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 うっとうしい鳩どもにマジソンバッグを振りかざす。追っぱらえたのは半分。緩くなってきたイヤホンを親指で耳の穴へ押しこみ、それからガムを噛んだ。  万が一に備えた松本の読みは正しかったが、その万が一の起こりやすい状況を作りだした松本は正しくなかった。そうなることを予想できていながら、引き留めきれなかったおれももちろん正しくない。 『道路交通情報センターの《春日|かすが》さん、お願いします』  学生服を探し、見つけては顔を確認した。ひとり確認し終わるたびにひとつ、ため息が出た――また来る羽目になるなんて考えてもなかった善光寺。おれは今、その山門前にひとりでいた。  わからないことが山ほどあった。おれたちがやばい状況だと教えてきた歯のない茶色リーゼントのこと。そいつがおれの名前まで知っていたこと。そして極めつきはあの騒ぎ。 『お天気です。今日は本当に暖かい一日でしたね。《吉岡|よしおか》さん、お願いします』  あの店におれたちがいるのを教師どもはどうして知ったのか。あの短い時間でなぜそれをできたのか。おれたちみたいなガキを捕まえにやってくるのは大抵の場合、おまわりか補導員だ。まれに教師どもが見まわってくるパターンもあるが、となり街までそれをしてくるなんて話は聞いたことがない。  もっとも、おれたちは大金をかっぱらって逃げてきているわけだから、ただサボって遊びまわってるガキどもとはわけがちがう。そういう意味じゃ教師どもが探しまわっているのもわかる。《ふ》に落ちないのは『掃いて捨てるほどある長野市内のゲームセンターで遊んでいる、名前も顔もわからない学生服のふたり組』が、どうしておれたち=『となり街の小学校からやってきた中学生の《ふり》をしている小学生』だとバレたのか、だ。 『十月最後の週末はとてもいいお天気に恵まれそうです。大陸からの移動性高気圧が日本列島上空を通過――』  考えられるのは、お尋ね者の触れ書き=指名手配みたいなもの。紙を送る電話――たしかファクシミリとかいう機械で市内や長野、小布施、《中野|なかの》といった街の盛り場に、おれたちの顔写真がばら撒かれていたりすれば、さっきみたいな場合の説明はつく。昨日追いかけまわしてきたおまわりも、それでなんとなくつじつまが合ってくる。 『予想最高気温は長野市と《上田|うえだ》市で十八度。《松本|まつもと》市と《飯田|いいだ》市では――』  でも、だ。普通に考えて、たかが家出小学生を探すためにそんなものがばら撒かれるだろうか。大金をかっぱらったとはいえ、おれも松本もただのガキにすぎない。映画のなかじゃハーロックやエメラルダスが賞金首になっていたが、おれたちはそこまでの大物じゃないし、強盗も人殺しも海賊みたいな真似もしていない。実際の世界でもテレビでニュースになるぐらいのことをやらなきゃ、指名手配なんてまずされないだろう。  はっきりしているのは、ゴマ塩がなにかしなければあんなことにはならなかったということ。からくりがどうであれ、そこのところはまちがいない。 『続きまして、SBCラジオコンクールのお知らせです』  服の上からコールボタンを押してみる=内ポケットへねじこんだトランシーバー。反応はなし。呼びだし音は電波の届く範囲に相手の無線機がないと鳴らない。そういうしくみは海のある街で暮らしていた頃、機械や爆弾なんかを簡単に作っちまう友だちから教わって知っていた。 『午後四時をお知らせします』  腕時計のデジタル表示を読む――一五五九。一番右に小さく、四八――ほんの少し遅れていた。おれたちが乗りこむ予定だった列車はとっくの昔に発車している。あのゲームセンターを跳びだして一時間半、ここ善光寺の山門前に着いてからも一時間が過ぎていた。 「なにやってんだ、いったい……」  どう考えても遅すぎた。逃げるのに手間取っている、道に迷っているといったことが、そろそろ理由にならなくなってきている。昨夜あれだけ気にしていた『万が一のときの集合場所』を忘れちまうとも思えない。あいつが目でやる合図は本当にあてにならなかった。 『イントロが聞こえている曲はペンネーム手羽先最高さんほか、たくさんのリクエストをいただいてます。通算でもう七枚めのシングルになるんですね。はい、それでは今月十六日にリリースされた話題の新曲――』  なにを考えているのかわからない目、というやつが二十個以上こっちを見あげていた。態度も昨日よりなれなれしい気がする。おれは少しずつ距離を詰めてきている鳩どもをさっきと同じやり方で追っぱらい、逃げきれなかったかもしれない相棒のことを思った。 「運がいいんじゃなかったのかよ……」  ヘラヘラしてなにをいってるのかわからない歌が邪魔だった。耳からイヤホンを引っこ抜き、おれは善光寺下駅に向かって歩きだした。  《仲見世|なかみせ》=みやげもの屋の通り。そこに並んでいる店のひとつが、焼けた小麦粉のにおいと夏の雲みたいな蒸気を撒き散らしていた。《おやき》のそれだ。長野のやつらが口を揃えてうまいというそいつも、おれにはどうってことのない味だった。そばもりんごも野沢菜も蜂の子も、長野名物といわれているものでうまいと思えたものはひとつもない。おれはもう一度コールボタンを押した――呼びだし音が鳴った。 「……い……ら」  誰かとつながった。が、雑音がひどい。松本の声なのかどうかもわからなかった。混線ということも考えられる。おれは学生服の内側に顔と右手を突っこみ、親指でトークボタンを引っぱたいた。 「誰だ!?」 「ボクだよ……」  ざらついた声。だが、あいつにまちがいない。 「どこにいる? ひとりか?」 「……善光寺の駅……そっち……歩いてる。沢……」 「わかった。今そっちへ行く」  こっちで聞くのと同じぐらい、向こうでもおれの声は聞き取りづらいはず。松本は意味を理解できただろうか。  マジソンバッグを抱えて仲見世を抜ける。広い通りを左へ。まっすぐ行けば善光寺下駅。走るスピードを落とし、首から下が黒いやつの顔を片っぱしからチェックする――いた。見るからにうそっぽい中学生が『書類・写真一枚から《複写|コピー》できます』と書かれた、まわる看板の前を歩いている。 「おい!」  駆けよりながら呼びかけた――無視。聞こえていないのか。いや、それはない。いんちき中学生の後ろにいる本物の中学生どもがおれの声に振り返っている。今度は名前をつけてもう一度――相変わらずの無反応。足取りもやたらとちんたらしている。どうしたのか。  松本ふうの中学生までは車道へ止められている車の数であと三台。足音で気づいたのか、一台半のところでやっとその顔が前を向いた――正真正銘、松本亨。しょぼくれている、というよりは浮かない表情。かろうじて動いていたその足も止まった。せっかく逃げてこれたのに、なにをそんなに落ちこんでいるのか。 「捕まっちまったのかと思ったぞ、おい」  松本はなにもいわない。そして見事に手ぶら――いや、背ぶらだった。 「……ナップサックはどうした?」  猫背気味の背中に手を置いて聞く。聞いている途中でだいたいのところは思い浮かんだ。落ちこんでいるのもそのせいだろう。おれたちはエネルギーの半分を失っちまった。 「ボクはだめなやつだ……」 「まあ、そういうな。うまく逃げてこれたんだし、そこは儲けたって考えようぜ」 「ちがうんだよ……」 「心配いらねえよ。金ならまだここに二百万弱ある。ほら、こういうのなんていったけか……不幸中の――」 「大不幸……」 「おい、冗談いってる場合じゃないだろう」  くちびるを噛み、目のふちに涙を盛りあげてくる松本――妙な気分。心になぜか緊張が走る。 「沢村、ごめん!」 「わかったから、もうい――」  謝られた一秒後に舌を噛んだ。目からは火花。喉へ飛びこんでいったペンギンガムが咳に押し戻され、口から勢いよく転げ出た。 「痛ってえな、この野郎!」  振り向く間もなく羽交い絞め。すぐさま真後ろへの頭突き――かわされた。 「観念しろ!」  耳になじみすぎている《がなり》声。湿布のにおいが鼻を突く。羽交い締めのせいで頭の後ろが確認できなかったが、状況は理解できた。 「松本、てめえ……」  おれは相棒に売られた。まんまとワナにはめられた。心の闇に馬鹿笑いが響き渡る――顔なし女。いつか殺してやる。 「やめんか」 「ごめん、沢村……ほんとにごめん」  おれの脇を過ぎていく誰か。知らない女と首に包帯を巻きつけた男=岩倉が、口の軽い松本の腕をつかんで引っぱっていく。おれは首を目一杯にひねり、後ろの顔を見あげた。 「なんだ、その目は。逃げられるとでも思ってたのか」  岩倉よりもひどい包帯顔に唾を引っかけてやろうと口をとがらせる。腕をひねりあげられた。 「放せ!」  松本をどこかへ連れていこうとするふたりの脇へ銀のワゴンが横づけされる。運転席から降りてきたのは片思い男。おまわりや補導員――そういったらしき姿は今のところ見当たらない。 「歩け、沢村」  がっちりかまされた腕。暴れてみたが振り《解|ほど》くことはできなかった。 