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「ボク、もういやになってる」  いつもピカピカのジャンバーを着ている《松本|まつもと》《亨|とおる》がいった。今日はおろしたてのスニーカー=真っ赤なナイキまでセットだ。もしかすると松本はこいつを買うために午前中、学校を休んだのかもしれない。 「いやになったって、なにをさ」  いいながら、自分の着ているものを見た――乞食にしか見えなかった。 「《兄|あん》ちゃんと比べられんのが」  おれたちは決められた通学路から外れ、りんご畑のなかを歩いていた。下校時間を知らせる放送が風に乗って聞こえてくる。 「兄貴と比べられることのなにがいやなんだよ」 「全部」  おれには兄弟がいない。だから兄貴と比べられることがどんなふうにいやなのかわからないし、わかる必要もない。 「答えになってねえけど……まあいいや、別に」 「なにそれ。ちょっと、やな感じ」  松本には松本の、おれにはおれの悩みがある。自分以外を本気で心配できるやつなんかいやしない――そういおうとしてやめた。 「兄ちゃんは勉強ができて野球もうまい。でもボクは、そうでもない」 「おれなんかもっと『そうでもない』」 「沢村!」 「《悪|わ》りい悪りい。だけど松本だってそんなに成績悪くねえだろ。野球も今年はピッチャーだったじゃねえか」  枝から落ち、半分土に埋もれたりんごを蹴った――腐っていた。りんごはズックの先でほとんど潰れてから脇へ転がっていった。 「兄ちゃんは一番だ」  自分の背の何倍もある影を見ながら松本がいう。 「学校で一番。勉強も野球も。背だってボクよりずっと高い」  たしかに松本の背は高くない、というよりチビだ。背の順でいくと前から……たしか二番めか三番め。前ならえで腰に手を当てるポジションまであと一歩、というのがいやなのはまあ、わかる。 「背なんてそのうち伸びる。だいたい兄貴、中学生じゃねえか。松本より勉強や野球ができて当たり前だろ」  ズックの先で染みを作りかけている腐ったりんごのジャム。落ち葉へそいつをこすりつけながらいった。 「ちがう。兄ちゃんは小学校んときも一番だった。背だってそうだ。ボクみたいなチビじゃなかったし、足も速かったし、モテたし、それに《どけち》だ!」  おれからすると松本と松本の兄貴は双子といっていいぐらいよく似ていた。頭の中身と《どけち》についてはわからないが、見ためだけでいけば松本を縦にちょっと引っぱって学生服とメガネをくっつければ兄貴がそのままできあがる。なにをどう比べたところで、いうほどちがいがあるとは思えない。 「そんなにちがわねえって。ちがうとしても気にするほどじゃねえよ」 「ちがう! 沢村はなんにもわかってない!」 ――そりゃ、わからねえよ。お前んちに住んでるわけじゃねんだから。 「だけど怒ったってしょうがねえだろう。人はみんなどっかちがうんだからよ」 「わかってるよ、そんなの!」  おれに怒鳴ってくる松本。むかついたが黙っていた。 「今のまま、あの家で暮らしてたらボクは絶対おかしくなる!」 「でかい声出すなよ、うるせえなあ」  どこかで音がした。顔をあげてあたりを見まわす。三本先のりんごの木でカラスたちが枝を揺らしながら、萎びたりんごを突っついていた。 「あんな家、もうやだ!」  あんな家=両親がちゃんといて、食いものもこづかいもある家。 「なんでさ。いい暮らししてるじゃねえか、松本んちは」 「そういう問題じゃないんだ! ちくしょう!」  松本がりんごの木を怒鳴りつけながら、その幹も殴る。木はもちろん《びく》ともしない。まずいに決まっているりんごを突っついていたカラスたちが跳びのいただけだった。おれはポケットのなかで剥いたガムを親指と人差し指でくるくるやり、そいつを口のなかへ放りこんだ。 「ところでさ」  松本の声の感じがいきなり軽くなる。おれは眉の動きだけで『なんだ?』と聞いた。 「その顔どうしたん?」  担任をはじめ、朝から十回以上聞かれていることをおれにいわせようとする松本。うっぷんは溜まらないが、うんざりはする。  土曜から月曜――つまり昨日までおれは学校を休んでいた。きちがいどもの言葉に従ったわけじゃない。あの晩からゲロが、その翌朝から高熱が止まらなかったからだ。もちろんそこのところは誰にも話していない。松本にも当たり前に省略する。 「ケガしたんだよ。見ればわかるだろ」 「どんなことしたら、そんなケガになるん」  昨日の昼には調子を戻し、午後には例のかっぱらいに精を出していたおれ。松本と顔を合わせるのはだから、金曜の放課後以来――四日ぶり。 「橋から落ちた。川原へ」  立ち止まって拳をさすっている松本の横を過ぎながら、今日さんざん口にしてきたセリフをいってやる。 「どこの?」 「《上松川橋|かみまつかわばし》」  この街と、となりの《小布施町|おぶせまち》の間を流れている、魚のいない赤茶けた川にかけられた橋の名前を口にする。