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 平成最後の夏の事だ。私はある少女と出会った。  太陽が私の肌をちりちりと焼く昼下がり。公園の芝生で寝っ転がっている私の元に一人の少女が近寄ってきた。彼女の髪は絹糸のように滑らかで、彼女が動くたびにそれはらきらと太陽の光の下で輝いた。彼女は黒布でできたローブのようなものを羽織っており、胸元には赤いバラのような花を模ったブローチをつけている。 「おじさんは、今が好き?」  不意に、黒髪の少女は私にそう問いかけてきた。天使の歌声というものが実在するのであればこういうものであるのだろう。美しく、透き通った声である。この声に魅了されていたのかもしれない、普段であるならば身元もわからぬ少女が話しかけてきたとしても無視を決め込むだけであるのだが、その日は何故かその問いについて考えこんだ。  今。不定形なものだ。「今」と発言した途端に今というものは流れ去り、どこかへ行ってしまっている。そんな不定形なものが好きかと問われてもわからない。いや、少女の意図は別のところにあるのだろう。近所の服屋で買った服で身を包み、平日の昼下がりに公園の芝生で寝っ転がっている成人男性の姿がどこか異質に映ったのであろうか、それとも先日職を失ったにも《拘|かかわ》らず何も行動を起こしていない私に対しての発言だろうか。いや、この少女がそのようなことまで知るはずはないのだが、この少女の何もかも吸い込んでしまうような漆黒の瞳を見ていると、何もかも見透かされているような気がする。 「ねぇ、おじさん。私は嫌いだよ」  私の中で問いに対する答えが決まらぬうちに、少女は私に話しかけてきた。何が嫌いなのだろうか。まだ未来があり、可能性は無限に広がっている少女。何に不満があるのだろうか。学校でいじめられでもしたのだろうか、友達がいないのだろうか。私の邪知は止まらない。 「もういい」  私がなかなか口を開かないのを見て、少女は身を翻し、私から離れていった。  その少女の後姿をぼうっと眺めていると、私は違和感を感じた。歩道へ出ているのに、少女は右や左に進路を変えるわけでなく、直進している。その先には鉄の塊がすごい速さで行き交っている。私の頭が身体に動け、前に進め、彼女の体を後ろへ、という信号を送る前に、少女の体は跳ねた。  私は、今目の前で起こっている現象を理解することができなかった。ほんの数十メートル先で起こる非日常。微かに漂ってくる血の匂い。濃厚な死の香り。頭の、脳の、心の芯に直接語り掛けてくるその香りは私を包み込み、心臓を強く握りしめた。  不意に、空を跳ぶ彼女と目が合った。彼女は吸い込まれそうな漆黒の瞳をしていた。  私にとっての今とは何なのだろう。生きることが今なのだろうか。彼女のように死ぬことが今なのだろうか。何かを成すことが今なのだろうか。何もしないことが今なのだろうか。寝ることが今なのだろうか。起きていることが今なのだろうか。生産性が今なのだろうか。無駄が今なのだろうか。私は、今なのだろうか。  時は過ぎ、私は或るバーを経営している。小さなバーだが、常連と言えるような客も出来、成功しているといえるだろう。  ジャズが小さく流れるバーの中で、ショットグラスを磨いていると、扉に付けたベルが乾いた高い音を小さく鳴らす。私が扉のほうへ眼をやると、手に持ったショットグラスを取り落としてしまった。ショットグラスはシンクに当たると、破片となり四散した。扉の前にはあの日の少女が立っていた。私は齢を重ね、しわも増えたが、彼女はあの日と変わらぬ姿でそこに佇んでいた。 「今は好き?」  彼女は私にそう問うた。今、私は。 「今は、好きだよ」 「そう、ならよかった」  私の答えを聞くと、彼女は微笑み、体を翻した。あの日と同じだ。 「待ってくれ!」  私が声をかけると、彼女は立ち止まって私のほうを向いた。バーの少し暗めの暖色の照明の下で、彼女の髪はきらきらと輝く。彼女は私の目を見据えて言った。 「なに?」  彼女の眼を見る。今もなお健在である漆黒の瞳は、彼女の髪と相反するようにすべての光を飲み込んでいる。 「君は、今が好きか?」  彼女の顔が少し陰った。数瞬して、 「私には、勿体ないよ」  彼女はそう言うと、再び身を翻した。黒衣のローブがまるでマントのように靡く。 「君は、何者なんだ」  時間を超えて、私の胸の内にあった気持ちが口からするすると出ていた。目の前でこの少女の命が刈り取られるのを私は見た。濃厚な死の香りを感じた。だが現に彼女はここにいる。あの日と変わらぬ姿で。 「それを知るには、おじさんは未だ若すぎるよ」  彼女はそう言うと、今度こそドアの外へと消えた。夜の街へ。彼女以外は普通の街へ。  私の耳にサックスの音色が戻ってくる。ふと思い出して、シンクの中を見る。中にはショットグラスの破片が飛び散っており、先ほどの出来事が私の妄想ではないと実感した。  ベルが、乾いた高い音を小さく響かせる。
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