「どこ連れてくんだよ」 「どこもなにもあるか! お前もあれに乗るんだ!」 「ふざけんじゃねえよ、いかさま野郎!」  脳天に頭突き――見えている景色全体がぶれた。 「口の利き方を知らないのか!」  顔なし女は腹を抱えて笑っている――黙れ! 笑うな! 口を閉じろ!  こんなところで終わるわけにはいかなかった。どうにかしてここを切り抜けたかった。誰かの声が聞こえた――頭はいつも働かせとかなきゃだめ。馬鹿笑いをしているのっぺら顔がいつの間にか松本のそれになっている。 「頭を働かせてこれかよ……」 「なんだって?」  ワゴンの後ろ窓に松本の頭=後頭部だけが見えていた。ミイラもどきと片思い男は車へ乗らずにこっちを見ている。 〝大丈夫ですかあ〟  二十メートル以上離れた場所からの声。こっちへ近づいてくる気はないみたいだ。 「ええ、大丈夫です。今連れていきますから――ほら、来い!」  佐東がおれを羽交い絞めにしたまま引きずる。そうされながらワゴンのなかに目をやる。さっきの女の頭が邪魔で松本の顔が見えない。 「くそ……」  怒り、焦り、驚き。そしてほんの少しの寂しさ。そいつらを念力にしてワゴンにぶつける。女の顔が外に向いた――あの写真の女。 「松本の母ちゃんか、あれ」 「それがどうした!」  別にどうもしない。どうもしないがなにか引っかかる。 「お前、《和宏|かずひろ》の姉さんにもひどいことしただろう」  和宏=蝿野郎。その姉=塗り絵面。あの女が松本にしたことのほうがもっとひどい。そういう意味じゃ|佐東|こいつ》も同じ。息子に内緒でワゴンの女とエロいことをしておきながら、この場でも《しゃあしゃあ》としてやがる。そんな馬鹿どもにおれや松本を責める資格なんてない。 「お祖母さんだって心配してる」  佐東の冗談よりもハツが学校と連絡を取れる状態になっていることにむかついた。あんなもの、干からびちまえばいいのに――負け惜しみ。とどめを刺してこれなかった自分に対してのいいわけ。おれはたぶん、人殺しに向いていない。 「とにかく車へ乗れ」  もぎたてのトマトが頭に浮かんだ。たき火と燃えたぎる松本の目を思いだした。 「ちょっと待てよ、話がある!」  裏切り、復しゅう、秘密、写真。写真はバラバラに引き裂かれた――炎に焼かれる裸のふたり=ママさんバレーとは一ミリも関係ない秘密のそれ。写っていたのは息子を裏切った女と、それをされた息子に復しゅうされるべき男。 「悪あがきもたいがいにしろ!」 「大事な話だ!」  脳みそに電流が走った。使えもしないそろばんが頭のなかでしゃかしゃかと音を立てはじめる。  聞いたことないんだけどね。   聞いたことないんだけどね。お母さんから。    聞いたことないんだけどね。お母さんから。昔、バレーやってたとかそういうの。  ママさんバレーは口実、アリバイ、隠れみの。そんなもの、本当はどうだっていい。 「話なら後で聞いてやる。来い」  宙のなにもないところに怒り狂った松本の顔が浮かびあがる。ここにはいない、そして会ったこともない松本の父親の顔がその横に。     なんだ、これ。    なんなんだよ、これ!   ふざけんな! ママだよ、これ!  ちくしょう……こんなに頭にきたのははじめてだ! あいつ、絶対ぶっ殺してやる!  佐東のまわりをぐるぐるやりだす松本《父子|おやこ》の顔――なにかがひらめきそうでひらめかない。 「ほら、早くしろ!」  背広の肘に噛みついた。 「痛ててて! なにしてるんだ! ちょ、痛――」  羽交い締めが左だけ《解|ほど》かれた。噛みつく場所をすぐさま変更する――肘から手首へ。皮ふに歯を突き立てる。めりこませる――芋や豆をそうするときのように。 「やめんか、こら!」 〔明日殺しに行くよ。佐東を〕  復しゅうの声が耳の奥にまではっきりと聞こえてきた。そうだ。その意気だ、松本。こんなやつらにおれたちの人生を好きにされてたまるか。おれたちはおれたちの考えたように生きてやろうぜ。 「血、血が出てきてるじゃないか!」  だけどそのためには松本、お前の脳みそが必要だ。だから知恵を貸せ。お前の脳みそを全部おれに貸せ。  裏切り、復しゅう、秘密、写真。すべてを使ってもう一度パズルをする。脳みそを雑巾のように絞りまくる。顎の力をフルパワーにして佐東の血をすすってやる。  心の闇でなにかが光った――金属バット。なにかでなにかをぶち壊せ。なにかとはなんだ? なにをぶち壊せばいい? 「放せ! この! 貴様はスッポンか!」  なにかとは――佐東。こいつの心。こいつの立場。こいつの人生。突破口はそこしかない。だが、どうやって? 顔なし女がピカピカのバットをその手に握りこむ。 〈おまえのしっぱい、あたしのよろこび〉  運命の瀬戸際でじたばたしているおれをなおも笑う化けもの。いつか本当に殺してやる。だけど今は―― 「引っこんでろ!」 「やっと放しやがった、この馬鹿者が!」  馬鹿力でおれの体を締めあげてくる佐東。ここに金属バットがあれば、ハンバーグになるまでおれはこいつをぶっ叩いている。 〈ひーみつーのしゃーしんーはどーこにーあるー〉  顔なし女がいった。秘密の写真は松本が灰にした。 〈まつもとはどこだー、うらぎりものはどこだー〉  松本は捕まっている。  松本の口は風船みたいに軽い。  松本はおれを売った。はめた。騙した。  それでもなんとかして松本を――一級品の脳みそを助けだしたかった。もちろんおれも助かりたい。だけどそのための手立てが見つからない。そいつを思いつくことができない。あれば切り札に使えた写真も今は燃えて残っていない。 〈だったらあることにすればいー〉  ガキでもいわないうそっぱちを口にする顔なし女――しょせんは化けもの。 〈じゃあ、じゃあ、じゃあ、じゃあ、おまえはおわり。はたけにもどってまたどれい。ざまあさよならうんのつきぃ〉  だめだ。それだけは絶対にだめだ。あんな暮らしに戻るぐらいなら今すぐここで死んじまったほうがいい。おれは足を前に踏んばって暴れた。 「往生際が悪いぞ、沢村!」 「……お前ほどじゃねえよ」  言葉が勝手に口を突く。 「お前だと!? 貴様!」  膝で尻を蹴りあげられた――宙に浮くおれの体。続けて右腕をつかまれた。佐東が左腕一本で羽交い締めを決めてくる。 「盗んだ金はここか」  マジソンバッグに伸びてくる手=松本の母親の胸を揉んでいたのとおんなじ手。 「やめろ、エロ教師」  力一杯に首をひねり、後ろの顔を睨みつけてやる。 「エ、エロ教師!?」  目を背ける佐東。横顔に焦りの色がにじんでいる。とぼけた表情がじきにそいつをうやむやにしたが、この目はごまかせない。エロ教師の心のなかをのぞきこむ――《写真|あれ》はいったいどこにある。 「……おれが持ってんだからな」  賭けに出た。どのみちアウトを食らうなら、いちかばちかで先の塁を目指してやる。 「あの写真、おれが持ってんだからな!」 「……あ、あの写真?」 「とぼけるな! 裸のやばい写真だ! 探してんだろ、それを」 「な、なんの話だ。とりあえず学校で聞く。乗れ」 「しらばっくれてると大変なことになるぞ」 「た……い、いいから来い! 続きは後――」 「前の学校んときの友だちに預けてある」  考える《間|ま》を与えない。口も挟ませない。攻めるときは一気に叩け=ケンカの基本。口でのそれも同じ。相手の心を折っちまえさえすれば、あとはどうにでもできる。 「ま、前の学校?」 「中俣小だ。ここからそんなに遠くない。美滝へ転入する前にいた学校だよ。名前ぐらい知ってんだろ」 「預けたって……なにをだ?」 「決まってんだろ。そこの女と――」  顎をしゃくってワゴンを指した。 「誰かさんのエロい写真だよ」  おれを引きずる力が弱まる。こいつはもしかすると――もしかする。 「……さ、さっきからなにをいって――」 「本当にそう思うか」  羽交い締めはそのままだったが、引きずる力はゼロになった。 「お前はその……見たのか、写真を」  写っていた内容=格好、表情、ふたりの位置。そんなものを端から聞かせてやる。まわりにあったものは覚えちゃいなかったが、松本が夜中のさくらデパートで話していたことを混ぜこんで説明してやった。 「どこにある。そのかばんか?」 「だから友だちに預けてあるっていってんだろ」 「貸せ!」  佐東が羽交い締めを解く代わりにマジソンバッグを引ったくっていった。今なら逃げられる。ただしそれができるのは体のみ。金がなくても自由でいられるのは鳩や猫だけだ。 「そこには金しかない」 「うるさい!」  佐東はあるはずのないそいつを必死になって探していた。きっと松本の荷物にも同じことをしたにちがいない。チャックの閉まる音が聞こえた。 「気が済んだか」 「身体検査をする」  佐東の好きにさせた。 「松本はなんていってんだ?」 「お前には関係ない」  考えた。お目当てのものを見つけられなかった佐東は松本に聞いたはずだ――あれはどこにある? あいつはそれになんと答えただろう。でたらめを口にしたか、正直にしゃべったか、それともだんまりを決めこんだか。  おれの読みはふたつめ。