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「うちの一族に恨みでもあるんですか?なぜこんな仕打ちを、僕らに。わからない。言ってしまえば、あなたは疫病神です。もう、二度と関わらないでください」 半年前に吐かれた長いセリフが、狭い空間で鳴らされた大鐘のように、脳内で響く。鬱陶しい。 「英輔、後何分くらい?」 ユウナの声を聞いて僕の身体は一瞬痙攣し、自分一人の世界から現実に引き戻された。目の前には普段乗っている京浜東北線の真っ青な座席と黒いつり革が見えた。同時に、不規則な左右への揺れが背骨に伝わってきた。電車がレールの継ぎ目を通過する、ガタンゴトンという典型的な音も耳に滑り込んできた。その音がいったん収まると、サークル員十数名の雑多な話し声が鼓膜を揺らした。 ということは、今は下校の時ではない。大学のサークル活動で京浜東北線大宮行きに乗っている。そうだ。思い出した。会長の企画で、旧古河庭園へ向かう途中だ。 「ねえ」と隣に座っているユウナが僕の肩を叩いた。それに促され、僕は質問を思い出し、「…あと7分かな」となんとか答えた。今は日暮里。上中里まではだいたい7分だろう。ユウナは納得して会長に顔を向け、表情筋いっぱいのスマイルで話し始めた。 おかしい。秋葉原から電車に乗り込んだ時、ユウナは僕と談笑していなかったか。僕はいつの間に自分の世界に入っていたのだろう。それと会長はいつの間にユウナの隣に座っていたのだろう。乗車からそれほど長い時間は経っていない。 しかしおおかた、僕が自己中心的に無表情・上の空をある時点から決め込み、そしてユウナを退屈させてしまった、ということだろう。最近こういった失態を頻繁に晒してしまう。会話にも「うん」や「ああ」でしか返答していないパターン。当然、ユウナは他の誰かと会話したくなる。 でも、会長か。 7分ではなく8分経過した後に上中里駅に着いた。会長とユウナが二人横並びで電車から降りていくのを見送って、後輩も含めたサークル会員全員が降りていくのも見送ってから、僕はよっこらせと席を立ってホームへ移った。相変わらずホームから見える外の鉄柵には、溢れんばかりの緑が絡まっていた。ここだけ見れば、奥多摩や高尾に来たのかと錯覚してしまう。 平日の11時という微妙な時間帯だからか、ホームには僕ら以外学生はおらず、脂の乗った中年の会社員が数名と、将棋でも打ちたそうな高齢者がこれまた数名いるだけだった。 少々寂れていて落ち着いた雰囲気が鼻腔をくすぐる。雨上がりの土っぽい匂いも心地よい。涼しげだ。しかし駅から少し歩いて大通りに出ればビル街、都会に出てしまう。大学周辺と同じく、そこでは空気が暑くゆらめく。まだ6月だというのに今年は汗ばむ程度には暑い。半袖一枚でもよかったかもしれない。 改札への階段を上っている途中、ふとサークル会員の数を数えてみたら、自分も含めて14人だった。会長がLINEで事前に予告していたとはいえ、よくこれだけ集まったものだ。火曜の午前に皆授業は入っていないのだろうか。それともサボってまで来たのか。新入生もちらほらいるようだけど、一年からサボりを習慣化したら、そのままズルズルと単位を沼に落とし続ける。 「英輔さん、で、いいんでしたっけ?」 新入生らしき小柄な女が話しかけてきた。リスみたいな顔だ。 「おお。まあ好きに呼んでいいよ」 緑と茶色で服をそろえている。森ガールってやつか。 「英輔さんって、やっぱりよく写真撮りに行くんですか」 それは写真研究会でという意味だろうか。それとも一人で、の意味か。いや、どちらも合わせてか。まあテキトーでいい。当たり障りのない返答をするのが、双方にとってベストだ。真実を言えば夢と平穏が崩れる。面倒な会話はできるだけ避けたい。 「月何回か行ってるよ。君は?」 「4月に一眼買ってからは20回くらい出かけました!」 新入生は言葉をすでに用意していたかのように、スラスラと言った。満面の笑みだった。自分の持つ写真への思いをアピールして、実際に写真を見てもらい、才能を評価してほしい、彼女が望むのはきっと、そんなところ。 駅から出て目的地の旧古河庭園に着いても、この子にカメラを教える運びになりそうだ。少し面倒だけど、でも、被写体として映えそうだからよしとする。森の妖精、マッチ売りの少女、アルプスの少女、赤ずきん、その辺がしっくりくる全体像を彼女は持っていた。童話系の写真を撮りたいときにもってこいだ。旧古河庭園の洋館にはお似合いだろう。逆を言えば、六義園や新宿御苑には一切溶け込まない。溶け込めない。 考えてみると、そういった和の空間にはユウナの方が似合う。彼女は平安までタイムスリップしたかと錯覚するほどに、日本庭園に自然と溶け込むことができる、稀有な存在だ。高身長で色白、黒髪は艶のあるロングで、顔の輪郭は卵のように滑らか、ほんのりと丸みもある。さらには服もえんじや紫を基調としたものが多く、イメージ段階では非の打ち所がない。 「すごいね。2か月で20回写真撮りに行ったってことだ。なかなかそんな情熱ある奴はいないよ」 僕は階段に目を落としながら、思い出したように答えた。 「ありがとうございます!」と新入生は威勢がいい。 「いやいや。でも授業大丈夫なの、そんな撮り行ってて」 「あー、まあなんとかなりますよ」 「大丈夫か、それ」本当に。サークルのけだるい雰囲気に流されてはいけない。学校全体で見れば、授業に出ないで遊んでる学生はごく少数だ。サークルではそれが多数派に切り替わってしまうから危ない。自らの常識は一つのコミュニティ内で醸成させてはいけない。 階段を上って改札を抜けると、向かって右側にまた階段が見えて、皆がそちらへ行こうとした。そのため、「庭園は左から行くんだ」と僕は丁寧に促した。上中里駅改札口前では近くの中華料理屋から漂ってくる酢豚の匂いがした。 「英輔、先頭来てくれない?道知ってるのあんただけでしょ?」 すでに屋外にいるユウナがまだ駅舎内にいる僕に口を尖らせて言った。会長は駅前にある小さな広場を、某大手メーカー製の高級一眼レフで撮っていた。あのカメラはおそらく最新モデル。