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「さっきはごめん」  松本がマイナスドライバーでチャリンコの鍵をこじりながらいう。 「いいよ。なんとか逃げてこれたし」  駅に近いショッピングセンターのチャリンコ置き場。すぐ先に《伊勢乃|いせの》=老いぼれがよく出かけていく呉服屋のシャッターが見えている。聖香たちが通う公文の塾もわりと近くだ。もちろん、こんな時間まで勉強なんかしてる馬鹿はいない。人に出くわすとしても酔っぱらいか、そうじゃなきゃ泥棒ぐらいだろう。 「どうだ?」  目の前の泥棒に聞いた。 「うん、もうちょっと」  おれたちは札束を手にした後、この場所でチャリンコをかっぱらうことを計画のときから決めていた。  拾った針金でゲームウォッチの穴=『ALARM』のそれを突つきながら松本の作業が終わるのを待つ。けちくさい灯り=四、五本に一本ぐらいしかついていない蛍光灯のせいで、針金の先がさっきから何度も穴を外していた。 「沢村」 「なんだ」 「ボク、あいつだけは絶対許さないよ」  あいつ=佐東。職員室で松本がおれから隠した写真は、自分の母親と佐東が裸で一緒に写っているそれらしかった。そんなものがなぜ職員室にあるのか。どうして松本の母親と佐東なのか。おれにはまるで意味がわからなかった。松本もたぶんわからないだろう。 「写真、例のママさんバレ――」 「うん。でも今はいいよ。それよりこっちはもうちょっと。そっちは?」  松本は無理をしていた。おれに気を使っていた。本心じゃ怒り狂うか泣き叫ぶかしたいはず。できればその両方をしたいにちがいない。おれがいるせいで――逃げなきゃいけないせいで、そいつができないでいる。 「いいのを見つけた。終わったらドライバー貸してくれ」  松本のショックはわからなくもない。が、自分を産んだ女が近くにいるだけで具合が悪くなってくるおれに、その思いを一ミリもズレなくわかってやるのは難しいことだった。 「よし、いけた」  だが思う。自分の母親がとなりのクラスの担任とエロいことをしていたからといって、それが今さらなんだというのか。松本はなにをどうしたくて今夜おれとこうしているのか。そこを考えれば答えはひとつしかない。捨てた家族がどこでなにをしてどうなろうが、おれたちふたりにはもう関係のないことだ。実際、おれは縛りつけてきたハツがあのまま死んでもかまわなかったし、どこかでハナコが殺されたと聞いても、それはそれで忘れようとするだろう。 「はい、いくよ」  マイナスドライバーがスライダー並みの回転で宙を飛んでくる。おれはそいつを両手で挟むようにしてキャッチした。松本はすでに列からチャリンコを引っぱりだす作業へと取りかかっている。鉄のこすれる音があたりを気にするぐらいの大きさで響きはじめた。 「なるべく静かにやれよ」 「わかってるけど、ペダルが……引っかかって、取れないん、だよ!」  おれたちは今夜、やらかした。家や学校へは二度と戻らないと決めて全校生徒の金をかっぱらった。誰を恨むのも許さないのも松本の勝手だが、動きだしちまった計画の途中で佐東をぶっ殺しには戻れない。そんなことをすればおれたちはたちまち捕まる。松本は親友だが、そこまでつきあってやれる覚悟がおれにはない。家出の前に決めた『やばいこともなにも半分ずつ』の約束は、おれたち全体に降りかかってくる問題に対しての決めごとで、どちらかひとりの事情が百パーセントの場合まで引っくるめてのそれじゃない。どこか落ち着けるところまで逃げたら、そこらへんをもういっぺん松本に話しておく必要がある。 「ボクのよりいいじゃん、それ」 「スピードが出そうだろ」  前に二段、後ろに五段のギアがついたセミドロップハンドルのスポーツタイプ。なんの役にも立たない飾りの錠をマイナスドライバーで力任せにこじる――一秒かからずにこっぱみじん。