松本は隠しごとも芝居も得意だが、《とっさ》の質問にだけは、どういうわけか口を割っちまう――おれとちがって。 「燃やした。そういっただろ、あいつ」  勢いよく息を吸いこむ音が聞こえたが、そいつを使ったがなり声は聞こえてこなかった。 「……燃やしてないのか」  吸いこんだ空気の半分も使っていない声。松本の馬鹿正直さとこの男のめでたさが改めてわかった。 「燃やすものをなんでわざわざ持ちだすんだよ」  おれの体の向きが百八十度回転する――包帯から下の脂ぎった顔。佐東は考えていた。気にしていた。生徒の母親と裸で一緒に写っている写真のありかを知りたがっていた。 「……金を盗みだした最初の晩に千曲川の河川敷で燃やした。松本は先生にそういったぞ。うそなのか?」 「信じたのか? それ」 「うそか本当かを聞いてるんだ!」  立場をわかっていないミイラ二号。でかい声を出せば誰もがビビるとでも思っているのか。 「そのときの天気。どうだったか覚えてるかよ」  佐東の目玉が左上を向き、五秒後にもとの位置へ戻ってきた。おとといのことは相馬からも聞いて知っているはず。にもかかわらず、すぐにそいつ思いだせないのはやはりべらぼうに焦っているからだろう。 「⋯⋯ひどい雨だったな。お前たちはそのときどうしてたんだ」  目の奥を見る――《かま》をかけてきている感じはない。ビニールハウスのことは松本もだんまりを決めこんだか……それかまだそこまでの話をこいつが聞きだせていないか――おそらくは後。あの顔ぶれのなかで自分の弱みに関係ある話を、この男が堂々とできるとは思えない。 「びしょびしょだよ。おかげで風邪をひきかけた。メガネの保健医もそういってなかったか」 「メガネじゃない!」  なにを怒っているのか、この馬鹿は。 「悪い悪い、メガネはかけてなかったわ、その晩」  いって、自分の右手首をのぞきこむ――一六〇八。 「お前はどこまで教師を――」 「バッグを返せ」  佐東がつかんでいるものに手を伸ばす――両肩を押さえこまれた。 「き、貴様……さっきから何様の――」 「松本の母ちゃん裸にして胸を揉んだこと、松本の父ちゃん知ってんのか」  佐東の声にかぶせていった。 「知ってるわけないか。まあいい。とにかく四時半までにおれから連絡がなければ写真をばら撒いてくれって、その友だちには頼んである。こんなこともあるかと思ってな」  昔に見たテレビで悪党がいっていたセリフを真似てみた。 「ば、ばら撒くだと!?」  上々の反応――いける。おれはくちびるの端が吊りあがらないように気をつけた。 「そいつのところは印刷屋だ。コピーとかファクシミリとかいう機械もある」  まわる看板を目の端っこへ置きながらいう。 「コピー!?」 「そうだよ。写真でもなんでも刷れるあれだ。知ってんだろ、それぐらい」 ――さあ、砕けろ、佐東。砕けてとっととがらくたになれ。 「お、お前……冗談だろ」  がらくたまではあとひと押し。佐東の手からマジソンバッグを取り返した。 「あいにくと冗談じゃねんだよ、悪いな」 〝どうしましたあ〟 〝シュニーン〟  おまけ教師ふたり組の声。どっちもさっきと同じところにいた。ゲームセンターの二の舞はもう勘弁――大げさな包帯と、どことなく引けた腰がそういっている。  目玉を少しだけ右へ動かした――ワゴンの後ろ窓。今度は松本の顔がよく見えた。きょとんとした顔。口になにかをくわえてながら上着を――黒い変装道具を脱いでいる。 「……そいつは着とけよ、相棒」  うまくいけば逆転サヨナラを決められるぞ――思いをこめたウインクをワゴンに向けてぶん投げる。 「な、なにをいってるんだ」 「ひとり言だ。気にするな」  三秒過ぎても松本の表情は変わらなかった。きっと西日のせいでこっちの様子を確かめられないんだろう。 「岩倉たちはエロ写真のこと知ってるのか」  だんまりを決める佐東――答えをいってるようなもんだった。 「バラされたくなかったら、とっとと放せ」 「そ、そういうわけにはいかんだろ……」 「そういうわけにいかないと困るのはお前だ」  佐東が喉だけで唸る。イワナベコンビが戸惑いながらもこっちへ歩いてこようとしていた。 「やつらを来させるな」 「やつらって、お前……自分の担任じゃな――」 「おれはもう美滝の生徒じゃねんだよ! ぐずぐずするな!」  ドスを利かせていった。うまくできているかどうかはわからない。 「あの、大丈夫です! なにか話が……その、話しづらいことみたいなんで、ちょっと、ええ、聞いてやってます」  マンガのような身振り手振りで岩倉たちを止める佐東。吹きだしたくなるほどの情けない顔がおれに向く。 「とっさにしちゃ上出来だ」 「……聞いてくれ、沢村。あの写真は、その、ママさんバレーの……」 「そんなことはどうでもいい」 「いや、だから誤解しないでくれ」 「おれの視力は二・〇だ。あれはどう見たってバレーと関係ない。ただのエロ写真だ」 「そ……」  佐東がなにかいいかけて口ごもる――荒い鼻息。そいつが少し顔にかかった――殺してやりたい気分になった。 「お前の部屋なんだってな、あれ」  殺す代わりにいった。 「赤い布団の寝心地はどうだ」  佐東の車とすれちがったとき=聖香たちをつけていた夕方のことを思いだした。あの日、横へ乗せていたのは松本の母親だろう。顔もなにも覚えちゃいないが、ふんいきはワゴンの女とよく似ている。 「やっぱりお前たちだったのか……」 「おとといも会ってただろ、松本の母ちゃんと」  だんまり――つまりはイエス。大人どもはどいつもこいつもろくでもない。 「ママさんバレーの日もそうじゃない日も、か。松本の気持ちなんかおかまいなしだな」 「……お、俺と《世津代|せつよ》さんは、そういう――」  セツヨ――たぶん、松本の母親のこと。 「普通は生徒の親、名前で呼ばねえだろ」  下の名前で呼ぶのは特別な人だけ。聖香のルールでいけばそういうことになる。 「ちがうんだよ、沢村……」 「ちがわない」  女々しい弁解をひと言でぶっ潰してやる――叱られた生徒のように口をつぐむ佐東。角の硬い出席簿が欲しいところだった。 「ごまかすのは諦めろ。ほんとにやましくないっていうんなら、おれをこのまま連れてきゃいいだけの話だろ」  はったり。だが、今はそれを押し通す自信があった。折れかかっている佐東の心をここで一気にへし折ってやる。おれのために。松本のために。そして――おれたちの未来のために。 「……どうしてほしいんだ」 「まずはおれを自由にしろ」  おれの肩にかかっていた力が少しだけ緩んだ。 「まだ逃げる気なのか」 「当たり前だ。こっちだって遊びでやってるわけじゃない」 「ご家族が心配してる」 「誰のだよ」 「お前のご両親とお祖母さんに決まってるじゃないか」 「冗談はいい」  家族――血のつながりをそう呼ぶしかないなら、それはしかたがない。だが、おれが思うおれの家族は父さんだけだ。 「きちがいどもはなんかいってたか」 「きちがい?」 「おれのご家族だよ。頭のおかしい」  ため息なのか深呼吸なのかわからない息づかいが聞こえた。 「……お前を、その……殺してくれって、いってた」 「だろうな」 「もうやめないか、沢村……」 「おれは冗談が嫌いなんだよ。早く手をどけろ」 「ちょ、ちょっと待ってくれ……」 「すぐに消えたりしねえから安心しろ。暴れたりもしねえよ」  ひとりでトンズラはしない。松本と交わした約束=無理な場合でもやれるところまではやる――こいつだけは守りたい気分だった。 「……わかった。お前には逃げられたことにする。だけどその前に盗んだ金と、その……写真をこっちへ渡してくれないか」  馬鹿なことをいいだす佐東。《文|もん》なしでどうやって逃げろというのか。 「金は無理だ。写真のほうはおれの用が済んだら返してやる。そこの自動販売機の脇へおれの腕をつかんで移動しろ」 「な、なんのためにだ?」 「いいから、いわれたとおりにしろよ」  今この場で佐東がおれを百パーセント自由にしたら岩倉たちは変に思う。松本を救いだすまでは怪しまれるわけにいかない。 「……じゃあ、い、行くぞ」  おれは自分でまわれ右をした。痛みはしないが、まだなんとなくかばいたい左肩をつかんでくる手――人の話をまるで聞いていない佐東。 「腕をつかめ」 「ああ、悪い……」  佐東が自分の意思じゃない動きをする。岩倉たちへの合図も自然にこなした。 「このへんでいい」  岩倉たちからは見えない位置=やつらを気にしないで話せる場所で再びまわれ右。そのまま自動販売機の脇へもたれかかった。 「しゃがめ。両腕からは手を離すな」  いわれたとおりの格好をする佐東。おれがしょぼくれたふりさえしておけば《傍目|はため》には悪さをして叱られている中学生と、それをしている教師か親にしか見えないだろう。 「沢村、あの写真……その、お前の友だちはどこに――」 「こっちの質問が先だ」  佐東が首をかくつかせながら頷く。 「あそこにおれたちがいるってなんでわかった」 「そんなことを知ってどうするんだ」 「知っときてんだよ。