これも十何回め。おれたちはそこを渡り、学区外へよく出かけていく。 「普通はそんなとこから落ちないよ」 「らんかんの上、歩いてて足が滑った」  医者に見せたのかという質問に、そんなのは根性なしの馬鹿がやることだと答えてやる。 「なんかうそくさい」  当たり前だ。こんな顔になる勢いで橋から落ちれば、よくて骨折、運が悪ければ死ぬ。おれの本当の暮らしぶりを誰かにしゃべるつもりはない。 「信用できなきゃ、別にいい」  本当の暮らしぶりを思いだしたせいで、口のなかにあの味と感触がよみがえってきていた。どれだけガムを噛んでも消えない酸っぱさと舌触り。歯を磨いてもそれは同じだった。口の内側を誰かと丸ごと取り替えたくなる。 「信用しとくよ」  松本が小走りで追いついてくる。モズだかヒタキだかを追っかけまわす猫がおれたちの影を踏んづけていった。 「実はさ」  野鳥の悲鳴が聞こえた。落ち葉がバサバサいう音も聞こえた。『実はさ』に続く言葉だけがなかなか聞こえてこない。悲鳴は少しずつ小さくなっていった。 「なんだよ」  立ち止まって後ろを向く。つんのめっておれにぶつかってきた松本がよろけた。 「急に止まったら危ないじゃん」 「そんなことより続きをいえよ、続きを」  なにを考えているのかわからない目玉がふたつ、おれの顔を見ては逸らすことを繰り返す。 「からかってんのか」 「ちがうよ」 「じゃあ、なんだよ」 「前から考えてたことがある……んだけどさ」  目の前の顔がしっかりとおれに向く。引き続きなにを考えているのかわからない目玉が下を向き、横を向き、戻ってきてまたおれに向いた――なにかを決心したような顔つき。誰にそうしているのかわからない頷きに合わせて、松本が左の手のひらを右の拳で叩きはじめた。 「よし。沢村も一緒に《やらず|やろう》」  松本の口からはときどき方言が出たが、静恵やハツほどめちゃくちゃな言葉は使ってこない。 「だからなにをだよ」 「まだ、内緒」  にやついてるだけで、その先をしゃべろうとしない松本。心にうっぷんの芽が生える。 「なんだそりゃ。どうせ大した話じゃないんだろ」  少し強めの口調でいった。 「聞きもしないでそういうこといわない」  内緒話がもし、どけちな兄貴や家族のそれならおれには関係ない。松本もそんな話につきあわせるつもりじゃない……とは思うが、さっきの話の流れでいくとそこのところは微妙だった。そういう話以外で金のかからないことなら乗ってやってもいい。どうせおれは三年半後まで暇だ。 「んじゃ、もったいぶってないでいえよ」 「いちゃつくなし」  いちゃつくなし=焦んじゃねえよ。千葉ならまるで意味の変わってくる言葉。松本がおれの少し前を歩きだす。 「ツレションとかいうなよな」  松本の考えたこと。考えそうなこと――わからなかった。想像の範囲をもう少し広げてみる――テレビゲームが馬鹿みたいに好きな松本。 「ゲーセンとかだったら行かねえぞ」 「そうだな……えっと、こっちだ」 「無視すんなよ、おい」  松本が山の側=ゲームセンターとも帰る方向ともちがうほうへ歩きだす。 「そっちじゃねえだろ。どこ行くんだよ」 「まあ、いいじゃん」  よくなかった。あまり道草を食って帰りが遅くなるとハツが面倒くさい。畑を手伝わねえガキは出てけ=野良仕事をサボると決まっていわれるセリフ。これにくだらない暴力と朝飯抜きの刑がもれなくついてくる。 「なあ、おい……」  おれの事情などおかまいなしに歩いていく松本。いったいなにを『一緒に《やらず|やろう》』なのか。うっぷんの芽から枝や葉っぱが伸びはじめる。 「ここで、いっか」  ぼろい小屋の前で松本が足を止めた。 「なんだここ」 「知らないよ。りんごとかしまっとくとこじゃん?」  松本が入口の扉を引っぱり開け、小屋のまわりとなかをざっと見まわす。つられておれも同じことをした。人影らしきものはない。 「誰か来たらやばいぞ」 「大丈夫、大丈夫。りんごの収穫なんてもうとっくに終わってんだし、人なんて来やしないって」  堂々と小屋のなかへ入っていく松本。しかたなくおれも後に続いた。  扉を閉めるとなかは薄暗がりになった。外に比べるとひんやりしていたが、人の出入りがない場所の大抵はこんな感じだ。松本のいったことはたぶん当たっている――ひとまずは安心。窓もないのに真っ暗闇じゃないのは、板壁のところどころに空いている小穴から夕日のおこぼれが入りこんできているおかげだった。 「うわっ」 「どうした?」 「滑った。下、気をつけたほうがいいよ」  ズックの底で足もとをこすってみる――剥きだしの地面。踏みかためられたその上に苔かなにか《生|む》している感じがあった。湿った空気のなかにはカビのにおいもいくらか混じっている――おれの寝ぐらよりも原始的なほったて小屋。鼻の奥が急にむずがゆくなってきた。 「暗いなあ。電気とかないのかな」  こんなところに電気が通っていたらおれの寝ぐらの立場がない。 「ないだろ、それより早く」 「なにを?」 