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 走りながらランドセルのふたを開ける――ぎゅうぎゅう詰め。なかをまさぐる。目でも確認する――新井にもらった海の絵とプリン。それから普段は机のなかへ置きっぱなしにしてある教科書やドリル帳――ふざけやがって。誰だ、こんな余計なものまで詰めこんできたやつは。  ごみより価値のない学用品をまとめてりんご畑へぶん投げる。家出に必要のない海の絵もそうした。後に残ったのはプリンと予備のペンギンガム。ふたつをヤッケのポケットへ押しこみ、スカスカになったランドセルもりんご畑にくれてやる――小学生をやめた気分。だが、奴隷をやめた気分にはまだなれていない。 「待ってろよ」  岩倉の車で来た道を逆方向へとひた走る。目指すは学校。計画の前にやっておかなきゃならないことがひとつだけ残っている。  くだもの出荷場の前で保健委員=坂巻とすれちがった。走りながら振り返ると向こうもこっちを見ていた。なにかいいたげだったが、おれを呼び止めてまでそれをする気はないみたいだ。先を急ごうと前を向いて急ブレーキ。ダッシュで坂巻のところまで戻る。 「な、なに!?」 「聖……岡崎は……どうした?」  両腕を膝の上へつっかえ棒にして聞いた。 「やだ。沢村くん、まだ岡崎さんのこと好きなの?」 「そうじゃねえよ。豚――染川の……なにか知らねえけど、放課後に話す約束をしてたんだ、岡崎と」  坂巻が口を開くのを待っていたが、意地の悪そうな薄いくちびるはこれっぽっちも動かなかった。 「なんか聞いてるだろ? それともなにも聞いてないのか」 「あたし、岡崎さんと帰る方向ちがうし」  そんなことはわかっている。聞きたいのはお前が学校を出てくるまでのことだ。 「あと……沢村くんとあんまりしゃべりたくないんですけど」  こっちだって好きこのんでお前と話してるわけじゃない。坂巻の態度にはいちいちむかついたが、ここで腹を立ててもしかたがなかった。指を三本、立ててみせる。 「……なによ、それ」 「三分。それだけ口を利いてくれたら、あとはもう一生おれと口を利かなくていい」  坂巻が吹きだし笑いをする。そいつはなかなか止まらなかった。おれは発作のような馬鹿笑いがおさまるのを待って、今に一番近い情報から聞きだした。 「よくわからないけど怒ってた」 「怒ってた? なんで?」 「だからよくわからないっていってるでしょ。染川さんのことじゃないの」  豚のことはあの場で文句をいわれて終わっている。それ以外で聖香が怒る理由といったら……ひとつしかない。おれはこみあげてきた笑いを顎に力をこめて無理やりに抑えこんだ。 「岡崎はまだ教室……学校にいるのか?」 「知らない。でもあたしが帰るときはもういなかったと思うけど」  ひと足後れ――行き先変更。坂巻に礼をいい、ペンギンガムを一枚渡す――ダッシュ再開。  岡崎と書かれた表札の下のボタン=呼び鈴を十回以上押したが、玄関扉の向こうからは誰の声も返ってこなかった。聖香んちが見える県道沿いの電話ボックスから電話をかけてみてもそれは同じだった。  おれに放課後の約束をすっぽかされて怒っている天使はどこにいるのか。一刻も早く会いたい。会って謝りたい。受話器でフックを叩き、右手でちがう番号をまわす。呼びだし音を数える前に誰かが出た。 「《肝心要|かんじんかなめ》のときにでたらめやりすぎだ」  大事なときに限ってへまをやらかすのは馬鹿の証拠。馬鹿は死ななきゃなおらないと誰かがいっていたが、おれは死ぬ前にそいつをなんとかしたかった。後の祭りはもうこりごり。こんなことは今日限りにしておかないと先がもたない。 「悪かった」 「まあ、やっちゃったことはしょうがないよ。計画に影響出そう?」 「いや――」  それはない、といいかけて考えた――聖香と会って、もしまたつきあう話になったら。 「なに? どうしたの?」  あり得ない。そんな話にはまちがってもならない。聖香は豚のことでおれに――化けものみたいな顔をした馬鹿になにかいっておきたいだけ。