これからのこともあるからな」 「勘弁してくれ、沢村……」 「ばら撒くぞ」  写真のことを口にするたびに佐東はしゃくりあげるような呼吸をした。 「そういうことをいわないでくれ……」 「いわせてんのはお前だ」  弱みにつけこまれて脅されてもおれなら開きなおる。こいつにはそれができない。きちがいどもと同じだ。人をいびってばかりいるやつは立場が逆転すると途端に弱くなることをおれは経験で知っている。そういう人間は弱みを作らないか、他人にそいつを握られないようにしなきゃいけない。佐東はそのどっちもできていなかった。 「さっさと話せ。時間がもったいない」 「電話帳を使って……」 「使ってなんだ。いちいち考えこむな」 「わ、わかった。その……お前たちが行きそうなところに端から電話をした」 「いつ?」 「昨日と今日だ……」 「おれたちが行きそうなところってどこだよ」 「だから、さっきのゲームセンターとか……」 「とか? あとは」  駅、デパート、映画館、ボーリング場――教師どもはなかなか鋭い読みをしていた。 「モーテルや連れこみ旅館なんかは調べなかったのか」 「……なんでそんなところ知ってるんだ」  なんでといわれても知っているものは知っている。千葉に暮らしていた頃と《長野|こっち》へ来て間もない頃に、そういう場所へは何度か――いや、何度も連れていかれていた。静恵と静恵が連れてくる知らない男と一緒にだったが、そうされた意味は今でもわからない。 「質問してるのはおれだ」 「ああ、すまん……そっちは調べてない。なあ沢村、その……そろそろ時間じゃないか」 「なんのだよ」  いいながら、右腕に巻きついているデジタル表示を読んだ――一六二〇。佐東が気にしているのは、おれがさっきでたらめで口にした写真のばら撒かれる時間。 「まだあと十分ある」 「おい、沢村……」 「聞いたことにとろとろ答えてると間に合わなくなるぞ」 「わ、わかった」  こっちも一度口にした時間を変更するわけにはいかない。うそを本当に近づけるには最初のうそに合わせた流れで進めていくのが鉄則。おれは聞くべきこと、知っておくべきことを一気に佐東へぶつけた。 「おれたちがあのゲーセンにいたのは十分かそこらだ。そんな短い時間でどうやって居場所を突き止めた?」 「だから電話で――」 「あそこにいる間、電話なんか鳴ってない」 「あちらさんから電話をもらったんだ」 「どこにだよ」 「学校にだ」  おかしなことをいう佐東。 「学校って美滝にか」 「そ、そうだ」 「計算が合わないだろう。須坂からあそこまで何キロあると思ってんだ」 「……先生たちは長野にいた」  ゴマ塩頭から美滝小への電話。教師どもは長野。どうやって連絡を取りあうというのか。 「……これだ」  いってることの意味がわからないでいると、佐東が黒いなにかを見せてきた。 「なんだよ、それ」  ポケットベル――佐東の口から出てきた耳慣れない言葉。 「電話で鳴らすことができる無線の呼びだし機だ。お前たちの情報がよせられたら、校長先生がこれで知らせてくれることになってる」 「校長にこの話、聞こえてんのか!?」 「これは音が鳴るだけの装置だ。電話じゃない」  まるでスパイや探偵の七つ道具。なんて機械だ。 「こっちからも連絡できるのか、それは」  横に振られる首。 「本当だろうな」  今度は頷くが、そいつを《うのみ|ヽヽヽ》にはできない。 「スイッチかなにかあるだろう。切れ」  命令に従う佐東。その手から呼びだし機を奪い取り、学生服のポケットへ放りこんだ――佐東はおとなしいまま。おれの頭を出席簿でぶっ叩いていたときの勢いはもうどこにもない。  からくりが解けていくのと同時に別のことが気になりはじめる――ただの教師がこんなものまで使ってガキの泥棒を探しださなきゃいけない理由、捕まえなきゃならないわけ。普通に考えたらとっくにおまわりの出番のような気がする。だが、ここまでの説明にそいつらは出てきていない。おれに隠しているのか。それとも、おまわりどもにおれたちのことを隠しているのか。佐東にそのあたりを聞いてみた。 「警察には話していない……」 「昨日は昨日でおまわりに追っかけられた。さっきだってそうだ」 「昨日のことは先生もわからない。ゲームセンターのあれは……」  権堂のおまわりはひとりだった。今のいい分を信じるなら、おまわりは街の見まわりかなにかをしていて勝手におれのことを怪しんだ、とも考えられる。だが、さっきのあれはちがった。おまわりが五人だ。パトカーもすぐ近くに止まっていた。あんなに大勢でぞろぞろやっている見まわりをおれは一度も見たことがない。 「はじめから呼んであったんじゃねえのかよ」 「そんなことはしてない。ただ……」 「ただ、なんだ。はっきりいえ」 「……世津……松本のお母さんだ。息子さんを……心配したんだと思う」 「思う?」 「いや、すまん。そうおっしゃってた」  松本の逃げきれなかった理由がなんとなくわかってきた。 「で、おまわりにはそこでなにをしゃべった」 「学校をサボってふらふらしてる生徒を探しに……そういう話をした。本当だ。家出や金のことには一切触れてない」 「うそつくな。松本の母ちゃんが先におまわりと話してんだろうが」 「うそじゃない。松本さんもそこのところは最初から理解してくれてる。もしそこで本当のことを話していれば、ここにも警察がいたっておかしくないだろう」  松本に売られてから十分から十五分。怪しい動きは今のところない。そこは信じてやってもいい気がした。 「……先生だって、お前たちの将来をあれだ……ちゃんと考えながら動いてるんだ」  こっちはうそ――震えて裏返った声には説得力の『せ』の字もなかった。わかりやすい馬鹿だ。 「いつまでも《金八|きんぱち》気取ってんじゃねえよ。自分の立場をよく考えろ」  佐東の顔がワゴンのほうを向いた。体をねじってその目線を追う――岩倉。公衆電話でどこかへ連絡しようとしている。 「止めてこい」 「え?」 「おまわりに電話しようとしてるんじゃないのか」  肘の先で岩倉を指した。 「そんなことは……あ、あの、岩倉先生!」  声に気づいた岩倉が手を止める。電話をするな――例のマンガみたいな動き。受話器がもとの位置へと戻された。 「うそばっかりだな、お前ら」 「ちがう。岩倉先生は学校へ連絡をしようとしただけだ」  おまわりよりはマシだが余計な真似に変わりはない。連絡を受けて調子に乗った《校長|ハゲ》に応援部隊をよこされてもことだ。 「岩倉か渡辺を呼んで『学校へはまだ連絡するな』っていえ」 「それはかまわないが……」  なんのためにそうするんだ?――表情だけで聞いてくる佐東。 「そいつが済んだら、おれとお前のふたりだけで移動する」 「い、移動って……いったい、どこへ行くつもりだ」 「あいつらに聞かれちゃまずいんだろうが」  左手で作った受話器を自分の耳に押しつける。佐東の顔がぱっと輝いた。 「そ、そうだな――おい、ちょっと渡辺!」  片思い男に向かって手招きする佐東。子分相手だと、こんなときでもちゃんといばりくさった顔になれるところがまた笑える。 「……いや、だけどなんていえばいいんだ?」  頭がさっぱりまわらない親分にでたらめ話を吹きこんでやる――盗んだ金の全部はここにない。隠してる分が善光寺のほうにある。 「なんでしょう、主任」 「あのな、渡辺」  親分子分のやり取りを頭の上で聞きながら、どこにもない写真と松本をどういう条件とタイミングで引き換えにするかを考える。 「じ、自分も行きましょうか……」  口と顔が合っていない子分。佐東がちらっとおれを見る。眉をしかめて返した。子分がまわれ右をする。おれは佐東に右腕を突きつけた。 「つかんで歩け。行き先はわかるな」  夕闇迫る大通り。言葉の糸で操る人形を前に従え、おれは鳩どもの縄張りに向かって歩きだした。  仁王門を出た旅館の通り。電話ボックスのなかでひと芝居打ったおれは受話器を戻して外へ出た。 「間に合ったのか!?」  仲見世で佐東に買わせたおやき=『たこや』のこいつは、今までに食ってきたどのおやきよりもうまかった。こぼれそうになっているみそをすすりながら歩く。 「おい、沢村!」 「うるせえな。ちゃんと止めたよ」 「写真はいつこっちへよこすんだ」  目の前の危機を乗り越えたせいか、態度がでかくなっている操り人形。えらいのはどっちなのか、ちゃんとわからせてやる必要がある。おれは三つめのおやきを飲みこむようにしてやっつけ、電話ボックスへとって返した。 「お、おい、どこ行くんだ!」 「かけなおすんだよ。今すぐばら撒いてくれって」  左肩に鈍い痛みが走る――学生服にめりこむ太い指。 「痛ってえな! なんの真似だ、この野郎」 「お前本当はその話、全部うそなんじゃないのか」  写真がないことに気づかれたか……いや、それはない。おそらく《かま》をかけてきているだけだろう。 「どうしてそう思うんだよ」 「先生だって馬鹿じゃない」 「おれには馬鹿にしか見え――」  マジソンバッグを取りあげられた。 「なにすんだ、てめえ!」  佐東につかみかかる――足払い。景色がぐるんとまわった。 「しかしお前も大したもんだ。