「さっきの話だよ」  板壁の小穴をのぞきこみながらいった。穴の大きさのわりには空や畑の景色がよく見える。 「だんだん目が慣れてきたね」  板壁から顔を離すと光の筋が反対側の壁まで伸びた。そのなかを埃の粒が飛びまわっている――鼻、限界。松本は平気なんだろうか。おれは追加のペンギンガムを口のなかへ放りこんだ。効きめがあるかどうかはわからない。 「なんかくしゃみが出そうでしょうがない。早くしろよ」 「わかったよ、もう。その前にどっか座ろう」  小屋の奥に目をやる。農作業で使う道具の向こうに赤っぽい字で『信州りんご』と書かれた木箱がいくつも積んであるのが見えた。 「あれでいいんじゃねえか」  おれが顎で指した先へ松本が顔を向ける。 「おお、ナーイス」  奥へと進んでいく松本。おれも何歩かそうした。 「で、考えてたことってなんだ」 「だから、いちゃ――」  松本がつま先立ちで伸びあがる。 「つくなし!」  もうもうと埃の舞うなかで手渡された木箱へ腰をおろし、背負っていたランドセルを脇へ置く――連続で三発のくしゃみ。松本に鼻紙を持っていないか聞いた。 「あんまり時間がない。早く聞かせろ」  鼻紙を鼻の穴のサイズに丸めながら話の先を急かす。もったいぶっているその話がもしくだらないことなら、おれはダッシュで帰らなくちゃいけない。飯抜きだけならまだしも、あのくそつまらない老いぼれのうさ晴らしにつきあわされるのはもううんざりだ。 「……あのさ」  松本が前屈みになって顔を近づけてくる――真剣なまなざし。おれは息を飲んだ。 「家出《しらず|しよう》」 「あ?」 「だから家出だよ」 「イエデって、家を出るあの家出か?」 「それ以外の家出なんてないじゃん」  うっぷんの木に花が咲く――おれを襲う後悔と怒り。松本のあまりのガキっぽさに意味もなく体から心が離れそうになった。 「いいかげんにしろよ、ばーか」 「なんだよ、馬鹿って。とっておきの話なのに」  家でちょっといやなことがあったぐらいでなにが家出だ。ばかばかしい。そんなもののどこがとっておきだっていうんだ。うさ晴らしがしたいなら、ひとりで勝手にやればいい。自分と一ミリも関係ない話につきあってやれるほど、おれは暇でもお人好しでもなかった。 「くだらねえ」  ランドセルを引っつかんで立ちあがり、腰をおろしていた木箱を蹴っ飛ばす。 「《なんだら|なんだよ》!」 「《らっちょもねえ|くだらねえ》っていったんだよ!」  鼻の穴へ詰めこんでいた鼻紙を鼻息で吹き飛ばしてやる。 「いいか、松本。遠足行くのとはわけがちがうんだぞ。腹も減れば喉も渇く。寝るとこだって必要だ。遠くへ行くなら電車賃もいる。つまり金がいるんだよ、金が」  実際にそうだった。おれは取っかえ引っかえに男を連れこむ静恵に嫌けが差し、十才の頃に家出をしたことがある。 「そんないい方しなくたっていいだろ!」  家を飛びだしてきたはいいものの金はなく、あるものといったら手垢にまみれた小型ラジオと宝ものにしていた《999|スリーナイン》のキーホルダーだけ。チャリンコをかっぱらい、あてもなく走り、スーパーの試食コーナーで食いつなぐ。眠くなっても雨に降られてもひたすら走り続けるしかない、くそつまらない旅。泣きたくなった。途中からは本当に涙が出た。しまいにはどこだかわからない場所でぶっ倒れ、このまま死ぬんだろうと思いながら眠った。  気がついて最初に目に飛びこんできたのは《静恵|きちがい》の顔だった。瞬きをした次の瞬間には額を金属バットの先で突かれていた。 「帰るわ、おれ」  金曜の晩と同じ目にあわされ、ラジオとキーホルダーをわざわざ目の前でバラバラにされ、しあげに足の指全部をタバコで焼かれたおれはその場にいた全員をぶち殺してやりたいと思ったが、結局はただ泣き、両足を押さえてうずくまっているしかなかった。松本は家出を軽く考えすぎている。 「馬鹿にしてるのか……」  次に問題を起こせば――たとえばこの《ちゃち》な家出をやろうものなら、今度はなにを食わされるかわかったもんじゃない。おれは赤いナイキの脇へ唾を吐き、扉に向かって歩いた。 「沢村はボクのことを馬鹿にしてるのか!」  無視して扉を押す。 「ボクが考えたのは、そんなガキの家出じゃない!」  少し考えた――ガキの家出じゃない家出。扉を押す力が自然と弱くなる。 「人生を丸っきり変えちゃう、そういう家出だ! この話に乗らないやつは相当な馬鹿だ!」  おれの馬鹿が並外れているのはわかっている。父さんにいわせれば静恵は『バイタ』とかいう人間で、そのバイタは父さんを『《三下|さんした》のちんぴら』と呼んでいた。どれもたぶん、馬鹿と似たような意味だ。そういうまともじゃないふたりの間に生まれたガキが相当な馬鹿なのは当たり前のこと。ただ『人生を丸っきり変えちまう家出』というのはちょっと聞き捨てならなかった。おれが今までどれほどそれをしたかったか、松本は知りもしないでいっている。 「どう人生を変えちまうんだよ」  扉を引き戻しながら聞いた。