すっぽかされたことを怒ってはいても、昔つきあっていた男に会いたくてしかたがないわけじゃない。 「……ひょっとして今、やばい?」  受話器を顔から離し、短くため息をつく。くだらなすぎる考えを特急で頭のなかから締めだした。 「大丈夫だ。予定どおり今夜、札束をかっぱらう」 「了解。一瞬やめるっていいだすのかと思った」 「そんなわけないだろ。松本こそちゃんと頼むぞ」  集合場所と時間は例のほったて小屋に十一時。鍵の束オッケー。忍びこむ場所オッケー。必要な道具は巾着袋に入れて小屋の奥に――準備は完ぺき。 「じゃ、後でな」  受話器を戻し、ガラスの扉を蹴り開ける。奴隷をやめるために坂道を駆け下りる。好きな女にさよならをいいたくて突っ走る。はじまりのための終わり。寂しいことなどなにもない。  建具屋と豆腐屋に挟まれた路地。腹の虫が叫びだしそうなにおい=カレー、焼き魚、肉のそれがあちこちから漂ってきていた。そいつをつまみに缶コーラをちびちびやる。  三階建ての建物から人がわらわらと出てきた=公文のガキども。女スパイがそのなかにいたが、父親らしき大人に連れられてすぐにどこかへ消えた。おれは飲み干した缶を道の端っこへ転がし、建物の出入口あたりを中心に聖香の姿を探した。  ラベンダー色のカーディガンはすぐに見つかった。が、余計なもの=豚が引っついていた。帽子のツバを指で引き下げ、ふたりの動きに注意を向ける。  県道に向かって歩きはじめる豚。その後ろをついていく格好の聖香。おそらくふたりとも家へ帰るんだろう。おれはいくらか距離を置いて、その後をつけはじめた。  途中で佐東の運転する車=赤いブルーバードとすれちがった。横に乗せていた女とのおしゃべりに夢中だったせいか、やつはおれにも聖香たちにも気づかなかった。県道は美滝の教師どももよく使う道。前のふたりだけじゃなしに車道へも気を向けていないと、今日に限っては面倒なことになりかねない。  小さな橋=《美滝橋|みたきばし》に差しかかる。前のふたりはもう渡りきっていた。抱きしめたら折れちまいそうなラベンダー色の背中は、いつの間にかその何倍もあるロボコンみたいな背中と並んでいた。人や自転車の通りが少なくなってきたからだろう。おれのほうはその分、後をつけづらくなっている。ふたりまでの距離を長めに取り、さらに間へ人を挟むことでそこは気づかれにくくした。  緩い上り坂の先の細い背中を見つめながら思う。家出のことには触れずに、さよならだけを伝えるにはどうしたらいいのか。転校するならまだしも、そうじゃなしに『もう会えなくなる』なんて話をしたところで聖香には通じない。場合によっちゃ、わけがわからないと怒りだすまである。おれがそれにビビって使う言葉をまちがえれば、今度は自殺でもするんじゃないかと疑われかねない。聖香の脳みそにはそういう《突飛|とっぴ》なところがある。  となると、やっぱりここはなにもいわずに――いや、先に聖香の話を聞こう。どこまでこっちの話をするかは、そいつを聞いてから決めても遅くはない。おれは問題を先送りにした。  そろそろ《大谷町|おおやまち》=聖香んちがある町だった。豚の家は知らないが、女スパイんちの近所=児童公園のそばだというのはわかっている。公園は《高橋町|たかはしまち》。今歩いているこのあたりもギリギリ高橋町。その名前が書かれた交差点は一分前に過ぎている。いったい豚はいつまで引っついているつもりなのか。アップルスーパーを過ぎてもこの調子なら、ふたりはおそらく聖香んちまで一緒だろう。どうにもありがたくないパターンだ。おれはスプーンをねじ曲げる超能力者の気持ちになって、でかいほうの背中を睨み続けた。  スーパーのひとつ手前の通りを豚が左へ折れていった――なかなかの念力。聖香が手を振り終えるのを待って、それから距離を詰めはじめた。 「岡崎!」  ラベンダー色の背中まで五、六メートルの位置から声をかけた。聖香が振り返る。 「沢……」  おれの苗字を途中までいいかけてやめると、聖香は前を向いてまた歩きはじめた。 