危うく騙されるところだったぞ、先生」  操り人形の思わぬ反撃に面食らうおれ。なにを証拠にそんなことをいいだしてきているのか。大通りからここへ来るまでの間に交わした言葉はおやきに関係することだけだ。 「……どうなってもいいってことかよ」  こいつはおれのうそを本当に見破っているんだろうか――引きつりまくる顔の筋肉を痣だらけの皮一枚で包み隠す。あと十秒様子を見て、最悪のパターンだと思えばトンズラ。そうじゃなきゃさらにいくらか様子見。 「その手にはもう引っかからん。ほら、さっさと立て」  いつものでかい声でものをいってくる佐東――操り人形らしくない態度と顔つき。最悪のパターンに一歩近づいた。 「どうしてわかったか知りたいか?」  立ちあがると同時に聞かれた。頷けばうそを認めたことになる。おれは無視を決め、マジソンバッグを奪い返すタイミングを探った。 「なんだ。驚いて声も出ないのか。まあでも、せっかくだから教えてやろう」  操り人形がひとりでにしゃべりはじめる。逃げられることを警戒してか、おれの左肩をつかむその手にはとんでもない馬鹿力がこめられていた。  § 「――というわけだ」  こけおどしもいいところ。佐東が馬鹿で本当に助かった。 「どうだ沢村。ここまでバレたら、さすがのお前も観念するしかないだろう」 「満足か?」 「なんだと」  写真のコピーはできても、それを美滝小の生徒の家へばら撒くなんて、よその学校の子にできるわけがない、というのが佐東のいい分。勘はそこそこだが疑う場所がずれている。この程度の読みでいい気になっているところも佐東らしいが、そいつをわざわざバラしてくるところはもっとこいつらしかった。 「お前、おれをなめてんのか? それとも自分の頭がいいと勘ちがいしてんのか?」  写真がないと思われない限り、こっちのセーフティーリードは変わらない。頭のなかのブルペンでは中継ぎのアイデアが肩を作っている。 「まあ、両方か」 「……あんまり調子に乗ってんなよ、沢村」 「お前もな」 「き、貴様……」  睨みあった。佐東の目玉が下を向く――自分の読みのどこがおかしかったのか。そんな顔つき。 「おい」 「な、なんだ」 「学校には連絡網ってもんがあんだろうが。住所も名前も電話番号も載ってるやつがよ」 「ふん、なにをいいだすかと思えば――」  ぶり返すでかい態度――かちんときた。 「そんなものをお前の友だちが持ってるわけないだろう」 「友だちはそいつだけじゃねえよ」 「何人いようが同じことだ。よその学校にうちの連絡網があるとでも思ってるのか。馬鹿者が」 「そうか。じゃあ松本の母ちゃん巻き添えにして教師をクビになれ」  はったり対こけおどし――ガキと大人の探りあい。佐東の顔が複雑な動きをする。顔色ではおれの勝ち。もとより負ける気はしていない。 「中俣小のそいつがコピーしたエロ写真を美滝の生徒にどこかで渡す。それぐらいのことも考えつかないのかよ、お前は」  いいながら、はじめから美滝の誰かに預けてあるといえばよかったと思ったが、家が印刷屋の友だちが美滝にはいない。ややこしいでっちあげ話だ。 「そんなこと最初はいってなかったぞ、お前!」 「手の内を全部バラす馬鹿がどこにいる」  脳みそをぎゅうぎゅうに絞る。次のうそを考え、そいつで佐東を操り、おれのいうことを聞く犬にする。そうしないと松本は助けられない。松本がいないと――あの脳みそがないとこの旅はたちまちおじゃんだ。 「……お前に協力してる美滝の馬鹿は誰だ」  自信をぐらつかせる佐東――いいぞ、その調子だ。 「そんなもの教えるわけねえだろ」 「武田だな。お前に手を貸す馬鹿はあいつぐらいしかいない」  話が本当ならそういうことになっているにちがいない。無実の罪で疑われた武田に心のなかで謝った。 「よし、それならやつを捕まえて締めあげてやる」 「やめとけ」 「なんだ、悪ガキ同士の友情か。でももう遅いぞ」 「逆だ。お前のことを心配していってんだよ」 「なんだと……」 「武田がこのことをなんにも知らなかったらどうすんだ?」 「馬鹿者が。そんなわけ――」 「あったりした場合の話だよ。実際、今の話でおれは武田の名前なんかひと言も出してない。なのにお前は武田を責める。おれとグルなんだろうって勝手に決めつけてな。それがほんとにそのとおりなら、まあそこで一件落着だ。おめでとうだよ。だけどそうじゃなかったときはお前、かなりまずいぞ」  おれの口が勝手にペラペラやった、おれにも読めないでたらめ。ここからどう話を持っていくか。 「……な、なにがどうまずいんだ。いってみろ」  でっちあげ話を三秒でまとめる――完成。そして、発射。 「つくづく馬鹿だな、お前。いいか。身に覚えのないことをお前に疑われた武田がそのままおとなしく黙ってると思うか? そうだな……まずはおれに『どういうことだ、てめえ』って聞いてくるだろ――ていうか、おれが先にしゃべっちまうわ、そんなの。で、その話は自動的に武田の兄貴たちの耳に入る。するとお前、どうなると思う?」  うまいこといえたような気はする。あとはこいつの想像力次第。 「お、俺は、別に暴走族なんてそんなもの、怖くない。いつだって相手になってやる」 「かっこいいな、エロいくせに」  自分の胸を揉みながらいってやった。 「ぶっ飛ばされて終わる話ならいいけどな。まあ、そのときは武田の兄貴たちがあの写真を持ってるって考えといたほうがいい。おれからいえるのはそれだけだ」  頭をかきむしる佐東。想像力のほうはどうやら逞しいみたいだ。 「そういうわけで次は五時十分だ」 「そういうわけ? 五時十分になにがあるんだ?」 「制限時間だよ、写真をばら撒く。おれをふん捕まえて大恥かくか、こっちの頼みを聞いて楽になるか、とっとと決めろって話だ」 「止めたんじゃないのか!?」 「完全に止めて捕まったらシャレにならないだろ」 「あといくらもないじゃないか!」  馬鹿が自分の手首に向かって喚く。 「お前が今みたいに変な考えを起こさなきゃ間に合う。間に合わなきゃまた電話して時間を先延ばししてやる」 「俺になにをさせたいんだ……」  膝に腕を突く佐東。通りを歩いているやつらに目をやる――ほとんどが年より。旅館の前を掃除している男がこっちを見ていたが、特に怪しんでいるわけでもなさそうだ。 「普通にしてろ。それと今から聞くことに全部答えろ。うそやだんまりはなしだ。あと、そいつをこっちへよこせ」  マジソンバッグを取り返す。反撃に失敗した操り人形がうな垂れて鼻を鳴らす。おれは石の椅子に腰かけ、突っ立ったままの人形に質問を浴びせた。  松本から取りあげた毒の棒とライターを佐東に渡す。特に驚かれたりはしなかった。 「だいたいのところはわかった。とりあえずそれでも吸ってろ。電話してくる」  さっきも使った電話ボックスに入り、さっきと同じことをする――一七七。  明日は曇り。あさっては曇りのち晴れ――今夜にも《長野|ここ》を出ていくおれたちには関係のない情報。おれは関係のある情報――ふぬけになった佐東が洗いざらいしゃべってきたことの整理をはじめた。  わかったこと、その一/おれたちの居場所を突き止めるのに相馬が深く関わっていたこと。ここは松本の読みどおり。痛いミスだった。こんなドジはもう二度と踏まない。  わかったこと、その二/おまわりどもに家出やかっぱらいの話をしていないのは、それをしておれたちが捕まったときにエロ写真のことまでバレちまうと考えたため。  わかったこと、その三/エロ写真は学校の暗室を使って佐東が自分で現像した。理由は写真屋には出せないから。そんなものがあることを松本の母親=世津代は知らなかったが、今は知っている。岩倉をはじめ、ほかの教師どもは表の事情――おれたちが大金を盗みだしたことしか知らない。ここは思ったとおり。エロいふたりのほかにこの秘密を知っているのは今のところ校長のハゲだけ。金のことはともかく、エロいこと――佐東はそいつをタダナラヌ関係といっていたが、自分の力だけじゃPTAや教育委員会、おまわりどもに隠しきれないと思ってハゲに白状した。聖香が電話で喚いていた『丸一日、自習』も『教師だけの捜索隊』もすべてはハゲの判断。おれが新聞屋で働けなかったのも、学校のことならなんだって自由に決められるハゲがそう決めたからだった。が、まあそれはここじゃどうでもいい。  驚いたのは、佐東と世津代の関係を松本がどこかで知り、金をかっぱらったのはその腹いせだろうと三人が三人とも考えていて、今もそう考えているということ。これは『わかったこと、その二』の事情ともつながっている。  佐東への問い=松本の腹いせでこうなってるなら、そこにおれが交ざる理由なんかねえじゃねえか。  佐東の答えと問い=そのことを松本に相談されたお前が、逆に松本をそそのかしたんじゃないのか。  おれの答え=そそのかしちゃいないが相談はされた。  相談の中身はちがったが、佐東たちには佐東たちが考えたように思わせておいたほうがいい。話を聞いたとき、なぜかそう思った。  口をでたらめに動かしながらものを考えるのは、わりかし難しいことだった。