体を百八十度回転させる。 「ここからが大事なとこだ」  眉の片ほうをあげ、舌を鳴らすのに合わせて人差し指を左右に揺らす松本――わざとらしい仕草。おれは蹴っ飛ばした木箱をもとのところへ置きなおして座り、声を混ぜたため息を《わざとらしく》ついてやった。 「これなんだけどさ」  ポケットから取りだされてきた『これ』は集金袋。松本が木箱の上へあぐらをかく。 「そいつがどうかしたのか?」 「五千円と三千円じゃん、ひとり」  学年費と給食費。それぞれの袋から引っぱりだされてきた札=小さいほうの聖徳太子と三人組の伊藤博文たちが木箱の上へ並べられた。 「八千円じゃどうしようもないだろう」  ふたり分を合わせてもたったの一万六千円。結局は遠足レベルを越えていない。その程度の金をちょろまかしたところでやれることなんてたかが知れている。人生を変えられるかもしれないと期待したときの熱が特急で冷めていった。 「沢村、もう出しちゃった?」 「いや、それはまだだけど……」  昨日、かっぱらってきた例の注文品は明日売りさばくことになっている。が、その金を手にしたところで学費の全部にはほど遠い。それはそれで問題だったが、なによりおれはもう、この家出話から降りたくなっていた。 「まだもらってないの? それとも今持ってる?」  松本はおれがかっぱらいで金を稼いでいることを知らない。別に隠しているわけじゃなかったが、なんとなく今までいいそびれている。 「なあ、松本。一応聞くけど、おれがその金を持ってるか持ってないかってことと家出って関係あるのか?」 「大ありだよ。出してないんだったら出さないで持ってたらいいし、もらってないなら早くもらっといたほうがいいよ。どのみち沢村のお金になるんだからさ、それ」  お粗末な家出計画。八千円の金で松本はなにがしたいのか。なにができると思っているのか。それっぽっちの金で人生を変えられるなら、不幸なやつなんてこの世には誰もいなくなる。 「やっぱ降りるわ」 「最後までボクの話、聞いて」 「いや、もういい。八千円かそこらの金を持って家出するぐらいなら、くじゃく屋で駄菓子でも食ってたほうがよっぽどマシだ。《ちゃんと》金払ってな」 「だからそんなガキみたいな家出じゃないって、さっきも《せったずに|いったじゃんよ》」  松本が肩から慌ただしくおろしたランドセルを後ろの木箱の上へ置く。 「あのさ、これ全校生徒分集めたらいくらになると思う?」 「だからもう――」 「いくらになると思う!」  松本はなにをいってるのか。 「いい? 暗算いくよ。まずボクたちのクラスで三十二人。まあ、わかりやすく三十人で計算するとして――」 「ちょっと待てって。意味わかんねえよ」 「とりあえずここは二十四万ね。六年全体だと――」 「だからなんなんだよ! なんの計算してんだ!」 「三クラスで七十二万。かける六学年。ほら、早く計算!」 「計算て……」  そんなの、とんでもない金額に決まっている。 「松本……お前もしかして――」 「説明は後! 今は計算!」  声と態度に面食らった――問答無用。頭をしかたなく算数用に切り替える。 「……二、かける六が十二だろ。イチあがって――」 「四百三十二万ね」  松本はおれとちがって頭の回転が速い。 「なんだよその金額!」 「まちがってないよ」 「そうじゃねえよ、四百万っていったら百万円の束が四つだぞ!」 「当たり前じゃん」 「簡単にいうなよ……」  なんとなく読めてきた計画。ただ、読めてきただけで、つまりはどうしたいのかと思う。 「これとは別に四、五年生は修学旅行の積み立てが三千円あるよね。それもみんな合わせると……四百八十六万円」 「五百万《近|ちけ》えじゃねえか!」  目の眩むような金額。そんな金をおれは今までに一度も見たことがない。べらぼうな数字に口のなかのガムを思わず飲みこんだ。 「そいつをいただく」  松本がこともなげにいう。 「いただくって……そんなの、無理だろ」  咳きこみながらいい返した。 「無理じゃないんだな、これが」  いったいなにをいってるのか。そんなことが簡単にできると思っているんだろうか。だとしたらちょっとふざけすぎ……いや、けど待て。こうまでいいきってくるぐらいだ。松本はとんでもなくナイスな方法を冗談抜きで思いついているのかもしれない。もし……本当にもし、そいつで四百八十万円分の札束がおれたちのものになるなら、単純に山分けしてもひとり……二百何十万円。うまくすれば《ちんけ》なかっぱらいで小銭を稼ぐ暮らしともおさらばできる。こいつはまじめに人生を変えちまうことができるかもしれない……いや、できる。だが―― 「そんな大金かっぱらったら、《ただ》じゃ済まないだろ。おれたち」  躍りだしそうになる心を押さえこんで聞いた。 「だろうね」  ただじゃ済まない覚悟があるかどうかは別にして、やばいということは松本もわかっている。 「でも家出するには充分だと思わない? それだけあれば」  普段やっているかっぱらいのことを思った。