邪魔なチャリンコどもを両脇へ押し倒し、おれのものになったそいつを引きずりだす。 「よし、行こう」 「あ!」 「どうした?」  自分が乗るチャリンコのサドルを松本が指でこする。 「座るところ破れてるよ、これ……沢村ちょっと待って。ちがうのにするから」 「時間がない。気にいらないんだったら、こっちと替えてやる」  逆さにしたマイナスドライバーを尻ポケットへねじこみながらいった。 「足届くかな、それ」  二台のチャリンコを松本が二度三度と見比べる。親になにか買ってもらうときにどれを選ぼうか迷っているガキみたいなしぐさ。松本は早生まれのせいか、こういうところがたまに子供っぽい。 「どっちでもいい。早く決めろ」 「ん~、やっぱこっちでいいや」  耳もとで風が鳴いた。置き場の隅で肩をよせあっていたごみくずたちが小さなステップで踊りだす。頬に水の粒が当たった気がした。 「ひと雨、くるかもな」 「マジで? じゃあお金、今分けちゃう?」 「ここでそれはできないだろ。千曲川を渡るまでは松本が持っててくれ」 「わかった」  となりの街=長野市まで行くことが今日の予定。おれたちはそれぞれのチャリンコへまたがった。 〝《あれぁ|あら》、もしかして亨《だねえかい|じゃないの》〟  松本の名前を呼ぶ女の声に背中の筋肉がこわばる。 「《やあっぱり|やっぱり》《そうだにぃ|そうじゃない》」  またがったばかりのチャリンコを降りる松本。知りあい……いや、親せきか。いずれにしろ誰なのかわからない。はっきりしているのはやばいということ。とはいえ、相手は女ひとり。こっちはガキだが一応は男。それでもってふたりだ。騒がれさえしなきゃ、なんとかできそうな感じはある。 「どうしよ……」  松本がつぶやくようにいった。念のため、頭の隅に最悪のパターンも置いておく。チャリンコもだから降りない。おれは顔を前に向けたまま、耳だけで後ろの気配を探った。 「《おいたちぁ|あんたたちは》、《まぁず悪りいない|ほんと悪いな》」  声に覚えはない。だが、近づいてくる靴音には覚えがあった。静恵が勤めから帰ってくるときに鳴らしていたのと同じそれだ。姿かたちはわからなくても、どんな種類の人間なのかは見当がつく。相手をするか逃げるか迷っているパンダ顔がおれに向いた。 「誰だよ」  外していた軍手を両手にはめながら聞く。 「カズの姉ちゃん……」  松本を呼び止めたのは昼間叩き潰した蝿の姉。つまり、この女と松本は近所同士=よく顔を合わせる間柄、ということ。状況が少し読めた。おれは帽子を逆向きから前へなおし、ツバで顔を隠しながら後ろへゆっくりと体をねじっていった。 「《なにしてぇだ|なにしてんの》、こんな《晩|おそ》くにぃ」 「……別にいいじゃん、なにしてたって」  目で見る高さを少しずつあげていく。  斜め下、四十五度/薄いピンクのハイヒール。  斜め下、三十度/似たような色のワンピース。その上へだらしなく羽織られた千鳥柄のベルトつきコート。横風がそいつをしつこくめくりあげている。  斜め上、十度/ほぼ正面。目、鼻、口、すべてしゃくに障るタイプのそれ。顔つきはあまり蝿野郎と似ていなかった。 「チャリンコ泥棒~」 「ち、ちがうよ!」  蝿の姉がふらつきながら近づいてくる。酒に酔った女はろくなことをしない。松本がおれに巾着袋を手渡してきた。 「《ちがわねさぁ|ちがわないでしょう》。軍手まで《してんにぃ|してるじゃない》。そっちん袋んなかは、《へえ|あれだ》、泥棒セット《だず|でしょ》」  酔っぱらっているくせに痛いところを突いてくる蝿の姉。まずいパターンだった。 「軍手は……手が汚れるから。とにかく、その……友だちのチャリが盗まれたから、だから探してるんだよ」 「友だちって誰のさぁ?」 「沢――」 「おい」 「あ、ごめん」  おれたちはさっき大金をかっぱらってきた。そいつを持ったまま今度はチャリンコをかっぱらおうとしている。その現場を赤の他人ならまだしも、知っている人間――それもよりによってちくり屋の姉に見つかった。