また買ったのか。10万以上する代物をよくもそうポンポンと買えるものだ。 会長が広場を撮るのを真似してか皆駅周辺をパシャリパシャリと撮り始めた。さっきの新入生も駅舎の青白い屋根を難しそうな顔をして撮っていた。カメラをバッグから出してないのは僕とユウナだけだった。ユウナはスマホを暇そうにいじっていた。僕は空の曇り具合を眺めて、あえて押し黙っていた。 上を見ると、梅雨時特有のグレーの大空が僕らを覆っている。雨は一滴も落ちてきていない。ちょうどいい天気だ。この微々たる薄暗さの中で、旧古河庭園のバラは退廃的な雰囲気を醸し出すことだろう。 「コウ、そろそろ行かない?」 そうユウナが会長を促すと、彼は「うん」と小さく呟いてあたりを見回した。 「で、右と左のどっち行けばいいのかな?」 会長は大きなマンションのある線路沿いの道と、民家の多い上り坂の二つを指さした。誰の顔も見ていないが、僕に向けて言ったのだろう。 「こっち」と僕は右にある上り坂を指さして、歩きだした。さっきの新入生は案の定僕のすぐ側へ寄ってきた。数歩後ろに他のメンバーが続いて、ユウナと会長は一番後ろでとぼとぼ歩いていた。 「ところで君、名前は?」 僕が新入生に聞くと、彼女は首からぶら下げた一眼を指で叩いてリズムをとりながら答えた。 「旭川日奈子です」 「へえ。新歓には来たの?」 僕は行ってないけど。 「いえ、行ってないんです。4月末までは古着のサークルにばっかり顔だしてたので」 古着のサークルねえ。森林に溶け込めそうなその服も古着なのかな。 「へえ。古着のサークルなんてうちの大学にあったっけ」 「いや、インカレですねー」 「はあ。今は行ってないの?」 「なんか雰囲気が自分と合ってなくて」 旭川は一眼を弱めに両手で握って、恥ずかしそうに笑った。サークルを辞めることは何も恥ずかしくないと思うのだが。たとえ肌に合わないという理由でも、大学のサークルなんてそういうものだろう。 「そう。まあ居心地の良いとこに行くのが一番だよ」 僕が言うと、旭川は一眼から手を放し、腕をだらんと体の横へ垂らした。エントリーモデルの小さな一眼レフがグラグラと重そうに彼女の腹の前で揺れていた。僕が持っている一眼もこれと同じシリーズのものだが、彼女のそれは高級洋菓子のように真っ白だった。一眼レフにしては珍しい配色だ。彼女の持つ世界観がその白に表現されている気もした。 「写真研はすごい居心地良いですよ」 旭川の顔にはやはり、一眼と同じく純白で清々しい笑みが浮かべられていた。 道路の左手にはいくらか年季の入った白系統の住宅、右手には緑豊かな神社が見えた。そのような昭和の香り漂う上り坂をしばらく歩き、交差点に差し掛かった。この交差点までくるともう都会だと思っていたが、意外にも高層建築物は少なく、2階か3階建ての飯屋や雑貨店の方が多かった。もちろん高層のマンションなどはあったが、いくつも見えるわけではない。何せ前に来たのが一年前だから、記憶があいまいだ。 しかし青春時代の記憶というのは、こうして分かりやすいように、極端に、捏造されていくのかもしれない。気温は、交差点に来てからそれほど上がったようには思えないし、僕の着ている長袖のリネンTシャツには、汗が全く滲み込んでいない。それは今しがたドライヤーに当たってきたように、さらさらと爽やかに乾ききっていた。 交差点を渡って左に曲がり、自転車が頻繁に通る道を数分歩いた。商店街と人々の香りがした。 「あ、ここですか?」 と旭川が木製のレトロな門を指差して言った。その門は庭師によって整えられた木々に取り囲まれていて、清潔感があった。 「そう、ここ」 僕は言って門のすぐ横で立ち止まり、皆が来るのを待った。たいていのメンバーはすぐ後ろにいたが、談笑している5人の集団が1分ほど遅れて来た。そのうちの二人は会長とユウナだった。 「それじゃあ入るか」 会長は急に皆の前に立ち、先導して門をくぐっていった。団体料金は20名以上からであったため適用されなかったが、それでも入場料は一人150円と安価だった。安いからと言って2年の辻田はふざけて年間パスポートを買っていた。600円らしい。あいつは海外などの旅行先とサークル活動中にしかカメラを持ち出さないから、買っても無駄だろう。庭園に来る趣味もないだろうし。しかし僕にとっては通学路の途中でもあり、東京近郊で写真を撮ることも多いため、買う価値はいくらかあるかもしれない。しかしそれは、もう一度来ることがあったら、また考えよう。今日の主題はそんなことではない。 皆が入場券を買い終えた頃、券売所から10歩ほど離れた綺麗な砂利道で、会長は「ちょっと集まってー」と言って手を挙げた。13人全員が会長の周りに不格好な円を描いて集まると、会長は両手をパンと叩き合わせ、話し始めた。 「えーと、じゃあ着いたんで、それぞれ好きなところから回っていきましょう。予定では13時30分現地解散で、4限には間に合うようになってます。けど、まあ残りたい人は残って全然かまわないんで、あくまで目安ということで。あとはなんかあったかな。あ、一応三脚は使わないようにね。ほかの人に迷惑だから。うん、そーのくらいかな」 会長は手に持っていたカメラを専用のクロスで何気なく拭いたあと、「じゃ、行こう」と言って一歩前に踏み出した。かかとの隅まで磨き抜かれた革のスニーカーが、白い砂利を丁寧にかじった。 数歩進んだ後で、会長は思い出したように皆の方へ振り向いた。 「皆知ってるかもしれないけど、そこにいる英輔くんは、この旧古河庭園に来たことがあるみたいだから、いろいろと聞いてみてね。特に新入生なんかは英輔くんと話してみるといいよ。彼はうちのサークルで一番写真が上手い人だから。うん、勉強になると思う」 メンバー全員の視線が僕に向けられた。 「いやいや、全然」と適当に受け流し、僕は背負っていた帆布のリュックからエントリーモデルの少し傷ついた一眼レフをそっと取り出した。そして逃げるように洋館正面の西洋庭園へ歩いて行った。 [*label_img*] 「英輔さんのカメラって私のとおんなじシリーズだったんですね。