なにかを黙って持ってくる、というところだけでみれば同じだが、何千円のかっぱらいと四百八十万円の盗みの差はどう考えてもでかい。いつも売っぱらっているだいたいの金額で割り算しても……千回分以上。実際には松本と半分にするわけだからそこまではいかないにしても、それと同じだけの稼ぎを手にするとなれば、おそらく三年……いや、もっとかかる。松本のいうとおり、この話に乗らないやつは相当な馬鹿か、そうじゃなきゃ金持ちだ――が、そいつは絶対に失敗しない。そう踏めたときの話。 「見つかったときはどうすんだよ」 「わざわざ見つかるようになんてやらないよ」 ――そりゃ、誰でもそうだろう。 「じゃあ、仮にうまく金をかっぱらえたとしようぜ。だけどその後はどうする?」 「だから家出するっていってるじゃん。沢村、ボクの話ちゃんと聞いてる?」  そうだった。家出だった。人生をそっくり変えちまう旅の計画をおれは今聞かされているところだった。 「四百八十万を手に入れて遠くまで逃げる。そういう家出。これでもまだガキの家出だと思う?」  ガキどころか大人でもやらない家出。いや、こいつはもう家出なんかじゃない。お尋ね者覚悟で行方をくらます旅=銀行強盗や誘拐犯と同じ運命に、おれたちは自分からなろうとしている。そういう話だ。 「本気なんだろうな」 「当たり前だろ。沢村こそどうなん?」  おれの顔を斜め下からのぞきこんでくる松本。正直、逃げきれるものなのかどうかはやってみなけりゃわからない。が、それだけの金があればどうにかなりそうな気もしている。 「ちょっと待ってろ」  考える――大泥棒の未来。その先に広がる世界。四百何十人の聖徳太子は自由への切符だ。鉄郎も機械の体を手に入れるためにやばい橋を渡った。銀河鉄道の《乗車券|パス》を盗み、逃げて追われて追い詰められたが、最後にはうまいことやった。 「黙ってたらわかんないよ、沢村」  うまくいく。この計画は必ず成功する。危ない賭けだが逃げきれないこともない、と思う。世のなかは金だ。金がすべてを解決する。《担任|いわくら》だってそういっていたし、そこはおれも同じことを思っている。金は強い。金の持つ力はたぶん……いや、きっと無敵だ。 「……どうやるんだよ」 「乗ってきたね」  得意げな顔がのぞく。今度はおれが松本のほうへ前屈みになった。 「やり方を詳しく話せ。じゃなきゃ乗るかどうか決められない」 「それはこれから話すけどさ。その前にひとついい?」 「いいって……別にいいけど、なんだよ」 「条件がある」  五百万近い金が手に入るんだったらなんだって聞いてやる――頷いた。 「沢村の分け前は三割」 「なんだよ、それ。半分じゃないのか」  おれたちのほかにも誰かいるのか聞く――横に振られる首。話がまるで見えてこない。残り七割の計算はどうなっているのか。 「あのさ、考えたのボクだよ。沢村はできあがってる計画に乗っかるだけじゃん」  むかつきそうになったが、いってることは正しい。立場が逆ならおれでも同じことをいってそうだ。 「せめて四割にしてくれよ」 「いくら沢村の頼みでもそれは無理」  どうあっても七割の線は譲らないつもりの松本。しかたがない。気を取りなおして計算をする。四百八十万の十分の一、かける三。ざっと百四十万がおれの取り分。半分の場合と比べたら百万も少ないが、それでも夢みたいな金額に変わりはない。 「どうする?」  どうするもなにもなかった。百四十万をものにするには松本の言葉に従うしかない。頷いた。 「よし、決まりだね」 「やるかやらないかはまだ決まりじゃない」  実際に金が手に入ったときはそれでしかたなかったが、問題はそいつをどうやっておれたちのものにするかだ。でかい話だけされても肝心なところがあやふやじゃ、《ままごと》となにも変わらない。 「じゃあ、やめる?」 「そうじゃない。やり方だ。算数だって野球だってそいつを知らなきゃなにもできないだろう」  松本が鼻を鳴らす。 「疑り深いな、沢村は」 「失敗するのが好きじゃないだけだ」  いって、話の続きをせっつく。説明をはじめる松本。その目を見ながら頷くおれ――頼む。おれたちふたりでやれそうな方法であってくれ。天に祈るような気持ちで松本の話に耳を傾けた。 「でさ、これ配られたの先週の木曜じゃん?」  そうだ――頷いた。 「学年費と給食費は毎月これが配られた次の週の木曜までに持っていくことになってる。あさってだね」  それも知ってる――頷いた。 「各クラスで集められた学年費や給食費は木曜の昼まで事務室にあるんだ」 「そんなのわかんねえだろ」 「わかったんだよ、こないだ」  疑い半分、期待半分。汗ばんだ手のひらをGパンの膝へこすりつけた。 「昼休みに野球の練習をしてるとき、いつも気になってたんだ」 「なにが?」 「《須坂|すざか》信金のバイク」 「バイク?」  話がさっぱりつながってこない――気だけが焦る。 「決まって毎月最後の木曜なんだよ、そのバイクが学校へ来るのは」  つながった。