口が軽いにもほどがある。 「鍵、《おっこしてるでや|壊してるじゃない》。《まぁずえれことして|もう大変なことして》……うぇ、《あんべわり|気持ち悪い》」  蝿の姉が松本の肩に手をかけた。 「《妙子|たえこ》姉ちゃん、ボクら忙しいから……」 「うそ、《いいない|いいなさい》」  松本に妙子姉ちゃんと呼ばれた女が首だけひねっておれを見る。 「《おい|きみ》が沢村少年《かぇ|かな》」  酔っぱらいによりかかられた松本が犬のくそを踏んづけたときみたいな顔をした。 「ケンカ強いんだってねぇ。カズの鼻曲がっちゃってさぁ」  蝿野郎の鼻にはおれにそうされるだけの理由があった。が、今そんなことはどうでもいい。問題はこの状況をどう切り抜けるか。アクシデントは松本が近所のやつに見つかったこと――相棒の事情百パーセントではじまったことだが、チャリンコをかっぱらうのはこの計画の一部。イコール、おれたち全体の問題。この女=妙子はつまり、半分ずつルールに当てはまる最初の敵ということだった。 「でもお姉さん、《やちなし|悪がき》好きよ~」  幼稚園児の塗り絵みたいな顔が大口を開けて笑いだす。化粧や香水のにおいがたまらなかった。酒のにおいはもっとたまらなかった。塗り絵《面|づら》が鼻の先まで近づけられてくる。頭突きをぶちかましたい気持ちをギリギリのところで抑えた。 「もういいでしょ、妙――」 「《うっせ|うるさい》、《盗っ人|ぬすっと》!」  振り向きざまに松本を抱きしめる塗り絵面。 「ちょ、ちょっと……」  口ごもり、引きつった顔をする松本。聖香にはあんな態度を取れるくせに、どういうわけか塗り絵面には弱い。誰にでも苦手な相手はいるということか。 「カズとは半分《っか|しか》《血ぃつながってないんさあ|血がつながってないんだけどね》」  塗り絵面の体が出し抜けにこっちへ向く。 「でも、《おいたちぁ|あんたたちは》友だち《だずぅ|でしょ》?」 「おれとあんたの弟はほとんど友だちじゃない」  体のバランスを失いかける塗り絵面。しなくてもいいのに、松本がそれを支えた。 「《もおらしこん|かわいそうなこと》《せうなし|いわないでよ》。《あんなでも一応ぁ弟なんさぁ|あんなやつでも一応は弟だからさ》。仲間に《よせて|入れて》やってほしいわけよ、仲間に。なあ、沢っ、村っ、少っ、年!」  塗り絵面はおれの肩を両手で四度も叩き、それからつかんできた。左肩から脳天に向かってどたばたと駆け抜けていく内出血の痛み=どす黒い怒りがすぐさまそいつを追いかける。 「《わかんだずぅ|わかるでしょ》? この気持ち」 「放せよ、酔っぱらい」  おれはチャリンコを降り、肩の手を払ってどけた。 「沢!……」 「もういいよ、バレてっから」 「酔っぱらいぃ?」  こういう女がガキを産むと静恵みたいになる。運が悪いとそのガキに殺される。おれは巾着袋を松本に放り、チャリンコへ乗れと目で合図した。 「悪いけど、お前みたいな酔っぱらい相手にしてる暇ねんだよ」  邪魔する野郎はぶっ倒す=今までのルール。邪魔するやつは誰であってもぶっ倒す=これからのルール。女もなにも関係ない。 「あんたずいぶん調子《ん|に》――」 「乗ってんのは――」  両手で薄いピンクの襟首を引っつかみ、額を塗り絵のなかにめりこませる。 「てめえだろ!」  鮮やかな赤を追加された塗り絵面が後ろ向きに三歩、早足する。四歩めでハイヒールの片方が脱げ、五歩めでチャリンコの列を派手になぎ倒した――酔っぱらいらしい動き。似てない《姉弟|きょうだい》でも、これで鼻だけは似た。松本が引きつった顔のまま笑いだす。 「行こうぜ、夜が明けちまう」  ありったけの力でペダルをぶんまわす――猛スピードで更けていくおれたちの夜。十月の風が耳もとでまた、鳴いた。
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