なんか意外」 すっかりメンバーが園内に散らばった後、旭川は西洋庭園の隅で、薔薇を撮影する僕に話しかけた。 「ああ、そうだよ。そんな意外かな」 曇り空に覆われた幾何学模様のバラ園と近代ヨーロッパ風の洋館は、ダークファンタジーのにおいがする。予想通り退廃的でもある。旭川をこれらの要素の前に設置すれば、おとぎの国から追放された妖精、というテーマで撮れそうだ。しかしそうは言っても、笑顔や子供っぽさが標準装備であろう旭川には、晴れの方が似合うのかもしれない。 「だって、個展開くような人がエントリーモデルのカメラ使っているだなんて、ふつう思わないじゃないですか」 僕は人差し指でシャッターボタンを押し、黄色のバラを接写した。昨日降った雨のおかげで、水滴が花弁の裏側から垂れていた。 「別に個展は君が思うほどたいそうなものじゃないよ」 そう、僕はカメラの達人ではない。 「いや、すごいですって。しかも学内じゃなくて馬喰町のギャラリーで、でしたよね?」 カメラのファインダー越しの風景からいったん戻って、彼女の顔を見た。 「そうだけど。よく知ってるな。見に来たの?」 「いえ、会長さんから部室で聞いただけですけど」 やっぱり、予想通りだ。あの人、言いふらしてる。半年も前のことなのに。新入生にいちいち言わなくてもいいだろう。 「それ以外にもなんか言ってた?会長は、部室で」 「えっと、そうですね。でも私、部室行ったの二回しかないんで、それ以外はなにも」 「ああ、そうなんだ」 まあいいか。 あたりを見回してみると、外国人観光客がちらほらいた。日本人の老夫婦も数組いて、思いの外賑わっていた。もちろん劇的な人混みができるほどではないが、無人の風景は東西南北どこにも見当たらなかった。バラの開花時期ともあって人気なのだろう。一年前に来たときは7月で、バラも咲き終わっていた。その日は晴れだったこともあり、今日の雰囲気とはいくらか違った。去年来た時は、天空に浮かぶ王宮を、一人で貸し切っている気分だった。 僕は満足のいくまで様々なバラを接写した。少々目と指が疲れたため、接眼部から目を離し、カメラの液晶画面に視線を落とした。すると視界の端に、手持無沙汰にしている旭川が見えた。 「撮んないの?」と僕は訊いた。 「いえ、英輔さんの技術を盗もうと思って」 「だから、別に僕はカメラ上手くないって」 「でも、会長がさっき上手いって言ってたじゃないですか。そんな謙遜しないでくださいよ!」 旭川が僕の目を見つめて、わざとらしく頬を膨らませた。その後、僕は何と答えていいか分からず、間が開いて、それを埋めるように彼女はくしゃっと笑った。やはり、晴れでなければ撮れない被写体だ。 「ずいぶん楽しそうね」 突然、しかし流れるように、自然に、ユウナの声が鼓膜を揺らした。 声の聞こえた方向へ振り向いてみると、ユウナはバラ園の入り口で退屈そうに立ち尽くしていた。幻聴ではなかった。一体いつからそこにいたのか、見当もつかなかった。 「おお」僕は反射的に気の抜けた返事をした。返事をしたまま、僕はユウナから目を離さなかった。薄紫のゆったりしたブラウスが、絵巻から飛び出してきた淑やかな着物に見え、美しかった。しかし彼女がバラ園の内部へ入っていけば行くほど、そのブラウスはただのブラウスになっていき、彼女の全体像は“パリへ観光しに来た日本の田舎娘”へと変貌した。日本庭園で彼女を撮りたい。 「あ、ユウナさん!」 旭川がユウナへ向けて、親友の上京を見送るほどの勢いで手を振った。 「ん、二人は結構仲良いの?」 僕は旭川に首を向けて訊ねた。旭川が言葉を探してしどろもどろしていると、見かねたユウナがきっぱりとした口調で答えた。 「日奈子ちゃん、最近よく部室に来てくれるのよ。だから仲良くなったの」 旭川はリスのように小ぶりな出っ歯をしまいこんで、渋い顔をしていた。その顔は、部室には二回しか行ったことがないという先程の言葉が、真っ赤な嘘だったということを物語っていた。 しかしなぜそんな嘘をわざわざ僕に吐く必要があったのか、それは分からない。いや、≪僕や僕の個展に関することを部室で詳しく聞いた≫、という事実を隠したかったのかもしれない。嬉々とした会長から聞いたであろう、退屈な事実を。 「で、あんたは部室こなさすぎね。日奈子ちゃん見習いなさい」 ユウナが僕を指差して言った。人差し指は剣のように細長く、指同様に長い爪には黒々とした濃いネイルが塗ってあった。 「いろいろと忙しいんだよ」 僕は吐き捨てるように言って、逃げるように洋館へカメラのレンズを向けた。洋館は豪邸と呼ぶにふさわしいほど横長く、窓の数が多かった。よく見ると、王がスピーチをするような大きめのバルコニーが、建物二階の左・右・中央にそれぞれ一つずつ配置されていた。 そのうちの左のバルコニーに旭川を想像上で据え、空も澄み渡る青を想像して、早朝のような清々しい自然光を柔らかく旭川に当て、シャッターボタンを指できつく押し込んだ。液晶で撮った写真を確認してみると、曇り空の下にある、ひどく寂しいバルコニーが映っているだけだった。 「ところで、会長はいいのか?」 僕は再びバラ園にカメラを向け、ユウナに訊ねた。 「何それ」ユウナの声が尖った。 「さっきまでずっと一緒にいたろ」 レンズ越しに見えるバラには、黄色以外に赤、ピンク、白があった。どれも6月とあって満開とはいかないけれど、少しばかりの萎れ具合は未亡人を思わせる。寂寥が紡ぎだす美、これは曇りであるが故の効果だろうか。 「あのさあ、コウと私がくっついてるの、そんなに嫌なの?」 声がさらに鋭く尖った。レンズの向こうに見えるバラの棘とその声は、似ていた。僕は棘にズームして、ピタリとピントを合わせてから、シャッターを切った。 「あいつは面倒なやつだからな」 「あんたが思っているような人じゃないよ」 再びシャッターを切った。棘は茎から何本も生えていて、釘バットを思わせた。 「いや、実際そうだったろ。展覧会の後に僕とユウナを…」 「ちょっと!」 レンズ越しに薄紫の生地。ズームしていたバラの棘は隠された。僕はカメラを片手にぶら下げて、仕方なく顔を上げた。 