「ちょっと待てよ」  歩くのをやめない聖香に早歩きで追いつこうとした。ラベンダー色の背中と栗色の髪が突如として白いブラウスと不機嫌な天使の顔に変わる。 「ついてこないで!」  天使がおれに吐き捨てる。公文のバッグを胸に抱える。《踵|きびす》を返す――遠のいていく背中。 「おい!」  全速力で逃げていく聖香を追う。その足は遅くなかったが、おれを振りきれるほどじゃなかった。バッグなんか抱えてちゃなおさらだ。 「止まれって」  聖香がこけたりしない力加減でラベンダー色の肩をつかむ。 「なによ!」 「なによ、じゃねえだろ。なんで逃げたりするんだ」  細い肩が上下する。右肩に乗っていたおれの手はただちにどけられた。 「話があるっていったの、岡崎じゃねえか」  今までに一度も見せたことのないきつい目。そいつでおれを攻撃してくる聖香。 「こっちもいろいろと事情があったんだ。約束の時間に行けなかったことは謝る」 「なにいってんのよ!」 「なにって……なあ、岡崎。頼むから、そんな顔しないでくれ」  ポケットのプリンを差しだしながらいった。 「最低!」  手を《弾|はじ》かれた。意味がわからなかった。同じ歩道を歩いている知らないやつらが、おれと聖香と車道の上でゲロみたいになっているプリンをじろじろやりながら追い越していく。立ち止まってまで見物していくやつはいなかった。 「そこまでいうことねえだろうが」  いいながら『最低』の意味が、こっちの思っているそれとはちがうんじゃないかという気持ちがよぎった。 「岡崎、お前なんか勘ちがいして――」  白い右手が迫ってくる――左の頬に懐かしい痛み。 「けだもの! 怜二の顔なんて二度と見たくない!」  名前を怒鳴られた。耳が踊りだしそうになった。好きな女のぬくもりが頬に残っていた。きつい目をした天使がくしゃくしゃに丸めたなにかを投げつけてくる。天使はおれが瞬きしている間に背中を向けて走りだしていた。 「おい――」  苗字じゃなく名前を叫んだ。とがめられることはなかった。その代わり待ってもくれなかった。みぞおちがぶっ壊れそうだった。 「ちがうんだよ!」  弁解する時間をくれ。聞く耳を持ってくれ。おれをどん底へ突き落とさないでくれ。頼む、聖香。おれはお前に謝りたいんだ。ずっとずっと謝りたかったんだ。それなのに――たったそれだけなのにどうして逃げる。どうしてなにもいわせてくれない。最後の言葉がけだものじゃ、悲しすぎるだろうが。この街を出ていけないだろうが。お前を……聖香を忘れることができないだろうが――伝えられなかった思いを念力にして、たそがれに溶けていくラベンダー色の背中にぶつけた。 「くそ……」  欲しいと願ったものが手に入ったことは一度もない。願うことすら本当は許されちゃいない。わかっている。そんなものは身にしみてわかっている。おれのところへやってくるのはいつだっていらないものばかりだってことも、おれの人生がそういうふうにできてるってことも、みんなみんな、いやというほどわかっている。  だけどおれは馬鹿だった。往生際が悪かった。頭と体がバラバラのせいで運命のルールに従えなかった。だからこうなっている。これからもきっとそうだろう。馬鹿はやっぱりぶっ殺されなきゃなおらない。 「お前なんか……」  何色かもわからなくなった背中につぶやく。言葉の半分はけいれんしたみぞおちに吸い取られた。 「いら……いらねえよ!」  みぞおちから取り返した言葉をがなる――佐東のように。老いぼれのように。デブのように。きちがいのように。 「欲しくもなんともねえよ! お前なんか、ちくしょう!」  景色がまわる。世界がまわる。心がまわる。まわっているのがおれなのかおれ以外なのかわからなくなる――くるくる、くるくる、くるくる。  《聖香|おまえ》なんか欲しくない。おれは聖香なんか絶対に好きじゃない。 [*label_img*]
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