バイクは集められた金を信金へ運ぶために取りに来ている。同時に第二、第三の疑問が湧く。 「もうわかっただろ?」 「さっきよりはな。だけど金はみんながみんな木曜に持っていくわけじゃない。次の日や一日前の水曜、今日持っていったやつだっている」 「信金のバイクが木曜以外に来たのを見たことがない」 「たまたまじゃないのか?」 「夏休みの後はかなり注意して見てたけど、やっぱりその木曜日にしかこなかった」 「ほんとに金を取りに来てたのかよ、そのバイクは」 「たぶんね」  疑えばどこまでも疑える話。だけどおれは信じたかった。賭けたかった。大金がこの手に乗るのは夢でもなんでもない。今はもう、そう思いこんでいた。だから『たぶん』じゃ困る。 「確かめたわけじゃないんだな?」 「ギリギリまでは確かめたよ」  勘や想像だけじゃない、といった口ぶり。どう確かめたのかを聞く。 「バイクがいなくなった後、授業に出た問題がわからないふりをして職員室へ行ってみたんだ。そしたら奥の事務室で学年費や給食費の袋の中身がほんとに《空|から》かどうかを《佐東|さとう》先生が確認してた」  念の入った下調べ。松本はどうだといわんばかりに胸を張っている。だが、おれにはまだ納得いかないところがあった。 「完ぺきだろ」 「まだだ」 「《なんだら|なんだよ》、もう」 「金が松本のいうとおり、信金のバイクが取りに来るまで事務室にあったとして、じゃあどうやってそいつをかっぱらう? まさか、また授業の問題がわからないとかいうのか?」  松本が『わかってないな』という顔をする。自信満々のその表情と態度がちょっと気に食わなかったが、裏を返せばそれは《練りに練った》計画という証拠。おれはいらつきを期待にすり替えた。 「ボクたちはまだガキだよ。隙を見て盗んだとしても男の先生にすぐ押さえつけられる。それじゃあ意味が――」 「だったら、どんな手があるっていうんだ」  松本の声にかぶせていった。 「もうもうもうもう、いちゃつくなし!」  しっ!――鼻の前に人差し指を立てる。 「今、物音がした」 「ボクも聞こえた。ここの持ち主かな」  忍び足で板壁に近づき、耳を当てる――音とわずかな振動。向こう側からなにか硬いもので壁を叩いてきている感じだ。 「……やばい?」 「声を出すな」  小声で短くいい、それから壁の小穴から表を見た。黒っぽいなにかが夕方ギリギリの暗さのなかを飛び跳ねている。 「たぶん、カラスだ」 「なんだあ、心臓に悪いなあ」  誰も来やしないんじゃなかったのか――文句をいう代わりに外へ出てまわりを確認する。黒い鳥がおれのことをあほう呼ばわりして、紫がかった空へ飛び去っていった。 「話の続きだ」 「どこまで話したっけ?」 「教師どもから金をかっぱらう方法」 「ああ、それは無理」 「あ? どういうことだよ」 「常識で考えればわかるじゃん。ボクたちはガキなんだって、さっきもいったよね」  かっぱらいの常識――見当もつかない。 「……じゃあ、信金のバイクのほうを襲うのか?」 「完全に銀行強盗じゃん、それ。先生たち相手にするより手ごわいと思うよ」  そのとおり――いちいち正しい松本の説明。おれの脳みそは、どうしてこうもとんちんかんなのか。 「なら、どうするんだよ」 「どうするのがいいと思う?」 「なんだそれ。お前、ひょっとしてなにも考えてないのか?」 「まさか」  ときどき肝を冷やすようなことをいう松本。今度冗談をいったら軽くぶっ飛ばしてやる。 「だよな。で、どんな手を使う?」 「顔がわかんないよ」 「顔? 信金のやつのか?」 「ちがうよ。沢村がどんな顔して話聞いてんのかわかんないっていってんの」  松本がどんな表情をしているのか、おれにもわからなかった。暗さのせいだ。板壁の小穴から差しこんできていた光はもうない。吹きこんでくる風もさっきより冷たくなっている。 「顔なんか見えなくても話はできる。とにかく金をどうやって――」 「ちょっと待って」  松本がランドセルからなにかを取りだす。カチッと音がしたのと同時に白い光が宙へ伸びた。 「このへんがいいか」  積みあがっている木箱の一番高い場所へ懐中電灯が斜めにして置かれた。いろんなものの影が扉に向かって伸びていく。きちがいどもの顔が一瞬、闇に浮かびあがってきたように見えた。 「……なあ、松本」 「吸う?」 「あ? なにを?」  白っぽい箱のようなものが投げられてきた。 「こんなもんやってんのか」  タバコだった。松本の口にはもうそいつが刺さっている。 「今どきの小学生はけっこう吸ってるよ」 「うそつけ」  おれは白いそいつ=マイルドセブンを木箱の上へ置いた。 「うそじゃないよ。武田や染川だって吸ってるし」  《武田|たけだ》《眞路|まさみち》=パチンコ屋の息子。《美滝|みたき》小きっての不良。《染川|そめかわ》《蘭子|らんこ》=豚みたいな顔をした生徒会長。 「武田は吸うかもしれねえけど、染川は吸わねえだろ」 「吸うよ。