「日奈子ちゃんもいる前で、やめてよ」 ユウナが息を荒げてそう言ったあと、僕も含め3人はしばらく黙っていた。 「き、気にしないでいいですよ、私は日本庭園の方、行ってるんで」 旭川は沈黙を自分が破らなければと思い立ったのか、ここにいては迷惑だと肌で感じ取ったのか、早口で言い残してそそくさと階段を降りて行った。日本庭園に消えて行った彼女は、遠足に来た幼女のようだった。 「なんで今日来たの?」 ユウナは旭川が階段下の砂利道をとぼとぼと歩いていくのを見送ってから、小声で僕に訊いた。いつかは、いや今日中にはユウナに訊かれるだろうとは思っていた。 「会長が、僕を意識した撮影会を開いたから。来ざるを得ないだろ」 僕がそう言うと、ユウナは目を細くして目尻をきつく吊り上げた。一瞬、タレ目に見せかけるための化粧が剥がれた、すっぴんのユウナが見えた気がした。 「あんた大丈夫?そんなわけないじゃん。自意識過剰すぎ」 「そうかな」 会長は確実に僕を意識していた。手入れされていない山中の自然を好むあいつが、旧古河庭園でわざわざ撮影会を開くはずがない。それにあいつは、普段であれば、自分が行き尽した空間にしか皆を誘わない。 「もしかして、コウが個展のこと、まだ根に持ってると思ってんの?」 「まあな。あいつは僕の何倍も、写真に心血注いでたから」 ユウナの黒髪は梅雨時の少し生暖かい風になびいて、彼女の右目を覆い隠した。それを鬱陶しいと感じたのか、ユウナは顔を傾け、髪の束を勢いよく耳の後ろへとかきあげた。 顔を傾けたことにより、無防備なうなじが姿を現して、それによって露見した顎からうなじ、鎖骨に至る曲線の滑らかさに僕は目を奪われた。 「言っとくけど、コウはなにも気にしてないよ。あんたに意地悪されたわけでもないんだし」 「そういうことじゃないよ」 「じゃあどういうことなの?」 ユウナの声には棘だけではなく、不安も含まれていた。 「つまり、僕が出展した写真を、もし自分でも撮れたら?ってこと」 「は?」 「ごめん、もうこの話は終わりな」 そう言って、僕は西洋庭園を後にした。日本庭園へと続く階段を下る途中で後ろを振り向くと、ユウナはいなかった。ずっと遠くにいた。バラに向かって自前のミラーレスカメラを向けている、彼女の美しい横顔が見えた。 階段を降りてから続く、細い砂利道が懐かしい。日本庭園は一年前に来た時と同様に緑が繁茂していて、空気が澄んでいた。そこかしこに群生する苔も、自然に調和する石製の灯籠も懐かしい。 「先輩、これ見てください!」 「英輔さん、この写真どうですかね?」 日本庭園を一人で歩いていると、立て続けに一年や二年から声をかけられた。そのたびに「ぼかし具合がいいね」なんて適当なことを言ってごまかした。 そんな調子でしばらく歩いていると、ふとした瞬間に日本庭園は至極立体的だということに僕は気が付いた。木の大きさはまちまちで、高さのある建造物もいくつかあり、地面も平坦でなく、丸石の重ねられた階段が地形に沿って配置されている。さっきまでの西洋庭園とは対称的だった。西洋庭園は二次元に近い平坦な構造をしていて、そこが日本庭園と明らかに異なっていた。二つの間に優劣があるとは決して思わないが、僕にとっては今いる日本庭園のほうがすこぶる居心地がいい。ノスタルジーを感じる。心象風景に近い何かが、この庭園にはあるのかもしれない。 去年訪れた時に、今気付いた違いを意識することはなかった。去年は逆さ富士のような、池に反射する景色ばかりに興味があって、庭園の造りの違いなど気にも留めなかった。この庭園の中心に佇む「心字池」を撮ることにしか、興味がなかった。事実、7月の暑い時期に旧古河庭園へ訪れたのは、「雰囲気の良い池がそこにはあり、庭園が水面に美しく映る」という情報をネットで仕入れたため、でしかなかった。 その去年に偶然手にした情報が人生を変えることになるとは、当時は微塵も思わなかった。いや、結局去年ここに来なくとも、僕は変わらなかったのだろうか。どうだろう。それは分からない。 またしばらく砂利道を歩くと、「心字池」のほとりに着いた。水面のすぐ下には、紅色の鯉が口をパクパクと空しく開けていた。池全体を見渡すと、水面に映る園外のマンションが、厳かな和の雰囲気で唯一異質であるとあらためて分かる。その光景に目をやりながら、僕は池の北側にある短い石橋を渡った。すると、渡った先の細道から、会長が一人で歩いて来るのが見えた。 「や、英輔くん」 小さく手を振りながらやってきたこいつに、僕も手を一振りだけしてやった。 「いいかげんその呼び方、やめてくれ。前みたいに英輔さんでいいだろう」 僕が言うとこいつは鼻で笑って足元の小石を蹴った。その小石は地面を跳ねて、僕のスリッポンに当たった。 「だってもう同級生じゃないですか。英輔くん」 この態度を見てもユウナはまだ、こいつが個展のことを気にも留めていないと言い張れるのだろうか。 「で、いい写真は撮れたのか?」 僕が訊くと、こいつは自慢の一眼レフに搭載された可動式の液晶を僕に見せつけた。やがてその小さな液晶の中で、スライドショーが始まった。そこには日本庭園全体を映していたり、一枚の葉を映していたりと、この旧古河庭園内での様々な写真があった。 「相変わらず上手いな」 絞り、シャッター速度、ISO、それらの数値を毎回変えて撮ったものだろう。色味や光のバランス、主題が何であるかなど、それぞれ的確で、オートモードではなかなか撮れない写真ばかりだ。構図も上手い。考え抜かれている。僕にはできない。 「全然ですよ。三脚もレリーズも、PLフィルターなんかも、ここでは使ってないですからね。微妙です。家帰ってから、レタッチが面倒ですよ」 「そういうもんか」 「そういうもんです。英輔くんはどうですか?」 意地でも英輔くんと呼ぶことに決めたらしいこいつは、僕に笑顔で訊ねた。 「まあぼちぼちだよ」 そう言って僕も液晶を見せた。ただバラを接写したものや侘しいバルコニーなどがそこには映し出された。 「結構白飛びしちゃってますね、どの写真も。全部オートで撮ったんですか?」 「ま、そうだな」 それを聞いてあらためて、こいつは僕のカメラの液晶を食い入るように見やった。 