佐東のほうを見る――いい子にしていた。もう少し長電話をしても大丈夫だろう。  わかったこと、その四/佐東から取りあげた紙。そこには名前に身長、顔が痣だらけだということのほかに、おれたちが昨日まで着ていた服の絵と運動会のときに撮られたまぬけ面の写真までもが印刷されていた。教師どもはこいつを駅や盛り場へ撒き、撒ききれなかったところには電話で情報を伝えていた。権堂から駅周辺にかけてのゲームセンターにはもれなくこいつを配ってあったという話だ。さすがにここまでされたら首から下をいくら変えたところで意味はない。この指名手配の出来損ないをどこかでたまたま目にした茶色リーゼントが、ひとりうまい目をみたというわけだ。  情報の整理、終了。すべてのからくりは解けた。おれは受話器を戻し、電話ボックスを出た。 「ずいぶんと時間がかかってたじゃないか」 「写真をどうやってお前に渡すか打ちあわせしてた」 「さっそくでなんだが……俺にもその受け取り方法ってのを教えてくれ」  あらかじめ考えてあったでたらめとこっちの条件を佐東に話してやる。 「……いくらなんでもそれは無理だ、沢村。お前を見逃すだけならまだしも、盗んだ金も松本もなんて、ちょっと虫がよすぎないか」 「そうは思わねえけどな」  佐東が握り拳を震わせる。 [*label_img*] 「条件出せる立場じゃないだろう。弱点握られてるのはお前のほうなんだぞ」  おれがミミズを食えといったら食わなきゃいけない。こいつは今、そういう状況のなかにいる。 「……お前はずるい」  そんなことはわかっている。 「人の弱みにつけこみすぎだ。それに……」  負け惜しみの口調と表情で続きの言葉を探しているおれの犬。 「それになんだ」 「……これでも一応は教師だ。学校の金を、それも何百万と盗んで逃げまわっている生徒の手助けをするなんて……できるわけがないだろう」  おれはもう小学生じゃない。松本だってそうだ。だから教師もなにも関係ない。十二才ってだけでそのへんのガキと一緒にされても困る。 「それでもお前は条件を飲むしかない。ちがうか」 「だからお前のことに関しては目をつぶるといってるじゃないか」  佐東はおれをなめていた。その程度のことが目的ならもっと前にそうしている。 「それだけじゃだめだっていってんだよ、おれは」 「……なあ、沢村。少しは常識でものを考えてくれ」 ――非常識なエロ教師の常識なんておれにわかるわけないだろう、馬鹿が。 「自分のこと棚にあげてえらそうな口利いてくんじゃねえよ。常識ねえのはお互い様だろうが。だいたい松本が家出したのだって、もとはといえばお前たちのせいだ。このまま連れて帰ったってまた同じことをするに決まってる。そりゃそうだ。信用できない親や教師と一緒にいたいやつなんていないからな。お前のことだって殺すっていってた。苦労したんだぞ、止めるの」 「……こ、殺す!?」 「当たり前だろ。自分が松本の立場だったら、お前どうする? 同じこと思わねえか?」  佐東が上の歯で下くちびるを噛む。 「教師だっていうんならそれぐらいわかれよ」  心に対しての暴力。言葉の金属バットで佐東をとことんまで叩きのめす。 「たとえばこのまま松本を連れて帰った場合で考えてみろ。写真はばら撒かれるわ、命は狙われるわ、もしかしたら暴走族にも引きずりまわされるわで、お前にいいことなんてひとつもないぞ。それだったらおれたちには消えてもらって、代わりにエロ写真をなかったことにするほうがよっぽどいいはずだ。盗まれた金が戻らなくたって別にお前が損するわけじゃねんだから」  金魚のように口をぱくつかせる佐東。なかなか操り人形らしい。ときどきなにかいってるのが聞こえたが、そいつは言葉じゃなく、喉がただ音を鳴らしているだけのそれだった。 「お、大人にそんな……」 「やっとまともに口が利けるようになったか」  おれを見ているようで見てない目――どこかで見た覚えのある目=女スパイの目。どうでもいい。 「……そんな脅しをかけてくる子供がどこにいるんだ」  目の前にいる。探せばほかにもいるだろう。 「ほんとのことだ。別に脅しちゃいない」 「お、俺だってなにも松本を傷つけようとか、そういうことを思って世津代さんと――」 「反省会は後でやれ。今話してんのはそんなことじゃない」 「沢村……」 「いいか。おれたちはとにかく邪魔をされたくない。お前はお前であれをばら撒かれたくない。そうだろ? だからお互い目をつぶるところはつぶる。簡単な話だ」  右手のデジタルを読んだ――一六五九。空にはまだ赤みが残っていたが太陽の姿はもうない。そろそろ決めないと、今晩中に東京へ着くことが難しくなってくる。 「……相馬先生がいってた。お前にはまんまと一杯食わされたって」  食わされたもなにも、あれはああするしかなかった。どんな手を使ってもおれは逃げただろうし、なにをしてもあのふたりが金のことに気づくことはできなかった。相馬にはあまりそのへんを気に病んでほしくない。 「無理もない。そう思ったよ、俺は今」  後ろのほうから鐘の音が聞こえた。どこかで犬が吠えていた。安西家の番犬――二度と会うことのない犬の顔が浮かんで消える。老いぼれは約束どおりにやっているだろうか――やっていない気がした。 「関係ない話はいい。で、どうするんだ。エロ写真を誰にもバレないで取り返す代わりにおれたちを丸ごと見逃す。そういうことでいいのか」  鐘が続けて突かれた――群青色の空に鳴り渡る重い響き。そいつに合わせるようにして吠え声もまた聞こえた。 「……納得はいってないが、飲むしかないんだろう」  取引成立。おれは閉じかけている未来への扉にまんまとつっかえ棒をかましてやった。  友だちに電話するふりを済ませ、来た道を戻る。前を歩く佐東の口には、さっきくれてやったマイルドセブンが刺さっていた。後ろを行くおれの口にはいつものガム。舌を冷やし、喉を冷やす。ついでに頭も冷やした。  失敗は許されない。すべてはタイミングが命――肝に銘じた。最後に心を冷やし、作戦の中身を復習する――決勝戦のマウンドに立つ気分。三者凡退に打ち取って必ず次のイニングへつなげてやる。 「いいか。もう一回段取りをいうぞ」  佐東がやることは五つ。まずはおれをワゴンへ乗せ、松本の近くへ座らせる。それをしたら岩倉に学校へ電話をかけさせ、次に片思い男を買いものへ出す。買ってこさせるものは消毒液。マジソンバッグにもオキシドールが入っていたが、この段取りでは無視。ワゴンには包帯や湿布、絆創膏なんかはあるらしいから、表向きはこの右手の応急処置をする、というかたちだ。 「順番が難しいな」 「まだ三つしかいってねえよ」  この時点で車のなかは松本、世津代、佐東、おれの四人。佐東はおれの合図=舌打ちを聞いたら岩倉と電話を代わりに外へ。そのタイミングを突いておれたちはワゴンを跳びだす。こいつもただ突っ立っているわけにはいかないだろうから、適当なところまでは追ってくる。 「わかったか」 「俺はわかったが、ほかの先生たちはどう動くかわからないぞ」  岩倉も片思い男も荒っぽい真似が苦手なのは昼間のごたごたでわかっている。おれの本気の前じゃあんなものは数にも入らない。が、それでも大人の男がふたりだ。捨て身の覚悟で同時に来られでもしたらさすがにきつい。ふたりともワゴンから遠ざけるのはそういうパターンも考えてのことだった。 「岩倉は電話中ですぐには動けないだろうし、渡辺は薬屋だ。騒ぎに気づけない」 「……松本さんのほうはどうするんだ」 「松本さん? ああ、せっちゃんか。お前が押さえこめ」 「俺が!?」 「そうだよ。こっちの邪魔をしてくるかもしれないってことをいってんだろ? おれが一旦殴りかかる――」 「そんなのはだめだ!」 「だから最後まで聞け。殴りかかるのはあくまで《ふり》だ。お前は外からおれとせっちゃんの間に割って入ってこい。で、せっちゃんをかばえ。こっちはお前を軽くぶん殴りながら松本を車から引きずりだす」 「そ、そうか……ところで沢村」 「なんだ。まだなんかあるのか」 「やっぱり写真を先にくれないか」 「それをしたらおれたちが《ただ》捕まるだけじゃねえか。聞いてたのかよ、人の話」 「俺だって保証が欲しい。頼む、沢村……」  俺――少し前から佐東は自分のことをそういいはじめていた。別にどうでもいいことだったが『先生』とやられるよりはマシだ。 「あの写真はおれたちにとっても命綱だ。簡単には渡せない」 「約束はちゃんと守る! お前たちの身の安全も保証する!」  背後の気配に首をねじる。ねずみ色をした平和のシンボルが得意の目をして人のことを見あげてきていた――くるくる、くるくる、くるくる。 「だめだ。順番は変えられない」  なにを考えているのかわからない目を見て思う――人もこいつらも中身は同じ。おれたちとすれちがったばかりの爺さんが道になにかを撒いた。心を見せない鳥どもはオレンジ色の目を輝かせ、道のあちこちを突つきはじめた。 「どうしても……か」 「どうしてもだ」 「終わりだ……」 「あ?」 「父兄の誰かひとりにでもあれを見られたら、俺は……俺は終わりだ」  自分の未来が最悪なものになるかもしれない。