一緒に吸ったもの、こないだ」  松本がポケットから赤いライターを取りだし、大人がそれを吸うときと同じようなやり方で火をつけた。 「とにかくおれは吸わない。それより続きだ。どうやって金をかっぱらう?」 「ふぅ……あー、クラクラきた」  しゃがみこみ、目をつぶってうな垂れる松本。ここまできて、いったいなんの真似だ。 「おい、時間がないんだ。早く聞かせてくれ」  軽い処刑と飯抜きは決定。今さら焦ってもしかたがなかったが、だからといってこれ以上遅くなるわけにもいかない。うっぷんの花が再び開きはじめる。 「その前にさあ」 「なんだよ」 「なんでそんなに急いでるわけ?」 「松本こそタバコなんか吸ってんなよ」 「意外とまじめなんだね、沢村って。もしかして怖い?」  怖くはない。別につきあってやってもかまわなかった。ただしそれはこの話=大金をかっぱらう計画を全部聞いてからだ。 「そんなことどうでもいいだろう、今は」 「じゃあ、教えない」  いらだちと気恥ずかしさ=おあずけを食らった犬の気分。 「貸せよ!」  松本の手からライターをぶん取り、木箱の上のマイルドセブンを引っつかんだ。 「ちゃんと見てろ!」  箱からタバコを抜きだしてくわえる――生まれてはじめて吸うタバコ。松本は地面へ座りこんだまま、こっちを見てにやついている。馬鹿にされている気がした。  ライターを握りなおし、丸くなっている鉄の部分に親指をかける――まわす。火花が散り、オレンジ色の炎が顔の前で揺らめいた。 「いきなり吸いこんじゃだめだよ」  松本が煙を宙に吹きだしながらいった。タバコの先を火へ近づける。 「軽く吸いこんで」  いわれたとおりにした。くわえたタバコの先が炎のなかで真っ赤になっていく。口のなかが苦かった。むせ返りそうになるのを息を止めて堪える。それから少しずつ、ゆっくりと煙を吐きだしていった。 「ちゃんと吸った。文句ないだろ」  体中の血を一気に抜き取られた気分。にやつき顔がチカチカして見える。おれは立っていられなくなり、その場に《へたり》こんだ。 「うん」  松本がゆっくりと立ちあがっていう。 [*label_img*]  にやつき顔から満足顔へ=おれを仲間にするかどうかのテスト。地面に両手を突いて体を支えていなければ横か後ろへぶっ倒れちまいそうなぐらい、おれは目がまわっていた。 「なにが秘密だ、馬鹿野郎」  口のなかの水分がなくなるまで唾を吐く。煙の味はそうでもしなきゃ死んじまうんじゃないかと思えるほどに情け容赦のない苦さだった。 「ところでさ」 「なんだよ」 「この家出計画、一緒にやるよね?」  そんなことを今さら聞いてくる意味を考えたが、頭がちゃんとまわってくれなかった。 「そのつもり、だけど、金を、どうやって、おれたちの、ものにするかまだ、聞いてない」 「汚いなあ、もう」 「汚いって、そんなの当たり前だろう。やり方を先に――」 「ちがうよ。唾だよ、唾!」  最後の唾を吐き終え、懐中電灯の光がまともに当たっている松本の顔を見た。けろっとしてやがる。ひょっとしておれはタバコの吸い方をまちがえたんだろうか。まあ、それはどうでもいい。これを最後に二度とこんなものは吸わない。 「いっとくけど、話を聞いてからやらないとかは《なし》ね」  松本の念押し。おれも四百八十万――いや、百四十万という金額まで聞かされて話から降りるつもりはない。やり方がまずければ、ふたりでまた練りなおせばいい。 「わかった。必ずやる」 「オッケ。まずはさ――」 「ちょっと待ってくれ。頭がグラグラしてる」 「しょうがないなあ」  松本がランドセルのなかからなにかを《放|ほう》ってよこした――キャッチ失敗。テトラパックのコーヒー牛乳。今日の給食に出たやつだ。 「少しは楽になると思うよ、それ飲めば。あとこれ、はい」  手を伸ばしてストローを受け取る。指先が震えていた。タバコはたぶん、猛毒だ。 「職員室の扉の脇に火災報知器があるよね」  拾いあげたパックにストローを突き刺しながら頷く。 「そのスイッチのふたを開けるとなかに鍵があるんだ。輪っかの束でじゃらじゃらしたやつ」 「なんでそんなこと知ってんだ?」 「十月最初の週番はボクだった。そのとき佐東先生がそこから取りだした鍵で事務室の戸締まりをしてた」  週番=六年の三クラスから名簿順にひとりずつ集められ、クラブ活動をしている生徒以外を下校させたり、教室や体育館の鍵をかけてまわったりする当番。ひと月かふた月にいっぺん順番がまわってくる。 「今もそこにあるかどうかわからないだろう」  学校から金をかっぱらおうなんて考えたこともないおれは、そんなところまで注意深く見たことがなかった。 「六年になったばっかの週番のときも見た。夏休み前もね。半年以上、そこが鍵の置き場所になってるのは確かだよ」  話を聞く限りじゃ今も同じ場所にある可能性が高い。だが、念には念を入れておく必要がある。 「確認しないといけないな……」  松本の調べどおりなら木曜の昼には金がなくなる。ということは今日明日のうちになんとかしないと大金は手に入らない。 