「一年が撮った方がよっぽど上手いな」 半笑いで言って、僕の反応をうかがった。僕は表情をゼロの状態から全く変えずに、水面を見つめていた。 「茶番はもういいから、そのマンションを撮ってくれ。待ちくたびれたよ」 僕はやわらかい鏡のような水面から目を離して、会長の顔を見た。彼は狐のように鋭い目を、さらにきつく尖らせていた。 「いいんですか?もうこの庭園を楽しめなくなりますよ」 「いいよ。鮮やかなバラを十分見た。それに日本庭園も。大丈夫だ」 「そうですか。じゃ、遠慮なく」 彼は高級な一眼レフを専用クロスで優しく拭いた。 「ま、両手に花でバラ園にいられたら、そりゃ十分ですよね」 「見てたのか」 「少しだけ」 バラ園で旭川がユウナに手を振る場面、その一瞬の映像が脳裏をよぎった。 彼はカメラを拭き終え、次に液晶画面で設定を開いた。彼は携帯ゲームで遊ぶかのように、素早くボタンを押した。目線をカメラに落としてボタンを押しつつ、大きく息を吸った。 「あの、姉さんには近づくなって、僕、英輔さんに何度も言いましたよね?」 彼が液晶を覗くその横顔は、真剣で冷徹なものとなっていた。 「勘違いするな。話しかけてきたのはユウナの方だ」 彼の指の動きがピタリと止まり、身体全体も二秒程度ロボットのように固まった。 「…そうでしたか」と彼は口だけを動かした。 「ああ」 僕が言うと、彼は再びカメラのボタンを小刻みに押した。 「でも、あんたと一緒にいるとまた留年させられてしまうでしょう。勘弁してくださいよ」 コウタはカメラの設定画面を閉じ、次に、水面を眺めながら池沿いを歩いた。マンションのよく映える角度がどこか、探しているのだろう。 「ユウナとは半年近く会っていなかったし、この先会うこともない。心配するな」 「でも授業で会うんじゃないですか?」 コウタは肉眼だけでなく、カメラのレンズ越しでもマンションの映り方を確認していた。しかしまだシャッターは切らない。慎重だ。 「知ってるだろ。ユウナは中国語の単位を一つだけ取り損ねて、留年してるんだ。だから、第二外国語がスペイン語の僕とは会うはずがない」 「まあその進級に関わる大事な単位を落としたのは、去年の春学期に英輔さんと遊び呆けていたからなんですけどね」 「…それは本当に、申し訳ないとは思ってる。けど、もう本当に会うことはないんだ。だからまた留年なんてことはあり得ない」 コウタのため息は長く広く吐かれた。 「姉さんはどうしてこんなダメ人間と付き合ったんだ」 「さあな」 本当は分かる。ユウナは僕の自由に憧れていた。大学に入ってから遊び呆けて、授業をまともにとらない、そんな愚かともとれる自由をまき散らしていた僕に、社長令嬢で将来を固定されている彼女は惹かれてしまったのだろう。自分を閉じた日常から解放してくれる存在が欲しかったんだ。 ただ僕の方も、親からの熱心な教育に裏打ちされた彼女の気品に、強く惹かれていた。僕らは互いに足りないものを知り、自然と埋め合っていた。僕は読書や勉学の面白さを知るようになり、彼女は多少のサボりによって精神的な余裕を保つことの重要性を知るようになった。 僕らが知り合ってしまった以上、「恋愛関係になる」というのは避けられない流れだった。 しかしユウナは、社長令嬢としてはいささか僕側に寄りすぎた。彼女は僕より早いスピードで、誰も追いつけないスピードで、僕のもとへやってきてしまった。ユウナは違う世界へ気軽に足を踏み入れて、そのまま浸ってしまった。一度味を知ってしまえば、戻ることが困難な緩い世界へ。 「まあいいです。とにかく、今は写真ですね。忘れていました。さすがに4限に間に合わないと困るでしょうから、そろそろ撮ります」 コウタはそう言うと、地面に片膝をついて身体を水面に向け、顔を突き出した。その姿を見ていると、一年前の自分を思い出す。ちょうどこの地点で同じ体勢になり、写真を撮っていた自分。 「曇りで、季節もひと月ほど違いますけど、いいですよね。時間帯も場所も同じなので」 「いいんじゃないのか。ていうか、それはお前が決めてくれよ」 自己満足に付き合わされている身にもなってほしい。 いや、僕は今日自分の意思でここへ来た。だから、付き合わされている、という言葉は違う。そぐわない。今日は、僕にとっても踏ん切りをつける日だ。 「じゃあいいことにさせてください。ほんとは7月の同じ日にセッティングしたかったんですけど、僕も7月は忙しいので。あなた以上に」 「インターンか、経営の勉強か?」 「ご名答、どっちもです」 「すごいな、次期社長って、やっぱ」 コウタは僕の発言に苛立ったのか、レンズ越しの景色に集中し始めたのか、自分の身体を沈黙のベールで包んだ。 固く結ばれた口と、長いレンズを素早く回す左手が、決して話しかけるなと僕に伝えている。そんな気がした。 数十秒黙っていると、片膝を立てたまま体勢を崩さないコウタの手元から、比較的静かなシャッター音が、数回聞こえてきた。そのたびに彼は液晶を見て、絞り数値などの設定を少しずつ変えていた。そのループ状態が数分続いた。 その後、コウタは顔を左右に傾けたり水面にカメラを近づけたりして、またもシャッターを切り続けた。僕らの後ろで風に揺られる楓の葉が、波のような音を鳴らしていた。僕は去年、今のコウタ程熱心には、この水面を撮っていない。 「だめだこりゃ」 コウタは自分のカメラの液晶をしばらく眺めたあとで、そう言った。その後、片膝を地面から離して立ち上がり、カメラを僕に渡した。手渡されたそれは、僕のカメラよりずいぶん重量感があった。可動式液晶に映る水面の写真を、僕は一枚一枚丁寧に見ていった。 「いや、上手いよ。どれもすごく上手い。色鮮やかで、どこか懐かしい雰囲気もある」 水面にゆらゆらと反射する白いマンションが、日本庭園に囲まれて聳え立っている、そんな写真の数々。それらは、鮮やかでくっきりと表現されたものから、淡く寂しく表現されたものまで、表現が様々だった。それらすべてが、等しく綺麗で、無駄がなかった。 「そりゃそうでしょう。その一眼レフは玄人向けで、僕はそれを使いこなせてるんですから」 「そうだな」 「でも、分かるでしょう。