そう考えはじめる佐東。馬鹿のいらぬ心配に笑いがこみあげてきたが、そいつは喉の奥できっちり絞め殺した。 「そうならねえように努力すりゃいいだろう」 「うそをつくな」 「なにをだよ」 「……お前はどのみちばら撒くつもりだろ」 「だからそんなことしねえよ」 「うそだ! そうだろう!? え! どうなんだ!」 「離せ馬鹿野郎! ほんとにばら撒くぞ、てめえ!」  両肩をつかんでくる手にマジソンバッグを叩きつけた。 「あ……ああ、すまん」  鳩もびっくりの変人ぶり。こいつの頭も相当ぶっ壊れている。 「聞いてくれ、沢村」  おれのことなんか一ミリも信用していない、だけどあの写真がこの世にまだあると信じて疑わない目がおれに向く。 「もうさんざん聞いた。写真は後だ。こっちの立場で考えりゃわかんだろうが」 「あれは……あの写真はもう俺だけの問題じゃないんだ。松本さんにも校長にも……美滝の全員に迷惑がかかるかもしれない、そういう写真なんだよ」  大げさないいまわしをしているが、つまりは早いところエロ写真をうやむやにしたいだけ。 「段取りどおりにやれば、お前が心配してるようなことは起こらない。ここまで来てごちゃごちゃいうのはやめろ」  佐東を追い越して歩く。ワゴンはもう見えていた。 「待ってくれ。お前たちの悪いようにはしない。絶対だ。だから、頼む!」  馬鹿力で腕をつかんでくる佐東――暴れて振り払った。 「しつこい!」  どれだけ頼まれようが、ないものは渡せない――思わず口走りそうになるセリフ。 「とにかくもう五、六分もすれば友だちが来る。今頃は電車だ。連絡を取りあうことはできない。近くに着いたら、ある場所からそいつはおれに合図をよこす。お前にわからないようにな。それを確認したらワゴンへ移動して、あとはさっきいったとおりだ。わかったか」  舌打ちをした。佐東がしゅんとなる――糸の緩んだ操り人形。道端にガムを吐き、言葉を続ける。 「おれたちが逃げていなくなったら、お前は車まで戻れ。ただし外にいろよ。例の写真を入れた封筒を友だちがお前の前で落とす。軽くぶつかってくるはずだから気づかないってことはない」 「どうしても先にもらうことはできないのか」 「できない。おれが松本を助けだしたところを見ないと友だちはお前のところへ来ない。そして今さら変更も利かない」 「俺はお前と男と男の約束をしたい!」  大人のほとんどはうそをつく。でたらめを口にする。破るための約束をする――おれと同じだ。 「約束ならしてるじゃねえか。お前、いってることがさっきからおかしいぞ」  佐東は飲むしかない条件をこの期におよんで、まだこねくりまわしてきている。往生際の悪さはおれ以上だった。 「沢村……」 「諦めろ」  弱い者はいつだって強い者の好きにされるのがこの世のルール――気にいらなかった世のなかのしくみが今じゃ大好きになっているおれ。腕時計をこれみよがしに宙へかざす。 「予定よりちょっと早えけど、行くぞ」 「え!?」 「合図があった」  コマのようにまわりだす佐東――くるくる、くるくる、くるくる。頭に樽の直撃を食らったときのヒゲじじいみたいな動き。何回転しようがお前におれの友だちを見つけることはできない。エロ写真を取り戻すこともできない。操り人形のお前はまわるほどに糸がこんがらがって、身動きが取れなくなるだけだ。 「いつまでもきょろきょろやってんじゃねえよ。さっさと歩け」  おれは鉄のスコップ。ほかのやつらは全員ミミズ。愉快な気分は当分おさまりそうにない。  銀のワゴンへ近づいていく。イワナベコンビはその何メートルか手前でタバコを吸っていた。先に気づいたのは片思い男。少し後れて全員の顔がこっちに向いた。 「ほんとにちゃんと頼むぞ」  押し殺した声で守られることのない約束を確認してくる佐東。 「わかってる。その代わり、うまくやれよ」  ふと思った。おれたちが逃げた後、佐東は写真が戻らないことに地団駄を踏む。そのこととおれとの話をハゲにも報告する。どこかであれがばら撒かれるかもしれないと、この先もずっと思わせておけば……こいつを使わない手はない。おれたちのことがおまわりに知れないのなら、この家出は《ただ》みたいなもの。誰にもビビる必要のない、自由で気ままな旅ができることを松本にも早く教えてやりたかった。 「放せ、この野郎!」 「え?」  芝居がバレないようにするための芝居だったが馬鹿犬には通じなかった。硬くなるな――意味をこめてそのつま先を踏む。わざとらしい咳払いで応える佐東。脇から流れてきたタバコの煙が景色を白くした。 「例のものはありましたかね」  岩倉の顔が佐東に向く。片思い男の顔も同じ動きをした。 「え、ああ、はい。このなかに全部」  おれの持たせたマジソンバッグを佐東が自分の肩の高さまであげてみせる。 「……そ、それじゃ、一旦みなさん車へ」 「はあ……」  岩倉が納得のいっていない顔と返事をする。そんなことなどおかまいなしに、おれを車へと押しこむ佐東――どこかふわふわした動き。打ちあわせどおりにやってはいるんだろうが、なんとも頼りなかった。  おれは少しばかり毒づきながら、自然な感じで一番後ろの席=世津代の左側へ座った。真ん中の席の右奥に目がいく――小豆色のナップサック。松本はこっちを見ずに窓の外を眺めている。自分のせいで捕まったと思っているおれに顔向けができない気分なんだろう。ワイシャツの両肩には赤い染みがあった。 「あの、佐東先生」 「なんですか」 「まずは学校へ連絡を入れたほうが……」 「いや、あの、それはちょっと待ってください」  待つ必要はない。佐東が学校へ電話してくれと岩倉に頼むか頼まないかの差で、実際の動きは予定となにも変わらない。 「まだなにか問題が?」 「……っと、沢村乗せた。で、薬、薬、薬、薬はなんだっけかな。オキ、オキ……いや、誰だっけ。ん? あ、電話……そうですね、電話ですね。電話はえっと……」  大根に鼻で笑われる勢いの役者ぶり。お前は針の飛んだレコードか。芝居もなにもあったもんじゃない。 「おい、手が痛えよ! 消毒液はどこだ! オキシドールでもマキロンでもなんでもいい! なんかねえのか!」  佐東を一旦黙らせ、泳ぎまくっているその目を意味ありげに睨みつけてやる――ちゃんとやれ、ちゃんと。 「そ、そうだったな。わかった、ちょっと待ってろ」  佐東がドアの取っ手に指をかけた。  おい――せりあがってきた言葉を喉の真ん中で押し殺す。佐東は自分で、しかもマジソンバッグを持ったまま外へ出た――勢いよく閉められるドア。一気におじゃんになるおれの作戦。あれほどちゃんとやれといっておいたのに……くそ馬鹿犬のミイラ人形め。  分の《位|くらい》のデジタルが一二から一八になった。この間、口を開いたのは岩倉だけ。『しかしまいりましたね』を二回、『どうしたもんですかね』を一回。今の状況を見ためだけで判断するなら悩むことなどなにもない。学校側からすれば問題は一応解決したかたちになっている。 「なにがまいったんだよ」  岩倉も誰も答えを返しちゃこなかった。  どうにも居心地が悪い。やたらと息苦しい時間だけが流れていく。耳に入ってくるのはこの車のエンジン音と外の雑音だけ。ラジオぐらいつけりゃいいのに。  鼻から深く息を吸いこむ。タバコのにおい、湿布のにおい、化粧品のにおい。それから――ソースのにおい。車のなかをぐるっと見まわす。松本の足もとに転がっているなにか――『M』とでかく印刷された紙袋に目が留まった。 「ハンバーガーはうまかったか」 「けっこう好きな味かな」  松本に聞いたつもりだったが、答えてきたのは片思い男だった。 「学生時代はほんとによく食べた」 「てめえの昔話なんか聞いてねえよ」 「そ、そうだね」  大事なのは昔よりも今。そして問題はあの馬鹿犬だ。やつがでたらめな行動を取りはじめてから七分も経っている。いったいどこまで買いに走ってるのか。消毒液の調達が作戦の一部だということは馬鹿犬だってわかっているはず。それでいてこれだ。どうにもいやな予感しかしてこない。 「遅えな」  いやな予感を打ち消すためにいった――打ち消せなかった。 「ほ、ほんと、遅いね」  片思い男を無視して考える。馬鹿犬がなにかたくらんでいるとした場合、マジソンバッグ=おれの札束は戻ってこない。だが、ここには松本のそれが丸々残っている。ふたりでこの金額は正直心細いが、文なしで逃げまわることに比べたらはるかにマシ。そして金よりなにより大事なのはそこの一級品の脳みそだ。こいつは金じゃ買えない。おれはだから今、こんな真似をしている。 「僕、ちょっと見てきますね」  しびれを切らした片思い男が親分を探しに出る――予定変更。いつ戻るかわからない誰かを待っているより、弱い大人がふたりしかいないこのタイミングで逃げちまうほうが手っ取り早い。運転席のドアが開いて――閉まった。 「……と思ったんですけど、やっぱりまずいですね。待ちましょう」 ――探しに行けよ、子分だろ。  ふりだしへ……いや、この状況はふりだしじゃない。馬鹿犬がなにもたくらまずに消毒液を買って戻ってきたとしても、最初の段取りどおりにはいかない。