタバコの先で焼いてきた。 「母さん、《おめに弁当こせてやったに|お前に弁当作ってやったぞ》」  もう無理だった。一ミリも動けなかった。きちがい女をぶち殺すチャンスをまたもや《逃|のが》しちまったおれ。これで何度めの後の祭りだろう。どうでもいい気分だった。 「おら、こっち向け」  いわれるままに首を動かす。《開|あ》かなくなったまぶたの向こうできちがいどもの影が揺れていた。鼻の穴は血とゲロが完全にふさいでいる。口のなかは鉄の味しかしなかった。 「ちゃんと口開けや、おら」  ひんやりしたものがくちびるに当たる。どうせろくでもないものだ。もう、いっそのこと殺してくれ――おれのささやかな願い。 「《はあ|ほら》、《もっと口開け|もっと口を開けろ》。《飯がへっていかねでや|飯が入っていかないじゃないか》」  次々と口のなかへ放りこまれていくひんやりとしたなにか。赤ん坊のくそや土じゃないことは舌触りでわかった。 「《どう|どれ》、《貸してみ|貸してみろ》、《ほう|ほら》」  食事係の交代――きちがい女からデブへ。ひとつずつだったものがいっぺんに口のなかへ押しこまれてきた――動きまわる飯。そいつがなんなのか、やっとわかった。 「《おごっつぉだ|ご馳走だ》、うじ虫。《はあ|ほら》、《天然のスパゲッチだに|天然のスパゲティーだぞ》。《めっぺ食えさ|たくさん食えよ》」  舌の上や歯ぐきの隙間で暴れだすそれ。鼻のほうへ《這|は》いずってこようとするのもいた――畑で殺した弱者のたたり。父さんのいいつけに従うのも今はさすがに無理だった。 「《ちゃんと噛まんきゃだめだずに|ちゃんと噛まなきゃだめだろう》」  舌でそいつらをかきだす。胃や鼻の奥へ潜りこんでいかないように喉へも力を入れる。呼吸の手間を考えると、なかなか難しい技だ。 「そっち、《うっつめれや|押さえとけよ》」  両手を使っておれの頭を押さえつけてくるきちがい女。デブの右手が顔をわしづかみにしてくる。残ったほうの手で下顎をつかみあげられた。奥歯と顎の関節に力をこめる=無駄な抵抗。プロレスラーの握力に敵うわけがなかった。 「やめ――」  吐きけが言葉の邪魔をする。喉の奥からせりあがってくるものを咳と一緒に吐きだした。何匹かのミミズとゲロがデブの手にかかったはずだったが、その手が顎からどけられることはなかった。 「《めた動くなへえ|やたらと動くんじやない》」  吐くことはできても吸うことができない苦しみ。新鮮な空気が欲しかった。そのためなら聖香を殺してもいいと思った。その後でちゃんとおれも死ぬ。そいつができたらきっと最高だ。 「《残さねでちゃんと飲っくめ|残さないでちゃんと飲みこめ》」  息ができない間も勝手に動かされるおれの顎。口のなかへ次々とぶちこまれていく天然スパゲティーどもを奥歯が噛み潰すたびに、ひどく酸っぱい味が口のなかに広がった。それでも這いずりまわることをやめない不死身の肉。もうどれぐらい飲みこんでいるのかわからない。自分の腹のなかを想像するだけで胃が爆発しそうになった。 「怜二や」  きちがい女がおれの名前を口にする。眉間に力をこめてまぶたを押しあげた。目を潤ませ、まるでサンタにプレゼントでももらったかのような表情を浮かべているきちがい女。夏にくそを食わしてきたときも、こいつはこんな顔をしていた。 「《もってねえことすっと地獄へ落っこちんだに|もったいないことをすると地獄へ落ちるんだぞ》」  おれはもう、とっくに地獄にいた。ちがう地獄があるのなら、さっさとそっちへやってくれ。そういう代わりにミミズのジュースを噴きだしてやる――跳びのくようにしておれから離れるきちがいども。ざまあみろと思う。思うだけでそれ以上おれにできることはなかった。 「《こきたねことしゃあがって|汚いことしやがって》、《こんがきゃ|このがきは》!」  デブがびっこを引いていないほうの足でおれの体を蹴り転がす。三度めのそれでうつぶせになった。土に口をつけたまま吐く。好きに吐けることが馬鹿みたいに嬉しかった。 「ばあやん《帰|け》ってきたら、ちゃんと謝れ! 《わかたか|わかったか》!」  またなんくせ。おれがハツになにをしたのか。いずれは殺すが今はまだなにもしていない。 「はあ、かたしとけ。それと明日は学校休めや」 「ひと晩、顔と頭冷やしとけ!」  デブがいった。静恵がいった。きちがいでも他人の目を気にする頭はちゃんと働く。大したもんだ。 「……後始末ぐらい、やって……いけよ……」  口を動かさずにいった――いつものように。きちがいどもはもう、おれに近づいてこなかった。  どこからともなくやってきて、好き放題に暴れていったきちがいども。今夜はこれで済んだが、あいつらのお遊びはこの先も――おれがあいつらを殺すか、あいつらにおれが殺されるかするまで続く。  転がった透明の入れものから、あちこちへ這いずっていく残飯ども。そいつらと同じようにしておれも扉のほうへ這っていった。 「いけね。あれ、拾ってかなきゃ……」  肘と膝で体の向きを変える――誰かが乗っかっているんじゃないかと思えるほどに重たい体。砂利を噛むタイヤの音を頭の後ろで聞きながら左肘を前へとずらしていく。這いずっていたミミズの一匹がおれに向かってきた。 「来るんじゃねえよ、残飯」  喉から声を絞りだした。ミミズは怯むことなくこっちへ向かってくる。強い者に好きにされた弱者などまるで目に入らないとでもいうように。  強くなりたかった。でかい体が欲しかった。鉄のスコップになって、きちがいどもにくそやミミズを食わせてやりたかった。  人のことなどおかまいなしに鳴いている虫たちの声と夜風が、扉のほうから入りこんできていた。じっとする。顔をなでまわしていく風が冷たいのかそうじゃないのかわからなかった。鼻のなかでかたまりかけている血やゲロを鼻息で飛ばす。それからゆっくりと左の肘を前に出して――こけた。 「くそ」  横倒しになった勢いで鼻からちぎれたミミズが出てきた。舌が自動的にさっきの味を思いだす――胃がひっくり返った。 「止まれよ、ゲロ!」  ひとつの口でゲロと文句をいっぺんに吐く。おれは四つん這いで進むのを諦め、歩けば二秒かそこらのところを横向きになって転がっていった。さっきのミミズが自分の何倍もでかいおれの背中に潰されていく。そいつを下敷きにしたまま、おれは馬鹿高い天井を眺めた。 「父さん……元気かな」  この背中にはミミズしかいないが、父さんの背中には龍がいた。でかい背中にびっしり生えた黒い鱗。大人になればおれにも同じものが同じ場所に生えてくるんだと昔は思っていた。  でかくて強かった父さん。父さんの子供のおれもいつかきっとそうなる。そうなったときおれはきちがいどもを殺す。三人まとめて畑の肥やしにする。  きちがいどもの命日をいつにするか。ミミズたっぷりのゲロをぶちまけながら考えた。 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