全然、惹きつけられないんですよ」 「まあ、言いたいことは分かる」 「やっぱり、正直そう思いますか」 コウタはそう言うと、自分の下唇を前歯でキュッと噛んだ。 「ああ。すまないけど、正直に言わなきゃ、今日来た意味がない」 コウタは口を楽にして、薄いため息をついた。そして彼は黒のスキニージーンズに備え付けられたポケットから、一枚の写真を取り出した。 「どうして同じ被写体なのに、こんな違うんですかね」 楓の葉は相変わらず強く吹かれていたが、コウタの短髪は形をキープしていた。 「やっぱ、僕は宝くじに当たったんだよ」 「そう思いますか」 鯉が水面を揺らした。 「ああ。僕は、光も構図も色のバランスも、それ以外の要素も全部完璧な一点で、たまたまシャッターボタンを押したってことだ。季節も時間帯も場所もカメラの状態も、どれか一つがわずかでも違っていたら、撮れない写真だったんだよ。お前の綺麗にまとまった写真を見て、あらためて思った」 一呼吸おいてから僕は言った。 「やっぱり、僕に技術や才能はなかった。ただ、水面を撮る回数が多かっただけだ」 僕がコウタにカメラを返すと、コウタは僕に例の写真を渡してきた。 その写真には、水面に反射して逆さになった現代のマンションが、古風な庭園に丸呑みされている、なんとも不思議な光景が写っていた。 「時代の哀しき変遷をテーマにした、最高の作品だ」と専門家に言われた、例の写真だった。 水面の世界に侵入したマンションは雪のように白色だが、水面に張り付いた落ち葉が火の粉のようになって、マンションを燃やしていた。一方水面にコピーされた精巧な日本庭園は暗く黒々としていたが、水面に落ち葉は一切なく、ほの暗いながらも緑が鮮やかで、さらには美しい鯉が数匹水面下で泳いでいた。優雅に逢瀬でもするように、泳いでいた。プロの方々はこの構図に、皮肉を見出したのだろうか。 「覚えてますか、12月末に開いた写研の展覧会」 コウタは水面でもカメラでもなく曇り空に顔を向けて言った。 「ああ、もちろん。東校舎の地下一階を大きく使った、冬の学内展だった」 僕も何の気なしに曇り空を見上げた。 「その時に客として来てたギャラリーのオーナー、あれ、僕の親の力で呼んだって、前言ったじゃないですか」 「ああ」 半年前に聞いた。 「実はあの人、うちの親からあらかじめ、僕をスカウトするように仕込まれてたんですよ」 「え?」 一度たりともそんなこと、聞いたことはなかった。僕はコウタに顔を向けた。コウタは吸い込まれるように空を見ていた。 「やっぱり知らなかったんですね。まあ、僕と親と、そのオーナーしか知らないことだから、当然か。姉さんにも言ってないし」 「そうだったのか」 今でもユウナが知らないことを、今僕に打ち明けた、ということか。それにはどんな意味があるのだろうか。 「ええ。だからあれは、僕が個展を開くための、ちょっとした出来レースだったんです」 「…それじゃあなおさら、なんで僕が」 「分かるでしょう。あの人、惚れちゃったんですよ、それに」 コウタは僕に手渡した例の写真を指差した。 「芸術に関わる者として、こんな素晴らしい作品を野放しにしておくわけにはいかないって。僕の親から貰った、汚い大金も全部返して、それで英輔さんの個展を無償で開いたんですよ。僕はあの写真展でスカウトされて、オーナーからお墨付きをもらった若き天才として、馬喰町で個展を開いて、写真家として有名になる計画だったんですけどね。それを英輔さんに、まんまと盗られてしまった。って、わけです」 「そうか」 何も言うことが見つからなかった。謝罪するのも、叱責するのも、違う気がした。彼が何か企んでいるようには見えなかったし、嘘を吐いているようにも見えなかった。真摯に向き合えば向き合うほど、言葉に詰まった。 「それと知っての通り、僕の最後のチャンスでもありました。三年になるまでに何らかの分野で大成しなかったら、うちの会社を継げって父に言われてたんで」 「ああ、そうだったな」 そのチャンスを僕が追い払ってしまったんだ。夏に撮りためていたものの中から、特に考えもせず選んだ一作、『Time』が追い払ってしまった。 スカウトされて、流されるように時が経ち、実感もないままたいそうな個展を開いて、それ以降、ろくな作品を一つも残せなかった僕は、一体何をしているんだろう。 「その話は姉さんから聞かされたんでしたっけ?」 「その話?」 「三年になるまでに、僕は進路を決めなきゃならないってことですよ」 「ああ。ああ、聞いた。コウはこの写真展に人生かけてるって、去年の12月に言ってたな」 出来レースのことは、もちろん知らなったけれど。 「ですよね。姉さんはそういうの言っちゃう人ですもんね。だから英輔さん、今日来たんだろうし」 コウタは、見抜いていた。 「まあな」 コウタの人生は、僕が今日来なかったら前進しない気がした。それに僕が撮った奇跡の写真は、コウタでも簡単に作り出せるものなのか、被写体が同じなら彼に凌駕できるものなのか、それを確かめたかった。僕が天才なのか、被写体が完璧なのか、それとも、文字通りの奇跡なのか。 でも、それだけではない。それだけではないはずだ。僕は険悪でもいいから、コウタやユウナと話すきっかけが欲しかった。もう少し、対話が必要だった。あの時は、あまりに短すぎた。そう僕は思って、ここへまんまと吸い寄せられてしまった。子供じみた罠にかかって、喧嘩を買って、それで、ユウナのこと、個展のこと、それを消化して、消化させたい、そう思っている。きっと、そうだ。僕はきっと、そのはずだ。違いない。違いないけれど、最後の一歩、踏み出すのがどうにも怖い。 「でもね、英輔さん」 コウタが曇り空から目を落とし、僕の顔をはっきりと見た。 「今はこれで良かったかなって思ってるんですよ」 「は?」 「どうせ、父からの最後のお情けで、ちょっと有名になったとしても、僕の写真ではプロとして残り続けるのは無理です。そう思いません?」 「お前…」 コウタは自然に、爽やかに、口角をあげた。 「当時はですね、僕は本当に写真が好きで好きで、躍起になっていたんで、そんなことは考えなかったんですけど。