どっちにしても逃げるなら今だ。 「松本」 「……なに」 「ほら、お前ら口を閉じ――」 「うるせえな、ぶっ殺すぞてめえ」  目一杯にすごんでみせた。岩倉に恨みはないが、邪魔をしてくるなら容赦はしない。 「沢村……くん」  続けて真横からの声。 「悪いけどおばさんと話してるんじゃない。おい、松本。松本亨」 「聞こえてる」 「おれたち捕まっちまった」 「そうだね」 「この旅はもう終わりか」  返事がない。顔も外を向いたままだ。 「ねえ、沢村くん――」 「松本!」 「……悪かったと思ってるよ。本当にごめん」 「そうじゃねえよ」 「え?」  松本がようやくとこっちを向く。おれはその顔に、なかなかできなかったウインクを返してやった。 「おれたち、まだピザを食ってねえぞ」  ろう人形のようにかたまるスーパーパンダ顔――一級品の脳みそが動きだす前ぶれ。 「……別に食べたくないよ、もう」 ――ちがうだろ、相棒。 「沢村くん、亨にこれ以上――」 「よさないか、沢村」  世津代がいった。岩倉がいった――おれに向く八つの目玉。松本の目だけを見つめ、そしてもう一度いった。 「この旅は――」  伸びあがってドアを引き開ける。 「まだ終わりじゃない!」 「こ、こら!」  伸びてきた手を弾き、小豆色のナップサックを引っつかんで外へ跳びだした。 「沢村……」 「なにしてんだ!」  ぼけっとしている松本に向かって叫ぶ。助手席から降りてきた岩倉に蹴りを入れる。うめき声――みぞおちにストライク。おれの胸のあたりまで下がってきたその顔面に飛び膝をかまし、肘と肩で突き飛ばしてやった。 「早くしろ!」 「無理だよ!」 「無理じゃない!」  おれと松本の声に弱々しい怒鳴り声と悲鳴が重なる。抱きかかえるようにして息子の体を押さえこむ世津代――案の定。松本には悪いが――いや、別に悪くもないが、とにかく後ろからぶん殴って気絶させるしかない。今はコンマ一秒でも時間が惜しかった。 〝おい! 約束がちがうじゃないか!〟  犬にもなれなかった馬鹿の声に振り向く――駅方向からの猛ダッシュ。距離にして十メートルかそこら。手には紙袋とマジソンバッグ。いったいなんなんだ、こいつは。 「てめえが予定にねえことするからだろうが!」  縁石に足を取られた。バランスを崩しかけているところへ佐東のタックル――まともに食らった。車道のほうへふっ飛ばされるおれの体をガードレールが止める。ナップサックで頭を守りながら背中で着地した。 「写真は!? 頼む、沢村! それだけは置いていってくれ!」  容赦なしの馬乗り。体をねじる――ねじれなかった。佐東はびくともしない。 「わかってるからどけ! 降りろ!」  でかく見開かれた目がおれを見おろす。汗ばんだ包帯、荒い鼻息、ぶるぶると震えたくちびる――狂った操り人形。首と胸にのしかかってくる重さに息が詰まる。 「ふざ……けん、なよ!」  糸のこんがらがった操り人形の股ぐらをわしづかみにした。真上から睨みつけてくる目を睨み返す。ガラス玉みたいな目玉=感情の読み取れないやばい目つき。 「て、てめえ……やるなら殺すつもりで来いよ。こっちは……こっちはとっくにそのつもりだからな!」  喉からなんとか絞りだした声で怒鳴り、左手に力をこめた。 「痛ててて、おい、あ!」  操り人形が馬乗りの体勢のままのけぞる。おれは動かせるようになった右手で目の前の腹をぶん殴った。 「どけ! この野郎!」 〝どうかしましたか〟  チャリンコのブレーキ音。口から心臓が飛び出そうになった。顔も名前も知らないやつだが、おれはこいつが大嫌いだ。 「あ、いえ、あの、なんでもないです」  佐東が特急でおれから降りる。やばい目つきはさっきまでの情けないそれに戻っていた。おれはうまくやり過ごせ、という意味でその目を見つめた。 「ちょっと、その……生徒を叱ってまして」  丁寧な動きでおれの体を引き起こす佐東。鼻血を垂らした岩倉と無傷の片思い男がおずおずといった感じで近づいてくる――まずい。ことのすべてを知らないふたりがおれの大嫌いな相手と話すのはどう考えても具合が悪かった。岩倉がマジソンバッグを拾う。紙袋は誰も拾わなかった。 「ああ、先生でしたか。ですが、それにしても――」 「あ、あのう、私たちとなりの須坂から――」  鼻血教師が上着のポケットから取りだしたなにかをおまわりに見せる。 「美滝……小学校、ですか?」  おまわりが見る場所を名刺からおれに変えてきた。首で数字の『1』を書くようにして、こっちの顔と身なりを確認している。 「彼、中学生ですよね?」  教師どもへの質問。おまわりは小学校の教師に叱られている中学生を不思議に思っている。 「それがですね、この生徒は我々の目をごまかそうと、ありとあらゆる――」 「岩倉先生!」  すっとんきょうな声を出す佐東。顔つきが硬くなっていくおまわり――やばい。このままじゃいろいろとバレる。 「か、彼もほら、わかってくれたことですし、ここはひとつ――」 「佐東先生、こういうことは警察の方にお任せしましょう」 「いや、その、あれですよ。我々の勝手な判断で――」 「もう、うんざりなんですよ!」  めったに怒らない岩倉の怒鳴り声。おまわりと佐東とその子分の目がまん丸になった。おれの目もたぶん、同じ。 「佐東さん、あなたと校長の間でどんな話をされたのか知りませんけどね、私はただの教員ですよ! 教職ひと筋二十三年! 慎ましく《恙|つつが》なくやってきたんですよ! それをこんな馬鹿みたいな騒動に駆りだされて……あなたとちがって妻も娘もある身なんですよ、私は! これがどういうことかわかりますか!」 「わ、わかりませんよ、そんなの!」 「《そんなの》じゃない!」 「な、なんですか、そのいいぐさは! 私は学年教師の代表として、自分の担任していない生徒――」 「うるさい! 若造!」  意味不明のいい争いをはじめるふたり。おれは岩倉がちょっと怖くなった。 「落ち着いてください!」  ふたりの間へ割って入るおまわり。その左腕に岩倉がすがるようにしてしがみつく。 「おまわりさん、私の話を聞いてください。この生徒はあろうことか学校の金を――」 「いえいえいえ、もう全然そんな大したことじゃないんですよ、ええ!」 「とにかくこれを見てください」  マジソンバッグのチャックに手をかける岩倉。それをおれ越しに阻止する佐東。子分は子分でどうしていいかわからないでいる。ワゴンのなかのふたりは窓越しにこの騒ぎを見物していた。 「勝手な真似をしないでくださいよ!」  まずい流れをうやむやにしようとする、いつもより甲高い《がなり声》。いかつい帽子の下の目がすっと細くなる。 「学校のお金がそのバッグに?」  おまわりが事件のにおいを嗅ぎ取りはじめる――やばさ、限界。おれは体をひるがえし、佐東の体を弱々しく、いかにもガキがやりそうなしぐさで押しのけた。 「おまわりさん! こいつら先生なんかじゃないよ! 人さらいだ! バッグの中身は身代金だよ!」 「ちょ、お前、なに――」  どさくさまぎれの口八丁。そして佐東が文句をいいきる前にダッシュ――ガードレールを踏み越える。 「おい、キミ!」  何台もの車に急ブレーキを踏ませた。通りを渡りきった先の歩道でチャリンコをなぎ倒した。バス待ちかなにかをしている、わりとでかい女がおれを捕まえようとする――のろい動き。ふん、なめるな。 「ちょっと、あんた! 待ちなさいよ!」  そういわれてそのとおりにするやつはいない。走りながらナップサックを背負う。 〝沢村! お――〟  誰かの叫び声――佐東のそれ。なにをいってるのかはわからない。どうせ写真のことだろう。念のために後ろを確認する――突き刺さってくる目線。騒ぎに気づいた通行人、無線マイクに口を当てたおまわり、横へ伸びた黒い腕に動きを止められている教師ども、ワゴンのなかの松本《母子|おやこ》。そいつら全員の目玉ビーム――屁でもない。  なにかにぶつかった――車道にまで転がっていくりんごたち。怒鳴り声がまた聞こえた。遠くでサイレンも鳴っていた。知ったことじゃない。気にしている暇もない。なにがどうなろうと、かまっちゃいられない。  走った。ひたすら走り続けた。肺が痛かった。横っ腹も痛かった。もつれる足。両腕をばたばた振って立てなおした――肉にされるのがいやで逃げだしてきたニワトリの気分。おかしかった。笑いがこみあげてきた。だから笑った。げらげら笑った。  どこだかわからない歩道の上でこけた。縁石に顎をぶつけた――叫びたくなるほどの痛み。それでも笑うのをやめられなかった。ぶっ壊れたおれの脳みそ。すべての神経が笑うためだけに使われている。 〈あひゃひゃひゃひゃ〉  負けじと笑う心のなかの化けもの――口もなにもないくせに。おれは道路に額をこすりつけて笑った。吐きそうになりながら笑い続けた。馬鹿みたいに。あほみたいに。きちがいみたいに――いや、みたいじゃない。おれはとっくの昔からきちがいだった。
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