「そう思って明日の週番、《島田|しまだ》と代わってきた」  計画に抜かりはない。これだけ機転が利くのに、どうして兄貴に負けるのか不思議でしょうがなかった。おれは飲み干したパックを左手で握り潰し、積みあげられている木箱の上へ放った。 「もし週番のときに鍵を確認できなかったらどうする」 「あるに決まってる。今月のはじめにもこの目で見てるんだから」 「だといいんだけどな」  松本がそれを見たという日は事務室に金がない日だ。何百万もの金を集めてるときに、そんな簡単に見つけられるような場所=火災報知機の裏なんかへ鍵を隠すだろうか。 「責任はボクが取る」  松本にどう責任が取れるのかわからなかった。 「とにかく鍵があれば金をかっぱらうまでだ。なければそこで一旦諦めるしかない」 「オッケ。そしたらいつやる? 今日?」 「今日は火曜だ。水曜に金を持っていくやつらもいるだろうから、明日のほうがいいんじゃないか? 鍵の確認だってあるわけだし」 「そっか……締めきりギリギリに持ってくるやつって、どれぐらいいるんだろう」 「さあな。それより時間はどうする?」 「誰もいなくなってからじゃなきゃできないから……やっぱり夜じゃん」 「だよな……そしたら明日の晩に金をかっぱらおう」 「決まりだね。欽どこ見終わったらあんな家、ばいならだ」  何百万もかっぱらう晩に『欽どこ』はないだろう。松本は本当にやる気があるのか。 「テレビなんかどうだっていい」 「そうはいかないよ」 「おい、松本……」 「冗談だって」 「真剣な話をしてるんだ。冗談とかよせ」 「はいはい」  なめた返事にいらっときた――我慢した。 「とりあえず準備するものを決めよう」 「別になんにもいらないよ。必要そうなものはボクが持っていく。懐中電灯とかね」 「釘抜きとかペンチとかトンカチは?」 「必要かなあ、それ。だって鍵あるんだよ? 金庫破りするわけじゃないんだからさ」 「鍵の束のなかに金庫の鍵があるかどうか、わからないだろう」 「さっきから心配ばっかしてる。第一、お金を金庫に置いてるかどうかだってわかんないじゃん」  札束といえば金庫――おれの想像。実際がどうなのかは知らない。 「じゃあどこに置いてあるっていうんだよ」 「引き出しとか」 「教科書じゃねんだぞ。そんなとこへしまってあるわけないだろう」 「冗談だよ」 「おい、冗談はよせってさっきも――」 「沢村はそうやってなんでも考えすぎなんだって」 「松本が気楽すぎるんだ」  一発逆転のかっぱらい。やると決めたからには成功させたかった。遊びじゃない以上、どんなに考えても考えすぎということはない。 「じゃあ、ちょうどいいじゃん。心配屋の沢村と気楽なボク」  松本がけらけら笑いだす。 「それにさ、ボクけっこう運がいいんだよ」  運なんかでなんとかなるもんじゃ……いや、だけどそいつもたしかに必要だ。 「おれは――」  いいかけてやめた。 「おれはなに?」  運がよかったためしがない。口にしたらこの計画が失敗しそうな気がした。 「なんでもない」  ついてない心配屋と運のいいのんき屋。単純に算数をしてもこっちに損がまわってくることはなさそうだ。今はこの話がでたらめじゃないことを祈るしかない。 「そしてボクたちはさっそく運がいいよ」 「なんで?」 「ママさんバレーの日と重ならなかった」  ママさんバレー=生徒の母親同士が集まってやるお遊び。面倒をみてるのはたしか……佐東。 「ボクんちのマ……お母さんやってんだよ、それ」 「馬鹿教師が張りきってやってるあれか」 「そう。カズや染川んちのおばさんもやってる」  カズ=《石森|いしもり》《和宏|かずひろ》。おれがこの学校へ転入してきたときのボス。今はただのちくり屋。家は松本んちの近くらしいが、詳しいことは知らない。おれは松本んちへ行ったこともなければ近づいたこともなかった。 「昔、バレーやってたとかそういうの、聞いたことないんだけどね。お母さんから」  松本や石森、豚の母親たちがやっているママさんバレーと札束をいただくことにどんな関係があるのか。 「……家を抜けだせないってことか?」 「ちがうよ。晩くまで学校の体育館使ってるじゃん。人が大勢いたら泥棒できないだろ」  どこまでも気のまわる松本。そいつができないばかりにおれは今までさんざんな目にあってきた。この頭がい骨のなかに松本と同じ脳みそが生まれつきで入っていれば、おれの人生もここまでぶっ壊れちゃいなかっただろう。 「なるほどな。完ぺきの完ぺきだ」 「だろ? あ、気持ち悪いのなおった?」  グラグラしていた頭はいつの間にかなんともなくなっていた。コーヒー牛乳がタバコの毒に効くのは本当らしい。 「札束のことを考えてたら気分がよくなった」  もうすぐ手に入るかもしれない大金。頭のなかじゃ気の早い聖徳太子どもがどんちゃん騒ぎをはじめている。
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