でも、会社を継ぐのが決まって、経営を勉強していく日々が流れて、それでやっと、道を踏み外さなくてよかったな、って思うようになったんです。あのまま中途半端にプロになっていたら、きっと…いや、想像したくもないですね」 コウタは年老いたエリートサラリーマンのような態度で、知性ある微笑を浮かべていた。 「だから、個展のことはもう、あんまり気にしてないんですよ。むしろ悪行を止めてくれて、感謝しているくらいです。英輔さんには、個展のことで、無理に気負わないでほしいんです」 気負わないでほしい。この言葉を、僕は期待していたのかもしれない。 「…ありがとな。お前やっぱ、僕にケンカを売るような日程と場所を組んだの、わざとだろ」 「今更ですか?そりゃそうですよ」 コウタは口を開けて笑った後、ポケットからスマホを取り出して、おそらくは時間だけを確認していた。その画面を見るとまだ13時で、四限までは余裕があった。 コウタはスマホを閉まった後、自分なりの間を作るように一度鼻をすすって、話を続けた。 「その、こうでもしないと、僕らは会わないじゃないですか。個展でごたついてた時期からクールダウンして、あらためて話したいことがあるはずなのに、いろいろと気を使って、重くなって、ねえ」 コウタの発言は少しぼやけていたが、伝えたいニュアンスは痛いほど理解できた。僕らは気を使って、重くなって、自戒に縛られて、遠ざけて。 「まあな」 「ですよね。僕も最近、いろんなことを考えるようになって、お互い同じ心境なのに、消化不良なんじゃないかって、そう思ったんですよ。だからもう、撮影会の時間と場所を使って、確執を一気に晴らすために、けしかけてみようかなあ、と」 コウタは生き生きと白状した。 「なるほどな」 理解はできても、僕にはそんな真似できない。コウタも以前、こんな真似ができる奴ではなかった。確実に、器を磨いていっている。社長への道を歩んでいる。人生を進めて、思考を変えて、変えて。 「勇気が要りましたけどね、少しは。でも、ずっと黙ってるのもおかしな話ですよ」 これもまた、生き生きとしていた。 「すげえな」 そう僕は言ってから、日本庭園の入り口あたりにあるベンチへ向け、一歩踏み出した。コウタはカメラをバッグへ丁寧にしまった後、ついてきた。 立体的で落ち着きのある木々、それらの間に設置された、真っ白い砂利道。僕らはその砂利道を歩いた。途中、僕はコウタに話しかけた。 「あらためて言うけど、ユウナを留年させたことは、ほんとに申し訳ない」 「さっきも聞きましたよ」 コウタは風に揺れる木々を眺め、笑った。 「そうだけど。でもほんとにこれは、個展と関係なく、よくないことだ。お前に対しても、ユウナに対しても」 コウタは黙って聞いた。僕は続けた。 「確かにユウナと一緒にいることは幸せで楽しかったけど、それでも授業を休んでまでデートなんて、すべきじゃなかったと思う。本当に、申し訳ない」 足を止めて、頭を下げた。 数秒してから顔を上げると、自分のあごに手を当てて何やら考えているコウタが見えた。 「まあ、世間知らずで流されやすい姉さんを、色んな場所へ連れまわして、それで、真面目だった性格も少し変えられてしまった、というのは、正直うざいです。昔の姉さんの方が僕は好きなので。それに加えて留年、こういうのは、社長の箱入り娘としてはなかなかな痛手なんですよ。結婚にも意外と影響してくる」 「すまなかった」 そこまでの影響をまるで考えていなかった、当時の自分を恥じた。 「でも英輔さんといる時の姉さんは、結構幸せそうだったんですよ。少なくとも僕の目にはそう映りました。だからまあ、僕としては、もう一年留年したりだとか、そういうことがないように気をつけてくれれば、付き合ってもらっても構わないと思ってます。今でも」 「今でも」僕は赤子のように繰り返した。 「ええ。それに姉さんの人生ですから、最終的には姉さんが決めることなんです。当たり前ですけど。どんなに綺麗なレールが敷かれて、それを自分で無視しようとしていても、僕が口出しすべきことは何もありません」 コウタは途中から、自分に言い聞かせるように言った。彼は、木々の隙間から見える灰色の空を、ぼんやりと見つめていた。 僕は嬉しく思ったが、どのような言葉を返せばいいか、少し迷った。日本庭園入口のベンチへ向けて、また少し歩いた後、考えても仕方がないと思い、直観で話した。 「ユウナと僕のことをそう言って貰えると、正直嬉しい。でも、お前はすごい反対してたろ。留年までさせて、将来を潰して、お前はうちの家系に恨みでもあんのか、って。だから、」 「いやあ、それは」とコウタは恥ずかしそうに頭を掻いて、僕の言葉を遮った。 「それは、個展を横取りされた当てつけですよ。あの時は、英輔さんがなにかと人生上手くいってるのが、許せなくて。まあ、姉さんと遊びすぎていたっていうのは、今でもたしかにどうかと思いますけど。でも、仲を引き裂くほどの怒りではないんです。無理やり「別れろ」だとか、強く言って当たり散らすほどの怒りではないんです。あの時は本当に、今思えば、恥ずかしいですよ。だから、僕の方こそ、すいませんでした。本当に」 半年前、突然僕を呼び出して、胸倉をつかみ怒鳴り散らしたコウタを思い出した。そういう経験も、彼には必要なことだったのかもしれない。僕にとっても。今日さえも。 「いや、うん。俺も、ごめん。あと、ありがとう」 本当に、今日話せてよかった。一人で悶々と悩んで勘違いし続けていたら、僕は一生、重すぎる荷を抱えて暮らすことになっていたのかもしれない。姉弟潰しなんて汚名を自分で自分に塗りたくって、深刻に繊細に生きていこうとしていたのかもしれない。 日本庭園入口のベンチへ近づくほど、道幅は広くなった。歩きつつ耳を澄ますと、波音が聴こえた。それは木々の揺れる音だった。 コウタは「あのっ」と言って、僕らの緩やかな沈黙を破った。 「僕が英輔さんの個展にこっそり行ってたの、知ってました?」 彼の声には風のような笑いが乗っていた。僕は彼が発した言葉の意味を瞬時に理解しようとして、しかし数秒の間にはいまいち理解ができなかった。とりあえず、口を動かした。 「そんなの知らなかったけど。突然なんだよ」 「いや、せっかくこうして会えたんですから、隠してたことは小さいことでも言いたいな、と」 「なるほど。誠実なお前らしい」 「でしょ」 特に意味のない会話をして、その間に僕は理解した。つまり、コウタは半年前、馬喰町で開かれた僕の個展に来ていたということだ。僕の言う通り、僕はそれを一切知らなかった。コウタは当時、僕を底抜けに憎んでいたため、あの場所へ来るはずがなかった。 「にしても、驚いたでしょう」 まだ青いイチョウの葉が目の前を通り過ぎ、地面に落ちた。 「そうだな。でも、僕はほぼ毎日回廊してたから、気付けたはずだけど」 「いや、バレたくなかったんで、帽子被ったりマスクしたりして行ったんですよ」 コウタは口を開けて笑った。えくぼができていた。正直、男のえくぼなんて可愛くはなかった。ただそのえくぼは、日々の心地よい疲れを意味しているように思えた。 「それで、実は僕、『Time』買ったんですよ」 『Time』という単語を久々に聞いた気がする。半年前は、一日30回程度聞かされた単語だ。ここの池で僕が撮った、今日の名目上の主役。『Time』。 「いや、お前、あんな高い写真買ったのか?」 「ああ、あの5万円もする壁掛けの写真じゃなくて、A4サイズの写真集です。表題が『Time』の。1500円。もう忘れちゃいましたかね?」 思い出した。ギャラリーの奥にある売店に、こじんまりと陳列されていたものだ。安価なため、幾らか売れていた。 「いや忘れてない、覚えてるよ。ていうか、ほんとに買ったのか?」 「ええ」 「そうか。すごいな。というか、ありがとう」 「え、すごいって、どうしてですか?」 コウタは灰色の空から僕の顔に視線を移した。 「そりゃああれだろ。ユウナとかのことで、けっこうなレベルで僕のこと憎んでただろ、あの時」 僕が言うと、コウタはまた恥ずかしそうな顔をして、頭を弱く掻いた。 「ああ、いやまあ、そうですけど。たしかに、うん、そうですね。家で作品を見た後、匿名のブログで貶してやろうと思ってたので」 風が一瞬、庭園全体に強く吹いた。まだ青い紅葉が、僕らの前で三枚落ちた。僕の笑い声は風音で打ち消された。 「…お前なあ。傷ついたぞ」 「すいません」笑い声だった。 「まあ実際、表題作以外は駄作しかないって来場者にはけっこう言われたし、ネットでも叩かれてるかもな」 「へえ、そうだったんですか。でも、ユニークな作品多くて、僕は良かったと思ってますよ、あの作品集。当時は悔しくて認めませんでしたけど」 「そうなのか」 コウタが僕に、いや僕の作品に対して持っていた感情は、思いの外あたたかいものなのかもしれない。 「うーん。まあ、英輔さんは、カメラの専門家ではないかもしれないですけど、芸術写真の専門家ではあると思うんですよね。面白いものを見つける才能、というのが英輔さんにはあって、そこが持ち味だと思うんです」 彼の言葉には一切の棘がなかった。それでいて、脚色を加えるほどに軽くも浮ついてもいなかった。その真摯で肯定的な評価は、単純な放物線を描いて僕に届き、そして琴線に触れた。自分の作品が、はじめて世界から正当に認められた気がした。 「だから、これからも英輔さんには面白い写真を撮り続けてほしいって、僕は思うんです。今日は正直、それを言いに来たんですよ」 「え?」 彼は足を止めた。僕も足を止めた。ベンチはもう、目と鼻の先に佇んでいた。早く座って話がしたい。足が棒だった。 「え?って。だって、最近撮ってないでしょう。批評家から批判されるの怖がって」 図星をつかれた。僕を非難するベテランのフォトグラファーはごまんといた。 「いや、授業が忙しいんだよ」と、僕はとりあえず嘯いてみた。 「授業、ね。そうですね。まあ確かに、単位はちゃんと取り続けてほしいんですけど。でもそんなことより、また個展を開けるほど撮ってみてくださいよ。今日の微妙な写真から察するに、リハビリは少しかかりそうですけど。僕みたいなファンが大勢待ってますから。頼みますよ」 コウタは僕の肩をポンと叩いた。悪意のこもっていない、純粋な応援の重みを感じた。 「まさか、お前からそんなこと言われるなんてな」 「なんですか、それ」 「いや、素直に嬉しいだけだ。コウタも、立派な社長になれるように頑張れよ」 「ええ、もちろん」 僕らが曇り空の下で薄く笑い合うと、近くからよく通る声が聞こえてきた。 「気持ち悪いわよ、男二人でニヤニヤと」 うねった大木の下に位置するベンチには、いつのまにかユウナと旭川が座っていた。旭川は無言で僕ら二人に手を振っていた。コウタは彼女たちの様子を見た後で、僕に耳打ちした。 「旭川さんは、英輔さんに好意を持ってますから、姉さんと付き合うなら気を付けてくださいよ」 「いや、初対面だぞ。さすがに」 コウタは息だけで苦笑した。 「個展開いたことあるって言ったら、異常なほど食いついてきたんですよ。たぶん、芸術的に優れてる経歴とか肩書きに、弱い子なんです。次期社長の僕には、全然興味示さないんですけどね」 「へえ。お前女受けいいのにな」 「金目当てが寄ってくるだけですよ」 耳打ちする僕らを、ユウナと旭川が退屈そうに眺めていた。 「なるほどな」と僕は言った。 「…二股はダメですよ、さすがに」 コウタはふざけつつも、芯では怪訝そうな顔をしていた。コウタからユウナへ向けられた、家族としての愛情が垣間見えた。 「まさか。旭川は被写体としては魅力的だけど、正直女性としてはタイプじゃない。安心してくれ」 コウタは耳の近くで話すのをやめて、僕から数歩遠ざかった。 「よかったです」 彼は僕に手を振って、西洋庭園に向かった。 「それじゃあ、僕はこれで」 立ち去るコウタを引き留めようとしたが、やめた。数秒後にはもう、彼の姿は見えなくなった。 「また撮るし、またユウナと会うぞ。いいな?」 誰にも聞こえないような、小さな声で僕は言った。ユウナと旭川がいる大木下のベンチへと、一歩踏み出した。
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